夕闇

 気がついた時にはもう、辺りは真っ暗だった。
 照明は消されて、窓の外も暗い。最初はカーテンでも引かれているのかと思ったが、違う。日が落ちて、すっかり夜も更けていただけだ。
「やっば……」
 首を振り、頭を掻き毟って小さく舌打ちしても、状況は全く変わらない。寝癖がついてしまった前髪を弾き、袖の痕がくっきり残る額を撫でて、彼は疲れた顔をしてがっくり肩を落とした。
 下校時間はとっくに過ぎていた。だのに彼が今此処に居るという事は、司書の女性が帰宅を促す見回り業務をサボった、ということだ。
 調べ物があったので珍しく図書室に引き篭もってみたら、これだ。たまに真剣に勉強をしようとした途端、狙ったようにあれこれとケチがつくのは、どうにかならないだろうか。
 もっとも眠りこけてしまったのは、他ならぬ自分の責任だ。額に手をやったままもう一度首を回し、彼は窓枠の向こうに広がる一面の闇に肩を竦めた。
 ここでこうしていても仕方が無い。兎も角、帰らなければ。
「今、何時だろ」
 図書室内に時計はあるが、照明が灯っていないので全く見えない。腕時計などという高尚なものも持ち合わせておらず、彼は仕方なくポケットから、本来なら違反である携帯電話を取り出した。
 こんなものを学校に持ち込んでいると風紀委員に知られたら、没収されるどころでは済まない。渾身の力を込めてふるわれるトンファーの痛みを不意に思い出して、彼はぶるりと震え上がった。
 寒気を覚えて腕をさすり、携帯電話を広げて急に明るくなった画面に目を細める。眩しすぎる液晶画面相手に二度、三度と瞬きを繰り返して、浮かび上がる数字に眉間の皺を深める。
 午後六時半を回って、あと少しで七時に至ろうという時間だった。しかも数件の着信に、メールまで届いていた。
 学内で音楽を鳴らすわけにはいかないので、当然ながらバイブ設定にしてあった。ポケットに入れておけば震動は伝わるはずなのに、この時間になるまでちっとも気付かなかった辺りが、さすがといわざるを得ない。
 褒められない特技に苦笑して、綱吉は三件増えた着信履歴に頬を掻いた。
 うち一件が獄寺からで、残りは自宅からだった。
 帰りが遅いのを心配して、奈々が鳴らしたのだろう。帰ったら怒られるかもしれない。
 メールはどれもビアンキのアドレスだった。奈々は携帯電話を持っていないし、沢田家にはパソコンが無い。彼女が代理として送信したのだろう、文面からもそういう趣旨が読み取れた。
「あ、夕飯、ハンバーグなんだ」
 早く帰って来ないと酷いわよ、という文言に、笑みが引き攣る。他の人間が言うと、先に食べてしまうという意味合いになるが、彼女の場合は毒物化してしまうので、はるかに厄介だ。
 折角の奈々お手製ハンバーグが食べられないのは、悔しすぎる。綱吉は唇を舐めて唾を飲み、携帯電話を閉じてポケットに戻した。
 瞬時に辺りが暗くなり、手元が覚束なくなった。遠くに見える非常灯の明かりと、窓から差し込む薄い光だけでは、なんとも心許ない。
「参っちゃうよな」
 呟き、彼は手探りで机の上に広げたものを集め始めた。
 ノート、筆箱、シャープペンシルに消しゴム。そこに百科事典が加わると、結構な量だ。
 うち、事典以外を、これまた手探りで発掘した鞄に詰め込んでいく。整理整頓、等という言葉は存在しない。兎も角、忘れ物が無いように鞄に入ってさえいれば、それでよかった。
 図書室の書架から引っ張りだして来た百科事典だけを机に残し、彼は椅子を引いた。凹凸だらけの鞄を左手に持って立ちあがり、分厚い事典をどうしようかで迷う。
