交誼

 少し年代掛かったアルバムを開いた中に居たのは、恰幅の良い男性と、寄り添うようにして立つ細身の女性だった。
 当時から顎鬚を生やしていたのかと、やや色褪せた感のあるカラー写真を小突きながら思う。次のページでも仲睦まじく腕を組む男女の姿が描き出されており、背景はあろう事か、まだオープンして間もない黒曜ヘルシーランドだった。
「俺の産まれる、前」
 楽しそうに微笑む若かりし母と、父。写真の片隅に印刷された数字は、綱吉の生年月日よりも前のものだった。
 付き合い始めたばかりだろうか、ふたりともどこかぎこちない。笑い合っているのに変に余所余所しいとでも言うのか、微妙な距離感が写真から感じられた。
「ああ、そうか。手、繋いでないんだ」
 ページを進める毎に、最初感じた違和感めいたものが消えていく。両親の間にあった遠慮と言うものが消え、相手を慈しむ雰囲気がありありと感じられるようになっていった。
 一枚目に出て来る写真と十枚目に貼られた写真を見比べれば、一目瞭然だ。ただ横に並ぶだけだったものが、次第に腕を組み、或いは肩を抱き、互いに密着しあうものが増えている。見詰め合っているものまであって、眺めているだけで無性に背中がむず痒くなった。
 人目を憚りながらも、相手を好く感情が溢れ出して止まらない。そんな空気が滲み出ており、未だ新婚夫婦並みのラブラブぶりを発揮している実の両親の原点を見た気がして、綱吉は軽く眩暈を覚えた。
 この写真から十五年近くが経過しているというのに、奈々の若々しさは少しも変わっていない。当時は髪が長かったのかと、今とは違う雰囲気を新鮮に、それでいて若干気恥ずかしく思いながら、綱吉は彼女の隣に常に陣取る男の額を引っ掻いた。
 山本並みに短く切り揃えた髪に、屈強な体躯の男性。ランニングシャツ姿が多いのは、その太く逞しい腕をひけらかす為なのかもしれない。
 実の父でありながら、奈々に向けるよりもはるかに冷たい目をして、綱吉は家光の笑顔を指で押し潰した。そこに、鏡に映る自分の顔を当て嵌めてみる。
「……駄目だ」
 あまりの不釣合いさに涙が出て来るほどで、彼は急いで脳内の想像図を打ち消し、首を振った。
 百七十センチを越える身長も、太腿のように太い腕も、なにもかも綱吉にはないものだ。割れた腹筋や、男らしい骨格、全てが家光に程遠い。
 彼はアルバムから顔を離すと、トレーナーの袖をまくった。肘を九十度曲げて力瘤を作ってみるけれど、その部分が少しだけ膨らんだだけで、テレビでボディービルダーがみせるような隆々とした筋肉は、何処を探しても見つけられなかった。
 未来の世界でも散々鍛えられ、少しは逞しくなったかと思っていたのだが、全く駄目だった。
 一年前と比べれば、確かに頑丈になったという自覚はある。黒曜ヘルシーランドで六道骸と対峙した後、壮絶な筋肉痛に襲われて数日動けなかったのを思えば、死ぬ気状態になっても平気で居られる今は、確かに強くなったといえるだろう。
 だが、それが表だって現れてこないのが、綱吉には不満だった。
「むーん」
 上腕を下から抓み、軽く引っ張ってみる。指の形に凹んだ皮がびろーん、と伸びて、薄っぺらな肉が骨に張り付いている様が見て取れた。
 掌で包んで全体で揉めば、とても柔らかい。ふにふに、という表現が一番しっくり来るくらいで、自分でやっておきながら、綱吉はあまりの結果に激しく落胆した。
 山本は野球をやっているのもあって、この辺りはとても固い。以前何かの機会に触らせてもらったのを思い出し、彼は額を覆って天を仰いだ。
 ボクサーである了平の鍛え抜かれた肉体は勿論のこと、獄寺もああ見えてそれなりに男らしい骨格をしている。未来の世界で、ほんの僅かな時間でしかなかったけれど、邂逅を果たした十年後の彼は、それはもう驚くくらいに大人の男性へ変貌を遂げていた。
 考えてみれば、獄寺は半分異国の血を引いているのだ。生粋のイタリア人であるディーノがとても背の高い、細身ながらがっしりとした体格をしているのを思えば、納得の成長ぶりと言えた。
「ぬあーー」
 だからこそ余計に悔しくて、綱吉は唐突に雄叫びを上げると、両手両足を投げ出して床に倒れこんだ。
 大の字になり、見慣れているくせに妙に懐かしさを覚える天井をじっと見詰める。数ヶ月間この部屋を離れていたなど、今となっては考えられない。
 彼が体験した未来は、過去のものとなった。これから先に進む時間が、あの荒んだ世界と同じになる確率は、ゼロに近いところまで下がったはずだ。だからこそ比較するなど無駄でしかないと思うのだけれど、矢張り考えずにはいられない。
 照明の眩しさに耐え切れず、綱吉は目を閉じた。両手を床に押し当てて腹に力を込め、ゆっくりと上半身を起こす。右手を泳がせると、広げたままだった古いアルバムに当たった。
 引き寄せ、抱えて膝の上に置く。悔しいくらいににこやかな笑顔を浮かべる男女が、変わる事無くそこから綱吉を見上げていた。
「俺だって、父さんの血が入ってるはずなのになぁ」
 ボンゴレ初代は、生粋のイタリア人だ。それがどういう経緯か日本にやってきて、帰化して、この国の女性と子供をもうけて、それが代々繋がって綱吉が誕生した。初代の血筋は、家光に流れている。
 十年後の世界で合間見えたボンゴレリングの記憶、そこに現れた初代ボンゴレの姿は、綱吉に瓜二つだった。だが全体的な雰囲気は大きく異なり、似て非なる存在、というのを痛感させられた。
「この髪の毛は、絶対、初代からの遺伝だよな……」
 似なくて良いところは似て、欲しかった色々なものが引き継がれなかったのは残念でならない。外見年齢の差があるとはいえ、初代ボンゴレことジョットを捕まえて、「女の子みたい」と表現する輩は流石に居ないだろう。
 つい先日、奈々コーディネートの服を着て、詰まるところ彼女が頼んでいないのに買って来た服で外出したところ、偶々買い物中だったハルとばったり遭遇し、言われてしまったのだ。
 可愛い、と。
 悪気があったのではなく、単に思い浮かんだ感想を率直に述べただけに過ぎない。あの年頃の女の子は、何に対しても「可愛い」と表現するとも聞く。しかし男としてそう形容されるのは屈辱であり、綱吉は少なからず傷ついた。
 それでハルを咎めたり、悪く思ったりすることはない。ただちょっと、悔しいという気持ちが膨らんだだけで。
「俺だって、もっと大きくなれば」
 足を左右に広げて間にアルバムを落とし、両手を床に衝き立てて身を屈める。真上から若き頃の父を睨み付け、綱吉は奥歯を力いっぱい噛み締めた。
 もっとも、それも長くは続かない。十秒と経たないうちに疲れを覚え、彼は風船が萎んでいく時のように身を捩り、肩を竦めて床に座り込んだ。
「……なるのかなー、俺も」
 泣きが入った声で呟き、癖だらけの髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回す。さっきからひとりで百面相を繰り返している原因は、とどのつまり、そういう事だ。
 十年後の世界で顔を合わせた十年後の仲間は、皆、当然ながら成長していた。フゥ太には身長を越されていたし、とても子供っぽい性格をしていると思っていた獄寺までもが立派な大人に変貌していた。山本も呑気さは変わっていないものの、一人前の風格を手に入れて非常に落ち着いていたし、了平も現在の猪突猛進ぶりが嘘のように冷静な部分を手に入れていた。
