夢追い

 地表を照らす太陽の光がアスファルトに反射して、目に眩しい。
「あっちー」
 シャツの襟元に指を入れ、タクトは出来上がった隙間に風を送り込みながら唸るように呟いた。
 一日の授業が無事に終わって、時刻はもう四時に近い。真昼の、一番気温が高い時間帯はとっくに過ぎてはいるものの、茹だるような熱は地上に沈殿して、彼を蒸し焼きにしようとしているようだった。
「言うな。こっちまで暑くなる」
 左側を歩いていたスガタが、額に小さな汗の粒を浮かせて気怠げに言った。彼はとっくに上着を脱いで、半分に折り畳んで右手に抱え持っていた。
 勉強道具一式を入れた鞄も右肩に担いでいるので、右半身だけが妙に荷物が多い。肌に絡みつく熱風を避けて前髪を掻き上げた彼を横目で睨み、タクトは我慢出来なくなって、自分も上着の袖から腕を引き抜いた。
「熱帯気候、はんたーい」
「……意味が分からない」
 確かに此処南十字島は、本土の南に位置してはいるけれど、赤道直下ではない。脱ぎたての上着ごと腕を振り回して叫んだタクトに肩を竦め、スガタは前方に見始めたプレハブの屋台に目を眇めた。
 近隣の畑で収穫された野菜や、観光客目当てのちょっとした土産物を販売する露店だ。
「タクト」
 隣でまだギャーギャー騒いでいる友人の名前を呼び、彼は手作り感が溢れる道端の店を指差した。
 勢い余ってもう少しで車道にはみ出すところだったタクトは、両手で頭を抱え込んだ体勢で一旦停止し、きょとんと目を丸くした。スガタの指が向けられている方角に顔をやって、大粒の目をまん丸に見開く。
 理解したらしい友人に顔を綻ばせ、スガタは横断歩道のない道を渡るタイミングを計り、視線を左右に忙しく動かした。
 今のところ、接近する車の影はない。綺麗に整備された海辺の道で、彼らは一斉に、潮風に背中を押されながら駆け出した。
「いっちばーん」
 スタートの号令は無く、コースだって決まっていたわけではない。しかしタクトは元気よく人差し指を突き出して笑い、一直線に露店へと駆け込んだ。
 厳しい日射しが遮られて、中は少し暗い。右側のスペースでは野菜、左側は雑貨などを取り扱った店内は細々しており、通路も狭く、男ふたりが並んで立つにはやや窮屈だった。
 雑に畳んだ上着を鞄に引っかけて担ぎ直したタクトは、店番を探してきょろきょろしながら、物珍しげに店の中を歩き回った。
「タクト」
「ん?」
「お前も飲むか?」
 一方のスガタはといえば、庇の影がギリギリ届くところに置かれていた、赤い外観の冷蔵ケースの前から動こうとしなかった。
 横にスライドさせて開けた取り出し口から腕を引き、中で冷やされていたものを顔の横まで持って行く。たったそれだけなのに急に涼しくなった気がして、彼は小首を傾げているタクトに微笑んだ。
 プラスチックの蓋がされた、ガラスの小瓶。
 ラムネだ。
「飲むー」
「あら、いらっしゃい」
 スガタが持つ物の正体を知ったタクトが、にわかに目を輝かせた。そこへタイミング良く騒ぎを聞きつけた店の主が戻ってきて、スガタはポケットから財布を引き抜き、ひんやり冷たい飲み物二本分の代金を、さっさと支払ってしまった。
 財布を膨らませていた小銭も片付けられて満足げなスガタに、戻って来たタクトは膨れ面をして右手を伸ばした。
「払うって」
「構わないさ。それに、釣りがない」
 十円玉は使い切ってしまった。薄くなった財布を揺らしながらポケットに戻して、スガタはラムネを一本、彼の胸に押しつけた。
 タクトは暫く納得がいかない顔をしていたが、暑さと喉の渇きに負けて、渋々渡されたものを両手で抱き締めた。
 飲み口を開くより先に首筋に押し当てて、その冷たさに頬を緩める。
「気持ちいー」
「飲み方は、分かるな」
「分かる、分かるー」
 早々に歩き出したスガタを追い掛け、タクトは瓶を振らないよう気をつけながら顔の高さまで持ち上げた。底の縁を額にぶつけて、浮き上がった気泡を追い掛けて視線を上向かせる。
 まだ高い位置にある太陽の光が瓶の中で屈折して、水色の中でキラキラ輝いていた。
 ぷしゅっ、と硬い音がした。右を向けば、スガタが飲み口の周囲に巻かれていたフィルムを剥がし、栓であるラムネ玉を中に落とし込でいるところだった。
 炭酸水が一斉に泡を噴き、くびれを持つ瓶の上側を白く染め上げる。溢れ出るのではないかと心配になったが、杞憂に終わった。
