擦傷

 ドガッ、と大きな、それでいてとても痛そうな音が響いた。
「っ!」
 咄嗟に首を竦めた綱吉の右手で、大柄の男が呆気なく宙を舞い、背中から地面に落ちた。弾みもせずに一メートルほど滑って止まり、後はピクリともしない。恐々様子を窺おうとしたら、今度は反対方向に人が吹っ飛んで行った。
 次々に薙ぎ倒されていく不良たちの真ん中で、銀の閃光が踊っている。脇を締めて小さくなった綱吉は、半泣きの表情で輪の中心にいる人物に焦点を定めた。
 実に楽しそうにトンファーを振り回している黒髪の青年がひとり。彼こそ、ここ並盛町で最も名前が知られ、且つ生半可な覚悟では近付くべきでないと言われる人物に他ならない。
 風紀委員長、雲雀恭弥。名前を軽々しく呼ぶのも憚られる存在を前に、綱吉は渋い顔をして唇を噛んだ。
 最後の一人が地面に沈む。天を向き、蟹のように泡を噴いている男を睥睨して、彼は忌々しげに舌打ちした。
 右の頬に赤黒い汚れが付着していた。彼はトンファーをひと振りすると、銀色の凶器を握ったまま肩を持ち上げ、肘を曲げてシャツの袖をそこに擦り付けた。
 だが、なかなか巧くいかない。もとより半袖なので、布の面積がそう大きくないのが一番の要因だった。
「……いいけど」
 短く言って、彼は呻いている不良らを見回し、素早く武器をしまった。
 相変わらず、見事なまでの大暴れぶりだ。十人以上居た不良が、ものの十分としないうちに全員気を失い、戦闘不能に陥っていた。
 たった一人でこんな事を成し遂げられる人間など、そう多くない。唖然とし、ハッと我に返って瞬きを繰り返した綱吉は、さっさと歩き出そうとしている背中に気付き、伸び上がった。
「ヒバリさん」
「うん?」
 綱吉とは反対方向に爪先を向けた彼に慌てて呼びかけ、抱き締めていた鞄を下ろす。右手にぶら下げて駆け出そうとした綱吉だが、間に不良が倒れているのを思い出して、ちょっとだけ躊躇した。
 踏み越えるのは悪い気がして、隙間を縫って進む。爪先立ちでおっかなびっくりしている彼に肩を落とし、雲雀は待ちきれずに歩みを再開させた。
「あ、あっ」
 背中を向けられた綱吉が、声を上擦らせて悲鳴を上げた。倒れそうになって、バランスを懸命に維持して奥歯を噛み締める。
「ヒバリさん」
 再度呼びかけるが、返事はもらえなかった。
 早足の彼を必死で追いかけて、息を切らして影を踏み越える。待ってくれるよう叫んでどうにか前に回りこんだ綱吉は、夕日に映える雲雀の姿に息を飲み、鞄の柄を握り締めた。
「なに」
 不機嫌に歪められた唇から、低い声が滑り落ちた。険のある眼差しを向けられて、言おうとしていた台詞を忘れた綱吉は右に、左に視線を泳がせた。
「え、あ、あの。有難う、ござい……」
「群れてたから咬み殺しただけだよ」
 不良に絡まれていたところを助けてもらったそのお礼を、最後まで言わせてもらえなかった。決死の思いで告げたのに、途中で遮られてしまった綱吉は悲しげに顔を歪め、無愛想極まりない青年を見上げた。
 雲雀は群れを嫌う。特に弱い連中が寄り集まっているところに遭遇すると、無性に腹が立って仕方が無いらしい。
 彼に咬み殺された不良は数知れない。綱吉も過去に何度か、痛い目に遭わされている。
 さっさとどこかに行くよう手を払われて、綱吉は渋々道を譲った。通学鞄で膝を叩き、前を行過ぎる青年を悔しげに見送る。
 だがすれ違った瞬間、彼の左手は無意識に雲雀の腕を掴んでいた。
