仁恕

 面白くもなんともない授業は、机に座っているだけで苦痛だ。
 獄寺のように堂々と居眠りが出来たなら良かったのだが、生憎と綱吉にはそこまでする勇気はない。そんな訳で本日も、小春日和のぽかぽか陽気を窓越しに浴びながら、ひたすら欠伸を堪えて眠気と闘い続ける一日だった。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
 たいして運動もしていないし頭も使っていないに関わらず、一人前に疲れた顔をして、彼は玄関のドアを開けた。
 出迎えてくれた奈々が妙に上機嫌なのが癪で、ついつっけんどんな態度を取って追い払い、靴を脱ぐ。いつもは散らかっている子供達の靴が、今日ばかりは綺麗に整理整頓されているのが、また変な感じだった。
「誰か来たの?」
 玄関自体も掃除されていて、埃ひとつ落ちていない。いつもは押入れの中で眠っている花瓶までもが表に出て、色鮮やかな花がいっぱいに生けられていた。
 朝、出かけた時とはまるで違う景色に眉を顰めた愛息子を見下ろし、奈々は屈託なく微笑んだ。
「ちょっとね」
 嬉しそうにしているのは、その所為だろう。一瞬父親が帰って来たのかと疑った綱吉だけれど、だとしたら家の中がもっと大騒ぎの筈だ。
 庭の物干し竿に並んでいた洗濯物は、いつもと変わらぬ量だった。家光の腹を満たしてやるための、大量の美味しいものの匂いもしない。
 鼻をクンクンさせた彼に目尻を下げて、奈々はさっさと手を洗って来るように言った。
「はぁーい」
 外から帰ってきたら、石鹸で手を洗い、嗽をする事。それが沢田家の鉄則であり、風邪を引かないための工夫だった。
 特にこの家には、まだ年端も行かない子供が大勢いる。ひとりがこじらせると全員が倒れる事にもなりかねず、そうなったら奈々の負担は計り知れない。
 だから出来ることから、こつこつと。ただ面倒なのには違いなくて、綱吉はやる気の無い返事をして、鞄片手に洗面所へ向かった。
 それが終われば台所に顔を出し、空の弁当箱を出して廊下に戻る。空気は冷えており、靴下だけではフローリングの冷たさを防ぎ切れない。
「さっむ」
 折角寒風吹き荒ぶ外から家に帰ってきたのに、これではなんの意味も無い。鞄ごと両手で身体を抱きしめた彼は、急ぎ足で階段を駆け上った。
 さっさと自室に引き篭もって、暖房を入れて快適空間でゲームでもしよう。もっとも鬼の家庭教師ことリボーンに見付かったら、コントローラーを奪い取られるどころの騒ぎでは済まないが。
 子供は風の子、と言って薄着で外に蹴りだされた日を思い出し、身震いする。
「あいつだって、ガキんちょの癖に」
 もっともリボーンは、見た目の幼さに反して時折言葉遣いが年寄りくさい。ビアンキの他にも愛人を複数持ち、交友関係がやたらと広いところからして、謎だらけだ。
 色っぽい女性の膝でぬくぬく過ごしている赤子の図を思い浮かべ、恨めしく思いながら、綱吉は閉ざされていたドアに手を伸ばした。
 ノブを掴んだ瞬間、ビリッと指先に電流が走った。
「あちっ」
 咄嗟に腕を引いて、痺れた手を胸に抱く。静電気だ。
 一瞬、青白い炎が見えた気がして、彼は冷や汗を拭った。この季節は特に多いから気をつけなければいけないのに、物思いに耽っていた所為ですっかり忘れていた。
 痺れた感覚を残す指先を見下ろして肩を竦め、綱吉は軽く手首を振った。改めて慎重にノブを掴み、右に軽く捻る。
 鍵など掛かっておらず、扉は呆気ないほど簡単に彼に道を譲った。
「ただいまー」
「おかえり」
 自宅のドアを潜り抜けた時同様、気怠げな声で何とはなしに呟く。俯いたままだった綱吉は、思いがけず返って来た合いの手に吃驚し、急いで首を前に向け直した。
 琥珀色の瞳を大きく見開き、部屋の真ん中に座る青年に唖然とする。
「え。ええ?」