「平気?」
 それでも一応訊いたタクトに、スガタは肩を竦めて苦笑した。
 栓を外すのに使ったピンク色のラムネ開けを振って、掌にも散った水滴を路面へと払い落とす。左腕によって高い位置に掲げられた瓶の口からは、言う程泡は零れていなかった。
「問題無いさ」
「んじゃ、俺も」
 少しだけ中身の減った瓶に相好を崩し、スガタは緩く首を振った。
 彼が飲み口を傾けて口をつけるのを待って、タクトも商品名が記されたフィルムを一気に剥がした。
 くしゃくしゃに丸めてズボンのポケットに入れて、瓶を少しだけ斜めに傾けてラムネ開けをぐっと押し込む。
「……へえ」
 しゅわっ、という音はしたが、スガタの時ほど泡は出ない。慣れを感じさせるタクトの技量に感心して、彼は飲むのを中断して目を細めた。
 この程度の事、出来たところで何の役にも立たない。しかしちょっとだけ得意げな顔をして、タクトは瓶の中に転がるラムネ玉を光に透かした。
 内側に少し窪んだ形をしており、ガラス玉が瓶底まで行かないよう堰き止めている。その少し上にも、小さな窪みがあった。
 彼はその窪みに水中を泳ぐ球体を引っかけ、透明な泡を吐く液体を咥内に流し込んだ。
「ひぁー、うンまー!」
 暑い最中で飲むラムネは、他の季節に飲むのとはまた違った味わいがある。まるでビールを煽ったサラリーマンのように嬉しそうに声を上げて、タクトは喉を淡く刺激する炭酸水に満足げな表情を作った。
 砂漠の真ん中でオアシスを発見したような気分だった。
 カラカラに干涸らびていた肉体が、一瞬にして瑞々しさを取り戻す。すっかり元気になった彼に苦笑して、スガタもよく冷えたラムネに舌鼓を打った。
 しばらく無言で、喉を潤しながら道を行く。擦れ違う車の数はそう多くない。浴びせられる排気ガスが少ないのは、幸いだった。
「やっぱ増えるの?」
 緩やかな坂道を上り終えて、下りにさしかかる直前。不意にタクトが呟いて、聞きそびれたスガタは首を右に倒した。
「なに?」
「夏、来たらさ。やっぱり、観光客とかって」
「ああ」
 今は未だ余裕のあるヨットハーバーも、そのうちいっぱいになるのだろうか。人影の無かったあの露店だって、いずれダイバーやらなにやらで、人で溢れ返るようになるのか。
 静かで、時間の流れもゆったりとして穏やかな今の島が、急に騒がしくなるのかと考えると、タクトはちょっとだけ胸が切なくなった。
 途中で言葉を切り、黙り込んでしまった彼の横顔を眺め、スガタはこれまでの夏の記憶を振り返りながら俯いた。
 手にしたラムネの瓶を、円を描くようにくるくると回す。中のラムネ玉がくびれの間で踊り、カラン、と音を立てた。
 掌に響いた透明な音に肩を竦め、彼は残っていた炭酸水を一気に飲み干した。
「……げほっ」
「おいおい、大丈夫か」
 当然噎せて、いきなり咳き込んだ彼に吃驚して、タクトは前に出そうとしていた足を後ろに引っ込めた。
「平気だ」
 右手を膝に添えて背中を丸め、左手首で口元を押さえ込んだ彼の足許に、瓶に残っていた数滴のラムネが滴り落ちる。斜め下を向いた口はやがてガラス玉に塞がれて、水滴は途絶えた。
 忙しく肩を上下させ、ゲップを堪えて唾を飲み、スガタは時間を掛けて姿勢を正した。背筋を真っ直ぐ伸ばし、背中をさすってくれたタクトの手も払い除ける。
 彼にそのつもりはなかったろうが、拒絶された気持ちになって、タクトは後ろにたたらを踏んで顔を背けた。
「なら、いいや」
 スガタが大丈夫だと言うのだから、きっと大丈夫。そう自分に言い聞かせて、彼は苦い炭酸水を喉に流し込んだ。
 まるで、胃の中で泥の泡が弾けているみたいだった。
 迫り上がる不快感を押し留め、口元を拭い、息を吐く。アスファルトの道を、白い車が陽光を纏いながら駆け抜けて行く。
 島の人が乗る車ではなかった。知らない地名が記されたナンバープレートが、いつまで経っても目に焼き付いて離れない。
「そうだ。話、なんだったっけ」
「え?」
 ぼんやり遠くを見詰めていたら、横から声がした。振り返ればいつもと変わらぬ笑みを浮かべ、スガタが彼を見ていた。
 中断してしまった話の再開を望みつつも、内容が思い出せないでいるらしい。とても中途半端なところで終わってしまっていた話題に息が詰まって、タクトはラムネの瓶ごと首を横に振った。
「いいや、もう良いよ」
 カラカラと音を響かせて、自分から振った話を一方的に切り上げる。
