氷菓子

 それを見つけたのは、灼熱の太陽が容赦なく大地を焦がし、アスファルトの海に蜃気楼さえ見えそうな午後だった。
 最初は古タイヤが積み上げられているのかと思ったが、道路の真ん中だ、流石にそれはないだろう。次に思ったのは、巨大なゴミ袋、だった。
 どちらにせよ、廃棄物だ。後から考えれば非常に失礼な感想だったわけだが、その時は綱吉自身もかなり疲弊しており、熱さに負けた頭では正常な思考など望むべくもなかった。
「なんだって俺が……」
 右手にぶら下げた袋を揺らし、彼は首に浮いた汗を拭って力なく首を振った。タオルの一枚でも持ってくるべきだったと後悔するが、既に遅くて、彼は渋い顔をして唇を舐め、目の前に鎮座する茶色の扉を忌々しげに睨み付けた。
 この高温多湿ぶりに蝉さえも鳴くのを止めており、響くのはグラウンドで駆け回る野球部の野太い掛け声ばかりだった。
 何故夏休みも真っ只中のこの時期に、学校に来なければいけないのだろう。あのタイミングであの道を通りさえしなければ、こんな目に遭わずに済んだだろうに。
 十分ほど前の記憶を繰り返し脳内で再生させて、綱吉は悔しげに臍を噛んだ。
 上履きは終業式の日に持って帰っているので、今の彼は素足だった。来客用のスリッパを借りてくれば良かったと、足首を裏返して肩を落とす。正面玄関から此処に至るまでの僅かな距離だけで、もう汚れて真っ黒だった。
 それに加えて、彼は制服ではなかった。
「うぅ、嫌だなあ」
 安請け合いするのではなかったと悔やみ、鼻を膨らませてドアの上に設置された札を見上げる。応接室、の三文字を視野に収め、彼は深々と溜息をついた。
 右肘を引いて袋を持ち上げ、ずっしり来る重みを前後に振り回す。ドライアイスの残りもあと僅かで、早くしないと中身が溶けてしまう。
 覚悟を決めるよう自分に言い聞かせ、綱吉は緩く握った左手でドアを叩いた。
 コンコン、と二度。ひと呼吸置いて、もう一度。
 合計三度のノックの末に、深呼吸をしてじっと待つ。まるで断頭台の前に引きずり出された囚人になった気分で、心臓は目まぐるしい勢いで脈打っていた。
 ドクドク言うのにあわせ、体温も上がっていく。温い汗が肌に滲み、幾つか集い合わさって、大きな雫と化して流れ落ちて行った。
 一秒間が恐ろしく長い。早く返事なり、ドアが開くなりすればいいのになかなか事態は動かなくて、内心焦りを抱き、綱吉はぐっと拳に力をこめた。
 もう一発入れるべきか、否か。しかしあまり急かしすぎると、ドアの向こうにいるはずの人物の機嫌を損ねてしまうことにもなりかねない。判断に苦慮し、彼は塩辛い唇を舐めた。
 決められない。目を閉じて首を竦め、彼は左拳を震わせた。
「遅いよ」
 刹那、カチャリと音がして目の前が急激に開けた。
 ドアを引いた青年が、廊下に不満顔を覗かせる。不機嫌に歪んだ目元が恐ろしくて、綱吉はヒッ、と喉を引き攣らせて悲鳴を上げた。
 その声で、高い位置を見ていた雲雀がきょとんとした様子で下を見た。
「……沢田綱吉?」
「ふわっ」
 怪訝に名前を呼ばれ、背筋が粟立つ。怯えた猫のように全身の毛を逆立てた彼の口から、珍妙な声が漏れた。
 自分で言っておいて、恥ずかしい。咄嗟に両手で口を塞いだ彼の胸元で、スーパーのロゴが入った白いビニール袋が大きく波を打った。
 新聞紙に包まれたドライアイスの真ん中には、アイスクリームが収められていた。この炎天下で溶けてしまわないように、との配慮からだが、それでも完全に防ぐのは難しい。
 少し軟らかくなっているそれを見下ろして、雲雀は綱吉に向かって首を傾げた。
「入れば?」
「え、あ、いえ。俺はこれで」
 ともあれ、廊下で立ち話というのも宜しくない。応接室には冷房が入っており、ドアの隙間からはさっきから涼しい風が溢れ出ていた。
 ドアを手前に引いた雲雀の誘いに、綱吉は大声と共に首を振った。預かって来たものを握り直し、勢い任せに前に突き出す。胸にぶつけられて、雲雀は眉を顰めた。
「俺は、その、頼まれただけ、ですから」
 道端に倒れていた草壁を見つけたのは、偶然だった。
 連日最高気温が三十五度を超える中、冬場と変わらない長ラン姿でいたら、誰だって熱射病になるに決まっている。だというのに彼は自分の身より、雲雀に買って来るよう命じられた荷物の心配をして、無事届けてくれるよう綱吉に願い出た。
 あまりにも彼が哀れで、うっかり承諾してしまった。風紀委員副委員長とのやり取りを思い返し、綱吉は右肩の重みがなくなるのを静かに待った。
 だがその時はなかなか訪れず、不審に思って上を見ると、雲雀がまだ釈然としない顔をして口を尖らせていた。
