Sunset March

ひーひーと、汗だくになって息を乱す声をカラカラと笑う。後ろ向きに座っている所為で、遠ざかる景色が足許に沈んでいくのを面白そうに眺めたユーリは、背中越しに聞こえてくる運転手にしっかりしろ、と素っ気なく味気ない声援を送る。
 夕焼けが間近に迫っていた。アスファルトの地面に伸びる影が徐々に長くなっていく。
「急げよ」
「だったら、降りてよね」
 恨めしげに深呼吸の合間を縫って吐きだした彼の台詞に、もっともだと頷いてもユーリは座席から降りようとしなかった。
 太い金棒を組み合わせた後ろ座席は決して乗り心地も良いものではなかったが、後ろに流れていく景色は、そう棄てたものではない。両脚を交互に前後へ揺らして、本来は荷台であるその座席を構成している細い銀の金棒に指を絡ませる。握って、落ちぬように身体を縛り付け背筋を伸ばした。
 耳には、喧しいばかりの運転手の息切れが止まない。目を閉じ、ユーリはスマイルの呼吸音を聴覚から排除させてそれ以外の音を拾うことに集中した。
 脇を走り抜けていく車の排気音も無視する。残ったのは、空を駆ける風の声や沈もうとしている太陽に追いすがる雲の流れ。昼に別れを告げて夜を招く木々のざわめき、ねぐらへ急ぐ鳥のさえずり。
「ユーリ、もう無理」
 腰を浮かせて前傾姿勢をとり続けていたスマイルが、ついに力尽きたらしく情けない声を上げてブレーキを握った。新品の自転車は、多少油臭い匂いを残して坂道の途中で停止する。
 長くなった影が下の方にまで伸び、坂の終わりまであと少しという距離をそれ以上のものに感じ取らせていた。
 頂上を仰ぐ。目指す目的地まで残り僅かだが、遙か遠方に小さく霞んでいる街中からここまで、ユーリを後ろに乗せてひたすら漕ぎ続けてきていたスマイルも、これが限界だろう。肩を竦め、ユーリは自転車に凭れ掛かり肩で息をしている彼を見つめた。
「ご苦労」
「疲れたー」
 ねぎらいのことばをかけてやった途端、スマイルは大声を上げて反り返った。スタンドを立てていない自転車が倒れぬよう、片腕だけはしっかりとハンドルを握っていたままだったが、唐突に胸を反らせたスマイルの動きに、ユーリは目を見張る。
 彼の手前で、スマイルはしかしすぐにまたハンドルに額を擦りつけ、ぐったりとしてしまう。
 いったい何だったのか、と訝むユーリの頬を影が掠めた。
 頭上を仰ぐと、それはどうやら鳥の影だったらしい。西日に向かって悠然と翼を広げて滑空する姿が、朱色に染まる空にぽっかりと浮かんで見えた。
 目的地は、この長く厳しい坂を上りきった先にある。
「行くぞ、間に合わなくなる」
「じゃー、今度はユーリが漕いで」
「乗ってみたいのか?」
「モチ、冗談デス」
 昼間散々自転車に乗ろうとして転び、真新しいフレームをあちこち曲げて、壊して、ついに廃車にしてしまったのは他でもないユーリだ。
 雲が棚引いている。細切れの鰯雲が整然と列を成して西に向けて泳いでいるようにも映る。
 スマイルはハンドルを握り直すと、乗ろうか乗るまいか一瞬悩んで結局決め倦ね、傍らのユーリを盗み見た。気付いたユーリが、少々むっとした顔をして頬を膨らませる。
「なんだ?」
「や、まだ乗りたい?」
 後ろに。
 言い切れなかったスマイルの呟きを察して、ああ、とユーリは相槌を返した。
「乗って欲しいのか?」
「そりゃあもう、ユーリが乗りたいのなら」
 ばしばしとサドルを叩いて残り少ないはずの体力を絞り出す覚悟を決めたスマイルを、ユーリは薄い笑みで弾き飛ばした。どう考えても、今のへろへろになっている彼とふたり乗りをするくらいなら、並列になって自転車を押しながら歩く方が早い。
 間もなく日が沈む、それまでには間に合わせなければならない。でなければ、わざわざ遠出までして、しかも自転車で、此処に来た意味がなくなる。
「それは、帰り道に残して置いてやる」
 坂を上りきれば、次に待っているのは下り。ペダルを力いっぱいに漕ぐ必要もなくなるはず。
 笑いかけて言うと、スマイルは明らかに安堵の表情を浮かべて頷いた。分かった、と見ている方が癪に障るくらいに満面の笑みで答えられ、少々ユーリは不機嫌になりかけた。
 そうしている間にもふたりは歩き続ける。影が長引く、東の空から徐々に空気は冷え、紫紺が広がりつつあった。
 あと一時間もすれば世界は闇に堕ちるだろう。目的地までは、もうちょっと。
 長く熱の籠もった息を吐き出す。買ったばかりなのに既にタイヤが擦り切れ始めている自転車を押して、スマイルは坂の上にようやく見え始めた石壁に目を細めた。
 西日が眩しい。ユーリも同様に瞳を細めて手を庇代わりに使い、一歩一歩進むたびに息を吸っては、吐くを繰り返す。
 そうしてやっと、目指した場所への到達を果たした。
 それは小高い丘の頂上を切り崩して平らに均した、小さな公園。飾り気のあるものは一切設置されていない、ベンチがみっつ東南北に置かれているだけの、質素で簡素な広場と呼ぶにも呼べそうにない狭い平地だった。
 長い坂道を抜けて辿り着いた先は思いの外寂しげで、さびれた感じが否めない。白く塗られたペンキも剥げ掛かっている門代わりの柵を抜け、中に入ったスマイルは入り口脇へ自転車を停めた。
 銀色のフレームが、西日を浴びてキラキラと、いっそ眩しすぎるくらいに輝いている。夕焼け色を受け、仄かに赤色に染まって見えた。
「到着~」
 お疲れさまでした、と今度はスマイルがユーリをねぎらって笑う。多少体力は回復しているようで、浮いていた汗を右の袖で拭った彼はまだ慣れない自転車の鍵を掛けるとそれをお手玉の要領で左手に飛ばして握らせた。
 地を蹴って、まだ彼よりも道路に近い場所に立ち惚けているユーリから距離を取る。
「ユーリ」
