同じ世の心ながらやすみ慣るる

FGO、カドぐだ♂。
アーケードコラボイベント後の話(第2部7章クリア前提)です。

 終わりを見届けて、帰り着いたカルデア。
 もはや第二の故郷であり、帰るべき家ともなっているストーム・ボーダー内に設けられた私室に戻って、藤丸立香は深く息を吐いた。
 突然の敵襲により破壊された各種設備は、ひと通り修復が完了していた。悲鳴を上げていたエンジン部も、現時点では落ち着きを取り戻していた。
 大破した廊下の一部は依然通行止めになっているものの、艦内の移動は概ね問題ない。マリーンたちが懸命に働いてくれたお蔭で、明日の早朝には全ての制限が解除される見込みだという。
 ビーストに連れ去られた自身も大概だったが、残された側も相当大変だったようだ。
 ダ・ヴィンチやマシュたちは必死になって立香の生体パターンを解析し、所在地の探索や通信を試み続けていたそうだ。残されたサーヴァントたちは新たな襲撃を警戒し、陣頭指揮はカドックが担ってくれたらしい。
 さすがは頼りになる先輩、といったところだ。
 ざっと受けた報告を頭の中で整理して、重い足取りで部屋の中央部へと向かう。喉元までカバーしている上着の襟を緩め、脱ぎに取りかかるものの、動きは緩慢として鈍かった。
 衣服類を入れた小さいロッカーに辿り着くのさえ億劫で、身体はごく当たり前のように、ベッドへのダイブを所望した。
「う~……」
 喉の奥で小さく呻き、願い通り、広めの寝台へと倒れ込む。ぼふっ、と間に挟まれた空気が音を立て、深く沈んだ体躯が軽く弾んだ。
 せめて靴くらいはと思うものの、ひとたび柔らかく、温かな感触を知ってしまうと、もう動けない。
「ダメだ。眠い」
 これまでも散々特異点を旅して、聖杯を回収してきたが、今回の旅路は今までにない厳しさがあった。
 なにせ味方として頼りにしてきた多くのサーヴァントたちが、たとえ影であったとしても、面と向かって敵対してきたのだから。
 倒すべき相手、排除すべき存在と言い放たれ、切っ先を向けられた。明確な殺意を浴びせられて、足が竦みそうになった。
「きっつかった、なあ」
 無理をして平然を装い、ドラコーと己を守るべく行動し続けた。とにかく自分が生き延びるのが第一義で、思索に没頭する余裕は殆どなかったけれど、安全な環境に身を置いた今、考えさせられることは沢山あった。
 鉛と化した体躯を奮起させ、ごろりと寝返りを打つ。天井光の眩しさに目を眇めて、立香は両腕を左右に広げた。
 ベッド脇からはみ出した足首を交互に揺らしてみても、頑丈な靴は脱げない。汚染された土壌や、毒虫、毒草などが素肌に直接触れることがないよう工夫されたブーツは、強固さが売りではあるけれど、反面着脱が不便という欠点があった。
 全ては、人類最後のマスターを守るため。
 お蔭で今回も、辛うじて命を繋ぐことができた。
 どれだけ荒れた大地でも踏破できるよう、各方面から知恵が寄せられ、改良が続けられている装備のひとつだ。だから愚痴を言うよりも、感謝の心がまだ勝っている。
 それでも短くも長い旅を終えた直後は、些か鬱陶しい。
「誰か脱がせてくれないかな」
 勝手な願望をぼそりと口にするが、応える声は聞かれなかった。
 立香の部屋には度々サーヴァントたちが不法侵入し、ベッドの下や、天井裏や、ロッカーの中などにまで隠れ潜むことがあった。しかしそれも、帰還直後というタイミングもあってか、控えてくれたようだ。
 有り難いけれど、ちょっぴり残念な心遣いに苦笑して、目を閉じる。
 コールボタンを押せば誰かしら来てくれるだろうが、さすがに申し訳なさが勝った。
