停頓

 黄土色の砂地の上に、濃く長い影が伸びていた。
 平行四辺形が等間隔に三つ並び、その隣に少しだけ高さを増やした四角形が、また二つ。間断なく連なった合計六つの影は、太陽の傾きに従う以外は全く形を変えずに其処に存在したが、右から数えて四番目の影だけは、少しだけ趣が違っていた。
 別の影が延び、整然とした形を崩してしまっている。ぴょんぴょん飛び跳ねる兎のように動き、時折右や左に傾いては、長くなったり、短くなったり。一秒として同じ形を保持せず、ひとつに定まらない。
 広い公園には他に人影もなく、ひっそりと静まり返っていた。
 敷地のほぼ中央に根を下ろす楠は、気温がぐっと下がるこの季節であっても、青々とした葉を茂らせて天に向かって枝を伸ばしていた。だが矢張り、夏場と比べると幾らか寒そうに見えるから、不思議だ。
 東を向いている太い影は、まるで日時計だ。ブランコや滑り台も沈黙し、明日の朝に子供たちがやってくるまで、少し早い眠りに就いている風にも見受けられる。
 だからこそ、鉄棒を前に動き回る影は目立つ。静寂に満ちた空間を荒らす異端者に視線を戻し、彼は呆れた様子で肩を竦めた。
 冬場は日暮れが早い。あと三十分もすれば太陽は地平線の向こうに消え、周囲は闇に落ちるだろう。
 西の空、連なる住宅の屋根越しに見える太陽は、鮮やかなオレンジ色をしていた。薄く伸びる雲を彩る夕焼けは美しいが、この風景が拝めるのもあと数分限りだろう。
 見ないのは勿体無いと、素直に思う。だけれど鉄棒を前に悪戦苦闘している人物には、景色を楽しむだけの余裕はなさそうだ。
「あいてっ」
 悲鳴が聞こえて、急いで視線を戻す。どうやら鉄棒を掴み損ねたらしく、見事に尻餅をついて地面に座り込む姿を遠巻きに眺め、彼は苦笑した。
「何をやっているんだろうね」
 こみ上げる笑いを押し殺し、口元に丸めた指をやって肩を震わせる。目尻を下げて見守る彼の存在に気付きもせず、強かに打ちつけた尻を撫でた人物は、恥ずかしそうに立ち上がって土埃を払い除けた。
 傍には学校帰りと分かる鞄と、制服の上着が一塊になって置かれていた。白いカッターシャツ一枚で寒そうであるが、気にする様子も見られない。
 並盛中学校の体育のカリキュラムに、鉄棒は含まれていない。グラウンドには、懸垂用の背が高いものならばあるけれど、公園に設置されているような背の低い、腰の高さ辺りのものは存在しなかった。
 元々運動が苦手で、個人競技も団体競技も不得手にしているのは知っていたが、だからといって何故今、鉄棒なのだろう。
「どあ!」
 小首を傾げて考え込んでいる間に、彼はまた手を滑らせ、今度は背中から地面に落ちた。
 下手をすれば後頭部をぶつけかねず、危なっかしいことこの上ない。倒れてから数秒動かない姿に肝が冷えて、駆け寄ろうか逡巡しているうちに向こうは身を起こし、座ったまま首を振った。
 先ほどは直ぐに立ち上がったが、今度はそうならない。足を投げ出して冷たい地面に腰を下ろし、脱力気味に斜め上を見上げる姿が印象的だった。
 ぼんやりとした顔で、いったい何を思っているのだろうか。
「本当に」
 やがて彼は膝を寄せ、そこに右手を絡みつかせた。落ち込んでいると遠目からも分かる素振りに相好を崩し、雲雀は羽織った学生服を揺らし、公園の入り口から敷地に足を踏み入れた。
 歩み寄る雲雀の影は後ろ側に伸びるので、俯いている彼はなかなか接近に気付かない。
 ついに古びた鉄棒を挟んで真向かいに至っても、彼は顔を上げなかった。それを少し残念に感じながら、雲雀は痺れを切らして胸元の鉄棒をコン、と叩いた。
 音はさほど広がらない。しかし他人の気配を気取り、彼はようやく、はっとして首を持ち上げた。
 大きな琥珀の瞳がいっぱいに見開かれ、其処に黒い影を映し出す。人の影を踏んで立つ雲雀に、綱吉は驚きを隠そうともしなかった。
「ひば……」
「鉄棒の練習?」
 掠れた声で名前を口ずさむが、最後で息が切れて続かない。呆然とする彼にゆったりと笑いかけ、雲雀は黒ずんだ横棒を撫でた。
