Sky-high

 その日、三日間降り続いていた雨が漸く止んだ。

 緩やかな傾斜を抜けて、意識がすぅっと持ち上げられていくのを感じる。そのまま流れに身を任せていれば、やがて瞼の向こう側に微かな光を見つけた。
 吐息をひとつ零し、意識を柔らかな光の中へと委ねる。するとそれまで地底湖の暗やみに閉ざされていたかのような世界が劇的な変化を見せ、目映いばかりの陽光に照らされた草原へと様相を一変させた。
 驚きを隠せぬまま目を見張る。そうやって意識せぬまま夢現の中で瞬きを繰り返しているうちに、本当に意識は夢の空間から抜け出してぽとり、と伸ばそうとしていた腕が柔らかなクッションの上に落ちた。
 そこでようやく、目が覚める。
 持ち上げきるにはかなり億劫な重い瞼の向こう側には、何の変哲もない、いい加減見慣れすぎた感もある天井があった。白い壁に包まれた室内はモノトーンで、薄いレース地のカーテン越しに差し込む太陽の光がかろうじて室内の様子を教えてくれている。
 眠りに入る直前となんら変化のない自室の様子をベッドに寝転がったまま眺め、落ちてしまった腕を掲げると今度は額の上に落とした。ぼとり、としかし目測を誤ってしまったそれは額ではなく閉じる寸前だった両目の上に落下してしまい、ほぼ同時にはぁという溜息が唇の上を滑り落ちていった。
 顔の造形のままにカーブを描く頬に指を辿らせると、耳の側へとそれは身を沈めた。暫くそこを居場所と定めさせ、改めて天井を見上げてそれから、ふと気がついたように首を捻り視線だけを窓へと投げつける。
 光が、細かい刺繍の施されたレースのカーテンの隙間から溢れていた。
 その事を思い出した瞬間にはもう、彼の背中はそれまでどうあっても剥がれそうになかったベッドから離れ、肩までしっかりと被っていた薄手のケットもはね除けていた。膝の上辺りに溜まった格好のそれも引き出した右足で蹴り飛ばすと、素足のままひんやりとしたフローリングへと降り立った。
 大股に数歩行き、そして立ち止まる。
 一呼吸の後にサァッとカーテンを両手で一気に左右へと広げた。途端に薄い窓硝子の向こう側からは目が潰されるのでは、と思うくらいの強い陽射しが流れ込んできた。反射的に瞼を下ろし、加えて右手を庇代わりにしてまともに光を浴びることを回避した彼だったが、指の隙間から覗く光景に息を呑んだ。
 晴れている。
 裾を掴んだままだったカーテンを放し、フック形式の鍵を外して窓を押し開く。すんなりと真ん中から左右へ別れて広がった窓枠の向こうから、改めて眩しい光が彼にお辞儀をした。
 昨日まで視界の端から端までを覆い尽くしていた重苦しい色をした雲の姿は、もう何処を探しても見付かりそうにない。思わず身を乗り出した彼の頬を、薄緑色の香りを乗せた柔らかな風が撫でていく。寝癖で少しばかり潰れ気味になっていた前髪がふわり、と浮き上がった。
「晴れたのか」
 見れば誰であっても分かる、そして彼自身も既に分かり切っている結論を改めて口に出して呟き、なかなか出てこなかった実感を肌で受け止める。言葉にして余計に強く感じた久方ぶりの晴天という環境に、無意識に表情が緩んだ。
 雨は嫌いだ、じめじめするから。
 その嫌いな雨が今回、三日間も降り続けていた。空はどんよりと湿って重く、空気も冷える上にどこか生臭い。そういう季節だから仕方がないと言えばそれまでだが、三日も同じ天候で過ごさねばならない事はかなりのストレスだった。
 しかも洗濯物も外に干すわけにはいかなくて、ついにはリビングにまで物干し用の綱が登場した昨日はもう、彼の機嫌は限界に達しようとしていた。天気予報の言い分では昨日の段階で晴れていなければならなかったのに、それが見事に外れてしまって本気で苦情の電話を入れてやろうかと思っていたくらいだ。
 これで明日晴れなければホワイトランドに直訴に行くぞ、と息巻いて眠りに就いた事を思い出す。そんなはた迷惑な苦情を受け止めたのか、本日は見事な快晴。流れていく雲も真っ白で、視界を下へ映せば早朝から活動を開始していたらしい狼男が一所懸命に雲と同色のシーツを広げているところだった。
