フォロワーさんからのリクエストで、「雨」のヒバツナ。
視界の端に紛れ込んだカーテンが、風もないのに揺れた。ワンテンポ遅れて黒い影が見えて、沢田綱吉は額に添えていた右腕を下ろした。
ベッドに寝転んだ状態で大きく伸びをし、ひとつ息を吐いたところで、頭上から声が降って来た。
「良いご身分だね」
「そうですかあ?」
瞳だけをそちらに向ければ、黒ずくめの男がひとり。
短く切り揃えた前髪の下から覗く瞳は鋭く尖り、威圧的な雰囲気を醸し出している。細くしなやかな腰に両手を添えて、すらりとした体躯はトップモデルのそれにも劣らない。
ただこの男の内面は、外見の美麗さからは想像が付かないほど凶暴だ。
そんな猛犬、猛獣の類に首輪を付けている身なのを内心ほくそ笑んで、綱吉はゆっくりと身体を起こした。
辛うじて上着と靴を脱いではいるものの、スーツのまま寝転がっていた所為で、あちこちが皺だらけだった。
ずり上がっていたベストの裾を直し、柔らかなスプリングの上で軽く身を弾ませる。
胡座を掻く形で座りはしたものの、降りる気配のない彼に、雲雀恭弥は呆れた顔で肩を落とした。
「いいじゃないですか、別に。午前中の仕事はちゃんと終わらせて、昼からはフリーなんだから」
頭を振りながら溜め息を吐いた美丈夫にさらりと笑いかけ、ひらひらと手を振る。途端にベッドサイドの雲雀が眉を顰め、利き腕を突きつけてきた。
「そのフリータイムに人を呼びつけたのは、どこの誰だい?」
「オレですね~」
マフィアのボスになって、はや数年。
おかげさまですっかり仕事にも慣れて、慌てふためきながら時間に追われていた日々は過去のものとなった――わけでは、決してない。
しかし半日程度の余暇を掴み取る術くらいは、辛うじて身に着けた。
額を軽く小突かれても平然と笑い飛ばして、綱吉はほんのり赤くなっているであろう箇所を撫でた。
まるで反省する素振りがない彼に諦めたのか、雲雀は腕を戻し、指先をスラックスのポケットへ押し込んだ。苛立ち紛れに踵を床に打ち付け、装飾品が多いもののがらんとしている室内を見回した。
「雨、止まなかったですね」
綺麗に整えられ、ボンゴレ十代目の寝室として相応しい内装が設えられているものの、ここはどこか寂しい。
もっと雑然として、狭い方が落ち着くのだが、残念ながら要望は通らなかった。
今はすっかり動かなくなったカーテンの向こう側に目をやって、ぼそりと呟く。
独白を拾った男もつられて同じ方を見て、嗚呼、と頷いた。
「なんだ。連れ出して欲しかったんだ」
そこで得心がいった顔をされるのは、少し癪だ。胡座のまま頬杖をついて、綱吉はむすっと口を尖らせた。
もっともこれで、図星だというのがあちらにも伝わった。
最早隠すのも無駄と観念して、改めて仰向けに寝転がる。大の字になって天を仰いだ彼に、雲雀は口角を僅かに持ち上げた。
「車、回そうか?」
「いやですよ。ヒバリさんが運転したら、いっつも煽られるんだもん」
「それは僕の所為じゃないよ」
「でもその後、ヒバリさんだって煽り返すじゃないですか」
幾分楽しげに問われて、綱吉は渋い顔を作った。散々だった過去の記憶を軽くなぞって抗議するが、雲雀は涼しげに受け流した。
そう。なぜか彼が運転すると、ガラの悪い連中が必ずといって良い程に群がってくるのだ。
無視してもしつこく付きまとわれ、コースを変えても追いかけてくる。やむを得ず速度を上げれば壮絶なカーチェイスへと発展して、本来の目的が綺麗さっぱり忘れ去られ、始末が悪いことこの上なかった。
