雑駁

 キスを、した。
 あの人と、キス、を、した。
 思いも寄らなかった。何故あの展開からああなったのか、どれだけ考えても、未だに原因が分からない。
 気がつけば唇に手がいく。感触も、体温も、過ぎ去った時間の中ですっかり消え失せているはずなのに、彼にそこを触れられたという記憶は生々しく残り、不意に蘇って綱吉を焦らせた。
 ぼんやりする時間が増えた。授業に集中できず、お陰で二月の末にあった学年末試験の結果は惨憺たるものだった。
 一年間の総仕上げであるに関わらず、あろう事か数学では零点を取ってしまった。いくら苦手科目とはいえ、これはあまりにも酷すぎる。激しく落ち込んだし、周囲も落ち着きを失っている彼を心配した。
 仲間の気遣いは嬉しかったが、理由を正直に告白するなど先ず間違いなく不可能だ。よもやあの凶悪無比、極悪非道と名高い風紀委員長こと雲雀恭弥とキスをしました、とは口が裂けても言えるわけがない。
 お陰でテレビドラマのキスシーンさえ、まともに見られなくなった。画面上に映し出される俳優が、脳内で雲雀の顔に、女優の顔が綱吉の顔に瞬時に入れ替わってしまうからだ。
 もしあの時、あの場に誰かがいたとしたら。
 その人の目には、自分たちもあんな風に、甘いくちづけを交わしているように見えたのだろうか。
 キスは甘かった。猛烈に甘かった。今でも舌の上に残っているような錯覚に陥るくらいに甘い、チョコレート味だった。
 ファーストキスは苺味、だなんて誰が言い出したのだろう。思い返すだけで心は苦々しくなり、そして冷静さを失って喧しく騒ぎ立てる。
 遅刻はしなくなった。校門前で風紀委員に捕まりたくないから、服装も、持ち物も、細心の注意を払うようになった。学校内では出来る限り歩き回らないように心がけて、移動教室の際は足早に、クラスメイトの影に隠れながら動いた。
 本当は学校にすら行きたくなかった。なにせ並盛中学校は、彼の根城だ。いつ、どこに現れるか分かったものではない。だから休憩時間も、極力教室に引き篭もった。
 いったいどういうつもりで、何の為に。
 綱吉の頭の中にある辞書では、キスの説明文は「好きな人と交わすくちづけ」とある。ならば雲雀は、自分の事が好きなのだろうか。
 だが、その答えには同意しかねた。
「ツっくーん、電話よー」
 風呂上り、頭からタオルを被って湿り気を移し変えていた綱吉は、台所から響いた奈々の声に顔を上げた。
 まだ濡れているというのに、既に毛先が跳ね上がっている髪の毛に辟易しながら、洗面所を出る。素足のまま廊下を移動して暖簾の下から顔を出すと、待ち構えていた奈々が直ぐに子機を差し出してくれた。
 ランプが明滅しているので、通話は保留中だ。
「誰?」
 時刻は午後八時を回り、九時に近い。一足先に風呂を済ませた子供達は、早々に布団に潜り込んだらしく、家の中は実に静かだった。
 一昔前の沢田家が戻って来たようで、寂しいようなホッとするような、微妙な空気に肩を竦める。コードレスフォンを受け取って問い掛けると、奈々は一寸考え込んで頬に手を添えた。
「男の子」
「山本や獄寺君じゃなくて?」
 母の態度から、電話の主は名乗らなかったのだと判断し、綱吉は小首を傾げた。
 自宅に電話を掛けてくるような男の知り合いなど、彼らの他に居ただろうか。友人関係の狭さを改めて思い知らされて、少し哀しくなりながら、綱吉は右手に握った子機を見詰めた。
 ともあれ、長く待たせるのは悪い。相手が誰か分からないのに不安が無いと言えば嘘になるが、まさかいたずら電話でもあるまい、と彼は通話ボタンを押した。
「はい、変わりました。沢田です」
 恐らくは学校の連絡網だろう。そんな事を考えて、自分の前は誰だったか思い出そうとしつつ、他人行儀な挨拶を口ずさむ。話し始めた彼を見て、奈々は洗い物の続きをすべく戻っていった。
 呼びかけたに関わらず、応対の声はなかなか返ってこない。待たせすぎて痺れを切らし、席を外してしまったのだろうか。
 長く沈黙する受話器に眉間の皺を深くして、綱吉は左手に持ったタオルを肩に掛けた。蜂蜜色の毛先から、重みに耐え切れなくなった水滴がひとつ、落ちていった。
 床に沈み、跳ねて、砕け散る。
『沢田綱吉?』
「――!」
 刹那、鼓膜を震わせた囁き声に脳髄が揺さぶられ、足元がぐらついた。
 声もなく見開かれた瞳の向こう側に、あの日の光景が蘇る。学校、正門潜って直ぐ、正面玄関。居並ぶ下駄箱に、薄汚れたスノコの列。見付からなかった靴箱の名前、予期せずして現れた目的の人。
 赤い箱、蕩けるチョコレートの甘い匂い、重なり合った唇の熱。
 吸い付いてくる舌の苦さ、鼻先を擽る獣の息遣い。
 まざまざと蘇る記憶に、心臓がドクン、とひと際高く鳴り響いた。
 総毛立ち、息さえ出来ない。呆然と台所の入り口で立ち尽くした彼は返事も出来ぬまま、たっぷり十秒、凍りついた。
『沢田?』
 あまりにも長い沈黙に、流石の相手も怪訝に思ったのだろう。訝しむ声が聞こえて、それで綱吉は我に返った。
 はっ、と短く息を吐き、乾燥して痛い目を閉じて視界を闇に閉ざす。此処には奈々がいるので下手なことは出来ず、言えず、どうしようかで迷い、綱吉は今し方出て来たばかりの洗面所を振り返った。
 リボーン、ビアンキは既に入った後だ。残るは奈々だが、彼女はまだ作業中で、暫くは台所を離れられない。
「……な、んでしょう、か」
 どうにか搾り出した小声で問い、彼はぞわぞわする背筋に居心地悪さを覚え、身をよじった。
 足早に洗面所へと戻り、ドアを閉めて鍵を掛ける。垂直にそそり立つ戸板に寄り掛かると、髪の毛に残っていた水滴が首を伝った。
 冷たい。だが心はそれどころではないため、あまり気にならなかった。
 警戒を全面に押し出した質問に、電話の主は黙り込んだ。
 名前を聞かずとも、誰なのか分かる。これで間違えていたら、余程声が似ている人だと笑うしかない。
「ヒバリさん」
『うん』
 念の為に訊けば、間髪置かずに返答があった。
 声のトーンも、喋り方も、もう何百回と脳内で繰り返したあの時と何も変わっていない。思い出せば胸がざわついて、膝がもぞもぞして、心臓の辺りがぎゅっと狭まって、痛んだ。
 顔が赤くなる。恥ずかしくてじっとしていられない。自分が自分でなくなる。雲雀を思い出すだけで、あらゆる物事に手がつかない。
 イーピンに頼まれたチョコレートの配達は、簡単に終わるはずだった。それなのに三年生の下駄箱に雲雀の二文字は見付からず、途方に暮れたところに本人が現れた。
 渡そうとしたら、変な顔をされた。イーピンからだと伝えたら、不機嫌になった。
 受け取りを拒否されて、それは困ると言い張った。折角あの子が頑張って小遣いを貯めて、彼の為だけに用意したのだから、大人しく引き下がるなんて出来ない。
 義理を働かせた綱吉に、雲雀は何故か怒った。拗ねた。ならば、と受け取るための条件を提示してきた。
 綱吉の手で食べさせること。この奇妙な提案は正直嫌だったが、受け入れるより他に術がなかった。イーピンの為だと覚悟を決めて従ったら、甘いトリュフのみならず、あろう事か指まで食べられた。
 最後に残った一個、分けてあげようかと言われて首を横に振った。食べたい気持ちを押し殺し、あくまでも雲雀に食べて欲しいと頼み込んだ。
 その結果。
 雲雀に口移しで渡されたチョコレートは、綱吉がこの世に産まれてからの十三年間で食べた中でも、際立って甘かった。
 ただチョコレートを押しつけられただけではない。熱い舌で咥内を擽られ、掻き回され、舐められて、吸われた。
 抵抗して逃げればよかったと、後から思った。だけれどあの瞬間は、そんな考えは全く起こらなかった。
 四肢の力は失われ、彼に縋りつくことでしか自分を保てなかった。
 綱吉の唇に残ったチョコレートを舐め、彼は満足げに去っていった。綱吉はその後軽く十分、自力で立ち上がれなかったというのに。
 それ以来、綱吉は雲雀を避けるようになった。朝寝坊をしないように心がけたのも、学校内をうろつかないようになったのも、その為だ。
 そして、雲雀からの接触も、なかった。
 彼は何も言ってこなかった。近付いてもこなかった。もっともそれは、遠目に彼の姿が見えた途端、綱吉が脱兎の如く逃げ出していたからなのかもしれないが。
 そんなわけでこの一ヶ月近く、綱吉は雲雀とろくな接触を持たなかった。
 といっても、元からそれほど親しかったわけではない。リボーンの勝手な行動によって互いに顔見知りにはなったものの、所詮その程度だ。格別親しいわけでもなければ、険悪だったわけでもない。若干、綱吉が彼を苦手にしていたくらいで。
 その彼が、突然電話をかけてきた。奈々のあの反応も頷けると、受話器を渡してくれた時の母の顔を思い出し、綱吉は苦くて甘い唇を舐めた。
 名前を呼んで、頷かれた後の応答が無い。長引く沈黙に焦れて、綱吉は踵でドアを蹴った。
「あの、用が無いのなら」
 辛抱が足りない自分を意識し、そうさせているのは雲雀だと、苛立ちを声に出して上を向く。
 受話器を握り締めた彼は、もう切る、と続けようとした。その寸前、敏感に気配を感じ取ったのか、遮るように雲雀が口を開いた。
『明日、空いてる?』
「はい?」
 若干早口で、聞き取り辛かった。
 聞き間違いかと耳に飛び込んできた台詞に目を丸くして、綱吉が素っ頓狂な声を出す。仰け反りすぎて後頭部がドアにぶつかり、ゴン、と脳内に銅鑼が響いた。
 洗面所のライトを見詰め、流石に眩しくて瞼を下ろした彼は、どうやら空耳ではなかったらしいと判断し、顔を顰めた。
