憑代

 麗らかな陽気に包まれる中、どんよりとどす黒い雨雲を背負い、ひとりの少年が項垂れていた。
 開けっ放しの窓からは絶えず柔らかな風が流れ込み、白いカーテンの裾を擽って遊んでいる。鳥の囀りが何処からともなく聞こえて来て、稀に家の前を通る車のエンジン音が響いた。
 階下には子供達が喧しく騒ぐ声が溢れ、猫の額よりは広い庭の物干し竿には大量の洗濯物が揺れていた。
 穏やかな午後である。母特製チャーハンをつい一時間ばかり前に食べて満腹状態は今も続き、午睡を誘う陽光は眩い。
 にも関わらず、彼は机に向かって行儀良く座り、朽ち果てた枯れ木の如く生気を失ってやつれていた。
「どうしよう……」
 彼の目の前には、山のようにうず高く、大量の紙類が積み上げられていた。
 一番下に問題集、その上に参考書、その上に別途問題集から抜き出したテスト形式のプリントが。英語、理科、数学の合計三教科分が塔を成し、今にも彼に向かって倒れてきそうだった。
 風に飛ばされぬよう、プリントの上には重石が載せられていた。それだけが、無言の圧力をかける紙類の中で唯一の癒し的な愛らしさを醸し出している。ただしそれも、他の人が見れば、の話だ。
 この部屋に勝手にハンモックを持ち込み、居座ってしまった自称家庭教師の顔を模したペーパーウェイトである。手作りと思われるが、細部まで手が込んでいて、愛用の帽子にはペットである形状記憶カメレオンのレオンまで乗っていた。
 そんな不敵な笑みを浮かべる生首が、じっと少年を見下ろしていた。
 カメラやボイスレコーダーでも仕込んでいるのではないかと疑ったが、そういうものは表面上は見つけられなかった。しかしリボーンの事だ、油断できない。
「出来るわけないよ、こんなの」
 揃えた膝に置いた手を握り締め、苦々しく呟く。首を振ると癖だらけの髪が左右に揺らぎ、露になった首筋を緩い風が撫でていった。
 沢田綱吉は目下、絶体絶命のピンチに晒されていた。
 昨今の成績の悪さに痺れを切らした彼の家庭教師が、何処からともなく手配した大量の問題集。この、今もぐらぐらと不安定に揺れている塔を、今日一日で突き崩せと言うのだ。
 万年最下位を独走している彼の成績を、ひとつでも上げる為には如何なる努力も惜しまない。それがリボーンだ。しかし実際のところ、努力するのは綱吉であり、赤点ばかりを取って将来苦労するのも、綱吉だ。
 どうせ勉強したところで将来役に立つわけでもなし、最近は開き直り気味で、いっそう机に向かう時間が短くなっていた彼に、リボーンがキレた、ともいえる。これが終わらない限り、綱吉はゲームもテレビも禁止だ。
 リモコンを取り上げられ、スイッチに目張りまでされたテレビを振り返り、また溜息を零す。仰ぎ見たプリントの山の量は最初と変わっていないのに、ちょっと目を離しただけで一段階成長したように感じられた。
 このまま時間を無為に過ごせば、天井に届くまで背が伸びるのではなかろうか。そんな恐ろしいことまで想像して、彼は震え上がった。
「無茶言うよ、リボーン」
 出来るわけがない。既に何度目か知れない溜息をまたついて、綱吉はガシガシと前髪を掻き毟った。
 外は穏やかに晴れて、澄み渡る青空がどこまでも続いていた。ぽっかり浮かんだ白い綿雲のように、自由気ままに過ごせたらどんなにか幸せだろう。
「はぁぁ……」
 一瞬頭に浮かんで消えた、まさしく雲のように何者にも束縛されない人の姿に向かっても溜息を吐き、彼は渋い顔をして上唇を舐めた。
 椅子を軋ませて背凭れに身を沈め、薄暗い天井を見詰める。外が明るいので天井の灯りは消しているが、プリント類に取り掛かる時くらいは、手元を照らすべく机のライトにスイッチを入れるべきだろう。