 そして誰よりも変わっていたのが――
「ずるいよ、みんな」
 後姿を思い浮かべ、綱吉は拳を固くした。不貞腐れた声で呟き、床を一発殴りつける。
 十年経てばあんなにも優しくなるだなんて、聞いていない。知らなかった。今の姿からは想像がつかないし、考えもつかない。
 もっと傲慢で、我が儘で、仏頂面のままだと思っていた。
「ずるいよ」
 同じ言葉を、けれど向ける相手を変えて呻くように呟く。緩く握った拳を膝に置き、その空洞を睨み付け、彼は上唇を噛み締めた。
 結局、十年過ぎた先の自分の姿を見るのは叶わなかった。写真は免許証の、明らかにリボーンが細工したと分かるもの一枚だけ。その顔立ちは幼くて、過去の姿に差し替えられていたと思って間違いない。
 未来で出会った人々も、一様に十年後の綱吉に関わる情報には口を噤んだ。アジトでリボーンと合流する前に、山本が褒めてくれたくらい。背が伸びた云々の話題は、ついに最後まで出てこなかった。
「足、そんなに短いかな」
 アルバムを跨ぐ格好で右足を持ち上げ、爪先をぶらぶらさせながら自問する。身長から換算すれば平均値に入るだろうが、他のメンバーと比べられれば当然短いに決まっている。
 十年後の沢田綱吉の趣味のひとつが、バイク。誰に影響を受けたのかは、聞くまでも無い。
「ぐむ、ぬ」
 腹筋が早々に疲労を訴え、綱吉は踵から足を下ろした。ぐるりと首を回して溜息を零し、アルバムを閉じて上から押さえ込む。間に潜り込んだ空気も全て押し出す勢いで力を込めて、彼はそれで腹の中にあった苛立ちその他を発奮させた。
 大人になった自分自身など、想像出来ない。マフィアの頂点、ボンゴレ十代目を継いでいる未来など、特に。
「どうして俺は、そんな道に進んだんだろう」
 自分の事なのに分からなくて、彼は虚空に向かって問いかけ、ゆるりと立ち上がった。厚みのある重いアルバムを右手に持ち、元あった場所に戻そうと部屋を出る。
 向かったのは奈々と子供達の寝室だ。
 元々は家光と奈々の部屋だった。しかし彼が長期不在となり、押しかけ居候が増えたことで、部屋の様相は一変してしまった。玩具があちこちに散乱し、壁にはランボの描いた落書きが。物が投げつけられた所為で柱には傷が入り、押入れの襖は破れてそのままだ。
 今は誰も居ない部屋に入り、その穴が開いた襖を横にスライドさせて押入れに頭をもぐりこませる。収納棚に一箇所だけ空洞があって、綱吉はそこに、運んで来たアルバムを押し込んだ。
 上を見れば布団が収められ、その隣の僅かなスペースに、今は着る人の居ないスーツや作業着が吊り下げられていた。
 試しに手にとってみると、ほんのり防虫剤臭い。上着をハンガーから外して服の上から肩に合わせてみるが、案の定今の綱吉にはかなり大きかった。
 袖を通したところでだぼだぼで、手がすっぽり収まってしまいそうだ。裾も腰ではなく、太腿を軽く覆って膝に届くかもしれない。スラックスはウェストががばがばで、丈も当然長い。
「父さんって、何食べてあんなに大きくなったんだろ」
 子供と大人なのだからサイズが合わないのは当然だが、それでも負けたようで悔しい。不貞腐れた顔で呟いてスーツを戻した彼は、汚れてもいないのにトレーナーを叩いて埃を払い、意味もなくその場でくるりと回った。
 獄寺や山本、了平も、スーツ姿だった。骸のアレはどうなのか分からないが、ネクタイも締めていたし、一応そうなのだろう。
 大幅に着崩していた男を頭から追い出し、入れ替わりに上から下まできっちりと着こなしていた人物を思い浮かべる。黒一色の中に紫を添えたあの人は、その服装に似合う大人に成長を遂げていた。
 恐らく、今の彼に着せても、それなりに見栄えするだろう。ならば自分はどうかと考えて、綱吉は漬物石で頭を殴られた気分になった。
「どうせ馬子にも衣装ですよ!」
 落ち込み、憤慨してひとり叫ぶ。思い切り畳を蹴りつけると、階下にまで響いたようで、直後に階段下から奈々の何事か問う声が響いた。
「なんでもなーい!」
 地団太を踏み、最後に広げた手でピシャリと自分の顔を叩く。腹立たしさを表情に滲ませ、彼は唇に牙を立てた。
 要するに、自信が無いのだ。今の自分と、十年先の世界に存在していた沢田綱吉は、同じで、違う。あんな風に皆に慕われて、頼りにされて、そして世界を救う為に自らを犠牲にするのも厭わないような、そんな人間になれるとは到底思えなかった。
 最初に話を聞いた時は、誰も守れないようなちっぽけな人間でしかないと感じた。けれど入江正一と会い、それまで聞かされてきたのとは全く別の沢田綱吉の姿を教えられて、考えが変わった。
 自分は賭けられるだろうか。失敗すれば何もかも終わるという究極の状況に追い込まれてなお、過去の自分を、仲間を信じ、思いを貫くことが出来るだろうか。
 悔しい。羨ましい。妬ましい。
 あの人にあんな顔をさせられる沢田綱吉になるには、どうすればいい。
「ヒバリさん」
 十年先も一緒に居られると知って、嬉しかった。秘密裏に実行しなければならない計画の中枢に彼が居たことが、未来の沢田綱吉と雲雀恭弥との繋がりの深さ、強さを物語っている。
 そんな風に、自分もなりたい。今の彼と、この先もずっと共に在りたい。
 どうしたら猫みたいに気まぐれで、虎の如く獰猛で、そして鳥のように自由な彼を繋ぎとめられるだろう。
 考えて、考えて、考え抜いた結果出て来た結論は、結局のところ今の自分では駄目だという、そういう絶望に近いものだった。
 未来の雲雀恭弥は、未来の沢田綱吉と入江正一の極秘計画に加わっていた。それはつまり、綱吉の言葉に雲雀は耳を傾けていたという事だ。長時間の話し合いの場を設けられるくらいの親密さと、計画を誰にも漏らさないという信頼が、ふたりの間には成立していた。
「……未来の俺にあって、今の俺に足りないもの」
 翻って、現在の自分たちはどうだろうか。未来から無事に帰還を果たして以後も、雲雀との接点は相変わらず少なかった。
 学校に通っている以上、風紀委員である雲雀とは頻繁に顔を合わせる。だが会話も稀ならば、触れ合う機会もまた少なかった。群れていると容赦なく咬み殺されて、しかも攻撃の手は以前にも増して激しくなっていた。
 闘っている時だけ、雲雀は楽しそうだ。もっと穏やかに時を過ごしたいのに、彼と関わるだけで何もかもがデンジャラスなものに変わってしまう。
「あー、もう……」
 誰も居ない和室に座り込み、足を投げ出して壁に寄りかかる。隣の窓からは燦々と陽射しが差し込み、爪先だけが日向に入ってほんのり温かかった。
「なんで俺、あんな人、好きになったりしたんだろ」
 彼ほど敵に回して恐ろしく、味方に置いて心強い人はいない。雲雀が居ればきっと大丈夫、絶対に負けない。そう思わせてくれるなにかが、あの人には備わっている。
 背中は彼に預けておけば安心だと、未来の自分もそう思ったに違いない。だからこそ雲雀に計画を話したのだろうし、助力を求めたのだ。
 だがもし、今のこの時代にそんな大事が発生した場合、綱吉は決断できるだろうか。そして、雲雀は協力してくれるだろうか。
 思い巡らし、どうやっても無理、との結論しか出ない状況に喘ぎ、綱吉はぐーっと仰け反ってそのまま壁沿いに横倒しになった。両手も投げ出して、畳の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
