放恣

 薄い雲が白く、広く、空一面を覆っている。そんな世界を窓ガラスの向こうに見上げ、綱吉は深い意図も無しに微笑んだ。
 空が綺麗だと嬉しい。風が涼しいと心地よくて、気持ちが良い。そういう、普段は気にも掛けない些細な事を不意に思い出しては、そういう日常に居る自分が実はとても幸せなのだと意識する。明日も今日のように平穏無事な時を過ごせたら良いと、まだ今日が半分と少ししか終わってもいないのに考えて、彼は自分の気の早さに苦笑した。
「へへ」
 締まりのない顔をして頬を掻き、右足を引いて爪先で廊下を叩く。上履き越しに震動が来て、少し緩めの踵がパカパカと音を立てた。
 どうせすぐに大きくなって、入らなくなるだろうからと、奈々がひとつ大きいサイズを買って来てしまったのだ。綱吉自身も当初はそう思っていたし、願っていたのだが、意外な事にも靴はいつまで経っても大きいままで、なかなか数ミリの隙間が埋まってくれなかった。
 男は成長期が遅いから、と自分に言い訳をして、なるべく気に掛けないようにしているものの、同級生が続々と自分の背丈を追い越して行くのを見送るのは、正直かなり辛い。そのうち京子やハルにまで抜かれてしまうのではと考えると、おちおち夜も眠れなかった。
 そうでなくとも綱吉の周囲には、背の高い人が多いのだ。山本然り、獄寺然り。了平もそれなりの背丈があるし、ディーノなどは見上げなければならないので辛い。
「あ~、んん」
 数え出したらキリがない。自分の父親は恰幅の良い、実に男らしい体格をしているのだから、いつかはあんな風になれると信じ、綱吉は喉を震わせて頷いた。
 わざとらしい咳払いをして気持ちを切り替えて、彼はそれなりに静かで、けれどそれなりに騒々しい廊下の先に視線を戻した。
 昼休みも後半戦に突入し、残り時間はあと十分ほど。予鈴から本鈴までの猶予も足せば、十五分といったところだろう。
 奈々お手製の弁当は、今日も美味しかった。沢山のおかずに、丁寧に握られたおにぎり。彼女の手に掛かれば、どんな食材も見事な変身を遂げてしまう。
 沢田家に居候している、誰かさんとは大違いだ。
「今日の夕飯は、なんだろうな」
 毒々しい色と臭いを放つ正体不明の料理を思い出してしまい、慌てて頭を振って思考を切り替える。右足を前に繰り出した彼は、心持ち早足に、五時間目の授業で使う教材を揃えに特別教室を目指した。
 日直の仕事は、何も授業の度に黒板を消して綺麗にするだけではない。授業に必要な小道具やなにやらを、前もって準備しておかなければいけないのだ。
 職員室で必要なものを教わって、それを集めておく。面倒極まりないけれど、他の生徒も日直が回ってきた時にやっているので、自分だけやらない、というのは許されない。
 学校で日々を送る以上、協調性は必須だ。尤も綱吉は、他の人の目を気にしすぎて萎縮し、誰かの後ろに隠れたがる傾向にあったが。
「……」
 獄寺や山本と一緒に過ごす時間が増えて、ダメツナと呼ばれる機会もほんの少し減った。相変わらず毎日が駄目ライフの連続だけれど、少なくとも物を隠されたり、人目を憚らずに罵詈雑言を投げられる事は無くなった。
 とはいえ、完全になくなったわけではない。今でもひとりでいる時には嫌な言葉を投げられもするし、体育の時間ではクラスメイトに迷惑を掛けてばかり。きっと自分が居ない方が良いに違いない、と思う事も、回数は減ったが、ある。
「あーあぁ」