 目が大きいから遠くも良く見えるだろう、といつだったか揶揄されたのを思い出し、彼は右手で琥珀色の瞳を隠した。
「どうしよう、ほんと」
 心底参ってしまった。
 リボーンがこんな強硬手段に打って出るとは、予想外だった。出来なかったらいったいどんなお仕置きが待っているか、考えるだけで気持ちは沈み、憂鬱になってしまう。同時に勉強する気力も萎えてしまうから、困り者だ。
 机に突っ伏してしまいたいところだけれど、下手にぶつかると塔が真っ逆さまに崩れ落ちてしまう。そういう意味でリボーンは、「これを突き崩せ」と言ったのではない。
 考えるだけで気が遠くなる。意識を失ってしまえたなら、どれほどに楽だろうか。
「何考えてるんだよ、本当。俺の許容量越えてるって、絶対」
 塔の側面を撫でるように指を動かし、爪の先に触れた紙の感触に舌打ちして、綱吉は頭を抱え込んだ。
 逃げてしまいたいが、それでは何の解決にもならない。世界一のヒットマンを自称しているリボーンの事だ、地の果てまでも追いかけて、綱吉の首根っこを捕まえるだろう。
 真面目に取り組むしか、道は残されていない。しかしやる気、というこの世で一番必要なものが欠けている今、綱吉はリボーンの顔をしたペーパーウェイトを取り外すために立ち上がる、というその些細な労力さえ残っていなかった。
 溜息が、ふたつ続いた。
「どうしよう」
「そんなに溜息ついてると、幸せが逃げるよ」
 困り果てた声で呟き、頬を撫でた風に首を振る。磨耗しきった神経は彼の反応を著しく鈍らせ、何処からともなく響いた低音も、聞こえはしたものの、処理を怠った脳はなかなか電気信号を発しなかった。
 吐息は机にぶつかって粉々に砕け散り、足元に落ちて沈殿していく。そのうち溜息の海に沈んで窒息するのではないかと、そんな馬鹿げた事を考えて背筋を伸ばした彼は、ふと目に入ったカーテンから黒いものが伸びているのに今頃気付き、首を傾げた。
 窓枠の下にぶら下がるそれの発生源は、踊り狂うカーテンが邪魔をして見えない。しかし引く波があれば、押す波もある。室内の空気と一緒に外に出向いた白い布は、次いで外から流れ込んだ空気に煽られて膨らみ、はためいた。
 ぶわっ、と綱吉の前髪をも掬い上げたそれに驚き、目を見開く。網膜の水分が持っていかれ、瞬きをした綱吉の向こうで、窓枠に凭れ掛かってひとりの青年が嫣然と微笑んでいた。
 右足だけを室内に入れ、左足は膝を立てて踵で窓枠を踏みつけている。限界まで開いた窓ガラスに足の裏を押し当てて、三角を形作った長い脚に頬杖をつき、艶やかな黒髪を風に流していた。
 綱吉が自分を見たと知るや、切れ長の瞳を細めて首を傾げる仕草を取った。白い開襟シャツからは贅肉とは無縁の鎖骨が覗き、口元には意地の悪い笑みが浮かんでいる。
 先ほど綱吉が見た黒いものとは、彼の右足に他ならない。
「え」
「どうしたの。さっきから溜息ばっかり」
 いったい、いつの間に。まるで気配を感じさせなかった闖入者に、綱吉は凍りついた。それを無視し、雲雀恭弥は不遜な態度を崩さずに質問を繰り出した。
 頬杖を解いた手を握り、人差し指だけを伸ばす。真っ直ぐ向けられて、綱吉は自分の胸を叩き、下を向いて、なんの意味の無い行動に恥かしさを覚えて顔を真っ赤にした。
「ひ、ヒバリさん」
「やあ」
 上擦った声で名を呼べば、ごく自然に雲雀は挨拶を投げ返した。綱吉がひとり慌て、焦っている様を楽しげに眺めて目尻を下げる。
