慰撫

 自宅に通じる道を曲がる直前、幅の狭い交差点を突っ切っていった黒い車を見た。
 どことなく覚えのあるフォルムと、一瞬ながら漂った風格とでも言おうか、兎も角そういう雰囲気から、ある程度の予想はしていた。もしかしたら、という漠然とした期待めいた思いは、玄関の扉を開けた瞬間に見事確信に切り替わった。
 家光のものとは明らかに違う、大きな靴。山本も足は大きい方だがここまでではないし、何より靴に用いられている材質やデザインが、日本のとある小都市に暮らす中学生の身につけるものとは大きく異なっていた。
 綱吉はあまりその方面に詳しくはないけれど、見た感じ、並べられている子供達の靴と比べても何かが違っている、というのはありありと感じられた。
 駅前商店街の安売り靴店で山積みされている大量生産品とは異なるなにかが、玄関の片隅に雑然と並べられた靴にはあった。
 もっとも持ち主にすれば、そこまで過大評価されるものではない、と言うのだろう。熱心に語り聞かせたところで、大袈裟だと一蹴されてお終いの気がする。
 それはそれで、少し切ない。
 彼は充分格好良いのに、本人があまり己というものに頓着していないのが、他人事ながら悔しい。
「勿体無いよなぁ」
 折角デザインも良く、上質の素材を使用して仕上げられている靴は、ただ残念なことに端が擦り切れ、靴紐も黒ずんでボロボロだった。部下の人たちがもうちょっと気を使ってくれても良かろうに、黒服の団体様は総じてボスたる青年に甘い。
「ただいまー」
 小さく舌打ちして、綱吉は空気を蹴り上げた。奥に向かって大声で帰宅を告げて、自分も靴を脱いでいく。
 右から先に、続けて左を脱いで、ひとまとめにして最初に見つけた大きな靴の隣に並べる。こうして見下ろすと、自分の履いていたものが随分と小さく見えた。
 ランボたちの分は、さながらミニチュアだ。上下がひっくり返っている玩具みたいな靴を揃えてやってから上がり框に足の裏を置くと、声を聞きつけた子供達が台所から順々に顔を出した。
 一番低い位置にイーピン、その上にランボ、フゥ太、そしてディーノの順に、縦に並んでいる。甲羅干し中の亀の親子の図を思い出したが、あれは大きいのが下に来るから、順序が逆だ。
「ツナ兄、お帰りー」
「回来了!」
「ツナ、おかえ――ぐおっ!」
 もっとも、空想に思いを馳せられたのは一瞬だけだった。一斉に出迎えの言葉を発した面々のうち、ディーノの眩い金髪の上に、リボーンが助走もなしに飛び乗ったのだ。
 首がもげそうになった彼が聞き苦しい悲鳴をあげて、擬似トーテムポールはあっという間に形を崩してしまった。
「あー、こらー。リボーンだけ、ずっるいぞー」
 肩車してもらう格好になっている赤子に気付いたランボがすかさず不平を言い、拳を突き上げて何故かディーノの足に殴りかかった。ポカスカ叩かれて、若きキャバッローネのボスたる人物は苦笑を浮かべてリボーンを肩から下ろした。
 入れ替わりにランボを抱えあげてやり、未だ玄関口で立ち尽くしている綱吉に淡い笑みを浮かべる。
「おかえり」
「あ、ただいま。……いらっしゃい」
 言う順番がちぐはぐになってしまった。多少の気恥ずかしさを噛み殺し、綱吉は前触れもなかった来訪者に微笑みで返した。
「うひゃひゃー。たかーい、たかーい。どーだ、リボーン。うらやましいだろー」
 一方で、ディーノに肩車をしてもらったランボが、一瞬にして上機嫌に笑って地上に佇むリボーンを睥睨した。彼が偉くなったわけでもないのに得意げにして、歯を見せて嫌味を声高に繰り返す。
 屋内でもボルサリーノを被った赤子は、呆れ顔で肩を竦めると、ディーノを手招いて台所に入るよう指示した。
 直後だ。
「うぎゃ!」