 逆上がりをやろうとして、失敗を繰り返していた姿が脳裏に蘇る。雲雀が公園横を通り掛かった時にはもう、綱吉は此処に居た。だから十分以上、彼はひたすらに地面を蹴り上げていたことになる。
 軽い調子の問いかけに、綱吉は唇を戦慄かせて言いかけた言葉を呑んだ。気まずげに下を向き、視線を逸らす。砂に残る靴跡を手で払って消して、彼は大きな動きで立ち上がった。
 スクッと背筋を伸ばし、雲雀と向き直る。拗ねた感のある表情をして、矢張り先に彼から顔を背けた。
「いけませんか」
 不貞腐れた印象を抱かせる声で聞き返されて、雲雀は返事の代わりに淡く微笑んだ。悪いことではないが、もう日没まで間が無い。公園内にも照明はあるが、全体を照らすには不十分だ。鉄棒の周囲は、既に薄暗い。
 西の地平線に一瞬だけ目をやって、直ぐに戻した雲雀が分かる角度で小首を傾げる。唇を尖らせている綱吉をじっと見詰める視線には、何故練習していたのかを探ろうという意思が感じられた。
 学校帰りに、わざわざ自宅から遠い公園で、ひとりで。授業でもやらない逆上がりを練習して、彼に何の得があるのか。
 いぶかしむ視線に居心地の悪さは否めず、綱吉は鉄サビが移って黒ずんだ手で、皺だらけのシャツを握り締めた。汚れが乗り移る。腹の辺りにも、鉄棒から直接付着したと思しき赤茶けた筋が何本も走っていた。
「悪くはないけどね」
 雲雀が淡々と呟き、置きっ放しの学生服その他を見下ろす。気付いた綱吉も同じ物を見て、ほうっと短く息を吐いた。
「理由の無い寄り道は、駄目」
「……」
 疲れが滲む横顔に淡々と言い切り、手を伸ばす。跳ねている髪に潜り込んでいた砂粒を落としてやり、それだけで雲雀は肘を引っ込めた。
 振り返った綱吉が、雲雀の手があった場所に左手を重ね、僅かに頬を赤らめる。元から色素の薄い毛先は、夕日を浴びて一層輝きを強め、まるで稲穂が風にそよいでいるようだった。
 赤みを帯びた雲の数は減り始めていた。東からヒタヒタと足音を立て、藍色の闇が空を覆い尽くさんと触手を伸ばしている。公園の、楠の傍に設置されたライトも、いつの間にかぼんやり白く輝き始めていた。
 視線を戻した綱吉が、若干尻込みしながら雲雀を見やる。窄められた唇は、躊躇を挟んで二度、三度と開閉を繰り返した。
「じゃ、あ。用があれば、良いんですか」
「ものに拠るね」
 ただ意味もなく繁華街をうろうろするのは駄目で、友人と一緒に宿題をする為に図書館へ行くのは良い。学生に求められるのは勤勉さであり、無為に時間を過ごして遊び惚けることではない。
 嫌味にも聞こえる台詞を口にした雲雀を上目遣いに睨んで、綱吉は嘆息した。肩を落とすと同時に寒気が舞い戻ってきて、薄手のシャツ一枚の自分を思い出して抱き締める。
 腕をさすった彼の手は、他に比べて随分と赤かった。
「それで?」
「逆上がりの、練習です」
「それは分かってる」
 言い渋る彼を急かし、促す。雲雀の言葉を受けてぐっと息を呑んだ綱吉は、尻すぼみに音量を小さくしながら赤い顔で呟いた。
 けれどそれは、既に分かりきったことだ。公園入り口で十分近く見守っていたとは言わなかったが、綱吉は迷いのなかった返答に眉根を寄せ、怪訝にしながら相手の顔を見返した。
 雲雀が来た時、綱吉は地面に座り込んでいた。確かに鉄棒を前にして、制服のジャケットを脱いでいるところから総合的に判断して、練習中だったのは楽に想像が出来るだろう。だけれど、鉄棒の回り方には何種類かある。
 それなのに逆上がりの練習をしていたと断言出来るだけの材料を、雲雀は既に持っていた。
 となれば、
「まさか、……見てました?」
「うん」
 恐る恐る問えば即座に首肯が返されて、綱吉はぞわっと背筋に悪寒を走らせた。
 血液が上から下へ一気に流れ落ちて行った、そんな感覚に襲われて、両手で強く身体を抱きしめる。内股気味に膝をぶつけ合わせた彼にふっと笑いかけ、雲雀は右中指の背で黒ずんだ鉄棒を叩いた。
 失敗の連続を目撃されていた。綱吉の日頃の運動オンチぶりを彼が知らないわけがないが、それでも矢張り恥ずかしい。
