垂下

「それで?」
 問う声は低く、微かに嘲りを含んでいるように聞こえた。
「ですから~」
 ひと通り状況を説明したというのに、もう一度最初からやり直せ、的な視線を浴びせられ、綱吉は遥か下方に居る雲雀に泣きそうな目を向けた。
 実際のところ、彼は半分泣いていた。顔のサイズに比例して大きすぎる琥珀の瞳には、薄ら涙が浮かんでいた。
 此処は並盛中学校。そのグラウンドの、そのまた片隅。
 トタンの壁に青屋根という、築三十年は数えられそうな古ぼけた倉庫の上と地上とで、二人は互いの顔を見合わせて対峙していた。
 綱吉は僅かに飛び出た庇からへっぴり腰で下方を臨み、雲雀はその真下に立って彼を見上げていた。
「いいから、早く降りてきなよ」
「それが出来ないから、困ってるんじゃないですか!」
 呆れ声で呟き、雲雀は腕組みを解いた両手を腰に据えた。胸を反らして上を見て、悲壮な表情を浮かべている綱吉に、既に何度目かしれない台詞を投げかける。
 返された言葉もまた、質問の回数だけ繰り返されて聞き飽きた内容だった。
 どうしてこうなったかの説明は、事細かに伝えた。それなのに雲雀は溜息つくばかりで、さっさと降りて来い、の一点張りだ。
「本当に、君は」
 無理だと突っぱねる綱吉に肩を竦め、黒髪を掻き上げて雲雀は目を眇めた。
「うぅ……」
 大粒の瞳を歪め、綱吉も心底困り果てた顔をして彼を睨みつける。こうしている間にも出血は続き、じくじくとした痛みが左足から太腿に登って来た。
 あまりにも見窄らしく、また耐久年数も越えているため、近く取り壊される予定の建物だというのは聞いていた。しかしまさか、こんなにも脆くなっているとは夢にも思わなかった。それ以前に、よもや自分が、下着一枚で此処の屋根に飛び乗ることになるなんて、思いもしなかったわけだが。
 きっかけはいつものように、リボーンだった。
 今日の体育の授業が陸上競技で、高飛びの練習だった。棒は使わない、脚力だけで飛びあがる方だ。
 グラウンドに厚み三十センチ以上はあろうマットを敷いて、バーを用意して。女子は幅跳びで、砂場に陣取っている。どちらも同じ運動場内にいるわけだから、向こうからも男子が景気良くジャンプする様が見て取れた。
 そして綱吉の結果は、言うまでもない。
 ジャンプする直前に躓き、転んで、バーを飛び越える事無く潜り抜けてしまったのだ。
 二度目の挑戦では、辛うじてジャンプできたがバーに届かなかった。しかもその向こうに用意されていたマットにさえ届かず、頭から硬い地面に落ちた。三度目でどうにかマットに着地はしたものの、バーは揺れることなく定位置に陣取っていた。
 要するに、下を潜ってしまったのだ。
 先生には真面目にやれと怒られるし、一部始終を目撃していた女子にも当然笑われたし、終わって教室に戻る道中も、あちこちから揶揄の声が飛んだ。京子には、高飛びの意味を知らなかったのかと心配されてしまった。
 山本は持ち前の運動能力を発揮して、誰よりも綺麗にジャンプを決めていた。その彼に、失敗したって構わないではないか、気にするなと慰められた。山本の性格的に、発言に悪気がないとは分かっていても、落ち込み度合いに拍車がかった。
 そんなわけで、綱吉はずっと、もっと上手に高飛びが出来るようになれば、と後悔していた。
『なら、死ぬ気でやれ』
 そこへ見透かしたようにリボーンが現れ、問答無用で彼に銃口を向けた。