 綱吉の目の前で、ディーノの肩にいたランボが床に落ちた。
「え? あ、悪りぃ」
 突然のことに驚いたのは本人だけではなくて、肩を貸してやっていたディーノも、前触れもなかった出来事におっかなびっくり目を丸くしていた。先に台所に入っていたイーピンやフゥ太も、なにが起きたのか分からずにいる。
 後ろに居た綱吉だけが、ことの有様を目撃していた。
「あー、あぁ」
 空笑いを浮かべ、頬を掻いて背中に冷や汗を流す。リボーンはこうなるのを予想して、ディーノを呼んだのだろう。大人気ない赤子の仕返しに薄ら寒いものを感じ、綱吉は床に蹲って泣きじゃくっている幼子に近付いて抱き上げた。
 頭から落ちたので、後頭部には大きなタンコブが出来ていた。そして、もうひとつ。
 台所のドアの上辺で打った額が、痛々しいまでの赤色に染まっていた。
 沢田家は日本人の平均サイズで設計されているので、イタリア人であるディーノには小さいものが多々あった。ドアの尺もまた、そのひとつだ。
 なんとか屈まずとも通り抜けられる高さはあるが、それは彼がひとりの時だけだ。肩車してもらっていたランボは、残念ながら許容範囲外だった。
「あー、もう。泣くなってば」
「うぐ……が、ま、ん」
「そうそう。男だろ」
 背中を撫でて宥め、熱を持っている額に息を吹きかけて冷ましてやる。失敗した目玉焼きのように歪んだ目をしたランボは、必死に涙を堪えながら、綱吉の袖なしパーカーを力いっぱい握り締めた。
 暑い最中に帰って来たのもあって、綱吉の腕には薄ら汗が滲んでいた。日焼けして少しだけ浅黒くなった肌に縋りつく体温は、正直あまり心地よいとはいえなかったが、綱吉は我慢してランボの毛むくじゃらの頭を撫でてやった。
 えぐえぐとしゃくり上げて甘えてくる弟分を、フゥ太がじっと見上げている。目が合って小首を傾げたら、彼はパッと顔を背けてしまった。
「フゥ太?」
「ディーノ兄、抱っこ」
「ん? ここで抱っこはなー」
 一足先にダイニングテーブルを囲む椅子に腰掛けていたディーノが、駆け寄って来たフゥ太に身を捩った。此処に来い、との合図で膝を叩き、ほんの少しだけテーブルとの間の隙間を広げた。
 歓声を上げて彼に駆け寄ったフゥ太が、ちょこん、とディーノの太い太腿の上に跨る。ご満悦な彼の姿に、綱吉は肩を竦めた。
 自分もランボを抱えたまま椅子を引いて、羨ましそうにしているイーピンを手招きしてから腰を下ろす。
「それにしても、急にどうしたんですか?」
「あんまり驚かないんだな、ツナ」
 やっと落ち着いて話せる状況になって、綱吉は五歳児を左右の膝それぞれに座らせて問うた。しかし返答はなく、代わりに聞き返されて、小さく舌を出した。
 帰り道に見かけた黒塗りの車の存在を正直に告白した彼に、ディーノは顰め面をして口を尖らせた。
「あの馬鹿、もうちょっと巧くやれっての」
 運転していたのが誰だかは分からないが、信頼している部下のひとりだろう。その大事な仲間に悪態をついた彼は、フゥ太を抱え直し、面白くなさそうに背凭れに寄りかかった。
 体重を預けられて、頑丈に出来ているはずの椅子がギシギシ言った。
「ひょっとして、驚かそうとか思ってました?」
「ああ」
「母さんは、吃驚しちゃったわー」
 玄関の呼び鈴が鳴って、急いで出てみれば、其処には遠い異国に居るはずの青年が立っていた。にこやかな笑顔と共に贈られた挨拶のやり取りを思い出したのか、奈々が噴き出した。
 同じ光景を脳裏に蘇らせたディーノまでもが、頬を赤らめて照れ臭そうに目尻を下げた。
「?」
 ひとり分からないでいる綱吉を他所に、ふたりは数秒間見詰め合って、揃って白い歯を零した。出て来たオレンジジュースをがぶ飲みして、綱吉は濡れた唇をぞんざいに拭った。