「あの」
『明日』
 今日は土曜日なので、天変地異でも起こらない限り、明日は日曜日だ。三学期も残すところあと僅かで、数日後には卒業式が控えている。
 昨日も体育館で、三年生はリハーサルに追われていた。式の運営は教員と二年生が中心なので、一年生の綱吉たちは蚊帳の外だ。
 体育館から出てくる上級生の群れを見て、あの中に雲雀もいるのかと思うと、少し複雑な気持ちになった。四月になれば彼は学校からいなくなる。そうすれば逃げ回る生活も終わりだと思うのに、心は晴れない。
 雲雀はいつもの歯切れの良さを忘れたかのように、単語をぶつ切りにして繰り返した。
『空いてる?』
 重ねて問われて、綱吉は俯いた。
 足拭きマットを蹴り飛ばし、タイルの冷たさに身を竦ませて、首を振る。
「なんで、……ですか?」
 獄寺達と遊ぶ約束はしていない、明日は終日フリーだ。やらねばならない事は宿題くらいで、それ以外は外出の予定もない。行くとするなら元気が有り余っている子供達を連れて、近所の公園程度だろう。
 最近の週末の行動を思い返しながら、即答は避けて訊き返す。先にオッケーを出してしまうと、後で取り返しのつかないことになりそうだったからだ。
 警戒を続けている綱吉の質問に、雲雀は電話口で吐息を零した。耳を押し当て過ぎていたお陰で、受話器が拾った風の音まで、つぶさに脳内で再生された。
 耳朶を呼気で擽られた日を思い出して、彼は咄嗟に膝を閉じた。
 背中からドアにぶつかって行って、飛びそうになった意識を痛みで押し留める。
『沢田?』
「なんでもありません!」
 物音はあちらにも聞こえたようで、どうしたのかと名前を呼ぶ声で問われた。即座に反論するが、動揺が鎮まらぬうちだったので声が上擦ってしまい、とてもなんでもない状況ではないと相手に知らせるだけに終わってしまった。
 間があって、雲雀が笑う顔が脳裏を過ぎった。
『ならいいんだけど。ちょっとね、買い物に付き合ってもらえないかな』
 険しかったトーンが弱まり、耳慣れた雲雀の声が受話器から響く。立て板に水の如くすらすらと並べられる語句を頭の中でぶつ切りにして、綱吉は目を点にした。
 緩みかけた手の力を慌てて取り戻し、もう一度言ってくれるよう頼んで、両手で受話器を抱え直す。
 一音も聞き漏らすまいとする綱吉の耳に、雲雀の静かな声が流れた。
『明日、時間があるようなら、買い物に付き合ってくれないかな』
「え……」
『忙しい?』
「いえ、全然!」
 絶句し、返答に時間を費やしていると、不安がった雲雀が先手を打って問うて来た。
 反射的に背伸びをして、今までで一番大きな声で叫んでしまう。受話器に近過ぎたので、もしかしたら雲雀にはキーン、と響いたかもしれない。
 声を張り上げてからはたと我に返って気付いた綱吉は、今更遅いというのに受話器を顔から引き剥がし、興奮で紅に染まる頬を鏡の中に見出した。
 発作的に、何も考えずに返事をしてしまった。先ほどまで確かにあった警戒心は見事に何処かへ吹っ飛んで、消えてなくなってしまった。
『ほんとに?』
「えと、あの、……でも」
『なに?』
「なんで、俺?」
 苦笑している雲雀の顔を思い浮かべながら、受話器に右手を添えるだけにして、声を潜める。今の大声は洗面所の外にも聞こえたはずで、奈々が何事かと寄ってくる可能性があった。
 それに彼女には、近いうちに洗面所を譲らなければならない。先ほど自分で蹴った足拭きマットを引き寄せて形を整えた彼は、ざわめく胸の鼓動を悟られないようにしながら、恐る恐る訊いた。
 雲雀とは、キスをした仲だ。とはいっても、そこからなんの進展も無い。
 何故彼が自分に、あのような行為に及んだのか、その理由も不明なままだ。知りたい気持ちと、知るのが怖い気持ちが半々。そもそもどうして知るのが怖いのか、その自分の心さえも分からない。
 好きだから? それとも、ただの嫌がらせ?
 冗談? 遊び? からかっただけ?
 もしくは、彼は誰にでもあんな事をするのか。
 無意識に唇をなぞり、綱吉は言いたいのに出てこない言葉を飲み込んで、鏡に映る自分の顔を見た。
 上気した頬は林檎色に染まり、大きな琥珀の目は熱に潤んで艶めいている。
『君だから』
「っ!」
 刹那、綱吉の心を読み取ったかのような彼の返答に、ドクン、と心臓が震えた。
 足がふらついてたたらを踏んだ綱吉は、今度は風呂場の扉に寄りかかって崩れそうになった膝を支えた。
 瞠目した瞳を天井から降り注ぐ光が容赦なく焼く。息苦しくて咳き込むと、心配する声が電話口から聞こえた。
『沢田?』
「え、あ、えっ」
『頼めるかな』
 大丈夫かと訊かれて、声がひっくり返ってまともに喋れない。それでも大事無いと判断したのだろう、雲雀はやや気弱に思える口調で、言った。
 あの雲雀が。
 天下に名を轟かせる、鬼の風紀委員長である雲雀恭弥が。
 何処にでも居そうな平凡な、それでいて何をやらせてもダメダメのダメツナに、頼みごとをしている。
「えっ」
 夢にも思わなかった依頼内容に驚き、言葉が続いて出てこない。単音ばかりを吐き出す彼をどう思ったのか、雲雀は暫く黙り込んだ。
 思案気味に眉根を寄せている顔を思い浮かべ、この隙に、と綱吉は呼吸を整え、パジャマの上から心臓を握り締めた。
 どういう経緯で彼が自分を頼るのかは分からない。だが、滅多に無い事なのは間違いなかった。
 予想外の誘いに頷きたい気持ちが、怪しむ気持ちを隅に追いやり、押し潰す。
「ほん、と、に」
『頼める?』
「……はい」
『よかった』
 電話から聞こえる声が、嬉しげに弾んでいるように聞こえた。錯覚かもしれないが、そうだと思いたかった。
 安堵する彼の言葉に鼻の頭を掻き、照れ臭さに負けて自分も笑う。しまりの無い表情が鏡に現れて、彼は慌てて頬を叩いて引き締めた。
 しかしそれも長くは続かず、すぐにまたヘラヘラした顔に戻ってしまった。
『じゃあ、……』
「ツナー、其処に居るの?」
「うわっ」
 言いかけた雲雀の声を上書きして、奈々の呼びかけがドアの外から高らかに響き渡る。咄嗟に受話器を手で塞ぐが、恐らく彼女の声は雲雀の耳にも届いたはずだ。
 ドキン、と心臓を跳ね上げてどちらへ先に返事をするかで迷い、綱吉はその場で地団太を踏んだ。
 右を見ては左を向き、洗濯機や汚れ物を入れた籠に洗面台と、狭い空間に置かれているものを順繰りに見詰めて、最後にノックされたドアに顔を向ける。
 早く出ろ、との合図に臍を噛み、彼はしどろもどろに「ちょっと待って」と叫んだ。
『沢田?』
「ツナ、お風呂はもう入ったんじゃなかったの?」
「分かってるよ。出るから、待って」
 片付けがひと段落した奈々は、早く湯船に浸かってゆっくりしたいに違いない。急かす声に苛立ちながら鍵を外すと、待ち構えていた彼女が即座にドアを開けた。
 潔く場所を譲って廊下に出て、音を立ててドアが閉まるのを受けてホッと息を吐く。渋い顔をして唇を舐めた彼は、改めてコードレスフォンを耳に押し当て、会話の中断を詫びた。
 母子の会話は、通話中の相手にも丸聞こえだった筈だ。雲雀は特に怒った様子もなく、逆に面白かったのか、笑っていた。
『お風呂だったの?』
「いえ、俺はもう上がった後なんで」
『そう。……パジャマ?』
「ですよ?」
 直接顔を向き合わせていないだろうか、会話が奇妙なくらいに楽に繋がる。雲雀はあれで意外に喋る人なのだと教えられて、不思議な感じだった。
 深く考えもせずに即答した綱吉は、不意に訪れた沈黙に小首を傾げた。なにかいけないことを言っただろうかと頬を掻きながら考えるが、特に思い当たる節に行き当たらなかった。
 肩に掛けていたタオルを引っ張って外し、すっかり元気を取り戻している毛先に覆い被せる。微かに残っている湿り気を全部取り除こうと乱暴に掻き回すが、片手なので動かし方も普段以上に雑になった。
 身も揺れて、衣擦れの音が電話口に届けられる。雲雀は彼方に飛んでいた意識を戻し、わざとらしい咳払いで話題を入れ替えた。
『そう。湯冷めしないようにね』
「大丈夫ですよ」
 身も心もホカホカで、充分温かい。そう答えようとして、綱吉はおや? と自分に首を傾げた。
 素足で床を蹴り、誰もいなくなった台所に入る。タオルから離れた手が、無意識に唇をなぞった。
『それじゃあ、悪いんだけど。明日の、……昼の、一時に。場所は』
「あ、待ってください。メモします」
 伸びた舌が薄く開かれた唇の隙間を抜け、爪の先に触れる。軟らかく生温い感触にはたと我に返って、綱吉は頭の中を素通りした雲雀の声に慌てた。
 聞いていなかった、では済まされない。彼は急ぎ足で電話台に駆け寄り、そこにあったボールペンを取ってブロック状のメモ用紙を一枚引き剥がした。
 午後一時、場所は並盛駅前の商店街入り口。ふたつあるのでどちらかを確認しあって、電話は切れた。
 待ち合わせの約束を交わして、役目を終えた子機を本体に置く。電極が接続した微かな感触を指先で受け止めて、充電のライトが灯ったのを見た瞬間、綱吉はカクン、とその場にしゃがみ込んだ。
「あれ?」
 そうするつもりは一切なかったのに、突如視界が沈んだ。床に腰を据えて両足を左右に広げた彼は、どうやっても力の入らない膝に目を丸くした。
 立てない。
「あれ、嘘。なんで?」
 雲雀との通話を終えて、気が抜けたのだろうか。初めて経験する状況にそう自己判断して、彼は近くにあった椅子の背凭れと座面の縁を捕まえると、腕の力だけでどうにか身体を引き起こした。
 ガタガタ物音を立てながら椅子に座り、テーブルに置いたメモを手に取る。書き込まれた自分の汚らしい文字を三度読み返し、記憶違いが無いかを確認する。
