リボーン。
中学生ヒバツナ。将来の話。
ヒバツナご新規さんから感想をいただいたので。お礼代わりになればいいな。
ガクン、と首が落ちた。
いいや、その表現は正しくない。実際問題、首は胴体に繋がっている。あくまでも比喩表現として、漕いでいた舟が傾いただけだ。
気がつけば眠っていたらしい。意識を失っていたのはほんの一瞬だが、思考を放棄し、現実世界から目を背けたのは間違いなかった。
「ああ、と」
愛用しているシャープペンシルが床に落ちているのに気付き、沢田綱吉は僅かに椅子を引いた。身を屈めて腕を懸命に伸ばし、一度失敗して、二度目の挑戦で無事手元に取り戻した。
拾おうとして、逆に指で弾き飛ばしてしまうのは、寝起きだからという理由だけでは済むまい。
生来の不器用さが、こんなつまらないところにまで波及している。あまり嬉しくない状況に鼻白んで、彼は椅子に座り直した。
軽く身じろぎして居住まいを正し、放課後の教室でひとり居残りとなった原因に目を落とした。
「はあ……」
口を開けば、自然と溜め息が零れた。
あまり広くない机上に陣取るのは、四百文字詰めの原稿用紙。横長サイズの縦書き仕様で、一文字分すつ罫線で区切られている。
理路整然と並ぶ四角形は、右端の一行にタイトルが、二行目の下側に名前が書かれている以外、空白で埋め尽くされていた。
これを提出しない限り、帰れない。
一応下校時間になれば帰宅を促されるが、家に持ち帰ったところで筆が進むとも思えなかった。
「あと、二十分か」
タイムリミットを教室前方に掲げられた時計で確認して、シャープペンシルの尻で額を小突く。
夕暮れの鮮やかな茜色が教室の窓を通し差し込んで、かなり眩しかった。
閉め切った窓の外は晩秋の風が冷たいけれど、日向に当たるこの場所は、まだ辛うじて温もりが感じられた。
宿題をサボって逃げ出したい気持ちと、程々の温かさが相俟って、睡魔がじわりと押し寄せてくる。
足元から這い上がってきたものに頭まで支配されかかった時、再び落ちかけた首を拾ったのは、予期せぬ物音だった。
ガンッ、とやや乱暴な音色は、教室前方のドアになにかが当たって生じたものだ。
靴か、肘か、それとも仕込み武器か。
常識的には考え難い物騒な発想にまで思い至ったのは、半開きのドアに寄りかかる格好で佇む相手が相手だったからだ。
「ひ……っ」
名前を呼ぼうとしたのか、それとも単なる悲鳴だったのか。
綱吉自身も判断が付かないレベルで息を呑んだ先で、並盛中学校の風紀委員長たる人物は剣呑に目を眇めた。
「なにしてるの」
低い、やや掠れた声色で問われたが、咄嗟に答えられない。
喉の奥が引き攣って、息を吸うのも、吐くのさえ、自由が利かなかった。
恐怖が先に立ち、全身からさーっと血の気が引いていくのが分かる。辛うじてて首を横に振ったものの、それであちらに伝わるわけもなく。
押し黙る綱吉に眉を顰め、雲雀恭弥は大股で一歩を踏み出した。
教室入り口から窓際の席まで、二十歩とかからない。
あっという間に距離を詰めた彼から逃げるわけにもいかず、綱吉は椅子の上でカタカタ震え、唯一の武器ともいえるシャープペンシルを握り締めた。
なにかされたらこれで、と意気込みはしても、実現は難しい。ハッとなって顔を上げた時にはもう、雲雀の顔がそこにあった。
「なに、これ」
歩くのが速い。
実にどうでも良い感想を心の中で述べている間に、彼は綱吉の手元を覗き込み、真っ白に近い原稿用紙を指差した。
「将来の、夢?」
右端に記された下手な字を、逆側から解読して、声に出して読み上げる。
途端に顔がカーッと熱くなって、綱吉はシャープペンシルを取りこぼした。