雨の日の気晴らしとしては、些か物騒過ぎだ。ドライブの気分ではなくて、綱吉はごろんと寝返りを打った。
右肩を下にして横になり、依然ベッド際に佇む男を仰ぎ見れば、承諾を得たという風に解釈したのだろうか。雲雀は身体を半回転させ、キングサイズのベッドに腰を下ろした。
ギシ、とスプリングが軋む音が、綱吉の耳の奥にだけ響いた。
「そう。なら、バイクが良かったんだ」
「むう」
「可愛くないよ、そんな顔しても」
「むむむ」
四輪車が否定されたら、二輪車で。
中学時代から、法律もなにもかもを無視して乗り回していた男に見透かされて、たまらず頬を膨らませたら、笑われた。
短く切った爪先でちょんちょん、と膨らませた箇所を小突かれて、綱吉は益々口をへの字に曲げた。
「かわいくなくて、すみませんね」
ふて腐れながら言い放ち、しつこく触れて来る指先を撥ね除けた。攻撃を受けた側は意外だったのか、少しばかり目を丸くした。
「だいたい、もうじき三十路の男に可愛いって。ヒバリさんこそ、語彙力どうかしてるんじゃないですか?」
そこに畳みかける格好で言って、のっそり身を起こす。
両足は投げ出したまま、肘で上半身を支えて頭の位置を高くした綱吉に、雲雀は不思議そうに首を傾がせた。
「君はいくつになっても、可愛い小動物だよ」
しれっと恥ずかしいことを言われて、余計に頭に血が上った。
「だ~か~ら~!」
「いいの? 出かけないなら、折角の休暇が、部屋の中でゴロゴロするだけで終わるけど」
深く考えていないからこその、本音が垣間見える台詞に声を上擦らせるが、皆まで言い終わる前に邪魔が入り、後が続かなかった。
音もなく忍び寄った指先が、綱吉の脇腹をつい、となぞる。
ベストの上からでもはっきり分かる指の動きに、彼は咄嗟に息を止めた。
喉の奥で呻き、一瞬で力が抜けた体躯をベッドへと沈めた。右手で掴んだ幅広の枕を引き寄せて、真っ白な布地に遠慮なく爪を立てた。
たったこれだけで身悶えている綱吉を見下ろし、雲雀は艶然とした笑みを浮かべた。長い脚を優雅に組んで、悔しそうに歯軋りする青年に目を眇めた。
この反応を、可愛いと称さずして、なんと呼べば良いのだろう。
「僕は別に、それでも構わないけど」
意識して低音で囁き、身を屈めて距離を詰める。なるべく耳朶に近付いて吐息を吹きかければ、綱吉はビクッと大きく身を震わせた。
枕から顔を上げた彼の顔は真っ赤で、熟したトマトよりも甘そうだった。
「そんなつもりで、呼んだんじゃないです。だいたい、まだ、……いや、あの……昼間だし」
抗議の声は、尻窄みに小さくなっていく。琥珀色の瞳は淡く色づき、落ち着きを欠いて四方を彷徨っていた。
想像を巡らせ、妄想を働かせ、勝手に焦って、ひとり狼狽えている。
未だに初心なところが抜けない綱吉を小突いて、雲雀は彼の視線を固定させた。
「それって関係ある?」
「あります。大事です。ヒバリさんって、ムードが足りないって言われたことあるでしょ」
「ないよ」
「嘘だあ!」
「君以外からは」
「うぐ」
枕元から覗き込まれて、綱吉は叫んだ矢先に、口を噤んだ。頬を赤く染めたまま目を逸らし、膝を折って丸くなった。
ついでに枕を抱きかかえ、そこに顔を埋めようとしたが、未遂に終わった。
呆気なく取り上げられて、追いすがるが、指は空を切った。
決してそば殻など入っていない枕を高く掲げ、雲雀が意地悪く微笑む。獲物を見定める眼差しを浴びた青年はゾクッと背筋を震わせ、生唾を飲んだ。
獰猛な獣を手懐けたつもりで、餌として飼われていたのは自分の方だったのではないか。
