君を想って海を行く

 人工呼吸はファーストキスに含まれる?
 スガタの口から零れ落ちた質問にドキリとして、タクトはつい、視線を泳がせた。
「また、その話かよ」
 放課後、海辺の道をふたりで歩く。今日は、ワコは別行動だ。
 女同士の楽しみの邪魔をするな、と教室でルリに大声で宣言されてしまったのだ、一緒に行きたいと言えるわけがない。
 多少興味はあったのだが、妙にワコがソワソワしていたので、何処に行くのかまでは訊けなかった。スガタはその辺りは承知しているのか、特に何も言わなかった。
 親友に手を引かれて急ぎ足で学校を後にした少女の後ろ姿を思い浮かべ、タクトは其処に落ちていた小石を、思い切り蹴り飛ばした。
 それが丁度、右斜め前を歩いていたスガタの靴に当たった。踵にぶつかって跳ね返り、舗装された車道へと転がり落ちて行く。
「あ……」
 目で追いかけるが、走ってきた車の影に紛れてしまって、もう探せない。思わず声を漏らし、足を止めた彼を振り返って、スガタは人好きのする笑みを浮かべた。
「どうかしたか?」
「ああ、いや。なんでも」
 無い、とまでは言わずに首を振り、タクトは肩に担いでいた鞄を下ろして膝を叩いた。
 西に傾いた太陽は水平線に徐々に迫り、白い雲を淡い色に染め上げていた。もう少し経てば、綺麗な夕焼けが拝めるだろう。
 明日もきっと晴れる。頬を撫でる潮風に笑みを浮かべ、彼はスガタを追い掛けて右足を前に運んだ。
「まだ、ちゃんと答えを聞いていないと思ってね」
「何の?」
「だから」
 ブルーの髪が風に揺れて、毛先がそよそよと泳いでいる。日頃から涼やかで、表情の変化が若干乏しくも感じられるスガタは、追い掛けてきたタクトにやや苛立った調子で声を荒げ、ハッとして視線を逸らした。
 丸めた拳を口元にやって咳払いして、不思議そうにしているタクトに肩を竦める。
「人工呼吸」
「む」
 努めて平静を装って告げた彼に、タクトはムッと口を尖らせた。
 歩道より一段低くなった車道を、白い乗用車が駆け抜けて行く。バス停まではまだもう暫く掛かる。反対側に広がるのは、蒼い海だ。
 スガタの髪と同じ色をした大海原は、まるで彼のように穏やかで、静かだった。
「だから、それは」
「どうなんだ?」
 中断していた話を引っ張り出して来られて、タクトは口籠もった。左肩に通学鞄を担いだスガタが、答えを急かして顔を覗き込んでくる。
 冴え冴えとした彩に間近から見詰められて、タクトは出しかけたまま停止していた右足を、後ろに引っ込めた。
 後退して距離を稼いで、苦虫を噛み潰したような顔をして、この島に流れ着いて最初に出来た友人を睨み付ける。
「別に、どうだって良いじゃんか」
「良くないから、こうして聞いている」
 今日はやけに、絡んでくる。シンドウ・スガタとはこんなにもしつこく、ねちっこい奴だったのか。
 知っているようで知らなかった友人の、普段とは異なる顔を珍しく思いながら、タクトは不意にニヤリと笑って身を屈めた。
「なに。あー、ひょっとしてスガタクンってば、嫉妬しちゃってるー?」
 今度は自分から彼の顔を覗き込んで、口角をいやらしく歪めて問い返す。意地悪く眇められた目にビックリしたのか、スガタは鞄を落としそうになってたたらを踏んだ。
 車道脇でじたばた暴れる彼を呵々と笑い飛ばし、タクトは満足げに何度も頷いた。
「スガタ、赤くなってる」
「なっ。タクトが急に変な事を言うから」
