「ハッピーハロウィーっン!」
「……はい?」
玄関のドアを開けた瞬間、そこに待ち構えていた子供達の大合唱に、綱吉は目を点にした。
大嫌いな勉強をしに学校に行って、やっと全授業を終えて帰ってきたばかりだ。くたくたに疲れ果てた頭は糖分が足りておらず、全身を覆い尽くす倦怠感もあってまともに機能していない。
そんな中で騒々しい出迎えを受けても、ちびっ子達が期待するようなリアクションが取れるわけが無い。それどころか呆気に取られてドアから手を滑り落としてしまって、折角開けた扉が閉まってしまった。
パタン、と目の前で塞がった玄関にハッとして、慌てて手を伸ばす。しかし彼がノブを掴むより早く、ドアは内側から開かれた。
「ツナ兄、酷いよー」
真っ先に顔を出したのは最年長のフゥ太で、仔犬めいた瞳を曇らせた彼は開口一番、反応が芳しくなった綱吉を咎めた。
そうは言われても、いきなりすぎて何がなんだか分からない。苦笑で場を誤魔化そうとしたが効果はなくて、彼は頭を縦に並べた子供達に肩を竦め、降参だと両手を挙げた。
退いて貰って屋内に入って、鞄を置いて靴を脱ぐ。その間も子供達は、意気揚々とその場に残り、なにやら期待に満ちた眼差しで綱吉を見詰め続けた。
「で?」
薄汚れた運動靴を揃えて立ち上がり、綱吉は鞄を開けて弁当箱を取り出した。台所に持って行く道中も彼らはわらわらと後ろをついて回って、終始にこにこしていた。
話を向けるが彼らは笑うばかりで、その格好も、ドアを開けた瞬間に聞こえた台詞の意味も、なにも教えてくれなかった。
「なんなんだよ、もう」
「ハロウィンよ」
母に空の弁当箱を手渡し、意味不明な子供達の服装に眉を顰めていたら、急に後ろから声が聞こえて綱吉は驚いた。おっかなびっくり振り返れば、緩やかにウェーブした髪を弄るビアンキがそこに立っていた。
男を誘惑してやまない婀娜な瞳に、紅色の鮮やかな唇。化粧はいつもより濃い目で、身体のラインがくっきり出るセクシーな洋服の背中には、何故か蝙蝠のような羽が生えていた。
そして彼女が抱きかかえる赤ん坊もまた、白い羽根を背中にくっつけていた。
天使の輪を頭上に頂いたリボーンが、人を馬鹿にしたような笑みを浮かべて頬を緩めた。
「お前まで」
奇妙な仮装をしていないのは中学校の制服の綱吉と、エプロン姿の奈々だけだった。
お陰で普通の服装をしている奈々が妙に浮いてしまっている。だが彼女はあまり気にしていないようで、逆に楽しげに微笑んだ。
「みんな可愛らしくて、素敵ね」
あまつさえそんな呑気な事を口にして、息子を大いに落胆させた。
ハロウィンという言葉自体には、聞き覚えがあった。
コンビニエンスストアに行くと、菓子コーナーにその文字が見える。オレンジ色を多用したディスプレイには、魔女の帽子を被ったかぼちゃの顔が頻繁に登場した。
大型遊園地でも最近力を入れているようで、参加者が仮装をしたら割引、という話もたまに耳にした。
けれど、知識としてはそれくらいだ。この祭りが具体的に何をして、どうするのか、という事までは、綱吉は興味が無かったので調べてもいない。仮装をするのも、遊園地にいく人たちだけだと思っていた。
「勉強不足ね」
「はいはい、悪るうございました」
嘆息交じりにビアンキに言われても、ムキになって言い返す気にすらならない。
子供がお化けの格好をして楽しむイベントなど、正直どうでもよかった。
「なぁに、拗ねちゃって。心配しなくても、ツナの分もちゃんと用意してあるわよ」
半ば投げやりに言葉を返し、人でごった返して窮屈な台所を出て行こうとする。ビアンキの引きとめる台詞も、本当なら耳を貸すつもりはなかった。
だけれど好奇心に負けて、彼は廊下に出たところで振り返った。