 夕焼けにも負けない程の赤みを帯びた頬を膨らませ、苦虫を噛み潰したような顔をして人を睨む。雲雀は飄々と受け流し、見詰める視線でもって練習していたそもそもの理由を問うた。
 言わなければ開放してもらえそうになくて、綱吉は臍を噛んだ。
「笑わない、ですか」
「どうして?」
「だって、俺、逆上がり……出来ない」
 肘を掴んでさすって、回答の前に質問を繰り出す。言いづらそうに視線を先へ流した彼の揺れる毛先を眺めながら、雲雀は羽織るだけの学生服を広げ、腰に握った拳を押し当てた。
 出来ないのは、先ほど見た。何度挑戦しても足が回りきらず、地面に落ちてしまう。順手から逆手に握り替えてもみたが、小細工をしたところで全く通用しなかったのも、雲雀は知っている。
 だからこそ諦める事なく練習していたのだろう。出来るようになりたいから、と。
 ただ問題なのは、其処ではない。体育の時間に馬鹿にされたから、というような理由がありえない以上、いきなり思い立って始めたのでない限り、なにかしら彼の背中を押した要因があるはずだ。
 運動オンチで、故に自分から積極的にスポーツに参加したがらない綱吉が、急に何故。
「あ、うん。……出来ないから、教えて欲しいって、言われたから」
「誰に」
「フゥ太に」
 雲雀の顔を見上げ、直ぐに伏した綱吉が鉄棒に触れた。雲雀が置いている手の直ぐ横、二センチほどの空間を置いて緩く握る。
 反対の手も掲げ、直径二センチ少々の硬い棒を仇のように持った彼は、雲雀が黙って後退するのを待ち、後ろに引いた右足にぐっと力を込めた。
 同時に握りを強め、鉄棒に胸を寄せる。脇を締めて歯を食い縛り、雲雀が見守る中、影を躍らせて左足を前に踏み出した。
 右足で地を蹴って、勢いつかせて上体をより鉄棒に密着させる。けれど、下半身がついていかない。伸びた脚はブランコのように空を掻き、大地に水平になった辺りで失速した。
 踵から落ちて、砂を削る。浅い溝を残して息を吐いた彼は、やっぱり、と口の中で呟いて鉄棒に寄りかかった。
 サビ臭くて冷たい棒に額を押し当てて、深く項垂れる。
「下手だね」
「分かってますよ」
 茶化すわけでもなく、至って淡々と感想を口にした雲雀に怒鳴り、顔を上げる。体力が尽き掛けて、最初の頃に比べて足の上がり具合も低下していた。やり始めた時にはあと少しで、というところまで達したのに、今は最初から駄目だと分かるところまでしかいかなかった。
 膨らませた頬を潰し、首を振って、彼は今日何度目か知れない溜息をついた。
「フゥ太が、逆上がりが出来ないから教えて欲しいって。それで俺、つい」
「安請け合いしたの」
「……はい」
 元気が無い綱吉の説明に、雲雀が合いの手を返す。首を縦に振り、額に手をやった彼は、今までにないくらいに悲壮な表情を浮かべて縋る目を雲雀に向けた。
 綱吉の家に居候中の子供の中に、そういう名前の男の子がいたのを思い返しながら、雲雀は思案に眉根を寄せた。
 年の頃は十歳か、その手前。利発そうな顔立ちを脳裏に呼び出して、頷く。確かにあの年代なら、逆立ちが出来なくても致し方なかろう。学校に通っている様子がないので、教師に教えを請うことも出来ないから、身近なところにいる年上を頼ったと、そういう経緯も想像できた。
 瞬きひとつで綱吉に視線を戻すと、彼は叱られるのを待つ子供のように首を竦め、身を強張らせていた。
 出来もしないのに、頼られたのが嬉しくて承諾してしまったのだろう。情景を思い描きながら苦笑し、雲雀は学生服の襟を撫でた。
 日暮れが迫り、影は徐々に色を薄くしていく。西を見ればもう太陽は見えない。僅かに雲間に淡い光が残るばかりで、完全に消えてなくなるまで十分と掛からないはずだ。
 時計を見る気にはなれなかった。冬の日の短さを愁いながら、雲雀はシャツの皺を握りつぶす綱吉の頭に手を伸ばし、跳ねている癖毛を押し潰した。
「それで、ひとりで?」
「コツは聞いてきたんですけど、巧く出来なくて」
 綱吉の周囲には、運動神経に秀でた人間が何人か居る。だが山本も了平も、著しく説明が下手だ。自分が簡単に出来るのだから、他人も出来て当たり前という節もある。