 向かいの席に座るリボーンが、この季節に関わらず湯気を立てるエスプレッソを味わいながら、ニッ、と口角歪めて笑った。
「挨拶のキスなんざ、誰だってするだろ」
「……ム」
 イタリアでは日常茶飯事の事だと鼻で笑いながら言った彼に、一瞬で理解した綱吉はムッと頬を膨らませた。
 愛らしい琥珀の目に鋭さが宿って、勘付いたディーノが弁解するように両手を振り回した。
「や、あれは、ツナだと思ったから」
「あら、そうなのー?」
「はは、あはは」
 ドアを開けた奈々を抱き締めて頬にキスをしてから、ようやく相手を間違えたと気付いた。扉に嵌め込まれた磨りガラスの窓越しに見えた体格が似ていたから、勘違いしたままやってしまったのだと、弁解を並べ立ててディーノが頭を掻く。
 わざとらしい彼の態度に嘆息して、綱吉はコップに残っていたジュースを飲み干した。 
 乱暴な手つきで空のコップをテーブルに戻せば、響いた音に驚いたイーピンがビクッと身を強張らせた。辮髪がぴょこんと跳ねて、それが肘に当たった彼はそれで自分の失態に気付き、窄めた口から息を吐いた。
 肩の力を抜いて左斜めを見やる。腕を下ろしたディーノは、フゥ太の髪の毛を弄り回して嫌がられていた。
「ランボ、イーピン、いこ」
 しつこく付きまとってくる大きな手を叩き落とし、強請って乗った膝から飛び降りる。足音響かせながら廊下に出た彼は、弟分と妹分も手招いて、リビングに走っていってしまった。
 騒がしかった子供達が一斉にいなくなって、台所は急に静かになった。
 奈々も、洗濯物を畳む作業が残っていると言って、綱吉が使ったコップを片付けると出て行った。後には綱吉と、ディーノと、リボーンだけが残された。
「えっと」
 話も途切れたままで、微妙に気まずい。重苦しい空気が嫌で困った顔をしていたら、ディーノは廊下に通じる扉を振り返り、椅子の座面を両手で握り締めた。
 肩を丸めて小さくなった彼の上目遣いに視線に、綱吉は小首を傾げた。
「ディーノさん?」
「迷惑だったか?」
「へ?」
 急に元気が無くなった彼を怪訝にしながら呼ぶと、いきなり顔を上げて言われ、綱吉は面食らった。
 琥珀の目を丸く見開き、不安げにしている兄貴分の青年に見入る。首を反対側に倒した彼に黙って見詰められて、居心地の悪さを感じたのか、ディーノは貧乏ゆすりを始めた。
 ガタガタ言うのを聞いて、リボーンが不快げに眉を顰めた。
「おい」
「ってか」
 注意しようと赤子が口を開いた隣で、ディーノがトーンの高い声を発した。ふたり分の声が重なり合ったが、気まずげにしたのは金髪の青年だけだった。黒服の家庭教師は残り少ないエスプレッソを啜ると、それで溜飲を下げたらしい。押し黙った。
 椅子の上で居住まいを正した綱吉は、微妙にぎこちない笑みを浮かべ、天井を指差した。
「俺の部屋、行きます?」
「あ、ああ」
 此処ではゆっくり出来ない。リビングではしゃぐ子供達の声も聞こえてくるので、どうにも落ち着かなかった。
 提案に即座に頷いたディーノは、心持ちリボーンを気にしながら立ち上がった。赤子は、もみじの手を揺らして彼を追い払う仕草を取り、もうひとくち飲もうとして、空のデミタスカップに舌打ちした。
 連れ立って部屋を出た綱吉は、閉じたリビングのドアから漏れ出す冷気に目を細め、前に向き直って玄関に居並ぶ大量の靴に肩を竦めた。
 後ろをついてきていたディーノが、歩みを鈍くした彼とぶつかりそうになって、慌てて右に避けた。
「ツナ?」
「ディーノさん、靴、どうにかならなかったんですか?」
 振り向けば、ディーノは存外に近いところにいた。しかし余り驚きもせずに、綱吉は前方を指差しながら言った。