 居るとは思っていなかった人物に呆気に取られて、うっかり手にしていた鞄を落としてしまう。
 辞書入りなので、重い。爪先にダメージを受けた彼は瞬間、裏返った声で悲鳴をあげ、片足立ちで飛び跳ねた。
「何やってんだ、ツナ」
「ディ、ディーノさん!」
 面白い動きをした彼を呵々と笑い、テーブルに肘をついたディーノが背筋を伸ばした。頬杖を解き、少し癖のある金髪を掻き上げて白い歯を見せる。
 眩しい太陽が室内に引っ越してきた錯覚に陥って、綱吉はドキリと跳ねた胸に手を押し当てた。
 階下の奈々がやけに上機嫌だったのも、玄関が掃除されていたのも、こういう理由だったのだ。ディーノの靴が見当たらなかったのは、綱吉に来訪を気付かせないためだろう。
 すっかりしてやられて、彼はお茶目な母に苦虫を噛み潰したような顔をした。
「来てたんですか」
「おう。さっきな」
 連絡のひとつもなくいきなりやって来るところは、ディーノも家光と大差ない。素直に驚いている綱吉を見て満足げに頷いた彼は、早く部屋に入るように手招き、ついでに天井付近に設置された空調を指差した。
 暖房が入っている。頬に温い風を感じて、綱吉は急ぎ扉を閉めた。
 つい先ほど着いたばかり、というのは嘘だろう。現にテーブルには、大量の食べかすと、空っぽの皿が仲良く並んでいた。
 落とした鞄を拾って窓辺の机に置いた綱吉は、途中で見えた中身のないマグカップに苦笑して、温かな陽だまりのようなディーノに小首を傾げた。
「今日はどうしたんですか?」
 室内は充分に温もっており、外と同じ格好でいたら暑いくらいだ。問いかけると同時に上着のボタンを外し、綱吉は脱いだ制服を椅子の背凭れに引っ掛けた。
 袖口だけがやや黒ずんだベージュのジャケットから視線を上にずらし、ディーノは膝に抱いたリボーンを下ろして右手を彷徨わせた。
 マグカップを取って引き寄せるが、既に飲み干した後なのを思い出し、照れ臭そうに笑う。
「クリスマス、こっちにこられそうになかったからさ」
「あ、そうなんですか……」
 ディーノはまだ若いけれど、こう見えてキャバッローネ・ファミリーを統率するボスだ。部下がいないとてんでダメダメな人ではあるが、綱吉にとっては憧れの大人のひとりだ。
 まだ十日以上先の、年の瀬手前の一大イベントへの不参加を早々に告げられて、綱吉は分かっていたものの、ガッカリと肩を落とした。
 彼は忙しい。こうやって暇を見つけて日本まで遊びに来てくれる事だけでも、ありがたいと思わなければいけないのに。
「仕方ないですね」
 聞き分けの良いフリをして本音を隠し、綱吉はシャツの上から腹を撫でた。
 それを見たリボーンが、
「腹でも痛いのか」
「え!」
「え?」
 いきなり言って、聞いたディーノと綱吉がほぼ同時に素っ頓狂な声を上げた。
 四つの瞳に見上げられて、綱吉は腹部に添えていた手を慌てて背中に隠した。もやもやするものがあって落ち着かなかったから撫でていただけであり、別段腹を下しているわけではない。急ぎ首を振って否定して、彼はドギマギしながらテーブルへ近付いた。
 甘い匂いだけが場に残されていた。ケーキは、恐らくは苺ショート。皿の周囲に残ったスポンジや、生クリームや、緑色の蔕の滓からそう判断する。
 ロマーリオたちは席を外しているのか、それともホテルへ帰ったのか。状況からディーノひとりだけだと読んで、綱吉は箱入りのティッシュペーパーを引き寄せた。
「こんなに汚して」
「おっと。悪い」
 人の部屋だと思って、好き勝手しないで欲しい。リボーンも此処で寝起きしているのに、ちっとも片付けに協力的でない。
 ディーノが素早くテーブルからカップと皿を持ち上げたので、綱吉は早速、転がっていた食べ滓をティッシュで拭った。跡が残らないようごしごし擦って、普段は積極的に掃除をしようとしないくせに、こういう時だけは行動が早い。