 それからやおら曲げていた膝を伸ばし、窓を跨いで部屋に入ろうとして、襲って来た白いカーテンを叩き返した。
「あ、あ。待って、靴」
「脱いでるよ」
「え? あ、本当だ」
 前のめりになった彼が背筋を伸ばし、左右揃った黒いローファーを見せてくれた。
 紺色の靴下でフローリングに降り立ち、彼は右手に持ったそれを自分でベランダに置いた。今まで何度も綱吉の部屋に不法侵入してきた彼だけれど、土足で踏み込んでこなかったのは初めてだった。
 出そうとしていた手のやり場に困り、中途半端な位置で漂っていたそれで着ていた薄紅のシャツを握り締める。そのまま胸元を掻き毟っていたら、振り向いた雲雀に変な顔をされた。
「なに」
「う、いえ。なんていうか、……調子狂う」
 最後の方は他所を向き、ぼそぼそと自分にだけ聞こえる音量で呟くに留め、綱吉は噛み締めた。
 靴を履いたまま上がりこむのが雲雀の常で、それを注意して脱がせ、預かるのが綱吉の仕事と化していた。だから彼に自分で片付けられてしまうと、身の置き場が無いとでも言うのか、ペースが乱されて、次の一手に出にくかった。
 横目で雲雀を窺うと、彼は肩に羽織った学生服を右手で支え、室内をぐるり一周見回していた。
「ヒバリさん、あの」
「赤ん坊は?」
「リボーンなら、下にいます」
 さっきからランボが喧しく泣いているので、また彼がリボーンにちょっかいをかけて手痛いしっぺ返しを喰らったのだろう。見ていなくとも状況は楽に想像できて、ドッと押し寄せた疲れに溜息をついたら、ドアの方へ行こうとした雲雀が足を止めた。
 くしゃくしゃに髪を掻き混ぜて俯いた綱吉を、やや険のある目で見詰める。が、下向いている彼とは視線が合わず、雲雀は何故か不満げな顔つきで腰に手を当てた。
「沢田綱吉」
「へ? あ、はい」
 呼ばれて大きな目を丸くし、綱吉は手を下ろして顔を上げた。なんだろうか、とフルネームを紡いだ雲雀を見返すが、数秒待っても彼からは何のリアクションも返ってこなかった。
 小首を捻っていると、益々雲雀の表情が険しさを増す。無言で怖い顔で睨まれて、綱吉もまたムッとした。
「なんですか」
「溜息」
 用事がなければ呼ばないで欲しい、ただでさえこちらはリボーンから出された課題で気が滅入っているというのに。
 余計な気遣いまでしたくなくて、綱吉は声を荒立てた。それをぴしゃりと叩き落し、雲雀は唐突に、単語だけを口にして唇を閉ざした。
「ため……え?」
「ついてたでしょ」
 脈絡の無い彼の台詞に、反対側に首を傾げた綱吉はきょとんとした。
 雲雀が苛立ちを裏に隠し、言葉の積み木を積み上げていく。単語ぶつ切りの彼の台詞を総合するに、綱吉が溜息をつくのが気に入らないらしい。
 ならばそう言えば良いのに、回りくどい事をする。無駄に頭を使わされて、綱吉は椅子に座ったまま肘で机を叩いた。
「あ、あっ、やば!」
 衝撃は当然、机上にあったプリントの塔にも及んだ。
 突発的な地震に細長いそれはぐらぐらと揺れた。下よりも、上の方がより揺れが大きい。リボーンの顔をしたペーパーウェイトが、慌てふためく彼を嘲笑うかの如く、紙の上を左右に滑っていた。
 雲雀にもそれは見えており、何がなんだかよく分からないまま、兎も角方向転換をして大股に綱吉の方へ駆け寄った。右手を伸ばし、崩れそうになっている紙の山を横から押さえ込もうとしている華奢な少年の背後につく。
「なんなの、これ」
 あと一秒でも遅ければ凄まじい雪崩が起こっていただろうものを、真上から全力で押し潰す。圧力を受け、それは手前に僅かに傾いだ状態で停止した。
