拘泥

 何故、バレンタインデーなんていう日があるのだろう。
 本日何度目か知れない溜息を零して、綱吉は恨めしげに目の前に聳える建物を睨みつけた。
 春はもう直ぐそこまで来ていると言うが、二月の半ばになっても寒さは緩むどころか、益々険しさを増していた。一週間前は確かに暖かかったのに、急に寒の戻りがやってきて、最低気温は氷点下を記録していた。
 正午を過ぎても、陽射しが無いので寒い。丸裸の木が風に揺れる姿を視界の端に見て、彼は乾いてかさかさの唇を舐めた。
 日曜日だというのにベージュ色の制服を着込み、ネクタイもきちんと締めて、身繕いは完璧だ。ただ髪の毛だけは、毎度ながらどうにもならなかった上に、此処に来る道中の強風ですっかり乱され、いつも以上に酷い有様を呈していた。
 鞄は無い。学校に来ているというのに、彼は手ぶらだった。
 その代わりという訳ではないが、ブレザーの右ポケットだけが不自然に膨らんで、歪な形を成していた。
「なんだって、俺が」
 唇をもうひと舐めして、こちらも何度呟いたか分からない愚痴を繰り返す。聞く者が居れば一発で憂鬱になれること間違いない盛大な溜息をついて肩を落とした彼は、眼前に立ちはだかる鉄製の正門に緩く首を振り、額に左手を押し当てた。
 校舎が邪魔をして見えないものの、その向こう側にあるグラウンドからは、この寒い中でも元気いっぱいの運動部の声が響いていた。休日返上で練習に取り組む姿勢は、尊敬に値する。自分では絶対にムリだと、やる前から早々に諦めの境地に入り、彼は白く濁った息に頭を突っ込ませた。
 靄を取り払い、どん、と居丈高に構えている中学校を仰ぎ見て、奥歯を噛む。
「そりゃさ、気持ちは分かるよ。分かるけど、なんだって俺に頼むのさ」
 ぐちぐちと文句を口ずさみながら、彼は膨らんでいるポケットを上から撫でた。
 中に収められた箱の形が、布を通して指先に伝わる。四角形、掌サイズだけれど、厚みが三センチ近くとかなり分厚い。
 これを渡された時は一瞬胸がときめいたが、そんなわけが無いと強烈なバックドロップキックを食らって、綱吉は現実の過酷さを知った。そもそも、女の子とはいえ五歳児からチョコレートを渡されて、どきどきする方がどうかしている。
 いつの間にか沢田家に居ついてしまった辮髪の少女。照れ屋で、恥ずかしがりやで、引っ込み思案の彼女が、勇気を出して選び、購入したのはいいものの、それを思い人に手渡すには過分な障害があった。
 先にも言ったが彼女は極度の照れ屋で、その恥ずかしさがマックスに達した時、問答無用で爆発してしまうという不可思議、且つ超絶厄介な体質があった。
 そんな彼女が、大好きな人に手渡しでもしようものなら、大変だ。彼女の爆発力の凄まじさを体験済みの綱吉は、事の次第を聞いた時、最悪の状況を想像して軽く気を失いかけた。
「はあぁ……」
 休日とはいえ、部活動があるので生徒が出入り出来るよう、正門は少しだけ開いていた。人ひとりがやっと通り抜けられるだけの隙間を前に足踏みをして、彼はちらりと校舎の一角を盗み見た。
 さっきから学校の前で立ち往生している彼を、通りがかりの人が不審な目で見ていく。突き刺さる幾つもの視線を感じながら頭を垂れ、彼は渋々、覚悟を決めて第一歩を踏み出した。
 ちゃんと制服を着ているし、普段から学校に通っている生徒でもあるので、先生に見付かっても見咎められることはあるまい。声をかけられたら、忘れ物をしたと言えばそれで済む。
 問題なのは、風紀委員に見付かった時だ。
「どうやって渡せばいいんだろう」
 特に鬼の風紀委員長には、下手な言い訳は通じないと思った方が良さそうだ。不真面目の代名詞であるような綱吉が、休日に忘れ物をしたからといって、取りに来るわけが無いと簡単に見抜いてくれるだろう。その上で、不審なポケットの膨らみに言及するはずだ。
 あの人は目敏い。嘘を見抜き、追求するのが巧い。
 絶対に避けて通りたい相手だ。だけれど、彼に会わなければイーピンからの依頼が達成できないのも事実。
「どうしよう……」
 散々悩んだが、綱吉程度の頭で妙案が浮かぶわけが無い。日が暮れる前にさっさと行け、とリボーンに追い立てられるように家を出て来てから、かれこれ一時間が過ぎようとしていた。
 綺麗にペンキが塗られた門を抜け、高々と聳え立つ校舎を真下から見上げる。横に長い建物の窓はどれも閉められて、中の様子を窺うのは難しかった。
 彼の人が占有している部屋もそうで、引かれたカーテンの内側に人が居るのかどうかを知る術はなかった。
 基本的に風紀委員は土日祝日、一切関係ない。並盛中学校の、ひいては並盛町の治安を守り、風紀が乱れるようなことがあればこれを取り締るべく、休日返上で奔走している。
 こちらも、綱吉から見れば飽きもせずよくやるものだ、と言わざるを得ない。
 暴力沙汰を厭わず、むしろそれを好む傾向にある風紀委員には、敵が多い。しかし何十人とまとめてかかっても、あの委員長にはまるで歯が立たない。
 彼は強い。強すぎる。
「……部屋にいるのかな」
 応接室の窓をもう一度見て、彼は呟いた。
 弱虫で、苛められっこで、何をやってもダメダメのダメツナにとって、彼の強さは脅威であると同時に、憧れだ。彼のように堂々と、向かい風も何のそのと受け流し、茨の道を切り裂いて迷わず真っ直ぐ進めるようになれたら、どれだけ素晴らしいだろう。
 人の意見に流され、逆らわず、波に飲み込まれて自分を誤魔化し、隠す。そういう生き方をしてきた綱吉にとって、誰にも媚びず、群れを嫌う雲雀恭弥は眩しい存在だった。
 自分にしか聞こえない音量で呟き、足元の土を蹴る。硬い地面に薄ら砂埃が舞い、風に紛れてすぐに消えた。
 頬を撫でた冷たい空気に身を竦ませ、彼は渋々、校舎に入るべく正面玄関の戸を潜った。
 こちらも部活をする生徒の為に解放されていて、鍵はかかっていなかった。流石に外気を取り込むのは寒いので、扉は閉まっていたけれど。
 ガラスをはめ込み、向こう側が見えるようになっている戸を引いて屋内に入ると、風が遮られた分だけ寒さが遠ざかった。空気は冷えているものの、あまり動かないので体温を掠め取られることはない。
「玄関……」
 コンクリートで固められた足元から、スノコが並べられた靴箱へ視線を移す。素早く二度瞬きを繰り返した彼は、居並ぶ灰色のロッカーに、どくん、と心臓を跳ね上げさせた。
「そうだよ」
 今まさに、漫画的に表現するならば、頭の上で豆電球に光が灯った。
 ピコーン、という間抜けな音を脳内に響かせて、彼は寒さ以外の理由で強張っていた頬を緩め、琥珀色の瞳を輝かせた。
 並盛中学校には上履きがあって、校舎に入る際に履き替える決まりだった。だから玄関には三学年分の下駄箱が、ずらりと並べられていた。
 その様は壮観で、初めてこの景色を見た時、綱吉は自分が中学生になったのだと否応なしに自覚させられた。古典的な漫画にあるような、下駄箱を開けたらラブレター、という展開を期待した時期もあった。
 夢は夢で終わり、どうやら永遠にそんな日はやってきそうにないと悟るのに、そう時間は掛からなかったけれど。
 どうでも良い事を思い出してひとり落ち込んで、黄昏かけた綱吉はハッと我に返って急ぎ首を振った。
「ヒバリさんの手に渡ればいいんだから。そうだよ、何も直接渡さなくてもいいんだよ、うん」
 イーピンに頼まれたのは、彼女がなけなしの勇気と貯金を使い果たして買ったチョコレートを、雲雀恭弥に渡すこと。しかし彼女は、彼を前にすると照れてしまい、大爆発を引き起こす危険性がある。
 それを回避する為に代役で選ばれたのが、綱吉だった。
 何故自分が、と思って最初は断った。そうしたらイーピンは哀しそうな顔をして、涙を堪えて鼻を啜った。
 それを見たリボーンが、女を泣かす男は最低だと言い放ち、ビアンキまでもが綱吉を責めた。
 けれど、考えて欲しい。綱吉は男で、雲雀も男だ。綱吉がバレンタインに雲雀にチョコレートを渡す、この構図は可笑しくはないだろうか。
