只今

 紙が擦れ合う音が断続的に続き、その後トントン、とリズムよく机を叩く音が響く。最後にはガシャン、と何か硬いものを潰す音が比較的大きく響いて、暫くするとまた紙同士が擦れる音が耳朶を打った。
 このみっつの音が順番に、何十回と繰り返される。聞いているうちに睡魔が押し寄せて来て、雲雀は寝転んだソファの上で大きな欠伸を零した。
「ふぁあ、あぁ……」
 いっそこのまま眠ってしまおうか。生理的に浮いた涙を弾き飛ばして薄目を開けた彼は、それまで聞こえていた音が今は止んでいるのに気付き、首を右に倒した。
 三人は楽に掛けられるソファをひとりで占領し、肘掛を枕にしていた雲雀の視界の中央に、積み上げられた資料の山が飛び込んできた。
 長方形のコピー用紙の、片側だけが不自然に膨らんでいる。四つある角のうちの一箇所が、ホッチキスで留められている所為だ。
 その隣には、最初に比べてかなり減ってはいるものの、まだまだ余裕を残す紙の山。こちらは綺麗に真っ平らで、同じ高さのものが五つ、行儀良くテーブルの上に鎮座していた。
「終わったの?」
 そんなわけが無いと知りつつも声に出して問えば、高くそそり立つ塔の向こうで膨れ面をした綱吉が、ホッチキス片手に口をもごもごさせた。
 掌サイズの文房具を親指で押し、乱暴に紙を綴じて山の頂上に放り投げる。それは、載りはしたが片側に大きくはみ出し、そのうち滑り落ちてしまいそうな危うさでどうにか踏み留まるのに成功した。
 雲雀の黒い瞳がそちらに流れたのを受け、苦虫を噛み潰したような顔をした綱吉は、仕方なく手を伸ばして最上部の資料を引っ張り、形を整えた。
 彼の足元には高さ三十センチほどの塔が、既にふたつ出来上がっていた。
「あの」
「休んでる暇はないよ」
 役目を終えたホッチキスを膝に置いた綱吉が、恐る恐る口を開く。しかし雲雀は浮かせた頭を肘掛に戻すと、もうひとつ欠伸を零して片手で口元を覆い隠した。
 眠そうな声で言われ、綱吉は下唇を噛んだ。思い切り床を蹴り飛ばしてやりたくなったが、間違って傍にある資料を倒しでもしたら一大事だ。寸前で思いとどまり、彼は深く長い溜息を吐くことで気持ちを誤魔化した。
 仕方なく五枚ある紙を一枚ずつ手に取り、端をそろえてホッチキスで留める作業に戻る。パチンッ、と硬い音が静まり返った応接室の壁を叩いた。
「なんだって、俺が、こんな事」
「何か言った?」
「いーえ、なんにも!」
 此処は並盛中学校、その応接室。本来の用途を無視し、風紀委員長によって勝手に占拠されている部屋に、綱吉はその委員長とふたりきりだった。呼び出されたのは授業を終えて帰ろうとして、教室を出た直後だった。
 無視しても良かったのだが、雲雀にはあれこれと人には言えない面倒をかけ、世話になった手前、断りづらかった。仕方なくひとり出向いてみれば、待ち構えていたのは大量の書類。
 言い渡された用件は、全学年分、つまるところ並盛中学校に在席する生徒全員に配布する資料を、綱吉ひとりで製本しろ、という事だった。
 聞いた瞬間耳を疑い、雲雀の良識を疑った。並盛中学校は生徒数が多く、一学年に百五十人ほど居る。それが三学年分、計算式は非常に単純だ。
 サーっと血の気が引いて、逃げようと足が勝手に動いた。しかし先に気付いた雲雀に襟首を捕まれ、逃走は実行に移す前に失敗に終わった。
 雲雀の問いかけに声を大にして返し、綱吉は五枚重ねた紙にホッチキスを宛がった。しかし押しても手応えがなく、スカッ、と空気が押し出されただけに終わった。
「ちぇ」
 既に何度も経験しているので、驚きもしない。ホッチキスの上部を開くと、予想通りコの字型の針が尽きていた。
 業務の中断を余儀なくされ、ついつい舌打ちが出た。口を尖らせた彼をちらりと見て、雲雀は天井から降り注ぐライトの眩しさに目を閉じた。