 マシュたちだって、日々業務に追われている。服を脱ぎたい、という些末な願望のために、他者の手を患わせるわけにはいかなかった。
「ううう~……」
 このまま少し眠ってしまおうか。それとも頑張って身を起こし、靴と上着だけでも脱いでしまおうか。
 服を脱ぐのなら、シャワーまで浴びたい。ストーム・ボーダーに戻って顔を拭きはしたものの、それ以外はなにも出来ていなかった。
「いい、か」
 なにもかもが面倒で、なにもかもが億劫だった。
 全身を覆う疲労感は、簡単に取り払えない。目覚めて後悔するとしても、今は惰眠を貪りたかった。
 欲望に身を委ね、意識を闇の奥深くへと誘う。
 肺に溜まっていた重い息を、一気に吐き出した。睡眠という人間の三大欲求のひとつを叶えるべく、あらゆるものを一時手放そうとした。
「藤丸、いいか」
 だというのに、暗澹たる気持ちを湧き起こさせる、無情な声が室外から響いた。
 すっかり聞き慣れてしまった声色に、遠ざかろうとしていた意識が瞬時に戻ってきた。四肢に蔓延る怠さはそのままに、睡魔だけが行方を眩ました。
「うぁ~……ああ~~い……」
 返事をするのさえも億劫だったが、応じないわけにもいかない。
 やむを得ず喉から絞り出した声は、酷く嗄れて、古希を過ぎた老人かのようだった。
「なにやってるんだ、お前」
 ベッドに横たわったまま仰け反り、なにもない壁をじっと見詰めて、口は真一文字に。
 酷い顰め面をしている立香を訪ねて来たのは、カドック・ゼムルプスその人だった。
 立香と揃いの戦闘服姿だが、ファーがついた上着は脱いで腰に巻き付けていた。防御力よりも動きやすさを優先させて、両手で銀色のプレートを支え持っていた。
 銀盆に並ぶには焼きたてらしき香ばしいパンと、ハムエッグ、それに湯気を立てるマグカップ。カラトリーも一式揃って、すぐに食事が出来る状態に仕上がっていた。
「食欲はあるか?」
 寝転がったまま動かない立香に静かに歩み寄り、傍らのテーブルに置いて、斜め上から問いかける。
 ロシア異聞帯で顔を合わせた頃に比べれば、彼の血色は幾分マシになった。しかし今、立香の眼前にある表情は、随分と苦々しいものだった。
 目が合うと、途端に逸らされた。その上で気まずそうに口をもごもごさせて、力なく肩を落とした。
「悪かったな。マシュでなくて」
「なんで?」
 心底申し訳なさそうに言われて、目が点になる。ぽかんとしながら聞き返せば、気に触ったのか、カドックは不機嫌に言い放った。
「僕しか、手が空いている奴がいなかったんだよ」
 それで得心がいって、立香はゆっくり身を起こした。
 ベッドサイドに腰掛けて、ようやく上着から袖を抜いた。先輩マスターを見習ったわけではないが、投げ捨てるではなく、腰に巻き付けて、盆に添えられていた手拭いを真っ先に取った。
 ネモ・ベーカリーの気遣いだろう。しっかり水気が絞られた手拭いは、仄かに暖かかった。
「いただきます」
 睡魔は消えたが、代わりに空腹感が襲ってきた。両手を合わせて感謝を口にして、立香は簡単だが贅沢な食事に胸を弾ませた。
 ロクスタのキノコ料理に何度か舌鼓を打ったものの、満足に食べていたとは言い難い。気疲れもあって、碌に味が感じられなかった。
 その点、このパンは抜群に美味しい。分厚くカットされたトーストには、たっぷりのバターが染み込んで、ひとくち頬張るだけで幸せな気持ちになった。
 豪華ではないけれど、安心感がある。
 帰ってきたのだと改めて実感出来て、立香は顔を綻ばせた。
「座れば?」