 こればかりは持って帰るわけにいかない。だが、元あった場所に戻すのもかなり難しかった。
 収納場所は覚えている。だがこの暗闇の中でそこに到達できる自信は、彼にはない。
 書架と現在地の間には、幾つかの障害物があった。机、椅子に、上の方にある本を取るための小型の脚立、等など。本棚自体も、こうなってしまえば邪魔な存在でしかない。
 何にもぶつからず、足を引っ掛けず、転ばずにそこまで辿り着ける確率は、ほぼゼロ。いくら数学の試験で、赤点以外取ったことが無い綱吉でも、それくらいは想像がついた。
 第一、此処から出入り口のドアまで無事に辿り着けるのかどうかさえ、甚だ疑問なのだ。わざわざ危険を冒してまで書架に戻しに行く必要も無かろう。
 悪いのは、起こしてくれなかった司書だ。明日の朝出勤してきた後で、少しくらい苦労すればいい。
 そう考えることで溜飲を下げて、彼は事典の表面をそっと撫でると、そのまま下へ滑らせて机の角を握り締めた。
 恐る恐る反対の手も伸ばして、向かいの机との距離を身体で測る。躓いて転ばないよう、注意深くつま先を前に繰り出して、彼は暗闇の中をそろそろと歩き始めた。
 一歩進む度に心臓がどきどきして、嫌な汗が流れた。どれだけ飲み干しても唾は後から、後から湧き出してきて、机の角が一寸でも腰に当たろうものなら、それだけで情けない事に悲鳴が漏れた。
 薄明かりがあるとはいっても、物の輪郭があやふやに浮き上がる程度だ。空気も冷えてひんやりしており、静寂に響く自分の足音や、呼吸の音がいやに大きく聞こえた。
 バクバク言う心臓を必死に宥め、見えないに関わらず視線を左右に泳がせながら暗闇を突き進む。ガタン、と自分が立てた物音にドキッとして、その度に頬を引き攣らせる。
 喉まででかかった悲鳴が飛び出さなかったのは、単に息を吸うタイミングと被っただけだ。
「あは、は、はー、はー……」
 その場で足を止めて胸を撫で下ろし、ぎこちない笑顔を浮かべて声をあげる。出口まであと少しのところまで来てはいるものの、まだまだ遠い錯覚にも陥って、彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 これで鍵が掛かっていたら、どうすればいいのだろう。
「ない、ない」
 不意に不安になって、自分を勇気付けようと無理矢理声に出して否定する。だがここ並盛中学校は、風紀に厳格なことでも有名だった。
 それもこれも、風紀委員を統べる委員長の存在の所為だ。学校そのものを支配している、と言っても過言ではない彼のお陰で、不良たちも学校内では目だった行動が出来ずにいた。
 もっともその不良の総元締めもまた、風紀委員長なのだけれど。
「はぁぁ」
 彼の顔や、行動を思い返すだけで、何故だか疲れてしまった。綱吉はがっくり項垂れてトボトボと前に進み、机が並ぶ空間を抜けて広いスペースに身を躍らせた。
 此処から先は、司書が座るカウンターがあるだけだ。その手前で右に曲がれば、出入り口はもう目と鼻の先。
 見え始めたゴールにホッとして、綱吉は上部の非常灯の明かりに相好を崩した。
 カタン、と後方でなにかが倒れる音がした。
「っ!」
 自分が床を踏みしめる音ではない。中学校の校舎は鉄筋コンクリート製で、床も木の板が敷き詰められているような、古めかしいものではなかった。
 己の足音でもなく、ましてや風が窓を叩く音でもない。本棚が撓んだ可能性は否定出来ないが、それだって多くは鉄製で、とても頑丈だ。