 一度だけ入った未来の風紀財団のアジト、そこは広大な和室を抱く日本建築様式を踏襲する施設だった。
「ヒバリさんって、俺のこと、好き……なんだよね?」
 半眼し、未来の彼と今の彼を同時に瞼の裏に呼び出して自問する。無意識に手は唇を撫で、かさついた皮膚を引っ掻いていた。
 ここに、彼の唇を押し当てられた記憶を呼び覚ます。
 黒曜ヘルシーランドでの騒動の後、同じ病院に入院した彼を見舞った時が最初。ムスッとした表情を崩さない彼に居心地の悪さを覚え、あれこれ理由をつけて病室を出ようとしたところを呼び止められて、無理矢理奪われた。
 あの時はただひたすら驚いたし、キスされたし直後に噛み付かれたので、どちらかといえばそちらの記憶の方が生々しい。血が出て、何をするのかと怒鳴れば、ムカついたからとしか言ってくれなかった。
 二度目は、ボンゴレリング継承に関わる争いに巻き込まれた頃。当時はまだ彼との関係はぎこちないままで、キスの理由を問うことも出来ずに悶々とした日々を過ごしていた。
 彼が雲の守護者に選ばれたと聞かされた時は驚き、戸惑い、そして少しだけ嬉しかった。
 恋心を自覚したのは、嵐のリング争奪戦が終わって直後。帰ってきた彼と廊下で遭遇した、まさにその瞬間だった。
 彼の姿を目にした途端に背筋が慄き、身体中の血液が沸騰するような衝撃に襲われた。魂が震えた、とでも表現すればいいのだろうか。兎も角総毛立って暫く動けなかった。
 雲雀が居ることの心強さを知った。彼が居ればなんだって出来るし、どんな苦難が待ち構えていようと決して負けない。
 その思いが、そのまま自分の自信に繋がった。自分は彼が居る限り負けないという自負を抱くに至って、修行を完成させてザンザスに打ち勝つ事も出来た。
 疲れ果てて眠りに就いて、一夜明けて皆で勝利を祝い、そしてひっそり、雲雀に会いに行った。
 群れるのを嫌う彼に共闘を強いたこと、そして彼が彼なりの方法で応えてくれたこと。本来彼には全く関係ない問題だったのに巻き込んでしまった侘びも含め、礼を言いに行った帰り際に、二度目のキスをした。
 咬まれなかった。ただ触れ合わせるだけの、何かを探るような慎重なくちづけだった。
 それが不思議で、変な感じがして、腰の辺りが変にもぞもぞして落ち着かなかった。どんなリアクションを取れば良いか分からなくて、ただ真っ赤になって俯いていたら、嫌ではないのかと聞かれてしまった。
 嫌だったらとっくに逃げ出している。殴り倒している。そう言えば、雲雀は笑った。頬を撫でられて、顔を寄せられて、息を吹きかけられて、目を閉じた。
 三度目のキス以降は、数えていない。そんな暇も、余裕も、ゆとりもなかった。
 好きだとは言われていないが、それに順ずる行為だったはずだ。でなければ、あんなことしない。綱吉も彼が好きだったから許したのであって、そうでなければあんな恥ずかしい真似、出来るわけがない。
「うー……」
 思い出しているうちに羞恥心がこみ上げてきて、綱吉は額を畳にこすり付けて顔を隠した。両手両足を交互に振り回して一頻り暴れ、深く長い息を吐いて仰向けに姿勢を替える。
 木目が際立つ天井をぼんやり見詰め、彼は再び唇に指を置いた。
 何十回目か、何百回目か知れないキスは、あの日以降、回数が増えないままだった。
「ヒバリさん」
 姿は見かける。目も合う。だけれど、そこから先に行かない。以前にも増して獄寺が綱吉の近くに陣取り、目を光らせているというのもあろう。
 十年後の世界でボンゴレ十代目となった綱吉の片側には、右腕となった獄寺が常に控えていたらしい。そういう話を敵だった男から聞かされて、変な意味でスイッチが入ってしまったのだ。
「あー、もう」
 彼の好意はありがたいが、行き過ぎているところもあるので時々鬱陶しい。身を起こして肩を回し、綱吉は十年後の雲雀と交わした少ない会話を反芻した。
 まったくもって、十年後の沢田綱吉が羨ましい。苦もなく彼の心を射止め、繋ぎとめているのだから。いや、他ならぬ自分の事だから、少なからず苦労はあっただろう。
「ヒバリさんをワクワクさせる、俺……」
 手厳しい修行の最中、雲雀はそんな事を口にした。十年後の沢田綱吉は、雲雀恭弥にそんな感情を抱かせられる相手だった証拠だ。
 根っからの戦闘狂で、強い者を求めて止まない雲雀。その彼が興奮を抱くという沢田綱吉も、ならばとても強かったに違いない。少なくとも、今現在中学生たる雲雀恭弥に何の関心も払ってもらえずにいる沢田綱吉よりは、確実に。
「って、ことは、だ」
 空っぽの掌を見詰め、握り、彼は嘯いた。
 マフィアの後継者になるなど、心底嫌だ。たとえ雲雀の気を引くのに最も手っ取り早い手段だとしても、これだけは選べない。
「よし」
 だから別の方向からアプローチを仕掛けることに決め、彼は深く頷いた。拳を固くして、決意を心に刻み込む。
「そうと決まれば……」
 先ずは、誰にも負けない強さを。その為に、今出来ることは。
 中学生らしい幼稚な策謀を頭の中に巡らせ、綱吉は立ち上がった。膝を叩き、押入れの襖を閉めて階下へ急ぐ。階段を駆け下りて台所に顔を出した彼は、一連の騒音に首を捻る奈々に愛想笑いを返し、冷蔵庫のドアを開けた。

 翌日は快晴だった。
 空には白い雲が泳ぎ、小鳥の囀りが何処からともなく聞こえて来る。風は穏やかで、暑くもなく、寒くも無い、絶好の観光日和だ。
 とはいっても、中学生である綱吉には学校がある。天気が良いから休みます、とは口が裂けても言えない。
 綿菓子のような雲が流れて行くのを見送り、彼は家から持って来たパック牛乳を傾けた。注ぎ口を直接唇に寄せ、中身が零れないように注意しながら咥内に流し込んで行く。
「んぐ、んぐ……」
「おいおい。大丈夫か、ツナ」
「ぷ、はー」
 途中で口の端から少し垂れてしまい、慌てて意の中へ液体を流し込んで反らしてした背筋を戻す。口元を拭って息を吐いた彼に苦笑して、弁当箱を空にした山本が肩を竦めた。
 ハンカチを貸してやりたいところだが、生憎と持ち合わせていない。引っ張りだしたズボンのポケットが空っぽだった彼に目を細め、綱吉は首を振って袖に白い液体を吸わせた。
 二段重ねの弁当箱は米飯中心で、牛乳との組み合わせは少々異質だ。しかし彼は口の中で味が混ざり合うのも厭わず、休めていた手を動かし、残っていた副菜を掻き込んで噛み砕いた。
 咀嚼を繰り返して飲み込み、再び牛乳で漱ぐ。一リットル入りの紙パックは彼の手には大きくて、片手で扱うには少し無理があった。
「どうしたんだ、急に」
「ん」
 箸を持っては下ろし、忙しくしている親友の突然の行動に驚きながら、山本が問う。風呂敷に特大弁当箱を包んだ彼は、綱吉の膝元に広げられたラインナップを右から順に眺め、眉を顰めた。
 弁当箱に箸は勿論のこと、学校に持ってくるには大きすぎる牛乳パック、そして透明な袋に入った小魚。
 煮干、と書いたシールがでかでかと貼り付けられているそれは、恐らくは出汁を取るためのものだ。そんなものを何故彼が持って来ているのか、さっきから不思議でならない。
「ちょっとね」
 しきりに首を捻っている友人に意味深な笑みひとつを返し、綱吉はゲップを吐いて髭が生えた鼻の下を拭った。