 どうしてこうも、自分は不幸の星の下に生まれてしまったのだろう。せめてもう少しだけ、自分に自信が持てたなら、運命はどこかで変わっていたかもしれないのに。
 傲岸不遜にして慇懃無礼、他人よりも絶対的に自分の方が優れていると信じて疑わない――例えばここ並盛中学校の風紀委員長の爪の先程度でも構わない。自分の行動は正しいと言い切れる強さが、備わっていたら。
「凄いよなあ、ヒバリさんは」
「なにがだ」
「だって、あの人って凄く強いし、人望あるし、いつだって自信満々……って、うえぇえ?」
 爪の垢を煎じて飲ませて欲しい。そんな風に思いながら、何処からか聞こえてきた相槌に、ついうっかり何も考えずに答えてしまう。
 言っている途中で気付いた綱吉は、見事に裏返った声を上げ、その場で跳び上がった。
 サイズの大きい上履きが引っかかり、危うく倒れそうになる。どうにかギリギリのところで踏ん張って堪えたものの、膝を折って腰を深く沈めた状態と、実に格好悪いポーズを決めてみせた綱吉は、慌てて周囲を見回し、誰も居ない現状に冷や汗を流した。
 まさか幽霊か何かに話しかけられたのだろうか。それにしては外は明るいし、日射しもあるし、なにより声に聞き覚えがある。
 あの鼻につく特徴的な声は、間違いない。
「リボーン!」
 脳裏を過ぎった馬鹿な妄想を投げ捨て、綱吉は無人の空間に向かって叫んだ。
 ふらつきながら姿勢を整え、二本足に均等に体重を配して立ち上がる。握り拳を上下に振り回した彼の声に、応ずる声はなかなか返ってこなかった。
 視線を左右に流し、居場所を懸命に探るが、分からない。彼の事だから勝手に学校を改装して、変な隠し部屋を作っている事も充分考えられた。
 見える範囲にあるのは火災時に押す非常ベルと、校内放送を流すスピーカー。あとは準備室のドアがもうすぐそこに。
 静まりかえった無人の教室に、人影はない。ならばいったい、あの赤ん坊は何処に居るのだろう。
「ここだぞ」
「うぎゃっ」
 温い汗を流して右往左往していた綱吉の背後から突然声が生じ、直後彼の背中に激痛が走った。
 背骨が真っ二つに折れそうな衝撃にみっともなく悲鳴をあげて、綱吉は両手を頭上に放り出して顔面から床に飛び込んだ。
 ズザザザ、と凄まじい音と埃を巻き上げて五十センチばかり滑り、停止する。海老反りに跳ねていた両手両足がぱったりと地に落ちて、ぷすぷす煙をあげた少年は数秒間その状態で硬直した。
 空中で見事に宙返りを決めたリボーンが、落ちそうになった帽子を片手で押さえてその足許に着地を果たす。黒いスーツの胸元には、黄色いおしゃぶりが輝いていた。
「いっ、つつつ……ぅ」
 予想していなかった方角からの攻撃に、身構える余裕すらなかった。受け身さえ取れずに顔を廊下で削った綱吉は、潰れた鼻を押さえながら小さく呻き、膝を起こして四つん這いになった。
 両足を横に広げ、腰をぺたんと落とす。鼻血は出ていないようだが、摺った部分が熱を持ってひりひりした。
「たぁ、ってぇー。もう、何するんだよ、リボーン」
 いきなり人の事を蹴り飛ばすとは、何事か。
 遠慮の欠片も無い一撃を食らい、廊下にへたり込んだ彼の言葉に、しかし黒尽くめの赤ん坊は不敵な笑みを浮かべ、いけしゃあしゃあと肩を竦めた。
「なんだよ、その態度は。俺が大けがしても良いってのか」
「そうならねーように、ちゃんと手加減はしたぞ」
「してないって!」
 綱吉は派手に吹っ飛び、スッ転び、鼻を打った。擦り傷程度で済んだから良いが、打ち所が悪ければ病院送りになっていた可能性も考えられる。
