まだ朝もかなり早い時間帯だというのに、太陽はぎらぎらと眩しく輝いて既に炎天下の様相を呈していた。
連日続く熱帯夜のお陰で熟睡出来ず、夜中に何度も目を覚ます始末。折角の夏休みだというのに寝不足で、綱吉は歩きながら大きく欠伸をした。
「ふぁ、あー……あぁ」
目尻の涙を雑に拭い、浅く被った帽子を取って顔を扇ぐ。だが空気自体が温んでいるので、少しも涼しくならなかった。
本日の最高気温は、予報では三十六度。聞いただけで暑さが強まり、汗が滲み出る数字だ。
「あー、ったく。もう」
こんな日は、朝から晩まで涼しい場所でゴロゴロしているに限る。休みはまだ始まったばかりで、宿題をやるにしても余裕はたんまりとあった。それで毎年失敗して、八月三十一日に焦ることになるわけだが、それは今は考えない。
理想の夏休みの過ごし方を思い浮かべ、現実との落差に嘆き、綱吉はがっくり肩を落として前を行く子供達に溜息を零した。
ランボを先頭に、フゥ太とイーピンが続いている。彼らから三メートルほど遅れて、最後尾が綱吉だ。
夏仕様の牛柄の上下を着込んだランボは、こんな時間から既に元気一杯、爆発しそうな勢いだ。ぎゃははは、と喧しい笑い声を響かせて、ご近所迷惑極まりない。
「ランボ、五月蝿いぞ」
「へっへーんだ。ツナのねぼすけー」
注意すれば彼はすかさず憎まれ口を叩き、あっかんべー、と舌を出した。五歳児のやる事だから、と自分を戒めるが、ムカッとするのは止められなくて、綱吉は頬を膨らませて憎々しげに快晴の空を仰いだ。
水色と白のストライプ柄のタンクトップに、膝丈のズボン。素足にサンダルと身軽な格好ながら、アスファルトから立ち上る熱気はじわじわと彼を包み、干上がるまでの時間を加速させた。
早く家に帰って、冷たい麦茶で喉を潤したい。まだ目的地に辿り着いてもないのにそんな事を考えて、彼は手にした帽子を深く被った。
鍔を持ち、視界の上半分を塞ぐ。ちょこまかと動き回る子供達が車道に出ないように気を配りながら、遠く聞こえて来た人の声に、綱吉は首を巡らせた。
「懐かしいな」
二年前までは、毎日通った道だ。黒のランドセルを背負い、ひとりで。
黄土色に変色した通学帽子も、草臥れたランドセルも、もう家に残っていない。中学生になった春に、さっさと処分してしまった。
勿体無いとは思わなかった。特にランドセルは、長年酷使され続けてもうボロボロで、いい加減休ませてやりたかった。
思い出が詰まっているから大事に取っておく人もあると聞くけれど、そんな気にはならなかった。そもそも、小学生時代にあまり良い記憶が無い綱吉だから、昔の事を思い出させるものはなるべく手元に置いておきたくなかった。
若干複雑な顔をして、彼は首を振った。妙な感慨を投げ捨てて、駆け足になったランボの背中を目で追いかける。
開け放たれた門を潜り抜けて入ったのは、中学校ではない。綱吉が卒業した、並盛小学校だ。
入って直ぐ、左右に分かれて校舎がある。渡り廊下の下を抜けて進むと、もうそこはグラウンドだ。
一気に視界が開け、綱吉は瞳を焼いた陽光に顔を顰めた。
「おれっち、いっちばーん!」
ランボがひと際甲高い声を発し、乾燥して埃っぽいグラウンドを駆け出した。イーピンがそれに続いて、フゥ太はのんびりと、勝手知ったる調子で歩いて行く。
彼らが向かう先には既に何人かの集団が形成されていた。服装に統一性はなく、顔ぶれも老若男女様々だ。
ペンキの剥げた大きな台座がある。月曜日の朝礼等で、先生があそこに立って挨拶していた。運動会の時も、選手宣誓はあそこだった。特別な日に、特別な人しか登ってはいけないものだと、幼心に思っていた。
実際はそんなことはなかったのだけれど、結局卒業するまでの六年間、一度としてあそこに立つことは無かった。そんな些細な記憶を振り返って、綱吉は集まっている人たちをぼんやりと眺めた。