そんな想いが胸を過ぎり、綱吉は慌てて首を振った。
息を整え、唇をひと舐めして、意を決して眼力を強める。
「あ、……明日、に。響いたら、困るんですってば」
「ふうん。じゃあ、響かないようにすれば良いんだ?」
「そういう問題じゃあ、ない!」
今し方ムードが云々と言ったばかりなのに、この男はもう忘れている。
黄色い小鳥の方が、よほど賢いのではないか。腹を立てながら怒鳴りつけて、奪われた枕を取り返した。
ベッドの上で背伸びをして、掴み取って引っ張れば、雲雀はすんなり手を放した。お蔭で尻餅気味の着地になったが、構わず、綱吉は枕を盾にしてじりじりと後退した。
シーツの海を波立たせ、幾ばくかの距離を稼ぎ、未だ熱を宿している左耳を覆い隠す。
一方の雲雀は悠然とした態度を崩さず、優雅に脚を組み直した。
「することがないのなら、書類の一枚でも終わらせればどう?」
「それじゃあ、オフの意味が無いじゃないですか」
「雨で出かけられない。共寝も嫌。なら、ほかに何をするって?」
「そりゃあ、ゲーム、とか……?」
どこか拗ねた素振りの彼に言い繕うが、果たして雲雀恭弥はゲームをするのだろうか、という疑問が言ったそばから消えなかった。
実際、彼もその考えはなかったのだろう。いくらか吃驚した風に目を瞬かせて、呆れたのか右手で顔を覆った。
指の隙間から溜め息が漏れるのが、目に見えるようだ。
「そういうのが良いなら、僕じゃなくて、ほかの誰かを呼びなよ」
大仰に肩を落とした状態で告げて、雲雀がおもむろに立ち上がる。
そのまま背を向けて立ち去ってしまう予感に、綱吉は慌てて枕を投げ捨てた。
ベッドで片膝を立て、腰を宙に浮かせた。短い間隔で息を吐き、幾度か指先で空を掻いた。
引き留めたいけれど、動けない。
雲雀は彼方を見て、綱吉を振り返ろうとしなかった。
「あの、……ヒバリさん」
綱吉には綱吉だけの仕事があるように、雲雀にだって雲雀にしか出来ない仕事があった。
ふたりの休暇が重なるなど、滅多にない。だから彼の休みの予定を秘密裏に調べ、無理をして、どうにか時間をやりくりして、この半日を手に入れた。
貴重極まりない余暇を、こんな風に終わらせたくなどなかった。
だというのに、最後の最後で意気地なしが顔を出す。
いくつになっても変わらない己の性格を恨んでいたら、窓の向こうを見たまま微動だにしなかった男が口を開いた。
「ねえ、小動物」
「え?」
「さっさと着替えなよ」
「はい?」
淡々と言われて、理解が追い付かない。
唖然としたまま固まっていたら、痺れを切らした雲雀に額を小突かれた。
本日二度目の出来事に、綱吉は目が点になった。
「ヒバリさん?」
急に切り替えられても、こちらはついて行けていない。訳が分からず困惑していたら、言葉足らずを反省したか、彼は背中越しに窓を指差した。
カーテンの外は相変わらずの曇天ながら、先ほどよりは少しだけ空が明るい。なにより屋根を打つ雨音よりも、テラスで雨宿りしている小鳥たちの囀りの方が、大きく響いていた。
ちゅんちゅんと、まるで会話を楽しんでいるかのような声が、綱吉の鼓膜を震わせた。
「もうじき雨が止むみたいだよ」
そういえば、どこかで聞いたことがある。空を飛ぶ鳥は、雨が止むタイミングが分かるのだと。
彼らが鳴き出すのは、程なく雨が止む兆しだ。
「……やった!」
普段は姦しく、五月蠅いくらいなのに、今は鳥の声がどうしようもなく嬉しい。
子供のように満面の笑みで跳び上がった綱吉に、雲雀は堪えきれなかったか、口元を緩めた。
2023/05/07 脱稿