 窄めた口から息を吐くと、腹の奥底からじわじわと、言い表しようの無い熱が登って来た。
「……ヒバリさん、と」
 明日の、昼。彼の買い物に、つきあう。
 この一ヶ月、極端なまでに接触を避けて来たというのに。あの苦労の日々をすっかり忘れて、何故か綱吉は、彼の頼みを承諾してしまった。
「一緒、に」
 またも右手が空を掻き、最後に唇に行き着く。人差し指と中指を揃えて擦れば、あの日彼に触れられた記憶が鮮明に再現された。
 彼の熱と吐息に乱されて、自分が自分でなくなった瞬間に抱いた興奮と恐怖が綱吉の背中に覆い被さって来る。
「ヒバリさん」
 左手で肩を抱き、膝を寄せて小さくなる。
 胸が苦しい。息をするのさえ辛い。
 パジャマに無数の皺を刻み、左胸に爪を立てる。
「やだ。なに、これ」
 彼の腕の中に居た時と同じ状況に陥りそうになって、綱吉は首を振り、頭の中から雲雀との記憶を懸命に追い払った。

 日曜日の駅前は、それなりに人出があった。
 ごった返す、とまではいかないものの、気候が穏やかになっているというのもあって、出かける人は多いようだ。駅に向かって流れて行く人混みを眺め、綱吉は左手首に巻いた時計に目を落とした。
 十二時二十五分。雲雀と落ち合う約束をしたのは十三時なので、明らかに早過ぎだった。
 けれど家に居たらそわそわして落ち着かず、服装はこれでいいか、あっちの方が良いのではなかろうかと、あれこれ迷ってしまうだけだった。お陰でリボーンがイラついて、さっさと出て行け、と追い出されてしまった。
 結局彼が選んだのは、明るめのオレンジのパーカーに、膝丈のハーフパンツ。スニーカーは新品で、爪先には汚れひとつついていない。パーカーは奈々がサイズをひとつ間違えて来たために、今の綱吉にはちょっと大きかった。
 もっとマシな格好をしてくればよかったと、商店街入り口にある店のガラスに自分を映して下唇を突き出す。ズボンは、本当は履きかえるつもりでいたのに、リボーンの所為でその時間が持てなかった。
 右肩から左の腰へ、斜めに襷掛けした鞄を撫で、背筋を伸ばす。もう一度時計を見て、さっきから二分と経過していないのに肩を落とした彼は、ただ立っているだけなのも暇だからと、其処にあった店に近付いた。
 外観は古めかしいが、店自体はまだ新しい。海外からの輸入品を中心に、小物や雑貨を扱う小売店だ。
 昔は時計屋だった筈だと、幼い頃の記憶を呼び起こしながら、綱吉は背中に回した手を結び合わせた。
 掲げられた看板は横文字で、近くからだと全体が読み取れない。片開きのドア上部には金色のベルがぶら下がっていて、戸を開けると揺れて鳴る仕組みだった。
 そちらには向かわず、彼は分厚いガラス張りのショーケースの前に立った。
「あ……」
 道行く人にも見えるように飾られた棚の中には、色とりどりの小物が並べられていた。一番目に付き易い高さには、煌びやかなアクセサリーが見栄えするように配置されている。
 ペンダント、指輪、ブレスレット、その他色々。しかし綱吉の目を引いたのは、そちらではなかった。
「可愛い」
 思わず声に出して呟いた彼の見詰める先にあったのは、薄く水色の入ったクリスタルガラスの置物だった。
 愛嬌たっぷりの、丸みを帯びたフォルム。光を浴びて床に虹を描いているそれらの中に、鳥の形をしたものがあった。
 デフォルメされており、なんという名前の鳥をモチーフにしたのかまでは分からないが、兎に角見た目は鳥だ。五センチ程度の大きさで、つぶらな瞳が実に愛らしい。
「いいな、……なんか」
 あの人みたいだ。
 一瞬脳裏を過ぎった人の姿と、ガラス製の鳥とは、似ても似つかない。しかしそんな事はお構いなしに、綱吉は窓ガラスに手を伸ばし、囀っているように見える小鳥の置物に重ねた。
 届かないと知りながら掴もうとした指が、冷たい板を掻いた。
 ちょっと欲しいかもしれない。自分の買い物に来たわけではないのに購買心を擽られるものに出会ってしまって、綱吉は頬を染め、値札を探して視線を小鳥の足元に向けた。
「沢田?」
 細い紐で結ばれたタグに、数字が書き込まれている。読み取ろうと目を凝らした彼は、だから後ろから迫る人物の気配にも無関心だった。
「ひ!」
 いきなり名前を呼ばれ、肩をポン、と叩かれた。
 不意打ちに等しい行為に悲鳴が出て、その場で兎のように飛び跳ねる。急に伸び上がった彼に驚いて、雲雀は出した手を慌てて引っ込めた。
 ガラスに映る半透明の青年の姿に遅れて気付き、全身を毛羽立てた綱吉はハッとして振り返った。
 其処に居たのは、先ず間違いなく、雲雀恭弥だった。
「え、あ」
「待たせた?」
「いえ、いえ、全然!」
 但し綱吉の知っている鬼の風紀委員長では、無かった。
 右手を肩の位置まで挙げて問うた彼に首を振り、綱吉は前に回っていた鞄を急いで後ろに送った。パーカーの裾を引っ張り、膝をもぞもぞさせて曖昧に笑い返す。
 黒のタンクトップに、同色のジャケット。シンプルな銀のチェーンが喉元を飾り、色の抜けたジーンズの右膝付近は、擦り切れて穴が空いていた。
 初めて見る彼の私服に、目が点になる。もっとクラシカルな格好を予想していたのだが、意外にカジュアルだ。
 こんな格好もするのかと、制服姿しか知らなかっただけに、驚きは隠せなかった。
「なに見てたの?」
「は? あ、いえ。なんでもないです」
 時計の針はまだ午後一時に届いていない。お互いに約束よりも早い時間に着いてしまったのに苦笑して、雲雀は綱吉の背後を覗きこんだ。
 声をかけた時、綱吉はショーケースを熱心に覗き込んでいた。興味を惹かれて探ろうとするが、慌てた綱吉が両手を広げて彼の視界を遮り、吹き飛びそうな勢いで首を横に振った。
 とても、なんでもないとは思えない態度だが、綱吉は頑として認めようとしない。顔を赤くして上目遣いに見詰めてくる彼に肩を竦め、雲雀は嘆息した。
「そう。ならいいや。お昼は?」
「食べて来ました」
「僕も」
 気にしない素振りをして、話を逸らす。綱吉は露骨にホッとした様子で胸を撫で下ろし、パーカーの裾を弄りながら両手を背中に回した。
 少しだけ左にずれた彼の後ろで、水色のクリスタルガラスが光を反射して輝く。愛らしい兎の置物が空を見上げていて、雲雀は嗚呼、と心の中で頷いた。
 洒落た小物を扱う店だというのは前から知っていたけれど、ああいった動物を模った物も置いているとは知らなかった。見た目も可愛らしい小動物と綱吉とを交互に見やり、彼はクッ、と喉の奥で笑いを押し殺した。
「それで、あの、ヒバリさん」
「急にすまなかったね」
「そんなこと。俺、暇ですから」
 そわそわと身を捩りながら話しかけられて、雲雀はポケットに指先だけを差し込んだ。
 謝られて綱吉は首を振り、照れ臭そうにはにかむ。気の抜けた笑みを向けられて、予想外だったのか雲雀は一瞬きょとんとして、直ぐに表情を和らげた。
「行こうか」
「はい」
 顎をしゃくって大通りを示した彼に頷き、綱吉は握った拳を胸に押し当てた。一瞬で最大の振り幅を記録した心臓は、どうにか平常域まで下がりつつあった。ただまだドキドキは止まらなくて、落ち着かない。
 何故自分なのか、これから何処へ行くのか、気になることは山ほどある。一ヶ月前のあの出来事の意味だって、まだ聞いていない。
 聞きたい。でも、此処では聞けない。行き交う人の流れを見回して、綱吉は雲雀に半歩遅れて歩き出した。
 久方ぶりの対面に於ける雲雀の態度は、至って普通だった。直接向き合って交わした会話に、なんら不自然なところはなかった。緊張して、ガチガチになっている自分こそが、気にしすぎているだけだとも思えた。
「自意識過剰なのかな、俺」
 雲雀にとってあの行為に深い意味はなくて、綱吉は振り回されているだけ。だとしたら切ない。
 一切話題に出さず、触れてこない雲雀の意図を探るのは難しい。ゆっくりと歩く彼の背中を眺めながら、綱吉はじりじりする胸の奥に唇を噛んだ。
 ポケットに手を入れて歩く姿は、威風堂々という言葉が非常によく似合った。学生服の時もそうだが、彼はとても姿勢が良い。
 気がつけば猫背になっている綱吉は、なんだか負けた気分になって悔しくなって、意識して背筋を伸ばし、鞄の紐を握り締めた。
「ヒバリさん」
「ん?」
「えっと、今日は、……買い物って、何処へ?」
「ああ」
 昨晩の電話で目的は聞いているが、目的地までは教えて貰っていない。空き店舗もそこそこ目立つ商店街を抜け、駅前のデパート方面に向かって歩いている雲雀に問い掛けると、彼は鷹揚に頷き、天を仰いだ。
 そちらには何も無い。だがつられて晴れ渡る空に目をやった綱吉は、とっくに歩みを再開させていた彼に慌てて、小走りに駆けた。
「ヒバリさん」
 強めの口調で名前を呼べば、彼は首から上だけで振り返り、目を細めて笑った。
「早く」
 手招きされて、答えははぐらかされた。馬鹿にされているような気になってむっとして、頬を膨らませた綱吉だったが、此処で拗ねて帰るのも悔しい。
 仕方なく後ろに付き従い、横断歩道を渡って駅の高架下を抜ける。本格的に商店街から道が逸れて、余り来ない方角に、綱吉は珍しげに周囲を見回した。
 人の流れは絶えておらず、逆に増えている。線路下の湿気て暗い道を抜けると、何故彼がこの道を選んだのか、直ぐに理解した。
 表通りしか行ったことが無かったので綱吉は知らなかったのだが、こちらから行く方が、デパートに近いのだ。