「しゅ、宿題、で。国語の。ていうか、そもそもおかしいですよね。こんな作文、小学生のタイトルでも今時、ダサいっていうか、馬鹿馬鹿しいっていうか。ねえ。ヒバリさんも、思いません?」
真っ白い原稿用紙が、まるで空っぽの自分を表しているかのようで恥ずかしい。
それを誤魔化して急に早口に、多弁になった綱吉を一瞥して、雲雀は四十五度に腰を捻った。
なにをするのかと思えば、踵を浮かせて、人の机に座り込んできた。
ただでさえ狭い空間が、黒に侵食された。
明るすぎる夕焼けがその背中にのし掛かり、学生服からちらりと覗く白いシャツを美しく染め上げた。
本来座るべきでない場所に腰掛け、あまつさえ足を組み、頬杖をついていても、妙に様になるところが羨ましい。
不遜な表情を目の当たりにして、綱吉は二の句が継げず、口を噤んだ。
「君、マフィアの十代目なんじゃなかったの」
「違います。オレはマフィアなんか、……ていうか、そもそもそんなの書けないし」
イタリアンマフィアの十代目候補として選ばれたという話は、寝耳に水だった。そもそも彼は、自身の出自が海外に由来するなど、一度たりとも聞いたことがなかった。
ある日突然、自称最強の家庭教師ことリボーンがやってきたことで、平穏な日々は終わりを迎えた。
以来毎日のように騒動が起こり、友人が増え、雲雀とも当たり前のように言葉を交わす間柄になっていた。
並盛中学校の風紀委員といえば、泣く子も黙る最強集団。学校の風紀を守る為なら暴力をも辞さない輩ばかりで、それを率いるのがこの雲雀恭弥だ。
リボーンがいなければ、まず間違いなく、係わり合いになることはなかった。雲の上のような存在ともいえた。
まず、強い。大人相手でも物怖じしない。自信に溢れ、いつだって背筋が伸びている。芯があって、ぶれない。
流されるままに生きてきた綱吉とは正反対の、恐ろしいけれど、ある意味憧れを抱くに充分な相手だった。
「なんで。書けばいいじゃない」
「そんな、幼稚園児じゃないんだから」
空白のマス目を指でなぞり、雲雀がどうとでもない事のように言う。咄嗟に反発して、綱吉は頬を膨らませた。
まがりなりにも、中学二年生の提出課題だ。高校受験が視野に入ってくるこの時期、教員が求めているのは、就職先として希望する職種や、進路に関しての理由、動機といったもの。
そこに『マフィアのボス』と書くのがいかに愚かか、馬鹿な綱吉にだってそれくらい分かる。
教師はまず信じまい。もっと真面目に書くように、と小言と共に再提出を求めてくるのが関の山だ。
「笑われるだけですよ」
実際問題、綱吉だって笑い飛ばしてしまいたい。
けれど後継者争いは、実際に起きた。日常と非日常が紙一重だというのは、痛いくらい実感していた。
「笑わないよ」
「そりゃ、ヒバリさんは笑わないでしょうけど。っていうか、なりませんから。オレ、マフィアになんか」
口を尖らせて突っぱねたのに、雲雀は意に介さない。微妙に本論からずらされたのを修正して、綱吉は原稿用紙を引っ張った。
だが、びくともしない。それほど力が込められているように見えないのに、原稿用紙は雲雀の手から離れるのを嫌がった。
このままでは破れてしまう。
仕方なく肩を落として力を緩めた彼を見て、なにを思ったのか、雲雀は小首を傾げた。
「そんなに嫌?」
不思議そうに訊かれて、たまらず舌打ちが漏れた。
「イヤに決まってるじゃないですか。だいたい、オレ、喧嘩は嫌いです。暴力とか、あと、怖いのも」
「僕がいるのに?」
「はい?」
矢継ぎ早に述べたところに、不意に割って入られた。
聞き間違いかと疑って、綱吉は目を点にした。
