たとえば、ある夜更けの出来事として

フォロワーさんの呟きに触発されて、突発的に書いたデイビット×ぐだ君の話。
付き合ってないし、なんなら殆ど喋ったことないふたりのif話。

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 夜更けの施設内は、明かりが灯っているものの、どこか薄暗くて不気味だった。
 日中に比べれば控えめな光源もさることながら、物音ひとつ聞こえないのが不穏さに拍車を掛けていた。
 大勢いるスタッフは、半数以上が寝床に就いている。マスター候補生の多くも、既に夢の中だろう。
 だというのに藤丸立香はひとり、のろのろとした足取りで静まり返った廊下を歩いていた。
「うぅ……やっと終わった……」
 提出を義務づけられていたレポートが、つい十五分ほど前にようやく完成を見た。あとはデータファイルをメールに添付し、送信ボタンを押せばすべて終了、となるはずだった――のだけれど。
 運悪く、メールシステムが夜間メンテナンスに突入してしまい、送信不可のエラー状態。やむなく紙で印刷するため、プリンターがある共有スペースまで走る羽目に陥った、というわけだった。
 締め切り時間はとっくに過ぎていたものの、平謝りしながら提出して、その帰り道。
 どこを向いても似たような光景が続く廊下を進んで、彼はふと顔を上げた。
「ん?」
 目を瞬き、振り返るが特になにもない。
 ただ上手く言い表せない、なにかを感じたのは間違いなかった。
 言語化が難しいが、強いて言うなら空気が動いた、とでも表現すべきだろうか。
 もっとも空調は昼夜を問わず稼働しているのだから、これも厳密には正確ではない。誰もいない、なにもない空間をじっと見詰めて、藤丸は小首を傾げた。
「疲れてるんだろうな、きっと」
 夕食の時間も削って、必死にパソコンと睨めっこしていたのだ。眼精疲労もあるし、脳みそも焼き切れる寸前だ。
 空腹だが、食欲はない。一定のレベルを超えると、食べる気力すら湧いてこないらしかった。
 今は一刻も早く部屋に戻り、ベッドにダイブしたい。
 食欲を遥かに凌駕する睡眠欲を証明するかのように、自然と欠伸が漏れた。
「ふあ、ああ~……ねむ」
 大きく開けた口を右手で覆い隠し、軽く背筋を伸ばして目を閉じる。
 自然と溢れた涙は乾くに任せ、緩く首を振ってから、目的地に向かうべく利き足を前に出した。
 ところが、だ。
「うっ」
 続けて反対側の足を出そうとして、叶わなかった。
 踏み出した右足に体重の大半を預け、前のめりになって突如襲い来た重みに耐える。一瞬呼吸が止まって、口から心臓が飛び出る恐怖に見舞われた。
「お、おも……!」
 己の身に何が起きたのか、咄嗟に理解出来ない。
 ただ突然に。本当にいきなり、正体不明の重石が背中に覆い被さってきた。
 体力トレーニングの一環でベンチプレスに挑戦しているけれど、それにも勝る過重だった。しかもこの重みの正体が分からない。それが更なる恐怖を煽って、藤丸は総毛立った。
「ひぃぃぃ!」
「……うる、さい」
 呼吸困難に陥りながらも細めた喉から甲高い悲鳴を上げ、必死に振り払おうと藻掻く。
 そこに不意に声が降って来て、彼は顔の前に両手を掲げたまま凍り付いた。
 低く、重厚で、少し掠れ気味で。不機嫌を隠しもせず、愛想もなく、直球に不満をぶつけられた。
 辛うじて覚えがあるトーンだった。
 けれど顔は出て来るものの、名前が思い出せない。
「はい?」
 キリシュタリアとは少し趣が異なる金髪で、いつだって眼差しは鋭く、口数は一際少ない。Aチームの誰かが呼びかけても返事すら稀で、だのに魔術師としての優秀さ故か、傲慢さは許容されていた。
 ペペロンチーノが強引にお茶会に引っ張って来て、一緒になったことが数回ある。
 その時も、ろくに会話に混じってこなかったけれど。
「で、で……デビット? だっけ?」
「ちがう」
 数少ないヒントから手繰り寄せた回答は、残念ながら不正解だった。