 獄寺は理論立てて説明してくれたが、一瞬の判断が求められる鉄棒で、このタイミングで何処の筋肉に力を入れて、等といわれても実戦出来ない。
 結局誰の意見も役に立たず、自力でどうにかしようと人気の無い公園まで足を伸ばしてみたけれど、この有様だ。
 年下に偉そうに「簡単だ」と言った手前、今更出来ませんでした、というのは情けなくて格好悪い。綱吉にだって少なからずプライドというものがあって、どうにか体面を保とうと懸命なのだが、努力が成果に直結しなくて苦しんでいる。
「ふぅん」
「あの、ヒバリさん」
「なに」
 緩慢な相槌をひとつ打った雲雀に、綱吉は僅かに身を乗り出した。鉄棒の上から首を伸ばした彼の必死具合から、何を言いたいのかはおおよそ見当がつく。だけれど敢えて言葉にするよう問い返すと、途端に彼は口を噤み、瞳を曇らせた。
 唇を嘴のように尖らせ、分かって欲しそうな顔をして人の様子を窺い見る。ちっぽけなプライドが邪魔をして、直接声に出して頼むのが恥ずかしいのだろう。
 媚を売るような視線を投げかけられても受け流して、雲雀は逆に婀娜に笑んだ。
「はっきり言いえば?」
「う……」
 切れ長の黒い瞳をより細め、嫣然としながら綱吉に顔を寄せる。呼気が触れ合う近さで囁かれて、綱吉は弱りきった表情で鉄棒を握る自分の手を見詰めた。
 タイムリミットは着々と迫っている。公園の暗さは増して、手元が次第にあやふやになっていく。か細い光を放つ照明に一瞬だけ目をやって、彼は返事を待っている雲雀を上目遣いに睨んだ。
 察しているくせに、意地が悪い。どうしても言わないと許してもらえない雰囲気に歯軋りして、彼は鉄棒上の手をぶつけ合わせた。
 腰に添えていた手をポケットに捻じ込み、肩を張った雲雀が声を殺して笑う。革靴で砂を削り、
「用が無いなら、僕はもう行くよ」
 右足を引いてつま先だけを地面にこすり付ける。
「あ、嘘」
 即座に綱吉は顔を上げ、上擦った声で口走った。
 無視して雲雀が腰を捻る。羽織った学生服の裾を膨らませ、背中を向けようとする彼に咄嗟に手を伸ばし、綱吉は彼の上着を捕まえた。
 引っ張られて肩からずり落ちそうになる制服を右手で押さえ、雲雀が意地悪い笑みを浮かべて振り返った。
「なに?」
「う……」
 冴え冴えとした眼を向けられて、言いよどんで綱吉はパッと手を放した。
 目の前を黒い制服が泳いで逃げていく。主の元に帰りついて嬉しそうに跳ねたそれは、短い旅の労を労って撫でてもらえて嬉しそうだった。
 影を背負って暗い足元に視線を落として、綱吉は爪先で砂地に円を描いた。踵で踏んで消して、乾いてカサカサの唇を舐める。
 唾が沁みこんで、少し痛い。にも関わらず今度は牙を突き立てて噛んで、彼は決意を込めて顔を上げた。
 穏やかな風貌の雲雀が、答えを待って佇む姿に頬を赤らめる。
「えっと、だから。その、ヒバリさん」
「うん」
「今、時間……」
「あるよ」
「じゃあ、あの。ヒバリさんって」
「出来るよ」
 しどろもどろの質問に、雲雀が矢継ぎ早に返していく。問いかけている綱吉の方が追い抜かされてしまいそうで、彼は左右の手をぶつけ合わせながら、膝を上下させた。
 さらりと断言した彼に一瞬だけ目を見張り、唇をもうひと舐めして口を閉ざす。鼻呼吸を五度繰り返して細波だった心を落ち着かせて、綱吉は鉄棒をぎゅっと握った。
「それじゃあ、俺に。えっと、つまり」
「君、腰が曲がってないんだよ」
「え?」
 遠回しではなく、直接的な台詞を紡ぐべく息を吐く。だけれど告げる前に雲雀に言われて、綱吉は丸い目をより丸くした。
 パチパチと瞬きを数回繰り返して、右手で腰骨の辺りを撫でる。前を見ると、夕闇に包まれた雲雀が頷いた。
「でも、俺、おじいちゃんじゃないし」
「そういう意味じゃなくて」
 腰が曲がる、と言われて即座に杖をつく高齢者の姿が浮かんだ。平時よりも僅かにトーンの高い声で呟いた彼に肩を竦め、呆れ半分に雲雀は腰を叩いた。
「腰を曲げて、膝を持ち上げるの。でないと、下半身が回りきらない」
「む、う……」