 少々呆れ気味の笑顔に、彼は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「いや、それはさっき、なんていうか」
「さっき?」
「庭に入ろうとしたら段差に躓いて、転んだ時に」
「あぁ」
 イタリアを出発した時はもうちょっとマシだったのだと言い訳して、彼は艶やかな金髪を掻き毟った。
 なるほど、と頷き、綱吉は少しだけホッとした。
 若くしてキャバッローネファミリーのボスの地位を継いだディーノは、部下の前では立派なボスだ。しかしその部下の目がなくなると、途端に綱吉に負けず劣らずのへなちょこぶりを披露してくれる。
 リボーンの教え子だったという彼は、綱吉同様ダメダメな生徒だった。
 今現在の彼は、確かにドジな所も多々見受けられるものの、それを差し引いても充分立派な存在だ。綱吉にとっては憧れで、尊敬する人物のひとりだ。
 ただ唯一いただけないのは、服装がだらしない、という事だろうか。
「でも、この汚れっぷりは」
 雨の日ならば泥が跳ねるのも仕方が無いといえるが、外はかんかん照りの猛暑だ。空気は乾き、地面も熱を持ってカラカラで、植物だって元気が無い。そんな状況下で、転んだ程度では此処まで汚くなるとは考え難い。
 車で家の前まで来たのだから、そこまでは部下の誰かと一緒だったのだ。空港からの移動だって、ひとりではなかっただろうに。
「ツナ。なんか怒ってる?」
「いいえ、全然」
 突然聞かれて、綱吉はその質問にムッとした。そんな風に受け止められていたのかと思うと、腹立たしい。
 下膨れた顔をした彼に目を細め、ディーノは安堵の息を吐いて綱吉の肩に腕を回した。
「わっ」
 体重をかけられて、重心がぐらついた。右半身を沈めた綱吉は咄嗟に膝を折って踏ん張り、首にまとわりつく太い腕を押し退けた。
 払われて後ろにたたらを踏んだディーノが、カラカラと声をあげて笑った。
「吃驚させないでくださいよ」
「はは。悪いな、つい」
 本当は玄関先で、彼に出迎えられた瞬間のスキンシップを狙ったのだ。しかし相手を間違えてしまって、今の今まで果たせなかった。
 久方ぶりに触れた綱吉の体温に満足して、ディーノはプンスカ拗ねている綱吉の頭を撫でた。よしよし、と子ども扱いする彼の手を再度跳ね除け、綱吉は荒っぽい足取りで階段を駆け上って行ってしまった。
 真っ赤に染まった襟足を見送って、ディーノも二階に向かおうと一段目に爪先を置いた。体重を前に移動させて、左足を持ち上げる。
 刹那。
「どあっ」
 ズドン、という大きな音を階上で聞いて、綱吉は首を竦めた。
 まさかと思いながら下を覗けば、案の定ディーノが階段下で突っ伏していた。どうやれば一段目で滑り落ちられるのか分からない。幾ら綱吉でも、あんな真似はした事が無かった。
「大丈夫ですか」
「いってて……ズボンの裾、踏んじまった」
「……」
 声を掛けると、ぶつけた額を押さえながら彼は呻いた。先ほどのランボと同じ場所を腫らし、痛そうに顔を歪めている。聞こえて来た一言に、綱吉は絶句した。
 確かに彼の履いているジーンズは、裾が解れてボロボロだった。そういうファッションもあるにはあるが、彼の場合は自堕落に過ごしているうちにこうなっただけで、狙って着こなしているわけではない。
 靴といい、ズボンといい、どうしてこうも服装に頓着しないのだろう。
「早く上がってきてくださいねー」
 そういえば、彼が訪ねて来た用件をまだ聞いていない。そんな基本的な事を今頃思い出して、綱吉は蹲っている青年を見捨てて部屋の扉を開いた。
 窓は開いていたが、吹き込む風は熱風なので室温はかなり高い。むっとする湿気に襲われて奥歯を噛んだ彼は、足早に窓辺に寄って窓を閉め、カーテンで陽射しを遮った。
 続けて机の上に放り出していたリモコンを取り、天井近くに設置された空調のスイッチを入れた。