 複数の商店が集まった大型ショッピングモールのすぐ裏手に出て、人の列は悉くそこに流れ込んでいく。こういう近道も把握しているのかと、雲雀の行動範囲の広さに感心しながら、綱吉は他の人に倣い、ビルの入り口に向かう雲雀を追いかけた。
 店内は清潔で明るく、何処から現れたのかと思うくらいに人でごった返していた。
 どうやら春物のセールをやっているらしい。エスカレータ付近に張り出された広告に目をやって、綱吉はなるほどと頷いた。
「ヒバリさんも、こういうところ、来るんですね」
「どうして?」
 人の流れに乗り、上の階へ向かう。前後に並んだエスカレーターで訊くと、上から不思議そうに聞き返されてしまった。
 雲雀はいつも、人に向かって群れるな、と言う。団体行動中の集団を見ると虫唾が走る、といったところだろう。
 そして此処は、群れる人が大勢集まる場所だ。無論、ひとりで買い物に来ている人もいるだろうが。
「どうして、って……」
 思った事を言っただけで、そう切り返されるとは思っていなかった。答えに口篭もり、胸の前で左右の指を小突き合わせた綱吉は、前に向き直った雲雀の背中を見上げ、ほんの少し寂しくなった。
 視線が合うとドキッとして、逸らされると切ない。じっと見詰められると落ち着かないのに、彼の注意が自分に向かないのは腹が立つ。
 一緒に買い物に来ている筈なのに、単独行動をしている気分だった。
 ひとつ階が進むたびに、人の数は減っていく。ファッションのフロアを通り越して、このままだと最上階の飲食店まで行ってしまいそうだ。
 各階の配置図を眺め、綱吉は黙って前ばかり見ている雲雀に臍を噛んだ。どこまで行くのか、未だ教えてもらえない。昼食は食べて来たと最初に確認していたのに、彼はもう忘れてしまったのだろうか。
 苛々が次第に膨らんで、手摺りを握る手に力が篭もった。
 黒い硬いゴムに爪を立て、先に下りた雲雀を睨みつける。彼は視線を浮かせて一秒ほど停止した後、足早に前に出て右に曲がった。
「本屋……」
 彼らの前に現れたのは広大な敷地を持つ本屋と、併設されたCDショップだった。
 何台も配置されている液晶画面には各々プロモーションビデオが流れ、各所に設置されたスピーカーからは、最近のヒットチャートを賑わしている歌手の歌声が響いた。
 他のフロアより人は少ないのに、格段に騒がしい空間に眉目を顰め、綱吉は真新しいスニーカーで床を蹴り飛ばした。
 雲雀は振り返らずに突き進み、エスカレータの反対側に向かっている。まさか本を買うためだけに同行を求められたのかと思うと、腹立たしさも限界に達しそうだった。
 それくらいひとりで行け、と怒鳴り散らしたい気持ちを懸命に押さえ込む。鞄の表面を掻き毟って唇を噛んだ綱吉の前で、雲雀の姿がふっと消えた。
「あれ?」
 何処に行ったのか。開いていた距離を詰め、通路が続いている右を向く。しかし瞬間移動でもしたのか、そちらにも彼は居なかった。
 首を傾げ、二秒ほどしてから綱吉は気付いた。
 右に一歩半進んで更に右を向けば、下りエスカレータの真ん中に、黒髪の青年が突っ立っていた。
「なんなんだよ、もう」
 登ったばかりなのに、もう下っている。いったい彼の行きたい場所とは何処なのか、さっぱり見当がつかない。
 だが、ほんのちょっとだけ気が楽になったのは確かだ。
「ヒバリさんってば」
 行き過ぎたのだったらそう言って欲しかった。さっきまで胸の中を埋めていた怒りは何処へやら、こみ上げる笑いを堪えて、綱吉はエスカレータを駆け下りた。
「来た事あるんじゃないんですか?」
「あるのは知ってたけど、入るのは初めてなんだよ」
「ああ、なる……」
 追いついて、隣に並ぶ。フロアマップを見ていた雲雀は、綱吉の質問にぶっきらぼうに言い返した。
 黒髪からはみ出ている耳がほんのり赤い。表情には現さないものの、恥ずかしがっているのだと分かって、綱吉は肩を揺らした。
「こっち」
「あっ」
 笑っていると、雲雀の視線を感じた。睨まれて、いきなり手を掴まれる。引っ張られた綱吉はたたらを踏み、おっとっと、と片足立ちでジャンプを繰り返した。
 バランスを取って二本足を交互に動かし、ずんずん進む彼に目を丸くする。見開いた視界の中心には、彼に囚われた自分の左手があった。
「……」
 指が引きつけを起こし、痺れている。脈が急激に乱れて、まるで掴まれた場所に第二の心臓が出来たみたいだった。
 雲雀は彼を半ば引きずるようにして突き進み、白色に輝く通路を曲がったところで速度を緩めた。
「沢田?」
「はい?」
 同時にパッと手を放されて、左手が自由になる。痙攣を起こしてヒクついた指先に見入っていたら、上から声をかけられた。
 ぼうっとしていた。自分が今の瞬間、何を考えていたのかもすっかり忘れて、綱吉は息を飲んだ。
 雲雀の呼気が額に掛かる。顔に落ちる彼の影が、否応なしにあの日を思い起こさせた。
 背筋が震え、頭の中で火花が弾けた。咄嗟に目を閉じそうになって、想像に反して遠ざかっていった気配に彼は呆然とした。
「……おれ」
 今、自分は何を想像したか。
 首の後ろに浮かんだ汗の温さに鳥肌を立て、綱吉は雲雀の視線が向かう先を恐る恐る見た。
 彼は綱吉の緊張に気付いていない。それに安堵しながらも胸のムカつきを止められず、綱吉は鞄を抱き締めると、からからに乾いていた唇に牙を突きたてた。
「ここって」
「ひとりじゃ入り辛くてね」
「…………」
 気持ちを切り替えようと深呼吸をして首を振り、妙な想像を追い払って前に向き直る。そうして目に飛び込んできた愛らしい光景に、絶句した。
 雲雀がそう言いたくなる気持ちは、痛いくらいによく分かる。だが一寸待って欲しいと、綱吉は切実に思った。
「あの、俺もこれは、ちょっと」
「そう? 君なら平気だと思ったんだけど」
 どういう基準で自分が同行者に選ばれたのか、改めて聞いてみたくなった。彼らの前にある店は、主に女性をターゲットにした、可愛らしいぬいぐるみや雑貨を扱った店舗だった。
 ファンシーグッズ専門店、といったところか。確かハルがここのシリーズの文具を持っていた気がする、と遠い目をして、綱吉は疲れた顔をして蜂蜜色の髪の毛を掻き回した。
 対象が女性なので、当然店内にいる客も女性だ。店員も、見る限り女の人ばかり。
「ヒバリさん、ひとつ質問が」
「なに」
「此処に、あの、どんな用があって」
「ああ。言ってなかった?」
 言い返されて、速攻で頷く。真剣な表情で見詰めてくる綱吉に目を細め、雲雀はフロアの入り口に飾られたぬいぐるみに手を伸ばした。
 羊をモチーフにしたらしくモコモコしていて、触ると弾力があった。眠たげな顔をしており、綱吉の目から見ても充分可愛らしい。
 だからこそ余計に、黒尽くめの雲雀は異質だった。
「プレゼントをね」
「へー……え?」
 周囲から浮いているのも気にせず、雲雀はもう一度羊の頭を撫でた。さらりと彼の口から告げられた来店の理由に、なるほどと綱吉は相槌を打ちかけて、小首を傾げた。
 頭の天辺から声を響かせ、琥珀の目を見開く。
「え?」
「なに?」
 平素より二オクターブは高い声に、雲雀は怪訝に顔を顰めた。
 だが咄嗟に反応出来ず、綱吉は口をパクパクさせて、黒髪の青年と、彼にはあまりにも似合わないファンシーな店構えとを交互に見た。
 今、雲雀はなんと言った。
 あの無情、無慈悲の代名詞とも言われる風紀委員長が、他人に贈り物をする、と。
 てっきり服か何かを買うのに付き合わされるものと思っていた綱吉は、予想の斜め上を突き抜けていった目的に度肝を抜かれ、脂汗をだらだらと流した。
 彼のその反応は、雲雀にとっても予想外だったらしい。不愉快そうに口を尖らせると、早くしろと言わんばかりに綱吉の手を引いて、背中を押した。
「うわっ」
 先に店に入るように指示されて、転びそうになった綱吉は低い位置から彼を振り返った。
「…………」
 雲雀が誰かに、何かを贈る。
 贈ろうとしている。
 こんな店を選ぶくらいだから、相手は先ず間違いなく、女性だ。
 チクリと胸の辺りが痛む。理由の見えない疼きに苛立ち、綱吉は心臓に握った拳を押し当てた。
「選んで」
「はいぃ?」
 ひとり訳も分からずショックを受けて、泣きたくなっていた彼に追い討ちを掛けるかのように、雲雀が言う。今度こそ大声が出て、周囲から浴びせられた冷たい視線に綱吉は俯いた。
 男ふたり連れというだけでも、この空間では十二分に目立つ。恥ずかしさから耳まで赤くして、彼は真顔の雲雀に肩を落とした。
「なんでですか」
 贈り物をするのは雲雀だ。ならば彼が選ぶのが、世の道理ではないだろうか。
 一緒に店に入るのみならず、そんな責任重大な仕事まで押し付けられて、綱吉は最早怒る気力も失せて項垂れた。
「詳しそうだし、君」
「詳しくないですよ!」
「詳しいよ、僕よりは」
「えぇー……」
 基準はそこなのかと、綱吉は断言した彼に背を向けた。
 何が哀しくて、他人への贈り物を選んでやらなければならないのか。元々雲雀はよく分からない人だったが、今日はまた一段とすっ飛んでいる。
 一般人の理解の及ばない世界に住んでいる彼に閉口し、溜息を零した綱吉は、疲れ切った様子で首を振り、華やかな店内を見回した。
 雲雀は羊の人形が気に入ったのか、店内の通路で見かけるたびに手を伸ばし、小突いてちょっかいを仕掛けている。何処か愉しそうな彼の姿に無性に腹が立って、綱吉は大股に進んで距離を取った。
 さっきまでとは逆だ。綱吉が前を行き、雲雀が金魚の糞宜しくついて回る。
「どういうのが良いんですか」
「知らない」
「?」