眠そうにしている人は大体が大人で、小学生以下の面々はどの顔も元気一杯に輝いていた。ランボよりも小さな子もいた。白髪の、されど矍鑠とした老人が、孫ほどの年齢の子らを前に目を細めている。
総勢で三十名ほど。中学生は、どうやら綱吉だけのようだ。
「うー……」
「ほら、ツナ兄」
「分かったよ、もう」
早朝から小学校の運動場に集う顔ぶれに、共通するところは特にない。町内に暮らす物好きな人たち、という印象が拭えなくて、綱吉はフゥ太に手を引かれ渋々輪の中心に近付いた。
ランボは緑のペンキが塗られた台座に一番近い場所に陣取っていた。イーピンも隣に並び、開始を待っている。
「おはよう」
フゥ太が顔馴染みらしき同年代の男の子に手を振った。本当は彼も小学校に通っていなければいけないのだが、戸籍その他の関係で実現に至っていない。フゥ太自身もあまり学校に興味がないようで、家で奈々と一緒に勉強している方が楽しいという。
彼ならば人気者になれるだろうに。可愛らしい女の子ふたりに挟まれた弟分を見て、綱吉は彼らからちょっと距離を置いた。
「ねむ」
長く忘れていた欠伸を取り戻し、口元を手で覆い隠して目を閉じる。帽子を取って地肌に溜まった湿気を追い払って、随分と狭く感じる小学校のグラウンドをぐるり、見回す。
入学当時はとても広々として見えた運動場が、今は酷く手狭に思えた。
単に見慣れてしまったからなのか、それとも自分が大きくなったからなのか。卑屈な考えを抱いて俯いて、綱吉は爪先で地面に穴を掘った。
「そういえば」
硬い地表を少しだけへこませて、彼はゆるり、顔を上げた。
夏休みスタートと同時に開催されるようになった、早朝のラジオ体操。参加は自由で、勿論途中で止めても構わない。しかし毎日通ってスタンプを集めたら、最終日にちょっとしたご褒美がもらえる。
その話を聞いて目を輝かせたのが、やたらと張り切っているランボだ。
誰もそんな事は言っていないのに、お菓子を沢山もらえるのだと信じて、毎朝熱心に早起きして通っている。彼が参加するならイーピンも無論で、フゥ太もひとりだけ蚊帳の外は嫌だからと、付き合いがいい。
子供達だけで行かせるのは不安があるから、昨日までは奈々が付き添いで参加していた。しかし家事に追われる彼女にとって、朝のこの時間は貴重だ。何もしないで家で寝ているだけの綱吉が、代役に引っ張り出されるのは目に見えていた。
今日から彼が、保護者として子供達を此処に連れてこなければいけない。寝坊しようものなら、容赦なくリボーンの鉄槌が下されよう。
実は今朝、既に手痛い一発を食らっている。思い出して後頭部を撫でた彼は、帽子を被り直して目を眇め、開始を待つ人々の景色に過去の記憶を重ねた。
セピア色とまではいかないものの、色の薄い世界の視点は、今よりもずっと低い。
「昔も、来てたっけ」
あの時は家光が連れて来てくれていた。だが彼はよく途中で抜け出して、大事なひとり息子を残して先に帰ったりもしていた。
後で恨み言を言えば、男は冒険するのが重要なのだ、と訳の分からない理屈を捏ねてくれた。今思うに、友達の居なかった綱吉が、勇気を出して誰かに話しかけるきっかけになればと、父は背中を押したつもりだったのかもしれない。
期待とは正反対の結果にしかならなかったわけだが。
「あぁ……」
楽しくない思い出に苦い顔をして、綱吉は奈々から預かって来たスタンプカードをポケットから取り出した。
毎日欠かす事無く朱印が押されている。並、という文字を円で囲んだだけのシンプルなものだが、日によって傾いていたり、逆さまだったりして、なかなか面白い。
合計四枚あるのを確かめて、角を揃えて左上の穴を爪で削る。綱吉がひとりで通っていた頃は、此処に紐を通して首にぶら下げていた。