 山盛りのゴミ箱に丸めた紙くずを押し込んで、彼は少しだけ綺麗になったテーブルをいとおしげに撫でた。
 甘ったるい匂いが鼻腔を擽り、食欲が刺激される。学校から帰ってきたばかりで、おやつもまだの綱吉にとって、この苺の香りは痛烈だった。
「いいな」
 誰にも聞こえないように呟いて、中身の減った箱を遠くへと追い払った彼は、ニコニコしているディーノに怪訝にして居住まいを正した。
 せめて匂いだけでも存分に味わおうと鼻をヒクつかせて、頬を膨らませる。
「どうした?」
「あ、いや」 
 奇異に思ったディーノが首を倒して綱吉を覗きこんだ。深い瑪瑙色の瞳に見詰められた彼は慌てて首を振り、背筋を反らして距離を取った。
 逃げられてしまって、ディーノはちょっと面白く無さそうに頬を膨らませた。
 喜怒哀楽をはっきり顔に出すので、彼が何を考えているのかは実に分かり易い。拗ねてしまった年上の青年に首を竦めて、綱吉は目を細めて微笑んだ。
 笑いかけられた方はきょとんとして、すぐさま顔を綻ばせた。
「ディーノさんは、今回はいつまで?」
「んー、あんまり余裕なくてさ」
 明日の午前には日本を離れなければならない、と彼は言った。
 予想よりもずっと余裕のないスケジュールに綱吉は嘆息し、出来るだけ表情を変えないよう心がけて唇を舐めた。
 それでも残念がっているのは感じられたのだろう、ディーノは柔和な笑みを浮かべて手を伸ばして来た。
「年が変わったら、また来るから」
「無理、しなくても良いですよ」
 赤味を残す頬を指の背で擽られて、綱吉は反射的に言い返した。
 口に出してから自分でも吃驚した彼だけれど、その思いは本当で、嘘ではない。
 会えないのは確かに寂しい。だけれど、彼が日本へ来るためにイタリアで無茶をしているかもしれないと考えると、胸が痛んだ。
 視線を伏した綱吉に虚を衝かれた顔をして、ディーノは空を掻いた指を握り締めた。拳を作って自分の膝に押し付けて、骨に沁みるまで力をこめる。
「ツナ」
 湧き起こる感情を抑え切れずにいる彼を見上げて、リボーンが肩を竦めた。
 呼びかけられて綱吉は顔を上げた。身を乗り出したディーノの金髪が真っ先に目に付いて、そちらに気を取られている隙に、頬にふわりと、暖かい香りが広がった。
 鼻腔を擽る甘いケーキの匂い。それを追いかけるようにして、ディーノが普段から身に纏っている香水の淡い香りが彼を包んだ。
 何が起きたのか分からず、綱吉は目を丸くして右の頬を押さえた。
「無理なんかしてねーから」
 安心しろ、と嘯くディーノの笑顔を前に、彼はピキッ、と凍りついた。
「ひ、……ひぃぃぃ!」
「ツナ?」
 自分の頬に爪を立てて引っ掻いて、彼は声を上擦らせて仰け反った。全身に鳥肌を立て、竦みあがり、顔を強張らせて悲鳴をあげる。
 いきなり怯え出した彼に吃驚して、ディーノは目を丸くした。我関せずでいたリボーンもが、教え子の反応に怪訝にして、黒い円らな目を細め、眉を顰めた。
 膝で床を蹴り飛ばし、綱吉は赤くした顔を即座に青くして、右頬の手に左手を重ねた。
「い、今。今!」
「いま?」
 動揺激しい所為で言葉が巧く出てこない彼に、ディーノとリボーンは揃って首を捻った。
 今何をしたか、という意味合いだろうと解釈して、ふたりが顔を見合わせる。
「キス?」
「うあぁあぁ!」
 試しにディーノが問いかけると、綱吉は大袈裟を通り越した反応で絶叫し、伸び上がった直後に床に突っ伏した。
 耳を塞がれてしまって、ディーノは少し傷ついた顔をして口を尖らせた。
 頬へのキスは、親愛の情の表現だ。可愛いと思ったし、好きだと感じたからキスしたのに、こんな態度を取られたら哀しい。
 寂しげに睫を震わせた彼を前に首を振り続けた綱吉も、時間が経つにつれて少しは冷静さを取り戻して、姿勢を正して濡れた感じがする頬を擦り、火照って熱い自分を仰いだ。