 優しいホットミルクを喉に流し込み、ひと息吐いてから目の前の男を仰ぎ見る。
 カドックはまだそこに居て、なにをするでもなく佇んでいた。
 人の食事風景を凝視するのはマナー違反だと思ったが、彼だって立香が不在の間、不安に駆られていたに違いない。無碍にするのは忍びなく、小首を傾げながら提案すれば、彼は弾かれたように目を瞬いた。
「あ、ああ。いや、……いいや。借りるぞ」
 まるで呼吸を忘れていたかのように肩を上下させ、咄嗟に断ろうとしたのを、すんでのところで撤回した。早口に捲し立てて踵を返し、モニター前にあったキャスター付きの椅子を引っ張って来た。
 ベッドサイドに並んで座るのを想定していたので、この動きは少々意外だった。
 ガシャガシャと騒々しい音を響かせた後、彼は全体重を椅子に預け、深く頭を垂れた。
 俯いて数秒間停止して、やおら顔を上げ、眼力を強める。
 立香はハムエッグを食べ終えて、口に付いたケチャップを舐め取ったところだった。
「……くっそ」
 真正面から向き合って、いきなり悪態をつかれた。
「どうしたの、カドック」
 忌々しげに舌打ちされても、満腹になった直後だからか、怒る気は起きない。むしろ彼の百面相が気になって、理由を尋ねたら、余計にキレられた。
「お前の緊張感のなさに呆れてるんだよ!」
 飛んで来た飛沫を全身で浴びて、立香は嗚呼、と目を細めた。
「……怒ってる?」
 ストーム・ボーダーに戻ってきた立香は、皆の前で、証明世界での出来事を掻い摘まんで説明した。もちろんビーストであるドラコーと契約を結んだ事実も、包み隠すことなく。
 直後にカドックは、目眩がすると言って部屋に引っ込んだ。マスターとしての経験を持つ彼だから、今回の一件の大きさが、より重く感じられたに違いなかった。
「起きてしまったことだ。僕があれこれ言ったって、仕方がないだろ」
 ただ彼は細かいことをネチネチ言わず、諦観の念を持って状況を受け入れた。これまでも似たようなドタバタ劇はあったから、逐一気にしていたら精神が保たないと、頭を切り替えたとも言い換えられよう。
「あはは」
「笑ってるんじゃない」
「いひゃい、いひゃい」
 なんと心強く、頼もしい仲間だろう。
 一時期は敵対していた彼の存在に幾分掬われていたら、腑抜け面をするな、と叱られた。
 思い切り頬を抓られて、皮が伸びるところだった。
 僅かに残る爪痕をなぞり、立香は憤然と脚を組んだカドックに肩を竦めた。先ほどより幾分控えめに笑って、重くなった腹を抱えて背中を丸めた。
 自然と下を向いた瞳が、右手の甲を捉える。
「なんだ、その。……大丈夫なのか」
 その動きを、なにか大仰なものとして解釈したのか。
 急に声を潜めたカドックに、立香は素早く目を瞬かせた。
「ああ、ドラコーなら」
 証明世界でのパートナーだったビーストは、満足そうな顔をしていた。彼女はきっと、もう、人類史の脅威とはならない。
 だから心配はいらないと言おうとして、カドックが変な顔をしているのに気がついた。
「そうじゃなくて」
「ん?」
「お前の身体の方が、だよ。本当に大丈夫なのか?」
 勘違いしたのは、立香の方だった。
 早口に問いかけられて、かあっと顔が熱くなる。咄嗟に言葉が出てこなくて、彼は両手をばたばたさせた。
 右往左往する立香に、最初はきょとんとしたカドックだったが、じきに落ち着いたらしい。ふっ、と気の抜けた吐息を零して、脚を解いて前方に投げ出した。
 猫背になって頬杖をついて、呆れ混じりの視線を向けられた。
「へへ。あはは」
 誤魔化しに愛想笑いを浮かべて、胸の前で両の指を小突き合わせる。