 有無を言わせぬ口調で、悲鳴をあげた綱吉の懇願を無視して引き金を引く。額に直撃した弾丸は彼を貫き、意気地なしの自分を破り捨てて新たな沢田綱吉として生まれ変わらせたわけであるが――
 この時何を考えていたのか、自分でも自分が良く分からない。
 体育が終わっているので当然用具は片付けられていて、グラウンドに出ても飛び越えるものはなにもなかった。だからと綱吉は、替わりに飛び越えるものを探して学校中をトランクス一枚で駆けずり回り、鉄棒、二宮像の頭上をジャンプして、最終的に此処に行き着いた。
 勢いに乗ったまま高く、高く舞い上がり。
 落下に転じる直前、額の炎が消え失せた。
 俗に言うタイムリミット。野性が消えて理性が戻り、死ぬ気状態は何処かへと。
 あとに残されたのは、空中に投げた己の身ひとつ。下には、青い屋根の用具倉庫。
 甲高い絶叫を残し、綱吉は足から屋根に落ちた。そして長年風雨に晒され続けて弱くなっていたと思しき箇所に、左足を突っ込んだ。
 今日の出来事が走馬灯のように脳裏を駆け抜けていく。思い出したらまた痛みが強まった気がして、綱吉は小さく開いた穴に飲み込まれた自分の脚を撫でた。
 膝から先を屋根に喰われてしまっていた。引っ張り出そうにも、穴の縁がギザギザなので巧くいかない。下手に動かせば、傷を増やして痛みを酷くするだけだ。
 倉庫の中は真っ暗で、隙間から覗きこんでも下は見えない。自分の足なのに、今どんな風になっているのか、直に見て確かめる術が無かった。
「痛いんですってば~」
 それなのに雲雀は、今すぐそこから降りろと言って憚らない。綱吉が起こした騒ぎは瞬く間に学校中に知れ渡った、当然ながらこの学校を実質取り仕切っている風紀委員の耳にも入る。委員長自らお出ましになったのは、彼が綱吉の影には常にリボーンありき、と知っているからだ。
 雲雀は妙に、リボーンを気に入っている。だから綱吉を捕まえれば、芋づる式にリボーンも釣れると思ったのだろう。
 ただ残念ながら、黄色いおしゃぶりの赤ん坊は既に帰路に就いた後だ。故に彼の願いは叶わない。だからこそ、今此処で綱吉に八つ当たりしているのかもしれないが。
「痛い?」
 現状を大いに嘆き、綱吉は高らかと鳴り響いたチャイムにカクン、と頭を垂れた。
 破いたのが体操服だったのが、まだ救いだ。しかし制服は、教室に残したまま。そして今まさに、次の授業が開始されてしまった。
 頭を抱え込んでめそめそしている綱吉に眉目を顰め、雲雀は終始蹲って動こうとしない彼に小首を傾げた。
「怪我してるの」
「そう言ってるじゃないですか!」
 静かに問えば、即座に上から罵声が降って来る。雲雀は益々顔を顰め、口をへの字に曲げた。
「足を突っ込んで穴を開けた、とは聞いたけど」
「うっ」
 着地の際に倉庫の屋根に足を突っ込んだと説明はしたが、それで皮膚を切ったとは、そういえば言っていなかった。雲雀があんなにも降りて来いと連呼したのも、綱吉が五体満足だと思っていたからに他ならない。
 単に高いから降りられないというのなら、下から受け止めてやる心積もりでいたのに、嫌に頑なだと思えばそういうところに原因があったとは。
「そういう事は、先に言いなよ」
 綱吉が理路整然とした説明を苦手としているのは、雲雀も承知している。だから状況を正しく把握しようと何度も説明を求めたわけだが、そういう肝心な部分は真っ先に言って然るべきではなかろうか。
 分かっていたけれど、と心の中で呟き、雲雀は地面に浅い穴を掘って顔をあげた。