 指さして言われて、スガタは慌てて自分の頬を手で覆い隠した。若干上擦った声には、動揺がはっきり現れている。
 偶には男だけで帰るのも悪くないと、タクトは教科書類で重い鞄を担ぎ直して目を細めた。
「タクト!」
「あー、良い風だ」
 島を囲む海岸線、その手前に広がるのは白い砂浜。歩道からそちらに続く階段を見つけたタクトは、スガタの怒鳴り声から逃げるようにして駆け出した。
 制服の裾をはためかせ、二段飛ばしに階段を駆け下りて靴のまま砂浜にダイブする。細かな白砂がローファーの中に潜り込んできたが気にせず、彼は振り返り、歩道から下を覗き込んでいる友人に手を振った。
 寮生活を送るタクトと、実家住まいのスガタとでは、帰り道がまるで違う。もっとも真っ直ぐ寮に帰ったところでタクトはする事が無いので、スガタが島を散策しないかと誘って来た時は二つ返事で頷いた。
 ついでに彼の家の豪華な夕食にありつけたら、最高だ。寮の食事も美味しいけれど、量に若干の不満がある。育ち盛りの青少年の胃袋は、あの程度では満たされない。
 遅れて砂浜に下りてきたスガタを出迎えるべく、タクトは両手を広げた。彼は当然、その胸には飛び込んで来ず、脇をすり抜けてさっさと波打ち際へと歩を進めた。
「ちぇ」
 冗談が通用しない堅物相手だと、面白みに欠ける。つまらなさそうに頭を掻いて腕を垂らし、タクトは黙々と砂浜に足跡を刻む背中を見詰めた。
 なんだかこのまま、彼が遠くへ行ってしまうような気がした。自分がそうして島に来たように、彼も海を泳いで別の島に旅立ってしまうのではなかろうか、と。
 そんなわけが無い。だが、実際はどうか分からない。
「そういうお前は、どうなんだよ」
 発作的に叫んだタクトに、スガタは怒り肩を鎮めて振り返った。
「どうって?」
「人工呼吸」
 海から吹き付ける風に煽られ、彼の髪の毛が大きく舞い上がる。左手でそれを押さえ込んだスガタにぶすっとしながら言って、タクトは砂に足を取られながら友人の元へ歩み寄った。
 途中、一度転びそうになって、盛大に笑われた。
「大丈夫か」
 差し出された手を掴み、引っ張られる。色白で細面のスガタだけれど、指先は意外にごつごつしており、しっかりとした男の手だった。
 指が長い。掌自体も大きい。
 見た目から想像していたものとは、全然違う。不思議な違和感と、妙に納得している自分に気付いて、タクトは数秒間惚けた顔をして立ち竦んだ。
「タクト?」
「え? あ、ああ。なんでもない、ない」
 停止してしまった彼を怪訝に思い、スガタが目を覗き込んでくる。至近距離から真っ直ぐ射貫かれ、鼻先に浴びせられた吐息に鳥肌を立てて、タクトは急いで囚われていた左手を奪い返した。
 他人の体温が残る手を背中に隠し、気まずい気分を押し殺して視線を泳がせる。
 スガタはそんなタクトの内心などまるで知らぬ顔をして、空になった手を丸め、顎に添えた。
 考え込む素振りを見せた後、静かに「そうだな」とだけ呟く。
 彼はワコの、婚約者だ。もっともそれも本人が望んだわけではなく、お互いの家が彼らの了解なしに決めた事らしいが。
 だけれどワコも、スガタも、家が定めた婚約を受け入れている節がある。お互いに相手を尊重し、敬い、大切に思っていると、傍から見ても分かるくらいに、彼らの関係は自然だった。
 そのワコの、ファーストキスの相手は、当然ながらスガタが担う筈だった。
 それをタクトが、横から奪い取っていった。否、当人にその意図は無かったし、なにせ気を失っている最中だったのでまるで記憶に残っていない。
