触接

中学生ヒバツナ。
Twitterでアンケート取ったら一位になった「服の中を指が這う」です。このためにコミックス読み返しました。
そしてちょっとやり過ぎました(苦笑)

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 職員室のドアをくぐる時は、いつも緊張した。
 あまり楽しくない場所で待ち構えていた担任に、課題のプリント提出をする。その場で答え合わせをされて、突き返された紙の右上には、三十点台後半の数字が書き込まれていた。
 ぎりぎりではあるが、赤点は回避した。課題が追加されなかったのに安堵して、彼は深々と一礼し、静かなようで騒々しい職員室を辞した。
 最初にあの点数を取れていたら、放課後に居残りさせられることはなかった。そこは悔いしかない。獄寺に教えを請うて必死に対策を練ったけれど、今の綱吉には、これが限界だった。
「引っかけ問題が多すぎるんだよな~」
 廊下を行きながら小テストを作成した担任への愚痴を堂々と零し、真ん中で折り目がついたプリントを広げる。一応これで過去最高得点なのだが、四十点に届かないようでは、さすがに自慢にならなかった。
 真面目に解いているつもりなのに、なぜか計算が合わない。
 世の中は不思議に満ちている。己の知能指数を棚上げして首を傾げた彼は、鞄を置いたままの教室へ急ぐべく、階段を一段飛ばしで駆け上がった。
 大半の生徒が帰宅した後の校内は閑散として、広々としていた。開けっぱなしの窓から、野球部らしき掛け声が聞こえて来る。剣道部の竹刀を打ち合う音も、微かに耳に届いた。
 本来なら帰宅部の綱吉はすでに自宅へ戻り、ゲームに興じているはずだった。
「ちぇ」
 獄寺ももう帰った後だろう。
 ひっそりとした教室でひとり机に向かい、問題を解くのはかなり苦行だった。
 いっそ引きこもり生活に戻りたいけれど、現在進行形で家に居候している家庭教師は、きっと許してくれない。
 見た目は赤ん坊ながら、容姿とは正反対の性格をしているリボーンは、この点数を見てどんなか。
 想像するだけで恐ろしかった。
「……よし」
 証拠隠滅するなら、今のうち。数学の小テストがあったことは、いくらあの赤ん坊とてまだ知るまい。
 意を決し、階段の踊り場で握り拳を硬くする。周囲をきょろきょろ見渡して、綱吉は答案用紙をくしゃくしゃに丸めた。
 どこかのゴミ箱に放り込んで、なかったことにしよう。帰りが遅くなったのは、獄寺と話し込んでいたからだと言い訳しよう。
 教室にあるゴミ箱だと知っている誰かに見つかる可能性があるから、なるべく人の少ない、けれど頻繁にゴミ出しが行われている場所がいい。
「家庭科室とか、かな」
 ぼそっと呟き、綱吉は己がいる場所を確認すべく、首を伸ばした。
 残りの階段を上りきり、人気のない廊下の先を窺って、息を殺す。
 そこへ。
「ねえ」
「――うひゃあ!」
 てっきり誰もいないと思い込んでいただけに、突然声をかけられて、心臓が飛び出そうだった。
 男子にしては甲高い悲鳴を上げて跳び上がった綱吉は、捨てるつもりだった答案用紙ごと己を抱きしめ、摺り足で後退した。怯えた顔で振り返ったのには理由があって、声の主に心当たりがあったからだ。
 奥歯がカタカタ言うのを止められない。
 以前の衝撃を思い返すと、膝が笑い、崩れ落ちそうになった。
 内股で小刻みに震える綱吉を見下ろすのは、漆黒の髪に鋭い眼光を有する少年だった。
 学年は、明らかに綱吉よりも上。しかし彼がどの学年の、どのクラスに在籍しているかまでは分からない。ただ袖に留めた腕章の文字が示す通り、風紀委員に属しているのだけは、間違いなかった。
 雲雀恭弥。並盛中学校を影で牛耳っているとも囁かれる、応接室を個人使用しても咎められない存在だ。
 リボーンが彼に興味を示したせいで、綱吉は先日、獄寺や山本たち共々酷い目に遭った。問答無用で殴られ、傷を負わされた。