 食べる量が多ければ、食べるのも早い山本とは違い、綱吉は比較的少食だ。たっぷり時間をかけて噛み砕き、飲み込む。そういう食生活を心がけていた筈なのに、今日の昼に限って、その傾向は異様なまでに薄れていた。
 山本を真似たわけではなかろうががっつき、早食いを実践している。牛乳をがぶ飲みして、必死になって沢山食べようとしている。
 いかにも身体に悪そうな食べっぷりだが、自分もそういう点があるのであまり強く責められない。返答を誤魔化されてした綱吉をじっと見詰めてみるものの、彼は食べるのに夢中で、山本の視線には反応してくれなかった。
 仕方無しに話題を変え、山本は閉ざされている屋上の入り口に目を向けた。
「遅いな、獄寺」
「んぁ、うん。そだね」
 口の端に米粒を付け、綱吉は一呼吸置いてから頷いた。
 弁当持参のふたりとは違い、獄寺はいつも学食でパンを購入して食べている。屋上で合流すると決めて、昼休み開始と同時に彼を教室で見送ったのだが、以後かなりの時間が過ぎているのに彼は未だ現れずにいた。
 心地よい風が吹く屋上は、暖かい昼を過ごすのに最適の場所だ。もっとも此処は、本来生徒は立ち入り禁止。風紀委員に見付かりでもしたら、その瞬間に咬み殺されてしまう。
 それもちょっと良いかな、と一瞬考えて、綱吉は弁当箱の隅に残っていた梅干の種を箸で転がした。
 今日も今日とて、雲雀と接点は持てずにいた。遅刻しなかったし、服装に乱れもなかった綱吉は、朝から風紀委員とは無縁の生活を過ごしていた。
 遅刻したい、という願望はいけないことだと分かっている。リボーンに毎朝叩き起こされて、余裕があるうちに獄寺が迎えに来るものだから、未来から帰って以後、綱吉は一度も朝寝坊していない。
 規則正しい生活を送るのは喜ばしい事なのに、不満ばかりが募っていく。最後に残しておいたから揚げを頬張って飲み込んだ彼は、続けて牛乳パックを傾けて最後の一滴を舌で受け止め、乱暴に箸を置いた。
「なー、ツナ」
「うん?」
「なんか今日、スゲー苛々してんな」
「そう?」
「ああ」
 ご馳走様の合図で両手を叩き合わせ、肩の力を抜いて息を吐く。向かい側から声がかかって、綱吉は片付けながら顔を上げた。
 手は動かし続け、小首を傾げる。言われても実感が沸かなくて、そうなのだろうかと考えるが、やはり思い当たる節は見当たらなかった。
「そんな事ないと思うけど」
 空っぽになった弁当箱を重ね、蓋をしてバンドで固定する。その上から風呂敷に包んで上で端を交差させて結び、間に箸ケースを挿し込めば完成。手早く収納を済ませた綱吉の言葉に、山本は鼻から息を吐いて相槌を返し、胡坐を崩して右膝を立てた。
 高くなったところに肘を置いて頬杖をつき、親友の顔を正面からじろじろ見詰める。訳が分からなくて綱吉が困惑していると、彼は不意にニッと白い歯を見せた。
「んじゃ俺の気のせいかな。なんか、向こうから帰ってから、ツナ、ずっと悩んでるみたいだったから」
「えっ」
 鋭いところをずばり指摘され、思わず声が裏返った。吃驚して目を丸くしている彼を呵々と笑って、山本は自らボロを出した綱吉を小突く仕草を見せた。
 距離があるので届かないが、本当に指で弾かれた気分になって、綱吉は額を押さえて俯いた。決まりの悪い顔をして、あっさり見抜いてしまった彼の勘のよさに感服する。
「そんな事は、……あるんだけど」
「俺で良かったら聞くぜ?」
「ううん、ありがとう。大丈夫」
 否定したところで、どうせもうバレてしまっている。ただ悩みの中身までは教えるわけにいかず、親友の心遣いに感謝しながら、綱吉は首を横に振った。
 手を下ろし、居住まいを正す。まさか山本も、綱吉が雲雀との今後に悩んでいるとは思ってもいまい。
 肩を竦めて溜息を零し、彼は最後に残していた煮干の袋を取り上げた。台所から昨晩のうちにこっそり拝借して来たものだが、同じ物がもうひと袋あったので、奈々も急ぎ困ることはなかろう。
 未開封のそれを左右から抓み、糊面を剥がすべく彼は肘を外向きに突っ張らせた。
「……そか」
 彼の行動を見守る山本が、微妙な顔をして小さく頷く。その煮干をどうするつもりなのか問いたい気持ちは満々なのだが、訊いたところで予想通りの答えが返ってくるのは明白だった。
 食べるつもりなのだろう。
「あのさ、ツナ」
「ん?」
「あーっ、くっそー!」
 それは止めておいた方が良いのではなかろうか。老婆心を働かせて身を乗り出した山本の前で、綱吉が袋の裂け目に手を押し込んだ。そこへ突如、彼らの右手から大声が飛んできた。
 ゴンッ、と凄まじい音と共に屋上に駆け出して来たのは、銀髪を振り乱した獄寺だ。
 蹴り破られたドアがぶらぶらと揺れて、やがて風に押されて一気に閉まる。その音にも肩をビクつかせた綱吉は、怒り心頭の獄寺に唖然とし、引き抜いた煮干を何本か取りこぼした。
 太腿で跳ねた小さく固いものに気を取られ、綱吉の注意が一瞬獄寺から逸れる。彼の手には購買で手に入れたと思しきパン袋が握られていたが、袋の口は破れ、中身はなかった。
「テメー、瓜! なにしやがる!」
 腿の間に潜り込んでしまった煮干を取ろうと、綱吉は腰を浮かせた。その向こう側で獄寺が吼える。耳に飛び込んできた単語に、彼はハッと息を飲んだ。
 瓜。
 珍妙な名前であるが、それは獄寺が未来から連れ帰った生物型匣兵器の呼称だ。見た目は小柄な猫で、耳や尻尾に嵐属性の赤い炎を纏っている。その姿通りの俊敏さとやんちゃさを兼ね備え、性格は我が儘で勝手、そして凶暴。
 飼い主である獄寺の命令などお構いなしの暴れん坊ぶりは、この時間にやってきてからも健在だった。
「え」
「ツナ、危ねえ!」
 匣兵器は開匣者の炎をエネルギー源としているので、生身の獣とは違って食物から栄養素を得る必要はない。しかし中にはごく稀に、好んで人間と同じ食べ物に興味を示し、これを貪り食うものもあった。
 そして獄寺の瓜も、そのうちのひとつ。
 嫌な予感に綱吉からサッと血の気が引いた。同時に山本の悲鳴に近い声が響き、彼は中腰の体勢で凍りついた。
 瓜の鋭い爪で引っかかれた経験は、枚挙に暇が無い。遠慮など一切ない攻撃は、痛い以外の表現が思いつかないくらいだ。
 飼い主たる獄寺にまで容赦なく爪を立てるのだから、綱吉にだけは甘える、なんてことも無論ありえない。深紅に燃え盛る炎が視界の端を過ぎって、綱吉はヒッ、と竦みあがった。
 早く煮干を回収し、隠さなければ酷い目に遭う。それが分かっているのに身体は動かず、何の対処もとろうとしなかった。
「待て、瓜。十代目!」
 顔中傷だらけにした獄寺が伸び上がり、切羽詰った声を轟かせる。懸命に小さな生き物を追いかけて腕を伸ばす彼だが、悉く空振りして標的は自由自在に屋上を駆け回った。
「フニャー!」
 荒い鼻息が間近から聞こえた。綱吉は目を見開いたままブリキの玩具のようにぎこちなく首を巡らせ、持っていた煮干の袋を膝に落とした。
 人間には分からない匂いを嗅ぎ分けたのだろうか。瞬間、獄寺の腕を掻い潜った瓜の目がキラン、と輝いた。
 獄寺が屋上に飛び込んできてから、たったの十秒も経っていない。全てがスローモーションで、綱吉はヒクリと頬を引き攣らせ、着地と同時に身体の向きを変えた、見た目だけは異様に可愛らしい子猫に背筋を粟立てた。
 硬いコンクリートの大地を肉球で蹴り飛ばし、瓜が全身をバネの如く撓らせて大きく跳びあがる。