ランボにそうしないのは、彼がそそっかしい性格をしており、紛失する可能性があるからだ。枝に引っ掛けて千切れて風に飛ばされる、くらいは簡単にやりそうだ。
「ふふ」
光景を想像して笑みを零し、綱吉は顔を上げた。
二重にぶれた景色が、ひとつに重なる。数年前の記憶を片付けて現在に戻ろうとした彼の脳裏を、ふっと、夏の乾いた風が過ぎった。
『おいで』
誰かの声が聞こえた気がして、はっとした彼は振り返った。しかし誰もおらず、炎風に煽られた砂埃が旋毛の形に舞い上がっているだけだった。
前に向き直り、ランボたち三人がちゃんとそこに居るのを確かめて、彼は口を閉ざして半眼した。
「う、……ん?」
綱吉は小さい頃とても人見知りで、ひとりでは何も出来ない子だった。友達もなかなか出来なくて、親をやきもきさせた。夏休みのラジオ体操に引っ張りだされたのだって、そんな彼を見かねた家光が、他学年の児童と交流する場を設けようとしたからだ。
ただあの男の目論みははずれて、夏休みが終わっても、綱吉は始まる前となにも変わらなかった。
違わなかったはずだ。
誰とも知り合わなかった。親しくなることもなく、いつだってひとりぽつんと、片隅でもじもじしていた。
参加した証拠のスタンプを貰う列に混じるのだって簡単ではなくて、毎回、他の子供達が終わるのを待って最後に、こっそりと。
「あれ……」
けれど一度だけ。
たった一度だけ。
誰よりも早く、先頭でスタンプを押してもらった日があった気がする。
呆然と佇み、綱吉は今まで思い出しもしなかった夏の日に瞠目した。覚え違いを疑うけれど、確かにあったと訴える幼い自分の声もする。どちらが正しいかも分からぬまま立ち尽くして、綱吉はにわかに湧き起こった雑音にハッとした。
手を下ろし、スタンプカードをポケットに戻して両手を自由にする。昔懐かしい横長のラジオを片手に、誰かが緑の台座に登ろうとしていた。
白いシャツに、スウェットのズボン。黒々した髪を撫で付けて固めた形は、まるで庇のようで。
「……はい?」
ふたつに割れた顎が、男臭さを過分なまでに演出している。いつもの長ランは流石に邪魔になるからか、初めて見るラフな格好をした男の姿に、綱吉は目が点になった。
慌てて右を見て、左を見るが、この場に集った誰ひとりとして、彼の存在に違和感を覚えている様子は無かった。
「え、えええー?」
ひとり困惑に身を揺らし、綱吉は地面から一メートルほど高い場所に立つ男性に素っ頓狂な声をあげた。
前にいた人が迷惑そうに振り返って、慌てて畏まって背筋を伸ばすが、頭の中は何故、という言葉が入り乱れ、ひしめきあっていた。
温い汗をダラダラ流し、目が合わないようにしながら必死に考える。だが何ひとつ分からないうちに、台座に置かれたラジオのボタンが押された。
拡声器も使って音量をあげる。流れてきたのは、軽快なリズムのメロディーだった。
小学校でも、中学校でも、体育の授業の前には必ずやるので、順番はしっかり身体が覚えていた。馴染みのある音楽に触れるうちに自然と爪先立ちになっていて、綱吉は恐々前を向き、視線を持ち上げた。
非常に動き易い格好をした草壁が、能面の如き無表情で背筋をぴんと伸ばした。
「やるんだ。ほんとに、やるんだ」
あそこに立つ、という事は、即ち彼がラジオ体操の号令を出し、模範演技を示すのだろう。彼に倣い、他の人々も次々に同じポーズを作る。人垣に見え隠れするランボたちもまた、同様だ。
小声で呟いて、綱吉も渋々後に続いた。音楽にあわせて腕を振り、関節を回して身体中の筋肉を動かし、解していく。
もし自分が参加者でなかったなら、じっくりと草壁の動きを観察していられただろうに。それくらい彼の動きは実にダイナミックで、それでいて繊細で、しなやかだった。