 真後ろから響いた低音にも、綱吉は咄嗟に返事が出来なかった。最悪の状況は回避されたが、綱吉、雲雀の両者で支えられている塔は、ちょっとでも気を抜けばまた崩れてしまうぎりぎりのところで保たれていたからだ。
「うぁ、の、その、えっと。まあ、……いろいろと、ありまして」
「放すよ。押し上げて」
 どうにか返事をしようと切れ切れに言葉を連ねた綱吉を無視し、雲雀は早口に捲くし立てた。
 雲雀が手を緩め、その瞬間綱吉が斜めになっている塔を押して真っ直ぐに戻す。そうすれば倒壊は回避できるが、タイミングが難しい。
 合図も何もくれず、いきなり言った彼に背筋を凍らせ、綱吉はこめかみよりも少し高い位置を横切っている雲雀の腕を見た。
 椅子の背凭れを挟んで直ぐ其処に、雲雀が居る。思わず頬を赤く染めた綱吉は、恥かしさから下を向こうとして両手に掛かった紙の重みに慌てて視線を跳ね上げた。
 ゆっくり押し返し、抵抗が弱まったところでホッと息を吐く。参考書とプリントの山は、最初に比べて幾らか不恰好になったが、どうにか崩れる事無く机に戻された。代わりに一番上にあったペーパーウェイトが、悔しがっているのかカコン、と音を立てて下に落ちた。
 裏返ってくるくる周り、停止したそれを雲雀が拾い上げる。彼の細くしなやかな指を盗み見ていたら、窓から紛れ込んだ風に攫われて、プリントが数枚飛んで行ってしまった。
「あっ」
 頭上を泳いだ紙切れに、綱吉が仰け反った。同じものを追った雲雀が、手にしていたものを急いで頂上に添え、更なる被害を未然に防いで踵を返す。
 椅子を引いて立ち上がろうとしていた綱吉は、中腰の状態で彼が散った紙を拾う様を、苦虫を噛み潰す顔で見守るしかなかった。
「なに、これ」
 裏向いていたものをひっくり返し、ザッと目を走らせた雲雀が呟く。綱吉はいたたまれなくなって椅子に深く座り直し、両膝に手を揃えて軽く握った。
 雲雀が自分を見ているのを背中で感じながら、顔を伏して言い訳を懸命に考える。顔は勝手に赤くなり、熱を持った肌からはダラダラと嫌な汗が滲んだ。
 聡い彼の事だ、その一枚だけで綱吉の前に置かれているものがどんな目的で、誰が用意したものか、瞬時に理解してしまったに違いない。それを証拠に、呆れているのだろう、雲雀は黙ったまま何も言わなかった。
 馬鹿にされる。悔しいが、それが綱吉の現状だった。
「ふぅん」
 やがて、どれくらいの時間が過ぎた頃か。十秒か、一分か。精神的には十分以上経過したような気持ちで、綱吉は雲雀の緩慢な独白を聞いた。
「それで、さっきからあんなに」
 なにやら勝手にひとりで納得している。視線を持ち上げ、綱吉はわざと足音を立てて近付いてくる雲雀の気配にあわせ、斜め後ろを振り返った。
「ヒバリさん」
「赤ん坊に、やれって?」
 丸めた紙で頭を叩いた彼に言われ、綱吉は首を引っ込めた。椅子の上で小さくなった彼を笑い、雲雀は机の平らな面にプリントを置き、近くに転がっていたシャープペンシルを重石代わりに添えた。
 英語の長文問題を記した書面が見える。サッと目を走らせてみたけれど、異国の言語などちんぷんかんぷんだ。
 絶対達成不可能な課題を出したリボーンを思い出し、頬を膨らませて綱吉は拗ねた。子供じみた態度に雲雀は目を細め、四方八方に跳ねている彼の髪を掻き回した。
「良くないね」
「……どうせ」
 椅子の背凭れに断りなく肘を置き、そちらに重心を傾けた雲雀が呟く。
 それが綱吉の頭の悪さに向けて発せられた言葉だと解釈し、綱吉は不貞腐れた声を出して唇を尖らせた。しかしこの反応が彼には予想外だったようで、彼の体重分沈んでいた背凭れが急にガシャン、と音を立てて元に戻った。