 まだ痛む鼻を撫でて慰め、涙を呑んだ綱吉は、拳を高く振り上げると、やり場のない怒りを持て余して唇を噛み締めた。
 どうせ何を言ったところでリボーンは聞く耳を持たないし、こちらが攻撃を仕掛けても軽々と避けてしまうのだ。それでまた痛い思いをするのは嫌で、綱吉は苦渋の選択の末に腕を下ろし、深々と溜息を吐いた。
「マフィアのボスになろうって奴が、背中ががら空きでどーする」
「またその話?」
 膝の上に両手を下ろし、緩く握った綱吉が顰め面をして呆れ混じりに呟く。が、リボーンは不遜な笑みを崩さず、当たり前だと言わんばかりに胸を張った。
 この自称世界最強のヒットマンは、綱吉をマフィアのボスにするためにわざわざイタリアからやってきた。しかし一介の中学生でしかない彼にはそんなつもりなど毛頭無く、平々凡々に日々を過ごし、そこそこ幸せな一生を送れればそれで構わない、と考えていた。
 暴力沙汰は嫌いだ。自分が過去にイジメを受けて、殴られて来ただけに、その思いは非常に強い。
 だがその反面、自分に力があったなら、他者から虐げられる事もなかったのだろうか、と感じる事もあった。
 強すぎる力は不要だけれど、せめて自分や、自分の身の回りにいる人を守れるくらいの強さは欲しい。複雑な思いを表情に滲ませた綱吉を見上げて、リボーンは何を考えてか、ニッと笑った。
 あまりにもタイミングが良すぎて、心を盗み読まれたような錯覚に陥ってしまう。むすっとした綱吉はまだ痛い鼻を軽く撫で、制服の汚れを払い落としながらゆっくり立ち上がった。
 ズボンに灰色の筋が何本も走っている。捲れあがってしまっていたベストの裾を引っ張って形を整えた彼は、首を右に二度回し、元々の髪型なのか、それとも今ついた癖なのか分からない跳ね方をした髪の毛を掻き回した。
「……で?」
「ん?」
「お前はなんで、学校にいるんだよ」
 心持ち低い声で問いかけるが、リボーンは飄々とした態度を崩さない。右足で強く廊下を蹴り飛ばして語気を荒げた綱吉を見上げ、余裕綽々の表情で口角を歪めて笑った。
 これまでにも何度となく、リボーンは学校に潜り込んでいる。だが中学校とは、あくまでも中学生が勉強を学ぶ為の場所だ。勿論部活動に勤しむのを目的としている生徒も、中にはいるが。
 詰まるところ、リボーンは此処に居てはいけないのだ。就学年齢に達していなし、彼の事だから入校許可も得ていないのだろう。誰かに見付かりでもしたら、一大事だ。
「オメーがちゃんと勉強に励んでるか、チェックしに来てやったんだぞ」
「はあ? 余計なお世話だよ」
 素早く周囲に目を配り、接近する影が無いかを確かめて胸を撫で下ろす。聞こえて来たお節介極まりない台詞に素っ頓狂な声を上げ、綱吉は地団駄を踏んで頭を掻き毟った。
 綱吉の家庭教師を自認するリボーンだから、日中学校で真面目に過ごしているのか気になる事もあるだろう。だが、だからといって学校に不法侵入するのもいかがなものか。
 誰かに――並盛中学校で最も凶悪と言われる人物に見付かりでもしたら、怒られるのはリボーンだけでは済まない。
「さっさと帰れって。俺も、授業の準備があるんだから」
 手で追い払う仕草を取るが、リボーンには通じない。下手をすれば教室までくっついて来そうな雰囲気で、綱吉は冷や汗を背中に流し、じたばたと足踏みを繰り返した。