腕に抱かれた赤ん坊が、不遜な顔で笑っているのが妙に癪に障る。キューピット、のつもりなのだろう。真っ白い衣装を身に纏ったリボーンは、ハート型の弓と矢まで手にしていた。
細部まで非常に凝っている。ビアンキの服装は、背中の羽の形状と色からして、悪魔のつもりなのだろう。
フゥ太はマントを羽織り、口を開けば鋭い牙が見えた。白いシャツはレースがたっぷり使用されており、光沢ある黒ズボンとの相性がいい。
吸血鬼という単語が頭を過ぎる。イーピンはいつもより丈の長い中華服を着て、額にお札を貼り付けていた。なんの仮装なのか綱吉には分からなかったが、六角形の赤い帽子がなんとも可愛らしかった。
ランボはというと、イーピン以上に謎だった。
「俺のって、なに」
いつもの牛柄の服よりも、黒の斑点が細かかった。布は茶色で、チーターかなにかをイメージさせるものの、角はいつも通りなのでなんとも表現し難い。
あんなへんてこりんなものは嫌だと思いつつ訊ねると、ビアンキは綱吉を隣のリビングへ誘導し、ドアを開けた。
いったいどこで調達してきたのか、中には大振りの衣装ケースが置かれていた。
「さあ、好きなのを選ぶといいわ」
「ちょっと待ったあ!」
意気揚々と叫んだ彼女に反射的に突っ込みを入れて、綱吉はカーテンが引かれたリビングを指差して頬を引き攣らせた。
ケースに並んでいたのは、子供達が着ているような可愛らしいものではなかった。
「あら、なにが不満? 貴方に似合いそうなものを選んだつもりなんだけど」
「って、待ってよ。何考えてるんだよ。不満って、そういうレベルじゃないだろ」
軽くなった鞄を床に投げつけ、綱吉はあまりに理不尽な彼女の物言いに牙を剥いた。
吊るされていたのはいずれも女性向けの、仮装というよりはコスプレと呼ぶ方が相応しい色物系ばかりだった。
「贅沢言わないの。こういう機会でもなければ、着ることもないでしょう?」
「こういう機会でも着る必要はないだろ!」
綱吉が何故怒っているのか、彼女は理解し難いと言って頬を膨らませた。リボーンを床に下ろしてハンガーのひとつを手に取り、自分の身体に添わせて見せてくれたのは、スカート丈も短い女性警察官の制服だった。
他にも白衣の天使ことナース服や、飛行機の客室乗務員の制服まであった。どれもこれも女性用で、太腿丸出しのぎりぎりサイズばかり。
対する綱吉は、れっきとした男だ。
フゥ太たちとは明らかに毛色が異なる衣装に、リボーンの悪戯心が見え隠れする。綱吉は楽しげに笑っている家庭教師の赤ん坊を睨み付けると、後ろでハラハラしている子供達を捨て置き、荒々しい足取りで階段を登っていった。
いったいぜんたい、リボーンはどういうつもりだったのか。人が嫌がる事をわざとやっているとしか思えなくて、腹立たしくてならなかった。
「あー、もう」
苛々しながら二階へ上がり、ドアを開けて部屋に入る。後ろからパタパタ言う足音が追いかけてきて、綱吉は戸を閉めるのだけは思い留まった。
両手が空なのを今更思い出して、しまったと後ろを振り返る。
「ツナ兄」
駆け込んできたフゥ太に、その大事な忘れ物を差し出され、彼は溜飲を下げた。
「ありがと」
九歳の彼には少し重いだろう鞄を受け取り、奥の机に置く。
着替えようとネクタイを紺のベストから引き抜いた彼は、まだ其処に立っていた弟分に小首を傾げ、肩を竦めた。
「フゥ太、どうした?」
「ツナ兄は仮装パーティー、しないの?」
オシャレ、とは若干異なるものの、真新しい衣装に身を包んで畏まっているフゥ太が恐る恐る問いかける。マントを広げてみせた彼に綱吉は苦笑して、丸みを帯びた頭をぽんぽん、と撫でてやった。
黄檗色の髪の毛を揺らして、フゥ太は子ども扱いを嫌がって頬を膨らませた。