 ヴン、と低く唸って細長い羽根がゆっくり起き上がっていく。程無くして涼しい風がそこから溢れ出して、やっと人心地ついた綱吉は汗を拭い、リモコンを置いた。
 ドアが外から開かれて、あちこち赤く腫らしたディーノが顔を出した。
「ツナ、ひでーよ。置いてくなよ」
「知りません」
 開口一番恨み言を言われたが、綱吉は素っ気無く返すに留めた。ドアを閉めるよう言って、不貞腐れた顔をしている年上の兄貴分に苦笑する。先にベッドに腰掛けて隣を叩いてやると、ディーノは実に鈍い足取りでそこに腰を据えた。
 どっかり座り込まれ、反動で隣にいた綱吉の身体が飛び跳ねた。
 揺れ動いた薄茶の髪を視界の端に見て、ディーノがおもむろに手を伸ばしてくる。ぐしゃぐしゃに掻きまわされて、上から押し潰される圧迫感に綱吉は足も使って抵抗した。
 蹴られて、ディーノは呵々と笑って手を引っ込めた。
「機嫌直ったか?」
「別に、怒ってたわけじゃ」
 玄関先での会話を振り返り、綱吉は乱れ切った頭を両手で抱えて臍を噛んだ。横にずれて距離を作り、近付いて来ようとする彼に牙を剥いて威嚇する。
 怪我をした猫みたいに吼えられて、ディーノは出し掛けた手を引っ込めた。
 続けてやって来たのは沈黙だった。
「う……」
「久しぶり、ツナ」
「うあ、あ、はい。そうですね」
「やっとこっち見たな」
「うぐ」
 両手を膝に揃えた彼の、苦渋に満ちた横顔を眺めていたディーノが不意に切り出す。弾かれたように顔を上げた綱吉の頬を小突いて、ディーノは組んだ脚に肘を立てた。
 頬杖ついた彼の柔らかな微笑みに、自分が思っていた以上に不機嫌だったのを今更悟った綱吉は下を向いた。
 ただ、怒っていた理由が未だに自分でも良く分からない。両手を膝の間に挟んだ彼は、もぞもぞと身じろいで横目で隣を窺った。
「吃驚させてやろうと思ってたのに、ツナ、いねーんだもん」
「一応、驚いてはいるんですけど」
 予告もなくいきなり訪ねてこられたのだから、これでも多少は驚いている。そうであればいいな、と町中を歩いている最中から期待を寄せていたので、さほど表に出てこなかっただけだ。
 言って頬を膨らませると、面白がったディーノに何度も小突かれた。
 窄めた口から一気に息を吐き出して凹ませて、綱吉はいつの間にか狭まっていた距離を広げた。枕元にまで寄って、それから薄い敷布団に乗り上げて壁際まで後退する。
 枕を抱きかかえて小さくなった彼に苦笑を浮かべ、ディーノは癖のない金髪を掻き上げた。
 朗らかな笑顔に、白い歯。人懐こい笑みと凛々しい顔立ちは、そこいらのモデルと並べてもなんら遜色ない。それなのに身につけているものが、まるで浮浪者を想像させる貧しさだ。
 あまりの落差に、折角の美貌も台無しだった。
 もう少し、本当にあと少しだけで構わない。洗濯のしすぎで黄ばんでしまっているシャツを止めて、擦り切れたジーンズを新品に変えてくれたなら。
 町中の移動は車でも、空港内は徒歩だろう。人目を気にして欲しい。
 そんな事をあれこれ考えていると、顔に出たのだろうか、ディーノがクスリと笑った。
「いいんだよ、これは」
 だらしないくらいが丁度良いのだと言い張る彼に苦々しい顔を向け、綱吉は枕を抱き潰した。ひょうたん型に凹んだクッションを少し羨ましく思いながら、ディーノは足を広げ、膝を引いてベッドに乗り上げた。
 四つん這いで近付いてこられて、これ以上逃げ場のない綱吉はぬっと伸びた影に不満げな表情を作った。
「勿体無いですよ」
「なにが?」
「だって、折角かっこいいんだから」
 相応の格好をして欲しいと訴えると、ディーノは一瞬きょとんとしてから破顔した。