 現在地から遠く離れた場所で起こった物音にダラダラと汗を流し、綱吉は生唾を飲んで背筋を伸ばした。
 まさか後ろに、誰か居るのか。あの音は、どちらかと言えば椅子の出し入れをする時に響く、床を擦る音に似ていた。
「は。ははは。ない、ないない」
 他にも図書室で寝こけて、置き去りにされてしまった間抜けな生徒が居るわけがない。そんなのは自分ひとりで充分だと嘯き、彼は空元気を振り撒いて首を横に振った。
 しかし声は震えて、舌も回らない。活舌悪く捲くし立てて、彼は歪な鞄をぎゅっと胸に抱き締めた。
 闇に目が慣れて来たのか、目覚めた頃よりは少しだけ、周囲が見えるようになっていた。カウンターの陰影も、ドアの凹凸も、はっきり、とまではいかないながら、おぼろげに捕らえることが出来た。
 あそこまで行けたら、自分の勝ちだ。いったい誰と勝負しているのか、そんな発想が脳裏を過ぎった。
 ギシッ。
 再び背後から音がした。
 それもさっきよりもずっとはっきりと、大きく、近いところから。
「っひ!」
 堪えきれずに叫び、彼は顔面を引き攣らせて目を見開いた。瞬きを忘れて薄闇を凝視し、消えてくれない嫌な予感に肩を震わせる。
 学校に伝わる怪談話を思い出す。昔テレビで見た、本当にあったと銘打たれたホラードラマまで頭の中を駆け巡った。
 普段は忘れているくせに、こういう時に限って思い出してしまうなど。
 空気を読まない自分の脳みそに腹を立て、彼は首筋を撫でた冷たい風に鳥肌を立てた。
 あんなものは子供騙しの作り話でしかない。夜の間だけ階段が一段増えるだとか、音楽室の肖像画が一斉に笑い出すだとか。トイレの花子さんなど、全国にいったいどれだけいるというのだ。トイレで悲惨な死に方をした人間が、数百人も居てたまるものか。
 恐らく日本で一番有名な幽霊の名前を挙げて悪態をつき、綱吉は意を決して一歩を前に繰り出した。
 上履きの底で滑らかな床を蹴り、踏みしめる。キィィ、と黒板を爪で引っ掻いたような金きり音が聞こえた気がして、その瞬間、彼はビクウッ、と大仰なまでに肩を強張らせた。
 心臓がドンっ、と胸を衝いて飛び出していきそうだった。
「――!」
 息苦しさに喘ぎ、巧く呼吸が出来なくて喉を引っ掻き回す。懸命に酸素を集めて飲み込んで、彼は鳴り止まない物音に奥歯を噛み締めた。
 後ろを振り返って確かめるべきか。だが、他に誰も居ないのは分かっている。
 でももし、本当に居たら。
 血みどろの手を伸ばし、綱吉を捕まえようとしていたら――――
 スプラッタな映像が脳内にフルカラーで現れて、彼は居竦み、膝を震わせた。
 奥歯がカタカタ言う。何処を見ていいか分からなくなって、目が泳ぐ。
 ミシミシと校舎が鳴る。このまま学校が崩れ落ちてしまうのではないかという錯覚に怯える。
 足元にぽっかり穴が空いて、奈落の底へと真っ逆さまに落ちて行く自分を想像して、動けない。
 だらだらと流れる汗が不快感を増長して、蒸発ついでに体温を持っていかれて寒い。震えが止まらず、前にも後ろにも進めなくなって、彼はカツーン、とどこかから響いた低い音に悲鳴を飲んだ。
「ひぅっ」
 数秒遅れてカツーンと、また。
 それが足音だと気付くのに、大層な時間が必要だった。挙動不審に首を振り回した彼は、瞳だけを右に流して廊下に続くドアを見た。
 上部にはめ込まれた磨りガラス越しに、ちらりと一瞬、光が走った。
「ひぁっ」
 裏返った悲鳴をあげた彼の手から、ボトリと鞄が落ちた。爪先に被った重みにもまた吃驚させられて、飛びあがった彼はそのまま足をもつれさせ、尻餅をついた。