「俺は、うん、良いや。やめとく」
「どうしても?」
「うん。遠慮しとく」
綱吉も小さい頃、テレビ番組のヒーローに憧れて、ロボットが印刷されたシャツを好んで着ていた。当時はあれを着るだけで強く、大きくなれるものと思い込んでいた。
実際は、そんな事にならなかったけれど。
しつこく衣装変更を強請るフゥ太に手を振り、綱吉はネクタイの結び目を解いた。指を入れて引き抜き、一本の細長い布に作り変えて皺にならないよう手で伸ばす。
これ以上駄々を捏ねても無駄と悟ったのか、フゥ太は下膨れた顔をした。
「ツナ兄はハロウィン、嫌い?」
「嫌いっていうか、よく知らないし。なにするんだ?」
不貞腐れた声で聞かれて、綱吉はベストの裾を引っ張り上げつつ首を傾げた。照明の灯らない部屋は薄暗くて、彼は左の腕を抜いてから壁際に歩み寄り、窓を覆っていたカーテンを一気に広げた。
急にまぶしくなって目を細めたフゥ太は、ちょっと考え込んで綱吉との距離を詰めた。
「ふはっ」
学校指定のベストを脱いだ綱吉は、気がつけば目の前に迫っていたフゥ太に目を丸くした。
ハロウィンは元々外国の祭りだ。日本でも最近話題に上るようになり、この数年で認知度は急激にあがった。年を追うごとに各方面で賑わいは増して行っているけれど、具体的に何をどうするかについては、詳細が広く知られているとは言い難い。
その点、フゥ太は本場のイタリア出身だ。
期待をこめた目で下を見た彼は、けれど予想外に膨れ面のフゥ太に首を傾げた。
「どうした?」
「僕もあんまり知らないもん」
「そうなの?」
てっきり経験者だとばかり思っていたので、綱吉は素直に驚いて目を丸くした。
元々ハロウィンが盛んなのはイギリス、そしてアメリカだ。イタリアで催されるようになったのは最近のことで、歴史としては日本と同様、浅い。
林檎の頬をへこませたフゥ太は、妙に感心している綱吉にむっとして、小さな手を広げた。
「でもこれは知ってるもん」
そう言って、掌を上にして突き出す。
「Dolcetto o scherzetto ?」
耳慣れない言葉を口遊まれて、綱吉はきょとんと首を傾げた。
またもや芳しくない彼の反応に唇を噛んで、フゥ太は尚も手を前に突き出し、咳払いをひとつ挟んで言い直した。
「Trick or Treat ?」
肌理細やかな指先は白く、彼が人種的に綱吉とは異なっているのだと教えてくれた。穏やかな容貌も、今はただ愛らしいだけだが、大きくなるにつれて男らしさを増すのだろう。
イタリアに居る兄貴分のディーノが何故か思い浮かんで、綱吉は聞こえた台詞に眉を顰めた。
「とり……なに?」
「トリックオアトリート?」
聞き返すと、じれったげに繰り返された。しかし耳覚えのないひと言にピンと来るものはなくて、彼はただ不思議そうに異国で生まれ育った少年を見詰めた。
どこまでも反応の鈍い綱吉に不満げな表情をして、フゥ太は喉の奥で唸り声を発し、広げた右手を上下させた。
胸を衝く寸前まで突きつけられて、犬のお手ではないが、思わずペチン、と叩いてしまう。そのまま握手したら、痺れを切らしたフゥ太に足を踏まれた。
「いって」
「むうぅー」
慌てて足を引っ込めた綱吉の悲鳴を無視して、膨れ面でもう一度、呪文のような言葉を繰り返す。が、綱吉は相変わらず首を傾げるばかり。
望む結果が得られなかったのに憤慨して、彼は窓の外にちらりと見えた影にも頬をぷっくり膨らませた。
「悪戯するよ!」
「え?」
悔しそうに地団太を踏んだかと思えば、彼は急に怒鳴って綱吉に向かって伸び上がった。
身長差を埋めるべく爪先立ちになって、袖のフリルをはためかせながら腕を目一杯伸ばす。胸からぶつかって来られて、綱吉は咄嗟に受け止めるべく彼の腰に手を回した。