 手で風を起こそうとする彼を面白く無さそうに見詰め、ディーノは座を崩し、テーブルに頬杖を着いた。
「そんなに嫌か?」
「嫌って、そういうわけじゃないんですけど」
 いきなりされて吃驚しただけで、綱吉だって彼が純粋な好意から事に及んだことくらい、ちゃんと分かっている。
 だが、どうしても慣れない。そういう習慣が無いから、突然抱き締められたときもつい大仰な反応をしてしまう。
 これまで身近なところに、こんなにもストレートに感情をぶつけてくる相手はいなかった。そもそも綱吉はあまり人に好かれるタイプではなかった。嫌われっこの苛められっこで、何をやってもダメダメの彼は、いつだって皆のお荷物だった。
 自分が好きだと思う人に好かれた経験が少ないから、こういう時にどうしていいかが分からない。ましてや、ディーノはイタリア人だ。ハグもキスも日常茶飯事の彼のスキンシップは、綱吉には過剰と感じるレベルだった。
 もっとも、知り合ってから既にかなりの時間が過ぎている。そろそろ慣れても良い頃だ。
 現に最初は彼の飾らない世辞に照れていた奈々も、今ではごく自然に聞き流している。
 綱吉だけだ。こんなにも初心なままなのは。
「いい加減、慣れろ」
「でもぉ」
 リボーンにも手厳しいひと言を投げられて、綱吉は頬を気にして頻りに擦りながら反論を試みた。
 ただ、言葉は続かなかった。無音のまま口を開閉させた後は下唇を突き出して膨れ面を作って、黙り込む。
 ふたりとも拗ねてしまって、リボーンは大人げない両者に肩を竦めた。
 綱吉はいずれマフィアのボスとなり、ボンゴレを率いていかなければならない人間だ。そのボス候補者がこんなにも奥手で、頬へのキスひとつに大騒ぎしていてどうする。
 溜息混じりに説教を開始した赤子に目を吊り上げて、綱吉はつーん、とそっぽを向いた。
「俺、マフィアになんかならないもん」
「だがこのままじゃ、オメーみてーなダメダメを雇ってくれる会社なんかないぞ」
「うぐ」
 痛いところをつかれて、綱吉は唸った。
 中学校を無事に卒業できるかどうかですら怪しい成績の綱吉の将来図は、果てしなく暗い。
 まず高校に入れるかどうか、そして卒業できるか。大学は無理だろうと諦めて、その先はどうする。専門学校へ行くにも、不器用な彼に出来る仕事は限られている。
 リボーンの言う通り、ニートで家に引き篭もる将来像しか浮かんでこない自分が情け無くなって、綱吉はがっくり項垂れた。
 マフィアになどなりたくない。けれどそうなる以外に、道はない。
 究極の二者択一を迫られた彼は、弱りきった表情をして家庭教師役の赤ん坊を伺い見た。
 視線を向けられて、リボーンはにっ、と不敵に笑ってディーノを指差した。
「丁度良いじゃねーか。コイツに、特訓してもらえ」
「は?」
「キスの一つやふたつで、うだうだ言ってんじゃねえ」
 唇を重ねあう恋人同士のキスでもないのだから、と言って、リボーンは笑った。槍玉に挙げられた青年は目を点にして、自分を指差しながら綱吉を見詰めた。
「へ?」
 視線を浴びせられて、綱吉もハッとした。
「え、ちょっ。無理、無理! お前、急に何言っちゃってんの」
 我に返った途端に首を横に振り、大声を張り上げる。その激しい拒否の言葉が棘となり、ディーノの胸にぐさりと突き刺さった。
 頭を垂れて俯いてしまった彼にも慌てて、綱吉はどういえば良いのか分からなくなって顔を赤くした。
「ちが、ディーノさんが嫌なんじゃなくって」
「だったら良いじゃねーか」
「リボーン!」
 にやりと笑った赤子に反論を封じられて、綱吉は口をもごもごさせた。ディーノはまだ下向いてすすり泣いており、恨みがましい声がまるで呪詛のようだった。
 にっちもさっちも行かなくなって、綱吉は諦めの境地に陥り、天を仰いだ末に渋々頷いた。