 ただあの場にはスガタもいたというから、彼の心情はさぞや複雑だろう。
 今日に限ってしつこく訊いてくるのも、その辺が関係しているのか。
「なんだか、……な」
 一度は背中に遣った手を前に戻し、無意識に唇を撫でて、タクトが呟く。足許を彷徨う視線は、意識が無い中でワコから施された人工呼吸の形跡を探しているようだった。
 ぼんやりしている彼を横目で窺い見て、スガタは中指の背で己の唇を押し、腕を下ろした。
「そう、だな」
「スガタ?」
 妙に寂しげな呟きに、タクトは瞬きの末に顔を上げた。
 西日を浴びる彼の表情は、逆光の所為もあるだろう、はっきりと見えない。眩しくて、日射しを遮ろうと額に手を翳したタクトだけれど、その頃にはもう、彼はいつものスガタに戻ってしまっていて、その心の裡を読み取るのは不可能だった。
 ただちくりと胸に刺さるものがあって、タクトは上唇を噛み、首を振った。
「って、ていうか、さ。そもそもキスって、アレだろ?」
「うん?」
「アレだよ、あれ。うん。その、ぶっちゃけー……なんつっか、ほら。お互いの了承の上って奴?」
 学校の一部で流行っている硝子越しのキスだって、そうだ。あれも双方の合意の元で行われるものであり、どちらかが一方的にするものではない。
 あの時気絶中だったタクトは、ワコからの人工呼吸を拒否出来る状況になかった。勿論、してくれと頼む事も出来ない。
 人の命がかかっている時に、合意云々を気にする輩はよっぽどの馬鹿だ。が、キスというという行為を、互いを想い合ってのするもの、と表現するのであれば、あれは、キスではない。
 しどろもどろな説明を必死に繰り広げるタクトに、スガタは暫くぽかんとしていた。
 冷や汗を流し、両手を忙しなく動かしている彼を前に絶句し、立ち尽くす。一方のタクトも、何故自分がこんなにも懸命に言い訳めいた事を口にしなければならないのかと、ごちゃごちゃする頭の片隅で恨み言を繰り返した。
 奥歯を噛み締めて背中を丸め、肩で息をして額に浮いた汗を拭う。
「っく」
 やがて、スガタが不意に噴き出した。
 腕を顔に押し当てて、こみ上げる笑いをどうにか押し留めようとする。しかし肩は小刻みに震えており、誤魔化し切れていない。
 息を整え終えたばかりのタクトはそんな友人に唖然として、後から押し寄せて来た羞恥心に顔を真っ赤にした。
「なんだよ。折角、お前の為を思って!」
「俺の為?」
「へ? あ、あの、いや、その」
 目の前で婚約者の女性の唇を奪っていった男と、平然と友人関係を築ける心の広い人間は、果たしてこの世界にどれくらいの数、存在しているだろう。
 スガタに対して多少の引け目めいたものを感じていたからこそ出た発言に敏感に反応して、スガタは右の眉を僅かに持ち上げた。
 視線を逸らし、両手を顔の前で並べて距離を取ろうとするタクトに迫り、彼は思案気味に眉目を顰めて手を伸ばした。
「うっ」
 ぐっ、と強くネクタイごとシャツを捕まれ、ねじり上げられてタクトは息を詰まらせた。呻き、ぶつかりそうなくらいに近くに迫ったスガタの目に慌てふためく。
 喉元を拘束する手を振り解こうと足掻くが、思いの外力が強く、挙げ句息苦しい所為で巧くいかない。筋張ったスガタの手を躍起になって引っ掻いても、ビクともしなかった。
「そうか。俺の為、か」
「ス、スガ……タ?」
「確かに。あれがキスでないとお前がいうなら、ワコの婚約者としての俺の面子は保たれるからな。だが、お前が彼女の唇に最初に触れたという事実は、どうあっても変えられない」