 確かに綱吉は、あくまでも代理人だ。が、傍目から見ている人はそう思わない。雲雀だって、いきなり綱吉にチョコレートだと分かる箱を差し出されたら、面食らうに決まっている。
 いや、問答無用で殴りかかってくる。
 学校に、勉強に必要なもの以外を持ち込んだ罰として。
 想像すると寒気がして、彼は咄嗟に自分の肩を抱き締めた。周囲に人が居ないのを確認して、ホッと息を吐いて胸を撫で下ろす。
 イーピンに味方するのならば、女性であるビアンキが手助けしてやれば良いのにと思うのだが、彼女はリボーン以外には渡したくないと頑なだった。ならばそのリボーンが、と断る理由を探して必死の綱吉は提案した。彼は雲雀のお気に入りで、綱吉が渡すよりもずっと平和的な解決方法といえた。
 だがそれも、ビアンキが絶対駄目、と譲らなかった。
 愛する人が、たとえ代理であっても他の男にチョコレートを渡すなど、耐えられない。そう言って背後に薔薇を散らした彼女を前に、綱吉はもう何もいえなかった。
 結局、イーピンが可哀想に思えて、渋々ながら引き受けた。随分と安請け合いをしたものだと、ポケットの膨らみを指でなぞり、彼は唇に牙をつきたてた。
 苦々しい記憶を追い払い、視線を左右に流して立ち並ぶ靴箱を眺める。靴を入れるロッカーは学年ごとに決まっており、場所も三年間変わらない仕組みだった。
 三月に卒業した三年生の使っていたロッカーに、翌四月に入学してきた一年生が靴を入れる。そのローテーションなので、一、二、三と学年別に綺麗に並んでいるわけではなかった。
 並び順も学年通しての出席番号順だ。だから綱吉の隣のロッカーは、違うクラスの沢田さんが使っている。
 最初は紛らわしく、面倒臭いシステムだと思ったが、今は間違えて隣の靴を履こうとして、サイズ違いに首を捻ることもなくなった。
 そうして今は、このシステムを採用した学校の昔の人に、感謝の気持ちでいっぱいだった。
「ヒバリさんは、三年生、……だよね?」
 無人の玄関で自問を口ずさみ、綱吉は小首を傾げた。
 いまいち自信が無いが、風紀委員長をやるくらいなのだから、最高学年で間違いなかろう。もっとも彼の場合、年上、年下関係なしに、風紀を乱す輩が居れば問答無用で咬み殺してしまうのだけれど。
 トンファーを手に勇ましく不良を打ちのめす男の姿を思い浮かべ、綱吉は人差し指を唇に押し当てた。
 あんなに凶暴極まりない人を好きになるイーピンの気持ちが、いまいちよく分からない。見た目は格好良いし、誰よりも強いのは認めるが、性格は最低、最悪だ。
 将来イーピンが泣かされるようなことにならなければいいけれど。老婆心を働かせ、遠い未来に思いを馳せながら、綱吉は現三年生が使用している下駄箱の前に移動した。
 見た目はどれも同じで、扉に貼られた名札が唯一の頼りだった。
 これで入れる場所を間違えたら、大問題だ。しかし「雲雀」という苗字は珍しくて、少なくともこの学校には彼しか存在しない筈だ。
 沢田や、山本といった苗字はありきたりすぎて、面白みに欠ける。獄寺も他に無い苗字で、説明も簡単で分かり易く、羨ましかった。
「地獄の獄に、お寺、だもんなー」
 こう言えば、大抵の人には一発で理解してもらえる。雲雀の場合は、鳥と同じ、と言えば粗方通じるのだろうか。
 無数に並んだ名札を眺め、時折混じる読めない苗字や、面白い苗字に逐一反応しながら、綱吉はスノコの上で屈伸運動を繰り返した。
 下駄箱の最上段は、綱吉の背丈だと背伸びをしないと届かない。逆に最下段は、しゃがみ込まないと名札に記された字が読み取れなかった。
「ない、な」
 縦に一列ごとに調べていくのは疲れる。途中からは横に眺めていくことにして、蟹歩きでスノコを左右に移動し始めた彼の動きは、傍から見ると滑稽で、そして不審極まりなかった。
 しかし流石休日の午後とあって、学校を訪ねてくる人はおらず、よって綱吉を笑う人はひとりも現れなかった。
「あれー?」
 一通り下駄箱をチェックし終え、膝を伸ばしながら綱吉は首を振った。
 三年生の、ハ行の苗字を重点的にチェックしていったのに、目当ての名札に行き当たらない。樋口、飛田、と来て次が氷見だ。雲雀、の二文字は、何度確認しても見出せなかった。
「おかしいな」
 疲労を訴える足を撫で、中腰のまま下駄箱を見上げて頻りに首を捻る。並び順にクラスは関係ないのだから、雲雀が三年生であるならば、此処に彼の名前が挟まって然るべきだ。
 それなのに、見付からない。まさか「くもすずめ」で間違って登録されているのではと、ありえないと思いつつも念の為調べてみたが、こちらにも該当する苗字は存在しなかった。
 雲雀の二文字が見付からない。折角妙案だと思ったのに、これでは完全にお手上げだ。
「まさかヒバリさん、うちの学校の生徒じゃない?」
 顎に手をやり、真剣に考えてひとつの答えに達する。が、それは幾らなんでも乱暴すぎて、違うだろう、と彼は唇を掻いた。
 雲雀恭弥はこの中学校が大好きで、とても大事に思っている。どれだけ敵を作ろうとも、風紀を乱す人間を許してはおかない愛校心溢れる彼が、並盛中学校に在席していないとは考えづらい。
 だから違う、と重ねて否定する。振り出しに戻ってしまった疑問に、綱吉は盛大に肩を落として溜息をついた。
 早く帰らないと、誰かが来てしまう。今は良くとも、この先ずっと此処が無人だとは限らない。
 反響しつつ響くグラウンドからの声に顔を上げて遠くを見やり、彼は思考の矛先を変えて、スノコの上に足を滑らせた。
 土足のまま乗るのは違反なのだが、上履きに履き替えるのが面倒なのでそのままだ。これこそ、風紀委員に見付かったただではすまない。カタン、と鳴った板に慌てて足を引っ込め、コンクリート部分に戻った彼は、爪先を玄関の端に向けた。
 そちらは、上級生の下駄箱以上に綱吉にとって縁遠い、並盛中学に勤務する職員や教員の為の靴箱だった。
 授業にも出ず、クラスの仲間と談笑することも無い雲雀は、半分学校の職員だ。だからもしかしたら、と生徒枠ではなく、こちらに靴を収納しているのかもしれないと考えたのだが、
「ない」
 学生に比べれば数の少ないので、下足入れのチェックはすぐに終わってしまった。
 名札の無いところが何箇所かあったので、試しに窪みに指を入れて片開きの扉を開いてみたけれど、出て来たのは学校の名前が入ったスリッパか、誰が詰め込んだか分からないパンの空き袋だった。
 ゴミを発見してしまい、わざわざ捨ててやるのも癪で、綱吉は見なかったことにして戸を閉めた。何も刺さっていないプレート入れをなぞり、温い唾を飲んで振り返る。
 グラウンドの声が、とても遠い。いつもは学生で賑わう空間が今は酷く静かで、物寂しい景観に彼は身震いした。
 無意識に右のポケットを握り、指先に生じた箱の拉げる感覚に慌てて手を放す。ポケットを広げて中身を取り出すと、幸いにも潰れていなかった。
「よかった」
 結ばれたリボンが少しだけずれてしまっていたものの、無事だ。茶色のシックな包装紙で包まれた箱を大事に撫で、彼は無数に乱立する下駄箱に唇を噛んだ。
「なんで、ないんだよ」
 三年生のところにも、職員のところにも、雲雀恭弥の名前が見付からない。大前提である学年が違う、という考えには至らず、綱吉は両手で持った箱を胸に押し当てた。
 イーピンから託されたチョコレートを、下駄箱に入れるだけ。簡単な仕事だったはずなのに、計画は大きく狂わされた。
 時間ばかりが過ぎて、物音ひとつにもビクついてしまう。
 応接室を訪ねる、という選択肢は無い。そんな恐ろしいこと、出来るものか。
「あー、もう」
 どうしたものかと地団太を踏み、癖で親指の爪を噛む。行儀が悪いと奈々にも、リボーンにも言われているので、人前ではしないよう心がけているのだが、苛々した時などはどうしても出てしまい、なかなか止められそうになかった。
「ドアの前に置いて逃げる、しかない、か?」
 瞳を慌しく動かし、玄関から続く廊下に注意を払いながら呟く。左に行くと職員室があり、右に進むとすぐに階段だ。正面を突き進めば、どん詰まりは体育館。
 どうでもいい学校の見取り図を頭の中に描き出し、ひとりごちた彼は手の中の箱を飾るリボンを引っ掻いた。
