導火線

 五分ほど前に降り始めた雨はあっという間に本降りの様相を呈し、藍色のアスファルトには無数の水溜りが形成された。
 硬い路面に弾かれた雨水は行き場を失い、路肩に設けられた排水溝に濁流となって押し寄せる。ざあざあという音が果たして空から生じているのか、それとも足元から響いているのか、明確に区別するのは難しかった。
「母さんに感謝、だな」
 頭の上で跳ねる水滴の行方を追い、視線を上向けた綱吉が笑みを浮かべながら呟く。青と濃い緑のチェック柄の傘を右手に構え、彼は足元に出来上がったばかりの水溜りを飛び越えた。
 着地の震動で水滴が散り、ボタボタと立て続けに幾つも落ちていく。お陰で傘が少しだけ軽くなった気がして、彼は上機嫌に持ち手の部分を回転させた。
 周囲に人が居ないから出来る芸当だ。もしここが交通量の多い大通りのど真ん中であったなら、彼の行動は迷惑行為以外の何物でもない。
「それにしても、なあ」
 すっかり人気が途絶えた商店街を眺め、彼は苦笑した。
 雨が降り始める前は、まだちらほらと買い物客の姿を見かけた。しかし重い色をした雲から大粒の雨が零れ落ち始めた途端、まるで潮が引くように、あっという間に通行人は屋内に退避して、何処かに走り去ってしまった。
 気がつけば辺りには誰もおらず、傘を持っている人も皆、急ぎ足に通り過ぎていく。
「俺も、さっさと帰ろう」
 左手に持ったレジ袋を揺らし、綱吉は肩を竦めて前方に視線を投げた。
 奈々に頼まれた買い物は、これでひと通り片付いた。軽いものばかりでよかったと、以前に醤油や酢といった調味料を大量に依頼された時を思い出し、苦笑いを浮かべて傘を揺らす。
 またひとつ、大きく育った水滴が縁から滴り落ちていった。
 面倒臭いし、寒いので本当は嫌で仕方がなかったのだが、お釣りで好きなお菓子をひとつだけ買っても良い、と言われて二つ返事で承諾してしまった。我ながら安い奴だと思うが、小遣いが少ない分、こういうところで稼いでおかないと、月末にひもじい思いをする羽目に陥りかねない。
 日々のちょっとした積み重ねこそが大事だ。心の中で繰り返し自分に言い聞かせ、彼は深く頷き、鼻から息を吐いた。
 家を出た時は、まだ雨は降っていなかった。
 曇り空が重く立ちこめ、いつ降るか分からないような状態ではあった。しかしそんな天候が半日続いたものだから、あの鉛色の雲は見掛け倒しで、結局は降らないのではないかという心理が、各々の心に働き始めていた頃合いだった。
 綱吉もその一人で、奈々から預かった買い物代金とメモをズボンのポケットに入れた後は、手ぶらで出かけようとした。そこを呼び止められて、玄関先で黙って傘を差し出された。
 最初は受け取りを渋ったが、素直に従って良かったと、今は感謝の気持ちでいっぱいだ。
「ま、足は濡れるけど」
 とはいえ、傘の一本で雨の雫すべてを避けきれるとは流石に思っていない。既に濡れて色が変わり始めているジーンズの裾を見下ろし、彼は爪先を蹴り上げた。
 助走なしでは飛び越えられそうにない大きな水溜りを、右に迂回して避けて進む。スーパーの出入り口前に差し掛かると、流石にそこだけは人が密集して熱気が溢れていた。
 傘を持ち合わせていない人は、ドア付近で途方に暮れた顔をしている。一方、持っている人はさっさと店を出たくて仕方がなくて、通行を邪魔している雨宿り中の人に迷惑そうな顔を向けていた。
 そのうち口論にも発展しそうな雰囲気を感じて、触らぬ神に祟りなし、と綱吉はそそくさと場を離れた。
 片手で傘を持ち、もう片手でハンドルを握った主婦が、危なっかしい運転で自転車に乗って走り去っていく。もうちょっとでぶつかるところだった綱吉は肝を冷やし、水飛沫を上げて遠くなる背中にそっと嘆息した。
「危ないなあ」
 せめて傘を止めて合羽を着るか、もしくは速度を落として安全運転を心がけてもらいたい。そんな事を考えながら首の向きを戻した彼は、雨に煙る視界に見慣れた黒が映った気がして小首を傾げた。
 後ろからちりりん、と自転車のベルを鳴らされて、遠くに飛んで行った意識を慌てて引き戻す。左に逃げて歩道の端に寄った綱吉は、さっきとは別の自転車を無事に避けて胸を撫で下ろし、湿気た唇を舐めて白く濁る息を吐いた。
 雨の影響か、気温が下がりつつある。手袋をしてこなかったのを後悔しながら、彼は手の甲に散った水滴をズボンに押し付けた。
「あれって」
 改めて前方の、右手にある建物を見やり、彼はひとりごちた。幅五メートルばかりある通りを挟み、左右には様々な商店が軒を連ねていた。
 とはいえ、最近出来たスーパーのお陰で、どの店も閑古鳥が鳴いている。早々に商売に見切りをつけて閉店してしまった店もあって、昼間から下ろされたシャッターがもの哀しさを助長していた。
 色々なものが取り揃えられたスーパーは便利だが、その所為で住み慣れた町が寂れていくのは悲しい。利便性を追求した結果が、効率重視の型に嵌った、前へならえ的な生き方だとしたら、それはそれで切なすぎる。
 そうして、綱吉の前方では、現在進行形でそういった他者と馴れ合い、群れるのを極端に嫌う人物が、灰色の空を見上げて物憂げな表情で佇んでいた。
「ヒバリさん、だ」
 黒い学生服に、臙脂色の腕章。雨に降られたのか、艶やかな黒髪がいつもより重そうだ。
 並盛中学校風紀委員会委員長にして、不良の総元締め。弱い群れを見つけた途端、どこに隠し持っていたのかトンファーを両手に構え、手加減、容赦一切なく叩きのめし、咬み殺してしまう怖い人。