「そりゃ、そうかもしれないけっ――……」
 首を振り、全身を使って束縛から逃れようと抗う。だがスガタの手は外れない。
 逆にもっと強く握り締められて、首が絞まる。息が出来ず、言葉を吐くのも困難になったのは、だけれど喉を圧迫する力が原因ではなかった。
 海に沈み行く太陽を遮り、黒い影が彼の視界を埋め尽くした。焦点が合わなくて輪郭がぼやけている物の正体が咄嗟に理解出来ず、タクトは何度も瞬きを繰り返し、唇に触れたヌルりとした感触と思いの外高い熱に慄然とした。
 背筋が震える。指が痙攣を起こし、足先から上に向かって一気に電流が駆け抜けた。
 ヒク、と喉を鳴らして、彼はようやく緩んだ胸倉にたたらを踏んだ。
 鞄が落ちた。砂に沈み、頭が半分埋もれてしまう。
「あ、ヤバ」
 中身まで砂まみれになったら悲惨だと、頭の片隅で考えながら、タクトは離れていった熱の持ち主の事をふと思い出し、視線を向けた。
 満足げに唇を舐めて、男がひとり、佇んでいる。
「っ!」
 瞬間、今し方己の身に起きた出来事が蘇り、タクトは頭の天辺から湯気を噴いて総毛立った。
 自分自身を抱き締めて、不遜にしているスガタに愕然とする。
「な、なな、んな、……なに! なに。今のなに。なに? なに!」
「お前はワコに触れたからな」
「な、え、あ?」
「俺の為だと言うのなら、俺だけ触れないのは不公平だろう」
「いや。さっぱり意味が分からんのですが」
 狼狽えているタクトに代わり、スガタが彼の鞄を砂から引き上げてやる。表面に付着した細かい粒子を払い落として差し出せば、タクトは横から攫うように奪っていった。
 鞄を盾として胸に抱き、怪我をした野良猫のように全身の毛を逆立てて人を威嚇する。
 フーフー言っている彼に相好を崩し、スガタは暮れ始めた空を仰いで気持ちよさそうに風を受けた。
 暖かな季節だけれど、夜になれば空気は冷える。海辺ならば、尚更だ。
「そろそろ帰ろう。夕飯は、どうする?」
「う、……食う」
「そうか。歓迎するよ」
 完全に日が沈んでしまう前に移動を済ませないと、夜道は暗くて危ない。早口に捲し立てたスガタに微笑まれて、タクトは目を合わさないままぼそりと言った。
 こうも嬉しそうにされると、あらぬ事を考えてしまいたくなる。だが栄養価重視の寮の夕食に比べ、味と量を優先させたシンドウ家の夕飯に対する魅力が、彼の懸念を呆気なく吹き飛ばした。
 まだ島の地理に疎いタクトの為と、先に立って歩きだしたスガタを追い掛けるべく、彼は砂だらけの靴を脱いで中身を放り出した。
 ザッと流れ落ちた白い砂は、夕焼けを浴びているからか、ほんの少し紅に染まっていた。
「今のは、人工呼吸じゃない」
 了解は求められなかった。だけれど、逃げようと思えば逃げられた。
 拒否しなかったのは、自分だ。
 最後の一粒が落ちるのを見送って、タクトは先に歩道に上がった背中を探し、口を開いた。
 しかし問おうとしていた内容があまりにもアレだったので、結局言わずに済ませ、靴を履き直した。靴下に張り付いていた砂利の違和感に小さく舌打ちして、強く一歩を踏み出す。
 ワコとのあれは人工呼吸でしかなくて、キスではない。
 では今のあれは。
 男同士のアレは。
「カウントに入るかなんて、……訊けるわけないだろっ」
 振り切るように叫び、彼は。
 石段の三段飛ばしに失敗して、瞬くには少し早い星を頭上に散らした。
 

2010/11/23 脱稿