 結び目が緩み、綺麗な蝶々の羽が片方小さくなってしまった。気付いて慌て、しまったと苦虫を噛み潰したような顔をして、綱吉はその場でくるりと反転し、背中を下駄箱に押し当てた。
 体重を預けて寄りかかり、ブレザーを通して伝わって来た金属の冷たさに身震いする。
「なんだって、もう」
 こうも巧く行かないことの連続だと、落ち込んでしまいそうだ。
 目的を達成出来なければ、リボーンのお仕置きが待っている。ビアンキも恋する乙女の味方で、責められるのは綱吉ひとりだ。
 リボンの端を抓んで引っ張り、最初に比べると随分歪になってしまった蝶々結びを直す。どうせ食べる時に解くのだから、と輪の大きさが左右で違うのも気にしない。
 一気に不恰好になってしまった茶色の箱を左右並べた掌に添え、彼は深く息を吐いて瞼を伏した。
「こっそり置いてこよう」
 ドアをノックせずに、その前に置いて帰ろう。応接室のドアは内開きだっただろうか、逆だっただろうか。外開きだと気付かずに蹴り飛ばすか、踏み潰されてしまう危険性があって、そんな事を考えながら、綱吉は校舎に上がる為に先ず上履きに履き替えるべく、背中を浮かせた。
 自分の下駄箱を探し、東に進路を取る。
 と、その足が。
「げっ」
 二歩目で停止した。
 思わず出てしまった声に、最初気付いていなかった向こうも足を止めた。振り向かれて、目が合う。
 綱吉の背中に悪寒が走った。
「……なに」
 正面玄関の、校舎側。綱吉がいる場所より一段高いそこを横断しようとしている人が、いつの間にか、いた。
 ガラス戸の先に続く外に向かって、手元ばかり見ていたので綱吉は気付かなかった。彼は下足入れのロッカーに隠れていたので、あちらもそこに人が居るなど、全く考えてもいなかったに違いない。
 不用意に声を発しさえしなければ、巧くやり過ごせただろうに。
 生まれながらのダメダメさ、なにもこんなタイミングで発揮されなくていいのに。あまりにも不運すぎる巡り合わせに絶句して、綱吉は不機嫌に顔を顰めた雲雀に急ぎ首を振った。
 顔を合わせたくないからこそ、色々と策を練っていたのだ。だのにまさか、こんな不意打ちに等しい状況で本人と対面させられようとは。
 今日はとことんついていない。サーっと血の気を引かせ、綱吉はどうすればよいか分からず、完全に凍りついた。
 人の顔を見た途端に青褪められるのは気分良いものではなくて、雲雀は眉間に皺を寄せて口を尖らせた。益々不機嫌を露にする彼に慌て、綱吉の手が上下左右に意味もなく動き回る。その途中、掴んでいたものを弾いてしまい、茶色の箱が宙を舞った。
「あ、うあ、おほっ」
 奇声を発し、爪先立ちで飛び跳ねて必死になって受け止める。お手玉をして、何度も上下に振り回しながらどうにか胸元で確保した時には、全身汗だくだった。
 箱に入って梱包されているけれど、食べ物なので落とすのは避けたい。中がどんなチョコレートなのかまでは聞いていないが、衝撃で割れてしまうことだって考えられる。
 肩で息をしてふぅふぅ言いながら額を拭った彼を冷淡に見守り、雲雀は羽織った学生服を揺らした。
「なにしてるの」
 綱吉が落ち着くのを待って、朗々と響く声で問う。背中を丸めて前のめりになっていた彼は、顔を上げてそこに佇む雲雀を見て、大慌てで手の中の物を後ろに隠した。
 不審すぎる彼の行動に、雲雀の顔が歪んだ。
「今日、日曜日だよ」
「し、知って、ます」
「補習があるとは聞いてない」
「ないです、から……」
 テストの成績で常に学年最下位を突っ走る綱吉は、補習授業の常連客でもある。そういうところは覚えてくれなくてもいいのに、と心の中で悪態をつき、綱吉はしどろもどろに言い返した。
 顔を伏し、上目遣いに雲雀を窺う。上履きを履き、スノコの手前に立つ彼は、段差分の差があるからなのだが、随分大きく感じられた。
 萎縮して小さくなり、綱吉は背中にやった両手をもぞもぞさせた。
 彼は気付いただろうか、綱吉が持っているものに。
「君は、部活動には参加してなかったよね」
「……はい」
 一呼吸挟み、雲雀が右手を腰に当てた。肘に引っかかった学生服が外側に大きく膨らみ、裏地の赤が綱吉の目に飛び込んできた。
 風紀委員と言いながら、並盛中学校で一番風紀を乱しているのは、間違いなく彼だ。なにせ校則違反の生徒は容赦なく罰するくせに、自分は定められた制服を身につけようとしないのだから。
 一見地味なようで、実は派手な黒い学生服に目をやり、揺れる腕章に唇を噛む。綱吉は潰さない程度に箱を持つ手に力を込め、この窮地を脱する方法を探して視線を泳がせた。
 じっと見詰められて、落ち着かない。雲雀とは度々接触しているものの、思えば必ず誰かと一緒だった。一対一で対面するのは、これが初めてかもしれなかった。
 無理を言ってでも、リボーンについて来てもらえば良かった。黄色いおしゃぶりをぶら下げた赤ん坊の憎たらしい顔を思い出し、綱吉はドクドク言う心臓に臍を噛んだ。
 自分が用意したチョコレートではないのに、イーピンの緊張が伝染したのか、どきどきが止まらない。
「学校に、何の用?」
 長い前置きを終えて、雲雀がいよいよ本題に入った。怪訝にしている彼の質問に、綱吉はビクッと大袈裟なほどに反応して顔を強張らせた。
 唇を噛み締めて大粒の瞳を見開いた彼に、雲雀は小首を傾げた。
「いや、その。それは……」
「用も無いのに来たの?」
「いえ。用事はあるんです、けど」
 曜日を間違えて登校した、というには時間的に無理がある。時計を見れば、午後三時の一歩手前だ。
 いくら寝坊癖があるとはいえ、こんなに遅くに起床するとは考え難く、雲雀は狼狽えている綱吉を怪訝に見詰め、左手を持ち上げた。軽く曲げた人差し指の背で顎の輪郭をなぞり、ふむ、と鼻を鳴らす。
 先ほど、綱吉は大仰な動きで背中に何かを隠した。学校の玄関で、自分の上履きが収納されているのとは別の下駄箱の前にいた彼は、いったい何をしていたのだろう。
 今日という日が世間でなんと言われているのかを一緒に思い出して、雲雀はああ、と頷いた。
「バレンタイン?」
「っ!」
 まさか、と思いながら軽い気持ちで口に出す。刹那、綱吉の顔が真っ赤になった。
 前髪に隠れている額も、後れ毛に半ば埋もれている耳の先も、首さえも鮮やかな朱色に染めて、綱吉は「あ」とも「う」ともつかない呻き声をあげてふらついた。
 どう考えても図星だと分かる反応ぶりに、雲雀は唖然として左の指を喉仏まで滑らせた。
「え?」
「あ、いえ。だから、えっと、そうなんですけど、……違うんです」
 きょとんとしたまま呟いたので、声が若干上擦り、ひっくり返ってしまった。しかし綱吉は彼以上に慌てていて、雲雀の素っ頓狂な声に全く気付かなかった。
 バレンタインだけど、違う。意味が分からない台詞を吐いて、彼は両手を振り上げ、右手に握ったものを突き出した。
 両者の間には、三メートル近い距離があった。しかし鼻先にまで迫る感覚に打ち震え、雲雀は呆然と目を見開いた。
「沢田綱吉?」
「どうぞ!」
 すっかり覚えてしまった名前を口ずさみ、左足をスノコに下ろす。体重を受けてコン、と硬い音がひとつ響き、近付こうとしている彼を見上げ、綱吉は琥珀の瞳に薄ら涙を浮かべて叫んだ。
 恥ずかしくて、今すぐ逃げ出してしまいたい。しかしこれを雲雀に渡さない限り、家には帰れない。
 鼻から息を吸い、食いしばる歯の隙間から吐き出して、彼はゆっくりと歩み寄る青年と目が合う寸前、顔を伏した。
 両腕を前に伸ばしたまま俯いて、手の中のものが消えてなくなるのをひたすら待つ。
「僕に?」
 形が歪なリボンに、爪で引っ掻いたと分かる筋が幾つも走った茶色の包装紙。厚みがある四角い箱と、震えている綱吉の手と、そして跳ね放題の甘い色をした髪とを順番に見て、雲雀は誰に聞くとでもなしに呟いた。
 綱吉が下を見たまま頷こうとして、それでは伝わらないかと思いとどまった。
 箱の感触は、なかなか指の先から消えてくれない。早く受け取って欲しいのに雲雀は黙ったままで、いい加減肩が疲れた綱吉は下唇を咥内に巻き込んで噛み、息苦しさから浮いた涙を瞬きで消して顔を上げた。