「なんなの?」
「え? あ……」
 怪訝に言われてそれで気付き、彼は目を瞬かせた。
 早く立ち去りたいのに邪魔されてばかりで、雲雀の機嫌もかなり悪い。このままでは八つ当たりに殴られかねず、さっさと行かせてしまった方が得策だと綱吉自身分かるのに、なかなか手を放す気になれなかった。
 上、下、そしてまた上を見た彼は、雲雀の左頬に残る赤黒い汚れを気にして、臍を噛んだ。
「怪我を」
「ああ、これ?」
 小さい声で指摘した綱吉に、雲雀は直ぐに己の頬を指差した。ヤスリか何かで擦ったような跡が、約三センチに渡って刻まれている。細かい筋の所々に血が滲み、周辺を汚していた。
 不良の誰かが用いた武器が掠ったのだろう。他にも怪我をしていないか気になったが、見える範囲ではその一箇所だけだった。
 自分の体なのにさほど興味が無い様子の雲雀に、綱吉は顔を顰めた。
「手当てしないと」
「良いよ」
「でも」
 掴んだ手に力を込め、歩き出そうとした彼を引きとめる。声を荒立てた綱吉を振り返り、雲雀はムッと口を尖らせた。
 凄みを利かせるものの、綱吉も負けじと眼力を強め、一歩も譲らない。いつもの気弱な草食動物ぶりが薄れ、生意気な部分が前に出た彼をじっと見据えて、雲雀はチリチリする左頬に一瞬気を向けて、肩を落とした。
「これくらい平気だよ」
「せめて傷を洗うくらいしないと」
「必要ない」
「でも。でも、変な黴菌とか入ったら、傷がぐちゃぐちゃになって、大変な事になるって」
 尚も食い下がる綱吉を振り払おうと試みるが、逆に反対の手も使ってしがみ付かれた。是が非でも行かせまいとする彼を蹴り倒すのは簡単だが、そんな気分にもなれなくて、雲雀は盛大に溜息をつくと、目に掛かる前髪を掻き上げた。
 痛みはそのうち引く。傷も、いつか治る。洗って消毒くらいするつもりではいるが、それは応接室に帰ってからでも良い。
 今すぐ、此処で、と主張する綱吉を鬱陶しそうに見下ろし、雲雀は泣きそうに歪んだ琥珀にぎょっとした。
「な、なに……」
 何故そんな顔をするのか分からなくて、吃驚して声が上擦った。綱吉は雲雀の腕に抱きついて鼻を啜ると、溢れ出そうになった涙を瞬きで消した。
 ふるふると首を振り、ぐっと腹に力を込めて雲雀を睨みつける。決して鋭いとは言いがたい眼差しに顔を顰め、雲雀は先ほど彼が言った台詞を脳裏に思い浮かべた。
 確かに破傷風にかかりでもしたら一大事だが、今まで一度としてそんな目に遭った事が無い雲雀には、ピンと来なかった。
「駄目です。早くしないと」
 必死に言い聞かせる綱吉を一瞥し、思案に眉を寄せて、彼は緩慢に頷いた。
「そんなに僕の顔がぐちゃぐちゃになるのが嫌?」
「へ?」
 夕日が地平線にキスをして、赤く染まった雲が空の西半分を覆い隠す。長く伸びた影を踏み、雲雀は綱吉に向き直った。
 引っ張られた彼は片手を外し、鞄を抱え込んだ。
「え?」
「君って、僕の顔、そんなに好き?」
「え、えっ? あれ?」
 何故そんな話題になったのか分からず、目を白黒させて綱吉が狼狽える。慌てふためき、もう片手も放した彼は、両手を胸で交差させて右往左往しながら後退した。
 距離を取り、夕焼けに佇む青年を赤い顔で見上げる。
「どうなの」
「いや、えっと、折角綺麗なのに」
「綺麗?」
 落ち着きなく身を捩りながら、綱吉が辿々しく呟く。聞こえた雲雀は鸚鵡返しに問うた。