「まだ終わらないの?」
 予備の針が入った箱を取り、押し開けた綱吉に素っ気無く聞く。中身が残り少ないのに顔を顰めていた彼は、聞こえた台詞に露骨にむっとして、奥歯を噛み締めた。
 この資料は風紀委員が独自に発行しているもので、全校生徒に向けて昨今の風紀の乱れを指摘し、厳守するべき内容を列挙したものだ。遅刻はするな、授業中は無駄口を叩くな、に始まり、ネクタイはきちんと結べだの、上履きの踵は踏み潰すなだの、小姑か、と言いたくなるような細かいところまで、項目は実に多種多様だ。
 はっきり言って、これを最初から最後まで真面目に目を通す生徒はいないと思われる。
 こんな資料を作るだけ紙の無駄、インクの無駄だと思うのに、怖くて言い出せない。そもそもどうして自分が、と綱吉はやっとホッチキスを留め終えた資料を山に載せ、疲れた肩をぐるりと回した。
 ある日突然未来に飛ばされて、訳が分からぬまま戦いに巻き込まれ、命の危機にも何度となく直面させられた。ヴァリアーとの指輪争奪戦とは比較にならない苦しい戦いの連続で、それでもどうにかこうにか生き延びて、こうやって元の時間に戻って来られた。
 数ヶ月を過ごした未来の時間はまるで夢であったかのように、綱吉たちが居た時間は、リボーンが先ず行方不明になったその日から一週間程度しか経過していなかった。
 一斉に行方不明になった並盛中学校の生徒らは、イタリアにこっそり旅行に行っていたという苦しい言い訳でどうにか場を乗り切った。事情を理解し、嘘に協力してくれたディーノには、感謝しても仕切れない。
 ともあれ、これでやっとひと段落ついた。もう争い事はこりごりで、当面は大人しく、のんびり穏やかに過ごそうと考えていた。
 それなのに、この有様はなんだろう。
 雲雀の身勝手さは今に始まった事ではない。戦いの最中でありながら中学校ばかり心配するのは、未来に跳んだ時も変わらなかった。
「はぁぁ……」
 当分終わりそうに無い資料の山に溜息を零し、綱吉は薄暗さを増して行く窓の外に目をやった。
「早くしないと、真っ暗だね」
「だったら、ちょっとくらい手伝ってくださいよ」
 綱吉が見ているものに気付いた雲雀が、喉を鳴らして嘲笑いながら囁く。ソファで寝転がっている彼は、綱吉に一方的に仕事を押し付けて、手を貸そうとはしなかった。
 緋色の腕章を嵌めた学生服を下敷きにし、両腕は頭の下に置いて枕の代わりにしている。長い脚は片方だけがソファの上にあって、もう片方は床に垂れ下がっていた。
 ほら、とホッチキスを差し出した綱吉を無視し、雲雀は目を閉じた。あからさまな狸寝入りに腹を立て、綱吉は乱暴にテーブルの端を殴り、震動で揺れた資料の塔に慌てて腰を浮かせた。
 上から手で押さえて倒壊を回避させ、ホッと胸を撫で下ろして苦い唾を飲む。
「ヒバリさん」
「誰の所為だと思ってるの」
「……ぐ」
 無視しないでくれと頼み込めば、薄目を開けた彼は皮肉に口元を歪めて早口に言った。
 たとえ数日間であっても、風紀委員長が並盛中学校から消えたのだ。その間に羽目を外す生徒が現れて、トップを欠いた委員会はこれを取り締まれなかった。
 調子に乗っていた連中は、戻って来た雲雀に速攻制裁を加えられたけれど、混乱は今もまだ水面下で続いている。
 こうなってしまった原因を揶揄されて、綱吉は口篭もった。雲雀が未来に飛ばされたのは、彼がボンゴレ十代目こと沢田綱吉の、雲の守護者だからに他ならない。
「俺が選んだんじゃないのに」
「なに?」
「なんでもありません!」
 八つ当たりに怒鳴り散らし、弾みで近くにあった紙の山を吹き飛ばしてしまう。舞い上がった白い紙に目を奪われ、綱吉は慌てて手を伸ばした。
