弥々

 ヒバツナ。
 リハビリも兼ねて。

 背中についた爪の痕が、痛いのか熱いのかわからない。
「チッ」
 ぬるま湯を浴びた瞬間に生じた痛みに、無意識に舌打ちが漏れた。黒髪から滴り落ちる雫を睨み付けて、雲雀恭弥は奥歯に力を込めた。
 頭上に据えたシャワーから、細かな水滴が無限に降り注がれる。それを甘んじて受け止めて、彼は数秒の沈黙の後、ゆるりと首を振った。
 すっかり湿って重くなった髪を掻き上げ、火照りを残す肌を水気に晒した。曇った鏡の一部を擦って霧を晴らし、腰を捻って背を映せば、肩甲骨の付近には確かにミミズ腫れが散見していた。
 いつ出来たものかなど、考える余地もない。
 目を閉じれば、まざまざとその時が思い起こされる。芳しい香を放つ花に引き寄せられた蝶の如く、甘い蜜を存分に啜り、甘美な熱に酔い痴れていた。
「まったく」
 自然と漏れ落ちた吐息に言葉を紛れ込ませるが、その内容には特段の意味は込められていなかった。
 なにかを口にしたかったが、ふさわしい単語がなにも浮かんでこなかった。やむを得ず音にしたのがそれだっただけであり、我ながらなんと無様で、みっともないことか。
 己に対して苦笑を浮かべ、しっとりと水気を帯びた肌をなぞる。
「……っ」
 途端に生々しい記憶が蘇って、喉の奥で息を留めた。
 溢れそうになった声を辛うじて防ぎ、耳元を駆け抜けていった甘い囁きに唇を噛んだ。
 脳裏を過ぎった色を含む吐息は、間違っても雲雀の口から零れたものではない。けれど当人がそう認識していなかっただけで、もしかしたらあちらの耳には、そのように響いていた可能性があった。
 赤く染まったミミズ腫れのひとつを指で追いかければ、バスルームに逃避する少し前、確かにそこに触れていた他者の体温が蘇った。
 ぬるま湯で洗い流しても、簡単には消えそうにない。
 薄っぺらで、骨身がちで、柔らかさとは無縁だと信じ切っていたのに、存外にねっとりとしていた。触れれば触れるほど指に吸い付き、離れない。揉む度に弾力が増して、もっちりとした感触が心地よかった。
 次第に熱を帯びて赤みを増す頬と、荒くなっていく呼気。恥ずかしそうに伏せられた眼は時折焦げ付くほどの鋭さを伴い、かと思えば甘く蕩けて雲雀を逃さなかった。
 始まりこそ羞恥を訴えた唇は、時を経るごとに閉じるのを忘れてだらしなく解れ、艶を放って欲を煽った。
 あんな小さな身体に無体を働く己を罵りもしたが、目の前に据えられた哀れな小動物を貪り喰らう快感に抗えなかった。
 思いつく限り手を尽くし、負担が少なく済むよう心がけたつもりであるが、どこまで出来ただろう。
 シャワーコックを捻り、思い切って冷水を頭に浴びせかけて、雲雀は長いため息を吐いた。
「いいよ。べつに」
 これで嫌われる羽目に陥ろうが、もはや過ぎ去ったこと。
 じりじりと腹の奥底で燻る感情に言い訳して、彼は足下に出来た水たまりを蹴った。
 タオルで軽く水分を拭い取り、肌着とズボンだけを身につけて部屋に戻れば、そこは彼が一時の逃亡を決める直前のまま残されていた。
 ふたり分の欲を解き放った匂いがまだ色濃く漂い、脱ぎ捨てたシャツや靴下が床に散らばっている。幅広のベッドに敷かれたシーツはあちこちで大きく波を打ち、乱れたタオルケットの裾からは細い足首が飛び出していた。
 こちらに背を向けて、動かない。
 一瞬ひやりとしたものを覚えたが、近づくにつれて懸念は落胆へと切り替わった。
「んん、ぷすー……ふぅん……」
 詰まり気味の鼻から漏れる吐息は、時折奇妙な音階を刻んだ。聞く者を脱力させるに十分な破壊力に、雲雀は思わず膝から崩れ落ちそうになった。
 なんら攻撃を受けてもいないのに、倒れたくなった。