 相変わらず一方的に押しつけられる体重に耐えながら、ぎりぎり動く範囲で首を後ろに回す。か細く頼りない天井光の下で、針のように固そうな金髪が輝いていた。
 表情は見えない。だからこの男がどんな顔をして、藤丸立香に背中から抱きついているのかは、さっぱり分からない。
「デイビット」
 よくよく見れば、黒いコートの袖が、断りなく人の腰に絡みついていた。
 離すものかという意思表示にも、たまたま丁度そこにあったから巻き付けました、という程度にも見えなくない。ともかくカルデアに集められた魔術師の中でも、特別優秀な人員が揃うAチームの一員であるデイビット・ゼム・ヴォイドが、どうしてだかBチームのみそっかすである藤丸立香を背後から拘束しているのだけは、間違いなかった。
 ぼそっと告げられた名前を頭の中で復唱して、藤丸は中空にあった右手を下ろした。
 束縛を振り解こうと無言で試みるが、掴んだ男の腕は見た目以上に太く、筋肉質で、頑強だった。
 革製のコートの上から触れただけでも、鍛えているのが十二分に伝わってくる。それは己が知っている魔術師の中では、かなり異質といえた。
 もっとも藤丸が既知の魔術師は、カドックやキリシュタリアたちくらい。だから世の中には、ごりごりの武闘派タイプも、もしかしたら居るのかも知れない。
 これまでの人生でおよそ係わり合いがなかった世界を夢想した直後、彼はゴリ、と骨が鳴る感覚に背筋を震わせた。
「ちょ、デビット」
「デイビット」
 襟足を擽られる感触が、くすぐったいのを通り越して、少し痛い。
 挙げ句腰に回った腕に力が込められ、遠ざかろうと足掻いていた身体が強引に引き戻された。
 否、引き寄せられた、とする方が正しかろう。
 首筋から背中にかけて、あまつさえ臀部の一部にも、他者の体温が密着した。文字通り力任せに抱きすくめられている状態で、後ろから押し潰されているも同然だった。
 左足が浮きそうになり、悲鳴めいた抗議の声を上げるものの、言い間違いを訂正する以外、デイビットは言葉を発しない。その代わりと言えるかどうか不明だが、ゴリゴリと肉を削る勢いで、首の後ろを繰り返し捏ねられた。
 デイビットの両手は藤丸の腰に回されたままたので、擦りつけているのは彼の顎か、額か、もしくは鼻筋か。
 猫のように匂いを吸われる筋合いはない。
 ではなんなのかと頭に疑問符を生やして、藤丸はもう一度、ゴツゴツ骨張っている彼の手を掴んだ。
「あのさ、その。ちょっと、これってなんなのかな」
 喋った記憶はごく僅かで、名前すらまともに覚えていなかった間柄だ。
 彼と同じAチームの一部とは親しくしているけれど、だからといって突如距離感ゼロで接せられる謂われはない。
 混乱した頭を揺さぶり、声を上擦らせながら問いかける。
 下手に怒りを買ったら、勝ち目がないのは明白だ。なるべく刺激しないよう心がけたものの、こちらも動転したままなので、上手にあしらえたかどうかは分からない。
 懸命に問いかけ、束縛を緩めるよう、固く結ばれた手を撫でた。感情の機微が見えない相手に眉を顰め、どんな小声でも聞き漏らすまいと神経を研ぎ澄ませた。
 それでも伝わってくるのは、微かな呼吸音のみ。
 しかも心臓がバクバク言っているこちらが馬鹿ではないかと思えるくらい、非常に落ち着いて、安定したものだった。
 逆に言えば、こんな暴挙に出ておきながら、デイビットは至って冷静だった。
 感情の一切が波立たず、静か。やっている事は乱暴なのに、とても穏やかで、呼吸の間隔は若干長め。
 忘れた頃に前髪ごと額を擦りつけて、藤丸を驚かせて。
 時計の針は、そろそろ深夜の一時半を回った頃だろうか。
 吹き飛んだ眠気が忍び足で戻り始めているのを片隅で感じ取り、彼は恐る恐る、背後に陣取る男へと手を伸ばした。
 感覚を頼りに数回空を掻き、四度目で辿り着いたデイビットの髪に指先を潜り込ませた。
 抵抗はなかった。
 嫌がり、振り払われることはなかった。むしろ彼は甘えるかのように首を傾け、人の首に顔を伏したまま、擦り寄るような仕草を見せた。
「うーん」
 まるで大型犬が、飼い主にじゃれついているかのようだ。
