酒の力を借りてしまうのは、狡いことだと常々思っている。
それでも無意識に酒杯に手が伸びて、気がつけば空っぽの酒樽が床に転がっているような状態になるのもしばしばだ。これは宜しくないと、翌朝ズキズキ痛む頭を抱えながら反省の色を多少なりとも浮かべるのだけれども、酔いが醒めればなんとやらで、いつの間にか剣、もしくは羽筆を握るべき手には、酒瓶が握られていた。
「……いかん」
そして今夜もまた、例の如く飲み過ぎた。
バルバッドでの一件の後、シンドリア王国は新たに三人の食客を迎え入れた。うちひとりは創世の魔法使いことマギのアラジンであり、またひとりはバルバッドの元王子であるアリババだ。
シンドバッドは己が国の利益の為、ひいては世界を乱している元凶たる組織に対抗する為に、彼の国の存続を願った。
今や煌帝国の存在は、あらゆる方面で無視出来ぬものとなっている。これ以上あの国に、過剰な軍事力を与えればどうなるか、無知な子供でも想像が出来よう。
僅か数年前までは大陸の片隅の、小さな国でしかなかったものが、今や内陸の草原地帯の大部分を支配下に置いている。それに加えて今度は制海権を得ようと、あれこれと水面下での画策が絶えない。
バルバッドでの騒ぎは、その野望とも言うべき目論見が、一気に表沙汰になった事件だった。
シンドリアは海洋国家だ。もしバルバッドのみならず、大陸の玄関口にあたる港湾を持つ国々が煌帝国の傘下に下った場合、いったいどうなる。
考えるだけで頭が痛くなった。
先手は打っている。いくら煌帝国とて、七海連合の存在を無視してまで海に繰り出して来ることはあるまい。
問題なのは、シンドバッドの手が届かない一帯だ。
「いかんな」
頭の中に、即座に地図が浮かび上がった。
自ら立ち上げた国を中心に据えて、視点を北に移していった彼は、塗り分けられた大地のあまりの広大さに目眩を起こし、頭を掻きむしった。
お陰で巻き付けていたターバンが緩み、外れてしまった。床に落ちた布の塊を一瞥して、彼は転がっていた酒樽と一緒に隅の方へと蹴り飛ばした。
明日、ジャーファル辺りに見付かって、怒られるに違いない。だが酒の力のお陰か、些か気が大きくなっている。どうとでもなるさ、と投げやり気味に両手を広げると、そのままばたり、腰掛けにしていた寝台に仰向けに寝転がった。
暗い天蓋に向かって利き腕を伸ばし、なにもない空間を握り締める。
「俺は、狡いなあ」
ぼそりと呟けば、生温い潮風が酒臭い室内に迷い込んできた。
寝台をぎしりと軋ませてゆっくり起き上がり、シンドバッドは気怠げに頭を振った。首に絡みつく髪の毛を弾いて払い除け、些か靄がかかった頭の中でふと思い浮かんだ金色に、眩しそうに目を細める。
今思えば、あの時の自分の判断は、大きな間違いだった。
押しつけてしまっただろうか。人の上に立てる器だと見込んだからこそ、囲い込むべく行動に出たのだが、結局それが、あの子を急がせてしまったような気がしてならない。
否、結果的にはこれで良かったのだ。自分が思い描いた未来がもし、あの場で実現していた場合、きっと失うものの方が多かったに違いない。
たとえば。
「……ああ、いかんな」
くらりと揺れた視界、垣間見た笑顔の幻。
思わず口元を手で覆い隠すが、なにも吐き気を覚えたからではない。酔いとは違う理由で仄かに赤らんだ頬を誤魔化して、彼はぺちり、額を叩いた。
深く長い息を吐き、肩幅に広げた膝に両手を添えてゆっくり身を起こす。長く腰を預けていた寝台は酔っ払いの汗を吸い、触れると気持ちが悪いくらいに湿っていた。
今夜は此処で眠りたくない。そう正直に思えるくらいには。
少し夜風を浴びて、酔いを覚まそう。
後々見付かっては困る酒樽達を寝台下の、狭い隙間へと足で押し込んで、彼はのろのろした足取りで薄暗い部屋を出た。
見張りに立っていた衛兵が、内側から開いた扉に反応して背筋を伸ばした。
「どちらへ」
「散歩だ」
お決まりの会話を緩く交わし、畏まった男に見送られて見晴らしの良い通路を行く。月明かりを浴びて、等間隔に並ぶ柱の陰が梯子のように続いていた。
明るさと暗さが交互に連なる道を、足音も立てずに黙々と進む。夜風に当たるだけならばその場に足を留めてしまえば良いものを、身体は自然動き、一箇所に安住させてくれなかった。
考えても、考えても、答えなど出ない。
何が最善で、何が最良か。
何が迂愚で、何が愚案か。