 もっとも綱吉の側も、死ぬ気弾の力を借りてながら、一発やり返したわけだが。
 それ以降、接触はなかった。応接室をアジトにするという話も、うやむやのうちに立ち消えになっていた。
 そんな男と、よもやこんな場所で遭遇しようとは。
 顔を引き攣らせたまま瞳を泳がせるが、頼りになる獄寺や、山本の姿はそこにない。いっそリボーンでも良いと願うが、無論、あの赤ん坊が学校にいるはずもなく。
 一対一で向き合った男は、相変わらずの仏頂面で、怯え竦む綱吉を虫のように見下していた。
「聞いてる?」
「ははは、はっ、はい!」
 呼びかけられたのに、碌な返事をしていなかった。
 悲鳴を上げて跳びずさったのは、相手からすれば失礼極まりない態度だ。我に返って目を瞬いた綱吉は、呂律が回りきらない中で声を張り上げ、踵を揃えて背筋を伸ばした。
 あまりにも大仰な反応を示した綱吉を眺めて、雲雀は小さく溜め息をついた。
「ちょっと、確かめたいことがあるんだけど」
「な、なんでしょう」
 カツカツと固い足音を響かせ、雲雀が近付いて来る。
 声を潜め、顎を引いて警戒する綱吉の三十センチほど手前で立ち止まり、彼はゆっくりと利き手を持ち上げた。
 まさか殴りはしないだろうが、恐怖が先に立ち、回避行動に移れない。完全に萎縮し、首を竦めてぎゅっと目を閉じた綱吉だったが、雲雀が触れたのは予想に反し、その右腕だった。
 正確な位置としては、右上腕部。肩より五センチほど下がった場所だ。
「ヒバリさん?」
 そこを軽く抓られたかと思えば、今度は掌全部を使って揉まれた。どちらもちゃんと加減されていて、痛みはなかった。
 肉付きの悪い身体を制服の上から確かめて、雲雀の表情が若干曇る。眉を寄せて目を眇めた彼を仰ぎ見て、綱吉は困惑に頬を引き攣らせた。
 叶うなら振り払いたいけれど、そんなことをすれば余計な怒りを買いかねない。かといって彼に身体を触られ続ける謂われはなくて、早く離れて欲しかった。
 小声で名前を呼んでみても、雲雀の反応は薄かった。
 上腕だけかと思えば、彼の手は綱吉の肘まで下がり、前腕の手首近くに迫った。
 このままだと、握手になる。それはそれで面白いかと、暢気なことが頭を過ぎった。
「あの、えっと。あの」
 しかし雲雀と仲良く手を取り合うというのも、かなり変な話だ。
 彼がなにを求め、なにをしたがって触れてきたかも分からない。だからこそ対処に困って、綱吉は彼の気を引こうと声を上げ続けた。
 それが功を奏したか、手首に浮き上がった血管をなぞったあたりで、雲雀が視線をすっと動かした。
「君ってさ」
「は、はい」
「小さすぎない?」
 親指と人差し指で、人の手首をぐるっと囲いながら、真顔で言われた。
 そのあまりにもあんまりな発言に、綱吉は目が点になった。
「は――はああ?」
 素っ頓狂な声を上げ、咄嗟に束縛を払い除けたが、後悔はない。踵で思い切り廊下を蹴って、鼻息も荒く雲雀を睨み付けた。
 確かに綱吉は、クラスメイトに比べると背が低い。女子にさえ負けている。鍛えているわけでもないので肉付きが悪く、華奢というより貧弱といった表現の方がしっくり来た。
 それでも男としてのプライドが、今の発言を許さなかった。
「まだ、オレ、成長期なんで。これからなんです!」
「ふうん」
 答案入りの握り拳を震わせて吼え、喉の奥で唸って威嚇するが、雲雀は臆さない。興味なさげに鼻で息をして、なにを考えているのか、口を尖らせた。
 逆らわれたのが不満というよりは、納得がいかない様子だった。
「そんな身体で、よく僕に二発も入れられたよね」
 世の中、人の話を聞かない奴は多いが、彼もそのひとりだった。
 会話をする気がないのか、明らかに独り言を呟いて、懲りずに手を伸ばしてきた。
「やめてください」