 脊椎にぶつかってきたクッション部分に驚き、綱吉が顔を上向かせる。雲雀は表現の難しい顔をして手で口元を覆い隠し、視線を外に向けてから首を振った。
「君じゃないよ」
「え?」
「赤ん坊が、ね」
 リボーンの過大なる興味を抱いている雲雀にしては、珍しい。ただ若干言いづらそうにしていたので、言葉にする前に、綱吉に自力で気付いて欲しかったという空気は感じられた。
 その辺にも反感を覚え、綱吉は面白く無いと椅子の座面を握って脚を前後に揺らした。
「綱吉?」
「だったら、リボーンに、何か言ってくださいよ」
 どうせ自分の味方にはなってくれないのだ、彼は。
 綱吉の理解力のなさ、読解力、応用力の低さは彼も充分知るところだ。並盛中学校の平均点を下げる要因のひとつである綱吉は、学内を取り仕切る風紀委員長たる雲雀にとっても、悩みの種のひとつだった。
 千本ノックならぬ千枚プリントを達成できれば、少しは学力がつくのではなかろうか。おおよそ、リボーンや雲雀が考えそうなことだ。
 最後に見限るのなら、期待を持たせることは言わないで欲しい。椅子を蹴った弾みで横に泳いだ脚が雲雀の脛を蹴り、左にずれた彼を睨んで綱吉は吐き捨てた。
 ドア、つまりは廊下を指差し、早く行けとばかりに肩で押す仕草をする。雲雀は苦笑し、誤魔化すように綱吉の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「ヒバリさん」
「まあ、そうだね。赤ん坊の気持ちも分かるし」
「ほら、やっぱり」
「量が多いから、減らすくらいは言ってあげてもいいけど」
「十分の一」
「ダメ、半分」
「えーー」
 綱吉の条件は即座に却下され、代わって提示された分量に彼は不満の声をあげた。
 半分といっても、相当な量だ。しかし確かに、十分の一では少なすぎるとも思う。乾いた唇に指を這わせ、無数の襞を爪で引っ掻き回し、綱吉は思案に眉根を寄せて黙り込んだ。
 眉間に皺が走る。横に居る雲雀が途端に険しい顔をして、手を伸ばした。
「うっ」
 いきなり前髪を梳き上げられ、額に触れた人肌のぬくもりに吃驚し、綱吉の手首が落ちて机の角にぶつかった。
 首もゴキッと鳴って、どちらも痛い。突然無体を働いた雲雀を横目で睨みつけ、いったいなんなのかと彼は鼻から息を吐いて奥歯を噛み締めた。
「ヒバリさん」
「眉間、皺」
「だから、もう。なんなんですか」
「やっぱり赤ん坊に言ってくる。あと、紙、ある?」
「ここに幾らでも」
 これ見よがしに綱吉は山積みのプリントを指差し、膨れ面で言った。
 雲雀は肩を揺らして笑い、其れはダメだと首を振って、鋏も一緒に貸してくれと依頼品を増やした。
 何がしたいのか、さっぱり分からない。綱吉は不機嫌を隠しもせず、整理整頓が行き届いているとは言い難い抽斗を開けた。
 ごちゃごちゃと色々なものが押し込まれ、明らかに不要と思われるゴミまで顔を出している中を両手で漁った彼は、雲雀がお望みの無用の紙を見つけ、引き抜いた。
 裏を返せばそれは、懸賞応募用の葉書だった。応募期間はとっくの昔に過ぎ去っており、必要枚数に足りなかった応募券が寂しげに、裏面に糊付けされていた。
「ちょっとは片付けなよ」
「ほっといてください。もう」
 最後のひと言は、自分に向けての苛立ちだった。
 横長の抽斗を机に戻し、今度は右側の脇机最上段の抽斗を引っ張りだす。文房具類を中心に押し込められているので、鋏は簡単に見付かった。前回使用時に何を切ったのか、刃の部分が若干べたべたした。
「どうぞ」