 そう言われても、具体的に想像出来ない。そもそも自分が逆上がりに挑戦している時の姿を見るのが叶わないのだから、光景を思い描くのも無理な話だ。
 口を尖らせて唸った綱吉に、そうと悟られぬよう雲雀が嘆息する。言うよりも実戦してみせる方が早いかと思い直し、彼は其処を退くように手を振った。
 合図にすぐ気付き、綱吉が二歩と半分の距離を後退した。蹴り飛ばされぬよう、右にも動いて置いてあった自分の鞄を踏みそうになった。
「持ってて」
「あ、はい」
 羽織った学生服を取り外し、半分に折り畳んだ雲雀がそれを綱吉に差し出した。
 返事をして両手を伸ばし、厚みがある布製品を受け取る。ずっしりとした重みが肩に来て、学生服とはこんなにも重いのかと、ブレザーとはまるで違う肌触りに彼は少なからず驚いた。
 表面を撫でると、ほんのりと雲雀の匂いがした。
「……」
 思わず顔を近づけてしまいそうになって、慌てて自制を働かせて首を振る。挙動不審な彼を不思議そうに見やった雲雀は、白無地のシャツの袖を捲くって無骨な腕を曝け出すと、長くしなやかな指を曲げて鉄製の棒を握り締めた。
 綱吉がもう半歩後退して、息を呑む。
「ふっ」
 一瞬だった。
 短い掛け声にも似た息を吐いた彼が、強く地面を蹴って下肢を前に投げ出す。だが遠くへ飛んでいくこともなくて、次の瞬間にはもう彼の体はくるりと一回転し、地面に降り立っていた。
 何が起きたのか、咄嗟に理解出来ない。
「え……」
「分かった?」
「えと、あの、……ごめんなさい」
 絶句していたら雲雀が気付き、胡乱げな表情で訊いて来た。
 思わずビクリとしてしまい、視線を左右に揺らしてから学生服を抱き締める。俯き加減に、それでいて上目遣いの謝罪に、彼は若干乱れた黒髪を梳いて深々と溜息を零した。
 見ていなかったわけではないが、あまりにも動きが素早すぎて捉え切れなかった。それにこの薄暗さだ、影になっている部分までじっくり見詰めるのは難しい。
 正直に謝った彼にそれ以上は言わず、雲雀は後退した。綱吉に前に来るよう言って、自分は屈んで鉄棒を潜って反対方向に回り込む。
 横に並ばれて、綱吉は大事に抱えていたものを彼に返した。
 軽くなった両手が、物足りなさを訴える。空気を握り潰し、綱吉は何気なしに上唇を舐めた。
 太陽は地平線にその大半を沈め、迫り来る闇は速度を増して西へとひた走る。足元の影は色を薄くして、輪郭は朧だった。
 目の前にいる人の顔さえも、あやふやに映る。逢魔が時、という言葉が思い浮かんだ。
「見てなかった?」
「いえ。見ては、いたんですけど」
 学生服を羽織った雲雀の朗々とした声に意識を引き戻し、意味もなく襟を撫でながら綱吉は言葉を濁した。
 薄闇に溶けてその表情ははっきりと見えないものの、突き刺さる視線は感じられた。気まずげに、居心地悪そうにしながら両手を後ろに回して結び、彼は踵で地面に穴を掘った。
「けど?」
「速過ぎて、よくは」
 どもりながらも正直に告げると、雲雀は怒らなかった。溜息をひとつ吐き出しただけに終わらせて、暮れなずむ空にふと視線を投げる。
「今日は止める?」
「え。あ、……いえ」
 光があるとはいえ、かなり弱い。そう間をおかず、己の手元すら見えない夜が訪れる。
 声を低くして問うた雲雀に顔を上げ、直後に伏した綱吉は唇を浅く噛んで首を振った。
 返答を待つ青年が、戸惑いに揺れる綱吉の睫に見入り、白い手を掴もうとして途中で思いとどまった。
「いえ。ヒバリさんがいい、のなら。……夜になるまで」
 一緒にいたい、とまでは言わないが、漏れ出た思いは届いた。指先を痙攣させて緩く握り、雲雀は溜息ではない長い息を吐いて乾いた唇に潤いを与えた。
 目に掛かる前髪を掻き上げ、いかにも渋々といった態度を取って、苦笑する。
「しょうがないね」
 ただ声には、幾らか笑みが混じっていた。嘲りとは異なる、楽しんでいると分かる口調に綱吉はパッと目を見開き、闇に慣れつつある眼を彼に向けた。
 舌なめずりした雲雀を間近に見てしまい、赤い蛇の動きに動揺して頬が朱に染まる。今はそういう事を考えている場合ではないと自分に言い聞かせ、脳裏を過ぎった柔らかな感触を頭から追い出した。
