降誕祭

 闇に落ちた空を背景に、色鮮やかなネオンがキラキラと眩しく輝いている。道路脇に居並ぶ街路樹までもが、今夜ばかりは綺麗に飾り付けられて、青や緑、赤に黄色と、数秒ごとに点滅を繰り返し、冬の町並みに彩を添えていた。
 夜も遅い時間だというのに人通りは多く、道は混雑して賑やかだ。路上駐車の数も普段より多くて、お陰で先を急ぐ車のクラクションが何時にも増して喧しい。
 商店の飾りつけも赤と緑を中心に、少しでもクリスマスを祝おうと趣向が凝らされていた。
 不況だの、なんだのといいながら、流石にこの日だけは皆、財布の紐が緩むらしい。飲食店から出て来る家族連れやカップルの数も、相当なものだった。
 吐く息は白く濁り、気温の低さを象徴している。墨を塗りたくったような空に、星は殆ど見えない。辛うじて建物の隙間から、ぼんやりと輝く半月が見える程度だった。
 だからこそ、この電飾の眩しさが際立って感じられた。明滅する光をじっと見詰めていると、別世界に迷い込んだ気分になる。すれ違う人たちの楽しい気持ちが伝染し、足元がふわふわした。
 歩道の信号が赤から青に変わった。一斉に前後左右にいた人たちが動き出し、押される格好で綱吉も前に歩き出した。
 耳当てのついた毛糸の帽子は、白を基調にしたモザイク柄。天辺に毛糸を解して作った真ん丸い飾りがくっついていて、それが歩くたびにひょこひょこと不安定に揺れた。
 帽子から伸びる卵形の耳カバー部からは、太めに編んだ毛糸の紐が垂れ下がり、その先には小さめのボールがぶら下がっていた。
 手袋も柄がお揃いで、手首を覆う部分をダイヤのマークがぐるっと一周していた。いかにも手編みだと分かるそれらは、奈々のお手製だった。
 最初見せられた時は、あまりにも帽子が可愛すぎると不満だった。しかし冬場の寒さを凌ぐためにと渋々被っているうちに、段々と愛着が沸いてきた。母の愛情を存分に感じられたし、京子やハルは随分と羨ましがった。獄寺や山本も、似合うと連呼した。
 素直に喜ぶべきかどうか一寸迷うが、貶されるよりはずっと良い。お陰で今では、すっかりお気に入りだ。
 太腿まですっぽり覆う、丈も長めのダッフルコートを揺らし、彼は横断歩道を渡りきった。段差を踏み越え、硬い感触をスニーカーの裏で受け止める。雑踏は左右どこまでも続いているが、ひと際騒々しいのは駅前に近い区画だ。
 駅前広場に大きなクリスマスツリーがお目見えしたのは、十二月に入って暫く経ってからのことだった。今ではすっかり目に馴染んでしまっているけれど、出来たばかりの頃は並盛町の平凡さと比較して、あまりの不釣合いさにみんなで笑い合ったものだ。
 その、この町には少々大きすぎる立派なツリーの周囲には、色とりどりの電飾に照らされたカップルが複数人、仲睦まじく立っていた。
 誰も彼もが幸せそうで、うっとりと、光が織りなすショーに見入っている。人は大勢いるのに、ふたりだけの空間がそこかしこに出来上がっていた。
 見ていると、微笑ましくなる。と同時に、少しだけ妬ましく思った。
「あーあぁ」
 足を止めて盛大に溜息をつき、つまらないと彼は首を振った。
 綱吉は今、ひとりだった。
 家族連れに、仲間内のグループに、カップル。行き交う人の多くは団体行動で、ぽつんとひとり佇む彼は否応無しに目立った。
 女子高生の集団が、彼の寂しげな表情を見て笑っている。もしかしたら別の話題で笑っているだけかもしれないし、その可能性の方がずっと高かったが、心理的な圧迫感から被害妄想は拡大して、最早そうとしか思えなかった。
 ギッ、と奥歯を噛み締めて吐き出したい怒りを堪え、右足を前に繰り出す。見る人を幸せな気分にしてくれるツリーも、今の彼にとっては不愉快さを助長するアイテムでしかなかった。
 町中に設置されたスピーカーからは、定番のクリスマスソングが絶えず流れていた。ついつい口ずさみたくなる軽快なメロディーに、不意に泣きたい気持ちになって慌てて首を振る。
 また知れず溜息が零れて、綱吉は帽子を被ったまま頭をクシャリと掻き回した。
 弾みで耳当てから垂れている紐が揺れる。振り子のように前後に波を打ち、先端の綿毛が彼の胸を軽く叩いた。
「どうせ、さ」
 また赤信号に行き当たって、彼は自嘲気味に呟いた。
 今日は、クリスマスイブ。キリストの誕生日前日だが、この国では最早恋人同士が愛を語らい会う日、と化していた。
 他にも友人らで集まって、美味しい料理を食べて、遊んで、プレゼントの交換会をする日でもある。二学期の終業式でもあるので、今期の成績を暴露して互いを慰めあう日でもあった。
 綱吉もご多分に洩れず、今日は昼間から皆で集まり、パーティーを開催して楽しく過ごした。場所は彼の家である沢田家のリビング。数日前から子供達がせっせと飾り付けをしてくれて、とても華やかだった。
 料理は奈々のお手製から武寿司の握り寿司、そこにイーピンの中華も加わって、テーブルの上はまるで統一感がなく、それが余計に今日の日が何を祝した記念日かを忘れさせた。
 賑やかで騒がしく、楽しいパーティーは、午後の三時頃から夜の七時近くまで、ずっと続いた。
 リボーン主催の、最下位には罰ゲームありのすごろく大会あり、プレゼントの取得権をかけたビンゴ大会ありと、内容も盛りだくさん。見事最下位を勝ち取った獄寺がやらされた腹芸には、腹筋が崩壊するかと思うくらいに笑わされた。
 そして日が落ちて、空が真っ暗闇に包まれた。遅くなりすぎる前に、とお開きの末に解散となって、綱吉はハルや京子を自宅へ送り届ける役目を買って出た。
 今はその帰り道、の筈だった。
 ハルの家から綱吉の家に至る道筋に、商店街は無い。ずっと大回りで、殆ど逆方向といってもいい。
 彼女に別れを告げてひとりになって、彼の足は自然とこちらに向いた。人が群れ、集う場所に。
 息を吐く。一瞬だけ白く濁った呼気は、直ぐに人いきれに紛れて消えてなくなってしまった。
「いない、か」
 年の瀬が迫る中の、一大イベント。恋人達が手を繋ぎ、肩を並べ、共に過ごす記念日。
 誰かを探し、綱吉の視線は宙を彷徨った。けれど無数ともいえる背中に、思い人の影は重ならない。
 寂しげに呟き、彼は背筋をぐっと後ろに反らした。
 居るわけが無い、こんな場所に。それにもし居たとしても、あの人はきっと、ひとりではない。そして、とても忙しい。
「そうだよね……」
 終業式の直前、思い切って誘ってみたけれど、返答は案の定「ノー」だった。
 最初から想像はついていたし、誘うだけ無駄だとも知っていた。群れるのを嫌う人だから、絶対に来るわけがない、と。
 もし本当に彼が来る、なんてことになれば、それは天変地異の前触れだ。頭をぶつけて記憶喪失になったのではないか、とか真面目に心配してしまう。
 だから、行かない、と言われた時はちょっとだけホッとした。その百倍くらい、がっかりしたけれど。
「あーあぁ。なんだって、俺ってば」
 どうして自分は、あんな人を好きになどなったりしたのだろう。全くもって、己の趣味を疑ってしまう。だけれど、理性ではどうすることも出来ないくらいに、彼の事を考えると胸が苦しくなり、その何千倍も心が躍るのだ。
 左手を心臓の上に押し当てて、そっと撫でる。信号はいつの間にか青に変わり、綱吉の周囲からは人の波が消えていた。
 目的地があるわけではない、ただなんとなく歩き回っているだけ。だから別に、この道を渡らずとも構わない。綱吉は唇を舐めて犬歯を突き立てると、点滅を始めた信号を仇のように睨んで踵を返した。
 来た道を戻り、ちょっと考えて右に進路を取る。表通りから外れ、裏道に一歩入るだけで照明の数は激減し、人の気配も一気に絶えた。
 そこにあった電信柱に寄りかかり、コンクリートの冷たさにホッと息を吐く。どうやら思っていた以上に体は熱を持ち、火照っていたらしい。人の多さに酔ってしまっていたのだと気付かされて、彼は力なく笑った。
「ほんと、なにやってんだろ、俺」
 自嘲を交えて呟き、コツン、と硬い柱に額を押し当てる。
 楽しかったクリスマスパーティーが終わって、ひとりになって、急に寂しさがこみ上げてきた。皆と一緒に居る間は忘れる事が出来たけれど、祭りが終わると同時に、胸にぽっかり開いた穴の蓋が外れてしまった。
 二学期の期末テストは、頑張って赤点をぎりぎりだったけれど回避した。褒めて欲しくて、一学期よりは多少ポイントがアップした通信簿を片手に、応接室のドアをノックした。
 ご褒美が欲しかった。言葉でも、それ以外でも。
 ただ現実は、願うほどに甘くはなかった。
 次はもっと頑張るようにと言われて、それだけ。パーティーへの出席も拒否されて、これで落ち込まない方がどうかしている。