「……っ」
 そうして思いの外近い場所にいた雲雀の、仄かに赤く染まった顔を見て、絶句した。
 あの泣く子も黙る風紀委員長が、よりにもよって驚いている。てっきり学校に関係無い物を持ち込んだ罰、とでも言ってトンファーで殴りかかってくるとばかり思っていたのに。
 予想外すぎる反応に綱吉も戸惑って、咄嗟に言葉が出てこない。指先の力が緩み、大事な預かり物を落としそうになって、彼は慌てて肘を引っ込めて胸に抱え込んだ。
 茶色い包みを抱き締めた彼にハッとして、雲雀は目を瞬いた。
「君、って」
「え、あ、違います!」
 たどたどしく口にして、綱吉の持つ箱を指差す。
 何処をどう見ても、確かに同年代に比べれば華奢で、童顔で、可愛らしいが、間違いなく男である綱吉が、男である雲雀にチョコレートを差し出すこの状況。まさかそういう趣味があるのかと暗に問うた彼に、綱吉は弾かれたように首を振った。
 声を荒げて否定して、どう言おうか迷って右に視線を流す。周囲には他に誰も居ないのを素早く確かめ、彼は視界の中央に動揺激しい雲雀を置いた。
「これは、その……俺、じゃなくて」
 すっぱり本当の事を、あっけらかんと言えたなら、どれだけ良かっただろう。しかしイーピンから伝染った緊張と、思わぬ雲雀の反応に、心臓はさっきから破裂寸前だった。
 相手が獄寺や山本だったら、笑いながら渡せたに違いない。この落差の激しさはなんなのかと、綱吉はぞわぞわする背中にジッとしていられなくて、膝をぶつけ合わせた。
「君じゃない?」
 口をもごもごさせながらの発音は、かなり聞き取り辛かったはずだ。しかししっかり音を拾っていた雲雀が、ほんの少し声のトーンを上げた。
 右の眉をピクリとさせて、泣き出す寸前まで顔を歪めている綱吉を見下ろす。トナカイ並みに真っ赤になった鼻を膨らませて、彼は唇を捏ね、大きく息を吸い込んだ。
「その、うちの……イーピン、から」
 知っているかと目で問われて、雲雀は左の眉も持ち上げた。
 消え入りそうな声で告げられた名前には、辛うじて覚えがあった。リボーンという名の赤ん坊と同じく、綱吉の家に居候している中華服の子供だ。辮髪なので男かと思っていたが、綱吉の態度から察するに、違うらしい。
 あれで女なのか、と正直に驚いてみせ、雲雀はさっきまで高鳴っていた胸が急速に冷めていくのを冷静に見送った。
 心拍数が平常値に戻り、顔から赤みが消え失せる。同時に笑いがこみ上げてきた。自分はいったい何を想像し、期待したのかと、可笑しくてならなかった。
「はっ」
 声にも出して笑い、肩を揺らす。突然嘲笑を口にした彼に綱吉は目を見張り、琥珀の瞳を波立たせた。
「ヒバリさん?」
「要らない」
 前髪を掻き上げて、冷淡に言い放つ。不思議そうにしていた綱吉は聞こえた台詞に瞠目し、声を失って立ち尽くした。
「――え?」
 随分と間を置いて、彼はどうにかそれだけを呟いた。
 思えば、どうやって渡そうかばかり考えていて、受け取って貰えなかった時の事を考えていなかった。想定外の返答に背筋が粟立ち、鳥肌が立った。
「そんな。ヒバリさん」
「学校に不要物を持ち込んだのは、日曜日だし、今回は見逃してあげる。でも次は無いよ」
「待ってください。そんなの、困ります」
 本当は殴り飛ばしてやりたかったのだが、それはぎりぎり我慢して、寛容な心で綱吉を突き放す。犬猫を追い払う仕草で手を振り、さっさと学校を出て行くように促すと、彼は声を上擦らせ、雲雀に手を伸ばした。
 袖の通っていない学生服を掴まれて、雲雀は露骨に顔を顰めた。放すよう言うが拒否されて、ならばと力ずくで排除にかかる。
 しかし綱吉は諦めなかった。
 左手と胸で箱を大事に抱え持ち、払われても、払われてもしつこく右手を繰り出してくる。四度ほど同じやり取りが繰り返されて、先に痺れを切らした雲雀が、五度目に挑んだ綱吉を突き飛ばした。
「うあっ」
 後ろには何も無い。立ち並ぶ下駄箱の列から追い出され、彼はたたらを踏んだ。
 あんなに近かった雲雀との距離が一気に広がった。威圧感に押されて前に戻ることも出来ず、綱吉はイーピンから託されたチョコレートをちらりと見て、奥歯を噛み締めた。
 これを渡さない限り、沢田家の門を潜れない。それに、愛らしいあの少女がこれ以上悲しい顔をするのは見たくなかった。
「ヒバリさん、お願いします」
 この際、恥もへったくれもない。気圧されてなるものかと腹に力を込めて必死に声を張り上げる綱吉に、雲雀は口を尖らせ、不満をありありと表明した。
 一寸前までは顔を赤らめていたのに、急にまた、どうして。
 普段の冷たい彼に戻ってしまった理由が分からなくて、綱吉は戸惑いながら、今一度彼に手を伸ばした。
「嫌だって、言わなかった?」
「でも、折角イーピンがお小遣い貯めて買ったんです。ヒバリさんが受け取ってくれなきゃ、俺、帰れません」
 奈々の手伝いを積極的に買って出て、ご褒美の駄賃を今日の為に貯めこんでいた。雲雀に喜んで欲しい一心で、欲しいお菓子や玩具を我慢して来た彼女の努力を、無駄にしたくない。
 切羽詰った声で告げ、漸く掴んだ彼の袖を引っ張る。しかし容赦なく跳ね除けられて、綱吉は右にふらついた。
「ヒバリさん!」
 元から冷たい人だとは思っていたけれど、こんなにも冷淡な人だとは思わなかった。
 どうして彼が好きなのか、益々イーピンが分からない。彼女の為を思うならここで大人しく引き下がり、事の顛末を彼女に語って聞かせてやるのが親切だろうか。
 雲雀への思いを断ち切るよう、説得するべきか。
 声を荒げた綱吉を憎々しげに睨み、雲雀は胸の中に渦巻く言い表しようの無い感情に奥歯を噛み締めた。
 綱吉が腹立たしくてならない。だけれど、自分が何故彼に対して怒っているのかが、分からない。
「帰れない?」
「頼まれたんです、ヒバリさんに渡してくれって。だから、受け取ってくれないと、俺は……」
 肩を上下させて呼吸を落ち着かせ、綱吉は途中で言葉を切って視線を下に流した。
「合わせる顔が無いとか、そういう事?」
「……です」
 必死に雲雀に縋る理由が、他人への思い遣りだとは。思った通りの返事に雲雀は笑みを噛み潰し、ギッ、と臼歯を軋ませた。
 綱吉は黄色いおしゃぶりの赤ん坊を頼りにしつつ、苦手にしている。雲雀も認める強さを持つリボーンに睨まれているのだとしたら、彼のこの態度も頷けた。
 だが、気に入らない。
「ふぅん……」
 腹立ちを胸の奥底に隠し、緩慢な相槌を打って、雲雀は乱れた服装を整えた。肩からずり落ちそうになっていた学生服を引っ張り上げ、埃を叩いて払い落とす。
 表面が少々凹んでしまった箱を気にしながら、綱吉はまたも態度を豹変させた雲雀を上目遣いに見詰めた。
 外は寒い。曇り空、風もそれなりに出ている屋外をガラス張りのドア越しに見やり、彼は盛大に肩を竦めた。
「そうまで言うなら、貰ってあげなくも無いけど」
「本当ですか」
「でも、条件がある」
 嘆息交じりに呟かれた言葉に、綱吉の顔がにわかに綻んだ。嬉しそうに琥珀を輝かせ、身を乗り出して雲雀に一歩近付く。
 そんな彼を言葉で制し、雲雀は黒髪を掻き上げた。
 前に出した靴底でコンクリートの床を削り、ビクリと震えて綱吉は不敵な笑みを浮かべた彼に息を飲んだ。
 風紀委員の言う条件。まさか罰掃除一ヶ月でも言い渡されるのかと背筋が粟立ったが、リボーンから死ぬより辛いお仕置きを受けるよりは、ずっといい。額に浮いた汗をこめかみから顎に滴らせ、綱吉は覚悟を決めて頷いた。
 顔を強張らせ、緊張に満ちた表情を浮かべる彼を笑い、雲雀は安心させるかのように右の掌を上にして、綱吉に差し出した。
 風が起こり、鼻の頭を擽られる。
 涼しげな眼に見詰められて、心臓がどきりと跳ねた。
「ヒバリ、さん?」
「条件は、そうだね。君が、食べさせること」
「……は?」
「聞こえなかった?」
 何をさせられるのか分からず、戸惑う。訳もなく高鳴った心臓に一瞬目をやった綱吉は、続けて前方から響いた声に素っ頓狂な声を上げた。