心なしか、先ほどよりも距離が近い。黙って見詰め返していたら、机上にあった雲雀の爪が原稿用紙に食い込んだ。
平らだった紙面の一部に皺が生じる。一瞬そちらに目を遣って、再度提出用紙の奪還を目論むが、呆気なく潰された。
「ダメだよ」
低く囁かれた言葉が、何に掛かっているのかが分からない。
下校時間が迫る中、綱吉を教室に居残りさせ続けるのは、彼の本意ではないはずだ。であれば、と思索を巡らせたところで、あちらから答えが提示された。
「君の傍にいれば、咬み殺し甲斐のある連中が向こうから押し寄せてきてくれるのに。僕を退屈させるなんて、許さない」
強慾な雲の守護者は言い切って、にやりと口角を持ち上げる。
あくまでも彼本意の発言だったのに呆れて、綱吉は頬を引き攣らせた。
いや、知っていた。とっくに分かりきっていた事だ。雲雀恭弥たる人物が、いかな思考回路の持ち主だということくらい。
それでも少しばかりドキッとしたのは、吸い込まれる程に黒く澄んだ、真っ直ぐな瞳に射貫かれたからだ。
「でも、ヒバリさんだったら、オレなんかいなくても――」
「君さ」
「な、なんですか?」
真面目に構うのは、時間の無駄だ。いい加減切り上げようと言葉を紡いだ途端、雲雀が急に声を鋭くした。
一段と距離を詰めてこられて、彼の呼気が肌に刺さる。逆立った前髪が微風に揺れて、綱吉はたまらず目を瞑った。
雲雀自身も、近付き過ぎたと感じたらしい。数秒の間を置いて、人の机に座り直した。
一瞬だけ遠くを見て、蔑むような、憐れむような、ともかくそんな眼差しを向けてきた。
「やめたら? それ」
「なにを、ですか」
「自分なんか、って言う、それ。気分が悪いよ」
「ええ?」
そんなこと、言っていただろうか。
まるで覚えがない指摘を受けて、綱吉は目を見開く。左手を口元にやって考えるが、言った気もするし、言っていない気にもなった。
分からない。しかし雲雀が言うのなら、きっとそうなのだろう。
己を卑下し、卑屈になって、存在を矮小化して。
それは自信のなさの現れだ。頭が悪く、理解が遅く、運動音痴で、得意だと言い切れるものを持ち合わせていない。
雲雀のような存在を前にすると、極端に顕著になる。どうして自分が彼らと一緒にいるのだろうと、不思議で仕方がない。
今だって、密かに思っている。
それなのに真っ直ぐ、澱みない眼差しを向けられると、違うのだろうかと感じられるから、怖い。
根拠のない自信に浸り、傲慢に振る舞ってしまいそうで――それが裏切られたと想像すると、足が竦んだ。
返す言葉が見つからず、黙りこむ綱吉に、どう思ったのだろうか。雲雀は小さく肩を竦め、緩く握った拳を持ち上げた。
目線の高さに筋張った関節が来て、咄嗟に殴られる恐怖に襲われた。
身が竦み、避けられない。金縛りに遭ったかのように硬直した彼の前で、傲岸不遜を絵に描いたような男は不敵に笑った。
そうして、コツン、と。
無防備な綱吉の額を、角張った指の背で小突いた。
痛くはなかった。
骨と骨がぶつかり合う微かな衝撃が、脳を揺らした。
「その君なんかに、スリッパで一発してやられた僕は。じゃあ、なんなんだろうね?」
「え。あ」
びっくりして目を丸くした綱吉の前で、雲雀が淡々と言葉を刻む。
途中でふい、と脇に逸れた眼差しが、鮮やかに染まる西日によって眇められた。
突かれた箇所に指を添えれば、記憶の縁から甦った出来事が瞼の裏を駆け抜けた。
もう随分と昔のことのようで、まだ二年と過ぎていない事実に愕然とする。受け入れ難い現実に瞬きを連発させて、綱吉はハッと息を呑んだ。