 主に女性に対して使う形容詞を口ずさんだ彼は、雲雀が顔を顰めるのを見てハッと息を吐いた。失礼だったかと、違う言葉で言い直そうと試みるものの、即座に対応する単語が出てこない。
 そうしているうちに雲雀が、折角広げた距離を詰めてきた。
「沢田」
「か、カッコイイのに」
「うん?」
「凄くカッコイイのに、そんな、の」
「君は僕の顔が好きなの?」
「ひえっ」
 手を伸ばした彼を弾き返し、ひっくり返った声で呟く。語気を強めた彼に追及されて、ついでに逃げ切れなかった手を掴まれて、綱吉は甲高い悲鳴を上げた。
 心臓をバクバクさせながら前を見れば、血塗れた雲雀の綺麗な顔があった。
 西日を受けて陰影濃い顔立ちにうっかり見蕩れ、額を小突かれて綱吉は鼻を膨らませた。
「そんな、ことは」
「でも顔がぐちゃぐちゃになるのは、嫌なんだろう?」
「だから、顔だけじゃなくって……うぅぅ」
 何を言っても揚げ足を取られる気がして、綱吉は口をもごもごさせた。上目遣いに前を見やると、雲雀は不遜な笑みを浮かべ、手の甲で傷口を擦った。
 血の跡が広がり、薄くなる。乾いて瘡蓋になりかけていたものが一緒に取り除かれて、新しい血が小さな粒となってじんわり滲み出た。
 自分の事のように怯え、痛そうに顔を歪めた綱吉を笑い、雲雀は彼を土塀際に追い込んだ。
「だったら、別に良いよね。どうなっても」
 顔だけで好きになったのではないなら、見てくれがどうなろうと綱吉の心は変わらない。返答を求めて迫る彼に、綱吉は小さくなって首を振った。
「沢田?」
「か、……顔も好き!」
 詰め寄り、雲雀が早く答えるようせっつく。琥珀の瞳を波立たせた綱吉は、堪えきれず怒鳴り、唾を散らした。
 顔面に冷たいものを浴びせられた雲雀が面くらい、目を丸くする。言ってから気付いた綱吉は肩で息をして瞠目し、見る間に夕焼けよりも色濃く頬を染めて壁に張り付いた。
 雲雀が好き。無論顔だけでなく、内面的なものも、その暴力性もひっくるめて、雲雀恭弥という存在が好き。
 だから勿論、顔だって、好き。
「ふぅん」
「や、あの。だから」
「そう。じゃあ仕方が無いかな」
「えっ」
 こうもはっきり言われてしまっては、認めざるを得ない。肩を竦めた雲雀に目を丸くして、綱吉は身を引いた彼を追って姿勢を前に倒した。
 ふらつきながら壁から離れ、歩き出した彼を追いかける。気がつけば夕日は半分ほど沈んで、暗闇が東から迫ろうとしていた。
「ヒバリさん」
「そこの公園に、水飲み場、あったよね」
 人通りの少ない道を、雲雀が先陣を切って歩き出す。問いかけに頷き、綱吉は抱えた鞄のポケットに手を入れた。
「ヒバリさん、絆創膏」
 よく何もないところで転んで怪我をするからと、母に持たされている絆創膏を思い出して取り出す。薄い紙に挟まれたそれを顔の前で揺らした彼に、雲雀は肩越しに振り返って首を振った。
「絆創膏なんか、いらない」
「でも」
 傷を洗っても、むき出しの状態では黴菌に触れる確率が高くなる。せめて瘡蓋が完成するまでの間で構わないから貼ってくれるよう頼むが、雲雀は不遜に微笑み、鼻を鳴らした。
 血の跡が走る頬を指差し、駆け寄る綱吉を待って口角を歪める。
「此処に絆創膏がある僕と、傷がある僕と」
 どちらが格好良いかを問われて、綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をした。

2010/07/12 脱稿