 今度は声に出して拒否し、身体を揺らして避けたが、通じなかった。迫る右手にばかり注目していたせいで、逆から伸びて来た腕への対応が僅かに遅れた。
 肩を掴まれ、折角広げた距離を再度詰められたばかりか、ぐっと力を込めて引き寄せられた。
「ぅわ!」
 掴まれたのが腕だったら耐えられただろうが、より体幹に近い場所だったせいで、堪えきれなかった。短く悲鳴を上げて、綱吉は前向きに転びそうになった身体を立て直すべく、そこにあったものに縋った。
 すなわち、前のめりになって、雲雀の胸に自ら飛び込んだ。
 力を失った指先から、くしゃくしゃに丸めた答案用紙が転げ落ちる。入れ替わりに真っ白い雲雀のシャツを絡め取った。
 奇しくも風紀委員長に抱きつく形になったが、それもすべて雲雀の所為。
「ひ……っ」
 こんな近距離で誰かにしがみついたのは、果たしていつ以来か。望んで得た結果ではないとはいえ、思いがけず浴びた他者の体温と、見た目に反してどっしり、がっしりしている体躯に、綱吉は竦み上がった。
 しかも一瞬、良い匂いがした。
「ひええええ!」
「ちょっと。うるさい」
「待って、え。なに。ヒバリさん、やだ。なにして」
 ただ嗅覚に意識を寄せられたのは、その時だけ。直後に悪寒に襲われて、綱吉は慌てて雲雀のシャツを掻き毟った。
 あろうことか雲雀の指が、綱吉の背中を這っていた。両サイドから上半身をがっちり固定した上で、なんの断りもなく、シャツの裾をズボンから引っ張り出していた。
 彼の爪先が、捲り上げられた布の内側に潜り込んだ。腰骨の僅かに窪んだ箇所をスタート地点とし、つい、と上に滑ったかと思えば、左右に別れてウエストの贅肉を包みこんだ。
 思いの外冷たかったのもあり、ぞわわ、と全身に鳥肌が立った。内臓が一斉に萎縮して、目が泳ぎ、視線が定まらなかった。
 抗議の声を上げても耳を貸してもらえず、却って熱心に身体を弄られた。
「やっぱり、全然筋肉が足りてない。なのにあそこで、どうやって。どこからあんな力が引き出せたの。脳震盪でしばらく起き上がれないくらいに殴ったのに、簡単に起き上がってみせたのも不可解だし」
 ぶつぶつ言いながら、好き勝手に触り続け、一向に止める気配がない。
 綱吉も綱吉で、さっさと突き飛ばして逃げれば良いものを、思考がまとまらず、逆に彼に抱きつく始末。せめてもの抵抗で雲雀のシャツに皺を刻んで、恐怖を呑み込み、ぎゅっと目を閉じた。
 息を殺して耐えているうちに、彼の手はどんどん大胆になり、ついに脇腹へと回り込んだ。
 すい、と揃えた指でなぞられた瞬間。
「ひゃんっ」
 寒気とは違うものを感じて、ビクッと肩が震えた。
 振動は雲雀にも伝わって、彼は怪訝に眉を顰めた。
 探るような視線を感じたものの、特になにも言ってこない。しかもこれで引き下がってくれるかと思いきや、結局止めてくれなかった。
「あの赤ん坊といい、君といい、なんなの」
「そんなの、オレに言われても」
 しつこく撫で回され、適当に抓られ、捏ねられて、さっきから心臓の音がうるさくて仕方がない。
 奥歯を噛み締めながら唸って、綱吉は勝手に湧き出る涙で睫毛を湿らせた。
 死ぬ気弾の理屈は、よく分からない。それこそリボーンに聞いて欲しかった。
 どれだけ綱吉の身体を捏ねくり回したところで、復活の際に得られる力の源には辿り着けない。しかし雲雀はそうとは知らず、手を休めようとしなかった。
 脇腹を掠めた手は一旦後ろへ戻り、シャツから出たかと思えば、臀部の肉付きを確かめる動きをみせた。
「うぅ……」
 満員電車で痴漢される女子の気持ちが、分かった気がする。
 知りたくなかった感情と、得たくもなかった経験に目眩がした。心拍数は上昇の一途を辿り、頭の芯がぼうっとして、息は荒くなる一方だった。
 雲雀が次、どこに触れるかに意識が傾いて、そこに感覚が集中した。全身の肌がそわそわ蠢いて、さっきから瞼が痙攣して止まらなかった。