 自分自身では異常ないと思っているが、実際はどうか。ドラコーとの旅路を説明した後、簡単にメディカルチェックを受けはしたが、結果はまだ届いていなかった。
「一応、こっちに来る前に検査結果は聞いてきたけど。オールグリーン、問題なしだとさ」
「あ、よかった」
「違うだろ。むしろ何もない方が、問題ありだろ」
 壁際に並ぶモニターに目を遣れば、見越したカドックが教えてくれた。ただ彼は安堵した立香に尚も手厳しく、診断結果とは逆の意見を口にした。
 右手を軽く横に振って、納得がいかないという顔で目を吊り上げる。
 険しい表情で睨まれて、思い当たる節がないでもない立香は口を噤んだ。
 トラオムでは、目一杯無茶をして、怒られた。しかも今回は、彼の目が及ばぬ戦地だっただけに、同じ事を繰り返したのではないかと、疑われるのも当然といえば当然だ。
 所持していたアンプルがどれだけ減っていたか、恐らく彼の耳にも入っている。
 食事を届けてくれたのも、暇だったから、という理由だけではあるまい。
 大勢に心配をかけ、迷惑をかけた事実を反省して、立香は唇を引き結んだ。
「確かにちょっと、疲れてはいるけど。案外元気だよ。ご飯だって、ほら、全部食べたし」
 心配は不要と、言うのは簡単だ。それを相手に信じさせるのが、難しいというだけで。
 なので言い方を変えて、一部は肯定して、別に安心材料を用意した。
 綺麗に平らげた銀盤上の食器を指し示し、幾分丸くなった腹を両手で撫でながら告げる。それで少しは納得したか、カドックは緩慢に頷いた。
 ただ疑念を完全に取り払うのには、不十分だった。
「なにかあったら、すぐに医務室に行けよ」
「もちろん。ちょっと、あそこ、怖いけど」
「……分かる」
 念押しされて、即座に医療チーム所属のサーヴァントたちの顔が浮かんだ。
 サンソンはこちらの意見を充分聞き入れてくれるが、ナイチンゲールは問答無用だ。さらには医神の異名を有するギリシャの大英霊まで加わって、あそこはある種の魔境と化していた。
 一度入ったら簡単には出られないし、出たくても出してもらえない。
 アスクレピオスの端麗ながらも悪魔のような笑みを想像したら、寒気がした。きっと今頃、彼はどこかでくしゃみをしているに違いない。
 カドックも同じ認識だったと知り、少し嬉しい。神妙な顔付きでうんうん頷く彼が面白くて、立香は堪えきれずに噴き出した。
「ふっ」
 急いで両手で顔を覆うけれど、間に合わない。
 指の隙間から息を漏らして、立香は些か暗くなった視界に目を眇めた。
 瞼を閉ざすと、どうしても思い出してしまう。あの場所で戦った、かつて旅路を共にした仲間達の姿を。
 時に前を、時に隣で、時には背中を守って戦ってくれた、数多の英霊たち。彼らには何度助けられ、どれだけ支えてもらったか、分からないくらいだ。
 その心強き仲間たちが、一斉に牙を剥いた。屠るべき存在、忌むべき者として立香を認識し、攻撃に一切の容赦を加えなかった。
 あまりにも無慈悲で、圧倒的で、絶望的な状況だった。
 どうしても戦わなければならないのかと苦悶して、心が引き裂かれるようだった。
 今回も手を差し伸べてくれる相手がいたから、どうにかなったものの、ひとつでもピースが欠けていたらと想像すると、血の気が引く音が聞こえた。
「オレ、カドックの気持ち、ちょっと分かった気がする」
「なんだって?」
 昔は同じ理想を掲げて活動していたのに、多種多様な思惑が絡んだ結果、敵対するようになった。