「そうと決まれば、さっさとやれ」
「うわっ」
 不敵な笑みを浮かべた赤ん坊に蹴られ、ディーノの身体が前に泳いだ。其処に居た綱吉の膝に倒れこんで、ぶつけた鼻の頭を赤くして照れ臭そうに笑う。
 子供みたいに無邪気な彼に面食らって、綱吉はなにも言えずに顔を背けた。
「まー、確かに。ツナはちょっと、過敏すぎるよな」
「そんな事ありませんって」
「あるって。挨拶なんだから、もっと軽く構えてろよ」
 否定してもすぐに畳み掛けられて、綱吉は馴れ馴れしく肩を叩いてきたディーノを睨んだ。が、そういう顔すら可愛いと思っている彼には通用しなくて、屈託なく微笑みかけられているうちに、段々と綱吉は怒っている自分が馬鹿らしく思えて来た。
 リボーンや、ディーノの言い分にも、一理ある。
 キスとは恋人同士の、特別な関係の人しかしないもの、という思い込みが念頭にあるから反応が大袈裟になるのだ。親兄弟や友人らと気軽に交わすキスもあるのだと、身体で覚えこんでしまえば、今のような馬鹿騒ぎも今後減るかもしれない。
 第一、ディーノと会う都度こんな事をやっていたら、綱吉の心臓は幾つあっても足りない。
 隙あらば抱きつき、キスの雨を降らせる彼を上目遣いに見やり、綱吉ははにかんだ。
「お、お手柔らかに、お願いします」
 こんな言い方で良いのか分からないけれど、兎に角告げて、頭を下げる。お辞儀されたディーノは呵々と笑って、綱吉との距離をちょっとだけ詰めた。
 けれどいざやろう、となった途端、ディーノも照れて動けなくなってしまった。
 向かい合って座り、見詰め合うこと約一分。カチコチに固まっているふたりに肩を竦め、リボーンは根性の足りない兄弟子の腰を思い切り蹴った。
「いって」
「ツナも、ツナだぞ」
「俺ぇ?」
「ディーノにされるばっかりじゃなくて、オメーもきちっと、ディーノにやり返せるようになっとけよ」
 挨拶は相互が基本。親愛のキスだって、一方通行で済ませるわけにいかない。
 されたら、相手にもやって返す。それが基本だと説いて、リボーンはボルサリーノの鍔をちょっとだけ下げた。
 キスされるだけ、だったら恥ずかしいのを我慢するだけで済んだ。しかし自分から行動を起こすよう言われた途端、綱吉の顔はカーッと赤くなった。ぐるぐる目を回して、火照った頬を両手で押さえ込む。
「そんな、無理っ」
「ツナは俺に、キスしたくねーの?」
「うぅ、そうじゃないですけどー」
 できっこないと叫んだ横で、ディーノが寂しげに問いかけてきた。雨に濡れて小さく震えている仔犬のような、縋る目を向けられて、綱吉は臍を噛んで頭を掻き毟った。
 図体は大きいのに、フゥ太並みに始末の悪い眼だ。
 無体な扱いも出来なくて困ってしまって、綱吉はしたり顔のリボーンを恨めしげに睨み、拳を震わせた。
 したくない、のではなくて、出来ないのだ。
 その違いを分かって欲しくて懸命に目で訴えるけれども、リボーンは無視の一手で、ディーノは哀しそうにするばかり。まるで話にならなくて、綱吉はぐっと腹に力をこめると、鼻を大きく膨らませて奥歯を噛み締めた。
「ほれ、さっさとやれ」
「分かってるよー、もう」
 せっつかれて、膝立ちになる。胡坐を掻いているディーノとの距離を自分から狭めて、両手を床に添えてやや前のめりの体勢をとる。
 待ち構える金髪の青年は、先ほどまで泣きそうだったのが嘘のようににこやかな笑顔を浮かべており、相変わらずの切り替えの早さに、綱吉は溜息をついた。
 ディーノのことは、嫌いではない。むしろ好きだ。
 尊敬している。彼のようになりたいと思う。大きな手で髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回されるのも、ぎゅっと抱き締められるのも、好きだ。