 伏しかけた視線を前に向け直し、間抜けに口を開いて聞き返す。空耳を疑ったのだが、どうやら違ったらしい。
「え? と、その。出来ればもう一回」
 だがそれでも信じ難く、綱吉は頭にクエスチョンマークを生やしたまま雲雀に頼んだ。人差し指を天に向けて指し示した綱吉に、彼は今までにないほど楽しげに笑い、不意に真顔になった。
「食べさせて」
 ボリュームを落とし、低い声で囁く。摺り足で十センチばかり距離を詰め、腰を屈めて綱吉の耳に息を吹きかけるように告げれば、彼は数秒間凍りつき、油の切れたブリキの玩具のような動きで首を動かした。
 ギギギ、と音が聞こえそうなぎこちなさで雲雀を見上げ、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
 綺麗に澄んだ琥珀を覗き込むと、右に左に泳いでいた焦点があるタイミングで一箇所に定まった。
「なっ!」
 雲雀の出した条件を、今になってやっと理解した模様だ。頭の悪い子だとは知っていたけれど、こうも思考回路に難があるとは思わなかった。
 全く別の事を考えながら、顔を赤くし、頭の天辺から煙を吐いた綱吉を笑う。林檎よりも鮮やかで、瑞々しい色をした頬に触りたくなって、雲雀は無意識に出し掛けた手を慌てて引っ込めた。
「どう?」
 内心の動揺をおくびにも出さず、切れ長の目をもっと細めて問いかける。綱吉に選択肢などありはしないのだけれど、敢えて声に出して訊けば、彼は口をもごもごさせ、手の中の箱と雲雀の顔とを交互に見た。
 すっかり緩んで、解ける寸前のリボンを掴み、唇を震わせる。黙って頷いてやれば、彼の顔はまた一段と赤くなった。
 面白い。見ていて飽きず、雲雀は堪えきれ無くなって声を出して笑った。
「ひ、ひばりさん」
「出来ないなら、貰ってあげない」
「うあ、うぅぅ」
 狼狽えて声を上擦らせる綱吉に、意地悪くトドメを刺す。がーん、と効果音が目に見えるほどにショックを受けてくれた彼の、期待を裏切らない反応は、実に楽しかった。
 笑い止まない雲雀を前に右往左往して、綱吉はリボンを持つ手を伸ばしたり、引っ込めたりした。結び目はどんどん緩んでいって、最終的にはらりと解けてしまった。
 箱の表面を滑った細い布に目を剥いて、彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。包装が一段階減った箱を両手で掲げ持ち、本当にやるのかと重ねて雲雀に問いかける。
 彼はしっかりと頷き、皺だらけの包装紙を小突いた。
「ほら、早く」
「待ってください。あの、此処、で、やるんですか?」
「応接室でもいいけど?」
 泣きが入っている綱吉を急かし、促す。他の条件は認めてもらえそうになくて、彼は返答に首を振った。
 いつ、誰が来るか分からない玄関でやるのは恥ずかしい。が、下手に雲雀のテリトリーに足を踏み込むのも、恐ろしかった。
 行けばきっと、取り返しがつかないことになる。直感でそう悟り、彼は仕方なく箱を裏返した。
 包装紙の端を封じているセロテープを、伸び気味の爪で引っ掻いて剥がす。乱暴に紙を千切っても良かったのだが、それだとゴミが増えるし、イーピンにも悪い気がした。
 珍しく綺麗に外れたテープを内側に折り返して紙に貼り付け、折り目に沿って広げていく。ガサガサ言わせながら包装を取り除くと、残ったのは赤色の箱だった。
 包装紙は地味だったのに、中は意外に派手だ。どういうチョイスなのだろうかと不思議に思いながら、邪魔な包装紙を握り潰してポケットに押し込み、彼は顔の高さまで箱を掲げた。
「あ、これか」
 本体と蓋は別個ではなく、背面で繋がっていた。反対側に切れ目が入っており、そちらにも円いテープが貼られていた。
「まだ?」
「もうちょっと」
 急かされて、若干苛々しながら言葉を返す。あの雲雀に対して生意気だったかと、言った後でひやりとしたが、彼は気にする様子もなく、綱吉の手元を注視していた。
 要らないだのなんだの言っておきながら、矢張り男か、気になるらしい。
 箱に直接貼られたテープは、包装紙を留めていたものとは違って、なかなかに頑固だった。懸命に爪で端を捲ろうと引っ掻くが、ぴったり合わさっていてなかなか剥がれてくれない。
「この、……っと」
 鼻を膨らませて息を吸い、なんとかゼロコンマ数ミリだけ紙から遠ざけるのに成功させる。あとはこれを抓んで引っ張れば終わりだが、そうは問屋が卸さなかった。
「あー!」
「下手糞」
「だったら、ヒバリさんが開けてくださいよ」
 折角捲ったテープ、爪の先で掴もうとしたら、行き過ぎて押し潰してしまった。
 苦労して剥がしたのに、また最初からやり直し。粘着力が弱っているので最初ほど大変ではないにしても、悔しいのには変わりなかった。
 呵々と笑う雲雀を睨み、ぶすっとしながら箱を差し出す。頬を膨らませた綱吉を見下ろして、雲雀は素直に赤い箱を左手で掴んだ。
 おや、と思いながら彼から半歩下がる。雲雀は箱を裏返すと、綱吉が先ほど必死に剥がした部分に人差し指を置いた。
 素早く二回、下から突き上げるようにして爪の先をテープにこすり付ける。ザッ、ザッ、という音が聞こえて、良く見えなくて綱吉は背伸びをした。
 爪先立ちになって、彼の手元を覗きこむ。ただその時はもう、あんなにも強情だったテープは呆気なく箱にさよならし、切れ目の内に潜り込んでいた部分が顔を出していた。
 箱の天地を正しくして、雲雀は慎重に蓋を開いた。
「トリュフ」
 現れたのは、球形をしたチョコレートだった。
 覗きこんで呟いた綱吉に、雲雀も小さく頷いた。白と黒が互い違いに二個ずつ、合計四個入っていた。
 どうりで箱が分厚いわけだ。ポケットからはみ出そうになっていたのを思い出し、綱吉は中身に見入っている雲雀を窺い、踵を下ろした。
 そのままそろり、後退を図ったが、目敏く気づいた雲雀が冴え冴えした笑みを浮かべて目を細めた。
「はい」
「う、やっぱり」
 そのまま自分の手で食べてくれるのを期待したのだが、雲雀は忘れていなかったらしい。差し出された箱を両手で恭しく受け取り、綱吉は霧散した淡い期待に臍を噛んだ。
 蓋が開いたからか、箱からはチョコレートの甘い、良い匂いがした。
 四つとも小粒ながら、どれも美味しそうだ。単純に白黒で色分けがされているだけではなくて、それぞれ片方には切り刻んだアーモンドが混ぜ込まれている。見た目は似通っているけれど、四種類の異なる味わいが楽しめるようになっているのだろう。
 こんなにも高そうなチョコレートをもらえるなんて、羨ましい。少しだけ恨めしく思いながら、綱吉は唇を舐めて左手一本に箱を持ち替えた。
「俺、手、洗ってないですけど」
「泥の中に突っ込んできたわけじゃないだろう?」
 どれから行こうか迷い、そういえば、とひとつ気になった事を口にする。しかし彼はさらりと受け流し、苦々しい面持ちを作った綱吉を笑った。
 逃げ道を悉く封じられ、ぐうの音も出ない。大人しく諦めるのが得策で、彼は肩を落として嘆息すると、アーモンドの入っていない、最もオーソドックスな黒いチョコレートを指し示した。
 雲雀は何も言わず、静かに頷いた。そうして綱吉が人差し指と親指、そして中指も補助に加えて箱から摘み取ると、彼はゆっくり腰を屈め、顔を近づけてきた。
「う……」
「ほら」
「はいはい、分かりましたよ」
 迫る彼の呼気に臆し、及び腰になってしまう。逃げの体勢に入った彼を叱り、雲雀はさっさと寄越せと口をあけた。
 傍から見れば仲良く「あーん」とやっているように見えるのだろうか。近くに誰もいないのを確かめ、綱吉は渋々、弱りきった表情で抓んだチョコレートを彼の方に差し向けた。
「ん」
 ぱくん。
 本当にそういう擬音がぴったり来る動きで、雲雀が直径二センチ弱のチョコレートを口に含んだ。
 いつ手放せば良いのか分からなかった綱吉の指ごと唇で挟み、丸いチョコ菓子を舌で包み取る。柔らかな熱が綱吉の爪先を掠め、遅れてやってきた濡れた感触に、彼は肩を強張らせた。
「ひあ!」
 変な声を発して、大慌てで肘を引っ込める。箱を抱えたままばたばたと音を立てて後ろに下がり、手元に戻すことすら出来ずにいる己の右手で空気を掻き回す。