あまりにも意外で、普段中学校で見る彼の姿からは想像がつかない。明らかに違和感丸出しの髪型をしていながら、こうやって身体を動かしている時だけは、他の人となにも違わないように思えるから不思議だ。
「ふっ、は、……いぢ!」
たかがラジオ体操と侮っているうちに息が上がって、綱吉は口を大きく開いて息を吸った。腕を伸ばしたまま腰をぐるり、と捻る。円を描くように動かしていたら、普段使わない筋肉が悲鳴を上げた。
ゴキッ、と骨もいい音を立てた。
普段、いかに真面目に運動をしていないかが良く分かる。体育の授業でもダラダラと、形をなぞるだけで終わらせていたのに、無表情なのに真顔な草壁に引っ張られたのか、気がつけば真剣になっていた。
終わる頃には汗だくで、疲労感を滲ませた彼の顔つきは、されど妙に晴れやかだった。
開始直前まで残っていた眠気も、すっかりどこかに消え失せた。暑いは暑いのだが、ひと仕事終えた後の爽快感とでも言うのだろうか、そういうものが胸を占めて、思いの外気持ちがいい。
喉が渇いてしまうのが難点だろうか。
「明日は、なんか、持って来よう」
タンクトップの丸襟を引っ張って胸元を広げ、生温い風を送り込んで唾を飲む。反対の手で顔を扇いでいたら、体操中に何度も落ちた帽子が、またしても地面でひっくり返った。
砂埃ですっかり汚れてしまったそれを拾って、彼は前方から走ってくる子供達に小首を傾げた。
「ツナ兄、早く」
「どんくさいぞ、こらー」
やって来た途端にせっつかれ、罵声を浴びせられる意味が分からない。面食らっていると、唯一行儀良かったイーピンが、白い袖から白い手を伸ばして左右揃えた。
何かを欲しがるポーズと期待の眼差しに、彼は嗚呼、と頷いた。
「ごめん。今出すから、急かすなって」
すっかり忘れていたスタンプカードを取り出すべく、腰を捻ってポケットを探る。奈々の字で記された名前を頼りに配ろうとしたら、待ちきれなかった子供達が紙面を覗き込み、我先に、と競って奪い取っていった。
危うく突き飛ばされるところだった綱吉はたたらを踏み、あっという間に去っていった弟分に肩を落とした。
「ほら、イーピンも。行っておいで」
最後まで行儀の良いイーピンに残っていた片方を差し出して、頭を撫でてやる。辮髪の少女は嬉しそうにはにかみ、ランボたちより大分遅れて、スタンプを押してくれる人の列に加わった。
ずらっと並んだ子供達の姿に、綱吉は苦笑した。
「こんな感じだったかな」
もう殆ど覚えていないけれど、こうだった気がする。綱吉はランボの言う通り動きが鈍くて、挙句の果てに臆病だ。このスタンプ争奪戦に加わる勇気もなくて、いつも後ろの方でモタモタしていた。
スタンプを集めてのご褒美目当てなのは小学生や幼稚園児ばかりで、興味ない大人たちは既に帰路についている。子供と一緒に来た親は日陰に集まって、小規模な井戸端会議に花を咲かせていた。
手元に残った一枚、奈々の名前が愛らしい文字で書かれているカードのスタンプは、昨日の段階で皆勤賞だった。
「貰っておくかな、俺も」
中学生がひとり列に混じるのは恥ずかしいが、見た目の幼さがこういう時は役に立つ。軽く落ち込みつつ列の最後尾に加わった彼は、そういえば、と思い出して辺りを見回した。
台座の上には役目を終えたラジオが鎮座するだけで、草壁の姿はそこには無かった。もっとも、探すまでもなかった。正面を向いた綱吉は、そこで異様なまでに目立つリーゼントを見つけ、苦笑した。
並盛中学校風紀委員会は、こんな事までやっているのか。確かに朝早く起きてラジオ体操をする、という習慣は、風紀を守る心構えの育成に、少しは役に立ちそうだ。
含み笑いを零して、カードを団扇代わりにして顔を扇ぐ。ランボは既にスタンプを押してもらった後のようで、グラウンドの隅に置かれた遊具目指し、一直線に駆け出した。