 ああ、晴れ渡る空って気持ちがいい。
 再度風を感じて伸びをした彼に、下から声が掛けられる。
「ユーリ、朝ご飯出来てるっス」
「分かった、直ぐに支度をする」
 口元にやった手を拡声器代わりにしたアッシュへ言葉を返し、窓から顔を引っ込めたユーリは身に纏っていたパジャマの釦を外しながら、昨夜用意して置いた着替えを手に取った。
 開け放たれたままの窓からは涼しい風が程々に流れ込んでくる。揺らめくカーテンが縁取る蒼の世界に、ふと、白いなにかが通り過ぎていった。
 空高く流れていくそれは直ぐに視界から消え去った。首を捻るユーリの耳に、遠くから、アッシュがもうひとりの同居人を呼ぶ声が聞こえた。
 暫く待ってみたがもうあの白い存在は戻って来る様子が無く、ユーリは一息ついた後着替えを再開させる。そして上下共に普段着を纏い終わる頃にはすっかり、蒼の中へ吸い込まれていった白い影の行方もすっかり頭から抜け落ちていた。

 縦に細長いテーブルでひとり、静かに朝食を片付ける。他の面々は既に食事を終えているようで、それを証明するかのようにユーリが座席に着くのとほぼ同時刻に、正面玄関を飾る巨大な柱時計が午後十時の鐘を鳴り響かせていた。
 耳の奧にまで反響してくるその音色を聴きながら、彼は自席に腰を落ち着けると銀色の底深い皿に盛りつけられたパンをひとつ手に取った。ひとり分のサイズに切り分けられたフランスパンを千切り、口に運ぶに適したサイズにしてからマーガリンを端に乗せる。
 他には青野菜を中心にしたサラダ、カリカリに焼いたベーコンに半熟卵、兔の形にカットされた林檎が皿の上を所狭しと飾っていた。本当ならばもっとボリュームが感じられたのであろうが、生憎と先客が半分以上の量を片付けてくれたようでユーリが目に出来たのは本当に残り物に等しい。
 吐息を零しながらフランスパンにかじり付き、ユーリは視線を巡らせた。
 リビングと繋がっている食堂は無駄に広い。そのだだっ広い空間に今、ユーリはひとりきりだった。
 アッシュは未だ洗濯物と悪戦苦闘している最中である。三日続きの雨で溜まりに溜まった汚れ物を乾かす千載一遇のチャンスを逃すわけには行かないと、彼は朝から庭と洗濯機が置かれている裏庭の庇の下を何度も往復していた。その証拠に、普段は余裕がある物干し竿が今は真っ白なシーツや、城の住人が出した汚れ物に占拠されてまったく隙間が見当たらない。
 しかもそのうちの大半が、雨の中でも平気で外出を繰り返していたとある人物の所持物だった。傘を持って出かけたはずなのに帰宅時には何故か手ぶらで、頭から雨水を垂らすような状況をこの二日ばかり繰り返していた張本人は、まるで反省の色を感じさせぬまま今も、庭を望むリビングの窓辺に腰を下ろしている。
 噛み砕いたパンをトマトジュースで嚥下したユーリは、何気なくその背中を見つめた。
 ユーリが食堂へ出向く為にリビングを素通りした時も、彼は振り返らなかった。両手を後ろに置き、窓辺に腰掛けて両足を庭へと投げ出している。特に何をするわけでもなく、ブラブラと手持ち無沙汰の様相で庭を、敢えて言うなら忙しなく動き回るアッシュを眺めているだけの彼。
 一体何が楽しいのかさっぱり分からないまま、ユーリは遅い朝食を平らげていった。
 少々青臭いサラダに眉根を僅かに顰めつつも、数回咀嚼して唾と一緒に呑み込む。上下する喉が収まった頃にふと視線を感じた気がして顔を上げると、片隅で手持ち無沙汰にしている彼の姿がそこにあった。
 先程までとなんら変化していないように見えるのに、彼の周りにあった空気が変化しているように感じる。何が変わったのだろう、と首を捻りながらユーリはそのまま彼の、その位置からかろうじて見える背中を眺める事にした。
 渇いた喉をジュースで潤し、濡れた唇を指先で弾く。赤みを帯びた舌先で残っていた湿り気を拭うと、不意に彼が振り返った。
 左側を真っ白の包帯で包み隠した蒼く塗られた顔がユーリの脇を通り抜け、別の場所へと向けられた。