 手招きをして名前を呼び、彼はさっさとほぼ正方形に近い形をしている公園の西側に歩み寄った。そこだけはベンチが無く、視界を遮るものも置かれていない。腰丈の柵が続くだけの開けた場所は、ここが夕日を見送るためだけに用意された場所なのだと無言のうちに教えてくれた。
 地元では密かな人気スポットだという。今日はたまたま先客が無かったが、普段は夢見がちな恋人たちが、愛を語り合う場に利用しているとあとから聞いた。
 行ってみようか、と誘ったのはスマイル。自転車を買いに出た街で、その帰りに不意に思い出したらしい彼のことばに何故頷いたのか、ユーリは今でも良く解らない。
 ただ、乗ってみたかったのだ。真新しい自転車に乗って、彼と一緒にどこかへ行ってみたかっただけなのだと思う。
 最初のきっかけは、アッシュが個人で出演した番組で彼が獲得してきた景品の中にあった、真っ赤なスポーツタイプの自転車だった。

■■■

「なんだこれは」
 玄関に陳列された段ボール箱を見たユーリの第一声は、それ。
「えーっと、景品っス……この前出た番組の」
 箱の影から顔を出したアッシュが申し訳なさそうに耳を垂れて答え、積み重ねられていたうちのひとつを抱え上げた。よいしょ、と小さな掛け声をあげて腰に力を込めて持ち上げる。どうやら自室に運び込むらしい。
 箱は合計してふたつ。それから、箱に収まりきらない形状をしたものが、ひとつ。
 どういう番組に出演していたのだろうか、彼は。まさかギャラ代わりに物品で支給されたのではないだろうな、と怪しむユーリの脇を、せっせとアッシュが肉体労働宜しく歩いていった。
 一応ラッピング紛いの事はされていたらしい、リボンを巻かれ細かいパーツは取り外されて尖っている部分には防御用で段ボールが巻かれているそれに近付いてユーリは顔を顰めさせた。
 ふわりと空気が泳ぎ、耳に付く笑い声が間近に聞こえた。
「ドシタノ?」
 ユーリの声を聞きつけたらしいスマイルが、唐突に背後から姿を現して彼の斜め後ろに着地した。ユーリではないが背中に羽根でもありそうな軽い仕草で両脚を揃え、つと進みユーリが声を挟む前に残された箱の向こう側へ回り込む。
 そうすれば必然的に、ふたりの視線は向き合う格好になって、頭の上で焦げた螺旋を作ったユーリは半ば八つ当たりで床の上の箱を蹴り飛ばした。
 階段を下りてきたアッシュが目聡く気付き、短い悲鳴を上げて慌てて駆け込んできたのには揃って苦笑いをするしかない。
「何、コレ」
「出演料……みたいなものっス」
 やはり現品支給だったのか、と心の中で嘆息したユーリを無視してスマイルはアッシュを見返す。小首を傾げ、少々不思議そうに。
「それで、自転車?」
「スマイル、欲しいっスか?」
「なんで?」
 真っ赤にペイントされているそれは、小さいながらもブランドロゴがしっかりと入っている高価なものだと容易に知れた。乗る、という本来の目的として使用するよりも、飾って楽しむをコンセプトにしているのではないかと感じられる。
 無論、ちゃんと乗って走る事も出来るはずだが。
 問いかけに問い返され、更に尋ね返したスマイルへ向けアッシュは頭を掻き、軽く膝を曲げて残っている角が多少へこんでしまっていた箱に両腕を伸ばした。
 持ち上げると、がたごとと中身が揺れて音がする。
「だって俺、乗らないっスから」
 アッシュには車がある。食材をまとめ買いして経費を浮かせる事に命を懸けていると言っても過言ではない彼には、自転車では少々役不足なのだ。
 どうも、これだけは彼の希望していたものとは違ったらしい。だが折角受け取った以上は、使ってやらないと勿体ない。そこでアッシュが白羽の矢を立てたのが、大抵のものは器用にこなしてしまうスマイル。当然自転車もお茶の子さいさい。
「え~? ま、くれるのなら貰うけど」
 断る理由は特に思い当たらない。使用頻度は低そうだが、何かの折りに活躍させてやる日も来るだろう。最初は不満そうにしていたものの、終わりの方はそこそこ嬉しそうな顔をしてスマイルは軽い調子で、まだ油が馴染みきっていない自転車のハンドルを数回叩いた。
 そして、さっきからずっと黙ったままでいるユーリを見る。
「て、言うか。アッシュ君はどうしてユーリに譲ろうという選択肢を取らなかったワケ?」
 これはある種、かなりの意地悪だ。喉の奥を鳴らして笑ったスマイルを恨めしげに見つめ、アッシュは自分へ流れてきたユーリの視線にことばを濁す。宙を漂った視線が天井をしつこく嘗め回し、その間にスマイルは自転車を覆う保護材を外していった。
「アッシュ?」
 要らないものなら誰に贈っても同じはず。しかしアッシュはスマイルにだけ尋ね、ユーリは最初から居なかったように扱っていた。不満を感じていたらしいユーリの、若干棘のある呼び声に狼犬はびくりと身を竦ませた。
 外されていたペダルを填め込んだスマイルが、しゃがみ込んでチェーンの具合を確かめながら何度か手で回している。
「だ、だって……ユーリ」
 ちょんちょん、と胸の前で左右の人差し指先端を突き合わせたアッシュが上目遣い、に本人はしたいのだろうけれど身長差の所為でそうはならなかった目つきでユーリを見る。僅かに口ごもって、言い淀んでいると余計に睨みを利かされて、仕方なく言いたくなかった台詞を音に乗せる。
「ユーリ、自転車乗れない……っスよ、ね……?」
 段々と語尾が弱々しくなっていく。最終的には殆ど音になっておらず、無理に作った愛想笑いも強張っていて完全に逃げ腰になっていた。
 スマイルがケタケタと笑う。
 そう、ユーリは自転車に乗れない。自転車どころか、スマイルのバイク、アッシュの車の運転さえ真似できない。彼は自力で移動するには歩くか、羽根を広げて飛ぶしかなくてそれ以外は公共の交通機関を利用するしかなかった。