 何処までもついて来る彼に痺れを切らし、声を荒げて問う。が、返されたのはそんな素っ気無いひと言で、意味が分からなくて綱吉は眉根を寄せた。
 聞き耳を立てているらしい店員を軽く睨みつけてから、またも羊の小物にちょっかいを出している雲雀を見上げる。冗談で言っている様子は感じられなかった。
「知らないって、相手の人の好み、分かんないんですか」
「そう」
「だったら、俺だって、選びようがないですよ」
 何が好きで、何が嫌いか。色の好みだって人それぞれだ。要らないものを貰って喜ぶ人は少なかろう、そもそも贈り物というものは、相手を喜ばせたいから渡すのだ。
 適当に選んで相手に嫌がられでもしたら、選んだ綱吉の責任にされかねない。八つ当たりされる自分を想像してゾッとして、彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「君の方が詳しいと思うけど?」
 渋い表情を浮かべた綱吉を不思議そうに見下ろして、雲雀は右手を腰に置いた。言っている意味が分からなくて、彼は目尻を釣り上げると、このまま黙って帰ってやろうかと本気で考えた。
「それって、俺の好きに選んでいいって事ですか」
「うん」
「後で文句言いませんか?」
「うん」
 綱吉の好みで決めて構わない。言葉に出して頷いた彼になんとも言い難い気持ちになって、胸に渦巻く不快感を綱吉は懸命に押し殺した。
 苛々する。気持ちが悪い。腹が立つ。悔しい。泣けてくる。寂しい。
 馬鹿みたいだ。
「……なんで、俺」
 誰にも聞こえない音量でひとり呟き、綱吉はそこにあったカエルの人形の頭を叩いた。
「どうなっても知りませんよ」
「いいよ」
 やけっぱちになって声を大にして言えば、彼は飄々と受け流して微笑んだ。
 平然としている雲雀を見ていると、物凄く変なものを選んでやりたくなった。贈った相手に怒られて、ビンタの一発でも貰えばいいのだ。そんな事を考えて、脳裏を過ぎった顔の無い女性像に、綱吉はもやもやしたものを飲み込んだ。
 気に入らない。なにもかも気に入らない。
 だけれど贈られる物に罪は無い。
「……」
 さっきから、昨日から。否、一ヶ月前からずっと続いている、この薄気味悪い感覚はなんなのだろう。膨らんだり、縮んだり、暴れたり、時には落ち込んでか静かになったり。
 雲雀が居ない所では、なんともない。だけれどひと度彼が目の前に、或いは脳裏に現れた途端、堰を切ったように溢れ出して止まらない。
 今はふわふわと浮いているようで、時々腹に響くくらいに重くなって落ちてくる。
 唇を舐め、思いがけない苦さに顔を顰めた綱吉は、肩を落として溜息を零し、前髪の一部を指で抓んで引っ張った。
 見回せば、店の中はどこもかしこも可愛らしいもので溢れている。眺めていると心は和み、訳もなく苛立ちを覚えている自分が馬鹿らしく思えて来た。
「一番高い奴、選んでやる」
 どうせ自分の財布は痛まないのだ。ひとりごちて鼻を膨らませた綱吉は、直ぐに落ちてくると分かっていながら腕まくりをし、改まった気持ちで店内を見回した。
 子供の背丈くらいある巨大なぬいぐるみから、鉛筆やノートといった文房具まで、扱っている種類は様々だ。手近なところにあったマグカップを持ち上げると、雲雀が興味津々に横から覗き込んできた。
「それ?」
 早々に決めたのかと問うて来る彼に首を振り、カップを元あった場所に戻して綱吉は歩き出した。
 目ぼしいものに行き当たらないまま店内を一周してしまって、つかず離れずの距離を保つ雲雀に嘆息する。
 決まらない。決められない。今度は熊を模した人形で遊んでいる雲雀に舌打ちして、綱吉はランボ並みの大きさをした、羊のぬいぐるみを撫でた。
「ヒバリさん」
「決まった?」
「うぐ」
 困ってしまって、助言のひとつでもくれないかと呼びかけたのに、期待に満ちた眼差しを向けられて言葉に詰まる。唇を噛み締めて弱りきった表情を浮かべた綱吉は、無責任にも程がある雲雀に苛々を募らせ、足を踏み鳴らした。
 もうどうとでもなれ、とそこにあった三十センチ程度の熊のぬいぐるみの足を掴み、何も考えずに彼に向かって差し出す。いきなり眼前に突きつけられた雲雀は面食らったようで、切れ長の目を見開いて後ろに仰け反った。
 ブラブラ揺れる熊には、何の罪も無い。ただ綱吉の手の届く位置にあっただけの、哀れな被害者だ。
「これ、で」
「これ?」
「いいでしょ、なんだって」
 何の為に自分が此処に居るのか、分からなくなりそうだった。
 雲雀に買い物の同伴を求められて、ほいほい着いて行ったらこんな場所に出た。それはまだいいけれど、買い物の中身が他人へのプレゼントで、しかも選択は綱吉に丸投げと来た。
 自分が貰うわけでもないのに、その受け取る側の人を知っているわけでもないのに、任せられても困る。
 やけくそで怒鳴りつけ、雲雀の胸に押し付けて、手を放す。重力に引っ張られる熊を受け止めた雲雀は、何故か不満そうだった。
 そんな顔をされる謂われは無い。綱吉は頼まれた通り、人への贈り物を選んだではないか。
 責任は果たした、後の結果は知らない。せいぜい、何処の誰かは知らないけれど、愛しい人に贈ってやればいい。
 そう。
「いと、し……」
 心の中で叫んだ内容に自分でショックを受け、綱吉は唇を震わせた。怒り顔が凍りつき、急に泣きそうになった彼を見下ろして、雲雀は逆さまを向いていた熊のぬいぐるみを天地正しくすると、何故か腕を伸ばし、綱吉の胸元に重ねた。
 渡そうとしているのかと思って手を出したが、捕まえる前に離れて行った。何がしたいのか分からなくて怪訝にしていたら、彼は折角綱吉が選んだものを、あろう事か棚に戻した。
 行儀良く座らせて、真ん丸い頭を叩いて手を離す。元あった場所に収まったぬいぐるみに唖然として、綱吉はぽかんと口を開いた。
「ヒバリさん?」
「あれは、似合わないから」
「文句は言わないって、さっき」
「でも、あれは似合わないから嫌だ」
「我が儘!」
 自分で言った内容をあっさり翻した彼に罵声を浴びせ、綱吉は拳を振り回して鼻を膨らませた。
 何がしたいのか、本気で分からない。奥歯を噛み締めて軋ませて、頬に溜め込んだ息を一気に吐き出した綱吉は、ドッと押し寄せてきた疲れに頭を垂れて首を振った。
 そんな彼を置き去りに、雲雀は後ろを向いて左に手を伸ばした。
 掴んだのは、兎だ。長い耳が二本、頭の上に生えている。但し真っ直ぐ天には向かず、顔の両側にだらしなく垂れ下がっていた。
 舌を出した愛嬌のある顔で、訪れる客ににっこり笑いかけている。
「違う」
「ヒバリさん?」
「こっち、かな」
 手にしたもののそれも気に入らなかったようで、元に戻すと、隣にあった同じ種類の、違う形状のものを持ち上げた。
 薄めのブラウンの体毛に、ちょっと眠そうな表情をしている。全体的にふっくらしていて、軟らかそうだ。
 呟いた雲雀に呆然としていたら、またも胸元に突きつけられた。今度は持たされて、雲雀は何も言わずに数歩後退した。
 二メートルほど先からしげしげ見詰められて、急に恥ずかしくなった。こんな、女の子が持っていそうなものをいきなり渡されても、綱吉は困るだけだ。
「ヒバリさん」
「うん、それがいい」
「へ?」
「それにする」
 だから、何が基準になっているのかさっぱり分からない。
 綱吉に選ばせようとしていたのではなかったのか。いきなり自分の意見を口にした彼に呆然として、綱吉は四度、瞬きを繰り返した。
 茫然自失としている彼からぬいぐるみを取り上げ、雲雀は上機嫌にレジに向かって歩き出した。長時間店内をうろついていた男ふたり組みがやっと去ると察したのか、見守っていた店員が揃ってホッとするのが妙に気に障った。
 それ以上に、飄々として自分のペースを崩さず、綱吉を好き勝手振り回すだけの男に腹が立った。
「俺、要らないじゃん」
 ボソリ言えば余計に気が滅入り、心が重くなった。
 実感させられた。
 最初から雲雀が決めればよかったのだ。真剣に悩み、迷った自分が馬鹿で、滑稽でならず、綱吉は泣きたい気持ちを押し殺し、替わりに口元を笑みで飾った。
 自虐的な微笑みを浮かべて、会計を済ませている雲雀を待つ。フロアに流れる優しいBGMは、彼の慰めになるどころか虚無感を増長させた。
 今の綱吉をひと言で説明する言葉がある。黒々しい波が押し寄せては引く砂浜に取り残された気分に陥り、彼はその言葉を噛み締めた。
 惨めだ。
 足元を掬われそうになって、ふらついた彼はそこにあったワゴンに寄りかかって姿勢を保った。
 胸の中にあった靄が表に溢れ出て、綱吉を覆った。雲雀のいる景色が霞んで、遠くなった。
「沢田」
 プレゼント用の包装を済ませた荷物を受け取って、雲雀がレジの前で彼を呼ぶ。ふらふらと覚束ない足取りで傍に行くと、目的が達成されて満足したらしい雲雀の笑顔が降って来た。
 ぎこちなく愛想笑いを返して、彼が歩き出すのに合わせて店を出る。フロアは広い割に、客の姿は疎らだった。
 赤ん坊用の衣服やグッズが並んでいる。結婚式のプランや衣装を案内するコーナーは暇そうだ。その隣にあるネイルサロンは混んでいたが、客も店員も皆、自分の手元に夢中だった。
 帰りはエレベータを利用するつもりらしい。雲雀は天井からぶら下がる案内板に従い、人気の無い方向に足を向けた。
 後ろを追いかけながら、綱吉は彼の手で揺れる紙袋をぼんやり眺めた。
 前後にリズミカルに揺れる紙袋のデザインも、店のロゴをあしらって充分可愛らしい。彼が持つのはあまりに不釣合いに感じられたけれど、見ているうちに、案外似合っているように思えた。