「何処に?」
「へ?」
「怪我、どこにしたの」
「あ、足……の、えっと。痛い、とこ」
 良く聞こえるように声のボリュームを上げて、質問を繰り出す。だのに綱吉は一瞬きょとんとして、もじもじと胸の前で指を小突き合わせた。下を――恐らくは穴の下に突っ込んだ足を見てから数秒置き、意味不明な説明を口にして雲雀を呆れさせた。
 どうやら怪我をした場所の、具体的な名称が思い出せなかったとみえる。もう少し日本語の語彙を増やしてもらいたいと嘆息して、雲雀は鈍痛を発したこめかみに指を置いた。
 そして目の前の倉庫と、綱吉がいる屋根とを交互に睨みつける。
「下から……は無理か」
 倉庫の鍵はあるが、彼の今の状況を思うと、穴のサイズは本当に片足一本分しかないと見える。下から穴を広げるにしても、雲雀の身長では屋根に届かない。
 とすれば、上から行くほか道はない。
「分かった」
「ヒバリさん?」
「今行くから、じっとしてて」
 深く肩を落として呟き、一瞬の溜めを挟んで眦を強める。キッと睨みつけられて、身を乗り出した綱吉は怯んだ。
「え?」
 聞こえた彼の言葉がよく理解出来ず、目を丸くして両手で屋根を叩く。それだけでギシギシと音がして、くすんだ青がまるで海のように波打った。
 壊れるのではないかという恐怖に見舞われ、ヒッ、と喉を引き攣らせた綱吉は、慌てて腕を跳ね上げて頭を庇った。それで雲雀の視界から小さくなった彼の姿が消えたが、悲鳴が聞こえてこないので無事と判断し、彼はトンファーを引き抜いた。
 素早く周囲に目を走らせ、網目が走る曇りガラスの窓を見つけてそちらに歩み寄る。
「……ヒバリさん?」
 一方の綱吉も、自分の身体が未だ屋根の上に存在していると知ってホッとし、恐る恐る身を乗り出して屋根の庇から下を覗き込んだ。
 だが数秒前まで居た人が、忽然と消えていた。
「あ、あれ?」
 見間違いかと目を擦って、瞬きも連発させるが、どれだけやっても黒髪の青年は現れない。まさか捨て置かれたか、と僅か十秒前に聞いた台詞もすっかり忘れて、綱吉は全身を戦慄かせた。
 痛みはやがて痺れに変わり、爪先から冷えていく。いくら暑い盛りの昼間とはいえ、トランクス一枚で屋外に居ては体温も奪われよう。
 身震いして、彼はカチリと奥歯を鳴らした。
 このまま放置されて、誰にも助けて貰えないまま夜が来たらどうしよう。リボーンは帰ってしまって、山本や獄寺は授業中。唯一の頼りだった雲雀にまで見放されたら、身動き取れない自分は凍え死ぬか、餓死するしかない。或いは失血死か。
「いてっ」
 想像に身の毛がよだち、悪寒に襲われて全身を強く抱き締める。最中、左足がずれて、破れた屋根の尖端が太腿を引っ掻いた。
 突き刺さりはしないが、ちくりとした痛みに襲われて彼は顔を顰めた。
 そろりと膝を曲げ、引き抜こうと腰を浮かせる。けれど穴はあまりに小さくて、自由に動かせる範囲は非常に狭い。ひとつの棘を避けて前に出ようとすれば、直ぐに別の棘に皮膚を刺されて、綱吉は酷くなった痛みに鼻を鳴らした。
「うぅぅ」
 どうしてこんな目に遭わねばならないのかと、自称家庭教師のトラブルメーカーと、彼を派遣したマフィアのボスだとかいう人物に向かってひたすら恨み言を連ねる。
 直後。
「うひゃあ!」
 バリンッ、と凄まじい音が足元から響いて、綱吉は仰け反って耳を塞いだ。