「ニャーッ!」
「ぎゃー!」
 煮干を握る手を思い切り引っかかれ、綱吉はみっともなく悲鳴を上げた。
 咄嗟に肩を跳ね上げて手を後ろへ逃がすが、瓜は追いかけて来た。人の膝に飛び乗ったかと思うと、器用に身体の各部位を足場にして肩に乗り、最終的に頭に登ってそれよりも上にある綱吉の右手に爪を突きたてる。
 グサっと来て、あまりの痛さに彼は膝立ちのまま上半身を振り回した。
「瓜、十代目!」
「ツナ」
 拳を解いて必死に抗うが、瓜はお構い無しに彼を掻き毟り、間から零れ落ちた煮干を器用に口で受け止めた。そしてやおら綱吉の後頭部を蹴り、一メートル以上ある高さから床に降り立ってタタタ、と一目散に走っていく。
 獄寺は追いかけるかで迷い、直後に大きなものが倒れる物音にハッと背筋を伸ばした。
「ツナ?」
「う……」
 四つん這いで山本が歩み寄り、屋上に横倒しになった綱吉を覗きこむ。彼は瓜に引っかかれた手を丸めて胸に庇い、血色悪い唇を小刻みに震わせていた。
 白い肌には赤黒い筋が複数走り、そのうちのひとつから血が滲んでいた。小さな穴が出来ているところは、咬まれた跡だろう。
 突然のことにショック状態に陥ったのか。急にガタガタ言い出した彼に焦りを覚え、山本は恐々と綱吉に手を伸ばした。
「大丈夫か、ツナ」
「十代目、申し訳ありません!」
 肩に触れると、驚くほど熱い。さっきまでなんともなかったのに、急な彼の変貌振りに唖然とする横で、顔に大量の擦り傷を作った獄寺がいきなり土下座を開始した。
 足が痛いだろうに構いもせず、額がコンクリートに擦れるくらいに頭を下げて声を震わせる。
 屋上は本来生徒の立ち入りは禁止されているから、他の人間に見られる心配が無い。青空の下で愛しい匣兵器と一緒に食事を楽しむつもりでいた獄寺だったが、購買が予想外に混んでいて時間が掛かってしまい、焦って階段手前で瓜を呼び出してしまった。
 そうしたら腹を空かせた匣兵器は大人しくしているように、との主の命令を無視し、反逆を開始した。
 今日の昼食を奪われ、挙句に引っ掻き回されて、今日の獄寺は散々だ。しかも敬愛する綱吉にまで迷惑を掛けてしまって、彼は不幸のどん底に突き落とされた気分で謝罪を繰り返した。
 だが肝心の綱吉は、彼の言葉に耳を貸すどころの状態ではなかった。
「ツナ。おい、しっかりしろって」
 山本が懸命に呼びかけ、揺さぶってくるが、それが余計に辛さを増幅させていた。止めてくれるよう言いたいのに、前触れもなく襲って来た激痛に耐えるのが精一杯で、どうにも出来ない。
 脂汗を鼻の頭に浮かべ、彼は冷たいコンクリートに頬を押し当てた。
「は、っく……」
 喘ぐように息を吸い、吐き出して、下半身に力をこめて背中を丸める。胎児のポーズを作って殻に篭もった彼に益々不安を募らせ、山本は唇を噛み締めた。
 後ろでまだ土下座中の獄寺を振り返り、怒鳴りつける。
「獄寺、ンなことしてる場合じゃねーだろ」
 綱吉が此処で苦しそうにしているのに、何をやっているのか。叱りつけられた獄寺はそれでハッと我に返り、目を見開いて眼前の状況を凝視した。
 確かに山本の向こう側には、丸くなって呻く綱吉が居る。瓜が起こした失態にばかり気を取られていた彼は、瞬時に自分の行動を反省して傍らに詰め寄った。
「十代目、十代目!」
「いぁ、って……」
「はい? 十代目、まさか瓜の所為で」
 山本以上の勢いで身体を揺さぶられ、綱吉は眉間の皺を深くして唸った。
 きちんとした言葉にはならなくて、もう一度言ってくれるように頼みながら、獄寺はつい今し方綱吉に襲い掛かっていた自分の匣兵器に思いを馳せた。
 見てくれは可愛らしいけれど、瓜は立派な兵器だ。もしかしたら獄寺も知らない機能が備わっていて、綱吉はそれにやられてしまったのではなかろうか。頭の中で悶々と考えて、獄寺は総毛立って奥歯を噛み鳴らした。
「そんな。十代目、お気を確かに!」
 ひとり勝手に悲壮感を漂わせ、原因不明のまま昏倒してしまった綱吉の顔を覗き込む。間近から荒い鼻息を浴びせられて、綱吉は肌を擽る他者の熱に不快感を露にした。
 気を緩めると、大変なことになってしまう。だから下手に喋れないだけで、実のところ、状態は彼らが案ずるほど酷いものではなかった。
 綱吉自身、こうなった原因は凡そ見当ついていた。しかしそれをふたりに伝える手段がなくて、彼は苦しそうに息を吐くと薄目を開け、視界をほんの少し広げた。
 横倒しになった牛乳パックの向こう、獄寺や山本の足元のその先で、人の手から煮干を奪い取っていった瓜が満足そうに小魚を頬張っていた。
 赤い色の炎が目に鮮やかで、気を紛らわせようとうっとり見惚れていたら、その子猫の首根っこをつまみあげる人がいた。
 ぱさぱさと鳥の羽音がして、睫に乗った汗に邪魔されながらも、彼は空を見ようと瞳を動かした。
「君たち、五月蝿いよ」
「――え」
 だがそれより早く、心臓にグサリと突き刺さる低音が響いた。
 吐く息に乗せて音を零し、綱吉は目を瞬いた。突如真後ろから声が降って来た格好で、獄寺と山本も揃って目を丸くし、慌てた様子で振り返った。
 いったい、いつ現れたのか。この場に居合わせた全員が、彼の登場をまるで察知出来ていなかった。
「ヒ……」
 煮干を咥えた瓜を胸の前でぶら下げて、黄色い小鳥を肩に停まらせた青年が、屋上に出る扉と三人のほぼ中間地点に佇んでいた。
 艶やかな黒髪に、冴えた黒水晶の瞳、肩に羽織る学生服の袖には風紀と記された緋色の腕章が揺れている。
 並盛中学校を教員に代わって取り仕切り、支配する、風紀委員のその頂点に君臨する人物。ボンゴレ十代目継承者である沢田綱吉の、雲の守護者にして、自由気ままな孤高の浮雲という特性を誰よりも体現している存在。
「雲雀!」
 山本が先にその名前を呼んで、声に驚いた黄色い鳥が大きく翼を広げた。
「フにょー」
「て、テメエ! 瓜を放しやがれ」
 大切な匣兵器の首根を掴まれているのを見て、獄寺は血相を変えた。素早く立ち上がって右手を横薙ぎに振り払い、風を起こして吼える。が、雲雀はあまり興味なかったのか、呑気に煮干を貪っている瓜を一瞥すると、それを呆気なく宙に投げ放った。
 ノーモーションから空中に飛ばされて、瓜の身体がくるりと半回転する。更に顔色を悪くした獄寺は、甲高い悲鳴をあげて両手を広げると、落下地点を計算して走り出した。
 きちんと受け止め易いように投げてやった雲雀は、軽くなった利き手を回し、大袈裟にスライディングを決めて瓜をキャッチした獄寺に肩を竦めた。
 そんな真似をしなくとも、簡単に抱きとめられただろうに。派手な行動を好みたがる彼に辟易した様子で溜息を零し、雲雀は警戒心を露にして綱吉を庇うように体勢を入れ替えた山本を睥睨した。
「雲雀……」
 綱吉が苦しがっているというのに、嫌な相手と遭遇してしまった。立ち入りが禁止されている屋上に出入りしているところを見つかってしまった以上、風紀委員長の制裁は免れない。
 一刻も早く綱吉を保健室に連れて行きたいのだが、山本の中の雲雀恭弥という人物像は、話し合いを申し出て聞き入れてくれるような相手ではない。
 温い汗を首筋に流し、彼はならば、と先制攻撃を狙って武器を探して手を泳がせた。
 父親から受け継いだ竹刀は、自宅に置いてきてしまった。バッドもない。あるとしたら、食事に使った箸くらいか。