 それでも身体が熱くなるのは止められず、さっきまで感じていた寒気もすっかり何処かに消えてしまった。
 琥珀の瞳を揺らし、涼しい顔をして立つ青年をじっと見詰める。彼はふわりと笑うと、傍の冷えた鉄棒を叩いた。
「おいで」
 促され、頷いて彼の望む通りに鉄棒を両手で掴む。肩幅に足を広げて構えを作ると、薄暗い中で目を凝らした雲雀が小首を傾げた。
「順手?」
「え。あ、なんとなく」
「そう。慣れている方がいいね」
 皆まで言わずとも理解した雲雀が首肯し、綱吉の左側に立ち位置を変えた。肘を上から軽く押されたので、逆らわずに少しだけ角度を持たせる。胸元より少し低い鉄棒との距離が僅かに狭まった。
 利き足を聞かれても、直ぐに応えられない。踏み込む方の足だと言い直されて、意識した事が無いので分からないと首を振る。雲雀はそれ以上言わず、今のやり取りは忘れてくれるように頼んできた。
「……すみません」
「君さ、鉄棒から落ちたことある?」
「覚えてない、けど。あ、ううん。そういえば、幼稚園の頃」
「だろうね。身体が怖がってる」
 たった数回、綱吉が鉄棒を前に悪戦苦闘している様を見ただけで、そこまで分かってしまえるものなのだろうか。
 教えたこともない、本人ですら長く忘れていた記憶を言い当てた彼に驚かされる。何故分かったのかと不思議そうにしていると、雲雀が集中するよう注意してきたので、綱吉は慌てて視線を前に戻した。
 鉄サビの臭いがする棒を強く握り締め、勢いをつけずに足を蹴りあげる動作をするようにも言われた。良く分からないまま実践すると、いきなり腰を叩かれた。
「ほら、腰が曲がってない」
「え、え?」
 右足を高く掲げた状態で停止し、左足一本でおっとっと、と体勢を維持した綱吉は目を丸くした。
 下半身は鉄棒の下に潜り込んで、上半身も若干沈み気味だ。堪えきれずに足を戻した綱吉は、雲雀に叩かれた箇所に左手をやって軽く撫でた。
「こし」
 さっきも雲雀は、そんな事を言っていた。
「腕の力だけで回ろうとしても無理なんだから、身体全部使わないと。足だけ持っていくんじゃなくて、腰を鉄棒に乗せる感じで」
「う……」
 雲雀の語気が少しだけ強まる。叱られて、綱吉は思わず口を尖らせた。
 そう言われても、分からない。雲雀は練習せずとも出来るから簡単そうに言うけれど、出来ない人間にとって、逆上がりはとても越え難い巨大な壁なのだ。
 渋い表情をして睨んでくる彼に、雲雀は肩を落とし、そうだと分かる溜息を零した。
「お手本は見せたはずだけど」
「だって、あれは、速過ぎです」
「当たり前だろう。ゆっくりやったら、僕でも落ちるよ」
 呆れ果てている彼に言い返すが、揚げ足を取られて黙るしかない。頬を膨らませ、窄めた唇から息を一気に吐いた綱吉は、雲雀の言うことが分からぬまま、ともあれ腰の使い方に注意しようと右足を蹴り上げた。
 それを。
「わ、うわっ」
「放さないで」
 いきなり横から腕を伸ばした雲雀が掬い上げた。
 咄嗟に抵抗し、下ろそうとしていた足をじたばたさせる。が、綱吉の動転など構いもせずに彼は吐き捨て、もう片手で人の尻を撫でた。
 太腿と、腰と。これで綱吉が鉄棒を握ったままでなかったなら、俗に言うお姫様抱っこというものになっていただろう。だけれどそういう余計な事を考える暇すらなく、綱吉はシャツ越しに背中に触れた掌に身震いし、悲鳴を堪えて口を真一文字に引き結んだ。
 尻から背の低い位置に移動を果たした雲雀の右手が、捕まるものを探して綱吉のシャツを弄る。脇腹を擽られて全身に鳥肌が立った。喉が引きつり、変な声が出た。
「ひぁっ」
 宙に浮いたままの右の爪先が虚空に幾つもの円を描く。腰を低くして踏ん張りを利かせた雲雀は、腹の奥底に力を込めると、左手で綱吉の下肢を支えて強引に上へ運んでいった。
 へっぴり腰が天を向く。曲がった膝の先が、鉄棒を跨いだ。
「あ――」
 頭がガクン、と下がった。視界が天地逆になり、雲雀の手がスッと音もなく離れていく。
 妙な感覚だった。