伏せた視線を斜め前方に戻せば、相も変わらず人の机に居座った男が口角を持ち上げた。
「あれは、リボーンの奴が、その。……いや、そうじゃなくて。えっと、なんていうか。それじゃあ、ヒバリさん的には、良いんですか?」
「なにが?」
「オレと、一緒に、居ても」
「さあ?」
意を決し、途中まで出掛かった言葉を呑み込み、言い換えた。
しどろもどろながら自分なりの決意を込めての質問に、しかし雲雀は惚けた風に首を傾げた。
「はあ?」
ほんの数十秒前の発言なのだ。責任はしっかり持っていただきたい。
ここに来てハシゴを外された。唖然となって、開いた口が塞がらない。
およそ人に見せられない間抜け顔を晒した綱吉に、並盛中学校風紀委員長は切れ長の目を細めた。
それはそれは、とても楽しそうな表情を作って。
「僕を退屈させないでくれたら、ね」
この条件だけは譲れないと、甘く囁く。
耳朶を掠めた微風にぞわっと来て、綱吉は湧き起こった悪寒に身震いした。
先にも言われた発言だったが、受け止める側の心境が変わったからか、聞こえ方も違って感じられた。
きっと彼自身に、深い意図はないに違いない。それでもこの先、綱吉の行く末に強い味方が存在するのが半ば確定して、曲がりくねっていた芯と呼べるものが真っ直ぐ伸びた気になった。
背中を支えられた。
背中を預ける先ができた。
じんわり胸の奥に広がる実感に、自ずと口元が緩む。こみ上げるものを必死に我慢をしたら、変な風に力が入った。
唇を真一文字に引き結んでぷるぷる震える綱吉を見て、雲雀がふと余所を向く。廊下を行く学生服の風紀委員に小さく頷いて、なにやら指示を送った。
学ランの委員はそのまま何も言わずに通り過ぎ、薄暗さが増した教室は再び静かになった。
言葉を介さずともやり取りが叶う信頼関係を若干羨ましく思い、依然雲雀に潰されたままの原稿用紙に視線を落とす。
「将来の、夢」
それは未だ、見つからない。
マフィアなんか御免被るし、暴力に明け暮れる毎日など以ての外。それでも獄寺や、山本や、雲雀たちと一緒の日々は、きっと刺激的で、楽しいだろう。
ひとつ増えた可能性に思いを巡らせて、取り交わしたばかりの約束を噛み締め、堪えきれずに笑みを漏らした。
「なんか、プロポーズみたい」
「なにが?」
「あ」
将来を誓い合う。
そんな意味合いを持つ言葉くらいはさすがに知識として有していて、無意識にぽろっと零れ落ちた。
まさか声に出ているとは夢にも思わず、雲雀が怪訝な眼差しを向けてきて、我に返る。
覆水盆に返らずとは、こういうことだ。
慌てて口を手で覆ったが、到底間に合うはずもなく。
一瞬にして青ざめた綱吉を胡乱に見詰めて、鬼の風紀委員長はやがて嗚呼、という風に二度頷いた。
今度こそ咬み殺されてしまう。
痛烈な一撃を想像して居竦んでいたら、恐怖に染まった綱吉の顔が余程面白かったのか。彼は白い歯をちらりと覗かせ、恐ろしくも思える笑みを浮かべた。
「いいね、それ」
但し発言内容は、こちらの予想を遥かに上回っていた。
綱吉の失言に同調して、愉快そうに呟く。
その上で呆気にとられて固まる大空の守護者の左手を取って、力なく垂れ下がる指先の、端から二番目を選んで掬い上げた。
明らかに分かった顔をして、身を低くして綱吉を正面から見据えて。
「僕を一生、退屈させないと誓いなよ」
下校時刻を告げるチャイムが高らかと鳴り響く中。雲の守護者は不遜に懇願して、返事を待たず、細くて脆弱な薬指に牙を落とした。
「イッ……!」
噛まれたと理解したのは、鋭い痛みが走った後。
問答無用で誓わされた薬指には、指輪代わりの歯形が、くっきりと残されていた。
2023/12/09 脱稿