 素早く視線を走らせた山本の焦った態度にもうひとつ嘆息し、雲雀はコンクリートの上で青褪めた顔をしている少年に視線を移し変えた。
「ねえ」
 顔中汗びっしょりの綱吉が、酷く弱々しい動きで足を伸ばした。膝を起こして立ちあがろうと足掻き、失敗して腹を抱えこむ。奥歯を噛み締めているのが分かって、雲雀は舞い戻ってきた小鳥を左肩に置き、右手を腰に添えた。
 転がっている空の牛乳パックを蹴り飛ばして距離を詰め、後ろで瓜を抱きかかえて喚く獄寺も無視する。
「雲雀、いつから」
「僕はずっと居たよ」
 綱吉に歩み寄ろうとする彼の前に立ち塞がり、山本が低い声で呟く。素っ気無く言い返した雲雀は、邪魔だと言わんばかりに彼の肩を手の甲で叩き、横に押し退けた。
 それしきの力でどうにかなる山本ではなかったが、告げられた台詞に気を取られ、足がふらついた。その隙に脇をすり抜けた雲雀が、赤く腫れた手で腹を撫でている綱吉の傍らに膝をつく。
 薄茶色の前髪を梳き上げて額に触れると、冷たさが心地よかったのか、彼は安堵の表情を浮かべた。
「がぶ飲みするからだよ」
「……うぅ」
 囁くように言われ、全くもってその通りだと綱吉は頭を垂れた。
「雲雀! 十代目に気安く触るんじゃねえ」
 一方では獄寺が喧しく喚いて、折角取り戻した愛猫に引っかかれて野太い悲鳴を上げた。山本は窺うような目を綱吉と雲雀に交互に投げ、口を尖らせて戸惑いを顔に出す。
「最初からって」
「君たちが後から来たんじゃない。僕はずっと、あそこに居たから」
 気付かなかったのは山本たちの方だと、雲雀が顎をしゃくって出口を囲む四角い壁を示した。避雷針が天に向かって聳え立つ一角は、確かにこの角度からでは上部がどうなっているのかまるで見えない。
 そこで昼寝をしていたところ、綱吉たちが昼休み開始と同時にやって来た。そう端的に告げた雲雀に、山本は思い切り渋い顔をした。
 全く気付かなかったのを悔いているのか、眉間の皺が深くなる。歯軋りしている彼から顔を逸らし、雲雀は綱吉の色の悪い頬をもうひと撫でした。
「はふ」
「ツナ」
 大きく口を開けて息を吸い、四肢の強張りを解いて身体を楽にする。少しだけ痛みは引いたがまだ辛くて、綱吉は雲雀の肩越しに見下ろしてくる山本に無理のある笑みを返した。
「大丈夫か。保健室行くか。病院……救急車」
「うぅ、ん」
 それが却って山本には辛そうに見えて、彼は矢継ぎ早に質問を繰り出し、弱々しく首を振られて黙り込んだ。
 下で蹲っている雲雀が、人を馬鹿にしたような目で見上げてくるのが癪に障る。思わずねめつけると、鼻で笑われた。
「保健室より、トイレが先、だろうね」
「はぁ?」
 素っ頓狂な声を上げ、山本は目を丸くした。横たわったままの綱吉は、先ほどより若干余裕を取り戻した笑みを浮かべ、雲雀の言葉に同意して小さく頷いた。
 どさくさに紛れて蹴り飛ばされて遠くに行った牛乳パックを見やり、虚しく鳴り響くチャイムに声を重ねて誤魔化す。
「おなか、いたい、の……」
 辛うじて聞き取れたひと言に、山本はぽかんと間抜けに口を開いた。

 差し出されたコップには、冷えた水が半分ほど流し込まれていた。
「はい」
 表面に汗をかいているそれを大人しく受け取り、綱吉は先に渡されていた錠剤を掌に転がした。
 白い粒がみっつ、狭い範囲を忙しく駆け回る。飲むのを渋っていたら、ソファの背凭れを蹴られてしまった。
 急かされて、後ろを振り返ってから渋々薬を受け入れる準備を整える。唾を飲んで口の中を乾かした後、彼は覚悟を決めて錠剤を持つ左手を口に押し当てた。
 勢い任せに咥内に放り込んで、素早く手を退かせて入れ替わりにコップを唇に添える。固く目を閉じてぐっと背筋を反らし、流れ込んだ液体をひと息に飲み込んだ。
 舌の上には薬剤が溶け出したざらつきが、ほんの少しだけ残された。それさえも水で漱いで押し流し、たっぷり十秒耐えてから、彼は人心地ついた様子で息を吐いた。
 喉から胸元をなぞり、錠剤が三粒とも無事胃袋に到達したのを確認して安堵に肩を落とす。必要に迫られてのこととはいえ、薬を飲むという作業は、未だ苦手だった。
 口の中に苦味が残っている気がして、どうにも落ち着かない。コップの水を最後の一滴まで飲み干して、彼は透明なグラスを両手で大事に抱き締めた。
「……すみません」
 頭を垂れて俯き、上目遣いに前に回りこんだ人を窺い見る。向かい側のソファにどっかり腰を下ろした雲雀は、蚊の鳴くようなその声に呆れた様子で肩を竦めた。
「間に合ってよかったね」
「…………」
 応接室に至る前、屋上から最も近いトイレに駆け込んだ時の事を言っているのだ。思い出したら余計に顔を上げられなくなってしまって、綱吉は耳の先まで真っ赤になり、冷たい汗を流した。
 確かにあと一秒でも遅ければ、大惨事になるところだった。五歳児ではあるまいし、中学二年生になってまでトイレを我慢出来ないのは、あまりにも情けなすぎる。
 やむを得ない事情があったとはいえ、腹痛程度で大恥をかいてしまった。屋上での獄寺や山本とのやり取りも同時に振り返って、彼は自分の不甲斐なさに溜息をついた。
 授業が始まってしまったので、彼らとは屋上で別れた。というよりは、綱吉が限界だった。雲雀に助け起こされてトイレに駆け込み、個室に飛び込んで事なきを得た後は、出口で待っていてくれた彼に伴われ、此処応接室にやって来た。
 黙って胃薬を渡されて、飲んだ。まだ腹の中はゴロゴロしているが、一番酷かった頃合は過ぎて、痛みも殆どない。
 それにしても、格好悪いことこの上ない。早く大人になりたくて、雲雀に見合う人間に成長したくて始めた努力が、一日目にして呆気なく頓挫してしまった。
「牛乳一気飲みなんて、腹を下して当たり前じゃない」
「うぅ」
 腹痛の原因は、勿論瓜に引っ掻かれたからではない。単純に、学校に持って来た牛乳に当たっただけだ。
 要冷蔵の飲料を常温で保存していたのだから、悪くなって当たり前だ。夏の盛りであれば変な臭いがしただろうが、生憎と気候は冬に向かっており、この程度で済んだのは幸いだった。
 しかも短期間で大量に飲んだものだから、慣れていない胃袋が驚いて、反発した。腹痛を起こすのも無理なくて、訥々と理由を諭し聞かされ、綱吉はソファの上で小さくなった。
 膝に置いた両手を固く握り締め、肩を小刻みに震わせる。雨に濡れた仔犬の如き姿を晒す少年に嘆息し、雲雀は居住まいを正して身を乗り出した。
「沢田綱吉」
「……」
「どうしてあんなことしたの」
 名前を呼んだ瞬間、綱吉の細い肩がビクリと跳ねた。
 それに気付かなかったフリをして、雲雀が静かに問い掛ける。綱吉は下向かせていた視線を上に、そして左右に泳がせ、唇をきつく噛み締めた。
 雲雀の関心を引きたくて、彼に見合う人間になろうとした。もっと正確に言うなら、十年後の世界に存在したはずの沢田綱吉に一足飛びで近付こうとした。
 十年後の雲雀をワクワクさせられる、芯の強い、リーダーシップに溢れた存在になろうとした。その為にまず、身体を鍛えて背丈を伸ばそうとした。
 けれどそれを面と向かって言うのは恥ずかしい。腹痛で倒れたことよりずっと、格好悪い。
 黙りこくった綱吉に首を振り、雲雀は脚を組もうとして右足を浮かせ、結局止めてソファに深く座り直した。