 軽く足元も揺れて、滑り落ちそうになった身体を慌てて支える。傷を広げないよう注意しながら下方を窺うが、此処からではなにも見えなかった。
「な、なに。なに……?」
 鏡か、ガラスが割れた音のように思われた。
 状況がまるで分からず、不安に襲われて綱吉は生唾を飲んだ。心臓がドキドキして、緊張から表情が自然と強張る。
 考えられる可能性は、雲雀が何かをした、という事。けれど本当に彼なのか、そしてなにをしたのかがさっぱり読めなくて、綱吉は唇を舐めると音がした方向に注意深く目を向けた。
 屋根から地上には、凡そで二メートル少々の高低差がある。普段見ることの出来ない視点からの景色なのだが、生憎と今の綱吉に、風景を眺めるだけの余裕は残っていなかった。
「どうしたんだろう」
 そういえば雲雀は、何かを言っていた。今行くからだとか、なんだとか。
 それがどういう意味かを今一度考えて、綱吉は前のめりだった姿勢を戻した。左足が楽になるよう体重を預ける場所を調整し、暗闇に飲まれた己の爪先に意識を向ける。
 靴やズボンを履いていたなら、きっとこんな怪我はしなかったし、脱出ももっと容易だったに違いない。
 死ぬ気で復活するのはいいのだが、着衣が下着を残して破れてしまうのは、どうにかならないものか。もう何度目か知れない溜息を零して、綱吉はくしゃりと前髪を掻き毟った。
 その俯き加減の視界に、
「ん?」
 白い何かが蠢いた。
 最初は紙切れか何かが引っかかって、風に揺れているのかと思った。しかし綱吉の髪をなびかせるほどに気流は乱れておらず、せいぜい頬をそっと撫でていくくらいだ。
 それに、あまりにも動きが不自然だ。パッ、パッ、と何かを探すかのようにして、右に、左に。実に機敏、そしてやや慌しい。
「なに?」
 そういえば怪奇伝承のひとつに、手首から先だけしかないお化けだか、幽霊だか、そういうものがあったような気がする。まさかこんな真っ昼間から、と背筋を這い上がる悪寒に襲われ、綱吉は鳥肌を立てた。
 やがて彼が見守る中、ようやく体重を預けるに適した箇所を探り当てた手は、庇の角をぐっと強く握り締めた。僅かに遅れて、もう片手が現れる。立て続けに、黒い毛玉が宙を舞った。
「ひっ」
「よ、っと」
 軽い掛け声ひとつ零し、雲雀が腕の力だけで上半身を屋根の上に運んだ。腹這いになって宙に浮いた足を前後に揺らし、残る下半身も持ち上げて立ち上がる。
 途中でネクタイが引っかかったらしく、右に大きくずれて結び目が変な形に歪んでいた。
 白いシャツにも、黒っぽい筋が幾つか走っている。彼はそれらを軽く叩き、相変わらずの仏頂面で蹲る綱吉を睨んだ。
「え、え? なんで?」
 姿が消えたと思えば、いきなりまた現れて。しかも今度は綱吉が彼を見上げる番だった。
 斜めに傾いた、足場の悪い場所であるに関わらず、雲雀は威風堂々とした佇まいを見せて胸を張っている。いつもは中央に集まっている長めの前髪も、登る際に邪魔になったからか上に掻き上げられて、隠れがちの額が見えていた。
「汚いね、ここ」
「は、あ……」
 状況把握が出来ずに綱吉がぽかんとしていると、不意に雲雀が言った。ぐるりと青屋根全体を見回して、そこかしこに散乱する品々を認めて口を尖らせる。
 野球部のボールに、バレーボールに、紙ごみも幾つか。何故か体育館シューズが片方分、雲雀の足元近くに転がっていた。
