雪解くる 春のわらびの もゆればや

FGO。
カドぐだ♂未満。

 綺麗事が嫌いだ。
 世の中は悪辣に満ちている。疑心と憤怒と嫉妬に溢れて、底なしの闇がどこまでも続いている。
 弱肉強食の競争社会は、無知で無能な人間を容赦なくふるい落とす。少しでも怠惰に心を絡め取られれば、たちまち奈落の底へまっしぐら。
 誰もが足を引っ張り合い、上を目指そうと足掻いている。だのにその汚い世界のど真ん中を、さも当然だとばかりに、燦然と進んで行く奴もいる。
 直視すれば目を焼かれてしまいそうな眩しさに、愕然となった。
 圧倒的な実力、才能の差を思い知らされた。己の未熟さ、無力さに打ち拉がれて、妬む気すら起こらなかった。
 だから下から這い上がってきたアイツを、蔑むことで気持ちを落ち着かせた。
 あれに出来たのなら、自分にだって叶うはずだと、見苦しい敵愾心を剥き出しにして、虚空に吼えた。
 結局、なにひとつ敵わなかった。
 挙げ句に命を拾われて、惨めにも今を生きながらえている。
 綺麗事は嫌いだった。
 勝ち目のない戦に足を突っ込み、怯みながらも真っ直ぐ突き進んでいくその姿勢に、唖然とした。
 どうして、なにも持ち合わせていない一般人のアイツが、この不条理の中であっても、背筋を伸ばして立っていられるのか。
 自分にはできないと早々に諦めてしまった事にも食い下がり、迷わずに歩き続けられるのか。
 訳が分からない奴はクリプターにもいた。分かろうにも、思考が読めない奴らばかりだった。
 けれどアイツは、考えていることが大まかにだけれど、分かる。想像ができた。それ故にああもがむしゃらに、無謀な策と知りながら突っ込んで来るのかが、理解不能だった。
 それぞれの理想を叶えるべく在る者たちに向かって、たとえ先がないとしても、愚かしいと知りながらも、あの場所が良い、あの世界を取り戻したいと、声高に訴えられる気概が、不思議だった。
「……くそ」
 眠れないまま夜を過ごすのは、これが初めてではなかった。
 ポッドの中でずっと眠っていた訳だから、身体が睡眠を受け付けない、という事ではない。そもそも人間の身体は、寝溜めできるように創られてはいないのだ。
 倦怠感に見舞われる中、枕の形に凹んだ髪を掻き毟った。小さいながら欠伸が出たのはご愛敬と己を宥め、カドック・ゼムルプスはベッドサイドに脱ぎ散らかした靴を爪先で集めた。
 足の側面を利用して、寝転がっていたブーツを起こした。指先を押し込んで踵で数回床を蹴り、立ち上がる。着衣を整えようか悩んだが、一瞬躊躇しただけで、止めた。
 防寒性に優れた白いズボンに、上着は羽織らない。襟付きの半袖シャツだけでも、艦内の空調のお蔭で、充分快適だった。
 喉の渇きを覚えて室内を見回すと、透明なガラスの水差しは空だった。
「チッ」
 そういえば昨夜、補充するのを忘れていた。忌々しい記憶を呼び覚まして、彼は舌打ちと同時に踵を返した。
 寝台を離れ、室外に出るドアの前に立つ。途端にセンサーが反応して、壁際のスイッチが数回、白いライトを明滅させた。
 生体パターンを読み取り、二秒としないうちにドアが自動的に開いた。敷居を跨げば、目の前に広がるのは無機質な通路だった。
 背後で扉は自動的に閉まり、頼んでいないのに勝手にロックがかかった。盗まれて困るような貴重品は置いていないが、念の為ということだろう。
 そもそも艦内で好き勝手している英霊たちは、霊体化すれば壁だろうか、天井だろうか、いくらでもすり抜けられるのだ。鍵という人類の英知など、この場所では紙切れにも劣る。
 プライバシーには一応配慮していますよ、という建前でしかなかろう。皮肉な笑みを浮かべ、彼は行き先に悩み、視線を巡らせた。
「食堂、か」
 時計をしっかり確認したわけではないが、早朝の時間帯であるのは疑いの与地がない。空を泳ぐ船の中はとても静かで、辛うじて空調の可動音が聞こえて来るくらいだ。
 艦内に籍を置く人間たちが寝起きする空間までは、英霊たちもあまり入り込んで来ない。
 交代制のスタッフの顔をぼんやり思い浮かべて、通る者のない廊下を、カドックはひとり歩き出した。
 長く続く廊下は永遠に感じられたが、行き当たった角を曲がれば、それが幻想だったと知る。
 居住区を抜けた先に待ち受けていたのは、大きな窓だ。