 一時は治まっていた鼓動がまたしても高らかと喇叭を吹き鳴らし、首から上が真っ赤に染まった。
 だのに雲雀は平然として、綱吉の動揺などまるで気に掛けず、口に入れた甘いチョコレートを噛み砕き、磨り潰し、唾液に溶かして呑み込んだ。
 上下する喉仏と、唇に残ったチョコレートを舐め取る舌の動きをつぶさに見て取って、綱吉は急に背中が痒くなった。
「うん、なかなか」
 しかし片手は箱で埋まっているし、なにより身体が固い綱吉は背中に手が届かない。もの凄くくすぐったいのにどうする事も出来なくて、膝をもじもじさせ、彼は親指の腹を見えるように舐めた青年の声に首を竦ませた。
 千鳥足でふらついている綱吉にやっと気づき、雲雀は怪訝にしながら首を傾げた。
「沢田?」
「た、……食べさせました、から。もう良いでしょう」
 彼の声でハッと我に返り、綱吉は開けっ放しだった口を急ぎ閉ざした。それと同時に行き場を失ったままだった右手をズボンに押しつけ、左手に持った箱を差し出した。
 彼の出した条件は果たした。これで文句は無い筈、と綱吉は何時にも増して艶を帯びた琥珀を潤ませながら、鼻を膨らませて雲雀を睨み付けた。
 それなのに彼は黒髪を掻き上げると、眼前に突きつけられた赤い箱を静かに押し返した。
「まだ残ってる」
「一個やったんだから、良いじゃないですか」
「駄目」
 あんな恥ずかしい真似、二度としたくないのに、雲雀は聞き届けてくれない。きっぱり言い切られた綱吉は口をへの字に曲げて涙を堪え、底抜けに意地悪な風紀委員長を前に項垂れた。
 一体全体、どういうつもりなのだろう。男にこんな事をして貰って、彼は嬉しいのだろうか。
 どうせなら可愛らしい、もしくは美人な女性に頼めばいいのに。こんなちんくしゃで、弱虫の、年下の男にされても、腹が立つだけのような気がするのに。
「…………」
 そこまで考えて、自分の事なのに何故か綱吉はムッとなった。
 自分が何をやってもダメダメの、ダメ人間なのは自覚している。だが一瞬脳裏を過ぎった、雲雀と仲睦まじくしている女性の後ろ姿に苛立ちが生じた。
 其処を退け、と想像上の女性に怒鳴りたくなった。
「次は、それ」
「え? あ、……これですか?」
 ぼうっとしていた。不意に前方から響いた雲雀の声に目を見開き、綱吉はトリップしていた自分に気付いて慌てた。
 何を馬鹿な事、考えたのだろう。内心の動揺を懸命に押し殺し、彼は雲雀が目線で指示した白いチョコレートに人差し指を向けた。
 舐められたのは一瞬だったのに、火傷を負ったみたいに皮膚の奥の方がじんじんする。赤くなっても、腫れてもいない指先をチョコレートと一緒に見詰めて、綱吉は臍を噛んだ。
 さっきから変だ。自分も、そして雲雀も。
「うん、それ」
 確認に頷き、雲雀が顔の位置は変えぬまま、瞳だけを下から上に転じた。
 黒髪の隙間から覗く冴え冴えとした双眸に、自分の姿が映っている。当たり前なのにそれが驚きで、不意打ちの動悸に目眩まで引き起こされ、綱吉は力の入らない膝を奮い立たせた。
 なにもされていないのに、倒れてしまいそうだ。尻餅をつくなんて格好悪い事はしたくなくて、必死に己を鼓舞しながら、言われた白いトリュフをつまみ上げる。
 茶色の敷き紙に別れを告げたチョコレートを目で追って、雲雀が口を開いた。
「あっ」
 今度は指を噛まれないように。その事にばかり気が向いていた綱吉の口から、直後、甲高い悲鳴が飛び出した。
 開き方が足りなかった雲雀の唇にチョコレートが引っかかり、奥に行かずに押し戻された。それに驚いたのもあって、綱吉は咄嗟に、トリュフから指を放してしまった。
 ゴム鞠のように赤い唇から跳ね返されたチョコレートが、ほんの数ミリ上に弾んで、ゆっくりと下降に転じる。支えるものを失ったそれを止める術はなく、綱吉は顔を引きつらせた。
「おっと」
 このままでは床に落ちてしまう。恐怖に青ざめた彼の前で、けれど雲雀は慌てる事なく左手を伸ばし、広げた。
 低い位置でチョコレートを受け止め、緩く握って確保する。指の間を転がった丸い物体に肩を竦め、彼はすっかり怯えきっている綱吉に無事だと教えてやった。
 雲雀の手の中に横たわり、どこも傷つかず、汚れてもいないトリュフに胸を撫で下ろし、綱吉は瞬時に苦虫を噛み潰したような顔をした。
「むぅ」
「次は、そっちの」
「まだやるんですか」
 雲雀は空いた手で赤い箱を示しながら、チョコレートを一度は入り損ねた口の中へ押し込んだ。半分齧って残り半分を顔の前に翳し、中がどうなっているのかを興味深そうに眺める彼に、綱吉は頬を膨らませた。
 自分で食べる方がずっと簡単で、楽で、早い。手が汚れているから触りたくない、というような理由から食べさせて欲しいと言ったわけではないと悟り、綱吉は益々雲雀が分からなくなった。
 ただの意地悪にしては、悪趣味すぎる。
「嫌なら、構わないけどね」
 残り半分を舌に載せ、奥歯で噛み砕いて雲雀が言う。無論、それでは綱吉が困ると知っての言葉だ。
 案の定彼は渋い顔をしながらも頷き、先程指示されたチョコレートを爪で弾いた。
 箱の中身は、あとふたつ。まだ半分、やっと半分。
 人差し指にあった熱は、幾らか弱まって来ていた。背中を襲った原因不明の痒みも、トリュフが落ちそうになった時にすっかり吹き飛んでしまった。
 残るのは指の奥底、そこから身体の中を通して心臓にまで達する奇妙な痺れだけだ。
「なんなんだよ、もう」
 さっきから鼓動が五月蠅くて、頭の中にもうひとつ心臓が出来たみたいだった。耳元で響く轟音が雲雀に聞こえてしまいそうで怖くて、彼はさっさと終わらせようと心に決め、言われたチョコレートを持ち上げた。
 鉛玉でも入っているのか、妙に重く感じられた。
「どうぞ」
「ん」
 今度は落とさないよう注意しながら、恐る恐る肘を伸ばして雲雀に差し出す。彼は当たり前のように受け止めて、膝を屈めた。
 指の背に吐息が降りかかる。肌を掠めた呼気にビクッとしてしまった綱吉を見て、彼は口を開けたまま、ある一定の距離を残して動きを止めた。
 自分から食べに行くのではなく、あくまでも綱吉が食べさせてくれるのを期待している。二秒待っても微動だにしない彼に歯軋りして、綱吉は凹凸のある白いチョコレートを睨んだ。
 長く手にしすぎたからか、体温で表面が溶け始めていた。ぬるついた感触が雲雀の舌が触れた一瞬を思い出させて、彼はゾゾッ、と背中に走った悪寒に鳥肌を立てた。
 なかなかチョコレートを寄越さない綱吉に痺れを切らし、雲雀が半分閉ざしていた瞼を持ち上げて、黒い瞳を覗かせた。
「っ!」
 どこか淫蕩な彩をそこに見出し、覗き込まれた綱吉は顔面から火を噴いた。
「むぐ」
 刹那、思い切り指を突きつけられて、雲雀はいきなり口に突っ込まれたチョコレートに目を白黒させた。
 肩を強張らせ、全身を小刻みに震わせた綱吉が、後先考えぬまま腕を真っ直ぐに伸ばしたのだ。
 幸いにも狙い逸れる事なく、チョコレートは無事に雲雀の咥内に収まった。それと一緒に、これを運んできた綱吉の指もまた、唇を閉ざした彼に食われてしまったわけだが。
「ぬ、む」
「ひぁ、やっ」
 溶け始めて柔らかかったチョコレートは、雲雀の唾液に触れた途端に形を崩し、どろりとした液体に変化した。
 ひと息に飲み込むには量が多くて、雲雀が舌を使って口の中いっぱいに、均等になるように掻き回す。その最中で、前歯に引っかかっていた綱吉の指を舌先が掠めた。
 雲雀にその意図は無かったものの、綱吉に言わせたら、彼にまたも舐められた。僅か三秒にも満たない時間のうちに起こった目まぐるしい出来事に、綱吉は目を白黒させ、声をひっくり返した。
「うあ、あ!」
 慌てて指を引き抜いて、後ろにたたらを踏む。よろけ、バランスを崩した彼は、そのまま右の足首を有り無い方向に曲げた。
 ぐきっ、と来て、気がついた時には視界が急激に沈んだ。
 元からあまり入っていなかった膝の力が完全に抜けて、コンクリートの床に思い切り尻を打ち付ける。後ろに倒れこそしなかったが、尾骨を見舞った衝撃に息も出来なかった。
