うち嘆き 幾夜幾夜の 草枕

FGO、男主人公とカドック。カドぐだ♂。
ツイッターでアンケート1位だった「余裕なんてない」です。

 レイシフトした先に待っていたのは、背高な樹木が生い茂る森林地帯だった。
 巨大な樹影が地表を覆い尽くし、昼間であっても日光が届かない。お陰で移動を阻害する植物は少ないが、どこまで進んでも、植生が途切れることはなかった。
 行けども、行けども、道は現れない。
 人が住んでいる場所を見いだすどころか、同じ場所をぐるぐる回っているだけなのでは、という疑念が沸き起こるくらいに、代わり映えのしない景色の連続だった。
 頭がおかしくなりそうだったところで、ようやく川に辿り着いた。
 寿命を迎えた巨木が倒れているのを発見して、僅かではあるが日の光を浴びられたのは、不幸中の幸いだった。
 されど結局、日が落ちても集落は見付からない。
 仕方なく野宿となって、次なる問題は食事についてだった。
「すんませんねえ、こんなのしか用意出来なくて」
 そう言って、同行者として選ばれた緑衣のサーヴァントが肩を竦める。焚き火の前に陣取る彼が掻き回す鍋の中身は、川で汲んだ水に、先ほど命が尽きたばかりの鳥の肉と、毒がないとだけ判明している植物だ。
 申し訳程度に調味料で下味をつけて、ぎりぎり食べられるようになっているものの、カルデアの食堂で供される料理とは比べものにならない。
 それでもないよりはマシだと、カドック・ゼムルプスは慣れない臭いごと、薄い塩味のスープを飲み込んだ。
 落ちていた枯れ枝を加工したスプーンで、同じく即興で作られた椀を掻き混ぜて、筋張っている肉を頬張る。倒木を引きずってきただけのベンチの隣では、藤丸立香が淡々とスープを食していた。
 彼の方が若干量が多かった気がしたが、その辺は考えても仕方がない。狩りをしたのも、肉を捌いたのも、こうして食べられるようにしたのだって、彼と契約しているサーヴァントなのだから。
 贅沢を言える立場にないのは、重々承知している。
 胸の奥に生じた小さなしこりを握り潰して、カドックは綺麗になった椀を置いた。
「ごちそうさま。感謝する」
「どういたしまして。マシュのお嬢ちゃんがいてくれたら、もうちったあ良い出来になったんだろうがなあ」
 残り物の汁を啜っていたロビンフッドに小さく頭を下げれば、気さくな青年は大げさな身振りで頭を掻いた。向かい側に佇んでいたセイバー、ベディヴィエールも淡く微笑み、深く頷いて同意を示した。
 そのマシュは、残念ながら今回のレイシフトに同行出来ていない。ストーム・ボーダーに残って、後方から支援してくれていた。
 通信は繋がっているから、名前が出たのに反応しても良いはずだが、音声は届かない。何らかの作業中か、または彼らと同様、食事で休憩しているのかもしれなかった。
「ごちそうさま。おいしかったよ、ロビン」
「そいつは何よりだ、マスター」
 心強く、頼もしい護衛役の顔を順に眺めているうちに、隣の男も食事を終えた。少し高めのトーンで感謝を述べて、藤丸は粗末なスプーンを空の椀に転がした。
 汁の一滴さえ残さず、見事に完食していた。あれを美味だったと言い切れる胆力はさすがとしか言いようがなく、カドックは呆れると同時に、密かに感心した。
「片付けは、やっておくさ。おふたりさんは、ゆっくり休んでくれ」
「ありがと。助かるよ」
 役目を終えた食器を回収したロビンフッドが口角を持ち上げて笑い、慣れた調子で藤丸が返す。カドックも首肯して、パチパチと乾いた音を立てる焚き火に目を眇めた。
 明日も徒歩での長時間移動が予想できて、早めに休むのには大賛成だ。しかし眠るには時間的にまだ早く、野営の緊張もあってか、睡魔は遠い彼方だった。
「ダ・ヴィンチちゃん。周辺で人が住んでそうな場所、まだ見付からない?」
『うーん、サーチは続けてるんだけど、全然だねえ。妨害されてるみたいで、一定距離から先は探索不能になっちゃう』
 藤丸も同じ状態なのか、シャドウ・ボーダーに残ったメンバーと言葉を交わしながら、明日の予定を組み立てている。ロビンフッドは鍋の片付けに水場へと向かい、ベディヴィエールは周辺の警戒を怠らなかった。