 どんちゃん騒ぎが終わってから、既に二時間近くが経過している。鬱々とした気持ちを抱えたまま町中を彷徨ったお陰で、補充した筈の元気はすっかり空っぽだった。
 会いたい。話をしたい。一緒に過ごしたい、たとえ十分だけでも良いから。
 応接室に居られた時間は、五分となかった。冬休みを前に風紀委員はあれこれと忙しいようで、大量の書類を前にした彼は綱吉の言葉も話半分にしか聞いていなかった。生返事に痺れを切らし、怒鳴ろうとした矢先、ドアがノックも無しに開いて副委員長が顔を出した。
 綱吉の姿を見て草壁は「しまった」という顔をしたけれど、雲雀は逆にこれ幸いとばかりに彼を招き入れた。
 申し訳無さそうにしながらも、リーゼントの大男は綱吉と雲雀の間に割り込んで彼の居場所を奪う。とても長居できる雰囲気ではなく、綱吉は草壁の制止の声も振り切って応接室を後にした。
 それきり、なんの連絡も無い。
 何度目か知れないため息が零れた。冷やしすぎた額が痛くなってきて、身を起こす。相撲取りのように電柱を両手で叩き、深く肩を落として項垂れる。
 他に人がいないのが幸いだった。こんな姿、誰にも見せられない。
 パーティーには来てくれないのは最初から分かっていたから、それはこの際もう良い。だけれど、他はどうしても諦め切れなかった。
 クリスマスは終日のイベントで、パーティーはその一部に過ぎない。遊びつかれた子供達の就寝は早く、そして夜はまだ長い。だからひっそり、期待した。終わった頃に来てくれやしないか、皆が寝静まった頃にこっそり訪ねて来るのではないかと。
 だけれど部活の打ち上げに参加して、ひとり遅れて来た山本の言葉で全部打ち砕かれた。風紀委員は今夜ずっと、町中の見回りに出るのだという。だからくれぐれも繁華街には近付かないように、と上級生に忠告されたと言っていた。
 綱吉の現在地は、その盛り場のすぐ傍だ。ひょっとしたら会えるのではないかと、儚い希望に縋ってこの有様だ。
「ヒバリさん……」
 会いたい。探しているのに、会えない。雲雀どころか、平の風紀委員の姿さえどこにも見付からなかった。
 山本が教えてくれた情報に誤りがあったのか、それとももう終わった後なのか。まさか其処ら辺の人を捕まえて聞くわけにもいかないので、綱吉は当て所なく歩き回るより他に術がなかった。
 ズボンの上から太腿を軽く叩き、諦めるよう訴える身体を叱咤激励して気持ちを奮い立たせる。だけれど直ぐに、へにょりと曲がってしまう。
「さむ」
 不意に沸き起こった寒気に震え、身を竦ませて己を抱き締める。鼻の奥がツンと来て、泣きたくなった。
 そろそろ帰らないと、奈々も心配する。女子を送って行くと言って出て来ただけなので、今から戻るのだって充分過ぎるくらいに遅いのだけれど。
「冬休み、まだ始まったばっかりじゃん。お正月だって、まだあるじゃん」
 自分を勇気付けて声に出して呟くけれど、余計に切なさが増して胸が苦しくなっただけだった。
 計画は、何も立てていない。立つわけが無い、最近は話をする機会さえ殆どなかったのだから。
 応接室を訪ねても、ドアに鍵が掛かっている日の方が多かった。学内で姿を見かけても、常に傍に誰かが居て、近付いて話しかけるのが憚られる雰囲気だった。
 額に手をやって、目を閉じる。反対の手はコートのポケットに伸びて、中に入っているものを弄った。
 カサカサ言う紙の感触が、指先を通じて綱吉の中に流れてくる。角を抓んで引っ張り出して、街灯の薄明かりに照らし出せば、それは掌サイズの紙袋だった。四角形の縁を折り返して、テープで開かないように固定してある。貼る時に失敗し、剥がしてやり直したと分かる痕が残されていた。
 綱吉はそれにちらりと目をやって、ポケットに戻した。落とさないようにしっかり奥まで押し込んで、深呼吸をひとつ。
「よし」
 駅前と商店街近辺をもう一周して、それで駄目なら諦めよう。心に決めて呟き、彼は両手を握り締めた。
 電柱から離れ、先ほど通った道ではなく、ひとつ向こうの交差点を目指して歩き出す。ライトの消えた車が歩道にまで乗り上げており、道幅は本来の半分近くまで狭まっていた。
 無灯火の自転車が後ろから接近するのに慌てて避けて、ホッとしてから下唇を舐める。他に人の居ない静か過ぎる空間に、背筋にぞっと悪寒が走った。
 自分の足音と、呼吸する音以外なにも聞こえない。商店が軒を連ねる大通りは目と鼻の先なのに、どうして此処らはこんなにも静かなのだろう。
 意識した途端に、薄気味悪さが倍増した。内臓がゾッと冷えて、全身に鳥肌が立つ。肩を叩いた帽子の飾りを掴んで口元に押し当てて、沸き起こる恐怖から逃げようと綱吉は足を速めた。
 さっさと人の多い、明るい場所に出よう。か細い街灯の明かりが弱々しく地表を照らす中、彼は襟元を掴んで風を避け、路上駐車を避けようとして車道に大きくはみ出した。
 其処で不意に、彼の足が止まった。
「う……」
 息が詰まり、表情が歪む。嫌な予感は大抵当たる、しかもこの場合は自分から突っ込んで行ったようなもので、彼は苦い唾を飲んで尻込みした。
 彼に気付いた男がふたり、怪訝な顔をして立ち上がった。他にも数人が、車の影に輪を作っていた。
 煙草の臭いに、咄嗟に顔の横で手を振る。その態度が気に入らなかったのだろうか、立ち上がったひとりがいきなり路上に唾を吐いた。
「おんやぁ? 迷子?」
 人を嘲笑う口調で問いかけられて、綱吉は一歩半、後退した。
 汚らしい茶髪に、黒のダウンジャケットで、耳にはピアスがジャラジャラと。大人ぶってはいるが、声の調子から未成年だと分かる。しかし吐く息は煙草臭く、路上に転がる空き缶はどれもアルコール飲料だった。
 こんなところで何をしているのか。少なくとも表通りに居るカップルのように、クリスマスを楽しんでいるようには見えない。
「なんだ、なんだぁ?」
「どちたのー、ママとはぐれちゃったー?」
 わざと人をイラつかせる口調で喋りかけてきた男は、酔っ払っているようだ。酒臭い息を間近から吹きかけられて、噎せてしまう。口を押さえて咳き込むと、ドッと嗤い声が起こった。
 人数は全部で六人で、背格好から綱吉より一回り年上と思われた。
「迷子じゃありません」
 笑われて、腹が立たないわけがない。元々心がささくれ立っていたのもあって、気がつけば綱吉は上擦った声で怒鳴り返していた。
 キッと目尻を釣り上げて、反抗的な態度を取る中学生に、男達の笑い声がピタリと止んだ。
「へ~? じゃあ、何。もしかしてカレシにフラれちゃった?」
「こんな時間にひとりでフラフラしてたら、悪い狼に襲われちまうぜー?」
 地面に腰を浮かせて座っていた太った男が、自分の台詞がツボに入ったようでげらげら笑い転げる。不愉快でならず、睨み付けてやりたいのに出来なかったのは、直前に言われた別の男の台詞がグサリと来たからだ。
 クリスマスイブの夜に、人気の無い裏路地をひとりで、早足で。
 鞄ひとつ持っていないので、塾帰りでないのは明らかだ。だから、傍目にはそう見えるのだろう。
 その事実に我ながら驚いて、ショックを受けてしまった。
 琥珀の目を見開いて、唇を戦慄かせる。言い返したかったのに何も言葉が出てこなくて、乾いた空気を吐き出すだけに終わる。凍り付いてしまった彼を見て、男達は互いに顔を見合わせた。
 直後、にぃ、と口角を歪めて笑ったのに、綱吉は気付けなかった。
 クリスマスに一緒に居よう、と誘ってもらえなかった。こちらからの誘いは、拒絶された。それはつまり、そういう事なのだろうか。愛想が尽きて、顔も見たくないという事なのだろうか。
 考えたくも無いのに、止められない。気付かないフリをして、見ないようにしてきた現実を突如突きつけられて、綱吉は瞬きも忘れて虚空に見入った。
 座っていた男達が軒並み立ち上がった。煙草の火を踏み消して、肩を左右に揺らしながら少しずつ綱吉との距離を詰める。その際、逃げ場の無い狭い場所に誘導するのも忘れない。
 気付けば彼は、六人の男に囲まれて、ビルの壁に背中を向けていた。
「え……」
「なに、寂しいのー?」
「俺らが慰めてやろっか」
 嫌な汗がこめかみを伝い、首にまで流れて行く。彼らが口々に告げる内容が理解出来ず、綱吉は男としては大きすぎる目を右往左往させた。
 どうやっても直らない特徴的な癖毛は、今は奈々お手製の帽子に全部放り込まれている。その帽子も、中学生男子が被るにしてはデザインが可愛らしい。裾が長くて大きめのダッフルコートは骨格を隠し、なにより母親似の童顔は男女の性差を感じさせない。
 勘違いされている。それに気付いたのは、男の手が伸びていきなり顎を掴まれてからだった。
「放せっ」