 くすんだ銀色部分を握り、柄を雲雀に差し出す。彼は笑いを噛み殺して受け取り、利き手人差し指と親指を輪に通して残りの指で側面を支え持った。
 何を作るつもりなのだろうか、そんな紙切れ一枚で。
「ちゃんと真面目にやるんだよ」
「ちぇ」
「赤ん坊には交渉してあげるから」
「半分?」
「そう、半分」
 学生服の裾を尻の下に敷き、机の角に腰を寄せた雲雀が説教を垂れた。綱吉は露骨に舌打ちし、ケチと心の中で呟いて、椅子を後ろに引いた。
 雲雀の手元を覗きこむが、なかなか鋏は動かない。長方形の紙に指を置き、切り抜く形の目星でもつけているのだろうか、彼は時々口を開閉させ、上唇を舐めた。
 頂上が見えない塔を半分の高さにしてもらえるだけでも、充分有り難いと思う。しかし、道程が半分になったとしても坂道の険しさは変わらないのだ。苦難を想像するのは簡単で、綱吉は肩幅に広げた脚の間に手を置き、行程を思い描いて肩を落とした。
「はぁぁ……」
 深く溜息を零し、項垂れる。
「ほら、また」
 晴れ渡る空とは正反対の雨雲を背負った彼に、横から雲雀が咎める声を出した。
 なにが、「また」なのだろう。分からない顔をして視線を持ち上げた綱吉に、彼は机に寄りかかったまま肘を引き、紙に咬ませようとしていた鋏を外した。
「ヒバリさん」
「溜息、ついたでしょ」
「ああ」
 人の顔をじっと見詰める彼に首を傾げると、雲雀は右手も机に下ろして綱吉の方へ上半身を傾けた。
 腰を捻って斜めから覗き込んできて、反射的に綱吉は後ろに避けてしまった。ただ雲雀はさして気にした様子もなく、姿勢を戻して左足で机を蹴った。
 ガン、と低い音が響く。綱吉が蹴った時とは音程が違う気がするから、不思議だった。
「そりゃ、溜息も出ますってば」
「幸せが逃げるよ」
 この課題の量を見ろ、と聳え立つ塔を手で示して綱吉が声を大きくする。だが雲雀はそちらには目を向けず、風を仰いだ紙を胸の前にやって、角に鋏を押し当てた。
 淡々と告げられた俗信に、綱吉は目を瞬いた。
「ヒバリさんって、そういうの、信じるんですか」
 並盛中学、果ては並盛町を暴力と恐怖で支配し、神も仏も恐れないとまで揶揄される彼からは、想像もつかない。意外だと驚きを隠さない綱吉をちらりと見て、雲雀は緩く首を振った。
「信じるもなにも。目の前で溜息ばかりつかれたら、誰だって気が滅入るだろう」
「あ、ああ……それは」
 確かに彼の言う通り、たとえ自分に関わる以外の内容であっても、同席者に溜息を連発されたら空気が重くなってしまう。なにも悪くないのに、自分が悪いような気持ちにさせられてしまう。憂鬱が伝染して、楽しい気持ちも半減だ。
 気にしなければ良い話だが、ふたりきりでは顔を逸らすわけにもいかないので、防ぎようが無い。かといってひとり出て行かれてしまうと、相手も避けられたと思うだろう。
 どちらにせよ、悪循環だ。
「気の持ちようだろうけどね」
 顎を掻いて視線を伏した綱吉の前で、雲雀は喋りながら器用に鋏を動かした。下書きもなしに、頭の中で描いた図を切り抜いていく。
 出来上がったのは、人の形だった。手足の長さが左右で違っており、頭も不恰好な楕円であるものの、一応人を模したもの、というのはぎりぎり伝わってくる。彼はそれを右手に残し、余った紙と鋏を机に置いた。
「なんですか、それ」
「ひとがただよ」
 きょとんとして綱吉が首を傾ぐ。雲雀は紙人形の首の部分を握り、二本足で立って綱吉の横に移動した。
 答えを教えられてもピンと来ないでいる彼に肩を竦め、雲雀が視線を浮かせて別の言葉を探す。
「形代と言って、分かる?」