 綱吉の中で、出来るものなら関わりたくない人物の筆頭核に分類される存在だ。中学校に通う生徒の大半が、同じように思っているに違いない。
 雲雀には刃向かうな、逆らうな、目を付けられるな。それが暗黙の了解と化しており、生徒手帳にも見えない文字で書き記されている。
 ただ綱吉は、押しかけ家庭教師の迷惑極まりない行動のお陰で、少なからず彼と接点があった。死ぬ気状態だったとはいえ、スリッパで彼の頭を殴ったというのは、未だ忘れ得ない衝撃的な出来事だった。
 やろうと思えば、当時の感触さえ思い出せる。傘を握ったままの右手に目を向けて、彼はその場で足踏みした。
 向こうはまだ綱吉に気付いていない。シャッターに背中を預け、相変わらず空ばかり見ている。
 いつも連れている風紀委員の姿も無い。そして彼に声を掛けようというような、奇特な人の影も、暫く遠目に観察した限り、ひとりとして居なかった。
 雨の中、閉まっている店の前で佇み続ける彼が、其処で何をしているのか。宙に浮いた視線が捉えるものを想像して、綱吉は臍を噛んだ。
「俺には関係ない、し」
 苦々しく吐き捨てて、彼は左手に持った袋を揺らした。持ち手を握り直し、斜めにした傘で肩を二度ばかり叩いて大量の雫を後ろに落とす。雪崩を起こした水滴は、ボタボタと音を響かせて勢い良く地面に散らばった。
 また一台、自転車がスーパーの前を駆け抜けていく。道路の真ん中を、軽乗用車が徐行運転で通り過ぎた。
 綱吉の視界から、一瞬だけ雲雀の姿が消えた。
「あっ」
 存在そのものが掻き消えてしまったような錯覚を覚えて、思わず息を飲む。車が通り過ぎた後でも変わる事無く彼は其処に立っていて、何故かその事実に綱吉は安堵した。
 胸を撫で下ろして、この奇妙な感覚に唇を噛み締める。
 同じ中学校に通う先輩と後輩、強いて言うなら彼との関係はその程度だ。接点はあるが、関わりは深くない。仲良しとはとても言えず、どちらかと言えば綱吉は彼が苦手だ。
 ただ、皆が言うほど嫌いではない。
 嫌いになるだけの材料を、綱吉は彼から得ていない。良く知りもしないで相手を嫌うのは、生理的に受け入れ難かった。
 無数の選択肢を目の前に散らして、彼は生温い唾を飲み、冷えた空気に頬を赤く染めた。
「ああ、もう」
 どうしてこんな時に、こんな場所で、雲雀を見つけてしまったのだろう。無駄に良い視力を恨めしく思いながら地団太を踏み、綱吉は傘を持つ手に力をこめた。
 広い道路を左右見渡して、接近する車や自転車が無いのを確かめる。道が安全だと判断した彼は、力強く頷いた後、左足を前に繰り出した。
 パシャン、という水音が響き、雲雀は瞬きひとつで視点を入れ替えた。
 道行く人の大勢が、彼に気付くとそそくさと早足になり、傘で顔を隠すように去っていく中で、その音だけはいやに大きく響いて彼の鼓膜を打った。
 更にもうひとつ、水溜りが波を作る。アスファルトの色を濃くしている水滴を蹴散らし、接近する青と緑のチェック柄に気付いて、雲雀は怪訝に眉根を寄せ、口をヘの字に尖らせた。
 顔は傘の所為で顎のラインしか見えないが、背は低い。服装や靴から、性別は男だと簡単に分かった。左手に歪な形をしたビニール袋をぶら下げているので、買い物の帰りだろう。
 風紀委員の中に、こんな小柄で華奢なメンバーはいない。雲雀の事を知らない輩だろうかと、色々な事を短い時間で考えているうちに、傘は彼が雨宿り中の軒下一メートルほど手前で停止した。
 慣性の法則で前に飛んで行きそうになった袋を握り締め、傘の少年は白い息を連続して吐いた。
 表情は見えないが、態度からは極度に緊張している様子が窺えた。
「……なに?」
 知らない相手か、既知の間柄か。顔が分からないので判断のしようがなく、目の前にいきなり立ち止まられて、雲雀は少々不機嫌な声を上げた。
 用があるから此処に居るのだろうが、その用件の中身がさっぱり分からない。
 親しい間柄の人間に、このような背格好の持ち主は居ない。記憶を掘り返して黒い瞳を眇めた雲雀の問いかけに、チェックの傘の持ち主はビクリと肩を強張らせた。
 が、去ろうとしない。それどころか逆に、五十センチほど距離を詰めてきた。
 傘の先端が軒下に入り、庇から落ちた水滴を弾いた。
「つっ」
「あ……」
 それが丁度雲雀の方に跳ね飛ばされて、左頬に浴びせられた彼は、肌を刺した冷たさに咄嗟に声をあげた。
 聞こえた綱吉が、慌てて前に傾けていた傘を後ろに倒して視界を開く。露になった琥珀の瞳の輝きに、水滴を拭おうと左肩を持ち上げていた雲雀もまた、呆然と目を見開いた。
 知ってはいるが、親しいわけではない相手の登場に、即座に言葉が思い浮かばない。何故彼が、という思いが頭の中を一直線に駆け抜けて行った。
「あ、えっと。すみません」
 目が合って、綱吉も何をどういえば良いのか分からなくなって口篭もった。ひとまず素直に詫びて、下がろうかどうしようかで迷って爪先で二度ほど地面を叩く。
 ガサガサ言う袋を背中に隠し、彼は前に佇む青年を盗み見て、パッと目を逸らした。
「なにか、用?」
 学校で、或いは町で見かけることはあっても、綱吉から雲雀に声をかけてきた例はない。そして、その逆もない。
 この少年が沢田綱吉という名前で、並盛中学校に在席しているのは雲雀も知っている。入学当初は大人しく、地味で目立たない苛められっ子だったが、最近になって急に周辺が賑やかになり、彼自身の問題行動も目に付くようになった。
 事情は良く分からないものの、下着一枚で学校内を駆け回るのは、風紀委員として見逃せない。だが、額にオレンジ色の炎を宿した時の彼は、平時の姿から大きくかけ離れており、その点は非常に興味があった。