「ヒバリさん」
「どうして君が?」
「いや、だから」
 配達を頼まれたからだと言っているのに、聞こえなかったのだろうか。
 右の眉を持ち上げてムッとした綱吉から視線を逸らし、雲雀は他に誰もいない廊下に目を向けた。つられて綱吉もそちらを見たが、野球部の声が響くだけで、足音ひとつしない。
 腕を持ち上げ続けるのも疲れて来て、綱吉は肩を落として嘆息した。
「わっ」
 その力を抜いた一瞬の隙を衝き、右手を取られ、引っ張られた。
 短い悲鳴をあげるが、抵抗出来たのはそこまで。呆気ないほど簡単に応接室に引きずり込まれて、綱吉は前につんのめった状態でドアが閉まる音を聞いた。
 曲げた膝を伸ばして、苦々しい顔をして狼藉を働いた人物を睨む。雲雀はいつの間にかスーパーの袋を回収しており、口を広げて中を漁っていた。
「ふたつある」
「え?」
「ひとつあげる」
「ええ?」
「要らない?」
「あ……欲しい」
 外は茹だるような暑さで、校舎内の日陰ゾーンに入っても、まだムシムシしている。さっきから流れてくる冷房のひんやり感は実に心地よくて、出来るなら汗が引くまで冷風を浴びて居たいとも、少し思っていた。
 無理矢理部屋に連れ込まれたのも忘れ、綱吉は頬を上気させ、欲望に正直に頷いた。
 殆ど迷わなかった彼に苦笑し、雲雀が袋を広げたまま中身を見せてやる。ドライアイスの塊に隠れて見えにくいが、非常に特徴あるパッケージが一部顔を出していた。
 黄土色のチェック柄が際立つ、カップアイスだ。
 多種多様な味が発売されていて、どれも美味だと誰もが認めている。ただ、値段が他の物に比べてワンランク高いのがネックで、綱吉は滅多に口にする機会がなかった。
 家計に厳しい奈々も、同じ値段で複数購入出来る方が得だからと、いつも安いアイスばかり買って来る。それも美味しいのだけれど、クリーミーで、且つ高級感溢れる味は、このアイスでしか楽しめない。
 無意識に喉を鳴らし、綱吉は興味津々に袋を覗き込んだ。
 高温多湿の日本の夏とは裏腹に、応接室はとても涼しかった。外と比べると、気温が五度以上違う。首の後ろを覆っていた汗も見る間に引いて、逆に寒いくらいだ。
 タンクトップから覗く腕をさすり、綱吉は差し出されたアイスのどちらを取るかで迷って視線を泳がせた。
「でも、いいんですか? これ、草壁さんのじゃ」
「熱中症で倒れた方が悪い」
「それは可哀想じゃ……」
「戻って来るまでに溶けてしまうのも、勿体無いよ」
「うー。じゃあお言葉に甘えて」
 路上に置き去りにして来た副委員長をふと思い出し、申し訳なさに声を震わせる。が、雲雀の言う通り、応接室には冷蔵庫がなかった。
 何でもあるように思っていたが、そうではなかった。意外に思いながら首を巡らせた綱吉は、嬉しそうに両手を叩き合わせて袋に手を入れ、赤色のイラストが入った方を引き抜いた。
 苺味。前に食べた時に美味しかったのを思い出して、顔を綻ばせる。
 雲雀は残ったバニラを手に取って、スプーンを探して踵を返した。
「はい」
「有難う御座います」
 銀の匙を渡されて、ソファの上ですっかり寛いでいた綱吉は短く礼を言い、アイスの蓋を外した。中のフィルムを引き剥がして、ハーフパンツから覗く足を交互にバタつかせる。
 夏を満喫する格好の彼に肩を竦め、雲雀も執務机を前に腰を下ろした。
「草壁さん、大丈夫かな」
「熱中症程度で倒れるなんて、ヤワ過ぎるね」
 強面顔の男を心配する綱吉に手厳しいひと言を返した雲雀もまた、椅子に背を預けてアイスの蓋を剥がした。
 スプーンで赤色の氷山を削り、口に入れた綱吉が、呵々と笑った。
「でも仕方ないと思いますよー。あんな格好してちゃ。それに今日、三十八度六分もあるらしいですし」
 真っ白い雪原に銀の刃を突きつけようとしていた雲雀の手が、止まった。
「何度?」
「三十八度六分、です」
 右の眉を跳ね上げた雲雀の声は、ほんの少し上擦っていた。しかし綱吉は気付かず、溶けかけで緩くなったアイスを頬張り、なんでもないことのように繰り返した。
 もっともそれは並盛町の最高気温ではなく、テレビが言っていた日本のどこかの気温だ。それくらい今日は暑い、と言いたくて例に出したのだが、細かい説明は省かれた為、雲雀が額面通りの意味に受け取り、神妙な顔をして頷いた。
 無事届けられたアイスに物言いたげな目を向け、バニラアイスを口に運ぶ。
「……まあ、いいか」
 下手な演技で綱吉を釣ったのかと考えたが、本当に道端で力尽きた可能性も出て来た。
 どちらにせよ良く出来た副委員長であるのには変わりなくて、彼は満足げに頷き、口からスプーンを引き抜いた。

2010/07/12 脱稿