「イっ、たぁ」
 喉を引き攣らせて悲鳴を押し殺し、固く目を閉じて天井を仰いで痛みを遠くへ追い払う。じっとり浮かんだ脂汗が気持ち悪くて、吐きそうだった。
 心臓は依然鳴り止まず、呼吸は乱れて胸が苦しい。
 自然に湧いた涙で睫毛を濡らして視界を濁らせていると、目の前にふっ、と影が落ちた。
「ヒ……」
 それが誰であるかを理解する前に、掬い取られた右手に熱が生まれた。
「!」
「ン」
 何が起きたのか一瞬分からなくて、二秒後にハッとして彼は手を取り返そうと肩に力を入れた。が、しっかり手首を握られている為、叶わない。
 ゾッとするものが足許から背中、そして脳天に向かって一直線に駆け抜けていった。
 膝を折った雲雀が、目を閉じて綱吉の人差し指を舐めている。それもたっぷりと唾液を含ませて、念入りに、何回も。
 ねっとり絡めとられ、爪の隙間にさえ柔らかな粘膜を押しつけて擽られた。人差し指が終わると、今度は親指に移動する。その寸前、垂れそうになった唾液を吸い取る時、ちゅ、と甘い音がひとつ響いた。
 キスの音、だ。
「な、ななな、んなにっ!」
「ついてたから」
 手を高く掲げられて、舌を広げた雲雀が綱吉の親指を包み込む。冷たくも熱い雫を散らした彼は、顔を赤くしたり、青くしたり忙しい綱吉に、しれっと言い放った。
 なにを、と訳が分からなくて唇を噛み締めていたら、顔を伏した雲雀が最後に指紋の溝を擽って離れていった。
 手首も解放されて、自由が戻ってくる。捕まれていた場所が、そして彼に舐められた場所が焦げ付くくらいに熱くて、骨まで溶けてしまいそうだった。
「なに、考え、て」
「チョコレート」
 息も絶え絶えに呟き、濡れた指先をどうする事も出来ずに宙に泳がせて、綱吉はひとりごちた。互いに床に屈んだ状態で、視界は狭い。まともに彼を見返せなくて、綱吉は左手に握った箱を胸に押し当てた。
 心臓が五月蠅い。破裂しそうなくらいに膨らんで、痛い。
「まだ残ってるよ」
 頭の先からぶすぶす煙を吐いている綱吉とは正反対に、冷めた声を発して雲雀が次を促す。角が潰れて拉げた赤い箱の中には、彼の言う通り最後の一個が、少々居心地悪そうに収まっていた。
 雲雀が口の中で舌を捏ね、下の臼歯の角に綱吉の爪から回収したものを置いた。歯を噛み合わせると、ゴリ、という触感が微かに伝わってくる。アーモンドの欠片を潰して飲み込んだ彼は、まだ舌の根に残る甘い味を唾に溶かし、早く、と俯いている綱吉を急かした。
 蜂蜜色をした前髪の隙間から琥珀の瞳を揺らめかせ、彼は口をもごもごさせた。尻餅をついた状態のままなので、足は膝で折れて左右に広がっている。あまり余裕のないスラックスがぴったりと腿に張り付き、彼の脚の細さを強調していた。
「あの……」
「そういえば、君、貰えたの?」
「ぐ」
 まだやるのかと、何度目か知れない質問を繰り返そうとした矢先、急に雲雀自ら話題を変えてきた。
 いきなり言われて、返答に窮して言葉を喉に詰まらせる。赤かった顔を白くして、上目遣いの視線を右に流した彼の態度が、全てを物語っていた。
 分かりやすい露骨な反応に雲雀は目を丸くし、すぐに相好を崩した。声には出さないものの、笑っている。腹に手を添えて肩を震わせる彼の姿に、綱吉は瞬時に真っ赤になって唇を噛み締めた。
「いいじゃないですか、俺の事は!」
「ふーん。可哀想だから、その最後の一個、君にあげようか」
「えっ」
 今は雲雀宛ての、イーピンからのチョコレートが問題なのであって、他はどうだって構わなかろう。拳を振り回して声を荒げた綱吉は、聞こえて来たひと言にぴたりと停止した。
 思いも寄らない提案に、頭が真っ白になった。
「え……」
「どう?」
 赤い箱を見下ろして、最後の一個に生唾を飲み、綱吉は薄く笑っている雲雀を凝視した。
 彼が美味しそうに食べていたのを思い出し、心が揺れた。
 まだ濡れている右手をぐっと握って、何度も舐められた爪先を擦り合わせる。人の指にこびり付いていた分まで、一滴残らず貪るくらいだから、よっぽど美味なのだろう。
 好意を寄せる女子からはまともに貰えず、人の代役として使い走りをさせられるだけの哀しいバレンタインデーは、綱吉だって出来るものなら遠慮したかった。
 しかし、本当に良いのか。これはイーピンが、雲雀の為だけに用意したものだ。
 それを、いくら貰った当人が許可を下したからといって、有り難う、と受け取るのは心苦しい。なんだか横取りした気分になるし、イーピンへの裏切りにも感じられた。
 チョコレートは欲しい。正直、かなり食べたい。
 箱を膝の上に移動させ、綱吉は溢れ出る唾を何度も飲み込んだ。
「やっぱり、……良いです。ヒバリさん、食べてください」
 だのに口から突いて出たのは辞退の言葉で、チョコレート入りの箱を差し出され、雲雀は面食らった。
 切れ長の目を大きくして、真剣な表情の綱吉を見詰める。探るような視線に居住まいを正し、彼は笑った。
「だって、これ、ヒバリさんに食べて貰いたくて持ってきたのに」
 折角のイーピンの気持ちを踏みにじるような真似はしたくないし、出来ない。例え凶暴で極悪非道と噂される雲雀が相手でも、恋する少女の気持ちは純粋だ。
 自分の気持ちはぐっと我慢して、無理矢理作った笑顔で雲雀に告げる。残る一個も受け取ってくれるよう頼む彼の姿に、雲雀は言葉に詰まらせ、数秒の間を置いて頬を緩めた。
 何事に対しても真摯に真っ直ぐで、自分よりも他人を優先させる。人の意見に流されず、自分というものをちゃんと持っている。
 いったい何処の誰が、彼をダメツナなどと呼んだのだろう。最初に言い出した輩を見つけ出し、地面に這い蹲らせてやりたくなった。
 心の奥底で極寒のブリザードよりも冷たく、地中のマグマよりも熱い感情を滾らせる。外に溢れ出るのは辛うじて防ぎながら、雲雀は強く握った拳を解き、肩の力を抜いた。
 細く長い息を吐き、甘い唇を舐めて綱吉の目を覗き込む。彼は照れ臭そうにしながらも、微笑み返してくれた。
「どうぞ」
「本当にいらない?」
 両手で箱の底を支え、軽く揺らす。中身の無い敷き紙が擦れあい、乾いた音を奏でた。
 再確認する雲雀の目を見詰めて、彼はひと呼吸置いて頷いた。
「そりゃ、ちょっとは食べたいなって、思うけど。でも、これは俺が貰ったものじゃないから」
 どうせ嘘を吐いたところで見抜かれてしまうだろうから、正直な気持ちを素直に吐露する。恥ずかしそうに左斜めを見ながら膝をぶつけ合わせ、最後の一個を盗み見ては、味を想像して唾を飲んだ。
 何度も上下する幼い喉仏を眺め、雲雀は右の膝を起こした。そこに肘を置いて上半身を寄り掛からせて、綱吉を下から覗き込む。
 迫る黒眼に臆し、彼は琥珀の瞳を波立たせた。
「そう」
 雲雀が貰ったものをどうしようと、雲雀の勝手だ。それなのに頑なに提案を拒む綱吉にほんの少し腹を立て、その倍以上感心しながら、彼は赤い箱に収まるちっぽけなチョコレートを見下ろした。
 手を伸ばし、音も立てずに抜き取る。
「あ」
 今まで、綱吉の手からでないと食べないと言い張っていた彼が、自ら動いた。急な方針転換に驚き、綱吉は口をぽかんと開けて、チョコレートの行く先を追いかけた。
 雲雀の長く、しなやかな、それでいて少し骨張った指が表面に粒々を浮かせた黒色のボールを抓み、持ち上げる。張り付いていた敷き紙が端を一センチ程持ち上げ、そこで力尽きて落ちていった。
 アーモンドの欠片が白い点々となって、チョコレートの海を泳いでいる。甘い香りがふたりの鼻腔を擽り、綱吉の喉が鳴った。
 やっぱり、分けて貰えば良かっただろうか。どうせ他に人は居ないのだから、雲雀か綱吉、どちらかが公言しない限り、今日の事が余所に知れ渡る事もない。そして綱吉はこんな小っ恥ずかしい出来事、頼まれたって誰にも教えたりしない。
 雲雀だって、口数は多い方ではないし、雑談に興じる友人もあまりいないのではなかろうか。日頃学校で見かける彼の周囲には、学生服を着た風紀委員が大勢いるけれども、気を許しているのは副委員長の草壁くらいだと、綱吉は思う。