 後は彼の家に居候中という、奇妙な赤ん坊と。
 だが、所詮はその程度だ。彼を殴り飛ばし、或いはスリッパで殴られた経験はあるものの、学内で顔を合わすのも稀で、言葉を交わした記憶もさほどない。
 おおよそ友人とも呼べない間柄の人物が、この雨の中で何の用か。
 待っても喋り始めようとしない彼を冷たく見下ろしていると、またも傘に当たった水滴が跳ねて雲雀の顔を襲った。
「っ……」
 鬱陶しい。そういう感情を露骨に表に出して、雲雀は顔の前で左手を左右に振った。
 その様を間近から見上げた綱吉が、ずっと開きっ放しだった口を閉ざし、右の踵でアスファルトを蹴った。
「ん」
 鼻から息を吐いて言い、ずい、と傘を雲雀の方へ突き出す。背中に回っていた左手が傘からはみ出し、雨に打たれることになったが、彼は気にしなかった。
 但し、急に濡れた傘を突きつけられた方は堪ったものではない。顔にぶつけられそうになって、雲雀は摺り足のまま半歩後退した。
 背中が雨で冷えたシャッターにぶつかり、その衝撃で我に返る。前に弾んだ学生服の袖を後ろに追い払い、雲雀は傘を握ったまま真っ直ぐ見詰めてくる少年に顔を顰め、眉間に皺を寄せた。
「なに」
「ん」
 問うが、綱吉は答えようとしない。硬く口を閉ざし、単音ばかり吐いて握った傘を上下に揺らした。
 トン、トン、トン、と雨だれが音を響かせる。綱吉の後ろを、赤色の乗用車が水溜りを突っ切って走り去っていった。
 口が利けないわけではない筈なのに、何も言おうとしない。態度から察するに、傘を受け取れ、使え、という事なのだろうが、綱吉が他に予備を持っているようには見えなかった。
 雨具は青と緑のチェック柄が鮮やかな、この傘一本だけだ。それとも彼は、これを雲雀に預け、自分はそこにあるスーパーで販売されている安い傘を買って帰るとでもいうのだろうか。
「沢田綱吉」
「だーかーらー」
 痺れを切らし、雲雀が声を荒げる。それを合図に、綱吉も甲高い声を発した。
 濡れたビニール袋ごと左手を前に戻して上下に激しく揺さぶり、自分にも雲雀にも水滴を巻き散らかして彼はかぶりを振った。
 だがそれも、十秒と続かない。突然動きを止めて深呼吸を繰り返し、唇を舐めて、噛んで、最後には溜息のような長い息を吐いた。
「どうぞ」
 ぶすっとしたまま上目遣いに睨んで言われ、雲雀は面食らい、暫く瞬きを忘れた。
 予想通りだったが、素直に喜べない。突然の雨に降られて足止めを食らっていた手前、傘の提供は有り難い、のひと言に尽きるけれど、かといってこれを借りてしまったら綱吉はどうなる。
 買い物からの帰り道なのは間違いなかろう。此処から彼の家まで、徒歩だと十分以上掛かるというのに。
「どうぞ、って」
「……要らないんですか?」
「君はどうするの」
 戸惑いを過分に含んだ声で言い返すと、綱吉は不満だったようで唇を蛸のように突き出した。拗ねた顔をして再度訊かれて、雲雀は嘆息に混ぜて質問を繰り出した。
 瞬間、綱吉の鮮やかな琥珀の目が真ん丸になった。
「あ、そっか」
 今の今まで気づかなかったことの方が、雲雀には驚きだ。いつもこんな風に、後先考えずに行動しているのだろうか、彼は。
 呆れて物が言えず、両手を腰に当てて肩を落とした雲雀に、綱吉は照れ臭そうな、困った顔をして膝をもじもじさせた。
「え、えと。あの、……要ります?」
「そりゃね、君が喜んで提供してくれると言うのなら、僕に断る理由はないけど」
 間に躊躇を挟みながら、尚も問うた綱吉に、嫌味を込めて言い返す。彼は若干引き攣った笑みを浮かべ、左人差し指で頬を引っ掻いた。白い袋の口から、スナック菓子の袋が見えた。
 即答しないという事は、綱吉は矢張り予備を持っていないという事だ。そして高々五百円もしないビニール傘を買うだけの資金にも困窮する状況なのだと、予測出来た。
 雲雀とて、財布を持ち歩いていないわけではない。その気になれば傘の十本や二十本、楽に買えるだけの額は所持している。
 ただ、好きではないだけだ。
 雨の中を、傘に庇われて歩くという行為そのものが。
「ですよねー……」
 きっぱり言い切った雲雀の顔を見上げ、返答に窮した綱吉が間延びした声で相槌だけを返し、以後黙り込んだ。
 話しかけた事を後悔している趣が、節々から感じられた。
 偶々道端で雨宿り中の雲雀を見つけて、親切心を働かせて声をかけたものの、傘は一本きり。これを貸せば所有者である綱吉が雨に濡れ、貸さなければ雲雀がいつまで経っても動けない。
 かといって「やっぱり貸せません」と言って立ち去ることも出来ないので、困ってしまう。さっきから身を捩り、くねらせ、少しもじっとしていない綱吉を見下ろしながら、雲雀は想像以上に分かり易い彼の心中に溜息を零した。
「いいよ」
 相手をするのも疲れて来て、雲雀は顔の前で右手を大きく横に、二度振った。
 左手は腰に添え、ベルトに指を引っ掛けて軽く握る。白いシャツに刻まれた無数の襞のひとつを潰して、体重を右足に集める。
 ピサの斜塔宜しく斜めになった彼を見上げ、綱吉はきょとんと首を倒した。
「え?」
「要らない。さっさと帰りなよ」
 余計なお世話、無駄な親切。お節介を焼くなら最後まで責任を持て。
 そういう意味合いを言葉尻に含ませて、雲雀はつれない態度で綱吉を追い払いにかかった。
 しっ、しっ、と犬猫を遠ざけようとする時の仕草で手を振られ、あまりの扱いの悪さに、綱吉もムッと顔を顰めた。