 どたばたと、これまで以上に大きな物音を響かせて、床の上に蹲る。
 真夏であったなら、この時間でもまだ充分明るかった。それから半年足らずでこんなにも暗くなるなど、地球の環境はどこかおかしい。
 何億年と続いてきた季節の変化にさえ苦情を言って、綱吉は垂れた鼻水を啜って顔をくしゃくしゃにした。
「こ、こわ、こわく、な、なな、ななな、ない、ない、ぞ」
 へっぴり腰で起き上がり、手探りで鞄を見つけ出す。引き寄せて抱え込み、しどろもどろに自分を勇気付ける台詞を繰り返す。
 だが根っからの臆病な性格が災いして、少しも巧くいかない。歯の根が合わない為に言葉は舌足らずになり、力の入らない膝は直ぐに折れ曲がって、ドアへ近付くのを拒んだ。
 かといって部屋の奥に戻るわけでもなく、右往左往するばかりで何処にも行けない。
「ゆ、幽霊、な、なんか」
 昼間は生徒でごった返し、賑やかな学校も、ひとたび夜がくれば静まり返り、巨大な空っぽの箱と化す。
 朝が来るまで、此処には誰も来ない。もし今、綱吉の身に何かが起きても、冷たくなった彼が発見されるのは翌朝になってから。
 助けなど来ない。
「や、いやいや。なんないって、なんないってば」
 リアルに自分の死体を想像してしまって、綱吉は声を上擦らせて必死に否定した。鞄を抱く手に力を込めて、その痛みで我を保って床を蹴る。
 たった一歩進むだけで息が切れた。ひんやり冷たい汗を流し、彼は渇いて仕方が無い喉に懸命に唾を送り続けた。
 電話で外に助けを呼ぼうか。獄寺辺りならきっと直ぐに駆けつけてくれる。
 だけれど彼の家から学校まで、全力疾走しても十分近くかかる。それまでの間、ひとりで居続ける勇気すら残っていない。
 奥歯をカチンと鳴らし、綱吉はまた聞こえたカツーン、という音にビクッ、と総毛立った。
「え……」
 幻だと思い込んでいた光が、廊下の窓をまた掠めた。白い影がドアの小窓の輪郭をくっきり浮き上がらせて、一瞬にして掻き消える。
 見間違いではない。瞠目して、綱吉は地底の底から鳴り響く迎えの足音に息を飲んだ。
 嫌々と首を振り、しゃがみ込んだまま後退を図る。だが巧くいかない。左肩が貸し出しカウンターの壁に当たって、冷たく硬い感触に彼は悲鳴を飲み込んだ。
 刹那。
 ガラリ、と目の前のドアが開いた。
「ぎ……ぎゃあああ!」
 なによりもその先から現れた眩しい光に吃驚仰天して、綱吉はぴょん、と飛びあがって両手で顔を覆った。
 頭を抱え込んで膝の間にもぐりこませ、丸く、小さくなってがたがたと震える。恐怖の限度を越えてしまい、南無阿弥陀仏と一心に唱え続ける。
 硬く目を閉ざした彼を照らした光は、相手が誰であるかを把握したと同時に左に逸れて、白い床に楕円を描き出した。照り返しが天井に達して、この一帯だけがぼんやりと明るくなる。
 吹っ飛んでしまっていた鞄を拾って天地正しくしてから床に置き、図書室に入ってきた人物は懐中電灯のスイッチを押した。
「なにしてるの、君」
 素っ気無く言って、蹲っている少年の頭部を見下ろす。廊下から差し込む細い光を浴びて、こげ茶色にも見える髪色が、ほんの一部だけ薄くなっていた。
 ベージュ色のジャケットを着込んだ少年は、この学校の生徒で間違いない。しかしとっくに下校時間は過ぎている。
 帰宅を促すアナウンスも、チャイムも無視して、いったい此処で何をしていたのだろうか。部屋の電気が消えているところからして、こっそり居残って何かをしていた、とは考え辛い。
