住みけん人の 心をぞ知る

お久しぶり、刀剣乱舞。
小夜左文字と歌仙兼定。すっかり本丸での生活に慣れた、ある初春の頃の話。

「はあー……」
 意図を持って口を開き、息を吐けば、唇から漏れ出た呼気は瞬く間に白く煙った。
 舌先に触れた空気は冷たく、氷の棘が刺さったようだ。咥内の唾まで凍える勢いの寒さにぶるりと身震いして、小夜左文字は慌てて唇を引き結んだ。
 鋭く尖らせた眼光で軒先を睨み付けても、雨空は決して晴れない。ここ数日続く空模様への苛立ちを紛らせるべく、彼は素足で床を踏み鳴らした。
「せっかく、綺麗に咲いているのに」
 視界の先にあるのは、庭に咲く梅の花だ。
 太くどっしりとした幹の先に枝が伸び、淡い紅色の花が無数に咲き誇っている。しかし時が過ぎるに連れて、露に濡れた花びらは数を減らしていた。
 地面に落ちた花弁は泥を被り、見るも無惨な有り様。せめてもの助けと思って今朝方、一枝切って花瓶に生けたが、今思えばそれも虚しい限りだ。
 雨足を強める雨空は、当分続くと見込まれた。
 それに合わせるかのように、気温も下降の一途を辿っていた。
 数日前は長閑に晴れて、まさに花見日和だったというのに。三寒四温とはいうけれど、季節の変わり目というものは、ほとほと気まぐれでならなかった。
 どうせ愛でるのであれば、見事に咲き誇る梅の樹下に佇んで。昨年や、その前の年の事を思い返しながら吐息を零し、小夜左文字は小さく首を振った。
 言ったところで、栓ないこと。
 そろそろ諦めるよう己に言い聞かせ、空虚な室内を振り返る。まるで狙っていたかのように、どこかの部屋に設置された柱時計が、ボーン、と古めかしい音を響かせた。
 左文字の刀剣男士たちに与えられた部屋は、二間続きの和室。奥にある片方は寝室として使用しており、もう片方の部屋の床の間には、間もなく満開を迎えようという梅の枝が飾られていた。
 壁を隔てた隣室は、兼定の刀たちが使っているが、今は誰もいないらしい。ほかに物音ひとつしない空間を窺って、小柄な短刀は軒を支える柱に身を預けた。
 しばらく凭れ掛かって、しとどに振り続ける雨を見送った。
 誰かの姦しい笑い声と、勇ましい雄叫びが違う方角から響いてきて、やがて消えた。馬の嘶きが少し遅れて聞こえたが、それもしばらくするとなくなった。
 出撃の命は下されておらず、内番も言い渡されていない。畑仕事を手伝おうにも、この雨だから、そもそも今日は休みだ。
 道場で汗を流すにしても、順番待ちの列はきっと長い。今から出向いたところで、出番が回ってくる前に草臥れてしまう。
 夕餉までどう過ごそうか悩んで、小夜左文字は無人の室内に目を眇めた。
「太閤がいればな」
 同じ左文字の短刀仲間を思い浮かべるが、生憎、彼は遠征で不在だ。帰りは夕刻になる。
 その頃には、雨が止んでいればいいのに。ぬかるんだ地面の歩き辛さを愁い、眉根を寄せた短刀は、少し考えてから背筋を伸ばした。
 雨粒が掛からない場所にいたとはいえ、身体が冷えた。
 いくら付喪神とはいえ、人の身に宿った今、風邪を引くまでは行かないが、体調を崩すことはある。ぶるっと来た悪寒をやり過ごし、剥き出しの両腕を撫でさすって、彼は今一度、恨めしげに雨空を仰いだ。
 温かな太陽を恋しく思いつつ、踵を返し、自室を離れる。行く先は特に決めていなかったが、足は自然と、通い慣れた道を選んでいた。
 刀剣男士の居住区画を抜けて、長い渡り廊を過ぎた先に待っていたのは、広大な玄関。本丸にまだ初期刀と小夜左文字のふた振りしか居なかった頃と比べると、その規模は段違いだ。
 百振り以上いる刀たちの履き物が並ぶ下駄箱は、壁一面を埋め尽くし、それでも足りないほど。脱ぎ捨てられた靴が行方不明になるという事件は、日常茶飯事だった。
 今も愛染国俊が、蛍丸の靴を探して右往左往していた。その向こう側に目を転じれば、開けっぱなしの戸の先で、外出先から帰ったばかりの刀が、濡れた和傘の雫を払っていた。
「ちょっとごめん、通るね~」
 見慣れた後ろ姿に目を奪われていたら、背後から鯰尾藤四郎の声が響き渡る。
 慌てて飛び退いて道を譲り、改めて元の場所に視線を向ければ、そこに居た刀もちょうど振り返ったところだった。
 距離があったが、目が合った。
 はっきりと相互に認識し合ったと悟り、小夜左文字はたまらず顔を背けた。
 そっぽを向く必要などなかったのに、反射的に行動を起こしていた。態度の悪さを自覚しつつ、なかなか改められない自分自身に臍を曲げていたら、気に留めてもいないらしい相手側が、呵々と声を響かせた。
「やあ、お小夜」
 傘を傘立てに預けて、両手を空にした歌仙兼定が朗らかに呼びかける。
 慌ただしく駆けて行った赤髪の短刀と、小柄な大太刀を見送って、彼は空いた空間に身を移した。
 慣れた調子で濡れた履き物を脱ぎ、若干摺り足気味に近付いてきた。その袴の裾は僅かに泥を被り、斑模様に汚れていた。