 彼とすれ違うすべての人が、袋の中身を恋人へのプレゼントだと解釈するだろう。綱吉だって、何も知らずに今の彼を見かけたら、そう信じて疑わない。
 ベビー服の売り場に、若いカップルの姿があった。女性の腹部は丸みを帯びて膨らんでいる。ゆったりとしたスカート姿で、傍に居る男性に頻りに何かを話しかけていた。
 店員にまで何か言われて、男性が照れ臭そうに頭を掻く。まるでタイプが違うのに、雲雀の姿がそこに重なった。
 名も知らぬ、顔も知らぬ女性が彼に寄り添い、腕を組み、甘えて肩により掛かる光景が、不意に綱吉の眼前に広がった。
 顔の無い女性の腕には、先ほど雲雀が購入した兎のぬいぐるみが抱かれている。女の顔面部分は真っ黒に塗り潰されたのっぺらぼうなのに、笑っているように思えて、綱吉の胸がぎゅうっ、と狭まった。
 苦しい。息苦しい。
「ああ。そっ、……か」
 不意にストン、と頭の上に言葉が落ちて来た。瞬きをして琥珀を見開いた綱吉は、二基並ぶエレベータに近付きつつある背中を見詰め、納得した顔で頷いた。
「いるんだ、ヒバリさん」
 エレベータホールは建物の奥に隠れるように作られており、そこで行き止まりだった。採光の為に高い位置に窓が設けられており、差し込む光が先を行く雲雀の足元を照らしていた。
 光のシャワーを浴びた彼に唇を噛み、綱吉は握り締めた拳を胸の上に置いた。
「いるんだ、好きな人」
 今頃になってやっとその考えに行き着いて、彼は生温くも苦い唾を飲み込んだ。
 声に出した瞬間に心臓がドクン、と強く跳ねた。
 これからあのぬいぐるみを渡しにいくのだろうか。結局最後まで、自分が何の為に彼に呼び出されたのかが分からなくて、綱吉は奥歯を噛み締め、握った手に力を込めた。
 爪が皮膚に食い込むが、構いもしない。身体的な苦痛よりももっと別の、手で掴めない、目に見えない場所がキリキリと締め上げられて、痛かった。
 何にショックを受けているのかも分からないまま、綱吉はそう広くも無いホールの入り口で立ち止まった。雲雀は斜め上を見て、数字の上を流れて行くランプを目で追いかけている。
 ポケットから引き抜いた左手で下向きの三角形が描かれたボタンを押そうとして、寸前で思い留まり、綱吉を振り返った。
 そして思った以上に距離があるのに気づいて怪訝にした末に、ぎょっと肩を強張らせた。
「沢田?」
「え?」
 名前を呼ばれ、綱吉は瞬きを繰り返した。
 数秒間意識が彼方へ飛んでいたらしい。我に返って息を吐き、驚いている雲雀に小首を傾げる。どうしたのだろうかと不思議に思いながら、止まっていた歩みを再開させようとして、彼は頬を伝った温い液体に「おや?」とクエスチョンマークとを飛ばした。
 肌を伝い、重力に引かれて滑り落ちていく。顎にぶら下がって前後に揺れたそれは、やがて力尽きて彼に別れを告げた。
 真新しいスニーカーの爪先に落ちて砕けたそれを目で追いかけて、彼は流れた水滴の正体を探ろうと、発生源を指で撫でた。
 目尻を拭い、爪の間に潜り込んだ水分に唖然として、音もなく唇を開閉させる。
「え?」
 これはなんだっただろう。疑問が湧いて、答えは直ぐに見付かった。
「……なん、で」
 分からないのは、理由だ。
 この状況の何処に、自分が泣かなければいけない理由があったのかが、綱吉にはさっぱり見当がつかなかった。
「沢田」
 雲雀が立ち尽くす綱吉を重ねて呼び、エレベータの前を離れた。近付いて来ようとする彼の手元で、可愛らしい紙袋が揺れ動く。
 紙の擦れ合う音が耳朶を打ち、綱吉は竦みあがった。
「ち、違います!」
「沢田?」
「ちょっと、ゴミ、入った……ん、です。だから、だからこれは、そんなんじゃないから」
「そんな?」
 慌てて弁解を口にして、ごしごしと乱暴に目元を擦る。パーカーの袖を使って水分を吸い取らせた綱吉は、咄嗟に叫んだ口から出任せを後から思い出し、背筋を粟立てた。
 雲雀も同じところを気にして、不審げに眉根を寄せる。顔を顰めた彼がまた一歩近付いて、狭まった分の距離を取り戻そうと、綱吉は後退を図った。
 足を後ろに滑らせ、逃げ腰になって首を振る。行かせまいとしてか、雲雀が迫る速度を上げた。
「やだ」
「なにが」
「嫌だ。いや、いやだ……見るな。見ないで!」
 彼の左手が伸ばされる。肩を引いて避けようとするが、百戦錬磨の彼を相手に、愚図で鈍間な綱吉が敵うわけがなかった。
 敢え無く手首を取られ、強く握って引っ張られた。後ろに行きたがっていた下半身とのバランスが崩れ、軽い身体は呆気なく前のめりに傾く。身体が沈みそうになって、堪えて踏み止まろうとした綱吉を乱暴に扱い、雲雀はエレベータとは逆の壁に向かって彼を突き飛ばした。
「うっ」
 イベント案内広告のフレームに肩甲骨がぶつかって、息が詰まった。背中を襲った衝撃に舌を噛み、本能で口を開いて二度目を回避させる。閉じた瞼の先から光が消えて、薄暗さに恐る恐る目を開ける。
 細い視界に雲雀の姿を見つけて、綱吉は慌てて顔を背けた。
「沢田」
「嫌です。見ないでください。放して」
 その態度が気に入らなかったのか、雲雀は左手を広げると、今度は綱吉の肩を掴んだ。退こうとする彼の身体を腕一本で封じ込め、嫌がって暴れて蹴られても放そうとしない。
 膝をぶつける程度では足りないかと、綱吉は靴底で壁を蹴った。
 刹那。
「っ!」
 パチン、と甲高い音が鼓膜を震わせ、綱吉の目の前に小さく星が散った。
 雲雀の手が、両の頬を挟んでいる。叩かれたのだと理解するのに三秒少々かかり、目を真ん丸に見開いた綱吉は、苦虫を噛み潰したような顔をしている彼を凝視して、か細い息を吐いた。
 爆発寸前だった心臓が急速に萎んで、勢いを失っていくのが分かる。跳ね上げようとしていた右膝を床に下ろすと、安定したはずなのに逆に不安定になって、膝が崩れそうになった。
「あ……」
「どうして泣くの」
「知ら、なっ」
 だけれど頬を挟まれている所為で、視線は沈まない。首を振るのさえ許されない状況に喘ぎ、綱吉は彼の問いかけに切れ切れの言葉を吐いて返した。
 実際、分からないのだから仕方が無い。自分が一番驚いているのだと、正体不明の涙で睫を濡らして鼻を啜る。こうしている間にも溢れて止まらず、雲雀の指先を湿らせた。
 彼は掌を少しだけ上下に動かし、綱吉の顔を撫でた。宥めるような動きに余計に哀しくなって、しょっぱい唇で酸素を掻き集めて唾液と一緒に飲み込む。瞬きすればするほど涙は零れ落ちて、雲雀の手に吸い込まれていった。
 離れて欲しくて彼の手に爪を立てて引っ掻くが、力が入らないお陰で抵抗にすらならない。歯を食い縛って首を振ろうと足掻き、渾身の力を込めるものの、雲雀は微動だにしなかった。
「沢田」
「知らない。俺、こんな、こんなの……行っちゃえよ。さっさと、ヒバリさんなんかどっか行っちゃえばいいんだ」
 鼻をぐずつかせ、琥珀の瞳を泳がせた綱吉が最後に正面を見据えて怒鳴る。涙に濡れて艶めく双眸で怒号を吐かれ、面食らった雲雀の手から一瞬力が抜けた。
 すかさず脱出を試みるものの、直ぐに気を取り直した彼に、頬を押し潰された。
「うぐ」
 真ん中にあった唇が蛸のように飛び出て、ひょっとこの顔になったが、雲雀は笑ってくれなかった。
 それどころか綱吉以上の怒りを表に出し、一秒としないうちに内側に隠して、どうしてか哀しげに睫を揺らした。
 そんな顔をされる謂われはない。むしろ、哀しく惨めに感じているのは、綱吉の方だ。
 電話での誘いにドキドキして、約束の時間よりもずっと早く着いてしまってそわそわして。初めて見る私服姿に興奮して、慣れない場所に悪戦苦闘している彼の新たな一面を知って嬉しくなって。
 だのに肝心の、頼み事の中身は、誰かも知らない相手へのプレゼントの選別だった。
 ひとりだけ浮かれていた。滑稽だ、馬鹿みたいだ。
 悔しい。そして、情けない。
 雲雀に振り回されて独り相撲を演じている自分を、沢田綱吉の冷静な部分が見下ろして嗤っている。
「ヒバリさんなんか、さっさと、行っちゃえばいいんだ」
 頬を挟んでいた指が離れていって、呼吸が楽になる。思い切り息を吸った綱吉は途切れ途切れに言葉を吐き、最後に皮肉げに顔を歪めた。
 自分に向かって嘲笑い、同時に堪えきれ無くなって、涙を零す。秒刻みで表情を目まぐるしく替える彼を見詰めて、雲雀は何かを言いたげに唇を開閉させ、結局何も言わずに閉ざした。
 細かく揺れ動く黒水晶の瞳に哀しさを倍増させ、綱吉は垂れそうになった鼻水を、背筋を伸ばしながら力いっぱい啜り、口から息を吐き出した。
「行っちゃえ……」
 どうしてこんなにも胸が苦しいのか。どうして彼を非難する言葉を発する度に、胸が抉られるような痛みを覚えるのか。
 雲雀の顔を見るのが辛いのか。
 理由が分からないまま、彼はかぶりを振って叫んだ。
「それ持って好きな人の所に行っちゃえ!」
「――え?」
 周囲に聞こえるのも構わずに喚いた綱吉だったが、怒鳴りつけられた方の反応は、あまり芳しくなかった。
 言われた内容が理解出来ていないようで、きょとんとした顔をされる。もっと盛大に動揺するかと思いきや、肩透かしを食らわされた。乱れた息を肩で整えた綱吉は、怪訝にしている彼を見上げ、眉間の皺を深くした。
 口を尖らせて目尻を吊り上げるが、迫力は無いに等しい。普段からもっと強面な連中を相手に大立ち回りを演じている雲雀にとって、童顔で、且つ母親に瓜二つの女顔で睨まれても、可愛いと思うだけで、怖いとは全く感じなかった。
 彼は十秒近い沈黙を挟み、あるタイミングで切れ長の目を大きくした。漆黒の瞳が揺れ動くのに綱吉も気付いて、探るような眼差しを彼に投げた。