「いでっ」
その瞬間、右の肩に強烈な痛みを覚え、綱吉は情けない悲鳴を上げた。
大口を開けたフゥ太が噛み付いたのだ。
吸血鬼を模倣する際につけた牙は、作り物とはいえ頑丈で、硬い。それががっぷり肉にめり込んだのだから、苦痛は相当なものだった。
固定が甘かったのか、フゥ太が身を引くと同時に偽者の牙はあっさり外れてポロリと落ちた。
自由になった右手でシャツの襟を引っ張り、患部を確かめると、見事に二箇所、虫刺されの痕のように赤い点が出来上がっていた。日焼けしていない肌との違いは明確で、見るからに痛々しい。
顎を引いて瞳を下向け、布に隠れ気味の傷跡を労わるように撫でる。シャツにはフゥ太の涎まで染み込んでいて、ほんのり湿っていた。
「お前なー」
「だって、ツナ兄がお菓子くれないんだもん」
「は?」
「僕、ちゃんと言ったよ? お菓子くれなきゃ悪戯するよ、って」
目を吊り上げて怒鳴るが、フゥ太も負けじと綱吉を睨んで叫んだ。拗ねている幼子に眉を顰め、綱吉は先ほど彼が繰り返していた呪文を思い出した。
英語は苦手だ。学年最下位をぶっちぎりで獲得している彼に、ネイティブな発音を理解しろ、という方が無謀すぎる。
しかしフゥ太は駄々を捏ねて自分の主張を押し通し、最後にはあっかんべー、と舌を出した。
「ツナ兄の、ばーっか」
「フゥ太、こら!」
言われっ放しは腹が立つ。捨て台詞を吐いた弟分につい拳を振り上げた綱吉だったが、年下を殴るのは大人気ないと理性が止めに入って、彼の右腕は何もしないまま静かに下ろされた。
その間にフゥ太は足音響かせて部屋を出て行った。ぱたぱたと階段を駆け下りていく音が、ドアの隙間から聞こえた。
「あー、もう……いってて。なんなんだよ、アイツ」
彼に噛まれた場所を左手で包み、周囲を揉み解すようにして指に力をこめる。ついでに首を左右に振ると、コキコキと骨が鳴った。
よくよく考えてみれば、フゥ太が口にした呪文には聞き覚えがあった。テレビ番組だったか、それとも誰かが喋っているのを聞いたのかはあやふやだけれど、ハロウィンにはつきものの文言だと、今頃になって思い出した。
「とりっく、おあ、とりー……と?」
異国の発音が巧く際限出来なくて、妙にたどたどしい口調で呟く。意味は、フゥ太が言っていた。
お菓子をくれなきゃ、悪戯するぞ。
どうしたらこの語句でそういう意味になるのかをぼんやり考えて、彼は首に手を置いたままくるりと反転した。
「ぎゃっ」
そうして目の前に現れた窓を塞ぐ人物に、飛びあがらんばかりに驚いた。
「な、なにしてるんですか。ヒバリさん」
室外機を置いただけの狭いベランダに、黒衣の青年が酷い形相で立っていた。窓ガラスに左の掌を押し当てているので、指の腹は潰されて、吸盤のようにガラスに張り付いていた。
怒ってるように見えるが、同時にショックを受けているようにも見えた。なんとも複雑な表情を浮かべた彼に焦り、綱吉は慌てて駆け寄って窓の鍵を外した。
横にスライドさせて外と内とを繋ぐと、途端に涼しい風が彼の頬を撫でた。
煽られた髪の毛を押さえ、斜め上を仰ぐ。雲雀はじっとして動かず、時々なにか言おうとしてか口を開いた。
けれど待っても音は響かず、色の悪い唇は静かに閉ざされた。
「ヒバリさん?」
「……君って、そういう趣味?」
こんな雲雀は珍しくて、綱吉は怪訝に顔を顰めた。そうしたらいきなり言われて、面食らった彼は絶句し、直後に頭痛を覚えて頭を抱え込んだ。
「そうです、って言ったらどうするつもりですか?」
どうやら雲雀は、綱吉がフゥ太に噛まれる瞬間を目撃したらしい。
吸血鬼の仮装をした子供に襲われる恋人、という図は、この雲雀をして幾らか衝撃的だったようだ。綱吉が冷めた口調で淡々と問いかけたのでようやく落ち着きを取り戻し、肩を竦めて右手を伸ばす。