 おかしそうに笑い転げる彼を思わず蹴り飛ばし、枕を叩きつけ、綱吉はベッドの上で膝立ちになった。
「ディーノさん」
「俺ってカッコイイ?」
「うぐ」
 己を指差しながら訊ねた彼に言葉を詰まらせ、綱吉は仰け反った。後頭部を壁に押し当ててなんとか距離を稼ごうとするが、無駄な足掻きでしかない。滑稽な綱吉に相好を崩し、ディーノは答えを強請って彼の腕に腕を絡めた。
 引っ張られて、呆気なく壁から引き剥がされた。
「あう」
「おっと」
 前のめりに倒れかけた身体を支えられて、綱吉は肌に触れた生温い他者の体温に唇を噛んだ。冷房が効いているお陰か、下でランボを抱き上げた時のような不快感はなかった。
 却って自分の体温が上昇した気がして、眩暈を覚えた綱吉は自分からディーノの胸板に突っ込んでいった。
「ディーノさんなんか、嫌いだ!」
「ひっでー。俺はこーんなにツナのこと、愛してるのに」
 平然と恥ずかしい言葉を口ずさみ、彼は体当たりしてきた綱吉を強く抱き締めた。両腕を背中に回して拘束し、逃がさない。
 シャツから仄かに香る匂いは、どんな高価な香水も敵わない。心底そう思えた。
「やっぱ、ツナが一番だよなー」
「え?」
「俺さ、フラれて来たばっかなんだよ。慰めて」
「はいぃ?」
 曰く、キャバッローネとの大口の取引がある企業の社長令嬢が、ディーノに興味を持って会いたいといってきたのだという。気乗りはしなかったが無碍に断るわけにはいかず、上海のとあるホテルで一席が設けられた。
 その帰りに日本に寄って、押しかけて来た。それがディーノの突然の来訪の理由。
「フラれたって……ディーノさんが? そんなわけないでしょう」
「それがさー、あるんだよ。こんなダサい人だとは思わなかったって、一発ビンタまで食らったんだぜ」
 此処に、と頬を指差されても、周辺の色に違いがないので分からない。先ほど階段から落ちた額の方がよっぽど赤かった。
 俄かには信じがたいエピソードだが、今の出で立ちのまま出向いたのであれば、それも頷ける。むしろホテルの正面玄関で立ち入りを拒まれそうだ。
 真剣な眼差しを浴びせられ、綱吉は返事に苦慮して目を逸らした。壁を見詰め、空調が動く微かな音に耳を傾ける。
「あれ? でもさっき、ディーノさんは」
 彼は、この格好で良いのだと言った。話が繋がらなくて目を丸くした弟分の頭を撫で、ディーノは甘える仕草で彼にしがみ付いた。
「ん。これ、女避けだから」
「趣味が悪いですよ」
「派手な顔に生まれたのは、俺の所為じゃない」
 きっぱり言い切った彼に気圧されて、綱吉は言いかけた言葉を飲み込んだ。
 キャバッローネの家柄、ボスという地位、類稀なる美貌にも女は歓声を上げ、彼にまとわりつく。内面を見ようともせずに外見や財力だけに注目する、どす黒い欲望を腹の中に溜め込んだ連中を真面目に相手にする事ほど、疲れるものはない。
 ぶすっと鼻を膨らませて拗ねた兄貴分の背中に腕を回し、綱吉はどうしようもないこの青年に苦笑を浮かべた。
「そんな事言ってたら、婚期逃しますよ?」
「見た目だけで決め付けてくる女なんざ、こっちから願い下げだぜ」
 部下が居なければ度を越えたダメっぷりであるのも、彼から女運を奪っているように思う。だが心のどこかでそれを嬉しく思っている自分が居て、綱吉は複雑な気持ちになった。
 猫のようにゴロゴロ甘えてくる彼の背中を撫でさすってやりながら、天井を見上げる。
「もう、うちの子になっちゃえばいいのに」
「うん?」
「……なんでもありません」
 聞こえなかったのか、もう一度いってくれるようねだるディーノの額を小突き、綱吉はシラを切った。
 正直なのに素直でない弟分に肩を竦め、ディーノはし損ねたままだった再会のキスをすべく、背筋を伸ばした。

2010/08/16 脱稿