 呆れ果てて、腹立たしさも起こらない。力の抜けた両足を叱咤してベッドサイドに腰を下ろして、彼は大きいが薄い枕に突っ伏す存在に手を伸ばした。
 重力を無視して逆立つ毛先をなぞり、指先を潜り込ませる。薄明かりの中でも目立つ亜麻色の髪を一頻り梳いて、朱色を残す華奢な肩を軽く掴んだ。
「ねえ、起きなよ。シャワー、空いたよ」
 弱い力で揺さぶり、顔を寄せて耳元で訴えた。褥を共にした時を思い起こさせる声色で、わざと耳たぶに息を吹きかけるのも忘れなかった。
「んむ、ぅ」
 しかし狙いに反し、相手はまぶたを閉ざしたまま。驚き、飛び起き、雲雀の顔を見て真っ赤になって狼狽える、というような事態は起こらなかった。
 初心な反応を見せ、こちらを楽しませてくれるのを期待したのに、そうならない。
「ム」
 密やかな期待を裏切られて、雲雀は露骨に顔を顰めた。
 口をへの字に曲げて不満を表に出し、再び肩を揺らす力業に出るが、結果は変わらなかった。
 幼い見た目の小動物が元から寝汚く、こういう時だけ豪胆で、大胆なのを忘れていた。
「ちょっと」
 少し前まであんなに必死に自分にしがみつき、快楽に溺れながら身を捩っていたくせに。
 日頃の健康的な姿からは予想もつかない淫らさで、欲に喘ぎ、縋り付いてきたくせに。
 一戦終えてしまえば、もうどうでも良いというのか。せめてもうしばらくは、甘くて濃密な空気に浸って然るべきではないのか。
 自身が思いの外夢見がちだったのを自覚しないまま、雲雀は声を荒らげた。
「僕より、そんな枕の方が良いっていうの」
 綿入りの白い枕を両手でしっかと抱きしめて、端の方に頬を寄せて体重を預けている。揺さぶられた余波で顔をこちらに向けたものの、しどけなく開かれた口から漏れるのは聞くも空しい寝息ばかり。
 瞼は依然閉ざされて、艶をまとって淡く煌めく琥珀は雲雀を映さない。
 苛立ちと焦燥感に身を焦がして、彼は反射的に利き腕を振り上げた。
 しかし握りしめた拳は、ついぞ眠る子に振り下ろされることはなかった。
 代わりにクッションも充分なベッドの一部を凹ませて、肩で息をして心を落ち着かせた。
 そうだ、元々知っていたではないか。この子が、こういう存在だというのは。
 弱いくせに諦めが悪く、急に強くなったかと思えば、臆病さを隠さない。自分から喧嘩を売らないくせに、他者を守るためなら傷つくのも厭わない。倒れても、倒れても立ち上がって、目が離せない。
 笑うと存外愛らしく、会うたびに増えていく傷跡が気になった。自分自身の弱さを正直に認めて、それを恥じない精神構造が興味深かった。
 戦ってみたかった。
 間近で見ていたかった。
 傍に置きたくなった。
 その全てを、手にしてみたいと思った。
 願いは果たされた。それなのに、満たされない。
「君は、僕が好きなんだろう?」
 せり上がってくる感情に従って吐き出した言葉は、微かに震えていた。こんなのは自分らしくないと分かっていても、抑えきれなかった。
 疲れ果てて眠っている相手に問うたところで、応答があるわけがないのに。冷静に考えれば馬鹿らしくて滑稽な行動に、一秒後、雲雀は我に返った。
 はっと息を呑み、口を噤んで首を振った。
 汗と精液まみれの小動物をベッドから追い出すのは、諦めざるを得ない。ただこのまま放置するのは、さすがにかわいそうだ。
 そうなった要因は、自分にもある。責任者としての役割は全うすると気持ちを切り替え、新しいタオルを取りに行こうと、身を捻った。
 腰を浮かせ、もう一度シャワールームへ行こうと両足に力を込めた。
「だいすき、ですよ?」
 視線を外し、暗がりに顔を向けた直後だ。
 不意を突かれて、雲雀は前のめりになった。