 真っ暗闇に染まった窓の外にも目をやって、彼は重い懐中電灯で自分の腰を叩いた。
「君」
「うわあぁぁぁ!」
「五月蝿い」
「ぎゃあ!」
 呼びかければ悲鳴をあげられ、黙らせようと殴ったらまた叫ばれた。喧しいことこの上なくて、その大きな口を塞いでやりたくなった。
 懐中電灯をトンファーのように構え持った彼を見て、少年の顔からサッと血の気が引いた。みるみる青褪めていくのが薄明かりの中でもはっきり分かって、それなりに面白い。
 それで苛立ちが少し薄れて、彼は肩を竦めると、懐中電灯を下ろして消したばかりのライトのスイッチを入れた。
 パッとまた、そこだけが明るくなった。
「いだい……」
「ここでなにをしていたの、沢田綱吉」
「ひ、ヒバリさん?」
 思い切り殴られてタンコブになっている頭を抱え、綱吉が涙を飲んで呻く。低い声での問いかけにも、反応するのに十数秒必要だった。
 顔を上げ、初めてそこに佇む人物が誰であるかを把握して、裏返った声をあげて、信じられないと目を見開く。だがこんな時間に学校内をうろうろしている人間など、そう多くない。
 この人がいたのだったと、一度は思い出していたくせにすっかり失念していた綱吉は、何度も聞いた不気味な足音も、壁が軋むような音も、全部彼の仕業だと理解して、一気に脱力した。
 肩の力が抜けて、ぐったりと前のめりに蹲る。
「なんだよ、も~」
 吃驚させてくれるなと今頃言って、胸を撫で下ろして鞄を膝に駆け込む。呆れたのは雲雀で、眩い光を放つ懐中電灯を上下に揺らし、ついでとばかりに綱吉の頭をコツン、と叩いた。
 手加減されていても、それなりに痛い。顔を上げて押し返し、綱吉は睨まれて笑顔を凍らせた。
「それで?」
「あ、ああ。いや、まぁ、その」
 雲雀からの質問にまだ答えていなかったのを思い出して、視線を泳がせ頬を掻く。どうにか誤魔化そうと試みるものの、隙のない視線に下手な嘘はつけなくて、彼は結局降参だと両手を挙げ、首を振った。
 調べ物をしていたらうっかり眠ってしまい、気がついたら中も外も真っ暗だった事を正直に告げる。
「……馬鹿?」
「ぐ」
 途端にさらりと言われてしまって、ぐっさり胸に突き刺さった綱吉はズキズキする胸を抱いて項垂れた。
 その自覚はあるが、人に言われると傷つく。ましてや相手は、あの雲雀だ。
 授業を真面目に受けていない人間に馬鹿にされるのも腹立たしくて、反抗的な顔をして見上げると、即座に気付かれて意味深な微笑みを向けられた。
「もう七時だよ」
「分かってますってば」
 有無を言わさず帰るよう促されて、最初からそのつもりだった綱吉はいきり立って鞄を手に立ち上がった。しかし膝に力が入らなくて、ふらついてカウンターに腰からぶつかっていった。
 咄嗟に間に手を挟みこんで直撃は避けたものの、掌に角が食い込んだ所為で少し痛かった。
「あ、れ?」
 知っている存在が現れたお陰で力が抜けたのだとは、思いたくなかった。
 首を傾げて腹筋に力を入れて、なんとか二本足に均等に体重を配する。よろよろしながら一歩前に出ると、動きを見守っていた雲雀が先に踵を返した。
 彼の動きに合わせて、懐中電灯の光がゆらゆらと左右に泳ぐ。まるで深海を泳ぐクラゲのようだと、床を踊る楕円形を眺めながら、綱吉は思った。
 雲雀がドアを潜って外に出て行く。彼が居るだけで、それまでひたすら不気味だった空間が、急に色褪せて見えた。
 なにをあんなに恐がっていたのかと、少し前の自分が不思議でならない。
「物音がするから来てみれば」