 何が哀しくて、女に間違えられなければいけないのか。幾ら暗いからといって、こんなに近くで声も聞いているのに、分からないなんてどうかしている。
 酔っ払いの判断力などその程度かと吐き捨て、綱吉は男の手を振り払うと同時に身を屈めた。
 伸びてくるほかの手を掻い潜り、抜け出そうと試みる。しかし第一歩を踏み出すことなく、細い肩は壁に戻された。
「イッ……」
「暴れんなって。怪我したくねーだろ?」
 力任せに掴まれて、叩きつけられた。骨に響いた衝撃に息が詰まり、悲鳴が喉を擦る。頭を振って逃げようと足掻くが、力が強すぎて巧く行かなかった。
 その間に包囲網は更に狭まり、アルコールと煙草の混じった悪臭が顔に浴びせられた。ニヤニヤといやらしい視線で舐めるように見詰められて、不快感が腹の底を擽った。
 吐き気がして、綱吉は瞳に力を込めて奥歯を噛み締めた。
「放せ、痛い」
「だから、暴れんなってー」
「そうそう。寂しいお前の心を、俺らが温めてやろうってんだぜ?」
「余計なお世話だ!」
 両手で胸を抱き、タコのように唇を窄めた男に向かって罵声を浴びせかける。勝手に恋人にフラれた可愛そうな子、というイメージを作られるのがなにより気に食わない。
 まだそうと決まったわけではない。雲雀は綱吉に何も言っていない。
『行かない』
「っ!」
 突如、なんの前触れもなく、昼間の記憶が蘇った。耳元で響いた冷たいひと言に、心臓が悲鳴を上げた。
 違う。あれは風紀委員の仕事が忙しいのと、大勢で騒ぐのが嫌いだからというだけで、綱吉と一緒に居たくなかったという意味ではない。
 必死に言い聞かせるが、疑念は消えない。人を邪魔者扱いして、綱吉がトボトボと応接室を出る時にさえ目を合わせてくれなかったのも、嫌いになったからなのだろうか。
 泣きたくなった。だけれど、泣きたくなかった。
「そんなんじゃない。俺は、そんなんじゃない!」
 かぶりを振って叫ぶが、声に勢いが無い。悔し涙で睫を濡らし、瞳を潤ませた彼の耳に嘲笑が渦を巻く。聞きたくないのに防ぎようがなくて、堪えきれずに一滴の涙が頬を伝った。
 悔しい。唇を噛み締め、綱吉は滲む世界を闇に閉ざした。
 十二月に入ってから、お互いに忙しかった。期末試験が月初にあって、綱吉が先ずその対策に追われた。終わって一息ついた頃から、今度は風紀委員のドタバタで雲雀が忙しくなった。
 時間がかみ合わず、連絡も途絶えがちになった。暫く暇が作れそうにない、という侘びのメールが来て以降、毎夜のように届いていた「好き」のひと言もなくなった。
 未だ嘗て無い多忙ぶりは、傍から見ていても分かった。だから我慢した。我が儘を言って困らせたくないからと、懸命に自分に言い聞かせてきたのに。
 裏切られた気分だった。最初に好きだと言ったのは、彼なのに。綱吉の心に波風を引き起こし、掻き乱したのも彼だったのに。
「放して。はなせ!」
 右肩を押さえつける腕を掴み、引き剥がそうと腹に力を込める。最初は抵抗を面白がっていた男も、骨が軋む痛みを覚えたところで、眉根をひそめた。
 決して穏やかなものではないものの、笑みを浮かべていた男の顔が鋭利な刃物の如く研ぎ澄まされる。険を強めた眼差しを浴びせられ、ハッとした綱吉は距離を取ろうと背中を壁に押し当てた。
 それ以上逃げ場がない。両掌に触れたコンクリートの冷たさに身を竦ませた瞬間、乾いた音が先ず鼓膜を打った。
 遅れてやって来た衝撃に視界がぐらりと揺れて、さっきとはまるで違う光景が見えて愕然とする。何が起きたのか一瞬分からず、目に映る景色の変化に胸がざわついた。
 チリリと焼け付くような痛みが右の頬を中心に広がっていく。
「大人しくしろ、っつってんだろ」
 苛立つままに吐き捨てられた言葉に、ようやく叩かれたのだと頭が理解した。持ち上げた右手で撫でれば、手袋越しにでもはっきりと熱を感じた。
 霞む世界に瞠目して、直後、綱吉はこめかみいっぱいに溜めた涙を頬に流した。
 どこの誰かも分からないような奴らに良いようにされるのが、我慢ならなかった。知りもしないくせに勝手な事を言って、紙切れよりも薄い軽薄な言葉に傷ついている自分も、嫌で仕方がなかった。
「お前らなんかに!」
 あらん限りの声で叫び、綱吉は目の前に立ちふさがる男を、射殺さんばかりに睨みつけた。奥歯を軋ませ、牙を覗かせて敵愾心をむき出しにする。けれど童顔の所為で迫力は出ず、男達の嘲弄はいよいよ大きくなった。
 ガンガンと頭の中で響く不快な音色を追い出して、彼は横薙ぎに手を振り抜いた。
「おっと」
 当てられそうになった男が、軽いステップで後ろに下がる。しかし酔いが回っている影響だろう、たたらを踏んでそのまま尻餅をついた。
 滑稽な男を、仲間が高らかに笑い飛ばす。本人は一瞬きょとんとしてから、凄まじい怒気を立ち上らせて綱吉を睨んだ。
 自分で勝手に転んだくせに、八つ当たりされて綱吉も気分が悪い。ひと言言ってやりたくて、脇に流れた腕を戻そうとした矢先、その隙だらけだった腕を取られた。
 肘の内側を掴まれて、乱暴に引っ張られた。
「うあっ」
 バランスを崩されてつんのめる。片足立ちで横に飛んで踏ん張るが、前に傾いだ体勢を整えるのは難しかった。
 袖の皺を掴み、強引に引っ張って腕を奪い返す。前後運動の余波でコートの裾が大きく膨らんで、指を弾かれた男は性懲りもなくそちらにも手を伸ばした。
 ポケットの入り口を捕らえられて、潜り込んだ男の太い指が中にあったものを引っ掻いた。
「やめ、ろ!」
 掴み出そうともがいていると知り、追い払おうと意識がそちらに傾く。だが男達は総勢六人で、死ぬ気状態でない今、綱吉に対処しきれるものではなかった。
 すぐさま横から別の腕が伸びて、彼の動きを阻害する。その間にポケットを弄る手はより大胆になって、紙袋を捕まえると一気に引き抜いた。
 高らかと掲げられる。取り返そうと腕を伸ばすが届かない。
 爪先立ちになり、肩が外れる寸前まで懸命に腕を伸ばすが、それでも指は虚空を掠めるだけだった。
 男達の嘲笑が場に渦巻く。琥珀を歪ませて涙を堪える綱吉を、彼らは愉悦に満ちた表情で見下ろした。
 集団で弱いものを苛めて、それで個々が強くなったつもりでいる。雲雀が最も嫌悪する人種だ。
「返して。それは、お前達の為に作ったんじゃない!」
「へ~? なんだ、これ」
「止め……っ」
 悲痛な叫びに反応し、男が片方の眉を持ち上げた。興味深そうに紙袋を下から眺め、そしてやおら両手で端を抓んだ。
 力の入れ具合から、次に起こる出来事が想像出来た。一瞬ぎょっとして、総毛立った綱吉が慌てて制止の声を上げる。右手を前に繰り出して飛びかかるが、バックステップで軽々と避けられてしまった。
 外に向かうよう力を加えられて、袋の表面が限界を訴えて引き攣った。綱吉の見ている前でそれはいとも呆気なく真っ二つに引き裂かれ、収められていたものが宙に投げ出された。
 薄明かりを浴びて金属部分がきらりと輝く。儚い光の軌跡を目で追いかけて、直後、綱吉は甲高い悲鳴を上げた。
 地面に落ちた瞬間を狙い、誰かの足がそれを踏み砕く。音は、聞こえなかった。
 足元から寒気が駆け上り、僅かに遅れて高熱が後を追いかけて頭へと登っていく。真っ暗になった思考は一瞬で真っ白に染まり、四肢を支える力が失われて彼はその場にカクン、とへたり込んだ。
 糸の切れた操り人形のように、冷たいアスファルトに尻を落として唇を戦慄かせる。
「ありゃまー、踏んじまったぜ」
 足を退かせた男が、わざとではなかったと装って頭を掻きながら言った。しかし、偶然であるわけがない。最初から狙ってやったことだというのは、誰の目にも明らかだった。
 それを証拠に、男には悪びれた様子が無い。壊れてしまったものは仕方が無い、諦めろ、そんな言葉を連ねて項垂れる綱吉の頭を数回叩いた。
「っ」
 はっとして、手を払い除ける。甲で打たれた男は、大袈裟に痛がって後退した。
 藍色のアスファルトの上に、白っぽい粉がぽつぽつと散っている。中心部には、一部が欠けてしまった同色の棒状のものがふたつ。縦棒の根元近くに短い横棒が付随し、先端に丸められた金具が飛び出ていた。
 長さにして三センチ程度、太さは五ミリ弱。芯にした針金が覗く粘土細工が何を模しているのか、知らない者が見ても直ぐに思いつかないだろう。
 辛うじて原型を留めているが、無惨な姿に成り果てたことに変わりは無い。腰を浮かせて手を伸ばし、金具に結びつけた紐を手繰って膝に置く。無言を貫く綱吉に、ある種の不気味さを覚えたのか、男達は遠巻きにするだけで茶化しては来なかった。