 精緻で瀟洒な彫刻が施されたフレームに、分厚い透明素材が用いられ、地上遥かにある気圧を一身に受け止めていた。それが横にいくつも連なって、枠内に現れる景色はさながら超大作の風景画だった。
 平坦なように思えて、僅かに湾曲した大地は、この星が間違いなく球体をしており、宙に浮かんでいるのだと伝えていた。
 風が吹いているのだろうけれど、安全な艦内に居ては、分からない。流れ行く薄い雲の群れを目で追って、彼は不自然極まりない地表から視線を外した。
 世界がこうなった原因の一端は、自分にある。
 ちくりと刺さった棘の痛みに臍を噛み、緩く首を振って息を整えた。瞼の裏に浮かんだかつての同輩の顔を打ち消し、自身を鼓舞する意味も込めて軽く頬を叩いた。
 パチン、という痛みを伴わない音は、思いの外大きく響いた。
「カドック?」
 そこまで強く手を振りかざしたつもりはないのに、周りが静か過ぎたのだろう。
 自分でも驚いた現象に立ち会ったのは、カドックひとりだけではなかった。
 いつからそこに居たのか、まるで気付かなかった。アサシンの気配遮断並みだと絶句して、彼は窓枠に半身を委ねる存在に眉を顰めた。
 藤丸立香。汎人類史最後のマスターにして、人理修復の立役者。数多の英霊と縁を結び、白紙化した地球を元に戻そうと奮闘を続ける人間のひとり。
 魔術師でもなんでもないのに、その右手には令呪が宿っている。幾度となくレイシフトを繰り返し、どんな負け戦でも絶対に諦めない不屈の精神の持ち主。
 ただ本人にそれを言えば、間髪入れずに大袈裟だと笑い飛ばした。幸運に恵まれただけだと躊躇なく言い放ち、数多ある戦績を一切誇示しない。
 そもそも真に幸運に恵まれていたなら、こんな苦難しかない旅路に挑まなくても良かったのではないか――とは、言わずにおいた。
「なにしてるんだ、そんなところで」
「カドックこそ、こんな時間にどうしたの?」
 距離で言えば、十メートルとない。壁に反響する声は二重、三重になって耳の奥に入り込み、カドックに深い溜め息を吐かせた。
 質問に質問を返してきた辺り、触れられたくないのだと判断する。
 理由は、自分と似たようなものだ。否、それは言い過ぎか。
 彼の不安や、孤独は、本人にしか理解し得ない。どれだけ距離を狭め、近付こうとも、だ。
「なにを見ていた」
 敢えて踏み込まない選択をして、話題を変える。厚みのある窓のフレームは、深く腰を掛ければ、身体が半分隠れるだけの空間があった。
 いつから、どうして。
 消えない疑問に蓋をして、藤丸の斜め前で足を止めた。眼前に広がる真っ白い砂漠は、どこまで行っても同じ景色の繰り返しだ。
 植物は失われ、建造物も消え去った。一切の生命が途絶え、無味乾燥とした大地が果てしなく続くのみ。
 世界に色がないということが、こうも空虚だとは、考えもしなかった。
 あまりにも変わってしまった地上を見続けていると、気が狂いそうになる。仕事だから、職務だからとレーダーを通して観測はできても、気晴らしに外を眺めるのは無理、というスタッフだっているくらいだ。
 それなのに藤丸は、もしかしなくても、変わることがない景色を映し出すこの場所にずっと佇んでいたのだろうか。
 小首を傾げて目で問えば、彼は数回瞬きをして、力のない笑みを返した。
「いや、まあ」
 珍しく歯切れが悪い。言葉を選んでいるのか利き手を宙に泳がせて、空を軽く掻き混ぜた。
 手袋を嵌めた指先がリズミカルに踊って、やがて軽く曲げられた膝に落ちた。
「きれいだな、て」
「――は?」
 腰を僅かに捻り、カドックではなく、窓の向こうを見据えながら彼が告げる。
 その言葉の意味するところを図りかねて、カドックはつい、素っ頓狂な声を上げてしまった。
 無自覚に、目を丸くしていた。唖然となって、開いた口が塞がらなかった。
 人間の営みを失った大地は荒涼として、今見ても、異世界に迷い込んだ趣がある。自身の生まれ育った町があった場所を指し示されても、俄には信じられない。
 悲しみと、切なさと、やるせなさ以外で、この景色を眺める日は来るのだろうか。
 そんな風に考えたことだってあるのに、あろうことか、彼は。
「なにを、馬鹿なこと」
「そうかな?」
 あり得ないと断罪し、切って捨てようとしたのに、遮られた。
 空は青く照り、大地に落ちる影は少ない。あったとしてもそれは人工物ではなく、小ぶりな丘陵が生み出したものだ。