 こうしている間にも時間はどんどん過ぎていく。昼休み終了を告げる予鈴が鳴り響くまでの残り時間を想像し、彼は間近に控える社会科準備室と、背中を向けて歩き出す準備に入った赤ん坊を交互に見詰めた。
「ああ、もう!」
 授業に遅刻するのと、このままリボーンをのさばらせておくのと。
 天秤を大きく揺り動かした彼は、結論が出せないまま大声で叫び、左右の腕を真っ直ぐ伸ばした。
「お?」
 第一歩を踏み出そうとしていた赤ん坊を後ろから掬い上げ、胸に抱き抱える。簡単に逃げられないようにぎゅっと抱き締めると、視線の高さが急に変わったリボーンがちょっと驚いた声を上げ、足をばたつかせた。
 腹を蹴られたが、さほど力が入っていなかったお陰で痛くない。顔を顰めて堪えた綱吉は、不満げにしている赤子にがっくり肩を落とし、疲れた顔をして嘆息した。
「ツナ」
「いいから、頼むから帰ってよ。ヒバリさんに見付かったら、俺まで怒られるんだぞ」
 授業は真面目に、居眠りせずに受けると約束する。だから大人しく家に帰ってくれるよう頼んで、彼は準備室での用事も済ませようと身体を反転させた。
 向きを入れ替え、沈黙する扉の先に目を向ける。
 廊下の突き当たりは、非常扉だ。建物の外には階段が設置されて、万が一の際はそちらから避難出来るようになっていた。
 目を瞬いた綱吉の頬を、初夏の温い風が撫でる。大粒の琥珀を零れんばかりに見開いて、彼は響いた足音に背筋を震わせた。
「……え?」
 さっきまで確かに閉まっていた非常扉が開いている。新緑香る風に寄り添われ、艶やかな黒髪を揺らしながら、ひとりの青年がゆっくりと建物内に入ろうとしていた。
 黒の学生服を肩に羽織り、腕の通らない左袖には緋色の腕章が。どこか気怠げな表情をして欠伸を噛み殺した青年は、リボーンを抱いて呆然と立ち尽くす綱吉の存在に目を留めると、長い前髪を左右に踊らせ、不思議そうに小首を傾げた。
 陶磁のように白い肌、黒く冴えた瞳。黙って立たせておけばその辺のモデルよりもずっと凛々しく男前なのに、口を開けば「群れるな」だの「咬み殺す」だの、穏やかでない台詞ばかり吐く。
 この中学校に通っている生徒で、彼の顔を知らない者は居ない。教員よりも絶大な権力を保持する、実質的な支配者。応接室を占拠し、我が物顔で使用している並盛中学の独裁者。
 雲雀恭弥だ。
「えええー?」
「ふむ」
 その彼の登場に、綱吉は震え上がった。
 よりにもよって、一番会いたくなかった人と遭遇してしまった。早くリボーンを隠さなければ、怒り狂った彼の仕込みトンファーが綱吉の脳天を直撃しかねない。
 最悪の状況を想像して背筋を粟立て、彼は慌てふためいてその場でぐるぐる回り出した。出来るなら一目散に逃げ出したいところだけれど、雲雀の事だ、背中を向けた途端に怪しいと踏んで追いかけて来るとも考えられる。
 どうすればいいのか、分からない。混乱しきった頭を抱え、綱吉は怪訝にしている雲雀を前に、引きつり笑いを浮かべた。
「ちゃおっす、雲雀」
「ちょっと、リボーン!」
 綱吉が懸命に雲雀から逃れる方法を考えているというのに、その腕に抱かれた赤ん坊は身動いだ末、暢気に手を振って近付きつつある青年に向かって挨拶を口走った。
 胸元から響いた声に唖然として、綱吉が声を上擦らせる。が、一度発せられた言葉が消せるわけでもなく、雲雀は綱吉と、その腕に隠れるようにして存在していた赤ん坊とを同時に見た。