 額に庇のように突き出したリーゼントヘアの男を思い浮かべて、彼は上唇を舐めた。
 何故だろう。先程雲雀と共にいる女性を想像した時と同じ感じが、胸の中に渦を巻いた。
「…………」
 名前の知らない感情に苛立ち、落ち着かない。空箱を抱いたまま胸を掻いた綱吉の前で、雲雀が微笑んだ。
 ドキリとさせられる柔らかな表情に目を見張り、息が止まる。凍り付いた彼を余所に、青年は右に少しだけ首を傾がせて口を開いた。
「ん」
 鼻から吐息を零し、チョコレートを咥内に押し込む。溶けかけた表面が回転して、するりと飲み込まれて消えた。
「あ……」
 思わず声を漏らし、綱吉はゆっくり動く雲雀の唇に唾を飲んだ。
 赤い唇に黒の斑模様が走っている。他でもない溶けたチョコレートを前に知れず舌なめずりした彼を見て、雲雀はふっ、と鼻で笑った。
 膝を床に置き、姿勢を若干前のめりに倒す。迫る影に気付いて綱吉は目を瞬かせ、琥珀を揺らして彼を見詰めた。
 何を笑っているのか分からなくて首を捻る少年に手を伸ばし、彼はその細い顎に指を掛けた。
「え?」
 いきなり触れられて、咄嗟に反応が出来ない。頬に掛かる吐息の熱さに身震いして、首を竦めて逃げようとしたが、巧くいかなかった。
 人差し指一本で身動きを封じられ、顔を上げるように促される。戸惑いに琥珀を揺らし、綱吉は心の中で右往左往した。
 咥内の唾と酸素とを一緒に飲み込み、緊張に肩を強張らせ、彼を凝視する。
 薄く開かれた唇から噎せ返る程の甘い匂いがして、目が離せなかった。
「ヒバリさん……?」
「あげる」
 ちゃんと受け取って、ちゃんと食べた。その上でこれをどうしようと、雲雀の自由。
 黒濡れた瞳を細め、彼は囁き、綱吉に首を傾けた。
 あ、と思ったが何も出来ない。膝から滑り落ちた右手がヒクリと痙攣を起こし、気を取られて緩んだ唇に、温かなものが触れた。
 見開いた目に、雲雀の黒髪が流れ込んでくる。突き刺さる恐怖に負けて瞼を閉ざし、身を竦ませた彼を追って、上唇を噛んだものが動いた。
「んぅ……」
 ぴちゃり、と濡れた音がどこからともなく響く。それは自分たちとは全く関係の無い遠い場所からのようで、恐ろしく近いところから、甘く香る水が弾けた。
 生温いものが唇を這う。蛇に舐められているような錯覚を覚え、身震いして綱吉は息を呑んだ。
 力みすぎた唇に巻き込まれたものが、咥内に忍び込もうと蠢く。縮こまった舌先に届いた熱い液体に、刹那、綱吉は瞠目した。
「!」
 合わせ目を擽った雲雀が、ようやく反応らしい反応を返した綱吉を笑って、舌を細めた。隙間にねじ込んで無理矢理開かせ、ぶつかった前歯をなぞって歯茎を擽る。
 一緒に唾液に混ざって溶けたチョコレートを流し込んで、吐き出さないよう己の口で蓋をした。
「ぅ……はふっ」
 鼻呼吸さえ止めてしまって息が苦しくなった綱吉は眉間に皺を寄せ、唸り声を上げた。が、雲雀は解放してやらず、反対に歯列を割って内側まで潜り込んできた。
 身を乗り出し、しゃがむ綱吉にのし掛かって、合わさりを深くする。口の中から濡れた音が溢れ、いったい自分の身に何が起きているのか理解出来ぬまま、綱吉は声にならなかった悲鳴と共に流し込まれた液体を飲み込んだ。
 喉が焼け焦げそうなくらいに、熱い。
 身体の中から蕩かされる程に、甘い。
「は……」
「ン」
 雲雀の唇が僅かに外れ、隙間から流れ込んだ冷たい空気にホッと息をする。腰の力が抜け、膝は崩れてコンクリートに張り付いていた。赤い箱も床に落ちて横倒しになっており、中にあった敷き紙が微風を受けて遠ざかっていった。
 綱吉の口端から零れ落ちた茶色い液体を、雲雀の舌が掬い取り、自身の唾液で薄めて嚥下した。肩で息を整えている綱吉の、茫然自失とした顔を満足げに眺めて目を細め、親指の腹を唇に押し当ててしっとりと微笑む。
 背筋がぞわりとする淫靡な表情に、綱吉は咄嗟に残っていた甘い液体を噛み砕いた。
 背中がまた痒くなる。いや、背中だけではない。身体中のあちこちが、特に雲雀に触れられ、舐められ、擽られた場所全てが。
 言葉が何ひとつ出てこなくて、混乱の極みに達した綱吉の琥珀を楽しげに見下ろし、彼はチョコレートがこびり付いた親指を不意に前に突き出した。
 逃げたいのに、腰が抜けて動けない。冷たいコンクリートの上でじたばたするしかない彼を低い声で笑って、雲雀は濡れた指を柔らかな唇に押し当てた。
 擦りつけるかのように、ゆっくりと左右に動かす。
「な……」
「ついてる」
 三往復半。行ったり来たりを繰り返した指を音もなく退かせ、入れ替わりに前に出た彼はそう囁いた。
 なにを、と問う暇さえなく、目を閉じた彼の綺麗な顔が目の前に迫った。
「っ!」
 慌てて目を閉じるが、出来たのはそれだけ。今度はただ触れるだけのキスに背筋を粟立て、綱吉は遠ざかっていく熱を追いかけそうになった自分に慌てた。
「じゃあ、確かに貰ったから」
 目を開けるタイミングが分からず、くちづけられた態勢のまま固まっていたら、遠い場所から声がした。
 物音に瞼を開き、瞬きを二度繰り返して視界をクリアにする。この時にはもう、雲雀は空き箱と散ったゴミを拾い、ひとつにまとめて左脇に抱えていた。
 立ち上がった彼との距離が広すぎて、綱吉は今し方起きた出来事が、全部夢だったのではないかと思った。
「ひ、ばり、さん?」
 現実か、否か。判断に苦しみ、戸惑いのまま名前を呼ぶ。
 そんな彼の心情を察してか、彼は目元を和らげ、告げた。
「ご馳走様。美味しかったよ」
「え、あ……は、い。どういたしまし……え?」
 春先に吹く風のように軽やかに流れていった音色に、ハッとして頷く。返礼を述べようとして、その流れがどうにも妙だと、彼は随分経ってから気がついた。
 きょとんと目を丸くした彼に今度こそ破顔して、雲雀はすっかり綺麗になった親指を舐めた。
「早く帰りなよ。じき、暗くなる」
 宿題は終わったのかとも言われて、綱吉は慌てて後ろを振り返った。相変わらずの曇り空は暗く、太陽は見えなかった。
「って、違う。ヒバリさん、今の、ど……あれ」
 はぐらかされた。そうだと思い至って声を荒げた時にはもう、雲雀の姿は正面玄関から消えて無くなっていた。
 五秒にも満たない時間だったのに、なんたる早業だろう。物陰にすら人の気配は微塵もなくて、ひとり取り残された綱吉は唖然とし、叫ぼうとしていた言葉を忘れて口をパクパクさせた。
 閉じて、噛み締めた唇は甘く、そしてほろ苦い。
 苦虫を噛み潰したような顔をして奥歯を摺り合わせた彼は、数秒の間を置いて背筋を粟立て、火照ってどうしようもない顔を両手で挟んで、立てた膝の間に押し込んだ。
「な……なんなんだよ、も~~~!!」
 訳が分からない。
 イーピンに頼まれて雲雀にチョコレートを渡すだけのつもりが、何故ファーストキスどころかセカンドキスまで奪われなければならないのか。それも、よりによって、同性で、学校内では最もお近づきになりたくない相手の、彼に。
 雲雀恭弥に。
 鼻を啜り、涙を堪えて、綱吉は顔を上げた。まだ微かに濡れている唇を手の甲で乱暴に拭い、彼の体温や感触、その他諸々を取り払って、首を振る。
「イーピンに、言わなきゃ」
 あの男だけは、駄目だ。誰が何と言おうと、あの愛らしく心優しい少女に、あの男は釣り合わない。
 あれは、魔性だ。
 彼女がそうだと知って傷つく前に、なんとしてでもあの子の恋心を諦めさせなければ。
「……あんな人に、捕まっちゃだめだ」
 十年バズーカで現れる彼女は清楚で、真面目で、ちょっと抜けているけれど何事にも真剣な、良い子だ。だから、雲雀みたいな最低な男に惑わされて、道を踏み誤って欲しくない。
 生温い唾を飲んで、綱吉は立ち上がった。
「捕まっちゃ、駄目、なんだ」
 繰り返し、まるで自分に言い聞かせるようにして呟く。
 汚れ、乱れた制服をそのままに、彼は覚束無い足取りで歩き出した。ドアを押し開け、寒風吹きすさぶ冬の空の下へ躍り出る。
 は、と吐き出した息は白く濁り、すぐに消えてなくなった。

 鬼さんこちら。
 捕まったのは、だぁれ?

2010/02/12 脱稿