「あ、……ああ」
 そういう事か、と独り言を呟いて、雲雀が足元に置いていた紙袋を取った。中身が無事なのを確かめて、綱吉から距離を取る。
 彼が半歩後退したので、威圧感は薄れた。足の力が抜けてしゃがみ込みそうになったのを堪え、綱吉は両手と背中を壁に押し当てて、どうにか姿勢を保った。
 触れられていた時は何も感じなかったのに、いざ彼の体温が遠ざかると途端に物足りなさを覚え、無性に寂しくなった。
 歪な形になった自分の心に歯軋りして、雲雀の次の行動を見守る。彼は肩を竦め、警戒心を露にする綱吉に向かって紙袋を差し出した。
「……なんですか」
「君の」
 胸元に突きつけられて、意味が分からず聞き返す。膨れ面をした綱吉を真っ直ぐ見詰めて、雲雀は言いかけて、一度言葉を切った。
「君のところ、の」
「?」
「名前、……赤い服の」
「イーピン、ですか?」
「そんな名前だったかな」
 遭遇することはあっても会話さえろくにした事が無い相手の名前を、雲雀もそうそう覚えてはいない。怪訝がる綱吉の返答にやや自信なさげに頷いて、彼は紙袋を持つ腕の角度を変えた。
 パーカーの裾の辺りを袋で擦られて、仕方なく底を支えて受け止める。瞬間重みが加わったのは、持ち手を握っていた雲雀が手を離したからだ。
 ぬいぐるみなのでそう重くは無いが、軽くも無い。落としそうになって、膝のクッションでバランスを取った綱吉は、これとそれとどういう繋がりがあるのかを即座に理解出来ず、首を捻った。
「イーピン……」
 まさか雲雀の好きな相手が彼女なのか、という考えが湧いて、もっと違うなにかが頭上で鐘を鳴らした。
「あ」
 丁度一ヶ月前の、同じく日曜日が何の日であったのか。
 風紀委員長こと雲雀恭弥と、沢田家の居候であるイーピンとを繋ぐ糸がやっと見えて、綱吉は手の中のものと彼とを見比べた。
 今日は、ホワイトデーだ。
「何を勘違いしてるのか知らないけど、渡しておいて」
「あ、は、あ……はい」
 理解した瞬間、この場から消えてしまいたくなって、綱吉はカーッと首の裏まで真っ赤に染めて俯いた。
 身体中が熱くて仕方が無い。勝手に決め付けていた自分が恥ずかしくてならなくて、もしこの場に穴があったなら、入ってしっかり蓋をして、閉じこもってしまいたかった。
 雲雀の顔がまともに見られない。
 勘違いもいいところだった。
 雲雀は、恋人に贈るものだとはひと言も言っていない。彼が口にしたのは、綱吉の方が詳しい、というただそれだけ。確かにイーピンの好みに関しては、一緒に生活をしている綱吉に聞くのが最も手っ取り早かろう。
 ただ、ならば最初にそう言って欲しかった。
「ホワイトデーの、お返し、だったんだ」
「なんだと思ったの」
 意外に義理堅い雲雀の、些か憤慨した声に、自然と笑いがこみ上げてくる。恥ずかしいのに可笑しくて、綱吉は相好を崩して紙袋に向かって頭を垂れた。
 袋の縁で前髪ごと額を擽り、肩を震わせて声を押し殺す。消えられないのだとしたら、最早笑うより他なくて、彼は引き攣って痛い腹筋に苦慮しながら、新たに浮き上がった涙で頬を濡らした。
 限界まで膨らんでいた風船から一気に空気が抜けて行くように、張り詰めていた緊張が解けて行く。
「そっか。イーピンか。ホワイトデー、だったんだ」
 少し前までの、悶々としていた時間が嘘のようだ。鬱々とした気持ちはどこかへと消え去り、澄み渡る青空が心の中に広がる。紙袋を左手で抱え、右手で顔を覆った綱吉は、その考えは無かったと喉を鳴らした。
 今日が何月何日何曜日であるかは、一応把握していた。ただバレンタインデーに誰からも貰わなかった手前、ホワイトデーは綱吉にとって何の関係も無いイベントだったので、すっぽり頭から抜け落ちていた。
 紙袋と手で顔を隠し、ケラケラ声を零して壁に寄りかかる。徐々に沈んでいく彼の頭を眺め、雲雀はいつまでそうしているのかと、緩く握った頭で綱吉を小突いた。
「沢田」
「なんだ、そっか。そうだったんだ……良かった」
「うん?」
「てっきり、俺ってば。そか、今日はホワイトデーか」
 いい加減にするよう言おうとした彼を無視したわけではないが、遮って言葉を連ねた綱吉は、長く深い息を吐いて肩を竦め、自分の勘違いを笑い飛ばした。
 紡がれた感想に雲雀は右の眉を持ち上げ、怪訝な顔をした。綱吉は手元ばかり見ていたので、彼の変化にはまるで気付かなかった。
 イーピンの喜ぶ顔が目に浮かぶ。チョコレートを無事受け取って貰えたと教えた時も、とても嬉しそうにしていたから。
 雲雀がこうして彼女に気を遣ってくれたのが、綱吉も嬉しかった。大切な家族の一員を丁寧に扱ってくれていると分かって、彼に対して抱いていた恐怖感が薄れ、親近感が一気に膨らんだ。
 照れ臭くて、恥ずかしくて、胸がくすぐってならない。じっとしていられなくて膝をもぞもぞさせた彼は、礼を言っていないのを思い出し、顔を上げた。
「ヒバリさん」
 有難う。そう口ずさもうとした綱吉の顔に、ふっ、と影が落ちた。
「――ぇ?」
 声は、声にならなかった。
 元から大きい瞳を一層大きく見開き、目の前に降って来たものに驚愕を露にする。避ける暇もなく重なり合った唇が震える。乾いていたものが微かな湿り気に吸い寄せられ、引っ張られた。
 瞬きを忘れ、綱吉は眼前を凝視した。全てがスローモーションの中、ゆっくりと雲雀が離れていく。顎を支えていた彼の手が下向きに転じ、綱吉の喉を擽った。
 息を飲んだ際に蠢いた喉仏をなぞり、パーカーの襟を越えて肩を握られる。布越しに骨を掴まれる感触にビクッとして、それで綱吉は我に返った。
「え……」
 これは、キスだ。
 あの日と同じ、キスだ。
「なん、で」
 声が掠れ、震える。戦いて身を捩った彼を見下ろして、雲雀はもう一度触れようとしてか、姿勢を前に倒した。
 鼻先に彼の呼気が届く。一ヶ月前と同じ熱が綱吉の肌を撫でて、彼は顔を強張らせた。
「やっ!」
 甲高い悲鳴をあげ、右手を前に突き出して雲雀の肩を押し返す。だけれどそんな些細な抵抗も予測済みだったのか、彼は簡単に綱吉の腕を拘束すると、壁に押し当てて動きを封じてしまった。
「沢田」
 足が震えるほどの低音が耳朶をなぞり、唇へと降りてくる。左手はぬいぐるみの入った紙袋を抱えていて、自由が利かないのが悔しかった。
「ン、ぅ」
 今日、この場にチョコレートは無い。学校の正面玄関で感じた甘い香りの代わりではないが、彼の身につける着衣から微かに酸っぱい汗の匂いがした。
 後頭部を壁に押し当て、仰け反って逃げても、雲雀はどこまでも追いかけて来た。彼の好きにさせてなるものかと、歯を食い縛って唇を噛み締め、道を塞ぎ続ける。触れたまま雲雀の舌が開けるよう何度も催促してきたけれど、綱吉は首を振って拒んだ。
 息継ぎで一旦離れた雲雀の唇は赤く濡れて、妙に艶っぽい色をしていた。
「は、っふ……」
「さわだ」
「や、……いやです!」
 その唇で名前を呼ばれて、背筋が沸き立つ。ぞぞぞ、と音を立てて悪寒が足元から駆け上り、綱吉を圧巻した。
 膝に力が入らず、ガクガク震えて安定しない。今にも崩れてしまいそうなのを懸命に堪えて踏み止まり、綱吉は自由を取り戻した右手で彼の肩を叩いた。
 さしたる痛みは無かったものの、顔を顰めた雲雀が舌打ちする。払い除けようとして腕を引いた彼の後ろで、突然ポーン、と電子音が響いた。
 ふたりしてハッとして、音の発生源を探って視線を泳がせる。雲雀の後方で、停止した左のエレベータがゆっくり左右に開かれた。
 それで自分たちの居場所を思い出して、綱吉はカアッ、と頬に朱を走らせた。
 乳母車を押した女性が、別の女性を伴って箱型の移動装置を降りてくる。ホールで向かい合って立つ年若い男子二名を物珍しげに見詰めた後、彼女らは特に気にする様子もなく、目的のフロア目指して去っていった。
 まだ何人かの客を乗せたエレベータは静かに閉ざされ、上の階を目指して動き出した。
「う……」
 もう少し到着が早かったら、通りすがりの大勢に見られるところだった。心臓に悪いとドクドク言っている胸を撫で、唇を舐めた綱吉は、そこに少し前まで触れていたものを思い出し、苦虫を噛み潰したような顔をした。
 雲雀は黒髪を掻き上げて首を振ると、忙しく動き回るエレベータ上部のランプを忌々しげに睨み、綱吉に向き直った。
「沢田」
「なんで、ヒバリさん」
 牙を剥き、露骨に警戒心を滲ませて、綱吉が吼える。それ以上近付くなと威嚇してくる彼の姿は、捕食者を前に懸命に虚勢を張る草食動物のそれに等しかった。
 大粒の目に涙を浮かべ、小ぶりの鼻を膨らませている。愛らしい、という表現しか思いつかなくて、言えば怒るだろうと考えながら、雲雀は紙袋を抱き潰した綱吉を見下ろした。
「なに」
「なに、じゃないでしょう。なんだって、あんな。俺に、あんな、……」
 其処から先が続かない。言葉も意味も知っているのに、実際に自分の口から告げるとなると、恥ずかしさが勝って音にならなかった。
 言い淀む綱吉が言わんとする中身を察し、雲雀はああ、と肩を竦めた。
「したかったから」
 他に理由など無い。さらりと言ってのけた彼に絶句して、綱吉は瞠目した。
 両手をズボンのポケットに押し込んだ彼が、背後を気にしながら綱吉の前に足を進めた。距離を詰め、殆どゼロにして、琥珀を覗きこむ。映し出される自分の姿に満足げに微笑んで、彼は今一度、綱吉に顔を寄せた。
 先ほど抱いた親近感が掻き消えて、恐怖心が蘇る。熱に浮かされたあの日を思い出して足が竦んで、逃げたいのに動けなかった。