「こんなだったなー」
自分が小さい時も、ああやって夏休みのグラウンドを駆け回る子が沢山いた。学期中の昼休みや放課後は、いつも上級生に占領されているから、自分たちだけで独占出来るのが嬉しかったのだろう。
綱吉はいつも見ているだけで、輪には混じれなかった。誰も誘ってくれなかったし、自分から積極的に交わる勇気も無かった。
もしあの時、誰かに声をかけていたら、違う人生を過ごせていたのだろうか。
「……無理かな」
苛められっこの運命など、そう簡単には変わらない。今でこそ多くの仲間を得て、ひとりではない時間が増えたけれど。
奈々が頑張って集めていたスタンプに目をやり、彼は肩を竦めた。並、の赤い文字を指でなぞり、顔を上げる。
「あれ?」
気がつけば列は消滅して、草壁の姿も消え失せていた。
ぼんやりしていた時間は、一分にも満たないはずだ。綱吉の後ろには人はおらず、列は五人ほど残っていただけだった。彼が前に進まなかったので、スタンプ希望ではないと勘違いされてしまったのだろうか。
毎日のように顔を合わせているのだから、綱吉の顔くらい草壁だって覚えているだろうに。立ち去る前にひと事声をかけ、呼んでくれれば良いものを。
「嘘だろー」
折角奈々がここまで貯めていたのに、綱吉に役目が変わった途端、記録が途切れてしまう。彼女のことだから怒らないとは思うけれど、ガッカリさせるのは申し訳なくて、綱吉はまだ近くに居るはずの草壁を探し、その場で足踏みをした。
小学生の頃は、なんだかんだできちんと毎回スタンプは貰っていた。最終日、不真面目な年上の子に目を付けられて、その満タン間近のカードを奪い取られそうになった出来事が、不意に、彼の脳裏に蘇った。
今まで一度も参加していないくせに、最終日にもらえるご褒美目当てでやって来た上級生。身体も小さく、ひ弱で大人しかった綱吉が敵うわけがなくて、抵抗したけれどカードはあっという間に奪われてしまった。
毎日寂しい思いをしながらも頑張って来ていたのに、その証拠すら奪われてしまう。努力は無駄だと足蹴にされて、笑われて、悔しかった。
「あ……」
『おいで』
あの日の、別の記憶がまた現れる。間にあったはずの出来事は綺麗さっぱり抜け落ちたままで、前後が繋がらない。
綱吉は誰かに手を引かれて歩いた。ラジオ体操が終わって、いよいよ最後のスタンプを押してもらうために列に並んだ。
此処においで、と先頭に入れてもらった。毎日ちゃんと来て、真面目に頑張ったご褒美だからと、一番にプレゼントを選ばせて貰った筈だ。
瞠目し、綱吉はカードを握り締めた。身勝手な上級生に持っていかれた綱吉のカードを取り返し、列に入れてくれたのは、いったい誰だっただろう。
ぼんやりとしか覚えていない。きちんと思い出せない。分かるのは、黒髪だった。前髪は短かった。綱吉の知らない顔だったから、多分上級生。
もしかしたら夏休みのラジオ体操にだけ参加して、普段は別の、例えば私立の学校に通っている子だったのかもしれない。兎に角初めて会って、初めて喋ったのだという記憶だけが、鮮明に頭に焼き付いていた。
「え、……うん?」
だのにそのぼやけた記憶が、どういう理屈か急速に冴えて行く。朧だった輪郭は鋭さを得て、水が滲んだような色合いはくっきりとした配色を取り戻した。
誰かの顔に重なる。不機嫌に歪められた口元といい、生意気そうな目元といい。
草壁を探すのを中断して思索に没頭し始めた綱吉は、夢か幻かと疑いたくなる眼差しをして、目の前に現れた青年に唇を噛んだ。
「要らないの?」
「いり……ますっ」
不遜な態度で空の手を差し出されて、彼は鼻息荒く叫び、奈々のカードを突き出した。