 渡す際のシチュエーションをあれこれ考え、想像し、時に妄想し、ひとり照れてリボーンに馬鹿にされながら作ったキーホルダー。こんな不恰好なもの、喜んでくれるわけがないと一時は思った。けれど何事もやってみなければわからないからと、自分を鼓舞して完成にこぎつけた。
 本当は応接室で渡したかった。だけれど草壁の登場でタイミングを逃して、出来なかった。
 あの時に諦めて帰らずに、意地でも居残って渡しておけばよかった。十二月の休日、なかなか会えない不満に悶々としながらも、今日の為にと失敗を重ねながら懸命に過ごした時間が、次々に蘇っては消えていく。
 熱い涙を目尻いっぱいに溜め、綱吉はキッと眦を裂いた。生意気な表情に男達は怯み、そして反感を抱き、値踏みするような視線で綱吉を見下ろした。
「んだよ。どーせカレシに振られたんだろ。いらねーだろ」
「俺達が親切に、かなしー過去の思い出、消してやったんだぜ?」
 まだ自分たちが正しいと思い込んでいる哀れな男達を睨みつけ、綱吉は壊れてしまった粘土細工を握り締めた。拳を胸に押し当てて、鼻を啜り、肺の奥底に息を溜め込む。丹田に力を込め、彼は衝動のままに怒りを滾らせた。
 ゆらり、綱吉の周囲に目に見えないオーラが沸き起こる。険を強めた琥珀はまだ涙で濡れていたが、もっと深い場所に潜む野獣の気配がむくりと起き上がり、色を強めて男達を射た。
「んだよ、その目は」
 恐怖に震えて泣きじゃくり、許しを請う様を予想していた男達は、正反対の反応を見せた綱吉に不快感を露にした。
 生意気だと息巻き、路面に座り込む華奢な肩を突き飛ばす。衝撃を受けて帽子が後ろに傾く。何度も頭を前後左右に揺すられて被りが浅くなっていた手編みの帽子は、限界を訴えてそのまま綿毛を弾ませて落ちていった。
 押し込まれていた蜂蜜色の髪の毛が、一斉に空気を含んで膨らむ。逆立った毛先が稲穂のように揺れて、男達は揃ってぎょっとした。
 根本的な勘違いに今頃気付いて、彼らの間に動揺が走る。
「なっ……男?」
「てンめ、紛らわしい格好してんじゃねーよ!」
「そっちが勝手に勘違いしたんだろっ」
 右端にいた男が代表として叫び、綱吉は反射的に怒鳴り返した。
 綱吉はひと言も、自分が女だとは言っていない――男だと訂正を加えてもいないが。
 だが彼らの怒りはそれで納まらなかった。ちょっかいを仕掛けた相手が思った性別ではなかったと知った途端、己の勘違いを棚に上げて、騙されたと言わんばかりに憎悪をむき出しにする。臆する事無く綱吉は眼光を強め、立ち上がろうと片膝を立てた。
 その一瞬を狙い、左側にいた男がいきなり拳を振り翳した。
「っ!」
 咄嗟に仰け反って避けるが、状態が悪い。態勢を整え直す前に別方向から遠慮の欠片も無い蹴りが飛んできて、受け止めるべく手を広げようとして、綱吉は手の中のものを思い出して躊躇した。
 迷いが生じた分、対応が遅れる。
「うあっ」
 このまま黙って蹴られるわけにもいかない。一瞬の逡巡の末に拳のまま、打ち返すように両手を前に繰り出す。しかし反動で、彼自身も後ろにすっ飛んだ。
 落とした帽子の上に尻餅をついて、骨に響いた痛みに顔を顰める。狭まった視界にもう一発、別の男が繰り出した蹴りが迫るのが見えた。
 片方の目を閉じて尻の鈍痛をやり過ごし、肘を引いて脇を締める。顔の前で腕を交差させて衝撃に備えて、彼は心の中で悲鳴をあげた。
 こんな奴らに好き勝手やられるのは我慢ならない。反撃の隙を、そして逃げ出すタイミングを必死に計りながら、心の片隅でこの場に居ない人を想う。
 風紀委員はこういう連中を取り締まるために居るのに、何故こいつ等を放置しているのだろう。ひょっとして、雲雀は綱吉に会いたくないが為に多忙を装い、遠ざけていただけなのだろうか。
「……っ!」
 考え出したらキリが無い。そして、それは今思い悩むことではない。
 眼前に迫る危機をどう乗り越えるか、その一点に絞るよう自分を叱り、彼は肩に来た衝撃を堪えて横滑りしながら踏み止まった。
 倒れなかった彼に舌打ちした男の苛立ちが、限界値を超えた。目が完全に据わっており、綱吉は咥内の唾を飲んで腕を解いた。
 踏み潰されたキーホルダーを握ったままでは、迂闊に反撃も出来ない。力加減を誤ると、自分で今以上に壊してしまいかねないからだ。
 しかしポケットに忍ばせようにも、なかなかその暇は与えてもらえない。四方から繰り出される攻撃を避け、防ぐのが精一杯で、どうにか中腰で立ち上がりはしたが、その間に再び壁に追い詰められてしまった。
 浮かせた踵が硬いものを擦り、それ以上後退できないと知ってハッとする。男達のいやらしい目つきに晒されて、綱吉は唇を噛んだ。
 不躾な手が伸びてくる。襟首を掴まれて引き寄せられて、嫌がるとまた頬を叩かれた。
 乾いた音が鼓膜を切り裂く。負けじと眼力を強めれば、男はタバコ臭い息を吐いて口角を歪めた。
 その表情が、瞬時に怒りと憎しみに彩られた。
「生意気なんだよ!」
 高く振り翳された拳が、闇夜に煌く街灯に照らされて禍々しい色を放った。
 こんな男に殴られたところで、痛くも痒くも無い。過去にもっと重い、一発で魂さえ砕かれそうな一撃を食らったことがあるのだ。それに比べれば、こんな低俗な輩のパンチなど屁とも思わない。
 最早逃げに入らず、正面から受け止めてやる覚悟を決める。微動だにしない彼を見て、男は恐怖に竦んでいると勝手に解釈した。
 勝利を確信し、弱者を踏み躙る歓喜の声を上げた男の、しかしひ弱な一撃はついぞやってこなかった。
 目を閉じてなどやるものか。そう誓っていた綱吉の前で、突如男は白目を剥き、声にならない呻き声をあげて崩れ落ちていった。
 引っ張られていた襟元が、そのままの形で残された。解けた男の指を目で追って、即座に上向かせる。薄らぼんやりした月明かりを横から浴びて、黒髪の青年が銀光を煌かせた。
「うがっ」
「ぎゃ!」
 直後に聞き苦しい悲鳴がふたつ、少し遅れてもうひとつ。
 闖入者を予想していなかった男らに対処する術はなく、次々と倒れていく仲間に、最も遠くに居た男は金切り声を上げた。その喧しい声も、見舞われた一撃で呆気なく消し飛ぶ。ものの一分と経たない間に、周囲は本来の静寂を取り戻していた。
 どこかで車のクラクションが鳴っている。それを別世界で奏でられる音楽として聴きながら、綱吉は肩で息をして、へなへなとその場にしゃがみ込んだ。
 ずっと握っていた所為で汗ばんだ手を広げると、手袋に覆われていたものが地面に落ちた。気付いて慌てて拾っていると、目の前が暗くなった。
「なにしてるの」
「え、あ……ぁの」
「なにしてるの、こんなところで」
 弾かれたように顔を上げて、いつになく険しい表情の雲雀を其処に見出して、彼は口篭もった。
 上手に返事が出来ないでいると、詰問が繰り返される。頭上から降って来る凄みの利いた低音に萎縮して、綱吉はぐず、と鼻を鳴らした。
 言いたい事は沢山あった。
 何故此処に居るのか。どうして綱吉がここに居ると分かったのか。助けてくれたお礼も言いたかった。それなのに頭の中が色んなものでごっちゃになって、パンクしそうで、言葉が巧く出てこない。
 それが悔しくて、情けなくて、彼は零れた涙を乱暴に拭い、俯いた。
 肩で息を整えた雲雀が、両手に握ったトンファーを素早く収納して両手を空にした。いつもと違い、学生服は羽織らずに袖を通している。前ボタンが全開なのは、動き易さを考慮しての事だろう。
 肌寒さを覚えてか、彼は第二ボタンから下を、順番に留めていった。前髪の隙間から彼の動きを盗み見た綱吉は、落としたままだった帽子の存在を思い出し、拾おうとして右肩を持ち上げた。
 しかし先に雲雀が気付き、靴跡の残るそれを捕まえた。表面に残る汚れを軽く叩いて落とし、全部を取り除けそうにないと知って顰め面をする。
「立って」
「ヒバリさん」
「赤ん坊が、君が帰らないと」
「……そう、ですか」
 愛らしい綿毛の飾りも無惨に潰されて、耳カバーの紐は片方引き千切れて、どこに行ってしまったかも分からない。呻き声がそこかしこから聞こえる中で落ち着いて話をするのも無理な注文で、雲雀は顎をしゃくって促すと、思い出したように付け足して言った。
 緩慢に頷き返し、相槌を打って綱吉はふらつきながら立ち上がった。二本足で体重を支え、両腕を八の字に広げてバランスを取る。
 雲雀は何も言わず、手も貸さず、人の帽子を持ったまま踵を返した。
「あ」
 待って、とまでは言えず、綱吉は転びそうになったのを堪えて倒れている男を跨いだ。
 さっきまで人を散々馬鹿にして、嫌な思いをさせた相手であるが、こうなってしまうと少し可愛そうだった。風邪を引かなければいいけれど、とちょっとだけ同情して、歩くのが速い雲雀を必死に追いかける。
「ヒバリさん」