 折角好意から話しかけてやったのに、恩を仇で返された気分だ。だがその親切心こそが余計なお世話だと言い張って、挙句雲雀は人を蹴る仕草まで取った。
 爪先から跳んだ雫でズボンの裾を汚されて、綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をし、雲雀を睨んだ。
「分かりましたよー、だっ」
 吐き捨てるように言って、くるりと身体を反転させる。これでようやく静かになると、雲雀は向けられたチェックの傘に肩を竦めた。
 が、それはなかなか離れていかなかった。
「……?」
 背を向けはしたが、そこから動こうとしない綱吉に雲雀が小首を傾げる。黙って動向を見守っていると、また急に振り返られた。
「どうぞ」
「なんなの、君」
 言葉と一緒に差し出された傘から雨水が一滴、ふたりの間に落ちた。弾みもせず、音も立てずに砕けて消えたその行方を脳裏に想像しながら、雲雀ははっきりしない綱吉に声を荒げた。
「だから、……貸しませんよ?」
「うん?」
「でも、どうぞ。ふたりくらいなら、入れると思うから」
 語尾を上げた台詞に、益々分からなくなって眉間の皺を一本増やす。そこに追加されたひと言で、雲雀はやっと合点がいき、緩慢に頷いた。
 傘そのものは貸さないが、スペースなら貸してやる。つまりは、そういう事だ。
 確かに綱吉の持つ傘は、少々窮屈な思いを強いられても良ければ、ふたり並んで入れそうなサイズだった。お互い、外側の肩がはみ出て濡れることにはなろうが、最も守りたい頭、及び顔が濡れる心配はなくなる。
 分からないのは、綱吉が何故こうまでして、雲雀をシャッターの前から連れ出そうとするか、だ。
 店は閉じられて久しく、此処に長時間立っていようとも、誰の迷惑にもならない。綱吉は此処の所有者の知り合いか何かだったろうか、と見当違いの事を考えて、雲雀は渋い顔をしている少年を見詰めた。
 疑いの眼差しを向けられて、綱吉はまたもムッとしながら地面を靴底で叩いた。
「俺の、気が済まないだけ、です」
「ふぅん」
 傘を持たず、軒下で雨宿り中の雲雀に気付いてしまった。声をかけてしまった。
 その上で、やっぱりやめた、と帰る自分が許せない。
 深い理由などない。ただそれだけのことだと早口に告げて、綱吉は入るのか否か、改めて目で問うた。
 人に恩を売って、後から倍にして返すよう言ってくる小癪な連中とは、目の輝き方からして違う。彼は本当に、本心から雲雀を雨から守ろうとしている。
 裏のない実直な感情は眩しくてならず、内心の動揺を隠しながら、雲雀は気のない素振りをみせて相槌ひとつを打つに留めた。
「帰らないんですか?」
「帰るよ」
 今度は綱吉が、なかなか動こうとしない雲雀に痺れを切らす。傘の柄で肩を叩いて問い、得られた返事に釈然としない様子で口を尖らせた。
 綱吉が知りたいのは、彼が傘に入るのか、否か、それだけだ。他の情報は、この際どうだっていい。
 その思いが伝わったのか、おもむろに利き手を伸ばした雲雀は、人差し指と親指とで綱吉の低い鼻を抓んで引っ張ると、強引に自分の方へと引き寄せた。
「ふがっ」
「特別に、今日は咬み殺さないであげる」
 豚のように鼻の穴を大きくして呻いた彼に囁き、庇の下に滑り込んだ傘の中に入る。浴びる雨の量を減らしたいが為に、彼はわざわざ綱吉の小さな鼻を抓ったのだ。
 引っ張るならもっと他に場所があるだろうに。そもそも、ひと言断りを入れてくれさえすれば、綱吉は拒まずに受け入れた。
 強引で、乱暴な彼に泣きが入り、激しい後悔が胸の中に渦を巻く。されど一度は承諾したのだ、今更彼を捨て置いて去ることも出来ない。
 開放された鼻を撫で、顔の中心部が赤くなっている自分を思い浮かべながら、綱吉は肩がぶつかる近さに在る青年に向かい、そっと溜息を零した。
「ほら、早く」
「うあぁ、押さないでくださいってば」
 左肩で右上腕部を小突かれて、おっとっと、と前に転びそうになった綱吉は、一オクターブ高い声で悲鳴を上げた。
 水溜りに爪先から飛び込んでしまい、飛び散った泥水が彼らの裾を汚す。綱吉のズボンはまだ自宅で洗濯可能なジーンズだが、雲雀のそれは学校指定のスラックスだ。
 クリーニング代を請求されやしないかと一瞬ひやりとしたが、長い脚で綱吉が踏んだ水溜りを跨いだ青年からは、特に汚れを気にする素振りは見られなかった。
「遅い」
「ヒバリさんが速いんです」
 その代わり、綱吉を追い越しかけた彼の口から、不機嫌な声が発せられた。
 歩調が合わない。歩幅が違うのだから、それも当然なのだが。
 傘に入れて貰っている身分で偉そうに文句を言われて、綱吉は頬を膨らませた。
 この場合、ペースを合わせる努力をするのは雲雀の方ではないのか。だのに彼は少しも悪びれず、綱吉が雲雀に合わせるのを当然と捉えている。それに、彼は未だ礼のひとつも口にしていなかった。
 謝礼や見返りが欲しかったわけではないが、それにしても納得が行かない。たったひと言、「ありがとう」と口にするだけなのに。
「ちぇ」
 やっぱり見捨てておけばよかった。綱吉は足場が悪い中で、普段よりも早足を強いられて舌打ちした。
 聞こえた雲雀が、傘の下で首を振り向ける。
 刹那、綱吉の指先に微かな衝撃が伝わった。
「いっ、つ」
「はい?」
 傘が後ろから引っ張られたような感覚に、目を瞬かせる。それまでテンポ良く進んでいた雲雀までもが足を止めて、雨に濡れた右手を頭の上に持っていった。
 だから綱吉は、彼の手の邪魔にならぬようにと、親切のつもりで傘を高く掲げ直した。
「いたっ」