「や、だ……」
 触れ合う寸前で呻くように呟き、堪えきれずに涙をひとつ頬に流す。唇を噛み締めた彼を見て、雲雀は目を瞬いた。
「沢田」
「なんで。やだ。なんで、ヒバリさん。なんで、俺に」
 ボロボロと零れ落ちていく真珠の涙に雲雀は身を引き、息を飲んだ。綱吉は鼻を啜ってかぶりを振ると、紙袋を持ったままの両手を広げ、頬に、額に押し当てた。
 俯いて声もなく泣く彼を前に立ち尽くし、雲雀は掛ける言葉を捜してか、ポケットから抜いた手を握っては広げる所作を繰り返した。
 何故、という言葉が渦を巻き、綱吉を飲み込もうと蠢く。足元を掬われそうになって、彼は奥歯を軋ませた。
 キス、という行動が持つ意味を、この一ヶ月間ずっと考えていた。
 キスとひとくちに言っても色々あって、ただの挨拶から親愛の表現まで、意味合いは幅広い。だがあの日、バレンタインデーに雲雀と交わしたキスは、ディーノが頬にくれるような挨拶程度の、軽いものではなかった。
「なんで……っ」
 呻くように声を搾り出し、綱吉は何も言ってくれない雲雀の肩をもう一発殴った。
 頑丈な彼の身体がぐらりと揺れて、前後に大きく波を打った。
 どんなに力を込めようともビクともしなかった相手が、急に軟くなった。豹変した雲雀の態度に唖然とし、綱吉は崩れ行こうとする彼の腕を掴もうと、咄嗟に手を伸ばした。
 それを、逆に下から掬い取られた。
「っ!」
 雲雀が崩れそうになったのは一瞬だけで、直ぐに彼は自分を取り戻し、綱吉を壁に押し戻した。後頭部をぶつけて衝撃に脳が揺れ、目の前が黒くなる。拙い、と思った時にはもう、唇は彼に奪われた後だった。
 噛み付くようにして食らいつかれ、下唇には実際に牙を衝き立てられた。痛みから背筋にゾワッと悪寒が走り、膝が震えて力が抜けた。
 抗うのも、受け流すことも出来ず、されるがまま貪られる。弛緩した歯列を割って咥内に潜り込んだ熱は、奥で震えている綱吉の舌を見つけ出すと、容赦なく捕まえて外に引きずり出した。
「んぁ、や……、っぁふ」
 奪われそうになって逃げるが、直ぐにまた絡め取られ、柔らかな肉に噛み付かれた。太股から爪先に向かって電流が走り、自力で立ち続けるのがどんどん困難になっていく。
 空を掻いた右手が雲雀のジャケットを掴み、襞を潰して爪を立てた。
 嫌だと言っているのに聞いてもらえない。強引なくちづけの連続に、涙は止め処なく溢れる。頬に走る細い川を逆流し、雲雀の舌が肌を撫でた。
 目尻にもキスをして、ちゅ、と音を立てて大粒の雫を吸い取る。産まれて初めての感触に魂がざわめき、胸の内側で暴れだした何かが綱吉を急かした。
 しゃくりを上げ、恐る恐る瞼を開き、直ぐ近くに居る雲雀を見詰め返す。物言いたげに唇を開閉させた彼に瞑目し、雲雀はもう一度、触れるだけのキスをして離れた。
 ずり落ちそうになった綱吉を支え、二本の腕が背中に回った。
「君が悪いんだから」
「……ヒバリさん?」
 抱き締める手つきは優しいのに、耳元で響いた声はとても冷たかった。
 ぬいぐるみの入った紙袋ごと彼に包まれて、素肌に触れる体温の心地よさに身体が安堵を覚える。無意識に頬擦りをしそうになって、寸前で気付いた綱吉は顔を赤くした。
「君がいけないんだ」
「はい?」
「君が、あんなものを持ってくるから」
 気を紛らせようと、さっきから人を非難する言葉を繰り返している雲雀に聞き返す。寝耳に水の苦情に腹を立て、頬を膨らませると、背中にあった彼の右手が背骨をなぞり、上に登っていった。
 襟足を擽った指先が、跳ね放題の髪の毛を撫でた。
 言葉は険しいのに、手つきは依然として優しい。ちぐはぐな彼の言動に戸惑い、綱吉は臍を噛んだ。
「あんなもの、って」
「先月」
「……チョコレート?」
「そう」
 いつ、誰が来るかも分からない場所なのも忘れて、雲雀は綱吉の頭を繰り返し撫でた。
 彼が言葉を囁くたびに呼気が耳朶を擽って、蜂蜜色の毛先が揺らめき、踊る。彼の胸元に鼻筋を押し当てると、汗の臭いがほんの少し強くなった。
 これが雲雀の匂いなのかと思うと、息をするのも恥ずかしくなる。だからといって呼吸をやめるわけにいかなくて、出来るだけ嗅がないようにと口を開閉させると、濡れた唇が黒のタンクトップに引っかかった。
 彼との近さに驚き、にっちもさっちもいかない状況に喘ぐ。弱りきって俯くと、嫌がった雲雀に顎を掴まれた。
 無理矢理上向かされて、至近距離から見詰められて瞳が泳いだ。目を逸らしたがる綱吉にムッとして、彼は髭が生える兆候すら見えない輪郭をなぞり、立てた親指を唇に押し当てた。
 下から突き上げられて口をヘの字に曲げ、綱吉は仕方なしに怒った彼を見上げた。
「そういう顔、しないでくれるかな」
「どんな」
「今みたいな」
 戸惑いのままに、上目遣いに。涙に濡れて潤んだ琥珀は艶を帯び、光の加減もあって淡く輝いていた。
 綱吉の問いに答えになっていない答えを返し、雲雀は一度背筋を伸ばし、綱吉を抱いたままぐーっと仰け反った。
 天を仰いで直ぐに姿勢を戻し、不思議そうにしている綱吉の前で大きく溜息をつく。そんな事を言われても、鏡があるわけでなし、見えないのだから分からないと綱吉が頬を膨らませると、彼は淡く微笑み、肩を揺らした。
「好きだから」
 さらりと、告げる。
 今日はいい天気、とでも言わんばかりの告白に、綱吉は成る程と頷きかけて、直前で停止した。
「は?」
「君が好き」
「い?」
「好き」
「鋤?」
「怒るよ」
 冗談のつもりはなかったのだがついつい同音異義語を口走った綱吉を睨み、雲雀は直後、気の抜けた表情を浮かべた。
 言って楽になったとでもいうのか、肩を竦めて首を振り、唇を舐めて綱吉を見詰め直す。
「好き、だよ」
 微笑みながら真っ直ぐ告げられて、じわじわと迫り上がるものに足を震わせ、綱吉は瞠目した。
 呼吸さえ忘れて彼を見上げ、触れようと首を倒した彼の影の動きで我に返る。咄嗟に逃げに入った腰を片腕で封じられ、鼻の上を掠めたキスに肩を強張らせる。
 大仰にビクついた彼を笑って、雲雀は目尻を下げた。
「沢田?」
「待って。嘘だ、そんなの」
 まだ嫌がる彼を催促し、抱き締める腕の力を強める。綱吉は膝をぶつけ合わせながらしどろもどろに言葉を繋ぎ、紙袋で彼の胸を押した。
 ふたりの間に挟まれて、袋の表面には無数の皺が走っていた。中身は無事だろうが、このまま渡すのは躊躇する潰れ具合だった。
 小さく首を振り、雲雀の告白を否定して、唾を飲む。あまり目立たない喉仏を上下させた彼に眉根を寄せ、雲雀は不機嫌に口を尖らせた。
「沢田」
「だって、嘘だ。俺、だって、おと……」
「関係ない」
「ある」
「気にしない」
「してください」
「君は?」
 言葉を選んでぎこちなく告げようとした傍から、雲雀が声を被せてくる。短いやり取りを繰り返して、綱吉は前を気にしてエレベータのランプを見た。
 上下運動を繰り返す箱型の乗り物が、いつこの階で停止するか分かったものではない。先ほどの二人連れが戻って来る可能性もあるし、近くのフロアには他にも客がいた。
 雲雀から周囲へと、意識を向ける先を変えた綱吉にむっとして、雲雀が質問を繰り出す。怒鳴るように訊かれて、面食らった綱吉は答えに窮して声を上擦らせた。
「え、え?」
「どうなの」
「どうって、何が」
「そんなに僕が嫌い?」
 続けざまに質問を繰り出されて、吐く息が喉に詰まった。口をパクパクさせて全身を竦ませた綱吉は、真剣な眼差しを向ける彼に琥珀を潤ませ、鼻を膨らませた。
 そんな事をいきなり言われても、分からない。好きか嫌いか、その二択しか許されないのかと目で問う。強い調子で頷かれて、綱吉は益々顔を引き攣らせた。
 唇を噛み締め、涙を堪えている彼をじっと見て、やがて雲雀は嘆息した。急ぎ過ぎた自分を反省して首を振り、震えている綱吉の頭を撫でる。
「嫌い?」
 声を潜めて問うと、弾かれたように顔を上げた綱吉は、ややしてフルフルと首を振った。
 その勢いの良さに安堵して、ならば、と雲雀が唾を飲む。彼の緊張が伝わってくる気がして、綱吉は紙袋を抱える腕に力を込めた。
 折角プレゼント仕様に包んで貰ったのに、すっかりぐしゃぐしゃだ。もっともこの際、中身さえ無事なら、外見はどうなっても構わない。これを持って帰るまでの行程があるのも忘れ、綱吉は包装紙を抱き潰した。
「じゃあ」
「ヒバリさん」
 改まった気持ちで問いかけようとした彼を遮り、綱吉が呼びかける。言葉を止めた雲雀は、己を見詰める琥珀の艶に瞠目し、喉元まで出掛かっていた質問を飲み込んだ。
 そのまま唇を真一文字に引き結んで、降参だと首を振る。
「だから。そういう顔、しないで」
「そんな事言われても」
 自分では見えないのだから、と反論を口ずさめば、雲雀の手が降りてきて、綱吉の唇を縦に塞いだ。
 黙るよう目で合図されて、綱吉は大粒の瞳を平らに引き伸ばした。
「沢田」
「……」
「キスしたい」
 顔を寄せて、雲雀が甘く囁く。返事が出来ない綱吉は歯軋りして、彼の後ろを気にして視線を浮かせた。
 オレンジのランプは地下から順に、上を目指して右に動いている。
「…………」
 なんだかもう疲れてしまって、彼は雲雀の指目掛けて息を吐き、肩の力を抜いた。ホールの出入り口にも目をやって、しばらくは誰も来そうにないのを確かめて、もう一度エレベータのランプを二基とも確かめる。
 そうして彼は、祈るように目を閉じた。
 どうか。どうか、神様。
 少しの間だけで構わない。
 もうちょっとだけ、彼との時間を誰にも邪魔されませんように――――

2010/03/07 脱稿