やってみなければ、なにも分からない。間違っていることを正しいと信じ、愚直に突き進んだ末に敢え無く崖から転落していった奴らならば、いくらでも知っている。
そしてあの子もまた、その道を辿る筈だった。
だが、予想は覆された。
あの場でシンドバッドが取り得る最良の策の遙か上を、軽く飛び越えていってしまった。保護する為に鳥籠を用意したつもりが、あっさりと飛び立たれてしまった。しかも逃げもせずに、空っぽの籠の上に停まって無邪気にどうしたのか、と小首を傾げながら見つめて来る始末。
「いかん」
自分への戒めとして繰り返し呟き、シンドバッドは足を緩めた。知れず早歩きになっていた。だがもう夜も遅い時間だ、見回りの兵士くらいしか城内を出歩く人間はいない。
真っ直ぐどこかへ突き進む王の姿を、何人かの兵士が目撃したが、酒癖と女癖の悪さが取り柄のひとつとも言える彼だ、誰もこれを不思議とは思わなかった。
きっと気に入った女の所にでも行くに違いない。柔らかな胸に顔を埋め、しなやかな腕に抱き締められて幸せな夢を見て眠りに就くに違いない、と。
されど。
「アリババ君!」
「うわあ!」
彼が勢い任せに開いた扉の中にいたのは、蝋燭の照らす細い明かりの下で読書に勤しんでいたあどけなさを残す少年だった。
寝台に腰を預け、頬杖をつきながら書を広げていた彼は、突如現れた男に吃驚仰天し、抱えていたものを床に滑り落とした。
慌ただしく瞬きを繰り返して、手元が空っぽになっているのに気付いて急いで床に膝をつく。四つん這いになって大事な書物に傷が出来ていないかを確かめると、見るからに安堵の表情を浮かべて頬を緩めた。
「ああ、良かった。破れでもしたら、ジャーファルさんに怒られるどころじゃないし」
「アリババ君」
「え? あ、……シンドバッドさん?」
星月の明かりが窓から入ってくるとはいえ、室内は足許が覚束無いくらいに暗い。唯一の光源である蝋燭から離れると、その分闇が広がる空間で、互いの声だけで相手の位置を把握し、アリババは首を右に倒した。
大股で近付いて来る人影が、灯明の照らし得る範囲に入った。現れた背の高い男は少々肩に力が入っており、頬は強張って、怖い顔をしていた。
見下ろされて、大事に書を抱え上げたアリババは怪訝に眉を顰めた。
シンドバッドはこの国の王で、七海の覇王とも呼ばれる存在だ。バルバッドの混乱の際には、アリババの行く先を示し、背中を押してくれた人物でもある。
偉大にして、思慮深き王。世界各地に出現している迷宮を次々攻略し、比類無き力を手にしておきながら、その力を誇示するわけでなく、どこまでも気さくで心優しい。
その彼が、何故だか分からないが、怒った顔をして自分を睨んでいる。
尊敬し、憧れて止まない人からの突然の仕打ちに動揺して、アリババは息を呑んだ。戸惑い、なにか大きな失態をしただろうかと混乱する頭で懸命に考える。
鍛錬が巧くいっていないと、シャルルカンに言われたか。今のままでは、とてもアル・サーメンの野望を打ち砕くなど叶わないと、見限られてしまったか。
嫌な予感と想像に身が竦んで、言葉すら出てこない。カタカタと音に聞こえそうなくらいに震えている彼にハッとして、シンドバッドは長く凝り固まっていた頬の筋肉に電流を走らせた。
瞬きをして、床にへたり込んでいる少年に気づき、急いで首を振る。
「アリババ君」
「すみません、俺。全然、上手く出来なくて。シンドバッドさんの期待に、ちっとも応えられてないから」
「……は?」
怖がらせてしまったのを詫びようとした瞬間、アリババが堰を切ったように喋り出した。
ジャーファルから借りた書をぎゅうっと抱き締めて、子犬のような眼差しで言葉を連ねていく。暗がりの中でもはっきりと見える金髪が、か細い風を受けてふわりと舞い上がった。
南洋出身者とは異なる白い肌に、蝋燭の赤い炎が浮き上がる。血色が悪く見えるのは、きっと日の光が届かないからだ。
何を言われているのか一瞬分からなくて、シンドバッドは当惑を顔に出した。
冷たい海水を頭から浴びせられた気分で、酔いは一瞬で消えてしまった。蹲ったまま泣きそうになっている少年をじいっと見つめて、彼はやおら、膝を折った。
たっぷりの布を使った上着の裾を踏まないように広げて身を沈め、目線の高さを揃え、幼さと精悍さが混じり合う端正な顔立ちをじっくり眺める。
「……シンドバッドさん?」
どうにも様子が変だと、アリババが首を傾げていたら、