 大通りを更に離れ、彼は人気も明かりも乏しい方角に進んでいる。足取りに迷いはなく、どこか目的地があるのかと、背中に追いついたところで綱吉は周囲を見回した。
 もう夜も十時を過ぎて、道の両側に並ぶ住宅も軒並み息を潜めていた。ただ照明は消えておらず、人が活動している気配もまだ感じられる。昼ほどの活発さがないので、うすら寂しい雰囲気が漂っている、それだけだ。
 前を行く青年は一度歩みを止め、視線を左右に向けてからまた進みだした。
「公園?」
 彼の目指す先にあるものが、暗いながらも綱吉の視界に入った。呟いて小首を傾げ、早く来いと言わんばかりに首から上だけを振り返らせている雲雀に唇を舐める。
 叩かれたところがまだ痛む頬をなぞり、息を吐いて車も人も来ない道路を渡る。追いつく寸前、雲雀は視線を逸らして公園の中に入っていった。
 当然ながら、誰も居ない。中央に設置された照明が淡い光を放って、そう広くも無いが狭くも無い空間を包んでいる。ブランコ、滑り台、そして犬猫避けの柵で囲われた砂場と、遊具はそれだけだった。
 ほぼ正方形で、正面と左手は建物の壁で塞がれていた。綱吉たちが今し方通ったところと、右手は道路に接していて、四辺には糸杉が隊列を組み、黒々しかった。
 年代を感じさせる古びたベンチの前で立ち止まり、雲雀は綱吉を手招いた。急ぎ足で駆け寄り、どうするのかと目で問う。無言で頷かれたので、綱吉は余裕で三人は並べる長椅子に、右よりに座った。
 雲雀は続かなかった。膝を揃えて畏まる彼に冴え冴えとした瞳を向けて、おもむろに手を伸ばして来た。
「いつっ」
 先ほど男に殴られた頬を撫でられて、くすぐったさよりも先に痛みに襲われた。思わず短い悲鳴を上げて、顔を背ける。雲雀の右手を弾き飛ばすことにもなって、後から気まずい気持ちに襲われた。
 それでも彼は特に何も言わず、腕を引くと持ったままだった綱吉の帽子を両手で広げ、いきなり人の頭に被せてきた。
「うわっ」
 急に頭を潰されて、耐え切れずに首を前に倒した綱吉は目の奥をチカチカさせた。
 勢い任せだったので被りは浅く、直ぐずり落ちそうになる。右手で押し留めて視線を上向けると、不機嫌な横顔が薄明かりの中に浮かんでいた。
 ぶすっと口をヘの字に曲げて、尖らせている。
「ヒバリ、さん?」
「こんな時間に、あんなところで。なにをしていたの」
「それは」
 先ほどされた質問に、まだ答えていなかったのを思い出す。苦々しい表情を浮かべて視線を伏し、言葉を探して足元を睨みつける。だがそんなところに答えが転がっているわけがなくて、綱吉は帽子を外して膝に置き、握り締めた。
 手袋の中で、形の崩れたキーホルダーが擦れ合う。
「沢田」
 不器用ながら頑張って作った、粘土細工。心無い男達によって、無惨に踏み壊されてしまったもの。
 雲雀の呼びかけにも応じず、綱吉は悔しさに唇を噛み締めた。堪えきれない涙が立て続けにふたつ、頬を伝う。泣き顔を見られたくなくて、帽子を掴んだままコートの袖を瞼に押し付けた。
「沢田、黙っていたら分からない」
 困ったように雲雀が言葉を重ねて来た。
 彼は先ほど、リボーンに頼まれたという趣旨の発言をしていた。ハルを送って行っただけなのに、なかなか帰ってこない綱吉を心配して、気を利かせて連絡を入れたのだろう。
 綱吉の頼みは聞き入れないくせに、あの黄色いおしゃぶりを持った赤ん坊の依頼には頷くのか。確かに雲雀は、リボーンを気に入っている。両者の間には迂闊に踏み込めない特殊な空気があり、彼らの会話についていけない綱吉は、いつも蚊帳の外で寂しく膝を抱えるしかなかった。
 悔しい。切ない。妬ましい。
 汚らしい感情がとぐろを巻いて、綱吉をぎゅうぎゅうに締め付けてくる。
 それでも彼を嫌いになれない。嫌われたくない。
 我が儘を言って困らせたくなかった。
 彼から分かって欲しかった。気付いて欲しかった。どんなにか綱吉が思い悩み、愁い、一喜一憂して、落ち込み、傷ついたかを。
 それなのに雲雀は、気配や雰囲気から読み取ろうとせず、黙り込んだ綱吉に対して徐々に苛立ちを募らせていく。黒い革靴が踏み固められた大地を何度も叩く。腰に手を添えて肩を落とし、これ見よがしに溜息をつく。
 分かろうとしない彼に、綱吉も落胆を深めて首を振った。彼の為に泣いている自分の方が、悪いことをしている気分になった。
「……った、です」
 彼は自分を好きではなかったのか。大切な存在だと認識していたのではなかったのか。
 こんなにも焦がれているのに、こんなにも近くに居るのに届かないなんて、あんまり過ぎる。
「さわだ?」
「会いたかったんです!」
 蚊の鳴くような呟きは届かず、聞こえなかった雲雀が僅かに身を乗り出す。そこへ、我慢の限界に達した綱吉の罵声が飛んだ。
 伸び上がってこられて、顎に頭突きを食らうところだった雲雀が慌てて退く。後ろによろけて踏み止まった彼を仇のように睨みつけ、綱吉は肩で息をしながら垂れそうになった鼻水を音立てて啜り上げた。
 奥歯をギリリと軋ませて、潤んだ琥珀の瞳を尖らせる。近所迷惑顧みず大声を張り上げた彼に、雲雀は間抜けな顔をして右の耳を塞いだ。
「……誰に」
「ヒバリさんに!」
 他に誰がいるというのか。
 全くもって腹が立つ応答に、綱吉は座ったまま地団太を踏んだ。子供が駄々を捏ねる時のように足をじたばたさせて、緩く握った拳で何度も自分の腿を叩く。
 癇癪を爆発させた彼が落ち着くのをじっと待ち、雲雀は嘆息した。
「なら、どうしてあんなところに居たの」
 雲雀に会いたければ、先ず訪ねるべきは応接室だ。彼は大抵の場合、其処にいる。そして中学校は、駅前の繁華街から大いに離れている。
 的を射た質問に、綱吉はぐっと息を詰まらせた。帽子をぐしゃぐしゃに握り潰し、この時間でも元気に跳ねている髪の毛越しに雲雀を見やる。
「だって、……山本が」
 パーティーの最中に聞いた話を、ボソボソと小声で、正直に告白する。雲雀は相槌も打たずに黙って聞いて、話が終わると同時に先ほどよりも深く長い溜息を零した。
 呆れ果てた様子が感じられて、綱吉はいよいよ本格的に落ち込んで項垂れた。
 馬鹿な事をしたと、今なら思う。確かに人で賑わう駅前の商業区で、たったひとりを探して彷徨うなど無謀だった。どうせ雲雀は、外回りが片付けば応接室に戻って来るのだから、ドアの前で待っていればよかったのだ。
 早計だった自分を思い返して悔い、手首を返して手袋に埋もれている粘土細工を見下ろす。掌で転がしていると、雲雀も流石に気付いたようだ。
「沢田?」
「でも。でも、……ただ待ってるだけは、嫌だったんです」
 いつ帰って来るか知れない人を、じっと待つのは辛い。その思いを、言葉尻に滲ませて訴える。顔を上げれば、困惑に瞳を曇らせる雲雀がいた。
「クリスマスなんて、大昔の偉人だかなんだか知らないけど、君に関係ない奴の誕生日でしょ。そんな奴を、どうして僕が祝ってやらなきゃけないの」
 抑揚なく、淡々と紡がれた言葉に声を失い、綱吉は言おうとしていた内容を忘れて息を呑んだ。音もなく唇を開閉させて、脱力してベンチに体重を戻す。背凭れに寄りかかり、緩く首を振る。
 そうではない。クリスマスの目的は、確かに本来は彼の言う通りだったかもしれない。けれど、時代の流れの中で当初の意味合いから中身は大きく変容して、元々の厳粛さは薄れていった。
 今、この国に住まう人の大半は、この日をただのイベントとして捉え、各々で楽しんでいる。
 ただそれを言っても、雲雀は理解し得ないだろう。彼にとってクリスマスイブの日は、ただの終業式でしかなく、それを省けば平日となんら変わり無いのだ。
「だけど」
「そんなに特別な日?」
 彼の認識と、綱吉の認識との間には、大きな齟齬がある。それでも諦め切れなくて、綱吉は拳を震わせた。
 冷めた声で問われて、一呼吸置いて頷く。
「特別、……です。ヒバリさんにしてみれば、そうじゃないかもしれない。でも、俺にとっては、凄く大事な日なんです」
「周りに流されて、踊らされてるだけじゃない」
 この日にプレゼントを贈り合う風習を利用して、利益を上げている企業がある。
 高いものを少しでも多く売りつけたいから、大々的に宣伝して、人々の潜在意識に刷り込ませる。
 クリスマスには大好きな人に贈り物をしよう、いつもよりちょっと豪華に過ごそう。美味しいケーキを食べよう、部屋を飾って雰囲気を盛り上げよう。
 そうやって財布の紐を緩ませて、出費を促進させる。狡猾で、あくどいやり口だ。そうやって誰も彼も疑う事無く、よく知りも知らぬままクリスマスを祝おうとする。
 操作され、人為的に作り上げられた風潮を嫌う雲雀の持論に、綱吉は反発を抱きつつも言い返せなかった。