 数秒置いてから言い換えた彼だけれど、余計に意味が分からなくて綱吉は首を振った。
 無知な彼を叱らず、ただ少し呆れ、雲雀は印刷が模様になっている形代を差し出した。両手で受け取り、綱吉がまじまじと見詰める。裏を返してみるが、目だって変なところは見付からなかった。
 鋏を切り返す際、少し切りすぎた棘に指を押し当て、細い筋を弄り回す。触っているうちに折れ曲がり、接点が弱くなって千切れてしまった。
「ああ」
 しまった、と口を大きく開けて綱吉は息を吐いた。すると傍らで見守っていた雲雀が、不意に手を伸ばして綱吉から形代を奪い取った。
 最初抵抗し、一秒弱の間を置いて手を放した綱吉は変な顔をした。雲雀はひとり満足そうで、綱吉の息が吹きかかった紙人形を顔の前に翳していた。
「なんなんですか、それ」
「だから、形代だよ」
 これで今、綱吉の中にある悪い気や、災いを招くものがこちらに移った。そう嘯き、彼は絶えず吹き込む風に形代の脚を躍らせた。
「えーっと……」
「人の穢れを形代に移し変え、これを燃やす、または水に流すことで災禍を祓う。雛人形も、昔はそうだった」
 意味を理解しかねた綱吉に目を細め、雲雀が滔々と、歌うように言った。
 その話ならば、聞いた事がある気がした。男子の綱吉にはひな祭りなど縁遠いが、季節が近付くとテレビのニュースなどでそういう話が毎年のように流れている。どこかで耳にした事のある祭事を脳内に呼び起こし、綱吉は雲雀の手の中にあるものを物珍しげに眺めた。
 教えられると、捨てる葉書を使った形代も、特別なものに思えてきた。ましてやそれには、綱吉の呼気がこめられている。
 もうひとりの自分、と言うのは少し大袈裟だろうが、分身と呼べるものであるのは、雲雀の弁から疑う余地は無い。
「変な感じ」
「これで君の嫌な気持ちや、溜息の原因はこっちへ移った。後は、ほら、さっさとやる」
「うえぇ?」
 唐突に左手を伸ばした雲雀が、綱吉の頭を鷲掴みにしてぐりん、と首の向きを強引に入れ替えた。
 机と対峙するように命じられ、あの巨大な塔が再び彼の前にそそり立つ。苦虫を噛み潰した顔をして非難の声を上げた綱吉は、上から人を押し付けている青年を恨めしげに睨み、結局はこうなるのかと肩を落とした。
 溜息が出そうになって、慌てて両手で口を覆う。
「半分ね」
「はぁい」
 全部はやらずとも構わないと繰り返し、雲雀は手を放した。首が楽になり、肩を回して骨を鳴らした綱吉は、人形を手にした雲雀が淡く微笑む様を下から見上げ、瞬間、パッと顔を赤く染めて行儀良く畏まった。
 ちょっと歪んだ丸い部分、即ち頭を意味する箇所に、彼が一瞬キスをするのが見えた。
 相手は紙を切って作ったただの人形で、綱吉ではない。だのにまるで自分がくちづけられたみたいにドキドキして、胸が高鳴ってどうしようもなかった。
 気がつけば口が変な形に曲がって絶えず動き、左手は動悸も激しい心臓を頻りに擦っていた。落ち着きなく、そわそわと椅子の上で貧乏ゆすりをする彼を笑い、雲雀は胸ポケットに綱吉の人形を大事に仕舞いこんだ。
 布の上から軽く二度叩き、その手で本物の頭をくしゃりとかき回す。
「ヒバリさん?」
「赤ん坊に言ってくるよ。それで、ちゃんと君が終わったら」
 慈しむ手つきに顔をあげ、綱吉が振り返った。
 雲雀は玄関代わりにした窓に目を遣り、白いカーテンの向こうに見え隠れする青空を仰いだ。
「川へ流しに行こう」
 一緒に。
 囁きが風に溶けていく。綱吉は目を見開き、やがて涼しい風に前髪を躍らせた青年に気の抜けたような、ふにゃりとした笑顔を返した。
「はい」

2010/01/17 脱稿