「アリババ君」
「うわあ!」
いきなり、抱き締められた。
目の前が闇に染まって、変なところから声が出た。吃驚して飛び上がった体躯を腕の中に閉じ込めて、シンドバッドは久方ぶりに触れた他人の体温に安堵の息を漏らした。
鼻先に触れた吐息が、特有の臭いを含んでいると知り、アリババは汗臭くもある男の肩を叩いた。
「お酒臭いです。酔ってますか?」
誰かと間違えているのではないか。そう叫んだ彼に幾らか機嫌を損ねて、シンドバッドは何故自分が不快になるか考えようとして、途中で面倒臭くなって止めた。
今は兎に角、この腕に抱く体温が、ただひたすらに心地よかった。
「シンドバッドさんってば」
「俺は、アリババ君。狡いんだ」
「……なんですか?」
拘束を解いて脱出を試みる、一回りも年下の子供をぎゅうぎゅうに抱き締めたまま、呟く。上手く聞き取れなかったアリババは普段よりもずっと高い声を響かせて、アルコールと汗が混じり合った空気を吸い込んだ。
噎せてしまった少年の背をトントン叩き、シンドバッドは少しだけ束縛を緩めた。逃がさぬようしっかり捕まえて、脆弱な肩に額を預け、寄り掛かる。
頭ひとつ分以上大きい彼に凭れられてしまい、アリババは対応に苦慮して、尻を床に落とした。借り物の書を傷つけぬよう床に下ろし、膝を広げて足を投げ出せば、丁度シンドバッドの腰を跨ぐ形になった。
それがどうにも、幼い頃に母に抱かれていた時の格好に似ているものだから、微妙に気恥ずかしくてならない。
「どうかしたんですか、シンドバッドさん」
「俺は、ダメな大人なんだ」
「はい? 何の話です?」
「狡くて、情けなくて、格好悪くて、どうしようもなく愚かで、惨めな奴なんだよ」
前振りもなく唐突に告げられて、酔っ払いというものは本当に始末に負えないと、シャルルカンに度々連れ回されているアリババはそうっと吐息を零した。
耳を澄ませば、虫の声が聞こえる。賑わっているのは朝まで営業している酒場くらいなもので、勿論そちらの騒ぐ声は王城までは届かない。
静かすぎる空気に、自分の心臓の音だけがいやに大きく響いた。
ここのところ、シンドバッドは政務に忙しそうだった。外交で長期間留守にしていた影響で、あれこれ仕事がたまっていたらしい。
内政の多くはジャーファルが引き受けているものの、国王の判無しに動かせない案件というものは、結局シンドバッドに任せなければならないわけで。
酒を飲んでいるうちに気が緩み、普段隠している本音や、愚痴が想わずぽろりと転がり落ちてしまうというのも、よくある話だ。
ここのところシャルルカンと良く外に飲みに行くのもあって、酔っ払いの扱いについては、随分と慣れて来ている。あまり嬉しくないのだけれど、とは言わずにおいて、アリババは頬を擦りつけて来た男に、恐る恐る手を伸ばした。
広い、大きくて逞しい腕に触れて、両手をきゅっと結び合わせる。猫背に丸くなった背の中心に熱を覚えて、シンドバッドは身じろいだ。
顔を上げると、照れ臭そうに笑う少年が見えた。
「俺は、そうは思いませんけど?」
酔いどれの話は、聞き流してしまうのが一番良い。真に受ける方がどうかしている。
大袈裟すぎるシャルルカンの武勇譚を思い出しながら、アリババは頬を緩めた。
「シンドバッドさんは、格好良いですよ。国の為、みんなの為に一所懸命なの、俺は知ってます。みんなを守れるのなら、ちょっとくらい狡いことしたって良いじゃないですか。嫌な奴に嫌なことを言われて、それでも愛想笑い浮かべてなきゃいけない時があるのは、俺も知ってます。でもそれは、全然情けないってことじゃなくて、格好悪いことでもないです」
シンドバッドの存在は、この世界に於いて、最早無視出来ない程に大きい。
だが彼が此処に至るまでには、アリババの知らない様々な苦難があった筈だ。辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、それこそアリババがこれまでに経験したその全てを十倍にしても、足りないくらいに。
失敗だってあっただろう。過去を悔やみ、未来に絶望し、途方に暮れて立ち尽くした日もあったかもしれない。
道に迷ったアリババの背中を支え、進むべき方角を指し示してくれたのは、彼だ。アラジンやモルジアナの存在も、言わずもがな。
どれだけ酒癖が悪かろうとも、女癖が悪かろうと、アリババにとって彼は命の恩人であり、幼き頃よりずっと憧憬を抱いて来た偉大な開拓者だ。