 即座に対処できるよう、剣の柄に手をかけている男の横顔は真剣だ。変に話しかけて、邪魔をするのはよろしくなかった。
 しっかりマスターとしての仕事をしている藤丸を横目でうかがって、カドックは手持ち無沙汰に頬杖をついた。
「腹、減ったな」
 視線を遠くの闇に投げ、誰にも聞こえない音量で呟く。
 今し方食べたばかりなのだが、正直食い足りない気持ちでいっぱいだった。
 日の光が遠い森の中に、四つ足の獣は少なかった。いても魔獣の類しかなく、肉の臭みは半端なかった。
 胃に入ってしまえば同じと説得されたけれど、そこまでゲテモノ食いにはなりたくない。越えたくない一線の前で足踏みするカドックに配慮して、ロビンフッドが狩ってきてくれたのが、首の長い奇妙な鳥だった。
 血抜きをし、羽を毟り、腹を割いて内臓を除き、ぐつぐつ煮込む。そうやって苦労の末に完成した食事に、概ね不満はない。
 ただ量が用意できなかったのが、悔やまれてならない。
 満腹にはほど遠く、八分目にも届かない。よくて五割といった塩梅で、カドックは無意識に上着の上から腹を撫でた。
 藤丸が食事の量に言及しない以上、こちらが切り出すのは不謹慎だ。もっと食べたい、などと、この非常事態下でどうして口に出来ようか。
 そう。食べられるものが手に入っただけでも、充分過ぎる成果なのだ。
 もしひとりきりでこの森に投げ出されていたら、飲まず食わずで四方を警戒し、神経を擦り切らせなければならなかっただろうに。
「だめだな、こんなんじゃ」
 空恐ろしい想像に冷たい汗を流し、傲慢で身勝手な思考を断ち切った。両手を頬に添えて二度、三度と軽く打っていたら、音に驚いたらしい藤丸が振り返った。
「カドック?」
「いや、なんでもない」
 彼にしてみれば、隣に居る男が急に自虐行為に走ったのだから、怪訝にするのも無理はない。
 それでも深く突っ込まれたくなくて、カドックは背筋を伸ばし、真顔で返した。
 藤丸はきょとんとして、何か言いたげに首を傾がせた。だが彼が口を開くより早く、休憩から戻ってきたマシュの声が、スピーカー越しに響いた。
『先輩、お疲れ様です』
「マシュ」
 ふたりの会話の内容は様々だった。未だ謎が多い周辺地域の状況説明であったり、食堂で見聞きした内容であったり、話題は結論を迎えないままあちこちに飛んで、収拾がつかなかった。
 安全とは言い切れない場所で交わすやり取りとしては、いささかのんびりし過ぎていて、危機感に欠ける。しかしこれくらい余裕がなければ、疲れる一方なのも理解できた。
 ロビンフッドが洗い物を終えて戻ってきて、ベディヴィエールとなにやらやり取りし、闇の中に消えていった。単独行動スキルを有するアーチャーは、マスターの了解を待たず、遠方で哨戒任務をするつもりらしかった。
 そういう行動が自然と取れる辺り、彼らが結んだ縁の長さ、強さを痛感させられた。
 もし自分が藤丸の立場だったとして、こんな風に英霊たちと絆を深め合えただろうか。
 詮無い想像は早々に放棄して、カドックは小さくため息を吐いた。
「ああ、そうだ」
 座りっぱなしも良くないと腰を浮かせかけたところで、上着の内ポケットに入れておいたものを思い出した。
 極限地域でも活動が可能な礼装は、必要な小物類を収納するポケットが多数用意されていた。
 持ち物の選別は、各自に負かされている。カドックが選んだのは、戦闘などで使用するアイテム以外だと、小型のドライバーや小さなライトといった、いざという時にあれば便利なアイテムなどだ。
 必要最低限の荷物をどう整理し、レイシフト先に持ち込むか。
 日々頭を悩ませ、厳選した品のひとつを想起させて、彼は気持ちを楽にさせた。
 自分にはこれがあった。暗く沈みかけていた表情を明るくして、カドックはいそいそと上着の中に手を突っ込んだ。
 取り出したのは、白銀色の包装に包まれた細長い棒状の物体――もとい、簡易携帯食だった。