 瞬間、彼の顔が曇ると同時に、聞く側まで痛みを覚えるような悲鳴があがった。
 まだ続いていた、何かに傘を引っ張られる感覚が消え失せる。傘を持つ手が軽くなった気がして、綱吉の視線は自然と上を向いた。
 天に向かって真っ直ぐ伸びる支柱の終着点、傘を支える骨組みとの連結部分に、黒い糸が数本絡み付いている。銀色の細い骨に食い込んでいるそれを数秒凝視した綱吉は、直後にはっとして右手で己の頭を撫でている青年に目を向けた。
 涙ぐむところまではいかないものの、痛みを堪えている顔の雲雀が、不機嫌に綱吉を睨んでいた。
「あ、……ごめんなさい」
「まったくだよ」
 何が起きたのかを理解して、一瞬の間を置いて謝罪する。即座に雲雀の嫌味たらしい相槌が返ってきたが、反論出来なかった。
 苦笑するに留め、この程度で済んでよかったとホッと胸を撫で下ろす。雲雀のことだから、問答無用で殴り飛ばされていても可笑しくなかった。
 傘の骨に絡みついた黒髪をどうするかで迷い、綱吉は左手の荷物を揺らした。ビニールがガサガサ言う音に、険しかった表情を少しだけ緩めた雲雀は、盛大な溜息をついて首を振り、立ち止まっている綱吉の肩を軽く押した。
「ほら」
「うお、っと」
 さっさと先に進むよう言われて、綱吉は仰け反りながら一歩を踏み出した。
 綱吉と雲雀とでは、十センチ以上身長差がある。それなのに背が低い綱吉が傘を持っているものだから、雲雀の頭がつっかえてしまうのだ。
 だからといって、肩肘張って傘を高く掲げ持つのも疲れる。雲雀の背丈でも余裕があるようにするには、綱吉は自分の肩の位置で柄を握り締め続けなければならなかった。
 ダラダラ歩いているだけなのに、そんな疲れることはしたくない。痛いのが嫌ならば、雲雀が傘を持てばいいのだ。
 しかし彼は口を開かず、よって綱吉の代わりに自分が傘持ちを引き受けるという提案も出てこなかった。
「いたっ」
 そうして五分と過ぎぬうちに、またも雲雀の髪の毛が傘の骨組みに引っかかり、哀れにも黒髪が何本か犠牲になった。
 ぶら下がる本数ばかりが増えていく。足を止めた雲雀に倣って道端で立ち止まり、上を眺めた綱吉は、苦々しい様子で頭皮を慰めている雲雀にも目を向けて、堪えきれずに噴き出した。
 このままだと、雲雀の髪の毛が無くなってしまいそうだ。全部は流石に無理だろうが、頭の天辺に十円玉程の禿げくらいは出来るかもしれない。
 円形脱毛症の風紀委員長なんて、間抜けすぎて迫力に欠けること請け合いだ。
「ぷっ、くく……」
 本人を前に失礼だとは思うのだが、踏ん張れない。目尻を下げて口を左手の甲で隠し、声を殺して肩を震わせる。だが溢れ出る呼気が口の中いっぱいに広がって、頬がぷっくり膨らんでいる。隠し通せるわけがなかった。
 琥珀の目を潤ませて、可笑しくて仕方が無いと顔で告げる綱吉に舌打ちし、雲雀はムッと顔を顰めた。
「貸しなよ」
「お、っと」
 笑われるのも癪だが、これ以上痛い思いをして髪の毛を奪い取られるのも嫌だ。元々堪え性のない彼は怒鳴り声を上げて綱吉からチェックの傘を奪い、上下左右に細かく震動させて、屋根に集っていた水滴を全て押し流した。
 急に此処だけ大雨になって、肩が濡れるのを嫌った綱吉が慌てて身を竦ませる。少しでも安全な場所に潜り込もうという意識が働き、彼は胸から雲雀にぶつかっていった。
 体当たりを食らわされて、隙だらけだった雲雀までもが一緒になってふらついた。衝突の衝撃は弱かったが、間近から浴びせられた呼気の熱さになにより驚かされて、息が詰まった。
「君……っ」
 咄嗟に傘を高く、高く掲げ、雲雀が悲鳴にも似た鋭い声を発する。それで我に返った綱吉は、反射的に掴もうとしていた雲雀の学生服から、慌てて手を遠ざけた。
 自分の足に体重を分散させて姿勢を正し、空っぽの右手を背中に隠す。
「あ、あの。すみません」
「……いや」
 元はといえば、雲雀が断り無しに綱吉から傘を奪い取ったのが原因だ。雲雀は上に向かって真っ直ぐ伸ばしていた利き腕を戻すと、綱吉の体温を僅かに残す持ち手を何度か握り替え、最も安定する場所を見つけ出して肩を竦めた。
 綱吉の頭上の空間が十センチほど広がり、風がスースー通り抜けていった。
 落ち着かない。
「行くよ」
 片手が自由になり、綱吉はずっと左手一本で支えて来た荷物を右手に移し変えた。と同時に雲雀から号令が発せられ、彼は手元に集中していた意識を傍らに向けた。
 雲雀は少しもジッとしていない綱吉をちらりと見て、彼が頷くのを待って歩き出した。
 ペースは相変わらず、雲雀のそれだ。しかし傘を真っ直ぐ構えることに集中しなくていい分、綱吉も幾らか歩くのが楽になった。
 雨脚は、先ほどから少しも変わらない。強くならないが、弱まりもせず、淡々とリズムを刻んでいる。
 霧が出て曇っている景色に目をやって、綱吉はそういえば、と思い浮かんだ疑問に手拍子を打った。
「ヒバリさん、何処に行くんですか?」
 綱吉が帰る先は家だが、雲雀の目的地は不明のままだ。最初に確認しておくべき事をすっかり忘れていた彼の明るい声に、話しかけられると思っていなかった雲雀は若干驚いた顔をした。
 切れ長の目をより細め、綱吉の丸顔から視線を逸らす。
「学校」
「ああ、やっぱり」
 そうではないかと思っていたが、案の定である。短く返された一言に綱吉は納得だと頷き、別段嬉しいことがあったわけでもないのに微笑んだ。
 急に朗らかになった綱吉に、雲雀は不思議そうに小首を傾げた。
「やっぱりって?」
「ヒバリさん、本当に学校好きなんですね」