 それまで微妙に眠そうにしていた雲雀の顔が、見る間に冴え渡っていくのが分かる。さっきまでなら頑張れば逃げられるかもしれない、と思えたものが、この一瞬の間に可能性ゼロの領域に突入してしまった。
 奥歯を噛み鳴らし、二秒後にやってくるだろう怒りの鉄槌を思って背筋を戦慄かせる。悲痛な顔をして四肢を強張らせた綱吉を余所に、リボーンはひらひらさせていた手を下ろすと、歩みを速めた青年に不敵に笑んで見せた。
「やあ、久しぶり。赤ん坊」
 綱吉が動けずにいるうちに、雲雀はあっという間に距離を詰めてしまった。あと一歩踏み出せば横に並べる近さまで来て足を止めた彼は、学生服を揺らし、右腕を腰に添えて僅かに首を右に傾がせた。
 表面上は穏やかな挨拶風景でしかないが、綱吉には此処が地獄の一丁目に見えた。
「ご、ごめんなさい、ヒバリさん。あの、えと、すぐ、すぐに、その、追い出しますから」
 頬が引きつっているので、巧く発音できない。顔面蒼白に近い状態で叫んだ綱吉は、逃げ出そうとしているリボーンの拘束を急ぎ強め、雲雀には愛想笑いを浮かべた。
 見逃して貰えるとは思えないが、なにもせずに黙って殴られるのは嫌だ。出来るなら穏便に事を済ませたい。過去に幾度もトンファーで殴られているだけに、恐怖心がなによりも勝った。
 だが雲雀は、焦り慌てる綱吉に険のある目を向けて、次いで左手も引き抜くのに成功したリボーンに焦点を定めた。
「追い出す?」
「はい、です。だって、えと、こいつ……」
「どうして? 別に良いよ、赤ん坊なら」
「……へ?」
 気を抜けばすぐにでも綱吉を蹴り飛ばし、逃げ出そうとする赤ん坊の頭を押さえ込み、綱吉は言った。しかし雲雀の、予想を大きく違えるひと言に目を点にして、至極間抜けな表情を作った。
 彼に抱き締められたリボーンが、其れ見たことかと不敵に笑う。雲雀はそんな赤子に手を伸ばし、久方ぶりの再会を祝してか握手を申し出た。
 少しだけ背を丸め、摺り足で前に出る。綱吉との距離がいっそう近くなって、顔に落ちた影に彼は吃驚した様子で目を瞬いた。
 瞼の先で、色の薄い睫毛が軽やかに揺れ踊る。考えていたのとは全くもって正反対の結果に言葉も出なくて、綱吉は唖然と息を吐いた。
 だがよくよく考えてみれば、リボーンと雲雀は、仲がよいのだった。
 雲雀は、強い者が好きだ。そして最も嫌うのが、弱くて、すぐ群れたがる人間だ。
 彼を苦手と思うと同時に、その類い希なる強さに少なからず憧れていた綱吉は、彼の興味が全く自分に向かないこの現実に息苦しさを覚え、哀しくなった。
 所詮自分は弱者で、彼の視界にすら入らない矮小な存在なのだ。悔しいが、認めるしかない。赤ん坊を抱く腕の力を緩めた彼は、冷酷極まりない世の道理に抗うのも忘れ、切なさに顔を伏した。
 彼らの頭上に据え付けられたスピーカーが、昼休みの終了を告げる鐘を掻き鳴らす。毎日聞き飽きたメロディーに肩を叩かれても、綱吉は動けなかった。
 自分がどうしてこんなに落ち込んでいるのか、その理由さえ分からない。授業に必要な地図やなにやらを教室に運ばなくてはいけないのに、そんな事、もうどうでも良くなっていた。
「ツナ、チャイムが鳴ったぞ」
 折角逃げ道を作ってやったのに、リボーンは相変わらず綱吉の腕に抱かれたままだった。足をぶらぶらさせて、小さな手で彼の腕を叩いて催促する。が、綱吉は顔を上げるどころか、返事すらまともにしなかった。
 雲雀に殴られずに済んだのは喜ばしい筈なのに、哀しい。彼がリボーンに好意的なのは前から知っていたのに、今日初めて教えられたようなショックを受けている。