 立香はカドックとは面識はなかったけれど、マシュやダ・ヴィンチたちは違う。彼は大勢いたカルデアのスタッフたちと共に、マリスビリーの思想の下に集って、ひとつの目的のために活動していた。
 それなのに彼のサーヴァントは非戦闘員のスタッフたちさえ容赦なく攻撃し、旧カルデアを破壊した。
 見知った相手から、責めを受けたとしても。
 空想樹を刈り取るべくやってきたカルデアと対立し、戦うことになったとしても。
 彼にはやらねばならないことがあり、やると決めて、かつての仲間達と対峙する道を選んだ。
「やめろよ」
「え」
「同じなんかじゃない。僕と、お前とじゃ、全然違う。勝手に一緒の舞台に上げて、分かったような口で言うんじゃない」
 思いを巡らせ、感じたことを率直に音に出したのは、結果的に良くなかった。
 声を荒らげ、目つきを鋭くした青年が、苛立ちを隠さずに告げる。横薙ぎに利き腕を払って拳を作り、自身の腿を打って奥歯を噛み締める。
「カドック」
「……いや、悪い。お前のせいじゃないのは知ってる。ただの、これは。僕の。わがままだ」
 きっと、もっと沢山、言いたい事があったはずだ。
 だのに彼は懸命に我慢して、耐えて、同列に語ろうとした立香に頭を下げて詫びた。
「こっちこそ、ごめん」
 カドックはあの戦いを、決して悔いてはいない。クリプターとして、英霊アナスタシアのマスターとしての日々が今の彼の土台になっているのは確かで、そこには彼しか分からない想いが詰まっている。
 誰もが譲れないものを胸に抱いていて、足掻いて、戦っている。今、確かに此処に在る、自身の生き様を否定しないために。
「こっちは、片付けておいてやる。少し休め」
 殊勝に謝った立香に溜飲を下げて、カドックは椅子を引いた。長話をするつもりは元々なかったようで、サイドテーブルの食器を手早く片付けると、惚けている後輩の額を軽く小突いた。
 衝撃に頭部をゆらゆらさせて、立香は未だ戻らない睡魔に渋面を作った。
 もとはといえば、誰の所為で休む気を失ったのか。
 お蔭で小腹は満たされたけれど、恨みは消えていない。思い出した途端に小狡い感情が湧き起こって、彼は子供のように両手を掲げ、万歳のポーズを作った。
「じゃあ、シャワー浴びたい。シャワー。カドック、手伝って」
「はあ?」
 戦闘服の下は汗まみれ、砂まみれ、埃まみれだ。
 食事をする前はもういいや、と投げやりになって気にならなかった。しかし今は、満腹中枢が刺激されたお蔭か、不快感が止まなかった。
 たっぷりの湯を浴びて、綺麗さっぱり洗い流し、すっきりしてから眠りたい。
 ただ足は重いし、立ち上がるのも億劫で、補助がなければシャワールームに行くのも大仕事だ。
 爪先をバタバタさせて駄々を捏ねた立香に、カドックは唖然とした表情を浮かべて固まった。頬を引き攣らせて顔色を悪くし、なにかを言いかけて顔を伏した。
 次に顔を上げた彼は、一転して大真面目に眉を吊り上げていた。
「冗談じゃないぞ」
「いいじゃん、べつに。一緒に入ろうよ。暇なんでしょ」
「ふざけるな。確かに僕が、この艦で一番やることがないのは認めるが」
 腹の底からの罵声を浴びせかけられても、立香は臆することなく繰り返した。悪戯っぽく笑って顔の横で両手を重ね合わせ、思いつく限りの可愛いポーズで強請った。
 嫌がるカドックに言葉で縋り、銀盆を手に立ち去ろうとするのを追いかけて、腰を浮かせる。
「――あ」
 普段からやっている、なんてことはない動作だった。
 しかしベッドから降り立つべく、両足を揃えて床に着けた段階で、膝からカクン、と力が抜けた。