見る間に赤く染まった顔を見て、雲雀が楽しげに肩を揺らした。悪戯が成功した子供の顔、という表現が一番しっくり来る。満足げにしている彼に口を尖らせて、綱吉はカードを掴んでいた指を擦った。
左手に判子を構えた雲雀が、蓋を外して今日の日付にぽん、と押した。赤い「並」の文字がひとつ追加された。空欄はもう残り少なくて、それだけで日々が過ぎ去る速さを痛感させられた。
両手で受け取り、カードを立てて顔を隠す。今更かもしれないけれど、妙に気恥ずかしくて正面切って向かい合う勇気が出てこなかった。
下唇を舐めて噛んだ綱吉に目を細め、雲雀は草壁から掻っ攫った判子のキャップを閉めた。インクが乾かないように保護して、紛失防止の為とポケットに捻じ込む。
彼が動く度に、風紀の腕章がゆらゆらと揺れた。
「なにしてるんですか、こんなトコで」
「風紀委員の仕事だよ」
「そんなの聞いてません」
草壁が現れた段階で、疑っておくべきだった。ただあの時、グラウンドの中に雲雀の姿は無かった。
彼が真面目に柔軟運動をしているところなど、まるで想像がつかない。しかし運動神経抜群の雲雀恭弥でも、なんの準備もなしに急激に動けば、体のあちこちが悲鳴をあげるに違いない。
れっきとした人間ならば、そうだ。若干疑いの目で彼を見詰め、綱吉はまだインクが乾ききらないスタンプに手を翳した。
指が触れるか、触れないかの距離を漂う。沈黙を保つ雲雀の前で、どんな態度を取ればよいかも分からぬまま、綱吉は上唇を舐めた。
あの日、これを取り返してくれた少年の顔が頭をちらつく。他人の空似だと思うのに、黒髪だったというだけで雲雀の顔を当て嵌めてしまった自分の浅はかさを呪いたい。
この先ずっと、あの年の夏を思い出す度に、雲雀の顔もが一緒に浮かぶのだ。そう考えると妙な恥ずかしさが募って、綱吉は膝をぶつけ合わせ、肌が張り付く感触に臍を噛んだ。
「君が知らないだけだろう?」
「ここ、小学校……なんですけど」
「並盛町の一部だよ」
さらりと言ってのけた雲雀に理屈をこねるが、それを上回る屁理屈で返されて言葉も出ない。
中学校の一委員会でしかないのに、活動範囲は本当に多岐に渡る。大人しく応接室で過ごしていればいいものを、夏休みだからと活動を広げすぎだ。
まさかこんな場所で顔を合わせるなど、今朝家を出た段階で、予想だにしなかった。
嬉しいような、そうでないような、複雑な表情を浮かべた彼に目を眇め、雲雀は右手を腰に添えた。草壁はラフな格好だったが、雲雀はいつも通りの白いシャツと黒のスラックスだった。
まさか彼は、町内で開催されているラジオ体操の集いすべてを取り仕切っているのか。草壁のように、人前で胸を張ってラジオ体操を演技する風紀委員たちの姿を想像して、彼の下に就いたばかりに、と少しだけ同情心が起きた。
苦虫を噛み潰したような顔をしていたら、雲雀は不遜に胸を張った。
「参加率はいいよ」
「……嘘だ」
風紀委員が主催していると知らずに来ている人もいるだろう。いや、大半が知らないに違いない。現に綱吉も、自分が参加するまで全く気付かなかったし、気にもしなかった。
もし知っていたら、絶対に参加させなかった。校庭の片隅で、ランボと鬼ごっこに興じているイーピンを横目で見て、彼は盛大な溜息をついた。
その反応が不満だったようで、雲雀は僅かにむっとして、脇に垂らしていた拳を揺らした。
「皆勤賞には、それなりのものを用意しているからね」
喧しく騒ぎ立てる子供達を一瞥し、囁くように雲雀が呟く。視線を彼に戻した綱吉は、下膨れの顔をして、解散した小学生の一団を思い返した。
物で釣るというのは、正直どうだろう。あまり情緒教育的にも宜しく無いのではないか、という考えはそのまま顔に出て、表情から察した雲雀は皮肉めいた苦笑を浮かべた。
そういう考え方もあると知った上で実行していると、そんな色合いを感じ取って、綱吉は言いかけた言葉を呑んだ。