 気軽に掃除が出来る場所ではなく、また掃除をしなければと人に思わせる場でもないので、それも仕方が無いと思われる。雲雀の言葉に苦笑して、綱吉は下向けていた手を広げた。埃がこびり付き、掌は気付けば真っ黒だった。
 こんな汚いところで怪我をしたのだ、早く消毒しないと傷口から黴菌が入って破傷風になってしまう。改めて己の左足を見て、体重を右に傾ける。穴の方に身を寄せると、周囲を踏み抜いて落ちそうで怖いからだ。
「無事?」
 そろり、と動いていたら、気付いた雲雀が五メートルほど先から声をかけてきた。弾かれたように顔を上げ、彼の存在を思い出して唇を舐める。
「一応、ですけど」
「抜けられないの?」
「無理ですってば」
 雲雀も同じ高さに登って初めて、綱吉の置かれた状況がはっきりと分かった。彼が弱音を吐くのも無理は無いと、今にも崩れ落ちそうな屋根に肩を竦め、ギシギシ言う足元に目を向ける。
 ゆっくりと一歩を踏み出して、雲雀は悲壮感を漂わせる綱吉にふっと息を吐いた。
「心配しなくても、今行くから」
「って、駄目です。ヒバリさん、危ない」
 二歩目を刻んだ青年にハッとして、綱吉は声を大きくした。
 確かに助けて欲しいと思ったし、居なくなったと思った雲雀が現れた時は嬉しかった。けれど、考えてみればここは人が自由に歩き回るだけの強度を持ち合わせていない、非常に不安定な足場だ。
 風雨には耐えられても、人が上から突っ込んでくるのを想定して作られてはいない。現に綱吉は左足を屋根に食われて、にっちもさっちもいかなくなっている。
 雲雀もがそうならないとは言いきれない。
「いいです、俺、自分でなんとかしますから」
「出来ないって、さっき言ってなかった?」
「それは、そうなんですけど」
 彼まで危険に巻き込むのは気が引けて、綱吉は掌を返して空気を押す仕草を取った。それで四歩目を諦めた雲雀が、肩を竦めて腰に手を添える。呆れた口調で言われて、綱吉はもごもごと言いよどんだ。
 彼が地上に居た頃から、綱吉はひとりで降りられないと主張して憚らなかった。だからわざわざ登って来たというのに、その好意を無碍に扱おうとしている。雲雀が気を悪くするのも、当然だった。
 だけれど、だからといって諸手を挙げて彼を歓迎できるほど、綱吉は我が強くない。
「危ない、です」
「知ってるよ」
 綱吉の体重で穴が空くくらいだから、雲雀の体重だと尚更危険なのは想像がつく。だから出来るだけ端を、ゆっくりと確かめながら進んでいるのではないか。
 それくらい分かれ、と理解力の足りない綱吉を逆に詰り、雲雀は五歩、六歩と徐々に速度を上げて彼に近付いた。
「ヒバリさん」
「君は、なにも心配せずに、僕が其処へいくまでじっとしてればいい」
 それに、雲雀は綱吉のような愚鈍さは持ち合わせていない。天性の俊敏さと強靭さを兼ね備え、危険を探知する能力にも長けている。屋根をぶち抜くなんて間抜けなことはしないと、妙な自負心に溢れていた。
 遠まわしに馬鹿にされた気分で軽く落ち込み、綱吉は首筋にひんやり冷たい汗を感じながら接近する雲雀の顔を大人しく見詰め続けた。
 少しずつ、少しずつ、彼の存在が大きくなる。やがて青色が主体だった視界は、雲雀が纏う白と黒に埋め尽くされた。
「……っ」
「ああ、結構深いね」
 そうして目の前にしゃがみ込まれて、綱吉は反射的に仰け反り、息を止めた。
 出来上がった僅かな空間に顔を寄せ、俯いた雲雀が呟く。風にそよいだ黒髪が鼻先を掠めて、くしゃみが出そうになった綱吉は慌てて両手で口を覆った。肩を強張らせ、その肘で彼を小突いてしまう。