「すみません」
 綱吉がドアを閉めると、二メートルほど離れた場所で待っていた雲雀が呆れ声で呟いた。嘆息混じりのひと言に恐縮して、首を竦める。
 彼が入って来た瞬間にみっともなく悲鳴を上げたことには、触れてこない。もっと馬鹿にされるかと思ったが、そうでもなかった。
 彼なりの優しさかと一瞬考えて、即座に違う、と自分の中の別人が否定する。雲雀は単純に、綱吉に興味が無いだけだ。
「……」
 他の誰があそこにいても、彼の対応は変わらなかっただろう。学校に居残っていた生徒を見つけて、外に放り出す。それが彼の、風紀委員長の役目だ。
 ヒタヒタと歩くたびに足音が響いた。ふたり分、合計四本の足が生み出す音色は、てんでちぐはぐでバラバラだった。
 は、と息を吐き、綱吉は黙って前を歩く背中を見詰めた。
 黒い学生服は闇に溶け込み、輪郭をあやふやにしていた。スラックスも、髪の毛の色も黒。これで懐中電灯の光がなかったら、綱吉は簡単に彼の姿を見失ってしまえる。
 もしここで、ライトが消えたら。
「……っ」
 ゾッとする寒気に襲われて、彼は咄嗟に身を強張らせた。隙間風が吹いただけだと後から気付くが、肝が冷えて汗が止まらない。
「あ」
 そうしている間にも雲雀はどんどん前に進んで、綱吉との距離は一気に広がった。
「あ、待って」
 ちょっと気を緩めただけなのに、あっという間に遠ざかって行ってしまった。咄嗟に呼びかけるが、聞こえていないのか雲雀は振り向きもしない。
 ペースを落としてもくれない。
 本当に彼は、綱吉に興味が無いらしい。黙々と足を前に動かし続ける彼に向け、綱吉は伸ばしかけた手をぎゅっと握って引っ込めた。
 外では風が吹いているのか、廊下に居並ぶ窓がカタカタと音を立てた。外の光は見えず、空は墨で塗りたくられたように真っ暗だ。
 月は出ているが、その輝きは弱い。晴れているのに星すら見えない。
 切なさが膨らんで、心細さが不安を上書きする。近くに雲雀がいるのに、ひとりぼっちで居る気分になって、彼は鞄を脇と肘で左右から押し潰した。
 そこへ。
 ミシ、と。
「ひいぃ!」
 学校全体が拉げるような音がして、綱吉はほぼ反射的に絶叫した。
 ぎゅっ、と脇を締めて爪先立ちになり、頭の天辺に向かって髪の毛を逆立てる。全身に鳥肌を立てて一歩も動けなくなった彼の声に、流石の雲雀もピクリと眉を跳ね上げた。
 ライトごと振り返り、震え上がっている綱吉を光の中に曝け出す。今にも泣き出しそうなところまで歪んだ顔に怪訝にしていたら、鼻を愚図らせた綱吉が、右手を上下左右に振り回した。
「な、な、なっ、なんっ、か、いる!」
 必死に空気をかき回す綱吉の言葉に益々眉間の皺を深め、雲雀は先ほど耳朶を打った音を思い出し、嗚呼、と頷いた。
「家鳴りだよ」
「やな、な?」
「家鳴り。建物自体が軋む音。幽霊なんて居ないよ」
「へ、え、……あ。……はい」
 うろたえている彼にすげなく言って、雲雀はライトを下向けた。床沿いに這わせ、遠くの柱を照らし出す。
 他にも風の悪戯であったり、誰かが乱雑に置いた本棚の本がバランスを崩して倒れるだけでも、それらしい音が響く。ポルターガイストの類ではないと断言して、雲雀は苦笑した。
 何に怯えていたのかを完璧に見抜かれた綱吉は、恥ずかしそうに顔を赤らめ、薄茶色の髪を垂らして俯いた。
 肩を丸めている分もあって、実際よりも随分小さく見える。今日日、小学生だってもっと発育が宜しかろうに。
 平均に届かない背丈の少年を前に肩を竦め、雲雀は懐中電灯を上下に揺らした。