 これならいっそ、咬み殺されていた方がマシだった。身体は痛くても、ここまで心は痛まない。言い訳する暇すら与えられずに、問答無用で殴り飛ばされる方が良かった。
「ツナ」
「うん」
 リボーンがせっつき、もう一度腕を叩いてくる。今度は返事をせぬわけにいかず、綱吉は陰鬱な表情のまま浅く首を縦に振った。
 それでも、足は動かない。
 リボーンの処遇をどうするのか、という問題はまだ解決していなかった。彼を学内でうろつかせるのは、出来るなら避けたい。だが彼が言い聞かせて大人しく帰るタマでもなくて、ならばいっそ、雲雀に預けてしまうのが最良の手段かもしれなかった。
 だが、言い出せない。綱吉が授業で苦しんでいる間、リボーンと雲雀だけが仲良く談笑しているのは腹立たしいと思うと同時に、矢張り胸が苦しかった。
 この感情の意味が分からず、唇を噛み締めて嗚咽を堪えて息を呑む。鼻を啜った彼を下に見て、それまでずっと黙っていた雲雀は怪訝に眉を寄せた。
「ねえ」
「分かってます。授業、ですよね。分かってます」
 俯いたまま早口に捲し立て、やっと自分に興味が移った雲雀に素っ気ない態度を取る。本当はこんな風に言いたくはないのに、口が勝手に言葉を発していた。
 雲雀の目の前で、蜂蜜色の髪の毛がふわふわと揺れ動く。綿菓子のような毛並みに目を奪われて、彼は沈痛な面持ちの綱吉に小首を傾げた。
 何故そんな辛そうな顔をしているのかが分からない。彼が抱き抱えるリボーンに話しかけた際は、もうちょっと明るい、元気の良い顔色をしていた筈なのに。
 綱吉の名前は、わざわざ生徒名簿のリストを繰って探し出すまでもなく、覚えている。特徴的すぎる髪型に、薄い色素に、何もないところで転ぶようなドジを頻繁に繰り返す子だ。入学したての頃は日陰の存在だったけれども、獄寺隼人が転入して来る少し前辺りから問題行動が目立つようになった。
 明るく、花のように弾けた笑顔をする子だ。強いのか、弱いのか、よく分からない。ちょっとした事ですぐ涙目になるのに、下着一枚で走り回っている時は野生の獣じみた獰猛さが感じられる。
 不思議で、だからこそ興味深い。
「……沢田綱吉」
 具合でも悪いのだろうか。冴えない肌色が気になって、名前を呼んでみる。同時に左手を伸ばして彼の頬に触れると、肌を擦る感触に彼はビクリとして、驚いた様子で顔を上げた。
 こぼれ落ちそうな程に見開かれた琥珀に、自分の姿が大きく映し出される。この色は嫌いではないと、そんな事を考えながら、雲雀は彼との距離を十数センチ狭めた。
 綱吉に落ちる影が色を濃くする。暗がりに追いやられてしまったリボーンは、自分を抱く腕が微かに震えているのに気付いて鼻白み、肩を竦めた。
「ヒバリ、さん?」
「熱でもあるの?」
 掠れるような小声で呟き、瞬きも忘れて相手に見入る。雲雀は気まぐれに指を動かして丸みを帯びた頬を擽ると、他よりも若干色味が強く出ている鼻の頭に指先を添えた。
 先程転んだ時、床で擦って削った場所だ。暗に赤くなっているという意味での発言だと理解するのに五秒以上掛かってしまい、息を呑んで凍り付いた彼に、雲雀は眉根を寄せた。
「沢田?」
 擦り傷を避けて上向いた指先が、綱吉の額に掛かる髪に触れた。入れ替わりに鼻先を擽った熱に心臓が跳ねて、彼は大仰に肩を強張らせ、唇を戦慄かせた。
