水の中のつぼみ

 王のサイバディとアプリボワゼした者は、等しく永遠の眠りに就く。
 その定説を覆してしまったシンドウ・スガタの邸宅は、広い。
「此処を使ってくれ」
 名実共にそのスガタの友人となった、タウバーンのパイロットであるツナシ・タクトは、案内された部屋を覗き込んで目を丸くした。
 ドアを開けたスガタが先陣を切って室内に入り、明るい日差しに包まれた空間で彼を手招く。タクトは若干遠慮気味にもぞもぞと身を捩った後、勇気を出してえいや、と敷居を跨いだ。
 南に面した壁は窓が大半を占めており、その向こう側はバルコニー、更にそのもっともっと向こうには、島を取り巻くマリンブルーの海が広がっていた。
 空の青さと、海の青さが水平線で交じり合い、そこにヨットや船の陰影が、まるで一枚の絵画のように景色を彩っていた。
「すっげえ」
 寮の部屋の、軽く三倍は面積がありそうだ。窓辺にはベッドが置かれているが、これも大きい。ふたりくらいなら、余裕で並んで眠れそうは幅がある。
 天蓋まで設置されており、眠る時の気分は、さながらどこかの国の王様といったところか。
 感嘆の息を漏らしてぐるりと部屋を見回し、最後にドアを閉める。パタン、という音さえもどこか上品に聞こえるから、不思議だ。
「本当に、いいのか?」
「構わないさ。どうせ、使っていない部屋だったし」
 恐る恐る問うたタクトを振り返り、スガタが屈託なく笑って言う。その割に部屋は隅々まで綺麗に掃除されて、埃ひとつ落ちていなかった。
 訊けばシンドウ家でメイドとして働いているふたりの少女が、タクトが宿泊する専用の部屋を用意したいというスガタの意向を受けて、せっせと床や窓を磨いてくれたらしい。
 日中はタクトたちと同じ南十字学園に学生として通っている彼女らの、深夜にも及ぶ苦労を教えられて、彼は益々申し訳ない気分になって首を竦ませた。
「気にしなくていい」
「けどさ」
「彼女達も、君が頻繁に泊まりに来るかもしれないと知って、喜んでいたよ」
「そうかぁ?」
 その不安を払拭してやらんとして、スガタが鷹揚に首を振る。にわかには信じられない返答にタクトは苦虫を噛み潰したような顔をして、改めて清潔なシーツに覆われたベッドに目を遣った。
 試しに端に腰を下ろしてみると、布団はふかふかしており、顔を近づければお日様の匂いがした。
「気持ちいー」
 寮の部屋で敷きっ放しの布団とはあまりにも違っていて、思わずぎゅっと抱き締めたらスガタに笑われた。
「なんなら、今から一眠りするか?」
 それで構わないと告げられて、タクトはつい頷きたくなった。しかし時計の針は、まだ午後一時を少し過ぎた辺りで停滞している。折角の休日なのに、今から眠っていては勿体無い。
 即座に起き上がって皺になった布団を叩いて整えた彼は、素早く立ち上がって汚れてもいないシャツを叩いて埃を払い落とした。
 てきぱきしているようで、ぐうたらなところもあるタクトに目を細め、スガタは部屋の設備を説明するために彼を手招いた。
「窓の鍵は、ここと、此処。二重構造になっている。夏になれば藪蚊も多いし、野犬も出るから、開けっ放しにしないようにな」
「分かってるって」
 実際に開けて、閉めてみせて、スガタは続けて空調のリモコンの位置と簡単な使い方、その他にも壁際に理路整然と並べられている家電製品についての説明を繰り返した。
 壁に吊り下げられたテレビは薄型液晶の五十五インチ、しかもブルーレイディスクの録画・再生機能も備えた最新機種。
 オーディオ機器にも力が入れられており、テレビの正面に置かれた幅広のソファを取り囲むようにして、合計四つのスピーカーが天井近くにぶら下がっていた。
 そのソファもベッドに負けないくらいのふかふか具合で、膝丈のテーブルと色が揃えられており、ほぼ新品同然だった。
 まさに贅の限りを尽くされており、見ている方は溜息しか出ない。
「暮らすわけじゃないのに、大袈裟だな」
「別に暮らしてくれても構わないぞ?」
「へ?」
 まさかここまでしてもらえるとは思っていなかった分、恐縮してしまう。自分には勿体無さ過ぎる設備だと軽口を叩いたタクトは、しれっとした顔であっさり言われて目を点にした。
 細身のシャツにベストを上品に着こなしたスガタの表情は真剣で、冗談を言っているようには見えなかった。
 頬をヒクリと痙攣させたタクトが半歩後退して、大慌てで首を振った。