 掌サイズのこれ一個で百数十カロリーが摂取出来る上、タンパク質や脂質、ミネラルまで含んでいるというのだから、驚きだ。味も悪くない。たくさん食べるには水分が必要なのが難点ながら、そもそも非常時に携帯食を大量摂取するのはいかがなものか。
 今はひとつで充分と、懐に忍ばせておいた過去の自分を賞賛し、カドックは頬を緩めた。
 初日からこれに頼ってしまう己の弱さを自覚しつつ、せっかく持ち込んだのだから有効活用すべき、との思考が勝った。藤丸がモニター越しの会話に熱中しているのを確認して、彼は意気揚々と封を破いた。
 中から出てきた小麦色のショートブレッドを、半分ほど囓りとる。
 咥内の水分が一瞬にして半減したが、それを上回る幸福感が、味覚を通して全身に広がった。
 先ほどの鳥肉のスープも、素材の味がたっぷり堪能できて、悪くなかった。されど慣れ親しんだ味わいには、到底敵わなかった。
 満たされる、とはこのことか。
 じんわり胸を包む感慨に酔いしれて、彼は程よい歯ごたえを堪能し、飲み込んで、ふた口目に挑むべく口を開いた。
 そうしてふと、突き刺さるほどの鋭い視線に気付き、横目で出所を探った。
「…………!」
 直後、残る携帯食を片手に、ヒクリと頬を引き攣らせる。
 視線の主は藤丸立香その人に他ならず、彼の口もまた半開き状態だった。
 空中投影型のモニターは消えていた。シャドウボーダーとの通信がいつ終了したのか、カドックはまるで記憶になかった。
 藤丸の口の端が、焚き火の明かりを受けてキラリと輝いた。
「ず」
 それが涎だと気付いたカドックは、危機を感じて咄嗟に仰け反った。
「ずるーい! カドックだけ、なんか良いもの食べてるー!!」
 まさに間一髪というところで、大声を発した藤丸がガバッと身を乗り出した。あと数インチずれていたら体当たりを喰らうところだったカドックは、ドッ、ドッ、と音を立てる心臓を服の上から押さえ込んだ。
 ただの人間であるはずの男に、壮絶なまでの危機感を抱かされた。
 命の危険さえ覚えるレベルの状況に目を泳がせるが、救いを求めたつもりのベディヴィエールは明後日の方向を向いており、我関せず焉の構えだった。
 マスターを差し置いてひとり携帯食を貪っていた人間に、人権などない、とでも言いたいのか。
 自虐的な妄想に逃げかけたカドックははたと我に返って、じりじり迫り来る藤丸から逃げるべく、さらに後退を図った。
 だが倒木を再利用しただけのベンチの端は、すぐそこだった。
 走り去るにしても、夜間の森はどんな危険が潜んでいるか分からない。獣よけの魔術にも限度があって、己の身の安全を考えると、このキャンプ地を離れるわけにはいかなかった。
「ちょうだい。オレも食べたい。欲しい。ちょうだいー」
「ええい、うるさい」
 どうすべきか結論が出ないまま悩んでいるカドックを余所に、藤丸はまるで子供のように喚き、駄々を捏ねた。地面を蹴って両手を振り回し、欲望を隠そうとしなかった。
 先ほどはロビンフッド手製のシチューで満足した素振りを見せたくせに、結局彼も、育ち盛りを脱しきっていなかった。
 本性をむき出しにして騒ぐ男を怒鳴りつけて、カドックは伸びてきた腕を躱し、身を捩った。
 大事な携帯食を守り、尚も攻撃を繰り出してくる藤丸の顔面を押し潰す。
「僕だって、持ち込んでる量に余裕なんかないんだ。そもそも携帯食くらい、お前だって、自前で用意してきてるだろう」
 絶対に譲らないと言葉でも、態度でも示した上で、自身の所持品を確認するよう促す。
 諭された方はそれで一旦諦めたのか、身を引いて、苔むした丸太に座り直した。
 スン、とした顔でまずズボンのポケットを探り、次いで上着の胸ポケットを叩くように確認して、両手はそのまま下へ。
 無言であちこち探し回る藤丸が引っ張り出したものといえば、皺くちゃのハンカチーフやティッシュ屑、子供姿のサーヴァントから貰ったとおぼしきイラストに、チョコレートの空き袋。
「お前……」
「え、いや。ちょっと待って。あるって。あるから、絶対」