 雲雀が近い。その事実になにより驚いた彼は声すら出せずに硬直し、存在を忘れかけていたリボーンをうっかりぎゅうっ、と抱き締めてしまった。
「む」
「あっ」
 首を締め上げられた赤ん坊が苦しげに身動いで、抵抗感から彼の事を思い出した綱吉は慌てて下を向こうとした。
 しかし手を伸ばせば簡単に届く距離に雲雀がいる。リボーンに気を取られた綱吉は、一瞬だけ、今度は彼の事を忘れた。
 首を前に倒したまま瞳だけを下向けた彼の口元に、俯かんとした綱吉の額が迫る。慌てた雲雀が退こうとしたが、それを邪魔する声が突如何処からともなく、大きく響いた。
「てめえ、雲雀! 十代目に何してやがるー!!」
「いぁっ!」
 鼓膜を突き破る勢いで飛び込んできた罵声にも、覚えがあった。
 ガッと来た痛みと熱に、咄嗟に首を竦めた綱吉の肩に、宙を泳いだ雲雀の手が落ちる。無意識なのだろうが強く握られて、ハッと息を吐いた彼は大急ぎで後ろを振り返った。
 怒髪天を衝く勢いの形相をした獄寺が、もの凄い剣幕と共に廊下を爆走していた。
 つり上がった目が怖い。銀髪を振り乱して走ってくる彼の両手が背中に回って、三秒後に何かを掴んで前に戻された時、その何かを理解した綱吉は全身に鳥肌を立てた。
 間違いない、ダイナマイトだ。携帯用に小型化された物なので爆発規模はそう大きくないながらも、直撃を食らえば当然痛い。こんな狭い空間で何発も爆発させたら、窓ガラスが割れる程度の被害では済まない。
 此処にいるのが学校をこよなく愛する雲雀恭弥であるのは、獄寺も分かっているだろうに。
 その彼が、何故教室を遠く離れた社会科準備室前の廊下に居るのか。自称綱吉の右腕である獄寺が、予鈴が鳴っても戻らない主人を心配し、居ても立ってもいられなくなって様子を見に此処までやってきたのは、殆ど自然な流れだった。
 綱吉が重い荷物に四苦八苦しているのならば、これを手伝わないわけにはいかない。そんな、頼りになる部下として綱吉に褒められるのを楽しみにしていた彼を待っていたのは、廊下の真ん中で立ち尽くす綱吉と、彼に覆い被さるようにして顔を寄せる雲雀の姿だった。
 綱吉が抱き抱えているリボーンの姿など、彼の後方遠くにいた獄寺の目には映らない。なにもやましい事などない状況の筈なのに、それが分からない獄寺は、この信じがたい展開を綱吉の貞操の危機と理解した。
 両手に三本ずつ構えたダイナマイトを着火させ、獄寺はそこに綱吉がいるのも忘れて雲雀を標的に定めた。大きく振りかぶり、敬愛する十代目を襲おうとした不逞な輩目掛けて放り投げる。
「くらいやがれー!」
「ひぃぃぃ!」
 額を赤く腫らせた綱吉が、迫り来る合計六つのダイナマイトに甲高い悲鳴をあげた。リボーンをぎゅっと抱き締めて、こんな事になった原因を探して昨今の出来事を滅茶苦茶な順で振り返る。
 これが俗に言う走馬燈というものかと頭の片隅でぼんやり考えているうちに、ザッと影が走り、綱吉の視界を黒いなにかが塞いだ。
「っ!!」
 直後、一陣の風が彼の頭上を駆け抜けた。
 リボーンを抱えたまま背中を丸めて小さくなった綱吉は、まるで自分を庇うようにして立ちはだかった誰かに思いを馳せ、膝を折ってしゃがみ込んだ。
 赤子を守るように胸に抱え、来たる衝撃を堪えるべく、より身を低くする。間もなく聞こえるだろう爆音と爆風を想像して全身の毛を逆立て、直後、彼はドッ、という腸を全部ひっくり返すような轟音に顔を引きつらせた。
「っ――!」