 まったくもって、其処に座っているユーリを無視した視線のやり方だった。
 思わずむっとしてしまったユーリに気付く素振りもなく、彼は漸く洗濯物の始末をつけたアッシュへと二言三言、声を投げかけた。空っぽになった洗濯かごを両手に抱き込んで通りがかっていたアッシュは、食堂のテーブルに向き合ったままのユーリの傍らをすり抜けてリビングへ出向き、わざわざ彼の隣にまで出向いて腰を屈めながら窓際で動かない彼になにやら言葉を返している。
 彼は笑い、つられるようにしてアッシュも困ったような、けれど楽しそうな笑顔を表面に形作った。彼らの語り合う言葉の中身は、壁を隔てていないのに関わらず遠い世界の果てに追いやられた錯覚に陥っているユーリにまで届かない。
 それが何故か癪に障り、ユーリは右手に握っていたフォークを勢い良く皿に残っていたベーコンへ突き立てた。罪のないベーコンは反動で端を僅かに持ち上げたものの、直ぐにへたりと平らになって抵抗の意志無しを表明する。
 白旗を早々に上げたベーコンを口に運んで乱暴に歯で引きちぎり、ユーリは荒っぽく噛み砕く。ガシャンガシャンと食器が擦れあって不協和音を奏でて彼の仕草を非難するが、咎めるべきアッシュも今はその様に気付かなかった。
 折角三日ぶりに晴れたというのに、目覚めてすぐのあの爽快感を見失ったユーリは苛々とした気持ちを隠さないまま、朝食を終えた。
 そんな彼の様子をこっそりと、そうと知られないように窺っていた彼――スマイルは密かに溜息を零して、アッシュに目配せをしながら肩を竦めた。
 傍観者の立場に回る事に決めたアッシュは、そんな態度しか取らないスマイルに苦笑し、程々にしておくように釘を刺して立ち上がり、残る仕事を片付けるために足早に去っていった。残された彼がアッシュを見送る側で、ユーリはやはり眉間に皺を寄せたままフォークの先端で皿の表面を削っており、離れたこの場所まで低く響いてくる音に嘆息したスマイルは更に肩を竦め、そして些か自嘲気味に微笑んだ。
 そのまま視線を持ち上げ、窓から覗く空を見つめる。
 晴れ渡った空は相変わらず、心地よい風を吹かせながらそこに広がっていた。

   一点の曇りもない空は何処までも高く、澄み渡っているから。

「ユーリ」
 えへへ、と彼が笑った。
 側に近付くと、彼はそれが余程嬉しいのか表情を隠そうともせずに隻眼を細め、窓枠の外へと投げ出した両足をばたばたと揺らした。地上部分と城内の床との、三十センチほどある落差の間で両足を子供のように動かす彼に呆れかえり、あと数歩で真横に到達できる位置で立ち止まったユーリはその位置で自分の腰に右手を添えた。
 もうそれ以上近付く様子がないユーリを首から上だけ降り仰ぐことで確認したスマイルは、若干つまらなさそうに唇を歪める。けれど立ち入った事にまで言葉を差し向ける真似はせず、ユーリが伸ばせば手が触れる位置まで来ないことを了解したようであった。
 ぷらん、と投げ出された右足が宙を舞ってまた落ちる。彼は靴を履いていなかった。
 素足がズボンの裾から覗いている。さすがに足先まで包帯でくるむのは面倒だったのだろうか。しかし見たところ、今のスマイルは左目以外の箇所を包帯で隠していないようだった。それは別段珍しいことではなく、城から出る事のない休暇などはいつもこの調子だ。単に本当に面倒なだけか、それとも城で共同生活を送る仲間には隠す必要がないと考えているのか。
 スマイルの本心は、未だに掴み所が無い部分を彷徨っている。
「ユーリ?」
「なんだ」
 ぼんやりしてしまっていたのだろう、スマイルが下から声を投げかけてきてユーリはぶっきらぼうに問い返した。
 しかしスマイルは彼の名前を呼んだ事に特別な理由があったわけではないようで、ユーリもその事は分かり切っていた。それでも問わずにいられなかったのは条件反射としか言いようが無く、返答に窮して黙ってしまった彼に、ユーリは申し訳なかったかと密かに嘆息した。
 気配でユーリが困っている事を察したのだろう、スマイルがふっと微笑んだ。