 塔全壊だけはなんとか食い止めて、肩で息をしながら安堵に胸を撫で下ろす。くく、という声が聞こえたので視線を持ち上げれば、ソファに寛ぐ雲雀が口元に手をやって笑っていた。
 本当に彼は、十年後のあの雲雀と同一人物なのだろうか。未来で出会った彼は、厳しかったけれど面倒見は良かった。
「あっちのヒバリさんのが良かったな」
 恨めしげな目をして愚痴を漏らし、ソファに座り直して資料の端を整える。
「沢田」
 ホッチキスを取ろうとして右手を宙に漂わせれば、名前を呼ばれて衣擦れの音が続いた。
 ゆっくり起き上がった雲雀が、険のある目つきで睨んできた。凄みを利かせた双眸にどきりとして、浮かせた右手が引き付けを起こした。
 指先から生じた痺れが全身に広がるのに、そう時間は掛からない。跳ね上がった心臓が頭の中でバウンドして、ドドド、と怒涛の如く鳴り響く心音が耳元で渦を巻いた。
「は、い」
「今、誰のこと考えた?」
 ぎこちない返事に眉間の皺を深め、雲雀が低い声で囁くように問いかける。心を読み取られた綱吉は大仰に顔を強張らせ、中空に停滞していた右手を握り締めた。
 空気を潰した拳を胸に寄せ、険しい顔つきの雲雀に急ぎ首を振る。
「いえ、そんな」
「誰?」
「だ、誰だっていいじゃないですか」
 問い詰める彼に早口で言い返し、ホッチキスを握って端に押し当てる。紙の揃え方が雑で汚くなってしまったが、綱吉はお構い無しにそれを完成品の山の上に載せた。
 落ち着きを欠いたまま書類を取る速度を速め、次々に仕上げていく。ソファの上で忙しく上半身を右に左に、そして前後に揺り動かす彼を眺め、雲雀は頬杖を着いて面白く無さそうにそっぽを向いた。
 十年後の世界に、十年後の沢田綱吉は居なかった。同じく十年後の雲雀恭弥も、雲雀が時間を跳んだ時には消えていた。
 ホログラムでその姿を一瞬だけ見たけれども、あんな動かず、目を開かず、口も利かない幻を当人だと信じるなど不可能だ。けれど今此処に居る十四歳の沢田綱吉は、十年後の雲雀恭弥と邂逅し、何日間か共に過ごしたと聞いている。
 それは、自分ではないのに。
「早く終わらせてよね」
「分かってますってば」
 仕上がりが雑な資料を取って直ぐに戻し、残り枚数をざっと数える。流れ作業を邪魔された綱吉は声を張り上げ、雲雀が形を崩した塔に次々とホッチキス留めの終わった書類を積み上げていった。
 黙って見ていると眠くなる。肩幅に足を広げ、膝に両手をそれぞれ置いた雲雀が大きく欠伸を零すと、気付いた綱吉が数秒遅れで同じく大口を開けた。
「ふぁ……」
 スピードアップしたのは一瞬だけで、十分とせぬうちに彼の手の動きは鈍った。一枚だけ取ったつもりが複数枚張り付いていて、不要分を各々の山に戻す回数が次第に増えていった。
 大粒の瞳は半分瞼が閉じて、時折うつらうつらと舟を漕いだ。
 頭がガクン、と前に崩れ掛ける度にハッと我に返って意識を取り戻し、慌てふためいて顔を赤くした後、中断していた作業に戻る。いつの間にか手の中は空っぽで、ありかを探してテーブル下を覗き込む頻度も高くなっていった。
 見ていると面白くて、飽きない。綱吉の欠伸につられる格好で口元を覆い隠した雲雀は、最初に比べれば随分減った五つの紙束に目を細めた。
 綱吉を取り囲む資料を各クラスに運ぶのは、明日でいいだろう。窓の外はすっかり日が落ちて、真っ暗闇に染まっていた。
 下校時間はとっくに過ぎ、箸を片手に夕食に舌鼓を打つ時間帯も既に終わった。空腹感は眠気を強め、餓えた綱吉は空気を噛み砕いて飲み込んだ。
 後もう少しだというのに、思うように身体が動かない。ソファに座っての単純作業は楽な筈なのに、疲労感が身体中に蔓延して、少しでも大きく腕を回せば肩がボキリと音を立てた。
 長時間同じ姿勢で居続けたので、腰が痛い。一度立ち上がって屈伸運動でもしたいのに、雲雀がサボるなと怒るのでそれも出来ない。