 たまに泊まりに来るくらいなら良いけれど、毎日を此処で過ごしていたら、そのうち庶民感覚が狂いそうだ。ナイフとフォークで朝食のオムレツを切り分けるような生活は、たまに遣るからこそ新鮮なのであって、普段はメロンパンを教室で齧るくらいが、タクトには丁度良かった。
「ええっと、お気持ちは、その、大変ありがたいのですが……」
 だがあまりにもはっきりと嫌だというのは、スガタを傷つけてしまいそうで恐い。折角彼と、タイガーとジャガーが整えてくれた部屋だ。気持ちは充分嬉しいし、どれだけ感謝しても足りない。
 声を上擦らせてしどろもどろに断りを入れようとするタクトの、落ち着きのない動きを見守り、スガタはやがて堪えきれなくなった。
「はは。冗談だよ」
「ほ?」
 口元に手をやった彼に呵々と笑い飛ばされて、タクトはきょとんとしたまま静まり返る室内を振り返った。
 視線を一周させてからスガタを見れば、彼はまだ笑っていた。目尻を細めて腹を抱え、肩を小刻みに震わせている。
 茶化されたのだとようやく気付いて、タクトはカーッと登って来た熱に顔を赤くした。
「スガタ!」
「悪い。そう怒るな」
 ちっとも悪びれた様子もなく言って、スガタは怒鳴り声を上げて拳を振り翳したタクトから逃げ出した。ドタバタと五月蝿く足音を響かせて、広い部屋で鬼ごっこを開始する。
 だが部屋を三周もしないうちに捕まってしまって、彼は首に絡みついたタクトの腕を叩き、降参だと白旗を上げた。
 後ろからスガタを羽交い絞めにしていたタクトも、それでハッとして慌てた様子で彼から離れた。
「もう少し後にすればよかったかな」
「……なにが」
 パッと解放されて、呼吸が楽になったスガタが襟を整えながら嘯く。聞こえたタクトはむっとして聞き返したが、答えは与えてもらえなかった。
 意味深な微笑みだけを向けられて、タクトは口をヘの字に曲げて目を逸らした。
 あまり深入りしすぎると、引き戻せないところに迷い込んでしまいそうな予感がした。
 スガタほどの実力があれば、タクトを背負い投げて床に引きずり倒すのも、可能だっただろう。早々に彼から離れておいて正解だったと安堵の息を吐き、タクトは窓が大部分を占める壁を正面に見て右側奥、木目の入った茶色い壁に生えた突起物を指差した。
「スガタ、これは?」
 その部分だけが銀色で、周囲を縁取るようにリングが埋め込まれている。長さは三センチ弱で、押せばリングの中に全て収まった。
 もう一度押したらまた飛び出して来て、面白い。
「そこは、クローゼットだよ」
「そうなのか」
「引いてご覧」
 収納式の取っ手で遊んでいるタクトに苦笑して、スガタが戸を引く動作をする。足元を見れば、確かに床と壁との間に数ミリの隙間があった。
 なるべく目立たないように細工されているのだと知って、タクトは感心した様子で何度も頷き、押し込んだばかりの銀の取っ手をぽん、と手元に引き伸ばした。
 子供みたいにはしゃいでいる彼に肩を竦めたスガタは、そういえば、と今朝方ジャガーから言われた事を思い出し、微笑んだ。
「ふたりが、君の為に色々と服も用意したと言っていたよ」
「え!」
 ここで生活を営むわけではないにせよ、シンドウ家伝来の古武術を学ぶ以上、今後泊まる機会は増えるだろう。その都度着替えを寮から持ち出すのも面倒だから、というのが、ジャガーの言い分だった。
 女性らしい気遣いに感動して目を輝かせ、タクトはにっこり微笑む眼鏡の女性の配慮を嬉しく思いながら、いそいそとクローゼットの戸を引いた。
 扉の上部に設置されたコマが、レールを滑っていく。蛇腹折りのように三角形が重なり合うフォールディングドアの向こうには、奥行き一メートルほどの空間があった。上部に銀色のパイプが走り、そこに無数のハンガーがぶら下がっている。
 期待の眼差しを下に向けたタクトは。
「……」
 二秒後、何も言わずにクローゼットを閉じた。
「どうした?」
 ワクワクしながら中を覗きこんだ彼の変貌振りに驚き、スガタが怪訝にしながら問いかける。だがタクトは無言を貫き、一瞬でげっそりとやつれた顔をしてゆるゆる首を振った。
 肌色は優れず、暑くも無いのに汗をダラダラ流している。体調が悪いのかと尚も質問を繰り返したスガタを見詰める瞳は、虚ろだった。
「タクト……?」
 流石に恐くなって、スガタは二歩ほど後退して顔を引き攣らせた。一方タクトは両手で顔を覆うと、彼に背中を向け、膝を折ってさめざめと泣き始めた。
「お前ら、俺のことなんだと思ってんだ!」
 ついでに恨み言を言われて、スガタは意味が分からなくて首を傾げた。