 気まずい空気が流れ、応接室に沈黙が落ちる。窓越しに体育の授業中らしき歓声が聞こえてくるけれど、それらも彼らの耳を素通りしていった。
 壁に吊るされた時計の針が動く、その微かな音が嫌に大きく耳朶を打つ。心臓の鼓動が、気付けばそれに重なってリズムを刻んでおり、緊張から四肢は強張って鉛のように重くなった。
 息ひとつするのさえ辛い。出来るものなら今すぐ逃げ出したい衝動に駆られて、綱吉は握り締めた拳を太腿に押し付けた。
「……君さ」
 やがて、どれくらいの時が過ぎたのか。ぽつりと零れ落ちた声に反応し、彼は顔を上げた。
 久方ぶりに見た雲雀は頬杖をつき、視線を右に投げていた。目線が絡まないのを残念に思いつつ、先に俯いたのは自分だと後悔を抱いて、綱吉は膝をぶつけ合わせた。
 呼びかけられたものの、その後が続いて来ない。他所向いたままなにやら考え込んでいる雲雀の心が読めなくて、綱吉は音を大きくした心臓を制服の上から握り、生唾を飲んだ。
 幼い喉仏が上下する様を横目で見て、雲雀は腕を下ろした。
 やっと正面から見てもらえる。そう思っただけで嬉しくなった綱吉を知らず、彼は上向かせた掌を膝で蠢かせ、俯いた。
「ヒバリさん?」
「そんなに僕が、嫌い?」
「――え?」
 凡そ彼らしくない消え入りそうな声で訊かれて、綱吉は面食らった。零れ落ちんばかりに琥珀の目を見開き、肩幅に広げた膝の間で両手を結び合わせた青年を見詰める。違う、と首を振ったが彼には見えていなくて、けれど言葉にして伝えるには勇気が足りなかった。
 呆気に取られ、息をするのさえ忘れそうになる。遅れてドンッ、と頭を殴られたような衝撃を覚え、彼は慄然とした。
 雲雀の言葉が頭の中を駆け巡る。嫌いかと問われたが、雲雀こそが綱吉を嫌っているのではないか。
「なん、……え?」
 訳が分からなくない。混乱する頭を抱えて目を瞬き、綱吉はソファの上で忙しく身を捩った。腰を浮かせては沈め、もっと冷静に状況を判断しようと試みるが、心が浮き足立って巧く行かなかった。
 言いかけた言葉は最後まで行かず、途中で袋小路に行き当たってしまい、強制的にスタート地点へ戻された。裏返った甲高い声をひとつあげ、不機嫌に顔を顰めている青年を凝視する。
 雲雀もまた何かを言おうとして口を開き、思い直して黒髪を掻き毟った。
 上手に纏められないのに苛立ちを強め、叫びたい衝動を押し殺す。太腿に爪を立てて握り締め、彼ははっ、と熱っぽい息を吐いた。
「だから」
「待ってください、それ、どういう意味ですか」
「他にどんな意味があるって言うの」
 喋りだそうとして、綱吉が先に声を荒立てた。ふたりの間にある脚の短いテーブルに両手を叩きつけ、腰を浮かせて詰め寄りながら叫ぶ。真正面からピシャリと言われても、彼は退こうとしなかった。
 怒りか、悲しみか、或いはその両方かもしれない。色のない感情が幾つも混ざり合って、心の中で化学反応を引き起こしている。このままでは臨界を迎えて爆発しかねず、綱吉は足を踏み鳴らして立ち上がると、己の胸に左手を叩きつけた。
「ヒバリさんこそ!」
 未来から帰って来て暫く経ったが、あの戦いなどなかったかのように雲雀は毎日を過ごしている。守護者の役目などに興味ないのは分かっていたが、せめてもう少し、構ってくれても良いはずだ。
 何もなかったかのように、時間は淡々と過ぎていった。このままでは十年後の未来のような、親密な関係を抱くふたりになれない。
 日増しに増えていく焦りが綱吉を急きたて、無茶で幼稚な行動に走らせた。
 琥珀の目に薄ら涙を浮かべて叫んだ綱吉を見上げ、雲雀はパッと顔を逸らした。拗ねているのか、心持ち頬を膨らませて不貞腐れた顔を作り、握り合わせた両手でソファの角を殴りつける。
「ヒバリさん」
「嫌いじゃないなら、恐い?」
「どうしてそんな話になるんですか」
「居なくなっただろう」
「……?」
 互いの主張をぶつけ合う中、綱吉は微妙なずれを感じた。超直感などという大袈裟なものではなく、単純に、話がかみ合っていない気がした。
 綱吉が雲雀を嫌っている、という話に始まって、違うと否定したら「恐がっている」のかと訊かれた。もしそうだったなら、綱吉は今こんなところに立っていないだろうに、今の彼はそんな簡単なことさえ気付けずにいる。
 居なくなった、という言葉の意味が何に掛かるのかが見えてこなくて、綱吉は左手で顔半分を覆ってソファに座った。
 雲雀はそんな彼をじっと見詰め、ある瞬間に目を逸らし、言い難そうに口をもごもごさせた。
「ヒバリさん?」
「だから、……君を、無理矢理」
「え」
「居なくなるくらいに嫌だったのかと、思ったら、……」
 言い辛いところはぼやかし、途中で言葉を詰まらせて俯く。尻すぼみに小さくなっていく声に聞き入り、綱吉は呆気に取られて首を右に倒した。
 頭の中に響き渡る彼の声が、停止状態に陥った思考回路を甘く擽る。器官は動いていないのにエネルギーは供給され続けていて、やがて許容量をオーバーした頭がぼんっ、と爆発した。
「……っっっっ!」
 一瞬にして顔面どころか耳も、首も真っ赤にした綱吉が白い煙を吐いて身体を前後左右に揺らした。白目を向いて後ろに倒れそうになり、背中が背凭れに着いたところで我に返って仰け反ってから姿勢を前に傾がせる。
 両手で頬を覆い隠し、彼は笑っているのか怒っているのか、照れているのかなんなのか、さっぱり分からない表情を浮かべて膝に額を打ちつけた。
「沢田?」
「うぅぅぅぅぅぅーーー」
 ごちぃん、と凄まじい音を響かせて星を散らした綱吉に、雲雀が唖然となって手を伸ばす。奇怪な呻き声を上げて再びソファの上に横倒しになった彼は、ぐるぐる回る視界を闇に染め、今度はさめざめと泣き始めた。
 ザンザスとの指輪継承を巡る戦いから、未来へ飛ばされた日までの僅かな日数を数えて、綱吉は軽い自己嫌悪に陥った。
 確かに雲雀の言う通りだ。彼とこの部屋で関係を持った翌日に、綱吉は未来に跳んだ。当たり前に来ると思っていた明日が来なくて、生きるか死ぬかの世界に放り出された彼は、目の前で繰り広げられる様々な事態についていくのがやっとの状態だった。
 置いてきた雲雀がどうなっているのかなど、考えもしなかった。
「うぁ、あ……」
 十年前の世界に、自分たちが未来にいると伝える術はなかった。この時間に、雲雀は置いていかれた。事情も分からぬまま、いきなり綱吉は彼の前から姿を消した。
 強引に組み敷いて、貫いて。さしたる抵抗もなかったけれども本当は嫌だったのかもしれないと、雲雀はひとり悶々と考えたに違いない。
 羞恥心がじわじわ登ってきて、綱吉は赤い顔を持て余しながら雲雀を見た。彼はソファの上で腕を組んでどっかり腰を据えて、人の顔を睨んでいた。
「でも、でもあれは、俺の所為じゃ」
「そんなの、知らない」
「俺だって、いきなり十年後に飛ばされるなんて思ってなかったですもん!」
 不可抗力だと主張するが、雲雀は聞く耳を持たない。ムスッと口を尖らせて拗ねた顔をして、のそのそと身を起こした綱吉に背中を向けた。
 言い訳すらさせてもらえなくて、綱吉は全身に鳥肌を立てて身震いした。握り拳を上下に振り回すが、雲雀はそっぽを向いたまま不貞腐れた態度を崩さない。
 何故綱吉が未来に喚ばれたのか、その理由は雲雀も聞かされているはずだ。綱吉が彼の前から逃げたのではないことも、本当は分かっているのだろう。