「第一、此処は僕の学校なんだから。幽霊だろうと、お化けだろうと、僕の断り無しに勝手に入り込むなんて許さないよ」
 雲雀ならば本当に、幽霊相手でも喧嘩を仕掛けて勝利してしまえる気がする。お化けが出ても、宇宙人が出たって、きっと驚かないに違いない。
 それに比べて、自分はどうか。
 あまりにも相手が大きすぎて、比較にすらならなくて、綱吉は下唇を噛んで項垂れた。
 けれど、恐いものは恐いのだから仕方が無いではないか。いまだに眠る時も、小さなライトを灯しておかないと眠れない綱吉に、真っ暗な学校でひとりで過ごせ、という方が無理な相談だ。
「行くよ」
 言って、雲雀は踵を返した。足元を白い光で照らし、地上に向かうべく階段を目指して歩き出す。
 クン、と何かに引っ張られて彼は顔を上げた。
「?」
 振り向けば綱吉の頭が見えた。相変わらず下を向いて、悔しげに唇を噛んでいる。
 その白い手が黒の上着をつかんでいた。
 小刻みに震える肩は細く、力みすぎて筋張っている指は小枝のようだ。
 乱暴に扱えば簡単に折れて、砕けてしまいそうな頼りなさに目を見張り、雲雀はガラス窓に映る自分たちにも目を向けた。
 半透明な鏡の向こうで、校舎が闇に沈んでいた。常夜灯の細い明かりがぽつぽつと見えるものの、昼間の明るさに比べれば雲泥の差がある。
 日中は生徒で溢れかえって賑やかな空間だからこそ、夜間の静けさが一層不気味でならない。特に綱吉は、昼の学校しか知らないので、余計だろう。
 人気が無い暗闇に眠る校舎のほうが静かで好きだという雲雀の意見は、恐らくは少数派だ。
「行くよ」
「……」
 言うと、綱吉は黙ってコクンと頷いた。顔は上げないので、表情は依然見えないままだ。
 恐いけれど、恐がっている事を知られたくないというちっぽけなプライドが、必死になって虚勢を張っている。そんな態度にひっそりと笑みを零し、雲雀は進行方向に明かりを向けた。
 宣告通り歩き出した彼の足ばかりを見詰め、綱吉もまた右足を先に送り出した。
 鞄を左腕に抱え、右手は雲雀の学生服の裾を抓んだまま。あまり強く引っ張り過ぎると、羽織っているだけの制服が外れてしまいそうで、綱吉は心持ち急ぎ足で進もうとした。
 が、ペースが合わない。
「あれ」
 何度も前がつっかえて、雲雀にぶつかりそうになった。もう少しで足を蹴るところで慌てて引っ込めて、上履きの底で廊下を擦る。
 久方ぶりに顔を上げた綱吉は、気配に気付いた雲雀が首を振るのを見て急いで俯いて、新品同然に綺麗な彼の靴を見詰めた。
「……もしかして」
「なに?」
「いえ、なんでもありません」
 唇を舐め、呟く。ドキドキし始めた心臓の音が聞こえたのか、雲雀が不意に声をあげた。
 即座に否定するけれど、疑問は次第に確信に変わり、綱吉はなんでもなくない感情に眩暈すら覚えた。
 雲雀の足取りは、穏やかで落ち着いていた。それは先ほどまでの早足とは正反対の、綱吉の速度に合わせたリズムだった。
「…………」
 気取られないように後姿を盗み見て、彼はなんとも言い表し難い心境に陥った。
 嬉しいような、恥ずかしいような。驚きは隠せないけれど、何故だか妙に納得できるような。
 言葉を介さない気遣いがとても彼らしくて、彼に配慮された自分がなんだかちょっぴり特別な存在になれた気がした。
「えへへ」
 聞こえないように声を潜めて目尻を下げて、学生服を抓む指にちょっとだけ力をこめる。その瞬間、唐突に雲雀が立ち止まった。