 スガタが余所者に対し、あまり良い印象を持っていないのは知っている。島から出られない身の上だからこそ、あちこちを自由に旅せる人達に対して、羨望めいた妬みがあるのも。
「そうか?」
「ああ」
 物言いたげにしながら口に出さない彼を怪訝に見詰め、スガタは口をヘの字に曲げて空になったラムネ瓶を揺らした。
 外に出るのも叶わず、かといって底に堕ちる事も許されない。瓶の真ん中より少し上の、なんとも半端な位置に留まり続ける、ラムネ玉。
 西日を受けて青く輝いて見えるそれは、まるで水面を漂う浮き球のようだった。
「浮き?」
「網を張った目印だよ」
 縄で縛られて、海上を漂い続ける。もし漁船が網の場所を忘れてしまったら、きっと永遠に、陸には帰れない。
 永久に彷徨うしかない。
 スガタは呟き、硝子瓶を高く持ち上げた。太陽に向けて翳し、屈折した光を路面へと放つ。
 タクトはどこか寂しげで、辛そうで、それでいて笑っているようにも見える彼から目を逸らし、果てしなく広がる海と、空の境界線を見詰めた。
 担いだ鞄と、それに引っかけていた制服を歩道に下ろす。片膝を着いて身を屈め、自由にした両手を使い、彼はおもむろに、空っぽになったラムネ瓶を握り締めた。
 右手を飲み口に添えて力を込め、その後は軽く、素早く、プラスチック製の蓋を回して外していく。
 最後に瓶本体を傾けた彼の右手には、透明な水滴を纏ったガラス玉がひとつ、残された。
「ん」
「凄いな。外れるのか」
「知らなかった?」
 ラムネからラムネ玉を取り出すには、瓶を割るしか方法が無いと、ずっと思っていた。
 素直に驚いてみせたスガタに自慢げに笑って、彼は用済みになった蓋を瓶に戻し、立ち上がった。
「はい」
 そして何の前触れもなしに、スガタへ右手を差し出した。
 人差し指と親指に挟まれたガラス玉を渡されて、反射的に受け取ってしまった彼は面食らった。
「おい」
 言うなれば、これはゴミだ。ビー玉を集めて嬉しがる小学生ならばまだしも、自分たちはもう高校生だ。
 それをいきなり持たされて、スガタは扱いに困って眉を顰めた。
 握り締めるのを躊躇して、落ちない程度に転がせば、掌には濡れた、少し温い感触が残った。
「やる」
「タクト」
「俺の浮き球、スガタが持ってて」
「……?」
 このガラス玉をそう表現したのは、スガタだ。が、同じであるとは言っていない。
 タクトの告げた言葉の意味を取りあぐねて、彼は眉間の皺を深めた。その顔を笑って、タクトは鞄を担ぎ、汚れが付着した上着の裾を叩いた。
 埃が散る。それすらも陽光の中で、きらきらと輝く。
「だって、見失われたら悲しいし」
 逆光の中、タクトが笑った。
 呆気に取られ、スガタはぽかんと間抜けに口を開いた。
 その気になればいつでも島を出られる彼が、自ら島に囚われるのを望んでいる。改めて手元に残ったちゃちな、玩具にもならないガラス玉を見詰めて、スガタはふっ、と力のない笑みを浮かべた。
 強く握り締めて、その冷たさを己の体温に創り変える。
「確かに。お前に持たせておいたら、そのうち失くしそうだ」
「あ、やっぱり返せ。返して」
 馬鹿にする台詞を呟いたスガタにムッとして、タクトは右手を広げ、伸ばした。スガタは後ろに下がって避けて、ふと思い立ち、タクトがしていたように瓶の蓋を捩って回した。
 最初は右に捻って、巧くいかなくて反対へ。そちらが正解だったらしく、飲み口を覆っていたプラスチックはあっという間に緩んだ。
 彼は広がった飲み口に、今し方渡されたラムネ玉を落とした。
「スガタ」
「これは預かっておくよ」
 なくさないよう、大切に、部屋の机の上にでも飾っておこう。
 許容量をオーバーした硝子瓶を顔の横に掲げて、スガタはそう、楽しげに言った。
 ふたつのガラス玉がひとつの瓶の中で、ちょっと窮屈そうに身を寄せ合っている。水平線に迫る太陽の輝きを受けて、眩しく光っている。
「――……ゴミに間違えられて、捨てられたりするなよー」
「ふたりにはちゃんと言っておくよ」
 シンドウ家に仕えるメイドの少女らを思い浮かべ、ふたりは揃って笑った。
「帰ろうぜ」
「ああ」
 右手を緩く握り、タクトはそれを掲げた。スガタが応じて、同じく左の拳を肩の高さまで持ち上げた。
 前を見たまま、互いの拳をぶつけ合う。
 小瓶の中のガラス玉が、優しい音を響かせた。

2010/12/12 脱稿