 だからアッシュの車が車検に出されている時などは、最悪という他無く。結局レンタカーを用意立ててなんとか凌いだけれど、その短期間は移動範囲がかなり狭められて苦労させられたものだ。
 アッシュとしては莫迦にしたつもりはないのだろうけれど、ユーリからすれば感じ方は勿論違うわけで。見る間に顔を赤くして目尻をつり上げていく彼の変貌ぶりを目の当たりにし、アッシュはひっ、と短く息を吸っての悲鳴をあげた。
 自転車の具合を確かめていたスマイルだけが、頭上に展開されている修羅場を飄々とした態度で素知らぬ振りを通しきるつもりらしい。音にならない口笛を奏で、チェーンにこびり付いたままだった油の付着した指を、もとはペダルを防護していた段ボールのきわに擦りつける。
「スマイル!」
 だ、が。
 耳をつんざくような怒号を上げたユーリが呼んだ名前はアッシュではなく、無関係を装いたがっているスマイルの方だった。
 はい? と完全に不意を突かれたスマイルは、素っ頓狂な声を出して膝を折ったまま彼を見上げた。見開かれた目が現状を予想外だったと訴えかけていて、反対にアッシュは人知れず胸をなで下ろしていた。
 ユーリのこめかみに青筋が浮かんで見える。下手な事を言ったのでは彼を余計に怒らせるだけに違いない、一瞬間があったもののすぐに頭を切り換えさせたスマイルはそう判断して、口の中にあった唾を飲み込んだ。
「ナニ?」
 出来る限り穏やかに、彼の神経を逆撫でしないように心配って問いかける。小首を傾げて。
 するとユーリは一呼吸置いて、びしっと、スマイルがさっきまでしきりに触っていた真っ赤なシティバイクを指さした。振り返った先で、既にそそくさと逃げの姿勢に入っていたアッシュを睨みだけで掴まえ、肩を怒らせる。
「これは、スマイルが要らぬと言えば私が引き受けても構わぬという事だな!」
 語気が荒々しい。言い切ってからふん、と力強く鼻を鳴らした彼は、ビジュアルで売っているバンドリーダーとは少々信じがたい様になっていた。
 ああ、悔しいんだ。妙に冷めた場所から事の成り行きを見守っていたスマイルが、手元に回って停まったペダルを押してまた回転させる。
 カラカラと空回る自転車をじっくりと見上げ、これにユーリが跨って颯爽と街を駆け抜けていく様をスマイルは想像しようとした。
 しかし、無理だった。脳裏に図を描こうとした途端、現れたのは自転車ごと派手に転ぶ姿だったから。
「それ、は……スマが了解すれば、俺は構わないっスけど」
 ちらりと自転車の影に隠れているスマイルを見やり、アッシュがどもりながら答えると、ユーリは血走った目でスマイルを勢い良く振り返った。
 仕方なく、スマイルが立ち上がる。軽く曲げた膝で回り続けていたペダルを止めて、ハンドルとサドルに腕を置き体重を預けてみた。タイヤはしっかりしていて、これなら直ぐに運転しても問題無さそうだ。
「乗ってみる?」
 既に包装は全部外し終えていて、準備万端に整えられていた自転車を前にスマイルはケラケラと楽しげに笑って尋ねかけた。
 なにもそんなに煽らなくても、とアッシュははらはらした気分で交互にユーリとスマイルを見比べるが、スマイルはまったく気にしない。彼にしてみれば退屈がしのげればそれで良いらしく、滅多にお目にかかれない光景を少しでも楽しみたくて言っているだけなのだろう。
 小さくユーリが息を吐く。
「当たり前だ、私に出来ぬ事などない」
 胸を張って言い切った彼に、スマイルがおおーという歓声を上げてひとりだけ拍手を送る。後方で、アッシュが疲れた顔をしてがくりと肩を落としていた。
「俺、飯の仕度するっス……」
 運び損ねていた段ボールひとつを抱え、よぼよぼと頼りない足取りで彼は去っていった。手を振って見送るスマイルに気づいた様子もない。肩越しに見やったユーリは、彼が何をあんなに疲れているのか分からず首を捻った。
「そ~んじゃ、ぼくはコレ、庭に出してくるし」
 ユーリは先に着替えておいでね? と自転車のハンドルを握り直したスマイルがステップを倒す。またしてもユーリは不思議そうな顔をした。
「何故だ?」
「どうしてって……だって、その服」
 一部腿が隠れるくらいに裾の長いシャツを着て、靴も底が厚くスラックスも自転車を漕ぐには不適当な形状をしている。
「絡むよ?」
 下手をすればタイヤのホイールに巻き込まれる、だなんて事も考えられない事はなくて、いちいちスマイルの説明に得心顔で頷いて返すユーリは成る程、と呟いて顎を持った。
 しばらく考え込む。
「ならば、どういう服装が良いのだ?」
 問われ、スマイルは浮かべていた笑みを少々ひきつらせた。
 どうやらそんなところから始めなければならないらしい。これは考えた以上に難作業かもしれないな、と心の中で嘆息したスマイルは自転車を玄関ホール脇に避けるとユーリの手を引いて衣装室へ先に向かう事にした。
 素直にユーリは従い、動きやすさを追求したスマイルの衣装セッティングに多少文句をつけながらも手早く着替えていった。
 圧底靴は平底のスニーカーに、スラックスは汚れても平気そうな、やや草臥れた感じを出しているデニムに履き替える。シャツは脱いで色無地のTシャツを被り、その上から長袖の裾もカットされたシャツを羽織る。上下とも黒系の汚れが目立たない色を選択して、終了。目に掛かる前髪の長い部分はヘアピンで片方に寄せて留める事にした。
「出来上がり~」
 ふう、と一仕事やり終えた感のあるスマイルの吐息に苦笑し、ユーリは鏡の中の自分を見てみた。カジュアルすぎてどうにも違和感が残るが、色の選択は悪くなく特に問題も感じない。
 デニムはアッシュのものだったから、ウエストが余ってしまうのはご愛敬。ベルトでなんとか補整させて腰で締める。靴はユーリサイズにぴったりで、しかし久方ぶりに足を通したので具合を確かめつつ踵を何度か床に打ちつけた。