 およそ戦闘や、サバイバルとは無縁の――むしろ必要ないものばかりが飛び出してくる現実に、カドックは顔を歪ませた。
 言いたいことを我慢しつつ、それでも表情に出てしまった彼の内面を悟って、藤丸は慌てて上着の前を広げた。
 命のやり取りが当然のように繰り広げられる世界で、何の準備もなしに飛び込んでいける愚行が、にわかに信じられない。
 特異点発生はいつだって突発的な事象だけれど、逆にいつ起きるか分からないからこそ、常時備えておくべきではないのか。
 これはもはや、魔術師云々以前の問題だ。軽いめまいを覚え、空いた手で頭を支えたカドックは、依然ポケットを探る藤丸を盗み見て息を呑んだ。
 焚き火の明かりくらいしかない暗がりの中、それでも目に飛び込んで来たのは、よく見て、知っているモノだった。
 専用のキャップで厳重に封がされた、しかし必要となった時には親指一本で針を露出させられる構造の、携帯型注射器。
 使用者の命を削り、生命力を一時的に上昇させる活性アンプル。
 それが五本か、あるいはそれ以上の本数が、藤丸立香の上着の内ポケットに収まっていた。
「藤丸、お前」
「違うんだって、カドック。前にこの辺にさ、オレ、入れた覚えがさ。だから、……カドック?」
 アンプルは堂々とその姿を晒していたわけでなく、キャップの一部が露出していただけだ。いかし特徴的な色合いと形状は、記憶に新しい。
 どこを探しても携帯食は出てこないくせに、そういうものだけは、使用限度を上回る量をしっかり所持している。
 この男の覚悟の在処に苛立ちを覚えて、カドックは拳を硬くした。
「カドック。なんか、怒ってる?」
 もちろん、これが自分勝手な感情でしかないのは、理解していた。
 それでも抑えきれない怒りに歯を食いしばって、不安げな顔でオロオロする藤丸を睨み付けた。
 彼はまだ、カドックが胸ポケットの中身を知ったと気付いていない。もし気付けたとしても、カドックの憤りの正体までは見抜けない。
 空腹は、当人が耐えられるのなら、そのままやり過ごせる。味の薄いスープで口を濁すのだって、許容範囲内。
 しかしマスターの魔力が尽きることは、大勢を巻き込んだ戦いで敗北を喫するということと、ほぼイコールだ。
 藤丸とカドックとでは、命の天秤に釣り合わせるための対価が、価値観が、根本的に異なっていた。
「ああ、怒ってる。怒るに決まってるだろう」
「今回は、たまたまだから。いつもはちゃんと、用意してるの。本当だって。だから、そんなに怒んないでよ」
 目を吊り上げて吠えれば、勘違いしたままの藤丸が顔の前で両手を合わせた。ぺこぺこと繰り返し頭を下げて謝罪して、機嫌を取り戻してくれるよう懇願した。
 致命的にかみ合っていないやり取りに、ベディヴィエールも、どこかにいるはずのロビンフッドも、割り込んでこない。シャドウ・ボーダーの管制室も、一切口を挟んでこなかった。
 彼との出会い方は、最悪だった。
 お互い倒すべき相手として関わり合いを持ち、実際、命の奪い合いを演じた。
 今はあの時のような殺意、敵意は持ち合わせていない。代わりに仲間意識が多少ある。大切な存在を目の前で失って、そこから巡り巡った結果、藤丸立香という人間もまた、カドックにとって【失いたくない生命】のひとつになっていた。
 その事実を自覚したからこそ、彼が自身を安く見積もり、軽く扱っているのが許せない。
 そうせざるを得ない状況と、そうならざるを得なかった環境が理解できるからこそ、余計に受け入れられなかった。
「本当に、お前は。お前ってやつは」
 抑えきれない激情に流され、吼えて、カドックはショートブレッドを口に放り込んだ。
 ひと口で頬張るには些か大きかった塊を前歯で分断し、奥歯ですり潰した。
「あああ~~~」
 貴重な食料の消失を目の当たりにし、藤丸は落胆の声を上げ、がっくりと肩を落とした。力が抜けたのか猫背になって、ベンチ代わりの丸太に両手をついた。
 右手の甲に刻まれた刻印が、嫌が応にも目に飛び込んで来た。
「顔、あげろ。藤丸」
 彼の身体には、至る所に傷跡がある。裂傷、熱傷、なんでもありだ。