 確かにそういう側面もあると、認めざるを得ない。幼少期からクリスマスは当たり前のように存在したから、今まで疑いもしなかったけれど。
 綱吉は肩を落とし、帽子とお揃いの手袋に目をやった。
 上に載るのは、壊れてしまった粘土細工。店で売られているものではなく、一から自分で作り上げた品。それさえも、雲雀は大衆迎合的なものだと鼻で笑うのだろうか。
 聞いてみたい。が、こんな状態になってしまった以上、手渡せるはずも無い。
「ヒバリさんは、でも、だけど俺は」
 言いたい事が巧くまとまらず、口を衝いて出るのは支離滅裂で意味を成さない言葉ばかり。そんな自分に苛立って、綱吉はまたこみ上げてきた涙を堪えた。
 鼻を大きく膨らませて息を吸い、顔全体に蔓延る熱を冷ます。ゆっくり口から吐いて心を鎮め、彼は自嘲気味に笑った。
 頬の筋肉を動かすと、叩かれた場所を中心にチクチクと突き刺さるような痛みが生じた。
 雲雀が好きだ。好きな人と少しでも長く一緒に居たいと思うのは、誰だって胸に抱く当たり前の感情だ。二十四時間三百六十五日、変わることの無い願いだ。
 そしてたまに巡ってくる記念日は、その思いが殊更強く現れる。今回はそれが、偶々クリスマスだっただけの話。
「駄目、なんですか」
「沢田?」
「俺は、ヒバリさんと一緒に居たい。ヒバリさんに会いたい。そう思うのも、いけないことなんですか」
「そうは言ってない」
「同じです!」
 半泣きで、たどたどしく告げる。雲雀は首を振ったが、一瞬迷いが挟まったのを、綱吉は見逃さなかった。
 嫌いになったのであれば、さっさとそう言って欲しかった。いつから邪魔に感じられていたのだろう、迷惑だと思われていたのだろう。鬱陶しい、面倒な奴だと、そう。
 あの男達に嘲笑われた記憶が蘇る。フラれたのだろうと、そう言われた。あの時は反発したけれど、今はそんな気力も残っていない。
 睨み続けることが出来なくて、綱吉は息を吐くと同時に身を引いた。
「さみしかった」
「さわだ?」
「ヒバリさん、今月入ってからずっと忙しいみたいだったから。俺も、邪魔しちゃ悪いって思ってて。でも、ホントはずっと寂しかった」
 手袋のまま両手を重ね、緩く握る。下を向いたままぽつり、ぽつりと呟いた彼に、雲雀は半歩、摺り足で近付いた。
 冷たい風が吹いている。時刻は深夜と言って良い頃合だ。灯っていた家々の明かりも、公園に来たばかりの頃に比べれば幾らか減っていた。
 綱吉の視線は手元、そして足元を漂い、上に向かうことはなかった。チロリと出した赤い舌で唇を舐め、瞳と一緒に首も左右に揺らしながら、彼は膝を寄せてベンチの上で小さくなった。
「会いたかった。喋りたかった。もっといっぱい、一緒にいたかった。でも言えなかった。言っちゃいけないような気がした。嫌われそうで怖かった」
 途切れがちの言葉が雲雀の胸をノックする。遠慮がちに、恐々と。
「好き、だから。我慢した。冬休みになったら、ちょっとは暇になるのかなって思ってた。ひょっとしたらクリスマスくらいならって、考えてた。だって、そう思わなきゃ、俺」
 涙をいっぱいに湛えた瞳を持ち上げ、綱吉は久方ぶりに雲雀を見た。
 顔を歪め、嗚咽を堪えて口を真一文字に引き結ぶ。それでも漏れてしまう分はどうしようもなくて、しゃくりを上げて喉を引き攣らせた彼は、縋るものを求めて手を伸ばした。
 雲雀の学生服の裾を掴んで、引っ張る。溢れた涙を地面に落とし、綱吉は彼の胸に額を押し当てた。
「俺、壊れちゃうよ」
 好きで、好きで、どうしようもないくらいに大好きで。こんなことになっても、まだ彼が好きで。
 今だって、哀しいと思うと同時に、その何十倍も、何百倍も、会えて嬉しいと思っている。自分を見つけてくれて嬉しいと、感じている。
 硬い布におでこを擦りつけ、鼻をずくずく鳴らす。堰を切ったように涙が溢れて止まらず、最初は我慢した声も結局は限界を超えた。
 好きが溢れ過ぎて、押し潰されそうだ。
「なん、で……俺、ばっか。……ヤダよ」
 寂しく感じていたのも、会えない時間がつまらないと思っていたのも、物足りなさを覚えていたのも、全部自分ひとりだけ。
 雲雀は平気だったのだ。会えなくても、声が聞けなくても、メールがなくても、一緒じゃなくても。むしろ綱吉が関わろうとしない方が、仕事も捗ったに違いない。
 彼と言う存在に、綱吉は邪魔なだけ。
 今年の春の初め、雲雀に好きだと言われた。
 言われてから、綱吉も彼が好きだと気が付いた。
 だけれどこれでは、一方通行の片思いとなにも変わらない。伝わらない思慕の情に胸を焦がし、身も心も燃え尽きてしまいそうだった。
「もう……ヤダ!」
 顔を伏したままかぶりを振り、雲雀の腕を思い切り掴む。爪も立てて、むき出しの彼の手首に傷を作って、ありったけの声で叫ぶ。
 返事は無い。反応もない。所詮はその程度だったのかと、頭の片隅に残っていた冷めた部分が嗤った。
 刹那。
「っう――」
 いきなり肩を掴まれて後ろに押し返されて、頭がガクン、と揺れた。目尻にいっぱいだった涙が四方に飛び散り、咄嗟に閉じた前歯で舌を噛んでしまう。慌てて引っ込めて視線を前方に向けるが、暗すぎて物の輪郭は何もかもが朧だった。
 ふわりと鼻先を掠めたお日様の匂いに、無意識に喉が鳴った。額に触れた髪の毛が自分の癖毛なのか、違うのかの判断もつかない。視界を濁らせている涙を取り払おうと、瞬きを連発させる。薄く開いた唇から音を吐こうとして、咥内にあった空気が全て奪われた。
 唇に触れた柔らかな感触に竦み、続けざまに鳥肌が全身を包み込む。ぶるりと来た寒さに指先までが痺れて、直後に凍てついた心を蕩かす甘い、甘い熱が広がっていった。
「ん……」
 鼻から吐息を零し、綱吉は半分閉ざした状態だった瞼を下ろした。
 本当は跳ね返したい気持ちもあった。こんなことで誤魔化されたくない、という反発もあった。
 だのに、身体は動かない。キスひとつで許してやれる程、綱吉は寛容ではない。それでも雲雀が与えてくれるこの熱に心は歓喜し、溺れた。
 足りない。
 こんなキスじゃ足りない。
「んぅ、ぁふ、……んっ」
 無意識に腕を伸ばし、雲雀の袖を掴む。引っ張る。手繰り寄せて、自分からも擦り寄り、短い息継ぎに喘いで、もっと欲しがって自分から彼に齧り付く。
 歯列を割って柔らかな舌先が侵入してくる。待ち望んでいた火傷しそうなまでの熱さに、背筋がゾクリと粟立った。
 肩を抱いていた彼の手が片方、上腕を滑り降りていく。背中に回った掌が腰を抱いて、綱吉は座りを浅くして距離を詰めた。
 膝を寄せて、脚を肩幅に開く。素早く身を滑り込ませた雲雀が、ち、と軽い水音を響かせてくちづけを解いた。
 若干乱れた息遣いを感じて、綱吉が恐る恐る瞼を開く。真っ先に自分の吐く白い息が見えて、顔を上げるのを躊躇していると、左肩に残っていた雲雀の手が頬に触れた。
 冷たい。
 思わず身震いして、反射的に逃げようとしたのを堪えて留まる。怯えてしまった心臓を宥め、濡れた唇を捏ね合わせる。涙の痕を消そうとしてか、雲雀の掌は何度も同じ場所を往復した。
「……ん」
 混ざり合ったふたり分の唾液を飲み込んで、ほう、と息を吐く。膝に置いていたキーホルダーは、帽子と一緒にコートの裾に引っかかって不安定に揺れていた。
 今にも落ちそうになっているのに気付いて、右の手袋を外して慌てて掬い取り、ポケットに戻そうとする。それを素早く伸びた雲雀の腕が止めた。
「沢田」
「違うの。これは、その」
 あんなに次から次へと溢れていた涙はすっかり過去のものとなり、雲雀を責める気持ちも萎んでしまった。
 キス一回で簡単にほだされてしまった。現金すぎる自分を苦々しく思いながら、彼は雲雀の視線から粘土細工を隠した。
 首から上も脇へ逸らし、答えを渋る。真っ直ぐ見詰めてくる雲雀の目が、ひたすら痛かった。
「さわだ」
「う……」
 繰り返し名前を呼ばれて、その口調が最初に比べると格段に柔らかくなっている事実に臍を噛む。前髪の隙間から彼を覗き見れば、ぼんやりとした照明に照らされた青年は、綱吉の心理状態が加味されているとはいえ、いつになく優しい表情をしていた。
 頬にサッと朱が走り、癇癪を起こした少し前の自分を恥じ入りながら、両手をもぞもぞさせる。
「どうして、あんなところにひとりで居たの」
「それは、さっきも言った」
「どうして?」
 紡がれる質問に、綱吉は首を振った。が、許してもらえない。雲雀が知りたいのは其処ではないのだと、あまり成績宜しく無い頭で考える。
 右手を左手で覆い、祈るようなポーズを作って、彼は仕方なく指を紐解いていった。