 カドックへと伸ばした手が、空を掻いた。さすがに顔面から崩れ落ちるのだけは回避出来たものの、右の半月板をしこたま強打して、しばらく息が出来なかった。
「はは。あれ。おっかしいな」
 四つん這いになって、そこから先が続かない。転んだのを誤魔化したかったのに、身体の自由が利かなくて、頭も碌に回らなかった。
 視界の歪みは、目を閉じればすぐに治まった。ただその間に、カドックの接近を許してしまったが。
 立香の異変を気取り、荒々しい足取りで戻ってきた彼は、手にしたものをテーブルに叩き付けた。あまりにも乱暴な仕草に、食器類は音を立てて抗議したが、銀髪の青年は一切顧みず、膝を折ってかがみ込んだ。
 蹲る立香の顔を覗き込んで、控えめに微笑む彼の手を取り、反対の手はその首元に押しつけた。
 黒いハイネックの上から脈を測って、カドックは盛大に舌打ちした。
「ネモ・ナースを呼ぶぞ」
「それはダメ。大丈夫」
「どこがだ。自力で立ち上がれない奴の、どこか大丈夫なのか、今すぐ僕に言ってみろ」
「ほんと、心配ないって。ちょっと気が抜けたっていうか、足がもつれたっていうか、そういうのだから」
 即座に引き返そうとする彼を遮り、立香が大きく頭を振る。
 手首を掴む力の弱々しさに愕然となりながら、カドックは唇を噛んだ。
 苦虫を噛み潰したような顔をさせたかったわけではないけれど、起きてしまったことは、もう取り返しがつかない。だからと開き直って、立香は彼の肩に額を預けた。
 自分以外の命の温度にホッと息を吐いて、目を瞑る。
「メディカルチェックでは、異常なしだって」
「……うん。よかった」
「お前、まさかずっと」
 カドックの声は震えていた。表情こそ見えないけれど、手に取るように感じられた。
 検査の目を誤魔化すのは、意外と簡単だ。コツさえ覚えてしまえば、問診をすり抜けるのは容易だった。
 今回も、皆にバレずに済んだ。
 上手に隠し通せた――カドック以外には。
「内緒にしてて欲しいんだ。オレはまだ、降りられない。降りたくない。だからさ」
 彼の手に手を重ねて、袖を引いた。首に角度を持たせて、惚けているカドックの耳朶に唇を寄せた。
 吐息が熱を孕んだのは、わざとではない。ただ言ったところで証明する方法はなく、カドックがどう思ったかは分からない。
「なってよ。オレの、共犯者」
 囁きは、彼にだけ聞こえるように。
 信じてくれている仲間を容赦なく裏切る懇願に、反応はない。
 やはり駄目だったかと落胆し、中途半端なところで終わりを迎える旅路に思いを馳せかけたところで。
「くそっ!」
 苛立ちを隠さない怒号が聞こえて、力任せに腕を引っ張られた。
 肩が抜けそうになったのは、引く力の勢いが強かったのもあるが、ほぼ同時に胸を突き飛ばされた所為でもある。一瞬だけ前方に傾いだ身体はやおら後ろ向きに倒れて、後頭部がベッドに激突した。
 小さな星がいくつか飛び散るのが見えたけれど、それは目の錯覚で、実際瞳に映ったのは真っ白に近い銀髪だった。
 すでに遠くなった過去、カルデアの外で見た、あの白銀の大地がふと、脳裏を過ぎった。
「本当に、お前っていう奴は。ああ、本当に。心底、僕は、お前が。嫌いだ!」
 ぐちゃぐちゃになった感情を隠しもせず吼えて、カドックが床を殴る。痛そうな音に思わず首を竦めて、立香は迫り来た影に目を細めた。
「カドック、ごめ――」
「うるさい。黙れよ、この馬鹿野郎」
 謝罪も。感謝も。
 降って来た罵倒に塞がれて、最後まで言えなかった。
 

同じ世の心ながらやすみ慣るる 吉野の峰の岩の懸道
風葉和歌集 1378

2023/05/20 脱稿