 手元ばかり見ていた所為で気付くのが遅れた綱吉は、見事に顔面から彼の広い背中にぶつかっていった。
「わふっ」
「痛い」
 鼻の頭が潰れて、間抜けな声を出した彼を非難して雲雀が振り返る。不機嫌そうな顔に見下ろされて、綱吉は少し赤くなった顔を右手で覆い隠した。
 見ればもう、階段の手前だった。
 振り向けば、図書室はもう遠い彼方だ。この階段を一階まで下って、ちょっと進めば正面玄関。そこで下足に履き替えて、正門を潜り抜ければ下校完了だ。
 雲雀との別れの時間も、あと少し。
 そう考えると奇妙なことに、名残惜しさを感じた。
 あのまま彼の服を抓んで、延々とどこまでも歩いていきたいような、そんな気持ちになっていた自分に気付かされる。
「え」
 そんな、思ってもみなかった新しい自分に目を見張り、綱吉はドクン、と跳ねた心臓に手を重ねた。
 雲雀が持つライトが、階段の折り返し地点である踊り場を照らした。全部で十三段ある筈だが、この程度の明るさでは数え切れない。
 夜中になると一段増える、というありきたりな怪談話を思い出してぶるりと震えた彼を見やり、雲雀は誰にも気付かれないところでふっ、と笑った。
 左膝を曲げてひとつ下の段に足を下ろし、右半身を後ろに引いた状態で、綱吉を振り返る。
 惚けたように立っていた彼は、自分に向かって伸びてきた彼の大きな左手に気付き、小首を傾げた。
 右手に握られた懐中電灯は下を向き、彼の足元を照らしていた。平面をただ真っ直ぐ歩いてきたこれまでとは違い、暗闇で階段を下るのはかなりの注意が必要だ。
 一歩間違えれば階下へ真っ逆さま。想像して鳥肌を立てた綱吉に、催促するように雲雀が左手を上下に振った。
「早く」
「え、え?」
「要らない?」
 戸惑いに目を大きく見開き、綱吉は彼の顔と手を交互に見た。
 差し伸べられた手が何を意味しているのか、なかなか理解出来ない。ただでさえ不出来な頭を懸命に働かせて、彼はじっと自分を見詰める黒い瞳に息を飲んだ。
「……ありがとう、御座います」
「怪我をされたら困るからね」
 ぎこちなく礼を言って右手を伸ばすと、雲雀が言い訳のように早口に言って、臆し気味の手をパッと掴んだ。掌を重ね合わせて、四本の指をぎゅっと握り締める。
 伝わって来た体温は驚くほどに高くて、熱かった。
 普段トンファーを握る手が、今は綱吉の手を握っている。不思議な気持ちになって、彼はゆっくり段差を下りだした雲雀に瞬きを繰り返した。
 後ろについて、一段ずつ階段を下って行く。彼が動くたびに、繋がった綱吉の手も揺れ動いた。
 温かく、力強い鼓動が、指先を通じて流れてくる。これが雲雀の心音なのかと思うと急に気恥ずかしくなって、綱吉はまたしても下ばかり見つめた。
 最後の一段を無事下り終えて、懐中電灯が前を映した。暗闇がぼんやりとした光に照らされて、出口までの道程を彼らに教えた。
「あの」
「外ももう暗いね」
「あ、はい」
「ひとりで平気?」
「へ?」
 天井まで這った光が再び足元の狭い空間だけを照らして、雲雀が唐突に言った台詞に、綱吉は目を丸くした。
 照り返しの儚い光を下から受け止めて、黒髪の青年が意地悪く目を眇める。
 繋ぎあった手を意味もなく振った彼にハッと息を吐いて、綱吉は人をからかって楽しんでいる彼の性格の悪さを心の中だけで罵った。
 そして。
「……」
 疑り深く彼を見詰め、唇を噛む。
 もし、平気では無いと言ったら、彼はどう答えるだろう。
 手放し難い熱を強く握り返し、綱吉は意を決して、口を開いた。

2011/01/04 脱稿