「なに?」
 それを、呼ばれたと勘違いした雲雀が、前屈みのまま顔だけ持ち上げた。
 呼気が触れるほどの近さに眩暈がした
「な、なんでも……っ」
「そう。動かすよ」
「へ?」
 返事しようにも声が上擦り、掠れて、巧く言葉にならない。途中で息が詰まって、最後まで言えなかった。
 けれど雲雀はあまり気にする様子もなく、再度下を見て、穴の表面に指を入れた。そこから綱吉の足に乗り移り、付け根へと移動を開始する。
 自分以外、滅多に触る者などない箇所を擦る感触に、綱吉は背筋を粟立てた。
「ひば、り、さっ」
「じっとして」
 トランクスの際まで来られて、綱吉は悲鳴をあげた。しかし気が動転しているので、これまた上手に発音できない。全身を戦慄かせて、肌を擽る指を嫌がり首を振った彼に、雲雀は低い声で囁いた。
 耳朶に触れた呼気が、酷く熱い。
 反射的に身を強張らせた綱吉を笑って、雲雀はその肩に左手を回した。右手は華奢な太腿から青屋根に戻り、触れればちくちくする穴の縁を辿って、綱吉の脚の太さと穴の大きさを測っているようだった。
 半身を引き寄せられて、彼は目を丸くした。
「ヒバリさん!?」
「動くと足が持っていかれるよ」
 薄手のシャツ越しに、雲雀の骨格がはっきりと感じられた。鍛えられていると分かる肉体に、綱吉より僅かに低い体温が付随している。鳴動する心臓の音まで聞こえてくるようで、綱吉は焦り、彼を押し返そうとした。
 それを封じ込める言葉を吐き、雲雀は背中に回した左腕に力を込めた。
「っ」
 益々肌が密着して、綱吉の汗が彼のシャツに吸い取られる。自分が裸だというのが今更ながら恥かしくてならず、綱吉は顔を真っ赤にして唇を噛んだ。
「掴まって」
「え?」
「引き抜くから」
 恥かしいし、情けないし、悔しいし、穴があったら今すぐ入りたい。頭の中に色々な言葉がぐるぐると浮かんでは消えて、熱中症で溶けてしまいそうになっている彼の耳元で、更に雲雀が囁く。背中をトン、と叩かれて、綱吉はハッと下を見た。
 綱吉の姿勢は、今現在若干斜めになっていた。左足を庇いながらも、そちらに重心を傾けると穴を広げて、真っ逆さまに落ちてしまいかねないからだ。
 裏を返せば、この体勢のまま彼を引っ張ると、左足の傷を広げてしまいかねないという事。そうしない為には、一旦穴の上に移動して左足を真っ直ぐ伸ばす必要がある。
 雲雀はその上で、彼を釣り上げようというのだ。
 理屈は分かる。が、照れが先走って綱吉は咄嗟に動けなかった。空を握りつぶした指先は、雲雀のシャツには届かない。赤い顔のまま俯いて小さくなった彼に肩を竦め、雲雀は仕方なく彼を抱く腕を細い腰までずり下ろした。
「イッ――」
 胸部のみならず腹部まで密着させられて、引きずられた腿が屋根の破れ目に掠めた。しかしそちらの痛みよりむしろ、圧着する雲雀の体温に驚いて、綱吉は目を丸くし、笑っている青年の脇腹を叩いた。
「君が言う事を聞かないから悪いんだろう」
「そんな勝手な」
「掴まって」
 責任転嫁されて、綱吉は頬を膨らませた。けれど有無を言わせぬ台詞が続いて、骨に食い込むくらいに雲雀が腕の範囲を狭めてくる。
 こうなれば彼は一切聞く耳を持たない。綱吉は渋々手を伸ばし、彼の背に腕を回してしがみついた。両手をきつく結び合わせ、逞しい胸板に鼻筋を埋める。
 汗の匂いがして、無意識に喉が鳴った。
「いくよ」
「は――っ」