「出かけていたんですか?」
「ああ、少しね。万屋へ」
「わざわざ、雨の中を?」
「頼んでいた墨が入荷したと、連絡があったんだ」
 天気が悪いのに、敢えて外へ出る理由はなんだろうか。
 不思議に思っての問いかけにひとつずつ答えて、藤色の髪の打刀はふんわりと柔らかく微笑んだ。
 その言葉に、嘘はなさそうだ。
 昼前から静かだった隣室の様子を思い返して、小夜左文字は緩慢に頷いた。
「なら、仕方がないですね」
 本丸の初期刀でもあるこの打刀は、風流に目がなく、書道具ひとつにとってもこだわりが強い。この度手にした墨も、恐らくは万屋で常から扱っているものとは異なる、特注品だろう。
 古今伝授の太刀が聞いたら、羨ましがるに違いない。長い三つ編みを背に垂らした太刀を思い浮かべて、短刀はつられて頬を緩めた。
「しかし、この雨には参ったね。寒くてかなわない」
「そうですね。本当に」
 一時期暖かさが続いていただけに、急激な気温のぶり返しは身体に堪える。あまりの寒暖差に身体がついていかず、具合を悪くする刀も、実際、数振り出ていた。
 一方で、雨天でも気にせず駆けずり回る刀があるのも、また事実だ。
 若干湿り気を帯びている袖を気にして、歌仙兼定が腕を振った。そのまま懐に手を遣って、横目で短刀を窺い見る。
 盗み見られたのを感じ取り、小夜左文字は首を捻った。
「どうしましたか」
 先ほどまでの堂々とした佇まいが薄れて、微妙に挙動が怪しい。なにか後ろめたいものでもあるのかと勘繰った矢先、歌仙兼定が、はー、と頭を垂れて長い溜め息を吐いた。
「梅の花も、明日には散ってしまうかな」
「……ああ」
 心底残念そうに呟かれて、短刀は成る程、と頷いた。
 万屋への道すがら、雨に濡れる梅を眺めてでも来たのだろう。心の底から残念がっているのが感じられて、なぜだか可笑しくてならなかった。
 この本丸が立ち上がった直後の春から、彼とは梅の花を共に眺める仲だ。しかしこの春は、思うように花の香を楽しむ暇を得られなかった。
 これまで確認されていなかった異去への門が開かれて、様子を窺いつつ、出陣する日々が続いている。敵の様子はこれまで刀を交えてきた時間遡行軍と少し異なっており、また検非違使が出現しないというのも妙な話だ。
 そちらの調査がうまく進んでいないところで、時の政府からは新しい出撃任務が下された。
 お蔭で近侍を任されている江雪左文字は、この数日、大忙しだ。彼だけでは手が足りなくて、見かねた宗三左文字が手伝っているが、余裕はあまりなさそうだ。
 かといって小夜左文字が助力を申し出ると、決まってあのふた振りは良い顔をしない。
 末の弟を案じてくれるのは嬉しいが、たまには役立たせて欲しいと思う。
 空虚な部屋を思い返して、ぷく、と頬を膨らませる。その微妙な変化を捉えて、歌仙兼定は目を細めた。
「それでね、お小夜」
「あ、はい」
 一瞬、彼の存在を忘れていた。
 現実を取り戻し、瞬きを繰り返した小夜左文字の前で、本丸の初期刀は僅かに身を屈め、懐に手を差し入れた。
 万屋で仕入れてきたばかりの墨を見せびらかすのかと思いきや、違った。
 彼が取り出したのは、それよりもっと小さな包みだった。
「君に、お土産」
 悪戯っぽく目を眇めた彼が差し出したのは、花の形をした落雁だった。
 淡い紅色をした、梅の花を模したもの。それが鮮やかな赤色の器に、綺麗に盛り付けられていた。
 そっと蓋を外して中身を見せた打刀は、素早く元通りにして、短刀の手に握らせた。
「良いんですか?」
「ああ。本物には、到底敵わないけどね」
 万屋で依頼した荷物の準備が整うのを待つ間、店内をぶらついて、偶々目に入ったのだろうか。
 様相は簡単に想像できた。たまらず噴き出しそうになったのを堪えて、小夜左文字は胸の奥に溜まっていた鬱々したものを飲み下した。
「では、お茶を煎れましょう」
「そうかい。嬉しいな」
 干菓子はひとりで食べきれなくもない量だが、ひと振りで味わっても、きっと美味しさは感じられない。
 寒さは少しも緩まる気配が無く、雨の音は絶えなく続いていた。外から戻ったばかりの歌仙兼定も、間違いなく身体の芯まで冷えている。
 温かなものと、温かな心地で、梅の花を楽しめたなら。
 想像しただけで胸の奥がほっこりする光景を、歌仙兼定も思い浮かべたようだ。
 至極幸せそうな囁きに、自然と頬が朱く、熱くなる。微かな胸の高鳴りに目尻を下げて、小夜左文字は落雁入りの箱を握り締めた。
「用意してきますね」
「よろしく頼むよ」
 歌仙兼定は着替えるべく、己の部屋へ。
 小夜左文字は菓子に合う茶を見繕い、用意すべく、台所へ。
 互いをよく知った身だ、多くの言葉は必要ない。
 待ち合わせ場所は、今朝手折った梅の前だ。

何となく軒なつかしき梅ゆゑに 住みけん人の心をぞ知る
西行和歌集 44

2024/02/25 脱稿