 スマイルはもとのまま、黒ジーンズに焦げ茶と淡い黄色のシャツ二枚重ねという出で立ちで先に立ち、玄関へと戻る。彼は自分が置いたときのまま玄関で寂しげにしている自転車を起こすと、ユーリに頼んで玄関の扉を開けさせた。
 観音開きの荘厳でご大層な扉が両側に開いていく。人ひとりを通しきる幅だけを作り出して扉は自然と停止し、ユーリがまず外に出て続いてスマイルと真っ赤な自転車が。外に出終わると同時に、扉はまたひとりでに閉ざされる。ご丁寧に、閂までかけられたらしく派手な音がした。
「んじゃま、始めましょうか」
 ちょいちょいと手招きをしてスマイルはユーリを呼ぶ。言われなくても傍に行って、改めて赤いフォルムで身を固めた自転車に目を落とした。
 限定生産の貴重ものである。部屋の一角に飾って観賞用にしても遜色なさそうなスタイルはシンプルで、洗練されたものを感じさせてくれる。だけれどユーリにとってはそんなことどうでも良くて、要は乗れさえすれば良い感覚でスマイルから渡されたハンドルを両手で握ってみた。
「行けそ?」
「無論」
 段差を降り、比較的なだらかで広い地面を選んでスマイルはユーリに自転車を完全に預けた。意気込んで、唾を飲んだユーリがひらりと身体を浮かせて自転車にまたがる。ぱさぱさと背中の羽根が空気抵抗を呼んだ。
「あ、言っておくけど羽根使うのは禁止だからね」
 羽根の動きでバランスを取っているらしいユーリに、数歩離れた場所から見守る体勢に入っていたスマイルが素早く茶々を入れる。
「ダメなのか?」
 片足をペダルに、片足を地面につけて若干右下がりにバランスを取っていたユーリが急に、不安そうな声を出して聞き返してきた。しかしスマイルはダメ、と首を横に振り続けるだけで彼は仕方なく、目を閉じると羽根に意識を集約させてその存在をしまい込んだ。
 背中が心細くなる。今まであった支えが無くなってしまって、突然重く感じられるようになった身体がガクン、と右側に強く傾いだ。
「あっ」
 スマイルが目を見張り、直後に広げた手で顔を覆った。指の隙間から視界は確保するものの、そこに転がっているのは自転車を下敷きにして倒れているユーリの格好悪い姿。
 想像は限りなく現実に近いものになったわけで、はああと盛大な溜息をつきスマイルは肩を竦めた。
 ユーリは何が起こったのか一瞬理解不能に陥ったようで、目をぱちくりさせてから自転車ごと勢い良く立ち上がり、またサドルにまたがってハンドルを握った。両脚を宙に浮かせる。
 ばたん。
 ペダルに足を置く前に、倒れた。
 またまたズボンや服に散った砂埃を払いもせずに起きあがり、今度こそと掛け声を出しながら自転車に乗ろうとする。
 ばたん。
 結果はさっきとまったく変わらず。
 ばたん。
 ばったん。
 ばたべきっ。
 果たして幾度か目の同じ光景の末、やや不吉な音が欠伸を零していたスマイルの耳に響き。
 泥まみれになったユーリが、やや茫然とした面持ちでもとの鮮やかな赤色が失われつつある自転車を見下ろしていた。スマイルも、自転車に目をやる。
 真っ直ぐだったはずのフレームが、妙なところで凹んでいた。
「……えーっと」
 背中に生暖かなものが流れていくのを感じ、スマイルは乾いた笑みを浮かべて頬を掻いた。ユーリが強張った表情で頬の筋肉をひくつかせ、どうにか笑おうとしている努力を感じさせていた。
 静まりかえった場の空気に、緩い風が流れていく。
「あ、あは、あははは……」
 普通に買えば、六桁を突破するはずの自転車だ。欲しくてもそう易々手に入るものではないし、欲しいと思っていても叶わず涙を呑んだ人だっているだろう。真っ赤な色地に黒抜きのロゴが入っている、ブランドものである。
 新品だった、今日届いたばかりだった。
 しかも人のものを、半ば強引に奪い取ったようなものを。
 空笑いを続けるユーリを遠くに見つめ、スマイルは深々と溜息を吐く。慌てたユーリは、ハンドルを握って左右に前輪を揺らした。多分まだ壊れたわけではないと、大丈夫だと証明したかったのだろうが。
 ばきっ。
「あ」
 いったいどれだけ地面と衝突を繰り返させたのか。それも生半可な衝撃の加え方ではなかったらしい。真っ新だった自転車は見るも無惨に薄汚れ、一部色は剥げ落ち、フレームはひしゃげ、ハンドルはブレーキの右が壊れて両者が濃厚なキスをかましている。
 目を覆いたくなる状態に、スマイルは眩暈がした。
 ユーリもまた無事ではなく、あちこちに擦り傷や打撲の痕を作っていた。だが長袖長ズボンに着替えていた事が幸いしたのか、見た目の汚れほど傷は酷くない。転んだときにすりむいた頬の傷だけが、まだ赤味を残して痛そうな程度。
「なにをすれば、そんな風になるのかな~」
 呆れきった声でスマイルは呟き、足をハの字に広げるとその場で膝を曲げて腰を落とした。頬杖を付き、どうするの、とユーリを見上げて視線で問いかける。答えの詰まったユーリは、まだ大丈夫のはずだ、と再度ハンドルを強く握るとえいっ、という掛け声のもと自転車にまたがった。
 足を地面から離し、ペダルを踏み込んでよろよろと数十センチだけ、前進する。
 結論から言えばまた転ぶわけだが、最初の乗るだけで一苦労だった頃に比べれば、かなりの進展だと言えよう。努力は認める、だが無駄とも言える。
 今回の横転で、後ろの泥避けが折れた。たった一日、しかも片手で足りる数時間でここまで見た目が変わってきてしまうのなら、無事だったときの写真でも撮っておけば良かっただろうか。懸命に壊れる寸前の自転車を乗りこなそうとしているユーリを他人事のように眺め、スマイルはこそりと思った。