 血の気の引いた肌色の上に転がる、黒っぽい物体。本当は銀色の絵の具で塗装してあったのだが、男に踏み潰された時に汚れてしまった。砕けた部分からは芯にした針金と、粘土の白い断面が覗いていた。
 細長い縦棒に、短い横棒が中央より若干低い位置に付随している。先端部分からはみ出た針金は輪になっていて、そこに紺色の紐が結ばれていた。
 ふたつで、ひとつ。
 彼らにとってはとても馴染みのあるものを模した品に、雲雀は目を瞬かせ、肩を竦めた。
「壊れちゃった、けど」
「うん」
「壊されちゃった、けど」
「うん」
「ヒバリさん、携帯電話になんにも、つけてないし。何かあった方が良いかな、でも邪魔かな、って、思って。俺、馬鹿だし、お金もあんまり持ってないから、高いのは買えないし、不器用だから下手糞で、全然上手に出来なくて、でも、でも……」
「うん」
 ぎこちない、切れ切れの綱吉の言葉を、雲雀は相槌を挟みながら静かに待った。
 茶々は入れない、不用意な発言もしない。綱吉が言葉を見つけて、音にして吐き出すまで、じっと、微動だにせずに待った。
「折角、クリスマスなのに。渡したかったけど、学校じゃ出来なかった。でも、渡したくて。どうしても、ヒバリさんに会いたくて。会いたかった。風紀委員が、今夜はずっと繁華街の方にいるって、聞いて。じっとしてらんなくて。こっち来たら、会えるんじゃないかって。思った。会いたかったから。探したら見付かるんじゃないかって、俺、だから」
 たどたどしい説明の途中で、綱吉は無意識に自分の頭を掻き回した。右手でクシャリと握って潰し、時折ぜいぜいと息を乱して。
「うん」
 雲雀が変わらぬ調子で相槌を打つ。ちゃんと聞いてくれているのが嬉しくて、綱吉は少しだけ息を弾ませて、思いの丈をありのままに紡いだ。
 どうしても今日、会いたかった。ひとりで過ごすのは嫌だった。
 好きな人と一緒に居たい。一時間でも、十分だけでも良い。手を繋いで、抱き合って、キスをして、そうやって恋人同士のクリスマスを過ごしたかった。
 好きだから。どうしようもなく、好きだから。
 喋っているうちに感極まって、じわっと熱い涙が琥珀を濡らした。奥歯を噛み締めて、零れ落ちぬよう耐える。雲雀の指が伸びて、目の下を右から左にゆっくり撫でていった。
 彼の手の動きに合わせて首を振り、しゃくりをあげると同時に咥内に溜まっていた唾を一気に飲み干す。唇を舐めて渇きを癒し、肩を上下させて目の前の青年を見詰める。
 さっきまでは笑顔だった彼は、今は何故か、不機嫌そうだった。
「そう」
「ヒバリさん……」
「ひとつ訊くよ、沢田綱吉」
「あ、はい」
 どこかで彼の気に触る事を言ったのか。必死に説明していたので、今となっては自分が何を語ったのかも思い出せない。
 目を見開いて、心細さに顔を歪めたところで、雲雀の低音に慌てて背筋をシャンと伸ばした。
「今日って、何の日」
「……クリスマス」
「違う」
「違わないです!」
 いきなりの質問は、今までの話をちゃんと聞いていたのかと疑いたくなる内容だった。
 ボソボソと不満げに答える。瞬時に雲雀の、不機嫌な声が響く。
 咄嗟に立ち上がって、雲雀に詰め寄って、綱吉は怒鳴った。
 けれど彼は顔を顰めただけで、綱吉の肩を掴み、ベンチに押し戻した。
「ヒバリさん」
「今日はクリスマスじゃない」
「じゃあなんだって……あ」
 ぶすっとしたまま言い重ねられて、拳を振り上げた綱吉だったが、振り下ろす直前にとある事実に思い至り、間抜けな声を発して肩の力を抜いた。
 ベンチの上で内股気味に座り込み、呆然と目の前の青年を仰ぐ。
「クリスマスは、明日」
「屁理屈!」
 今日は二十四日、イブの日。確かに彼の言う通り、クリスマスそのものは、あと数時間とないうちにやってくる明日だ。
 だけれど近年では、前夜の方が聖夜の盛り上がりは高い。
 苦々しい表情で前歯を噛み鳴らした綱吉に、雲雀は久方ぶりに笑った。頬を緩め、目尻を下げて、癖毛が跳ね放題の頭を軽く叩いて撫で回す。
 優しい手つきにホッとしていたら、いきなり爪を立てて鷲掴みにされた。
「いでっ」
「だからね、僕はちょっと、今、かなり、怒ってるよ」
「痛い、イタタ、……たっ」
 言っている事が無茶苦茶だ。座ったまま背筋を伸ばして、もげそうな頭を両手で庇う。雲雀の手を叩いて、引っ掻いて追い払い、もう少しで抜けてしまうところだった首を撫でる。
 解けかけたマフラーを手早く直して睨み返すと、彼は悪びれた様子もなく胸を張り、そしてぐしゃぐしゃになった綱吉の頭を小突いた。
 首を竦めて真ん丸い目を平らに引き伸ばした綱吉を下に見て、大袈裟なくらいに分かり易い溜息をひとつ。
「君って、サンタクロースは、信じる?」
「はい?」
「信じる?」
 さっきから話が飛び飛びで、支離滅裂すぎてついていけない。
 素っ頓狂な声をあげて聞き返した綱吉を無視し、雲雀はさっさと答えろと無言の圧力をかけてくる。苦虫を噛み潰したような顔を向け、綱吉は脳裏に描いた赤い服と帽子に白い袋を抱えた髭の男性像を打ち消した。
「そんなの、信じな……」
「信じる?」
「しん、じ、ます」
 無邪気に存在を信じているのは、ランボくらいの年齢の子供くらいだ。いくら綱吉が馬鹿だからといって、流石にサンタクロースは作り話で、想像上の存在でしかないくらい知っている。空を滑る橇なんてものも存在しない。そもそも日本の家屋の大半には煙突が無いのに、いったいどこからプレゼントを届けに入ってくるのか。
 もし本当に存在するとしても、今の世の中では、不法侵入で逮捕される不審者だ。
 夢の無い事を次々に思い浮かべるが、雲雀の凄みを利かせた問いかけに、否定の語句を吐けるわけがなかった。ずずい、と顔を寄せて来る彼の真剣で、だからこそ怖い表情に引き攣り笑いを返し、途切れ途切れに言葉を紡いで奥歯を鳴らす。
 無理矢理引き出した返答ながら満足したようで、雲雀は前屈みだった姿勢を元に戻した。
 圧迫感から開放されて、綱吉は無自覚にホッと胸を撫で下ろした。いったい何のつもりなのかと、窺う目線を彼に投げる。雲雀は気付いているだろうに無視を貫き、左袖を引っ張って手首を露にさせた。
 巻きつけた時計の針を読み取ろうとして、舌打ちする。どうやら光が足りず、見えなかったらしい。彼はくるりと反転して公園中央に腕時計を向け、薄明かりに照らした。
「もうすぐ」
 彼の独白が何を指しているのかは、はっきりしない。だが時計を気にしたところからして、日付がもうじき変わると、そういう意味だと綱吉は解釈した。
 腕を下ろしてベンチ前に戻った雲雀が、もう一歩踏み込んで綱吉の横に並んだ。向きを百八十度入れ替えて、断りもなく空いていたスペースにどっかり腰を下ろす。肘は背凭れに引っ掛けて、どことなく偉そうだ。
 踏まれはしなかったがビクリとしてしまい、反対側に膝を倒して避けた綱吉が、困った顔で傍らを見る。ちらりと横目を流した雲雀は、何も言わずに視線を戻した。
「今日で今年の仕事は、全部終わる予定だったんだよ」
「……え?」
「今夜の見回りで、全部。僕の判が必要な書類は、昼のうちに片付けた。とはいっても、ちょくちょく出て来るだろうから、まるっきり仕事をしないわけにはいかないだろうけど」
 目を合わせぬまま、ぶすっと言われた。
 また話が飛んで、一瞬何のことかさっぱり分からなかった綱吉は、小首を傾げて数秒考え込んだ。顎に手をやって、上に捻りながらクエスチョンマークを遠くに飛ばす。
 天を仰いで今度は下を向いてから、彼は突然隣を振り返った。
「え!」
「ひと段落ついたから、後は草壁たちに任せて君の家に行ったら、出かけたまま帰って来てないって言われるし」
 右を上にして脚を組んだ雲雀が、背中を丸めて頬杖ついて、不貞腐れた様子で息巻いた。恨めしげに睨み付けて、直ぐに逸らす。零れ落ちんばかりに琥珀を見開いた綱吉は、右に身を乗り出し、両手をふたりの隙間に押し込んだ。
 己の耳を先ず疑った。次いで夢を見ているのかと考え、頬を抓った。ちゃんと痛いのに安堵して、跳ね上がった心臓をコートの上から撫でた。
 ドキドキと力強い脈動が、外にまで聞こえてしまいそうで怖かった。頬が勝手に紅潮し、気が逸って落ち着かない。もぞもぞと脚を動かして踵を上げ下げさせて、雲雀の次の言葉を待つ。
 拗ねた顔をして、彼は少しもじっとしていない綱吉の額を人差し指で小突いた。
「いちっ」
 彼は最初から、冬休みの予定を空けるつもりでいた。今月に入ってからやたらと忙しかったのも、全部その為だった。
 そう思うと、心がホカホカと温かくなるのが分かった。さっきまで胸を埋めていた哀しい感情が、全部綺麗にひっくり返った。逆立ちでもして踊り狂いたい気持ちに駆られて、頻りに唇を舐めて自分を押し留める。