 投げ出していた足を引き戻し、きちんと窓辺に座り直して姿勢を正す。ぽんぽんと自分のすぐ横の床を右手で叩き、促すような視線をユーリに向けた。
 ここの至ってようやく、ユーリは其処に座るように言われている事に気付いた。
 数瞬迷った後、結局言われるがままにユーリは彼の隣に腰を下ろしていた。ただ開いている窓の幅では自分が座るのに若干狭すぎて、仕方なく膝を折る前にガラス窓を横にスライドさせる必要があったが。そうやって視線を落としながら座ろうとしたユーリの足許付近に、隠れるようにしてスマイルが履いていたのであろう靴が見えた。
 踵が潰されているスニーカーは白いはずの爪先部分が泥にまみれている。よくよく視界を巡らせて庭を見据えれば、緑色を濃くしている芝の下はたっぷりと雨水を吸い込んだ土がかなりの度合いで、ぬかるんでいるようだった。
 遠目には気付きにくかったが、今庭に降り立てばもれなく靴裏が泥に沈む事だろう。既に早朝の段階でそれを実践したらしいスマイルの横顔を窺うと、彼はユーリの思考などまったく感知しない場所に意識を置いているようだった。
 丹朱色の隻眼を細め、眩しそうに庭木の頭上高くまで登っている太陽を見上げている。
 ふわりと吹き込んできた風がお互いの前髪を擽り、揺らして去っていく。風の妖精にからかわれたような錯覚に陥り、方向を違えてしまった前髪を指先で弄っていると不意に、ユーリは真横で動く気配に気付いてびくりと肩を硬直させてしまった。
 なんだろう、と恐る恐る強張った表情を戻しつつ傍らを覗き見ると、そこには不思議そうにしたスマイルが居て、自分が意識せぬままに緊張してしまっているのだと今更ユーリは思い知った。
 そんな必要など、どこにもないはずなのに。我ながらガラにもない事をすべきではないと肩を落として溜息をついている間に、スマイルの意識はまた別の方向へ向いてしまったらしい。気付けばもう彼はユーリを見ていなくて、彼の視線の先へと目をやったユーリはそこに、澄み渡る真っ青な空を見つけた。
 なんの変哲もない、代わり映えのしない青空、それだけだ。
 だのにスマイルは随分と熱心に見上げている。首が疲れないのかと心配してしまいそうなくらいに急角度で、庭木の間から頭上に真っ直ぐ広がる蒼いキャンパスを片方だけの瞳に収めようとしている。つられるように青空へ視線を戻したユーリは、その中にぽっかりと浮かんだ真っ白な雲に気付いた。
 上空では地上よりも強い風が吹き抜いているのだろうか、若干速い速度で流されているそれをどうやら、スマイルは見つめているらしかった。
 雨上がりの空はどこまでも澄み渡っている。普段よりも青色が濃く感じられるのは、雨で上空に蓄積されていた不純物や化学物質が地上へ流されるからだ、とも言う。
 だから三日ぶりの晴天を迎えた今日の空は、いつもよりずっと高く、澄んでいる。
 ふたり、暫くそうやって言葉を交わしあうことも忘れて空を見上げていた。いつの間にかユーリの姿勢は楽なのか右足を上にして組まれ、突出した膝の上に左の肘が乗り頬杖を付いていた。指を曲げて作られた関節上の段に顎を置き、やや顔の角度を斜めにすれば見上げた先に空が映る。
 青と白のコントラストが美しい世界を堪能する事に夢中になっていたユーリは、しかし傍らで細かく肩を動かすスマイルを思い出して怪訝そうに眉根を寄せた。数分は無視を続けるものの、どうしても気になって目線だけを横に流す。
 きちんと揃えられた両膝の上で、スマイルは何処から取りだしたのか色紙を折り畳んでいた。
 黄檗色の、正方形をした紙の角を揃え、しっかりと折り目を付けながらある形に仕上げていく。手慣れているようで、けれど慎重さを欠かない指先の動きにユーリは顔を顰めたまま声を掛けることも忘れ、じっとスマイルの手元に見入ってしまった。
 簡単な折り方だった。さほど苦労する事無く、スマイルの手先は正方形の薄っぺらい紙を立体に作り替える。先端を尖らせ双翼を持ったそれは、紙飛行機。
「完成」