 綱吉同様眠そうに欠伸を繰り返す彼だけれど、紙が擦れ合う音が邪魔なのか、さっきまでのように横になって眠りに就こうとはしなかった。そういえば木の葉が落ちる音でも目を覚ますと、彼自身も言っていた。
 渋い顔をしてホッチキスを留め、紙束を脇に置いて次に手を伸ばす。だけれどハッとした時には左手に持っていたはずのホッチキスは膝の間に落ちて、時計の針は記憶違いでなければ五分近く先に進んでいた。
 瞬きをしただけのつもりだったのに、なんという事だろう。そんな繰り返しだから、作業効率はどんどん下がって、時間だけが無為に過ぎていった。
 右を上にして脚を組んだ雲雀が、左腕をソファの背凭れに引っ掛けて眠そうに目尻を擦った。
「あと、ちょっと……」
 長時間の資料との格闘の末、最初はまったく見えなかったテーブルの天板が見えて来て、綱吉は呻くように呟いた。
 これが終わればやっと帰れる。雲雀から解放される。
 安堵に気の抜けた笑みを零し、彼は最後の一冊を仕上げて両手を高く掲げた。
「終わったー!」
「終わった?」
「終わったあぁぁ……あ~」
 苦楽を共にした戦友たるホッチキスを放り投げ、両足を跳ね上げてテーブルを蹴り飛ばした綱吉がそのまま姿勢を横に傾ける。頬杖を崩して顔を上げた雲雀に同じ単語を繰り返し、彼は力尽きてソファに倒れこんだ。
 柔らかな革の肌触りを心地よく受け止めて、なんとも言えない達成感に身を委ねる。程よい疲れは彼の中にあった睡魔を増長させ、瞼は先ほどまでと比べ物にならないくらい重くなった。
 時計の針を確かめるのさえも億劫だ。これから家に帰り、遅い夕飯をひとりで食べ、風呂に入らなければならないというのに、もう一歩も動けそうにない。
「ねむい……」
 駄目だと思うのに、身体はいう事を聞かない。だらしなく開いた口から零れ落ちたひと言に、聞いていた雲雀は黒光りする双眸を細めた。
「じゃあ」
 窓の外の闇を一瞥し、彼は学生服を掴んで重い腰を上げた。膝を伸ばした時に関節が音を立て、小さな痛みが襲い掛かる。それを無視して、雲雀はゆっくりと床板を踏みしめてテーブルを回りこんだ。
 綱吉の寝転がるソファに歩み寄り、背凭れと肘掛にそれぞれ手を添えて、身を屈める。
 天井から射す光を遮られ、暗さを感じた綱吉は薄ら瞼を持ち上げた。
 悪戯っぽく微笑んでいる彼を間近に見つけ、きょとんとしながら小首を傾げる。
「ヒバリさん?」
「このまま眠ってしまおうよ」
 名を呼べば、彼は返事の代わりにそんな事を囁いた。
 一瞬耳を疑い、床に垂れ下がっている綱吉の脚をソファに引き上げた彼の意図を察して、綱吉は気の抜けた笑みを浮かべた。落ちてくる暗がりに目を閉じて、堪えきれずに噴き出す。
「ちゃんと起こしてくださいよ」
「分かってる」
 十年後の雲雀は、特訓中に気を失った綱吉を起こしてくれなかった。思い出しながら強請ると、雲雀は緩慢に頷き、綱吉の小ぶりな鼻を小突いて上向かせた。
 掠めるだけのくちづけに肩を揺らし、降りかかる適度な重みに身を任せる。
 脇から腕を回されて、上下を入れ替えられた。肩から背中に学生服を掛けられて、綱吉は彼も寒くないようにと、四肢を伸ばして雲雀に絡ませた。
 長い息を吐いた雲雀が、ふと真面目な顔をして綱吉を見詰めた。視線を不思議そうに受け止めると、彼は数秒の間を置いて口を開いた。
「おかえり」
 おやすみ、ではなく。
 思いがけないひと言に綱吉は目を点にして、直ぐに相好を崩して彼の胸に頬を埋めた。
「ただいま」
 長く待ち侘びていた平穏な生活が、今こうして手元に還ってきたのを実感する。
「お帰りなさい、ヒバリさん」
 そして願わくば、永遠に、このままで。
 祈るように告げた綱吉の髪を撫で、雲雀は静かに目を閉じた。

2010/03/29 脱稿