左の耳を触られて、綱吉は彼の指の冷たさに肩を強張らせた。
「浮気ってことで咬み殺すけど、いい?」
同時に紡がれた冷淡なひと言に頬をヒクつかせ、思いの外優しい笑顔にホッと胸を撫で下ろす。
危うく真に受けるところだった。綱吉は笑みを浮かべて首を振り、彼の手に擦り寄って迫り来る冬の気配の中、訪ねて来た雲雀の指先を温めた。
「さっきのは、何?」
「ハロウィン、らしいですよ」
猫のようにゴロゴロ喉を鳴らした綱吉を面白がり、雲雀は蜂蜜色の髪にも指を絡めた。軽く引っ張って顔を上げさせて、琥珀の目を覗きながら問いかける。
綱吉は即答して、呵々と笑った。
楽しげな彼に目を細め、雲雀は窓越しに睨んできた少年を思い出し、肩を竦めた。
あれは完全に、自分に対する当て付けだった。フゥ太が舌を出した相手が本当は誰である事を、雲雀はちゃんと認識していた。
吸血鬼の仮装をして、白い柔肌に首筋に牙を衝きたてる。登場人物を己に変換した情景を想像するだけで、なんとも言い難い気持ちになった。
「ハロウィンね」
「知ってます?」
そんな雲雀の複雑怪奇な心境を知らず、綱吉は相槌を打った彼に問いかけた。
興味津々な眼差しはキラキラ輝いて、眩しい限りだった。
群れるのを嫌う雲雀だけれど、一応年間行事のひとつとして、ハロウィンくらいは把握していた。そういうイベントが近付くにつれて、浮き足立つ人間が増えるからだ。
クリスマス然り、正月然り。雲雀にとって、それらは風紀委員の活動が忙しくなるだけの、鬱陶しいものでしかなかった。
ただ綱吉は楽しみにしているようなので、口に出して言ったりはしないけれど。
満面の笑みを向けた彼に肩を竦め、雲雀は窓枠に手を置いた。すかさず彼に道を譲り、綱吉が後退する。
阿吽の呼吸でタイミングを計り、雲雀は靴のまま桟を跨いで室内に爪先を下ろした。
フローリングに着地すると、綱吉の表情が少しだけ翳った。彼が言いたい事は即座に読み取れて、雲雀は叱られる前にと靴を右から脱いでいった。
左手でぶら下げたそれをベランダに戻して、右肩からずり落ちた制服を撫でて元に戻す。窓を閉めたのは、綱吉だった。
「君はしないの?」
ベッドの上に放り出されたベストに目をやって、雲雀は白いカッターシャツ姿の彼に問いかけた。綱吉はちょっと驚いたように目を丸くしてから、照れ笑いを浮かべて首を振った。
「着ませんよー。冗談じゃないや」
言い返す最中に、階下でビアンキたちに見せられた衣装の山を思い出してしまって、ついつい悪態をつく。ぼそりと吐き捨てられた一言に小首を傾げ、雲雀は腰に手をやった。
不思議そうに見詰められて、綱吉は居心地の悪さを覚えて身を捩った。
「ヒバリさんこそ、ハロウィン、しないんですか?」
誤魔化しに問いかけるが、言ってからあまりにも愚問過ぎると気付いて、彼は自分が嫌になった。
雲雀がこの手の騒ぎに参加するわけがない。誘ったところで絶対首を縦に振らないのは、過去の経験で繰り返し学んできた。
だというのに彼は何故か今回に限ってちょっと迷う素振りを見せた。
「そうだね」
顎に指を引っ掛け、思案気味に眉を寄せる。思ってもみなかった反応に綱吉はドキッとして、両手を心臓に重ねあわせた。
「君が着替えるっていうのなら、考えてもいいけど」
仮装したまま町を出歩くのは嫌だが、この部屋内限定で、綱吉も付き合うならば構わない。言葉尻にそれだけの情報を詰め込んだ彼に、綱吉の頬はみるみる紅潮して行った。
感動と興奮と歓喜、そして幾許かの羞恥。
嬉しいのに気恥ずかしくて、素直に喜べない自分にもじもじし、彼は俯いて両手の指を弄り回した。