 何が出来上がるのか楽しみにしていたユーリは、できあがりの品を見てなんだ、と溜息をついた。それこそスマイルがむっ、と片眉を持ち上げるくらいにあからさまに。
「紙飛行機程度で、何を嬉しそうに」
「そんなこと言うんだったら、ユーリも作ってみれば?」
 はい、と言いながらスマイルは新しい折り紙をユーリへと差し出した。新緑に似た濃い緑色をした紙を反射的に受け取ってしまい、先程の売り言葉の手前から引っ込みがつかなくなった彼は仕方なく膝の上にそれを置いた。
 スマイルが折っていた順番を思い出しつつ、自分なりに紙飛行機を作っていく。
 そうやって完成した紙飛行機は、確かにユーリの中ではスマイルと同じ手順で作ったはずなのに何故か随分と形も歪で、どう見ても同じ作品とは言い難いものになっていた。だけれど、見た目だけで飛ぶか飛ばないかを判断出来ないとユーリは笑おうとするスマイルを睨み、窓の真下にある石段の上にひょいっと軽い調子で降り立った。
 澄み切った空を見上げ、深呼吸をひとつ。
 自分で作った濃緑の紙飛行機を右手に構え持ち、肘を引き気味にして手首を前に投げ出すように捻った。
 ユーリの手を放れた紙飛行機は最初こそ、庭先で踊る風に乗ったらしく順調に宙を舞った。
 しかしそれも数瞬の事で、やがて空中でバランスを崩したユーリ号はふらふらと不安定に左右へ揺れたあと、呆気ないほどにぽとりとぬかるんだ庭先へ落下した。先端から落下したため、奇妙な感じで地面に直撃した後ぱたりと横に倒れ込む。その際、尖っている部分が拉げて折れ曲がる様がかろうじて見えた。
「あ~あぁ、残念」
 カラカラと笑いながらスマイルが窓辺に座ったままぱたぱたと足を揺らす。心底楽しげなその笑い顔に怒りを覚え、無意識に両の拳を握りしめたユーリは上半身を彼へ向けて目尻をつり上げた。
「笑うな。そこまで笑うくらいなら、さぞかしよく飛ぶ飛行機なのだろうな、貴様のそれは!」
 仁王立ちになったユーリが身体ごと振り返って、スマイルの膝の上で小さくなっている紙飛行機を指さした。槍玉に挙げられたそれは当人にとっては何処吹く風で澄まし顔をしていたが、スマイルがひょいっと摘み上げると途端に得意顔になる。
 ユーリが睨む前でスマイルは立ち上がり、脱いでいた靴に爪先を突っ込んだ。そして自然な動作で構えを作ると、スッと流れる動作で黄檗色の紙飛行機を空へと投げ放つ。
 まるで待ちかまえていたかのように、それはふわりと風に乗って空へ舞い上がった。
 真っ青な世界に異質なように見えるはずだった、黄檗色の紙飛行機。
 だけれど意外なまでにそれは空と雲の色に解け合い、コントラストを描き出していた。輪郭をはっきりと際立たせる色使いに、スラッとしたフォルムが天を駈ける。
「あ……」
 ぽかんと口を半開きにしたユーリが、どんどんと風に乗って上空高く駆け上っていくそれを見送った。偶然も重なっているのだろうが、スマイルの手から放たれた紙飛行機はどんどんと高度を上げて行く。そしてやがて、ユーリの部屋がある三階にまで到達した。
 はっと、ユーリは目を見開き真横でどこまでも飛んでいく紙飛行機を見上げているスマイルの横顔を見た。彼の位置からではスマイルの唯一の瞳は見えなかったが、やがてユーリの視線に気付いた彼はゆっくりと振り返り「なに?」と首を傾けた。
 純粋に問いかけてくる瞳を見返しながら、ユーリは深く息を吸って、そして吐いた。
 目覚めて直ぐ、窓の外を駆け上っていって消えた白い影。
 あれは、恐らく。
「ずっと飛ばしていたのか?」
 真正面から構えも無しに問いかければ、スマイルは一瞬毒気を抜かれた顔をしてそれから、困ったように頬を指先で引っ掻いた。
「う~ん、まぁ……それなりには」
 暇だったから色々と折り方を試しつつ、沢山飛ばしていたのだと彼は言った。言いにくそうに、視線を空の彼方へと彷徨わせながら決してユーリと目線を合わせず。
 けれどその仕草が何故か可笑しくて、ユーリはスマイルに詰め寄ったまま表情を緩めた。
「良く飛んでいたな」