 見えない尻尾が脳裏に浮かび、慌てて否定するが、完全に消し去るのは難しかった。
「もしかして、さ。デイビット、眠い?」
 終始無言でしがみついてくるのも、人ではなく、動物ならなんとなく理解できる。勿論彼は人間なので、言葉で意思疎通を図ってくれるのが、一番嬉しいのだけれど。
 ものは試しと訊ねてみても、案の定、返事はなかった。
 だた腰に回された腕の力が一瞬緩み、次の瞬間にはまた込められたので、肯定と受け止めて良さそうだった。
 雰囲気で察し、藤丸は肩関節に無理を言わせながら、真後ろにいるデイビットの頭をぽんぽん、と叩いた。
 厳つい外見と愛想の悪さから、性格に難があるのかと感じていたが、印象が随分と変わった。微妙に子供っぽい仕草と、態度と、甘え方は、意外としか言いようがなかった。
 ペペロンチーノやキリシュタリアなどから得た少ない情報と、現在己が置かれた状況を整理しつつ、引っかかりが多い金髪を不器用に梳いてやる。
「ベッドまで、いける? 部屋、どこだっけ」
 小さな子供を相手する時の気分で囁き、問いかけるが、答えはない。
 もう話しかけるのも止めてやろうかと思ったが、踏み止まって、藤丸は自嘲気味に肩を竦めた。
 幸いにも、自室はもう目と鼻の先だ。
 デイビットがどうしてこんな時間、こんな場所にいたかは知らない。まさか藤丸同様、レポートの提出がギリギリになり、直前まで頑張っていたということはないだろうが。
 それでも、だったらいいな、と仲間意識を宿して、頬を緩める。
「しょうがないなあ」
 苦笑し、漏らした吐息は軽い。
「ほら、動いて。歩いて。というか、離れて」
 彼の部屋を探して右往左往するくらいなら、狭いベッドを分け合って眠る方がずっと早いし、合理的。
 安直な結論を導き出した藤丸は、立ったまま寝息を立てそうなデイビットを急かし、耳の付け根から頸に至る一帯を叩いた。
 短い金髪を弾いて合図を送り、自身も改めて一歩を踏み出そうと腹に力を込めた。
 ただそれが、良くなかったらしい。
 どの時点で、具体的になにが気に触ったかは不明だが、一旦首をもたげたデイビットは、若干の熱を含んだ息を鼻から吐いた。
 無防備だった藤丸が、その微熱を襟足に感じ取った瞬間。
「……いぢっ!」
 表皮のみならず、肉をガリッと削られる痛みに襲われて、彼は竦み上がった。
 噛まれたと理解するのに、およそ五秒を要した。萎縮した内臓に冷や汗を流し、咄嗟に患部を庇おうと手を伸ばすが、デイビットにのし掛かられる方が早かった。
 またしてもぐりぐりと額を擦りつけられて、痛みに痛みが重なった。眠気からなのか、人を食べ物と勘違いしているらしき男の髪を引っ張って非難しても、彼は一切意に介さない。
「こら。やめ……止めろって。いった。痛い。躾がなってない!」
 こちらは善意から寝所を提供してやろうというのに、まるで伝わっていない。
 段々腹が立ってきて、藤丸は時間も忘れて声を荒らげた。
 こうなれば力尽くだと、持てる力を振り絞って足を前に出す。重すぎる荷物を背負ったままズリズリ進んで、自身に与えられた部屋までの距離を少しずつ詰めた。
 息を切らし、忘れた頃に襲い来る痛みと戦い、這々の体でドアを潜る。
 その後の記憶は、曖昧だ。
 転がるようにして室内に入ったところまでは覚えているが、直後に力尽きたらしい。どうやってベッドに上がったのか、結局デイビットはどうなったのか、全く記憶に残っていなかった。
 おまけに次に目が醒めた時、なぜかベッドサイドにはキリシュタリアと、カドックが青い顔をして立っていて、余計に意味が分からない。
 寝ぼけ眼の藤丸を前に彼らは酷く狼狽した後、傍らでまだすやすや眠っていたデイビットを遠慮なく叩き起こした。
 いつになく動揺しているキリシュタリアが、状況が分からずにいる藤丸の、鬱血痕が多く残る首筋を指差しながら早口に捲し立てる。
 それに対し、安眠を妨害されたデイビッドはいつもの愛想のない表情を崩すことなく、こう言った。
 覚えていない、と。
 

2023/03/05 脱稿