 逃げられないまま、尻を鷲掴みにされた。反対の手で臍の辺りを擽られた。
「ンあっ」
 腹の奥底からビリッと電流が走り抜けて、脳が焼き切れた感覚に背筋が粟立った。膝が笑って、爪先立ちの仰け反り気味にしなだれかかれば、体重の大半を預けられた雲雀はたまらずよろめいた。
 柔い肉に食い込んでいた指先が、するっと滑り落ちる。
 一気に束縛が緩んだが、息も絶え絶えだった綱吉は、しばらく雲雀から離れられなかった。
 見た目以上に厚みがある胸板に顔を埋め、肩で息を整えた。溢れる唾液を小分けに飲み下して、涙目のまま顔を上げた。
 想像していた以上に近くにあった雲雀の双眸は、驚愕と、焦燥と、動揺が綺麗に混ざり合っていた。
「はぇぇ……ぶぐふ!」
 彼もこんな表情をすることがあるのだと、珍しいものを見た感慨でいたら、突如左の頬に衝撃が走った。
 先ほどの比ではない電撃が脳内を揺るがし、頭蓋骨がミシ、と軋んだ音を響かせた。
 思い切り殴られたのだと理解したのは、軽く吹っ飛んだ後だった。
 たまらず尻餅をつき、真っ赤に腫れ上がっているだろう箇所を庇う。涙は一瞬で引っ込んだが、別の理由で目尻がじんわり熱くなった。
「いったーい!」
「風紀を乱すような顔、やめてくれない」
 暴挙に次ぐ暴挙に、堪忍袋の緒が切れた。目を吊り上げて怒鳴れば、それを覆す音量で罵声を浴びせられた。
「はああ?」
 もっとも彼の非難はあまりにも意味不明で、理屈に適っていなかった。いったいどんな顔なのかと素っ頓狂な声を上げてみるが、明確な返答は得られなかった。
 代わりにふいっと、微妙に赤らんだ顔を背けられた。黙って足元を指差されても、最初は意味が分からなかった。
 転がっていた答案用紙を回収し、薄汚れた上履きから順に視線を手前に動かして、雲雀に剥かれたままのシャツの裾が目に入った。
 ズボンに収めていただけでは出来ない皺が散見し、左右に割れた前身頃の隙間からは、肌色が微かに覗いていた。
「! お、オレがなにしたって言うんですか!」
 それでハッとなって、綱吉は急ぎ制服のシャツを掻き集めた。大急ぎでズボンの中に裾を押し込んで、丸めた紙もポケットへ捩じ込んだ。
 膝立ちで言い返し、拳を上下に振り回する。対する雲雀は忌々しげに舌打ちして、苛立ちを隠しもしなかった。
「そもそも、ひ、ヒバリさん、が。オレのこと、いっぱい、あちこち、ささ、さ、さわ……触って、きたから……」
 もとはといえば、彼が不用意に触ってきたのが原因だ。
 一方的で、身勝手な行動で綱吉を愚弄した。
 だというのに、今さら我に返って照れた風に顔を赤らめるのは、狡すぎやしないか。
 彼の行為を断罪し、非難してはみるものの、冷静に振り返ってみれば、綱吉にとってもあれはかなり恥ずかしい。合間に漏れ出た己の甲高い喘ぎ声が脳裏に甦って、声は尻窄みに小さくなった。
 顔を上げられない。
 雲雀を見られない。
 穴があったら今すぐ入って、蓋をして引き籠もりたかった。
 耳まで赤く染めて俯いた綱吉の前で、黙り込んだ雲雀がどんな百面相をしていたかは、誰も知らない。長い、長い時間をかけて聞こえてきたのは深い溜息で、ひと呼吸置いて降って来たのは、殊の外優しい手だった。
 逆立っている髪を掻き分け、頭を撫でられた。
「え」
 視界に入るのは、黒光りするローファーのみ。頭を上向かせるのは、そこに雲雀の手がある所為で、物理的に不可能だった。
「もうちょっと、食べた方がいいよ。君は。肉がなくて、柔らかさが足りない」
「……は?」
 だから淡々と吐き出されたこの台詞を、あの風紀委員長がどんな表情で告げたかも、分からない。
 呆気にとられて固まって、出遅れた。
 早足に階段を下りて行く背中は、まるで何事もなかったかのようにいつも通りで。
 置き去りにされた綱吉は、数秒してからわなわなと肩を震わせた。
「ヒバリさん、の……えっち!」

2023/06/11 脱稿