「ヒバリさんがこんなことしてるなんて、知りませんでした」
代わりに何かを言おうとして、特別思いつかなくて、綱吉は先ほど呟いたのと同様の台詞を繰り返した。両手で握ったカードが汗を吸い、少しだけ軟らかくなった。
興味なさそうなのに、意外だった。盲点だったと素直に声に出して、彼は蝉時雨が五月蝿い中、首を右に傾がせた。
「ラジオ体操になにか思い入れでもあるんですか?」
飾らない、率直な疑問を投げつける。胸を過ぎった懐かしい記憶を前提にした綱吉の問いかけに、彼は笑うだろうと思っていた。
だのに雲雀は、何も言わなかった。意味深に目を細め、肩を揺らす。
「さあね」
素っ気無く紡がれた言葉の意味を取りあぐね、綱吉はムッと口を尖らせた。
遠くの方から声がする。振り返れば、知らぬ間に遊具前から移動した子供達が、校門の手前で手を振っていた。
イーピンの事を思い出し、綱吉は慌てて雲雀との直線上に割り込んで彼を隠した。早く、と急かされて、気もそぞろに背後を窺う。
空腹を訴える子供達を先に帰らせたら、綱吉が此処についてきた意味が無い。奈々やリボーンにも怒られる。行かないわけにいかなくて、だけれど半端なところで会話を終わらせるのも勿体なくて、彼は足踏みした。
「呼んでるよ」
「ヒバリさん」
行けば良いと、綱吉がこの場に留まろうとしている原因たる人物が顎をしゃくりながら言う。綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をして、スタンプカードを強く握り締めた。
表面に皺が寄り、真ん中で拉げてしまった。音も立てずに潰れたそれを一瞥し、雲雀は苦笑した。
「明日もおいで」
「……早起きは」
「最後尾で待っててあげる」
根っからの遅刻魔である綱吉に、学校に行くよりも早い時間に起きろ、というのは酷だ。
渋ったら、雲雀に肩を叩かれた。耳元で囁くように告げられて、背筋が慄く。
彼は綱吉を置き去りに歩き出した。慌てて目で追いかけると、帰り支度を済ませた草壁が、グラウンドの片隅で、いつもの長ランを着込んで立っていた。
暑かろうに。少しだけ彼に憐情を抱き、綱吉は遠ざかる雲雀の背中を思い切り睨んだ。
「俺、来ませんからね」
矢張り明日からは奈々に来てもらおう。そう決めて叫ぶのに、雲雀は振り向きもしない。ただ笑っているのは雰囲気から感じられて、悔しさに歯軋りし、綱吉は子供達の急かす声にも大声を張り上げた。
校門の方に向き直り、足を前に繰り出して駆け出す。皺の寄ったスタンプカードに目をやって、彼は赤い顔を隠した。
「ツナ兄、おそーい」
「ごめん、ごめん」
「ランボさん、お腹ぺこぺこなんだもんね! ツナ、おぶれ!」
フゥ太とランボから同時に責められて、綱吉は苦笑いを浮かべて彼らの頭を順に撫でた。なんとか宥めて幼子の手を引き、家に帰るべく歩き出す。
校門を抜ける寸前に後ろを見たけれど、風紀委員の姿は無かった。上唇を噛んで鼻を啜り、綱吉はウキウキしているフゥ太に小首を傾げた。
「なあ、皆勤賞のご褒美って、何なのか聞いてるか?」
「ううん!」
ちょっと興味を引かれて尋ねると、彼は元気一杯に首を横に振った。ランボとイーピンにも目で問うが、答えはいずれも同じだった。
「最後の日のお楽しみ、なんだって」
初日に草壁に言われた言葉を諳んじたフゥ太に頷き、綱吉は往路よりも高い位置にある太陽を見上げた。アスファルトから立ち上る熱気がじりじりと四人を焦がし、発汗を促す。咥内の唾を飲み、最年長の少年は肩を竦めた。
物で参加者を釣るなど最低だと、少し前まで思っていた。
けれど、今は。
「俺も、釣られてみようかな」
意味深な雲雀の笑みを思い出し、彼は一人呟いた。
2010/07/24 脱稿