 いい加減飽きてきて、退屈加減も戻ってきている。これ以上やっても自転車が潰れるだけで、一緒にユーリも傷だらけになるばっかりで、面白くもなんともない。スマイルは足許の砂を掴んで指先からさらさらと零すと、膝にもう片手をやって立ち上がった。
 土埃を軽く叩いて払い、んーと伸びをして両腕ごと背筋を逸らす。左右に揺さぶって、腰に手を当てると、ブレーキも完全に壊れてまったく効かなくなっている自転車をなお操ろうとしているユーリに歩み寄った。
 倒れる寸前だったそれを、乗り手ごと受け止めて数十回目の地面との激突を回避させてから、自転車だけは手から離す。軽い音を立ててそれは土埃の中に沈んだ。
「スマイル……?」
「ユーリ、傷になってる」
 痛くないの? と鼻の頭と左の頬に走った赤い筋を触れない程度に指で近付いて示して尋ねる。言われて初めて気付いたらしいユーリが、砂埃に汚れた手で反射的に触れてしまい、小さく悲鳴を上げて肩を竦ませた。
 なにをしているのかと、迂闊な事をしてくれたユーリを笑い飛ばしてスマイルは彼をひとりで立たせると、自分で転がした自転車を引き起こす。重くはないが、変な風に重心がずれてしまっているらしくバランスを取りながら立てるのに苦労させられた。
 サドルの埃を払ってやるが、黒光りしていたかつての姿は忘却の彼方にあるらしい。洗えばどうにかなりそうだが、そこまでしてやる義理を貰い物の棚ぼた自転車に感じる事はふたりしてなかった。
 視線を通わせあい、互いに頷く。
 翌日アッシュが生ゴミを棄てに行った先で破棄された、ボロボロになった自転車を発見する。ただ原型を留めているのは赤っぽいフォルムだけ、という状態と他のゴミに半分埋もれていた事が幸いしてか、彼は真実に気付く事がなかった。
 後日まったく城で見かけなくなった自転車の行く末を尋ね、スマイルに大いにからかわれて彼は涙を流す事になるのだが、今は関係ないのでその話は置いておくことにして、さて、自転車を廃車にする事にしたふたり。
 ユーリは身体中にまとわりつく砂を払い、取り出したハンカチで傷を拭いて鈍い痛みを堪える。スマイルは苦笑を浮かべたまま肩を竦め、さてどうしようかと首を捻った。
「まだ自転車、乗りたい?」
「そういうお前は、どうなんだ」
 もともとあれは、スマイルがアッシュから貰い受けるはずのものだった。だが彼は一度たりともあれにまたがることはなかったし、風を切って走るなんていう洒落た事も出来なかった。そうなる前にユーリが壊してしまった。
 問い返され、スマイルは組んだ腕の先で顎を持ち上げると目線を空に浮かせて考え込む。
「まー、無くても困ることはないけどネ」
 あったら乗ったかも知れないし、ユーリを後ろに乗せてどこかに出かける気にもなったかもしれない。あくまで、仮定だが。
 人力なので移動距離は体力勝負だ、速度もそう出るものではない。だがのんびりと、近くを散策するには便利だったかもしれないと今更に思う。
「なら、買いに行こう」
「はい?」
「壊したのは私だからな、弁償させろ」
 だがあれは、もとを正せばアッシュが持って帰ってきたものであり彼の現物支給なギャラであって、タダ、だ。弁償するとしたらスマイルにではなく、彼へのはずなのにユーリはスマイルだけを見て、きっぱりと語尾を断ち切り言い放った。
 意表をつかれたスマイルが目を丸くして足を止める。
「いやでも、ぼくのじゃないし……」
「アッシュがお前への譲渡の意志を示した段階で、あれは既に貴様のものになっていたはずだ」
「だったら、ぼくはそれをユーリにあげたわけなんだから。弁償してもらう必要性はどこにもないよ?」
 彼の言う理屈からすれば、スマイルの結論はそこに達する。しかしユーリの言い分は違っていた。曰く、彼は借り受けただけだった、と。
 確かに記憶を掘り返せば、スマイルはユーリにひとことも自転車を譲渡するといった表現を含むことばを投げかけていない。言ったのは「乗ってみる?」というその問いかけひとつだけで、ニュアンスとしては貸してあげるから乗れば? になるはずだ、と。
 屁理屈である。だがユーリの頑固さは筋金入りで、一度言い出した事を易々と覆す性格でないことは、スマイルも熟知する範囲だ。やれやれと肩を竦め、諦め調子に吐息を零す。
「分かったよ、じゃ、御言葉に甘えて」
 新品の自転車を一台、購入して貰う事にしましょうか。あの真っ赤な自転車には及ばない、ありふれたものだろうけれど。
 幸いにもまだ日は高い。一度城の中に戻って汚れた服をユーリは着替え、スマイルはアッシュへ買い物に出かけて来るという旨だけを手短に伝え、彼らは街に出る事にした。
 目立たない地味な配色を選んだユーリの服装は、黒を基本にしたチェック柄のジャケットに揃いの生地を使ったハンティング帽。スマイルも上だけ着替え、シックなブラウンのシャツに丈の短い濃紺のジャケットを羽織る。
 お互い身軽な出で立ちの変装ぶりに笑みを零し、時間が勿体ないと彼らは急ぎ気味で街へ向かった。
 世間的に休日ではなかった事も手伝って、人出はさほどでもない。それでも一日中止むことのない喧噪に佇むと、気ぜわしい落ち着かない気持ちにさせられる。それは何度経験しても、決して慣れる事の出来ない環境だった。
 彷徨い気味なユーリの手を取り、スマイルは覚えている限りの店を回っていった。しかし自転車を扱っている店は専門店でもなければ種類も少なく、色もデザインも画一的で面白味に欠けた。
 スマイルの自転車であるはずなのに、ユーリの方が熱心に選んでダメ出しするものだから、なかなか決まらない。彼の頭の中には、潰したばかりの真っ赤な自転車が色濃くイメージとして残されすぎているようだ。
 ジーンズのポケットに手を突っ込み、長い買い物をしている恋人を待つ気分でスマイルは街の外に見える小高い丘に目をやった。確かあそこは……と、いつだったか誰かから聞かされた話を思い出す。