 たかが頬へのキスひとつで彼が喜んでくれるのなら、儲けものだ。唇へくちづけるわけではなし、ちゅっ、と触れて離れればそれで事足りる。
 変に意識をするから緊張して、恥ずかしくなって出来ないのだから、ディーノたちの言う通り、軽く考えれば良い。そう言い聞かせるのだけれど、それでも綱吉はなかなか先に進めなかった。
 ガチガチの彼の額に玉の汗が浮かび、時計の針だけが黙々と動き続ける。温風を吐き出す空調が唸る声だけが室内に響いて、軽く一分が経過した頃。
 静寂を突き破り、ディーノがぷっ、と噴き出した。
「はは。あは、ははは」
 急に笑い出した彼に目を瞬き、綱吉は前傾姿勢を真っ直ぐに戻した。ぽかんと口を間抜けに開き、腹を抱えている青年を呆然と見詰める。
 理解したリボーンはひとり嘆息し、やれやれと首を振った。
「俺は下にいるぞ」
 誰も聞いていないと知りつつ言って、踵を返して歩き出す。ドアが開いて、閉まる音を聞いて我に返った綱吉は、ひとり右往左往した後に真っ赤になって煙を吐いた。
「ディーノさん」
「だって、ツナ。すんげー顔してんだもん」
 怒鳴るが、ディーノは笑いやんでくれない。逆に声を大にして涙まで流して、肩を震わせて綱吉の頬をちょん、と小突く。
 白い歯を見せる彼にぐうの音も出なくて、綱吉は丸くなってそっぽを向いた。
 耳の先まで赤く染めて、目を潤ませて瞬きの回数も減らして。必死に羞恥と戦っている綱吉の顔は、なかなかに見物だった。
 可愛かった、とディーノは微笑んだ。はにかんで、拗ねてしまった綱吉の頭を誤魔化しに撫でてやる。
 困らせたかったわけではない。苛めたかったわけでもない。ましてや、泣かせるなど。
 肩を怒らせていた綱吉も、頭をくしゃくしゃにされるうちに段々と気持ちが萎えていった。すぼめた口から長く息を吐いて、恐る恐る振り返る。
 目尻を下げたディーノが、ちゅ、と綱吉の額に触れた。
「う」
「ちょっとずつでいいからなー」
 いつか笑いながらキスを返してくれるようになれば、それでいい。そんな事を囁いて、彼は腰を浮かせた。
 床からベッドの上へと移動して、座り直す。
「ディーノさん?」
「悪いけど、ちょっと寝かせてくれるか。時差ぼけしないように、飛行機の中で寝ないようにしてたから」
 ずっと耐えてきたけれど限界だと訴えて、ディーノはコテン、と頭をシーツに沈めた。長い脚を投げ出して、綱吉が朝起きた時そのままになっているベッドに横たわる。
 良いともダメだとも言えず、綱吉はぽかんと口を開いた。それが返事の変わりだと思ったのかどうかは不明だが、ディーノは瞼を閉ざすと、あっという間に寝息を立て始めた。
 寝つきのよさは綱吉に勝るかもしれない。一瞬で夢の世界に旅立ってしまった彼に唖然として、やがて綱吉は肩を竦めた。
「えへへ」
 無理しなくて良いとは言ったけれど、やっぱりこうして時間を作って会いに来てくれるのは、嬉しい。
 彼は照れ臭そうに笑うと、足元に溜まっていた布団を引っ張り、ディーノに被せてやった。
「ちょっと小さいな」
 日本人には平均的なサイズのベッドなのに、ディーノを置くと小さく感じる。窮屈そうに膝を曲げている彼を羨ましく思いながら、綱吉はテーブルの食器を片付けるべく、立ち上がろうとした。
 それを思い留まり、再び枕元に腰を落ち着かせる。両肘を敷布団に沈めて頬杖を着いて、彼は。
 気持ち良さそうに眠るディーノの顔を、暫くの間じっと見詰めた。
「綺麗な顔してるよなー」
 外国人はみんなこうなのかと、イタリア生まれのイタリア育ちの青年の髪をそっと撫でる。艶やかな金髪を梳って、綱吉はふと、閉じたドアを振り返った。
 リボーンに言われたからやるのではない、と先に心の中で言い訳をする。腰を捻ってベッドに向き直り、膝立ちになって身を屈めて。
「おやすみなさい、ディーノさん」
 囁き、癖のない毛先にそっと、キスをした。

2010/12/12 脱稿