 無事だった箇所は頭部だけかと思ったら、カボチャ頭にされたこともあると教えられ、深く考えるのを止めた。
 いつ死んでもおかしくない状態の彼は、それでも戦場に立ち続ける。首の皮一枚でぎりぎり世界と繋がっている彼は、明日も同じように目を覚ますとは限らない。
 嗚呼、だから。
 一度は彼の歩みを遮ろうとした自分だから。
 藤丸本人も含め、自分以外の誰かの所為で、彼の歩みが止まるのは許せない。
「カドック?」
「口開けろ、この馬鹿」
 本気で落ち込んでいる顔の藤丸が、不思議そうに首を傾ける。
 その無防備な胸ぐらを掴んで、カドックは強引に彼を引っ張り上げた。
 と同時に咥内の塊を舌で包んで、惚けて固まっている藤丸に顔を寄せた。
 ほんの少し首に角度をつけて、寸前で息を止めた。一度粉々にすり潰し、唾液と混ぜて練り直したモノを空気に曝し、はっと目を丸くした藤丸の抵抗を抑えこんだ。
「カド――――んムぅ」
 抗議なのか、違うのか。ともかく直前に発せられた彼の声を、出所を塞ぐことで強引に封じた。大量の水分を含んで粘りを持った、かつてショートブレッドだった物体を無理矢理押しつけ、譲り渡した。
 唇を覆われるだけに止まらず、異物の侵入を察知した藤丸が、防衛本能で前歯ごと口を閉じようとする。しかしそれより早く潜り込んだカドックの舌先が、臆して縮こまった彼の口腔に栄養たっぷりの流動食を注ぎ込んだ。
「ふぐ、んうぅ……ン~」
 横暴極まりない一方的なやり方に、藤丸は目尻に涙を浮かべて弱々しくかぶりを振った。力任せの合わさりを解こうと足掻かれて、痺れを切らしたカドックは、彼が動かないよう下顎を掴んで固定した。
 そうして舌先に残った残滓さえ、彼の前歯にこすりつけて削ぎ落とす。
 目は瞑ってやらない。
 そんなロマンティックなものは、求めていない。
 一欠片さえも残さず押しつけて、彼を解放したのは五秒後か。十秒後か。
「ゲホッ、ひぁ、ふ、かはっ」
 しっかり飲み込むのを確認して離れたカドックの前で、藤丸はしばらく咳き込み、涙目のまま喉をなぞった。
「やり、かた……ってもんが。あるでしょうが」
 懸命に声を張り上げて苦情を申し立てるが、生憎と迫力が足りない。
 濡れた睫を震わせる彼を鼻で笑って、カドックは指の背でその胸ポケットを撫でた。
 上着を擦られ、内側に収まっているものを思い出したのか、藤丸の表情が凍り付く。
「手持ちに余裕がない中で、分けてやったんだ。感謝くらいしたらどうだ?」
「……それなら、もっと美味しい状態で食べさせて欲しかった」
「贅沢を言うんじゃない」
 ただそれもほんの数秒で終了して、あっという間にいつもの彼に戻ってしまった。
 飄々として、お調子者で。つかみ所がなくて、何を考えているか分からない。
 深く息を吸い込み、咥内に残るものを唾液と共に嚥下する仕草を何度か繰り返した藤丸は、左胸に手を添えて、腕に巻いた端末に音声で指示を出した。
 シャドウ・ボーダーとの通信を切ったと、同じ組織に身を置くカドックは理解したが、それが何を意味するかまでは想像が及ばない。
 彼の行動を怪訝に思っていたら、顔を上げた藤丸がニッ、と悪戯っぽく口角を持ち上げた。
「ねえ、おかわり、ちょうだい。カドック」
「はあ? 手持ちが少ないって、言ってるだろう」
「うん。それは知ってる」
「だったら――」
 いくらか腹が膨れたからか、それとも開き直ったか。若干余裕を取り戻した彼が、言いかけたカドックの唇に指を添えた。
 人差し指を押しつけて、それ以上は喋らせないと態度で伝え、目を眇める。
 妖しげな笑みを薄明かりの中で見せられて、カドックは息を呑んだ。
「僕の魔力だって、そこまで余裕なんかないぞ」
 吐き出した言葉は、付け足し感満載の言い訳にしかならない。
 あまりの格好悪さに情けなくなったが、藤丸は屈託なく笑う。それが幾ばくか救いに感じられて、カドックは白旗を揚げると、袖引く彼に倣って目を閉じた。
 

うち嘆き幾夜幾夜の草枕 末こそ露は深くなりけれ
風葉和歌集 579

2023/06/03 脱稿