 夕焼けが綺麗な場所があるのだと、そう聞いた。
 この店でも良いと思うものに巡り会えなかったらしいユーリが戻ってくる。散々自転車練習で体力を使い果たしているはずなのに、元気なもので次へ行くから案内しろ、と意気込んでいる。何もしていないはずの自分が疲れているように感じて、スマイルは苦笑した。
「ね、ユーリ。ふたり乗り出来る奴にしようよ」
 ステップを付けるだけでも構わないが、座席に出来る荷台が最初から後ろに付いてある奴にしようと、ここに来てスマイルは初めて自分からリクエストを出した。
 途端、ユーリが渋い顔をする。荷台付きの自転車は、どこかデザインが古くさくて可愛げが足りない。ダメだ、というユーリに尚もスマイルは身を乗り出して提案を繰り返し、最後にはこう付け加えた。
「ユーリを乗せて、連れて行ってあげたい場所を思い出したんだ」
 この街で、君に見せたい綺麗な場所を思い出したんだと熱の籠もった瞳で見つめて呟けば、嫌とは言えずユーリは口ごもった。
「ダメ?」
「……勝手にしろ」
 焦げ茶の皮財布をスマイルの手に置き、彼はぶっきらぼうに吐き捨てるとスマイルが凭れ掛かっていたガードレールに靴裏を乗せ、がりがりと底を擦りつけ始めた。彼なりの譲歩は随分と素直でなくて、小さく笑ったスマイルは礼を告げると今ユーリは出てきたばかりの店に交替で入っていった。
 出てくるときには、真新しい銀色の自転車を押して来る。包装は必要ないと断り、このまま乗っていくからとパーツもすべて装着済み。領収書を切って貰って、ユーリの財布に忍ばせるとそれごと彼へ返却する。
 受け取ったユーリは、未だ納得しきれていない顔をしてじろじろと品定めするかのように自転車を前後左右から見て回った。路上でぐるりと自転車とスマイルを中心に一周してみせた彼は、やはりどこか違うと呟いて爪先で路上を蹴った。
「でも、乗ってみると案外違うかも」
 指先で銀色の太めの金網が編まれている荷台部分を小突き、スマイルはハンドルをしっかりと支えたままペダルを逆方向に蹴り上げた。
 空回りをする金属の棒を足裏で停め、油の具合をひととおり確かめてからスマイルはサドルに大股になってまたがった。立ててもいなかったスタンドを右足で蹴り飛ばす仕草だけして、ユーリを振り返る。
「行くヨ?」
 時間はもうあまり無い。陽が暮れてしまってからだと意味がなくなる。急がなければならない。
 太陽は西へ傾き、短かった影が徐々に長引いて来ていた。明るかった空は薄皮一枚を間に置いたような輝きに変わっていて、見上げた軒先からの景色も昼間とどこか違って映る。
 再度指で示された荷台を見下ろしたユーリは少々考え込む素振りを見せた。これは、またぐ方が良いのかそれとも横向きに座るべきか。バイクの後部座席に座るのと同じ感覚で行けば済むのだろうが、彼の背中にしがみつくのは気が引けた。かといって横座りで彼の腰に腕を回すのもそぐわない感じがする。
「ユーリ?」
 何をそんな真剣に悩む必要があるのか、理由が分からないでいるスマイルは首を傾げたままいい加減掴み続けるに怠くなった腕から力を抜いた。
 まるで見透かしたわけではないだろうが、その瞬間を狙ってユーリはやっとの事で後部座席に腰を下ろした。ただし、後ろ向きで。
「ひえ?」
 ガクンと後ろが沈んだ拍子にスマイルから変な声が出て、慌てて口を塞いだ彼が振り返った先でやはりユーリも上半身を捻って振り向こうとしており。
 危うく鼻先が擦れ合う寸前で、先に気付いたスマイルが僅かに首を退いた。
「まさかその体勢で行く気?」
 そう広くもない座席の後ろ縁に指を引っかけて座っているユーリを見える範囲内で確かめ、確認したスマイルに彼は満足そうに頷いて返した。
「私の自転車にどう乗ろうと、私の勝手であろう?」
 言っている事は分からないでもないが、やることは滅茶苦茶に近い。姿勢を正したスマイルが、ハンドルを持ち直して溜息を零した。
「落ちても知らないよ」
「そんな間抜けな事にはならんよ」
「だと良いけど……」
 そんなに自分にしがみつくのが不満なのかと、ぶつぶつ文句を小声で呟きつつスマイルは腰を浮かせてペダルに足を置いた。強く、漕ぎ出す。
「おっ」
 ユーリは背中が後ろ向きに傾くのを感じ、荷台の網に絡ませた指が解けそうになるのを寸前で堪えた。爪先が浮き、景色がゆっくりと流れ始める。頬を撫でた風が見つめる先へ走り去り、自転車屋が見る間に小さくなっていった。
 徐々に速度が上がっていく。助走を終えたスマイルが腰をサドルに置いて、後ろに置いた大きな荷物を揺らさないように気を配りつつ道を急いだ。
 街を抜け、郊外を走り抜け、やがて人通りも途絶えて車ばかりが目に付くハイウェイに到達して。
 それまでは比較的平坦な道ばかりだったのが、唐突に坂道の連続に突入した。
 重力とは下に働くもの。それに自転車は後ろに荷物を載せているから、必死に漕がなければまったく前に進まなくなっていく。涼しい顔をして自転車を操縦していたスマイルも、いつの間にか常に中腰で前に重心を傾けながらの運転になっていた。
 玉のような汗が彼の首筋に、額に溢れ出す。対するユーリは後部座席で悠々自適に、後方へ流れ落ちていく景色を眺めていた。
 日が沈み出していた。隣町へ続く車道を走る自転車は、時折駈けていく車に煽られ追い越されつつゆっくりと進む。朱色に染まっていく空が遮るもののなにもない坂道の向こうに広がって、眼下には数時間前まで居ただろう町並みが見えた。
 通り過ぎていく車が残した風に自転車が揺らぐが、なんとか体勢を立て直したスマイルがそれでも必死に自転車を漕ぎ続けている。
「平気か?」
「ぜ~んぜんっ!」
「何処へ行くのだ?」
「この先に、ねっ」