「なんで、また。急に」
「僕が見たいから」
「へ?」
「君が可愛い格好しているところ」
どういう心境の変化なのか。自分から騒動に首を突っ込みたがらない彼の、珍しく積極的な発言に戸惑っていたら、顎を掬われて無理矢理顔を上向かされた。
至近距離から目を覗き込んで囁かれ、綱吉は窒息死しそうになった。
一体全体、どういう風の吹き回しだろう。ひょっとして熱でもあるのかと心配になって、恐る恐る手を伸ばし、雲雀の額に貼り付ける。
「なに」
「……なんでもありません」
だが特に熱いとは感じず、むしろ大丈夫かと思うくらいに冷たかった。
彼は冬場でもカッターシャツに学生服という軽装で過ごす。どんなに寒くても絶対に厚着をしない。動き難くなるのが嫌だと本人は言うが、傍から見ている方は風邪を引くのではないかと不安でならなかった。
こじらせて病院に入院、というのは嫌だ。思い出して頬を膨らませた彼は、雲雀から離れ、ベッドに腰を下ろした。
ボスン、と跳ね上がった身体を布団に沈め、足を投げ出してぶらぶらと揺らす。
「どうするの?」
膝の間に両手を入れて握ったところで急かされて、彼は半眼し、階下で見た家族の格好を脳裏に呼び起こした。
悪魔の衣装のビアンキに、天使の格好をしたリボーン。このふたりは兎も角として、フゥ太のような吸血鬼の格好なら、雲雀にとても似合いそうだった。
目の前に佇む青年を見上げながら、脳内で服装だけ入れ替えて想像する。学生服の代わりに黒いマントを羽織らせるだけなので、空想はなんとも容易だった。
口を開いた彼の犬歯につい目がいって、綱吉は無意識に、フゥ太に噛まれた場所に手をやった。
湿り気はとっくに乾き、もうなにも感じない。痛みも消えて、記憶だけが残された。
「沢田?」
「俺だって、ヒバリさんのカッコイイの見たいけど」
美人、の形容詞さえぴったり来る雲雀だから、何を着せても絶対に似合う。雲雀が自分の為に服装を変えるというのは、なんとも魅力的な誘い文句だった。
だが問題もある。
用意されていた衣装の多くは女性向けの、丈の短いものだった。
いくらなんでも彼にあれらを着せるわけにはいかない。
せめてフゥ太が雲雀並みの体格をしていたら、彼からひん剥けたのに。本人が知ったら怒り出しそうな事を考えて、綱吉は深い溜息を吐いて顔を伏したまま首を振った。
「やっぱダメです。ヒバリさんに着せられる服が、なーい」
じたばたと足を交互に揺らして暴れ、悔しそうに叫ぶ。危うく蹴り飛ばされるところだった雲雀は後退して肩を竦め、口を尖らせて不満げな綱吉に目を細めた。
想定内の返答に、綱吉に気付かれないよう心の中でホッと息を吐く。
ドラキュラやフランケンシュタインならばまだ良いが、狼男やマミーを出してこられたらどうしようかと、ほんの少し不安だった。
沢田家での出来事だから、どうせあの赤子が一枚噛んでいるのに違いない。人の予想の遙か上を行く事を平然とやってのけるリボーンの考えだけは、雲雀でもなかなか読みきるのが難しかった。
「じゃあ、君の分はあるの?」
「着ろ、とは言われましたけど。でも。でもでも、でも」
帰宅早々のやり取りは、思い出すだけで鳥肌が立つ。ゾワッと来る悪寒に襲われて己を抱き締めて、綱吉は期待に胸膨らませている雲雀を上目遣いに睨んだ。
足を前に投げ出して空気を蹴り飛ばし、膝をもぞもぞさせて顔を背ける。
雲雀は少しもじっとしていない彼に相好を崩し、その場にしゃがみ込んだ。
身長差が逆転して、俯いた綱吉の視界に雲雀が紛れ込んだ。
「沢田?」
リボーンがいったいどんな衣装を用意していたか、早く教えるように強請られる。底抜けに楽しげな彼を見ているうちに段々哀しくなって、綱吉は鼻を愚図らせ、奥歯を噛み締めた。