 彼の態度が急変した原因を考えて、自然と視線がクローゼットに向かう。タクトが開けて、閉じた時そのままになっている取っ手を試しに引っ張った彼は、目の前に現れた光景に唖然として、そっと元に戻した。
 扉に手を添えてなるほど、と小さく頷き、咽び泣いている同い年の青年に海よりも深い同情と、憐憫の心を抱く。
「きっと、片付ける部屋を間違えたんだろう」
「だったら誰が着るんだ、あんな服。お前か? ワコか! あのふたりか!?」
 遠くを見て呟いたスガタの背中に向かい、タクトがしゃがみ込んだまま罵声を上げた。両手を振り回して怒鳴った彼に苦笑いを向けて、スガタは静かに首を振った。
「……少なくとも、俺ではないな」
 ワコも、こういう趣味はなかろう。
 メイド服にウサギや猫耳が標準装備のシンドウ家でも、流石にこういった衣装で仕事をする決まりはない。
 言ったスガタが、クローゼットの戸を押して全開にする。
 日の光を浴びて一気に明るくなった押入れ空間に居座っていたのは、何処のイメクラだと言いたくなりそうな衣装の数々だった。
 ワコたちが着ている南十字学園女子の制服や、ジャガーたち愛用の黒いメイド服と白いエプロンは、まだ可愛い方だ。
「これは、ナースか。こっちはフライトアテンダントかな。これは……チアリーディングだろうか。セーラー服も色々バリエーションがあるんだな」
 試しに何点か引っ張りだしたスガタが、物珍しげに眺めながらわざわざ声に出して呟く。耳を塞いでいても聞こえて来て、タクトは歯を食い縛って背中を丸めた。
 その彼の足元に、スガタの手を離れた衣装が次々に積み上げられていく。
 赤色が鮮やかで、スリットが大胆なチャイナドレス。太腿丸出しに近いミニスカートの女性警察官。肌の露出は少ないものの、身体のラインがはっきりと現れるアオザイ。細長い布を身体に何重にも巻き付けるサリーの他に和服もあったが、大胆にアレンジされており、丈が吃驚するほど短かった。
 フリルがたっぷり使われた愛らしいエプロンドレスもあれば、新体操の選手が着るようなぴっちりとしたレオタードまで。
 ジャンルは実に、多岐に渡った。
「凄いな」
 むしろこれだけの量をどうやって集めたのかが気になる。まさか手縫いではあるまいな、とスカートの裏を返して縫目を確かめようとしたスガタに、何を勘違いしたのかタクトは目をひん剥いて悲鳴を上げた。
「俺は絶対着ないからな!」
 是が非でも寮から着替えを持ってくる。風呂に入っている間も、こっそりすり替えられないように気をつけなければ。
 風呂のガラス戸越しに平然と話しかけてきたふたりを思いだし、タクトは寒気を堪えて己を抱き締めた。
 心底嫌がっているのが窺えて、スガタは苦笑し、ハンガーだけになったクローゼットの戸を閉めた。
 山盛りの女性用の衣装を前に肩を竦め、視線の高さを揃えるべく膝を折る。しゃがんだ彼と目が合ったタクトは即座にぷいっ、と顔を背け、頬を膨らませた。
「なにも着ろ、とは言ってないだろう。彼女たちの、ちょっとしたユーモアだと思って、許してやってくれないか」
 シンドウ家の忠実なる僕である彼女らも、年頃の女性だ。今回は若干行き過ぎたところがあったけれど、これもタクトを歓迎している証拠なのだと告げて、彼は衣服の山の表面を撫でた。
 ふたりを慈しんでいるスガタの表情を盗み見て、タクトは短気を起こした自分が少し恥ずかしくなった。
 確かにタイガーやジャガーには、真面目な面とそうでない面がある。もし本当にスガタの言う通り、豪華すぎる部屋を前に緊張しているだろう彼の気持ちを、少しでも和らげようとしての悪戯だったなら。
 怒れないではないか。
「ちぇ」
 瞳を伏し、タクトは照れ臭そうに呟いた。
「けど、折角だからな」
 しんみりとした感動を胸に抱いた彼の耳に、変に明るいスガタの声が届けられる。
 え、となったタクトが顔をあげようとした瞬間。
 ぽす、と赤い髪を押し潰すようにして、何かが彼の頭に突き刺さった。
 カチューシャだ。
「うん。似合うな」
 呆気に取られているタクトを他所に、満足げな顔をしてスガタが微笑む。
 愕然としながら頭に手を這わせたタクトは、程なくしてふわふわもこもこした三角形の物体を指先に見つけ出し、ぞわっと来て全身を毛羽立てた。
 それは左右にふたつ、行儀良く並んでいた。
「やっぱりタクトは、犬で正解だったな」
「ぜんっぶ、お前の差し金かー!」
 にこやかに告げられたひと言ですべてを悟り、タクトは犬耳のカチューシャを床目掛けて投げつけた。

2010/11/30 脱稿