 がくっと身体が傾き、ベッドからずり落ちそうになった。足の指に力を込めてすんでのところで耐えたが、並盛中学校風紀委員長としては形無しの動きになったのは、間違いなかった。
 慌てて振り向き、声の主に目を走らせる。
「狸寝入りだっていうのかい」
 怒り心頭で吠えた先に見えたのは、長方形をした真っ白い枕と、そこからはみ出す飴色の毛先のみ。
 防御壁としても、目隠しとしても上手に盾を使いこなす小動物に手を伸ばし、問答無用で邪魔な存在を奪い取る。頭に血が上ったまま膝からベッドに乗り上げて、じたばた逃げようともがく存在の進路を塞いだ。
 四つん這いになって真上からのしかかり、威圧的に睨み付けてやれば、沢田綱吉は観念したのか顔の前で両手を掲げた。
 あっさり降参の白旗を挙げて、照れくさそうに頬を緩めた。
「えへ。へへへ。えへ」
「笑ってごまかすんじゃないよ」
「だって、ヒバリさんてば、なんか必死だったし」
「うるさい。咬み殺すよ」
「いったあ!」
 重ねた指先を擦って嘯く彼を咎め、なし崩しに抗議の声を押し潰した。
 薄く残っていた肩の咬み痕を上書きして、瞬時に半泣きになった小動物の細い鎖骨を舌でなぞった。唾液の筋を描いてチラリと様子をうかがえば、顎を反らした少年の、目立たない喉仏が上下に揺れ動くのが見えた。
 食われるかもしれない恐怖と、緊張と、その隙間から這い上がる高揚感が隠せていない。
 仰け反り気味に背筋を伸ばして真上から窺い見れば、熱に喘ぐ唇が淫靡に花開いた。
「ヒバリさん」
 ただ名前を呼ばれただけなのに、心が躍り、鎮まっていた熱が昂ぶった。嗜虐心が擽られ、むき出しの独占欲が牙を剥いた。
「なに」
 誘われるまま顔を寄せ、問いかけた直後に唇を奪った。紡がれるはずだった言葉を押し返し、苦しそうに顰められた眉を視界から追い払った。
 目をつぶり、求めるままに吸い付き、貪った。舌を伸ばして歯列をこじ開け、口腔奥深くに逃げ込んだ柔らかな肉を引きずり出した。
 先端を捏ね、絡ませ、小突き、舐った。途中からはあちらも応戦に出て、負けるものかと力を込めてきた。
 熱を押し付け合い、呼気をぶつけ合う。自然と汗が滲み、欲深く猛った身体が獣となって小さな体躯に躍りかかった。
「んぁ、あ……は、あっ、ン。も、……もういっかい、ですか……?」
 あれだけ欲深く混じり合ったばかりだというのに、制御が利かない。荒ぶる塊を布越しにこすりつけられて、沢田綱吉は恐る恐るといった風に問いかけてきた。
 声を潜め、上目遣いに。
 ただ注がれる眼差しは、拒絶というよりは、期待と興奮に満ち満ちているように見えた。
 どこか嬉しそうで、楽しそうで。それでいながら扇情的で、且つ好戦的で。
「いや?」
「ヒバリさんがいいのに、オレが嫌なわけ、ないじゃないですか」
 念のため確認を求めたら、即座に返された。
 するりと両手が首に回され、下から引き寄せられた。潰さないよう肘を支えに姿勢を維持し、情欲に染まった双眸を覗き込んだ。
「そう」
 ふと、彼はこんな子だったろうかと首を捻りたくなった。
「ふふっ。オレの、ヒバリさん。だいすき」
 浮かれ調子に、夢見心地に呟く彼のこめかみに触れて、そっと口づけた。空いた手で作ったばかりの肩の咬み痕に触れれば、痛かったのか、仕返しとばかりに背に爪を立てられた。
 シャワールームで感じた痛みが、熱がぶり返す。彼の手で作られる傷が、この身にどんどん増えていくのだと気付かされる。
 手に入れたのは、なにも自分だけではない。自分もまた、彼の掌中に収まったのだ。
「そう……」
 嗚呼、と無意識に吐息が漏れた。
 なにか言いたかったのだけれど、言葉がうまく出なかった。

2023/01/29 脱稿