 あれと同じくらいに、とユーリがスマイルから視線をずらして空を見上げる。風に流されてしまったのか、黄檗色の紙飛行機は彼らの視界からはみ出してどこかへ姿を消してしまっていたが。
 ユーリは庭へと降り立った。水気を含んだ芝生の間を抜け、泥にまみれてしまっている自分の紙飛行機を拾い上げる。そして折れ曲がり、湿って拉げてしまった翼部分に手を添える。
 飛ばなかった紙飛行機。同じに作ったつもりだったのに、どこで違ってしまったのだろう。
 考えてみても答えは見付からず、翼部分を撫でていると横からスマイルの手が伸びてきた。
「教えてあげよっか? 紙飛行機の作り方」
 折角晴れたのだし、この高い空に飛び交う紙飛行機を一緒に作ろうか。
 そんな事を嘯いて、彼は間近で目を細めて笑った。
 ユーリは一旦スマイルへ視線を向け、それから手元の紙飛行機を見つめた。歪んでしまった先端を伸ばし、指先についた泥を擦って落とす。
 飛べなかった紙飛行機。無機質な紙のそれが悔しげに見えるのは、決して気のせいではないだろう。
 ユーリは黙って頷いた。気配でスマイルが笑ったのを察し、彼の思うとおりに動いている自分を思って肩を竦める。
 だが偶には、そう、悪くない。
 不遜に笑っていると、急に視界が翳った。なんだろう、と思う間もなく吐息が鼻先を掠める。
 瞬きをする直前に触れた感触は、閉じた瞼を開いた時にはもう過ぎ去ったあとだった。
 驚きで思考が麻痺したまま目線を持ち上げれば、至極楽しそうに微笑むスマイルが居る。
「講習費、先払いってコトでヨロシク」
 惚けてままのユーリから潰れた紙飛行機をかすめ取り、目線の高さに持ち上げて角度を変えながら眺めて彼はそんなことを言った。それから五秒後、漸く意識を取り戻したユーリが耳まで真っ赤に染めながら肩を戦慄かせる。
「スマイル!」
「あ~、ココが変に曲がっちゃってるのが良くないんだよ。あと翼の形?」
 振り下ろされたユーリの拳をすいっと躱しても、スマイルは視線を紙飛行機から外さない。隻眼のくせに後ろにも目があるのではないのかと疑いたくなるような動きに、ユーリは悔しそうに歯ぎしりをした。
 今度は飛行機を奪い返そうと腕を伸ばすものの、これもあっさりと回避されてしまう。しかも身体を捻ろうとしたときに右足がぬかるみに滑り、前へつんのめってしまった。
「うわっ!」
「ユーリ!」
 咄嗟に両腕を空中に解放する。藻掻くように動かした指先がスマイルの上着に引っ掛かり、ユーリを支えようと動いていた彼は思いがけない方向から受けた引力によって同じようにバランスを崩した。
 ふたり揃って、ぬかるんだ芝の上に絡まって転がり落ちる。跳ねた泥水がスマイルの包帯を汚した。
 ユーリを抱えるために放り出された紙飛行機は、今度こそ空へ舞い上がらず地面にキスを繰り返す。背中一面に冷たい感触を受け止めたスマイルは、胸の上で抱き込んだユーリが無事な事だけを確認してひとまず安堵の息をもらした。
 じわりと着ているシャツが水気を吸い上げていくのが分かる。肌に貼り付く感触は正直気持ちの良いものではなかったが、スマイルは暫くそのまま動こうとしなかった。
 抱きしめられているユーリが身動ぎし、真下になっているスマイルの顔を見つめる。
「放せ」
「ヤダ」
「どうして」
 胸に置いた手を引き抜いて楽な姿勢を作ったものの、未だに抜け出せないで居る彼の胸元で居心地悪げに身体を揺らす彼に、スマイルは舌を出して拒否を表明する。理由を問われると、急に神妙な顔をして丹朱の隻眼を空へ投げかけた。
 真っ直ぐに見上げれば、その先は澄み渡る晴天。
「そうだねぇ……」
 さして深く考えた様子もなく、彼は呟く。ぎゅっと、ユーリを抱き込める腕に力を込めて。
「今は、敢えて理由を言うなら」
 空が高いから、かな。
 そんな意味の通じない事を言って彼は笑う。
「理由になっていないぞ」
「うん、そうだね」
 ふてくされたようにユーリは言った。しかしもう、スマイルの拘束から逃れようとはしなかった。
 ただ彼の胸に頬を預け、無意識に紅潮し始めている顔を隠すのに必死だったから。