あんなのは着られない。
着たくない。
「だって、あんなの着たら、俺、……変態じゃないですか!」
「ん?」
猫耳か、犬耳か、とその辺の想像をしていた雲雀は、頭の上を駆け抜けて行った想定外の返答に目を丸くし、唖然とした。
拳を震わせた綱吉は、肩を怒らせ、涙目で人を睨んでいた。ひっそり冷や汗を流した雲雀は振り子のように首を左右に揺らし、今し方聞こえた台詞を何十回となく頭の中で再生させた。
「へんたい?」
「そうですよ。あんな、全部、女の子の格好じゃないですか」
雲雀はリビングに用意された衣装の数々を見ていないので、綱吉が何を指して怒っているのかがさっぱり分からない。だが話を聞くうちに少しずつ理解出来て、彼は苦笑し、顔の右半分を手で覆い隠した。
笑いたいが、笑ったら綱吉はきっと、もっと怒る。
「スカート?」
「セーラー服、とか。ナース服、とか。メイド服、とか。俺、そんな趣味ないもん」
他にも超ミニのチャイナ服や、チアリーダーの衣装もあった。指折り数えていく間も腹が立ってならず、綱吉はひとり煙を吐き、悔しそうに布団を殴りつけた。
パイプベッドがギシギシ言って五月蝿い。そのうち壊れるのではないかと危惧して、雲雀はやめさせるべく膝を起こした。
「沢田」
「ヒバリさんも、そういうの着た俺、見たいんですか?」
しかし差し伸べた手は、触れる寸前で弾かれてしまった。
真剣な目で質問されて、咄嗟に返す言葉が見付からない。なお悪いことにうっかり目を逸らしてしまって、気がつけば足元から凄まじい怒気が立ち上っていた。
ちょっと見てみたいと思ったのは、嘘ではない。綱吉は男としては小柄で、線も細いので、女性向けの服も問題なく入ると思われた。
きっと可愛かろう。脳裏を過ぎった妄想は、されど綱吉には不満だったらしい。
「ヒバリさんの、助平!」
「こら」
罵声と共に殴りかかられて、雲雀は急いで防御に転じ、狼藉を働いた手を受け止めた。
手首をしっかり握られて、前にも後ろにもいかない。力負けしている自分にも腹を立てて、綱吉はもう片手で雲雀の胸を衝いた。
けれど踏ん張った雲雀はビクともしなかった。
同じ男なのに、ひとつしか歳も違わないのに、こうも差をみせつけられると悔しい。苛立たしげに唇を噛んだ綱吉を冷めた目で見下ろして、雲雀は捕まえた両手をぐっ、と上に押し上げた。
「うわ」
そのまま体重を乗せて後ろへ押し倒し、自分もベッドに上がりこむ。
閉じる暇のなかった脚の間に膝を捻じ込んで、雲雀はうろたえて顔を赤くした綱吉に目を眇めた。
「僕も男だからね」
当たり前の事を言って舌なめずりをする彼の表情は、横から射す光を浴びて、妙に艶っぽかった。
息を飲んだ綱吉が、次に続くはずだった言葉を想像して目を逸らす。下半身に圧迫感を覚え、なにかと思えば雲雀の膝が綱吉の太腿に乗り上げていた。
痛くない程度に加減されているが、否応無しに緊張が高まって、鳥肌が立った。
顔を寄せた雲雀が上に来ていた耳朶に唇を近付け、そっと息を吐く。肌を擽る熱はしっとりと濡れて、いつまでも其処に留まり続けた。
「助平な僕は嫌い?」
しめやかに囁かれた言葉に慄然として、ハッと上を見れば雲雀が意地悪く微笑んでいた。あと数センチ沈めばくちづけも叶う距離から見下ろされて、綱吉は居た堪れなくなった。
顔ばかりが赤く、熱くなる。琥珀は潤み、今にも融けてしまいそうだった。
奥歯を噛み鳴らし、綱吉は鼻を膨らませた。このまま押し倒されて、雲雀の好きにさせるのも癪だった。
「は、……ハロウィン、するんでしょ!」
どさくさに紛れて胸を弄りだした手を叩き落とし、声を大にして叫ぶ。どもり気味の主張に雲雀は右手を振り、痛みを誤魔化して口を尖らせた。