 十年後の世界、入江正一の待つ巨大な装置の前で再会した時、雲雀は何も言ってくれなかった。アジトへ帰る道中に別行動をとり、行方をくらましたのは彼だ。
 あの時、一緒についてきてくれたなら、こんな変な誤解を今日まで引きずることもなかった。怨み節を呟くと、聞こえていた雲雀がちらりと綱吉を盗み見た。
「追いかけてこなかったのは、君じゃない」
「そんな事、言ったって……」
「神社でも」
「無茶言わないでください」
 メローネ基地からの帰りは、仲間達と一緒だった。チョイス戦後にユニを連れて並盛町に逃げ帰った時も、状況は逼迫していた。綱吉が雲雀を追いかけていくなど、許される環境ではなかった。
 非常事態だったのだから仕方が無いではないか。言い連ねる綱吉だけれど雲雀は聞いてくれず、益々頬を膨らませてぷんすかと煙を吐いた。
 取り付く島がない。困り果てた綱吉は疲れた顔をして溜息をつき、蜂蜜色の髪の毛をくしゃくしゃに掻き回した。
「ヒバリさん」
 返事くらいして欲しいのに、それも無視されてしまう。絡まない目線が寂しくて、彼は上唇を噛み締めた。
 左右から顔を挟み、指の隙間から拗ねている青年を見詰める。再び舞い降りた沈黙に、綱吉は気落ちした表情を浮かべて肩を落とした。
「俺だって……」
 十年後の世界で会った雲雀は、雲雀でありながら別人だった。彼はいつかこんな風になるのかと思い、憧れに似た感情を抱くと同時に、あの時間の沢田綱吉との繋がりの深さを思い知らされて、打ちのめされた。
 あの雲雀は、常に綱吉よりも上を見ていた。彼の目線が、十四歳の綱吉にぴったり重ならない。
 ちゃんと自分を見てくれる雲雀に会いたかった。我が儘を言う子供を宥めすかす手ではなくて、きちんと向き合って真正面から受け止めてくれる手が欲しかった。
「俺だって、ヒバリさんに、追いかけてきて欲しかった」
 だからメローネ基地で、今此処にいる雲雀が十年後にやって来たと通信を受けた時は嬉しくて、頼もしくて、彼がきたのなら余計に負けられないと思った。彼の存在が綱吉に力をくれた。やっと一緒に居られると、そう思った。
 だのに雲雀は綱吉の前から消えた。去ってしまったのは、自分がまだ彼に興味を抱いてもらえる存在ではないからだと考えて、落ち込んだ。
 両手を落とし、背中を丸めて俯く。掠れる小声で呟かれた音を広い、久方ぶりに雲雀が前を向いた。
「いやだったんじゃないの?」
「誰も、そんな事、言ってません」
「だけど君は」
「だから、嫌だったとかそんなのじゃなくて。俺だって十年バズーカが当たってなかったら、普通に学校行って、授業受けて、それで、……」
 先にも言った通り、あれは不可抗力だった。予想していなかった出来事に巻き込まれて、逃げられなかっただけだ。
 人の話をちゃんと聞いていない雲雀に腹を立て、綱吉は拳で自分の腿を叩いた。衝撃が貫通してソファのクッションが撓り、軽い身体がふわりと浮き上がる。
 尻から身を沈め、彼は憤慨しきりに歯軋りした。
 どこか惚けた感のある顔をして、雲雀が目を見開く。彼はよろよろと右手を持ち上げるとそれで口元を覆い隠し、何かを言わんとして、その体勢で停止した。
 音を立てて息を吸い、瞬きをして綱吉を見据える。
「僕が嫌いじゃ」
「俺は嫌いな人とキスなんかしません!」
 ボソボソと呟く彼にいい加減堪忍袋の緒が切れて、綱吉は勢い良く立ち上がると声の限り叫んだ。
 外まで響きそうな大声だったが、幸いにもまだ授業中というのもあり、応接室前の廊下を通り掛る存在は皆無だった。
 足を踏み鳴らし、言い表しようのない激しい感情に身を浸して綱吉はかぶりを振った。目を吊り上げて怒りを露にし、鼻を啜って哀しみを表現する。潤んだ琥珀は熱を帯びて艶を強め、ソファに座した雲雀は呆然と彼の変容を見守った。
 どことなく間抜けにも見える彼の表情が気に入らなくて、綱吉は拳を振り回した。
「好きじゃなかったら、あんな恥ずかしいこと、しない!」
 脱ぎ散らかされた着衣、乱れる呼吸、熱い肌、滴る汗と、高鳴る鼓動。手探りで到達した高みに感極まった涙を零した日を振り返り、綱吉は真っ赤になって怒鳴った。
「え?」
 だのに雲雀は、嫌に素っ頓狂な声を上げ、目を点にした。
 ぽかんとしている彼に引きずられ、感情の赴くままに恥ずかしい事を口走った綱吉もハッとした。見る見る赤かった顔が青褪めていくのを下から見詰め、雲雀は素早く瞬きを繰り返した。
「好き?」
「はい?」
 なにやら雲行きが怪しくなってきて、綱吉は顔を引き攣らせた。
 問い掛ける、というよりは自問に近い彼の呟きに、背筋が粟立つ。急に顰め面をして顎に手をやり、物思いに耽り始めた彼を見下ろして、綱吉は唾を飲んだ。
 十秒と少し、そのまま時が過ぎる。やおら顔を上げて雲雀は、手を下ろし、両手を叩き合わせた。
「君、僕のこと好きだったの?」
「は?」
 声が勝手に裏返った。
 人差し指で指し示しながら言われて、綱吉は顎が外れそうになった。あんぐり口を開いて凍りつき、目だけパチパチさせる。カクン、と膝から力が抜けて、彼は最後、テーブルにより掛かる格好で崩れ落ちた。
「え? ええ?」
「好きなの? 僕が」
「そうですよ、当たり前じゃないですか。なに言ってるんですか」
 頭の上に大量のクエスチョンマークを生やし、綱吉が膝立ちになって身を乗り出す。テーブルを跨いできそうな彼の姿に苦笑して、雲雀が質問を繰り返した。
 そんな大前提を今更取り上げられるなど、考えてもいなかった。当然知っているものとして受け止めていた綱吉は、目の前の状況に憤慨し、拳を振り上げた。
 だが、それは結局振り下ろされることはなかった。
「初めて聞いた」
 妙に感慨深く呟かれて、返す言葉が見付からなかった。
 確かに、言っていなかったかもしれない。初めてのキスが急なら、彼が好きだと自覚したのも急だった。二度目のキスから一線を越えるのも、超スピードだった。
 カラダの繋がりが先に来てしまって、心を確かめる余裕がなかった。カラダを求めて来たのだから当然相手も同じ気持ちだと驕って、言葉にして伝えなかった。
 唇を戦慄かせ、綱吉は掬い上げるように雲雀を見た。
「……すき」
「うん」
「俺、好きです。ヒバリさんのこと、多分、ずっと」
「うん」
 雲雀もじっと綱吉を見ていた。紅色の唇から言葉が零れ落ちるたびに、彼の表情は和らぎ、綻んでいった。
 彼が構ってくれないのは、自分が不甲斐ないからだと思っていた。彼をワクワクさせられる人間になれば、彼はきっとまた自分に振り向いてくれると、そんな事ばかり考えていた。
 十年後の雲雀を追いかけすぎて、自分の足元を見ていなかった。
 答えはこんなにも近いところに転がっていたのに。
「好き。ずっと、好き」
「うん。――僕も」
 雲雀が手を伸ばす。頬に触れられて、屋上で感じたのとはまるで違う熱に魂が震えた。
 綱吉が窮地に追い遣られた時、彼は必ずと言っていいほど打ちのめされた綱吉を救ってくれた。彼が居れば大丈夫、彼と一緒なら何があっても平気。そう思わせてくれる力が、彼にはあった。
 彼とならば何処だっていける。なんだって出来る。
 なにも、恐いものなんかない。
 それはとても幸せなことだと、綱吉は泣き笑いの表情を浮かべて呟いた。
「ヒバリさん、見つけた」

2010/07/03 脱稿