 真っ直ぐ見詰め返してくる藤丸に、咄嗟になにも返せない。
 晴れ渡る空を思わせる瞳は、どんな奈落よりも深く、どんな湖よりも澄んでいた。
「オレは、きれいだと、思うよ」
「藤丸」
「だって、どんなになっても、ここはオレの故郷だし」
 喋っている途中で彼は顔を背け、ガラスに――正確にはガラス素材ではないだろうが――額を押しつけた。呼気で曇るそばから指で擦り、靄を消して、遮るもののない大地に目を細めた。
 辛くないのかと聞きかけて、すんでで止めた。喉まで出掛かった言葉を飲み込んで、カドックは両脇に垂らした腕を前後に振った。
 緩く拳を作り、腿に押しつけた。柔らかな素材に皺を刻んで、その一本を人差し指でなぞった。
「随分な」
 地球がこうなった原因の一端に、カドックの意志がある。
 小さな自尊心、プライドという名の十字架が、奥底に楔となって突き刺さっている。
 けれど彼は、藤丸立香は、そのことに決して触れない。責めない。咎めない。
 内心どう思っているかは、知らない。確かめたことはない。この先も、きっと、問い質す日は来ないだろう。
「綺麗事だ」
 心の中で呟いたつもりが、音になって外に漏れ出ていた。
 吐息に混ぜ込んだ囁きでも、音のない空間では簡単に広がっていく。
「そんなつもりはないよ」
 予期していなかった相槌に、ハッと我に返った。大きく息を吸い込んで姿勢を正したカドックに、藤丸は一瞬きょとんとしてから、口角を持ち上げて目を眇めた。
「いつか、世界が元通りに戻ったら、さ。もう見られない景色なんだな、って思ってるだけ」
 深い意味はない。意図もない。深刻に考えての発言ではない。
 裏はない。嫌味でもない。ただありのままに、あるがままに受け止めているだけか。
「覚えておくつもりか」
「いけないかな?」
 少しだけ声を高くして問い返し、藤丸は勢いを付けて窓枠から飛び降りた。綺麗に着地を決めて背筋を伸ばし、腕を振り上げて肩を回した。
 長く同じ体勢で居たからだろう、ボキボキと威勢良く骨が鳴る。若干不穏に感じられる音色を聞きながら、カドックは改めて窓の向こうに視線を向けた。
 空漠とした大地は無味乾燥として、なにかを訴えることもなく、ただそこに広がっていた。
 彼が言うような、美しい光景とはどうしても思えない。世界の果てまで見渡せそうな、寥廓とした地平に想いを馳せるのは、難しかった。
 それでも確かに、世界は此処に在る。
 偽りかもしれないけれど、嘘ではない世界が、そこに在った。
 地球に生きた数多の命が知り得ない景色だと思えば、いくらか貴重なものだと感じられた。
 空は、今日も青く澄んでいた。
「僕、は。……どうせ覚えておくなら、空の色の方が良い」
 一度開いた口を閉ざし、出掛かった言葉を入れ替えた。
「あー、確かに。きれいだよね」
 額面通りに受け取った藤丸が相槌を打ち、腕を頭上にやったままくるりと身体を一周させた。
 左足を軸に不思議な舞を披露して、最後に歯を見せてにっ、と笑う。屈託ないその笑顔は、実際の年齢よりも彼を幼く見せた。
「そろそろ朝ご飯の準備できてるかな。食堂行こう、カドック」
「ああ」
 平和な世界であれば、彼はきっと学校に通い、気の合う仲間と楽しい日々を送っていただろう。
 何の因果がその道を歪めたかは、知らない。きっと考えても栓ないことだ。だけど少しだけ、想像してしまう。取り戻した未来の先で、すれ違う筈がなかった道が交差する、など。
 食欲に負けた藤丸が、我先にと廊下を駆け出す。脇目も振らず突き進んでいく背中から彼方に目を移し、カドックは肩を竦めた。
「なあ。……構わないだろうか」
 窓に映る半透明の自分に尋ね、口の端を持ち上げた。
 喪った存在に縋るつもりはないが、問わずにいられない己の未熟さに、ついつい失笑が漏れた。
「カドック、急がないとなくなっちゃうよ」
「今行く」
 食堂に通じる通路の手前で、藤丸が聞き手を振り回して叫ぶのが聞こえた。
 彼の声を受けて、近くに居た英霊達が実体化したり、歩み寄ったりして、周囲が一気に賑やかさを増した。
 置いて行かれまいと叫び返して、カドックは強く床を蹴り飛ばした。

2024/02/10 脱稿

雪解くる春のわらびのもゆればや 野辺の草木のけぶり出づらむ
風葉和歌集 17