そのハロウィンで、綱吉は仮装を断ったばかりだ。他になにをするのかと目で問われて、彼は口篭もり、鼻を愚図つかせた。
フゥ太は何と言っていただろう。必死に記憶を掻き集め、ばらばらになったパズルのピースを組み合わせていく。
ふっと閃いて、目の前が明るくなった気がした。
「トリックオア!」
ハッとして叫んだ彼に驚き、雲雀は咄嗟に身を引いて飛んできた唾を避けた。
真上が開けて、呼吸が少し楽になった。深く吸って吐き出して、綱吉は途中でつっかえてしまったハロウィンの呪文にクエスチョンマークを飛ばした。
この後はなんと言うのだったか。すっぽ抜けてしまった正解を探して手を泳がせて、彼はぽん、と落ちてきた単語に心を弾ませた。
「あ、ト、トリートメント!」
「……ふっ」
なんだかちょっと字数が多いかと思いつつ叫んだら、目を丸くした雲雀が一瞬停止した後に噴き出した。
背中を丸めて手で表情を隠してはいるが、明らかに笑っている。小刻みに震える肩がなによりそれを証明していた。
間違った言葉を堂々と、大声で言ってしまった。綱吉の顔はみるみる赤くなり、耳の先まで朱色に染まった。
雲雀は腹を抱えて苦しそうに身を捩り、勝手に溢れた涙を拭って顔を上げた。
「トリート?」
「そう。それ!」
トリートと、トリートメント。確かに同じ語句が単語の中に隠れてはいるけれど、両者には天と地ほど差があった。
どうして間違えられるのだろう。不思議でならないけれども、そういうところが綱吉の魅力のひとつだと、雲雀は思う。
元気良く頷いた彼を撫でてやれば、子ども扱いを嫌がって逃げられてしまった。ベッドの真ん中でストン、と腰を落として座った彼は、警戒心を滲ませつつ雲雀を睨み、わざとらしく咳払いをして胸を叩いた。
手を広げ、伸ばす。
「トリック、オア、トリート!」
そうして今度は間違えないようにゆっくり、丁寧に言った。
お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ。
お決まりの語句に肩を竦め、雲雀は制服のポケットを順に引っ張りだした。
携帯電話、鍵、ハンカチ。それ以外なにも出てこなかった。
「ぬあ」
「残念でした」
大体、雲雀が菓子を持ち歩いていると思う方が可笑しい。すげなくあしらわれた少年はショックを受けて黙り込み、一方手持ちの品を全て披露した青年は、心持ち楽しげに並べた荷物を片付けていった。
身なりを整え直し、小さくなっている綱吉との距離をずい、と狭める。
「それで? しないの?」
お菓子をくれなかったので、悪戯をしなければいけない。
綱吉が自分で、そう言ったのだ。
何故か悪戯をされる側に意気揚々と訊かれて、綱吉は押し黙り、弱りきった表情をして彼の手を軽く抓った。
まるで痛くない、随分と控えめで可愛らしい悪戯に、雲雀はがっかりした様子で肩を竦めた。
そうしてやおら身を乗り出して、
「Trick or Treat?」
早口に言った。
「え?」
聞き取れなかった綱吉が目を点にして雲雀を凝視する。意味深な笑みを浮かべて目を細めた彼は、今度はゆっくりと、ひと言ずつ区切って囁いた。
頭の芯に響く低い声にくらくらして、綱吉はとことん意地悪な彼に鼻を膨らませた。
「知ってるくせに」
同じ質問をフゥ太にされた後どうなったか、雲雀も見ていたはずだ。
聞く前から答えは分かりきっていたのに、それでも敢えて問うた彼を恨めしげに睨み、綱吉は空っぽの手を彼に見せた。
そうして腕を伸ばして肩に縋り、距離を詰めて抱き締める。
「お手柔らかに、お願いします」
せめてもの慰めに強請り、迫り来る影を受け止めるべく目を閉じる。
本物のハロウィンがどんなイベントなのかは、来年まで分かりそうにない。
2010/10/25 脱稿