 理由を聞きたかったのに、返事になっていない。繋がらない会話に雲雀は苛立ったが、綱吉はお構い無しで、上機嫌に手を叩き合わせた。
 そうして肩を丸め、クスクスと隠し切れない笑い声を零す。
 なにがそんなに楽しいのか、分からない。だけれど先程ほどにはは不快に感じなくて、雲雀はこの奇妙な感覚に心の中で首を捻った。
「好きだよ。悪い?」
「いいえ、全然」
 自分の学校なのだから、愛着を持つのは当然だ。きっぱりと断言した雲雀に首を振って返し、綱吉はまたも楽しげに喉を鳴らした。
 まだ雨は降り続けているというのに、彼の声を聞いているとその事を忘れそうになる。傘を持つ手がしばしば緩んで、雲雀は肩が触れる近さにいる綱吉の横顔に見入りながら、何度も左手に力を込めた。
 道は商店街から離れ、左右には一戸建て住宅が軒を連ねるようになっていた。小さな庭をブロック塀で囲った一軒家が続き、道幅は大通りの半分以下に。車一台が通り抜けるのがせいぜいで、路面には無数の水溜りが群れを成していた。
 すべてを避けて通るのは難しい。雲雀には跨げても綱吉には無理な場所が頻繁に現れて、その度に彼は靴やズボンの裾を汚した。
 まだアスファルトで舗装されて、泥が跳ねないのが救いだ。これが運動場のような土がむき出しの状態だったなら、今頃ふたりとも真っ黒だ。
 光景を想像して、綱吉がまた笑う。自分だけならまだしも、雲雀までもが泥んこになっている姿は滑稽でならない。
 さっきからひとりで笑っている綱吉に嘆息し、雲雀は傘を握り締めて前方に目を向けた。
「あれ? ヒバリさん、こっちの道って」
「沢田」
 見慣れた家の、庭に伸びる柿の木。特徴のある枝振りを視界の端に見つけて、綱吉は高い声で横を行く青年を仰ぎ見た。
 木を指差そうと左手を持ち上げ、人差し指以外を折り畳む。続きを言おうと開いた唇を、他者の熱が掠めた。
 輪郭がぼやけるくらいの至近距離から囁かれ、脳髄に直接響いた低音にざわり、と背筋が粟立った。明るかった視界が突然の日没に見舞われて、発作的に飛び退こうとした彼の肩に大きな掌が触れた。
 離れようとしたのに叶わず、引きとめられて動けない。見開いた琥珀に闇が落ち、雲雀の吐く息が額に掛かる前髪を擽る。
「ヒ――」
 何が起きている。
 名を呼ぼうとしたが空気が喉につっかえて其処から先に進まない。尚も引き寄せられて爪先立ちを強いられて、逃げようと足掻く手が雲雀の胸を押した。
 温かく、それでいてがっしりとした肌の感触に、爪の先が痺れた。
「っ」
 息を飲む。肩がビクリと跳ねて、ふたりの上半身を斜めになった傘が隠した。
 直後。
 ザアっ、という音を立て、速度制限を無視した乗用車が一台、水溜りの泥を跳ね飛ばしながら走り抜けていった。
 高速で回転するタイヤに巻き上げられた雨水が高波となり、飛沫を散らしてふたりに踊りかかる。
「――!」
 足首から膝の辺りに冷水を浴びせられ、綱吉の体は咄嗟に逃げの体勢に入って奥を目指した。反射的に持ち上げた膝が雲雀の腿を蹴る形となり、両手は、一旦は突き飛ばそうとしていた彼の制服を掴んだ。
 左右の指、合計十本を駆使して白いシャツを掻き毟る。
 はっ、と冷えた耳朶に吐息が被った。大丈夫だと、そう囁かれたような気がした。
 一瞬の静寂に、周囲の時が止まる。車のエンジン音も、家々の屋根を打つ雨音さえも世界から消え失せた。
 ただひとつ、どくん、どくん、という激しく脈打つ誰かの心臓の音ばかりが、綱吉の頭の中を埋め尽くした。
「――――」
 長い息を吐く、その声。刹那、ばしゃん、と最後の残り滓のように泥水が跳ねて、車は残影を刻む事無く遠ざかっていった。
 止まっていた雨の音が鼓膜に戻り、数秒遅れで綱吉の首と、腕にも雫が落ちた。
「……あ」
 雲雀の腕に抱えられ、上半身を塀の方へと傾けた綱吉の頭上から、傘が消えていた。
 ゆっくりと、スローモーションで地面に落ちたチェック柄が、大量の泥水を弾き返しながらアスファルトへと落ちる。二度高く跳ねて、もう二回低く跳ねて、最後は右に十五度ほど回転して止まった。
 それなのに綱吉が頭に被る水の量は、吃驚するくらいに少なかった。
 またもうひとつ、耳元に熱が降りかかる。痙攣を起こした指先が鈍い痛みを発し、瞬きを数回繰り返した綱吉は、そこでようやく、自分が誰にしがみ付いているのかを思い出した。
「っ!」
 さほど広くも無い道路脇の、電信柱と塀に囲われた狭い一角で。雲雀の腕に包まれるようにして寄り掛かっている己の姿に、彼は慌てて指を解いて後退を図った。
 まるでどこかの映画にある恋人同士のように、彼に抱き締められていた。たとえそれが、車が通る所為で水溜りの泥が跳ねるのを見越し、被害が少なくて済むようにとの雲雀の配慮の結果だとしても。
 彼の腕に庇われ、唇に呼気が掠めるような近さまで接近したのは事実だ。
「あいた!」
 飛び退こうとして、けれど果たせなかった。真後ろに電信柱があるのをすっかり失念していた綱吉は、見事コンクリートの柱に後頭部を激突させ、無数の星を飛ばして呻き声を発した。
 泥を避けるのに傘を低く構えはしたが、完全ではなかった。挙句、しがみついて来た綱吉に驚かされて傘を手放してしまった雲雀は、自分の行動がさしたる成果を導き出せなかったことに些かショックを受けていて、間抜けなことをしでかした綱吉を直ぐには笑い飛ばせなかった。
 痛がっている彼を無視して腰を屈め、転がっている傘を拾う。早くしないと、ふたりとも全身濡れ鼠だ。
 もっとも、彼らは既にズボンの、膝から下はずぶ濡れだった。
 付け足すとすれば、車がまき散らした泥を被った度合いは、雲雀の方が僅かながら酷かった。