 地球の重力から一瞬開放されたような、浮揚感が彼を包む。左右の手の間にある三十センチばかりの空間に腿が滑り込んで、爪先が下を向いたかと思えば再び重力に捕まって、ニュートンの林檎よろしく地上に招かれる。
 ストン、と爪先揃えて着地した時にはもう、世界はなにもかも元通りだった。
「あ、れ?」
 きょとんとしたまま、綱吉は何度か瞬きを繰り返した。
 自分の身に何が起きたのかが理解出来ない。凝り固まった指を解いて掌を顔に向けると、はっきりとは見えないながら、擦ったと思しき場所が赤らんでいた。
 心の中が騒然として、後から震えが来た。足をガクガクさせて傍らを見上げると、ずれた学生服を手早く直した雲雀が、気付いて淡く微笑んだ。
「俺、今」
「うん」
 声が上擦る。興奮に鼻を膨らませて問うと、雲雀は間髪入れずに首を縦に振った。
「今の感じ」
 やり方は唐突で強引だったが、何はともあれ綱吉は今、逆上がりに成功した。雲雀の補助あっての事なので、自力で出来るようになったのとは訳が違うけれど、これが十四年ばかりの彼の人生初の逆上がりであるのには違いない。
 今ならひとりででも出来る気がする。逆上がりだけではない、逆立ちも、バク転だって。
 気持ちが高揚するのを抑えきれず、綱吉は目をキラキラと輝かせた。
 雲雀は彼程の感動こそ抱けないながらも、今まで出来なかったことが出来た喜びに浸っている綱吉を楽しげに見詰めた。
「分かった?」
「うん。あ、はい」
 静かに訊かれて、つい親しい友人と雲雀を同じに扱ってしまい、慌てて言い直す。小さく舌を出した彼を笑って、雲雀は指の背で鉄棒を、そして続けて綱吉の丸い頬を撫でた。
 何気ない仕草であったけれど、褒められたような気がして嬉しくなる。照れ臭そうに目を細め、綱吉は夕焼けの名残も消えかけている空を振り返った。
 このまま時間が止まってしまえばいいのに。そんな事を考えて、彼は服の上から心臓を撫でた。
「帰る?」
「……まだ!」
 綱吉が何を見ているのかを知って、雲雀が囁くように問いかけた。パッと振り返って、緩く首を振る。まだ空は薄ら明るい。だから夜ではないのだと、言い訳のように口走る。
 夜になれば、帰らなければいけない。雲雀と一緒に居られるのは、区切りも曖昧であやふやな、昼の明るさが完全に潰えるまでだと、先ほど自分で決めてしまった。
 帰りたくない。だけれどまだ子供の自分たちは、その我が儘が許されない。
「なら、もう一度」
「ヒバリさん」
「自力で、やってご覧」
 俯いた綱吉の旋毛を見下ろし、彼は言った。胸の前で両手を組み、今度は手伝わないという意思を表明する。顔を上げた綱吉は、薄闇の中で悠然と佇む青年を眩しそうに見詰め、沈黙する鉄棒に目線を流した。
 自分を支えてくれた雲雀の、逞しい腕の感触が生々しく蘇る。狙ってやったのではないとはいえ、尻を撫でられた時の感覚さえ思い出されて、彼は一瞬伸び上がり、慌てて首を振って打ち消した。
 両手の頬を軽く二度叩き、気持ちを切り替える。
「よし」
 腕と足の力だけに頼らず、身体全部を使う。腰を鉄棒に引っ掛けるようにして、頭は低く。膝から先が鉄棒を乗り越えれば、もうこちらの勝ちだ。
 一連の動きをゆっくりと脳内に描き出し、何度もシミュレートして、拳を作る。気合の声を吐いて、彼は鉄棒の前に仁王立ちした。
 雲雀が瞳だけを動かして、綱吉の一挙手一投足を見守る。大丈夫、出来るはずだ。そう心の中で繰り返し、彼は深く吸った息を吐いて肩の力を抜いた。
 握りを強くして、腰を低く落とす。胸を鉄棒に張り付くくらいまで迫らせ、深く吸った息を止める。
「ふっ!」
 気合いを入れて、地面を蹴り飛ばす。
 目指すのは雲雀が見せてくれた、一瞬の浮遊感。
 されど。
 彼の足は宵闇迫る冷えた空気を蹴り飛ばし、パタンと大地に落ちた。
 重力は彼を絡め取り、離さない。目をぱちくりさせ、綱吉は二度、三度と懸命に腰をねじりながら地面を蹴った。砂埃を巻き上げ、無数の足跡を刻み付けるが、いかに足掻こうともあの時のような、ふわりと浮き上がる感覚は戻ってこなかった。
「この――とう!」
 さっきは出来たのに、どうして。