 頭上間近で合図があって、綱吉は返事の途中で奥歯を噛み締めた。雲雀が覆い被さってくる。潰されてしまいそうだと恐怖した瞬間、左腿に彼の手を感じた。
 後はもう、なにがなんだか分からないまま、気がつけば終わっていた。
 膝を折って屈んでいた雲雀がスッと立ち上がり、ふたり分の体重を支えるだけの余力を持たない屋根から即座に飛び降りる。穴から足を引っ張りだす最中も無傷ではいられず、新たに生まれた痛みと熱の上に、天地がひっくり返るような衝撃を直後浴びせられて、綱吉はぐるぐる目を回した。
 縦抱きだったのが、知らぬ間に横抱きになっている。姫抱きとも言うのだと、後から聞いた。
 出血は、もっとダラダラと量が多いと思っていたけれど、人間の皮膚というものは意外に頑丈で、さほど酷くなかった。ただ擦ったり、突き刺さったりした跡が赤い筋や点になって無数に残っており、痛々しいのは否めない。
「沢田」
 頬を叩かれて我に返って、数回咳込んだ綱吉は真上から覗き込んでくる男の顔にぎょっとした。
 足が地面についていないのも驚きだったが、いったいいつ地面に舞い戻ったのかもさっぱり分からない。雲雀の首にしがみついていた事実さえ、自覚していなかった。
「え? へ、や、あ……あいででででっ」
 琥珀の目を真ん丸に見開いて、ホッとしたような、それでいて少し不満げな顔をする雲雀に驚き、両手をパッと広げて彼を解放する。しかし下ろしては貰えず、足をバタつかせた際に自分で傷を蹴り飛ばしてしまい、彼は悶絶して再び雲雀に抱きついた。
 そうしないと、落ちるからだ。
「馬鹿?」
「ほっといてください……」
 呆れられても、反論する気力さえない。俯いてしょんぼりしている彼の項を見詰め、雲雀は苦笑して空を仰いだ。
 老朽化甚だしいから近く建て替える予定だったが、計画を前倒しした方が良さそうだ。穴が出来て今後は雨漏りするし、なによりまた、綱吉が飛び乗るかもしれないから。
「次は、君でもぶち抜けない頑丈なのを作るようにするよ」
「もうしませんってば」
「本当に?」
「うっ。た、多分……」
 未来のことなんて、分かるわけがない。なにが起きるかなんて、不確定要素だらけで予測すら立たず、先行き常に不透明。
 自信なさげに返事をした綱吉に笑いかけ、雲雀は彼を抱え直した。
「さ、て。保健室と応接室と、教室と。何処が良い?」
 好きな場所に連れて行ってやるといわれ、綱吉は絶句した。意地悪い彼を見上げて、即座に視線を伏す。
 三択のうち、最後の選択肢はありえない。血が出ているのに消毒もしないで放置するのももっての他で、とすればあとは二者択一。
 しかし。
 ちらりと自分を抱える男を盗み見て、綱吉は深く溜息を零した。
「じゃあ、あの。ほ、保健し……」
「あの男がいるけど、良いの?」
「気付いてるなら、聞かないでください!」
 熱を持っているのが足の傷だけでないと知っていながら、敢えて選ばせたのだ。どこまでも底意地の悪い彼に怒鳴りつけ、綱吉はからから笑う雲雀に臍を噛んだ。
 それでも、不思議と彼を憎めない。危険を冒してまで助けに来てくれた事実が、どんな意地悪さえ帳消しにしてしまう。
 結局自分は、彼の掌の上で転がされる運命なのだ。
 望み通り誰にも邪魔されない場所――応接室目指して歩き出した雲雀に落とされぬよう、ぎゅっとしがみつく。
 恥ずかしそうに伏せられた赤い顔は、不満げでありながら、それでもどこか幸せそうだった。

2009/07/27 脱稿