 ともすれば風に流されてしまいそうになる会話を、大声で補って交わす。汗に濡れたスマイルの声がユーリの耳に貼り付いて剥がれない。
「夕焼けが、綺麗に、見えるって、場所が、ある、……って!」
 呼吸の合間に叫んでいるので、スマイルの声はひとつずつ途切れていた。掛け声がわりにしているらしく、彼がなにか言うたびに車体が強く前進する。
 日が沈もうとしている、太陽の傾きは店の前で見た時よりも遙に角度を狭くしていた。雲間の空も茜色に変わっている。
「そうか?」
「そう、なの!」
「私は、降りた方が良くないか?」
「だいじょー、ぶっ!」
 ぼくが連れて行くって決めたんだと、回りきらない舌で叫んだ彼の背中に背中を預けて、ユーリはカラカラと笑った。
 身体が坂道に沈んで行かぬよう両手で荷台を掴んで支え、足を前後にぶらぶらと揺らす。耳元では相変わらず、ひーひーと辛そうに呼吸するスマイルの声が続く。
 もう一度笑ってみた。
「急げよ」
 あと少しで頂上にたどり着けそうだ。
「だったら、降りてよね」
 さっきまでとは正反対の事を言って、スマイルは尽きかけている体力を目算し熱気のこもった息を吐きだした。
 ユーリはカラカラと笑い、決して座席から降りようとはしなかった。

□□□

 太陽がゆっくりと、町並みの中に沈んでいく。
 晴天に恵まれた事もあって、空は綺麗に夕焼けに染まっていた。首を上げて天頂を仰ぐと、そこまでもが淡い茜に色づき、東側からゆっくりと迫る闇と混じり合って不可思議なグラデーションを作り出していた。
 申し訳程度に作られている柵に手を置いて、少しだけ体重を預ける。頼りなさそうに見えた柵だったけれど、案外頑丈になっているようでユーリの体重程度であればしっかりと支えてくれそうだ。
 スマイルもまた、彼の傍らに立ち夕日を見つめる。横顔を盗み見ると、眼帯に隠れて見えていないはずの左側に立つユーリだというのに、彼は気付いて、振り返った。
「ナニ?」
 小さく首を傾げて、問う。
「なんでも」
 ぶっきらぼうに言い捨てて、ユーリは西空に目を戻した。丘の上という事もあり、この時間だと肌寒さを覚えるものの余り気にならないのは、やはり眼前に広がる雄大な空と赤に揺らぐ太陽の御陰だろう。
 この夕焼け具合ならば、色白の度合いも甚だしいユーリの顔もそれなりに健康そうに見える。今度はスマイルがユーリの横顔を眺めて、そんなことを考えた。
「あー、帰りもあの道を走るのかー」
 もう疲れたよ、と明日の筋肉痛を想像して憂鬱になっているスマイルが、柵に置いた手をそのままに腰を後方へ伸ばした。くの字に曲がった彼の身体は直後にゆっくりと伸び上がり、離れた手が腰を支えて今度は胸を反り返らせる。一連の動きの間に、二度ばかり骨が鳴る音がしてユーリは眉目を顰めさせた。
 最後に肩を回して人心地ついたらしいスマイルが、長く深い息を吐く。難しい顔をしているユーリに気付いて、大丈夫だよと手を振って応えた。
「しかし……」
 言い淀むユーリの眉間に寄った皺を指でなぞって、彼はそれ以上ユーリに言わせなかった。払われた前髪の下に現れた夕焼けの所為だけではないはずの赤みがかった肌に、そっと彼が触れる。
 柔らかな感触がくすぐったくて、身を縮め込ませてユーリは笑った。
 間もなく日が沈み、一日は終わりを迎えるだろう。太陽は半分以上を地平の下に潜り込ませ、長く伸びきった影は緩やかに薄れ行こうとしている。東から迫る闇が朱色を呑み込み、紫と紺の中間色が空の大部分を埋め尽くしていく。
 長い影の終わりが、一瞬だけ重なり合って離れた。
「帰りは、私が運転してやろうか?」
 頬にあったはずの擦り傷は、もう跡形もなく綺麗になくなっていた。悪戯っ子の笑みで言ったユーリに、スマイルはもう癒えている彼の傷痕をなぞりながら唇を窄めさせた。
 微かな音を残して、彼は掴んでいたユーリの腕から手を外し柵に戻す。
「ふたりして、明日は病院のベッドかもね」
「失礼な奴だ」
 坂を下るスピードを利用すれば、ユーリであっても自転車を倒さずに乗れるかもしれない。だが、恐らく曲がり角でのブレーキ操作は無理だろう。高速の自転車はそのままガードレールを飛び越えて、空へダイブだ。
 想像してみる。この柵から身を乗り出して現在地点の高度を確認したスマイルは、肩を竦めて半歩後ろへ下った。
 けれど彼が何を考えていたのかを既に察していたらしいユーリが、素早く背後に回り込んでいた。右腕を伸ばし、まるで後方に無警戒なスマイルの背中をトン、と軽く押す。
「うわぁ!」
 完全に不意を突かれ、スマイルはみっともない悲鳴をあげて上半身を前に大きく傾がせた。脇腹に柵の上辺が擦れ、ごくりと飲み込んだ唾の音が嫌に大きく響いて聞こえた。大慌てで両手を使い柵にしがみついて、生きた心地がしなかった一瞬に吐き出し損ねた息を胸の中から追い出す。
 膝を折ってしゃがみこんでしまったスマイルに、ユーリはまさかここまで彼が過剰反応を見せるとは思っておらず驚いた顔をして、口許を手で隠す。意表をつかれたのはこちらも同じで、見開いた目に彼を映しながら大丈夫か、と声を掛けた。
 肩で二度ほど呼吸をしたスマイルが、恨めしそうに振り返る。
「ユーリさぁん?」
「悪い」
 ジト目で睨まれ、ユーリは乾いた笑みを作って手を振った。
「まさかそこまで驚くとは思わなくてな」
「ひど~い、ぼくってばユーリに殺されるところだったのに」
 勢い良く立ち上がったスマイルに詰め寄られ、悪かったと何度も謝罪のことばを繰り返しユーリはじりじりと後退した。
 赤を背負ったスマイルが黒に染まって見える。日が沈む、寸前。
 シルエットを浮かべた影だけのスマイルが、視線を逸らし同時に思考も別方向に飛ばしたユーリに気付いて、間を置いてから西を向く。