 見えないが、見る勇気もないが、確かにとても近い場所で何かが炸裂した。史上最強と謳われるような台風の直撃を食らったかのような暴風が瞬時に場に吹き荒れて、頭を持って行かれそうな勢いを懸命に堪え、奥歯を噛み締めて必死に踏み止まる。
 だが最後、少し風が弛まったかと油断した瞬間、
「うあっ」
 軽い彼の身体は呆気なく持って行かれ、またもや受け身を取る暇もなく廊下の上ででんぐり返しを果たした。
 途中で放り出されたリボーンが、横向きに転がって廊下の角手前でポーズを決めて起きあがった。その向こう側で、またもや顔を擦りながら滑った綱吉が尻を上にして横たわり、ひくひくと四肢を痙攣させた。
 細かく震えていた窓ガラスが時間を経て沈黙し、そこに新たな剣戟の音が覆い被さる。獄寺の野太い悲鳴がひとつ響いて、打った鼻を押さえてどうにか起きあがった綱吉は、遠く離れた廊下で天井近くまで投げ飛ばされた同級生と、その手前でトンファーを振るった態勢で停止している雲雀の姿を同時に見た。
「ぐあぁ!」
 天井に設置された蛍光灯が何本か、爆発の衝撃に耐えきれなかったのか木っ端微塵に砕け散り、その破片が廊下に散らばっていた。それは綱吉の上にも幾らか降り注いで、尖って危険な代物だというのに、光を反射してきらきらと輝き、妙に綺麗だった。
 虹色に煌めく光の向こうで、黒を背負った雲雀が、銀の輝きを放つ武器を手に肩で息を整えていた。
「な……」
 獄寺が投げ放ったダイナマイトは、雲雀がトンファーを振るったその風圧で弾き飛ばされ、天井近くで爆発した。そして爆風に煽られて身動きが取れなくなっていた獄寺の隙をつき、一瞬で彼を沈黙させてしまった。
 圧倒的な強さ。獄寺には可哀想だけれど、雲雀の実力の高さを改めて見せつけられて、綱吉は声もなく、呆然と事の有様を見詰めた。
「まったく……、僕の学校に、何するのさ」
「くっそ、テメぇ……ゆるさねえ!」
 多大なダメージを受けながらも起きあがった獄寺が、次のダイナマイトを取り出して身構える。雲雀は不機嫌を強めた表情で彼を睥睨し、ふと、後ろを振り返った。
 摺って赤くなった額を押さえていた綱吉は、彼と目があった気がしてドキリとし、ぶつけた、というような物理的な理由が無いままに頬を赤く染めた。
「許さないって、なにを?」
「しらばっくれんじゃねーよ。テメー、雲雀のくせに十代目の可憐な、お、お、……お唇を奪おうだなんて、百年はえーんだよ!」
「はぁぁぁ!?」
 いったいどこからそういう話が出て来たのか。全く分からないまま、聞いていた綱吉は素っ頓狂な悲鳴をあげた。
 鳴り響く五時間目開始のチャイムの音に彼は直後ハッとして、睨み合う両名に届かないと知りつつ手を伸ばした。制止の声をあげようとするが、それより早く、あらぬ嫌疑を掛けられた雲雀が不快げに顔を顰めた。
「なに、それ。勘違いするのは君の勝手だけど……」
 赤く腫れた額を晒した綱吉が、聞こえて来た彼の声にドキリと胸を高鳴らせた。 
 締め付けるような痛みを覚え、息苦しさに喘いで鼻を膨らませる。この一瞬でいきなり泣きたくなって、彼は上唇を噛み締め、背筋を戦慄かせた。
 総毛立つ彼の変容を見ていたリボーンが、大きく歪められた琥珀に小さな肩を落とす。
 直後、鳴り終わるチャイムの音色に合わせ、雲雀が不遜に笑んだ。
「僕のものを僕がどうしようと、僕の自由だよ」
 君に命令される謂われこそない。
 聞こえた瞬間顔を上げた綱吉を知らず、そう嘯き、彼は風を裂いて駆け出した。

2010/05/30 脱稿