「いた、あ……」
 両手を後頭部に回し、ぶつけた箇所を撫でていた綱吉の頭上に、スッと薄い影が落ちる。琥珀に涙を滲ませたまま視点を上向きに入れ替えれば、そこには綱吉の傘を携えた雲雀が、何処となく不満そうな顔をして立っていた。
 蜂蜜色の髪を湿らせる雨は遠ざかり、テンポの悪い雨音がふたりの間で弾みもせず、沈んでいった。
「あ、ぁ」
 彼は何も言わない。胸の中に渦巻く色のない感情のやり場に困り、ただムッとして、綱吉の次の行動を待っていた。
 両手を広げて脇に戻した綱吉は、水滴を散らしたビニール袋を揺らし、見詰め合い続ける抵抗感から互いの足元に視線を落とした。
 濡れて色の変わったズボンに、靴。黒いスラックスに点々と刻まれた泥の跡を数えて、雲雀恭弥という人物は、あながち皆が言うほど怖い人ではないかもしれないと、そんな事を考えた。
「行くよ」
「ひえ、はい」
 肌を擽った雲雀の呼気とその熱を思い出し、人知れず頬を赤く染める。あの一瞬、触れたかと思ったが、それは錯覚のはずだ。
 濡れた左手で唇を拭い、一声かけてから歩き出した雲雀を急いで追いかける。
 勢い余って軽くだがぶつかった肩は、しっとりと濡れていた。其処のみならず、艶やかな黒髪からも無数の水滴が滴り落ちていた。額や、頬や、首にも。
 現在の己の格好と見比べて、綱吉はまだ微かに熱が残る唇を舐めた。
「あ、そうだ。ヒバリさん、道」
「君の家の方が近い」
 気の所為か、ピリッとした刺激に肩を竦めて、先ほど言いかけて忘れていた事を思い出す。伸び上がって甲高い声を発した彼をちらりと見やって、雲雀は直ぐに視線を戻し、抑揚ない声で呟いた。
 彼は中学校に、綱吉は自宅に。目的地はそれぞれ異なり、相応に距離がある。確かに雲雀の言う通り、商店街から続く道ならば、学校を経由して沢田家に行くよりも、沢田家を中継して学校に行く方が近い。
「傘」
「別に」
 そして、この傘は綱吉の所有物だ。
 貸さない、と最初に何度も念押ししたのを思い出して、ぼそり呟く。聞こえた雲雀は前を見たまま、返事になっていない返事をくれた。
 どういう意味合いなのかを考えて、綱吉は黙々と進む雲雀の横顔を盗み見た。
 思えばこんなに近くから、長時間眺めたことは一度も無い。この先二度とないかもしれないと思うと、少しくらいじいっと見詰めても罰が当たらないような気がした。
 だが穴が開きそうなほどの視線に雲雀が気付かないわけがなく、彼は歩きながら怪訝に眉を寄せ、黒光りする瞳を傍らに投げた。
「なに」
「いや、あの……俺ん家、先に?」
「そのつもりだけど」
 横目で睨まれて、ちょっとだけ萎縮した綱吉がぎこちなく問う。雲雀は直ぐに目を逸らして、雨に煙る町並みに向かって息を吐いた。
 白く濁った呼気が、大気に混じって溶けて消える。それは誰にだって起こせる現象だというのに、彼がやると妙に様になって、綺麗だった。
「でもそれじゃ、ヒバリさんが」
「今更濡れても、同じだろう」
 自分も同じように白い息を吐いて、綱吉は背中で結んだ手をもぞもぞ動かした。
 素っ気無く返される、感情がさほど込められているとは思えない声。だけれど、不思議なことに嫌な気がしない。むしろ、耳に心地よい。
 もうちょっと聞いていたくなるような、そんな柔らかな甘さを含んで、綱吉の中に音もなく染み入っていく。
「貸しますよ?」
 もう随分前のことに思える、商店街でのやり取りを撤回する。語尾を持ち上げた綱吉の言葉に、雲雀は傘持つ手を震わせた。
 今度は首を巡らせて見下ろされて、綱吉ははにかんだ。
 間近から自分を見上げる朗らかな笑顔に内心驚かされて、雲雀は右手に構える傘と、目の前に広がる町並みと、そうして雲に覆われた空とを順に眺めた。
 覚えのあるオレンジ色の屋根は、もう直ぐ其処に迫っていた。
「要らない」
「え?」
「傘は、好きじゃないから」
 残る距離を数え、歩幅で割って必要な歩数を算出する。意識したわけではないのに一歩の幅が狭まって、歩みが鈍くなった彼に綱吉は小首を傾げた。
 告げられた意外な理由を頭の中で反芻させて、トンファーを手に暴れまわる彼と照らし合わせて小さく噴き出す。
「ホントだ、似合わないかも」
 前触れもなく笑われて、雲雀の目つきがほんの少しだけ尖る。だが綱吉は気付きもせず、ケラケラと声を立てて笑い、空の左手を頻りに上下に振り回した。
 最後にぽん、と肩を馴れ馴れしく叩かれる。反射的に跳ね除けてしまいそうになって、雲雀は右手に握る傘の存在を思い出し、どうにか自制を働かせた。
「あー、……ですよねえ。ヒバリさんに、傘。うん、合わない」
 トンファーを両手で握る彼には、傘を支える為の腕が足りない。濡れるのが嫌で雨天での闘いを延期にするような性格でもないし、合羽を着て挑むとなるともっと滑稽だ。
 ひとりで想像を巡らせ、勝手に納得している綱吉の騒々しさに辟易して、雲雀は真っ直ぐ天に向けていた傘の芯を左に傾けた。
「うわっ」
 途端に屋根がなくなった綱吉の頭に、冷たい雨が降り注ぐ。
 悲鳴をあげて肩を竦め、広げた左手で頭部を庇った彼は、隣で傘を独占している青年に渋い顔をして、悔しそうに唇を噛み締めた。
「ひどっ」
「君こそ」
 仕返しだと言って、雲雀は薄らと口元に笑みを浮かべた。
「あ」
「なに?」
「あ、いえ。なんでもありません」
 初めて見る彼の、意外にも人間臭い優しい笑顔に綱吉は目を瞬いた。
 思わず漏れた声に反応して、傘を戻した雲雀が首を捻る。一瞬で表情が戻ってしまって、ちょっぴり残念に思いながら、綱吉はしどろもどろに首を振った。