 揺らぐ太陽が雲と、地平に群がって乱立するビル群の中へ吸い込まれていくのが見えた。鮮やかな赤が雲の裏側に広がり、空の大部分は黒かそれに近い濃さの色が埋め尽くそうとしている。家路を急ぐ鳥が列を成し、南を目指し飛び去っていく姿が目に入る。
 今日は終わる、夜が巡りまた明日が来る。
 その繰り返しを、はたして自分たちは今までどれくらい続けて、これからどれくらい見守り続けるのだろう。
 ユーリはスマイルの背中を見つめた。
「帰ろうか」
 ポケットを探り、新品の自転車の鍵を取りだして手に踊らせた彼が、時間を気にして呟いた。けれど時計を持ち合わせていなくて、困った顔をし、ユーリに改めて問うた。
「今、何時?」
「あ? ああ……そうだな、そろそろ帰らないと」
 アッシュが夕食を用意し首を長くして待っているだろう。出かける時はまさかこんなに遅くなるとは思っていなかったので、連絡のひとつも入れていない。
 袖を捲って腕に巻いた時計の文字盤を眺めていると、横から覗き込んできたスマイルが見づらい、と零して更にユーリの方へと身体を近づけてくる。
 ひとつしかない街灯に光が灯ったが、いくら狭いとは言え公園全体を照らすには足りない明るさがスマイルを更にユーリに近づけさせる。ガラにもなく緊張しながら、ユーリは見やすいように時計を彼の方へ傾けてやった。鼻先を、嫌味にならない控えめなコロンに混じった彼特有の香りが掠めていく。
 指先で鍵を弄りつつ、アナログの文字盤が刻む現在時刻を読むと彼は離れていった。感じていた体温が遠ざかり、鼻腔を擽った匂いも数回の呼吸の末に消えて無くなる。
「ユーリ?」
 ぼんやりしていたら、いつの間にか自転車の傍へ戻っていたスマイルに肩越しで呼ばれた。
「帰るよ?」
 かちゃりとカギを外しスタンドも倒した彼のことばに、弾かれたように顔を上げてユーリは小走りになった。十歩と少しで足りる距離を一気に駆け抜け、彼の傍に立つ。
 日は落ちて暗く、彼の顔さえ少し朧気で。
「ああ、それとも」
 僅かに肩を上下させて息を切らしているユーリの額に貼り付いた前髪を払ってやり、スマイルは呟く。疎らに巻かれた包帯の隙間が透けて見えた。
 咄嗟に掴んでしまって、感触とぬくもりを肌で確かめて、ユーリは彼が困った表情を作っている事に気付いてはっとなった。
 急いで放し、自分の両手は後方の背中に回して隠すけれど、スマイルは口許に手をやってくすくすと面白そうに笑みを浮かべて困ったね、と零す。
「帰りたくない?」
 先程中途半端に途切れてしまたことばの続きなのだろう。スマイルは笑いながら言って、けれどことばとは裏腹にハンドルを握るとタイヤの向かう先を公園出口に転換させた。
 揺れた彼のジャケットの裾を、前に戻した手が無意識のままに掴む。
「ユーリ?」
 くいっと軽く引っ張られ、スマイルが振り返った。
「どうしたの?」
「もし、私がここで、帰りたくない、と言ったら……」
 お前はどうする?
 見上げた赤の視線でそう問いかけても、影を背負ったスマイルの表情は読み取りづらい。普段から何を考えているのか悟り辛い彼の笑みは卑怯だと、ゆっくり顔を逸らしたユーリは思う。
 手が離されるのを待って、スマイルは自転車にまたがった。右足をペダルに乗せ、左を地面に置くことでバランスを取り、ユーリが乗り込むのを待つ。
 彼は何も言わず、だからこそそれがユーリの問いかけの答えだった。
 寂しい気持ちを隠せきれないまま、ユーリは黙っているスマイルの背中に瞼を伏し、後部座席の荷台に腰を下ろした。行きとは違い、今度は横向きで座る。
 そっと彼の腰に手を回して胸の前で両手を絡ませた。指を互い違いに挟み、易々と外されぬよう力を込める。少々締め上げる程度の強さにしてやると、案の定彼は苦しそうにしてハンドルから離した手でユーリの握り拳を小突いた。
 これでは運転できないと言われ、仕方なく力を緩める。だが手は解かない、意地でも。
 自転車はゆっくりと走り出した。爪先が地面を離れ、揃えられた足が坂道でも比較的緩めに調節された速度でぶらぶらと揺れる。
「ねえ、ユーリ」
 夕焼けはもう雲の裏側に残る部分的な赤だけ。東から侵蝕した闇は空の大半を占領して、我が物顔で鎮座している。遠くに微かな光が明滅したのは、雲の隙間を行く飛行機かはたまた、もっと遠い星々の煌めきか。
 上りと比較しても遙に楽な下り坂、殆どペダルを漕ぐ事もなくブレーキとハンドル操作だけで自転車を走らせるスマイルの声は、風に融けて弱い。
 聞こえなくて、ユーリは彼の背中に顔を近づけた。腕の戒めを緩め、身を伸ばす。
「明日も、晴れだね」
 対向車線を走る車のヘッドライトを眩しそうに避け、彼は叫んだ。
 公園から見送ったのは色鮮やかで見事なまでの、恐らく記憶に永遠に残りそうなまでの夕焼け。長く短い一日の中でも、一瞬で終わってしまいそうなくらいに呆気ない日暮れの瞬間。
 これまで、意識して夕日を眺める事など無かった。あの空が、あんなにも美しく瞳の色に染まるのだと今日、教えられた。
 また来たいとも思う。明日の夕焼けを見るのが楽しみに思えてくる、一日の終わりに明日を夢見る事など、久しく無かった。
 夕焼けの次の日は晴れるのだと、彼は言った。笑って、続けた。
「明日は、何処に行こっか?」
 振り向きもせずに声だけで尋ねられ、彼なりのそれが答えなのだと気付いて。
 ユーリは目を見開き、吹き込んでくる風にも構わず声を立てて笑って、やめてくれ、と言われていた事も忘れて彼を抱きしめる腕に思い切り力を込めた。
 次の瞬間、鈍い音が彼らを襲う。逆転した天地の先に、ぽっかりと浮かぶ月が見えた。

 翌日、ゴミ捨て場に置かれた自転車は二台に増えていて。
 今度は青い自転車が、申し訳無さそうに城にお目見えしたのだった。