 懸命に繰り返すが、結果はどれも芳しくなかった。小学校四年生になるまで、補助輪なしで自転車に乗れなかった記憶が急に蘇って、綱吉は耳まで赤く染めた。
「いあっ」
 張り裂けんばかりに叫び、鉄棒にぎゅっとしがみ付く。だのに成功しない。どうやっても足が上に曲がらない。
 腰を捻るのに集中しすぎて、頭が沈みきっていないのにも気付けず、綱吉は顔を歪めてこみ上げる涙を堪えた。
 雲雀が腹を抱え、沸き起こる笑いを噛み潰す。
「やぁっ――った!」
 可愛らしい掛け声の後に、ついに手の力が緩んだ。尻から落ちて、強かに打ちつけて今度こそ涙が零れる。どうして、と苦虫を噛み潰したような顔をして、彼は真上を横切る無機質な棒切れを睨んだ。
 指は痺れ、掌は熱を持って痛んだ。息を吹きかけてスラックスに擦りつけ、立ち上がろうと踏ん張るが、膝が笑って出来なかった。
 中腰からまた地面に転げ落ちて、膨れ面をした綱吉に雲雀が肩を揺らす。
「どうしようもないね、君は」
「嘘だろ~、なんでだよー」
 心底呆れている彼の声を掻き消し、綱吉は疲労感を訴える太腿を殴って喚いた。
 声を殺しながら笑っている雲雀をジト目で睨み、頬を風船の如く膨らませて不満感を露にする。暗くても表情の変化は良く分かって、雲雀は深呼吸を二度繰り返すと、座り込んでいる綱吉の頭をぽんぽん、と撫でた。
 慰めているのか、馬鹿にしているのか分からない手を跳ね除け、綱吉は今度は膝で地面を叩いた。
「立ちなよ」
「立てません」
 立とうとしてすっ転んだところを見ていたはずなのに、雲雀はそんな事を言う。言葉でも彼を拒絶して、綱吉は目尻を濡らす涙を袖で拭った。
 悔しい。情けない。恥ずかしい。
 色々な感情が鬩ぎあい、混ざり合い、ひとつに定まらない。ダメツナ、と笑う風の声が聞こえた。
「しょうがないね」
 嘆息した雲雀が右手を伸ばす。顔に落ちる影を追って目線を上向けた綱吉は、不貞腐れたまま彼のがっしりとした、大きな手を握り締めた。
 引っ張りあげてもらい、ふらついて鉄棒に寄りかかる。膝はまだ笑っていたが、どうにか自力で立てそうだった。
 太陽は西の地平線に沈み、明日の朝までしばしの眠りに就く。街灯も総じて淡い光を放ち、公園はひっそりとした寂しさに包まれていた。
 腰を屈めた雲雀が、続いて綱吉の上着と鞄を一緒くたに持ち上げた。手渡されて胸に抱き、広げて袖を通す。雲雀の学生服とは違う手触りと重みに包まれて、身体が冷え切っていると今更ながら気がついた。
 ほうっと息を吐き、制服の前ボタンを急いで留めて行く。掌はまだじんじん痛むので、鞄は握らずに肩まで通して背中に担ぎ上げた。
 帰り支度はあっという間に終わってしまった。制限時間も過ぎてしまった。
「それじゃあ」
 約束は、夜になるまで。日の光は消え失せ、代わりにか細い星明りが天頂に瞬く。月の姿は見えず、煌々と照る街灯の明かりが彼らの足元を闇から守っていた。
 またね、と去っていく雲雀を想像して、綱吉は唇を噛み締めた。聞きたくないけれど、刻限は過ぎた。受け入れるしかないと己に言い聞かせるけれど、切なさは止められない。
 痛々しい表情の彼をか細い灯りの中で見詰め、雲雀は左の手を前に伸ばした。
「帰ろうか」
「え?」
 置き去りにされている綱吉の右手を掬い取り、素早く指を絡めて握り締める。触れた温もりに背筋を震わせ、綱吉は間近に佇む青年をおっかなびっくり見上げた。
 相好を崩した雲雀が、急かすように彼の腕を引いた。
「暗いしね。送って行く」
「え……」
「いや?」
 遠くに聳える楠のシルエットに目を細めた彼の言葉に、綱吉は咄嗟に首を振った。飛んで行きそうなくらいの勢いの良さに破顔して、雲雀が先に足を前に繰り出す。僅かに遅れて、綱吉が続く。
 気温もぐっと下がって、吐く息が白く濁った。
「明日も特訓だね」
 公園の出口を抜けて、人通りの絶えた行動へと。その最中、呟かれた言葉に綱吉は目を見張り、転びそうになった。
 肩越しに振り向いた雲雀が笑う。赤い顔をして、綱吉は恥ずかしそうにそっぽを向いた。

2009/12/02 脱稿