 けれど不意に、目の前に暗い影が落ちてきた。幸せを感じて膨らんでいた心が、風船から空気が抜けていくように急激に萎んで、しなしなになった。
「ヒバリさん、さっき……クリスマスなんか、どうでもいいって」
「思ってたよ。思うに決まってるだろう」
「なんで」
 先ほどの彼の熱弁ぶりを思い出して、恐る恐る問いかける。不愉快だと言わんばかりに顔を歪めた彼は、険のある目つきで綱吉をひと睨みし、口を尖らせてそっぽを向いた。
 不安になって、手を伸ばす。冷えた布の上から肩を掴むと、即座に払い除けられた。
「君が、女子を送ると言って出かけていって、帰ってないって聞かされた僕の気持ち、分かる?」
「あっ」
 振り返り様に至近距離から怒鳴られて、悲鳴に近い声が出た。
 言われてみれば、確かにそうだ。綱吉は自宅を出る時、その理由を、ハルたちを送って行くとしか告げなかった。
 だのに、二時間経っても、三時間経っても、綱吉は戻らない。綱吉を好きだと公言する少女と一緒に、どこで何をしているのか。雲雀が邪推するのも、ある意味仕方が無かった。
 真ん丸い目をパチパチさせて、間抜けにぽかんと開けた口をゆっくり閉じる。
 唇に曲げた指の背を押し当てて、綱吉は心持ち赤い顔の雲雀に目を潤ませた。
 声に出して笑いたくて、けれどそうしたら絶対に彼は不機嫌の度合いを増すと分かっているので、必死に堪える。ただ肩が小刻みに震えるのだけは止められず、横目で睨んだ青年は不満顔で嘆息した。
 流石に夜の十時にもなれば、繁華街の人出もひと段落する。取りこぼしがあるとも知らず、もう自分が居なくても大丈夫だろうと見切り発車で切り上げてしまったのも、彼が気分を損ねた理由のひとつだろう。
 パーティーも終わり、子供達も寝静まった沢田家に、サンタクロース宜しく突然訪ねて行って驚かせようとしていたのに、驚かせたかった当人が不在。肩透かしを食らった雲雀が、クリスマスに対して憎悪にも似た感情を抱くのも無理はなくて、想像を巡らせた綱吉は苦笑した。
「え、えー?」
「なに」
「なんでも」
 幸せな気持ちが、後から後から湧き出てくる。上擦った声を我慢出来ない。睨まれても、ちっとも怖く無い。
 最初から彼も、綱吉と過ごすつもりでいてくれたのが、嬉しい。
「まったく、どこに居るのかと思えば」
「ごめんなさい」
「本当だよ」
 嘆息混じりに呟かれて、綱吉はそこだけしゅん、と大人しくなった。
 元はといえば雲雀が綱吉に、何も言わなかったのが悪い。だけれど綱吉だって、雲雀に対して言葉では何の要求もしなかった。
 もう一歩踏み込む勇気があれば。主張していれば。ひと言、付け足していたなら。
 後悔が次々に押し寄せてくるけれど、溺れることは無い。綱吉は真っ直ぐに雲雀を見詰め、堪えきれずに破顔した。
 頬杖を解いた雲雀は腕を伸ばし、綱吉の肩を抱いて引き寄せた。上半身を傾がせ、体重を預けて寄り掛かって目尻を下げる。
「これ」
「あ……」
 膝に落としていたキーホルダーを雲雀が抓み上げ、揺らす。遅れて気付いた綱吉は、一寸気まずげに唇を舐めた。
「くれるの?」
 密やかな期待に濡れた小声で囁かれて、耳朶に熱風を浴びた綱吉は慌てて首を振った。素早く奪い返し、靴跡が薄ら残る帽子の下に隠してしまう。
 深追いはせず、ただ不満げな視線を投げて、雲雀は口を尖らせた。
「へたっぴ、だし。壊れちゃったし」
「いいよ、それで」
「でも」
「僕も、……何も用意できなかったから」
「む」
 迷いつつ、尻込みしていたら、聞き捨てなら無い台詞が聞こえた。
 自分を棚に上げてむっとしてしまい、隣で鼻の頭を掻いている青年を睨む。雲雀は肩を揺らして苦笑し、開き直った態度で胸を張った。
「仕方がないだろう、忙しかったんだから」
「ぬー」
 休憩時間も、睡眠時間すら削って、煩瑣な事務処理を一気に終わらせたのだ。買い物に出る暇等なかったし、ましてや手作りの品を用意する余裕は尚更に。
 ハリセンボンのように膨らんだ頬を突いてへこませ、雲雀は深く長い息を吐いた。左手首を顔の前にやって、目を細める。時計の針を暗がりの中で見つめて、十二秒後、彼は身を屈めて綱吉の耳元に唇を寄せた。
 この季節お決まりの、けれど彼の口からだと妙に新鮮で照れ臭く、恥ずかしい台詞を聞かされて、綱吉はくすぐったさに身を捩った。
「サンタクロースに、何お願いするの?」
「えー」
 甘いささやきに、クスクス笑いながら考える。
 欲しいものは沢山ある。お菓子に、ゲームに、服に、色々と。遊園地に遊びに行きたい、映画も観たい。美味しいものを色々食べてみたいし、水族館でイルカのショーも悪くない。
 言い出したらキリが無い。頭の中で数え上げ、順繰りに指を折って一周したところで彼は肩を竦めた。
「なに?」
「うーん」
 答えを急かした雲雀を上目遣いに見詰めて、小さく呻く。頬に人差し指を押し当てて二秒、思い浮かんだ妙案に、悪戯っぽくはにかむ。
「聞いてくれますか?」
「うん」
 恐る恐る問うて、迷いもせずに頷き返した彼の眼をじっと見詰める。嘘偽りが無いのを確かめて、綱吉は深呼吸を二度繰り返した。
「じゃあ、えっと。……ヒバリさんの冬休み、全部。俺にください」
 一瞬の躊躇をかなぐり捨てて、思い切って告げる。
 きらきらと目を輝かせ、冴えた漆黒の瞳に自分の姿を映しながら願いを口にした彼に微笑み返し、雲雀はふっと肩の力を抜いた。
 意地悪に切れ長の目を細め、チロリと覗かせた舌で唇を舐める。ドキリとした綱吉の反応を満足そうに眺めて、右に首を倒して音もなく忍び寄った。
 ちゅ、と触れるだけのキスを贈って、直ぐに離れる。もったいぶる彼に渋い顔をして、綱吉は口を窄めた。
「随分と贅沢な注文だけど、じゃあ君は、僕に何をくれるの?」
「それは、……はい」
 逸らすのを許さない魔力を秘めた視線に、綱吉は一瞬言葉を詰まらせてもじもじと腰を揺らした。
 膝の上の帽子を取り払い、隠していたものを掴んで差し出す。雲雀は右手を広げて受け取り、紐を握って高く掲げて顔の前に持っていった。
 表面に細かいヒビが入り、塗装も剥げてみすぼらしさ全開の品をじっくり観察して、握り締める。不安と期待が入り混じり、綱吉は息を殺して返事を待った。
「足りない」
「えぇえーーー」
 夜中の零時を回っているというのに、近所迷惑を考えない大声をあげて、綱吉はベンチの上で仰け反った。
 意味深に笑んだ男を前に地団太を踏み、ぶすっとした顔で奥歯を軋ませる。
 雲雀は彼の膨らんだ鼻をちょん、と突いて、指先を真下に滑らせた。突き出た唇を縦に塞ぎ、顔を寄せて指越しにキスをひとつ。
 満月だった琥珀の目を半月にして、綱吉は彼の意図を読んで指の腹を舐めた。
「分かりました」
「宜しい」
 淡く食んで、舌で包んで咥内に招き入れる。口を窄めて吸いつき、たっぷりと唾液を塗してから、掠れるような小声と一緒に吐き出す。
 雲雀は肩を揺らし、今までで一番の笑顔を浮かべた。
「ん……」
 どちらからともなく目を閉じれば、相手の心を読んで即座にくちづけが降って来る。鳥の啄みにも似た戯れのキスに始まり、次第に熱を帯びたくちづけへと。
 唇の合わせ目を擽られて薄く広げれば、即座に忍び込んでくる高熱に全身の血液が沸騰する。脳髄が蕩かされ、心どころか体までもがどろどろに溶かされてしまいそうだ。
 水の跳ねる音が途切れ途切れに響き、羞恥を煽られて足が竦む。咥内を余すところなく舐められて、嬲られて、舌を思い切り吸われた。
「ふぁ、あ……んぅっ」
 引き千切られそうな恐怖に背筋が粟立ち、それがえもいわれぬ快感に摩り替わった。
 駆け抜けた電流に鳥肌が立ち、縋るものを求めて手を伸ばす。雲雀の腕もまた虚空を掻いて綱吉の背に回り、腰を抱き、ふたりを別つ空間をゼロにした。
 分厚いコートの上からでも、彼の手が今どこにあるのかが分かる。右の瞼を持ち上げて息を吐いた綱吉は、それさえも雲雀に吸い取られて眩暈を起こした。
 学生服の上から彼の腕を握り締め、爪を立て、引っ掻き、ぎゅうっと強く抱く。絶対に放すものかと態度で示し、痛かった雲雀は声を殺して笑った。
「いいよ。君にあげる。全部あげる」
「は、ぁ……ヒバリさん、んっ」
 雫を垂らした唇を舐められ、牙を立てられ、声がひっくり返った。喉が引きつり、コクリ、と目立たない喉仏が鳴った。
 貪欲な肉食獣を前に、琥珀の瞳を甘く色付かせ、綱吉が恥ずかしそうに頷く。
 雲雀にあげてしまった冬休み。既に幾つも企画が立ち上がっている、獄寺達の約束をどうやってキャンセルしようか。
 頭の片隅で一瞬考えた懸念は、雲雀が与えてくれる熱にずくずくに溶かされて、直ぐにどこかに消えてしまった。

2009/12/19 脱稿