シンドバッド本人が、がいかに己の暗愚さを語り聞かせようとも、アリババが彼に向ける眼差しは変わる事がない。
「俺は、……狡いなあ」
「ですから」
「狡いんだ」
きっぱり、はっきり断言してみせたアリババに体重の半分を預け、シンドバッドもまた否定されたばかりの言葉を繰り返した。
彼がそう言ってくれるのは、知っていた。分かっていた。
どれほどに汚らしい感情を、包み隠さず吐露してみせたところで、彼の自分に対する評価は決して揺るがないことを。
此処は改めるべきだ、反省すべきだと明け透けなく言ってくれる気の置けない友人等とは、違う。
だからつい、甘えてしまう。醜い自分を否定して欲しくて、アリババの純粋な心を利用している。
定まりつつあった運命を覆し、想像の遙か上を行ってしまったと、嫉妬すら抱いた相手に縋っている。
「貴方は素晴らしい人です。俺の、……憧れです。だからそんな寂しい事、言わないでください」
本格的に押し潰されそうになって、苦しい体勢の中でアリババが囁いた。
気恥ずかしげにしている少年にピクリと右の眉を持ち上げて、シンドバッドは呼吸を止めた。大きく目を見開き、五秒ばかり停止した後、深く息を吸い込んで、
「ひゃ!」
またしても断りなく、アリババの軽い身体を抱き上げた。
ひょいっと持ち上げられて、もうじき十八になろうかという少年は目を丸くした。相手が敬愛して止まないシンドバッドとはいえど、こうも易々と扱われてしまうと、悔しいやら、情けないやらで、穴があったら入りたくて仕方が無い。
だけれど部屋の中に穴などなく、じたばた暴れた末に落とされたのは、クッションも柔らかな寝台の上だった。
ぼふん、と身体の両側から逃げていった夜気に身を竦ませて、そろり、閉じていた瞼を持ち上げる。
燭台の火は消えかかっていた。突発的な旋風を受けて、芯がジジジ、と音を響かせた。
「シンドバッドさん?」
寝床に身を沈めたアリババが、真上にのし掛かっている男の名前をそうっと呼んだ。なるべく丁寧に、音を紡ぐ。少しでも機嫌を損ねたら大変だと、本能が悟っていた。
幾ばくかの怯えを含む声色に、男は窄めた口からふっと息を吐いた。
酒臭い。正面から浴びせられて渋い顔をした少年を笑い、シンドバッドは支え棒代わりにしていた腕を畳み、四肢の力を抜いた。
ごろりとアリババの隣に横になって、薄い枕を引き寄せる。
「あ、の……?」
「眠い。寝る」
「え、ちょっ。此処でですか!」
目を閉じた年上の男に、アリババは飛び上がって叫んだ。抗議の声を無視してシンドバッドは欠伸をすると、上掛けの薄布を手繰り寄せ、その上で腰をぼりぼりと引っ掻いた。
百年の恋も冷める寝姿に苦虫を噛み潰したような顔をして、アリババは力なく首を振った。
独り寝用の寝台にふたり寝転がるには、少々無理がある。かといって自分に貸し与えられた部屋なのに、自分だけが床で眠るのは面白く無い。
一番良いのは、シンドバッドが自室に戻ること。だが既に心地よさげに寝息を立てている男を担いで歩くのは、相当な労力だ。
今から違う部屋を用意して貰うのも面倒で、あれこれと考えるが妙案は出て来ない。
「狭い」
結局ひとつの寝床を分け合う以外に道は無くて、彼は諦めて肩を落とすと、渋々シンドバッドの腕を枕に横になった。
これまでにも、旅の中で、暖を取る為に身を寄せ合って眠ることはあった。
チーシャンに居た頃、アラジンを泊めた時にも、ひとつの寝床を分け合った。だけれど彼は小さいから、ここまで窮屈に感じることはなかった。
「変な感じ」
他人の体温を感じながら眠るなど、いつ以来だろう。
ぽつりと零し、彼はすやすや寝入っている男を暗がりの中でじっと見つめた。怖々と距離を詰め、ぽすんと逞しい胸に頬を寄せれば、とくん、とくん、と波打つ鼓動が聞こえて来た。
穏やかな寝息に導かれ、瞼が自然と重くなる。
「……ちょっとだけ」
本当はこんな真似、許されないと分かっている。
だがシンドバッドだって、酒の勢いに負けて甘えて来たではないか。ならばこれくらい、見逃されても然るべきだ。
自分に向かって言い訳を繰り返して、アリババはシンドバッドの胸に身を預けた。
翌朝、知らぬ間に服を脱いでいたシンドバッドと、その上に寝転がるアリババを発見して、アラジンとジャーファルが発狂したというのは、また別のお話。
2011/09/25 脱稿