 落ち着いたはずの心音が、また速度を上げようとしていた。
「なんだろ。変なの。おっかしぃな」
 丸めた手を口に押し当て、独り言を呟いて眉間の皺を深める。雨の音に誤魔化されてあまりよく聞こえなかった雲雀は、真剣な顔で足元を睨みながら考え込み始めた彼にそっと嘆息し、そこにあった水溜りを踏んだ。
 ぱしゃん。
 水が跳ね、音が響く。靴に浴びせられた綱吉はハッとして、顔を上げた。
「着いたよ」
 短く言われて、真っ先に雲雀を見ていた彼はきょとんとした。急ぎ前に向き直って、見慣れた門扉が手を伸ばせば届く近さにあると知る。
「ホントだ。いつの間に」
 自分の家に向かって歩いていたのに、到着したのにまるで気がつかなかった。不思議そうにしている彼こそが不思議で、雲雀はさっきからコロコロ変わる表情を物珍しげに眺め、肩を竦めた。
 傘持ちの役目はここで終了だ。
 名残惜しい気もするが、それは一時の気の迷いだと己に言い聞かせる。そういった胸の内の感情は一切おくびにも出さず、彼は無言で綱吉に向け、右手に握った傘を差し出した。
 骨張って長い指を鼻先に突きつけられて、彼はおっかなびっくり琥珀の目を丸め、何故か急に気の抜けた笑みを浮かべた。
「貸しますよ」
「要らない」
 先と同じ事を言って、同じ台詞をきっぱり叩き返されて、彼は目尻を下げた。
 早く受け取れ、と言わんばかりに雲雀が傘を揺らすが、綱吉は応じようとしない。苛立って急かすと、首を横に振られた。
「使ってください」
「要らないって言ってる」
「じゃあ」
 三度同じやり取りを繰り返して、四度目。
 綱吉は思案の末に口を開き、ほんの僅かに身を乗り出した――雲雀の方へ。
「雨宿り、していきますか?」
 閉まっている玄関を門扉越しに指差して、問う。
 雲雀は傘を使いたがらない。けれど冷たい雨は、当分止みそうにない。
 学校まではそれなりに距離がある。走ってぎりぎり五分、ゆっくり歩けば十五分以上。無論これは綱吉の足の長さによる時間だから、運動神経抜群の雲雀ならばもっと短時間で済むだろうけれど。
 彼は今更雨に濡れても、今と変わらないと言った。実際、ズボンは既にぐしょぐしょで、湿った布が肌に張り付いて気持ち悪いことこの上ない。
 けれど。
「もっと濡れるよりは、今くらいで済ませた方が良いでしょう?」
 身体を冷やして風邪を引くのと、屋根の下で身体を拭いて、温かく過ごすのと。どちらが良いか、天秤にかけるより先に結論は出る。
「リボーンも居ますし」
「……」
 その名前を出した瞬間、雲雀の眉が片方動いた。
 彼の反応ぶりを見て、何故だかその一瞬、綱吉の心の中に黒いものが沸き起こった。直後に消えて無くなってしまって、正体がなんであるかまでは分からなかったものの、ムカッと来たのは確かで、彼は心臓の辺りに手をやって湿気たシャツを引っ掻いた。
 雲雀は前に突き出していた腕を引いて傘を揺らし、狭い視界から空を見上げた。
 雲は厚く、鉛色はいかにも重そうだ。雨脚はピークを過ぎて幾ばくか弱まったものの、晴れ渡る大空は望むべくもない。
「ふぅん」
「……どう、します?」
 思ってもみなかった提案に、雲雀は探るように綱吉を見た。差し出がましい申し出だったかと、言ってから後悔し始めた彼は、突き刺さる視線に怯えた風に背中を丸め、心持ち後退して重ねて問うた。
 彼かの後ろに控える一軒家に改めて目をやって、雲雀は窄めた口から短く息を吐き出した。
「僕に、君の家のあの喧しい子達と一緒に過ごせって?」
「いや、ランボは、そんな」
 そういえばイーピンもいるのだと、雲雀を連れ帰るには少々問題ありすぎる存在を思い出して、綱吉は急にピンと背筋を伸ばした。
 そもそもどうして、彼を家に招こうなどと考えたのだろう。遅ればせながら自分に疑問を抱き、綱吉は握ったままだったシャツを下に向けて引っ張った。
 雲雀がこれ以上雨に濡れるのが可哀想だったから?
 車の飛ばした泥水から庇ってもらったお礼がしたいから?
 どれも正解のようで、違うような気がする。もっと他に、この胸の中に渦巻く感情を的確に表現する言葉があったはずなのに、それがどうしても思い出せない。
 歯痒くてならず、彼は奥歯を噛み鳴らした。
 俯いた綱吉を下に見て、雲雀は誰にも気付かれないところでふっ、と笑った。
「まあ、折角だし。お邪魔しようかな」
 久しぶりに赤ん坊の顔も見たいし。そう付け足した雲雀の顔を見損ねて、綱吉はぎゅっと、心臓を握り締めた。
 軽く肩を叩いて合図されて、渋々顔を上げた彼は濡れた門扉を開き、自宅への一歩を踏み出した。雲雀がつかず離れず、時折触れるほどの距離を保ってついて来る。
 鍵を開けてもらうべく呼び鈴を鳴らそうとして、彼はふと、雲雀を振り返った。
 ポーチの庇の下に入り、役目を終えた傘を畳んだ雲雀が、視線に気付いて首を傾げた。
「なに?」
「ヒバリさんって、この先もずっと、傘、持ち歩いたりしないんですか」
「さあね」
 気になったので訊いて、気のない返事を受け止める。意味深な淡い笑みを浮かべた彼に暫く見入って、顔が赤くなっていると知った綱吉は慌てて彼に背中を向けた。
 まだ雨は止まない。ざあざあと、綱吉の鼓膜を震わせる。
「……どうしよ」
 呼び鈴を鳴らし、奈々が迎えに出るのを待つ間、綱吉は喧しく胸を叩く心臓を引っ掻き、唇を舐めた。
 これから先、どの雨の日も。
 きっとずっと、屋根の下で雨宿りをしている誰かの姿を探してしまう。
 そんな予感に、心が震えた。

2010/05/15 脱稿