行く末を かけても何か 契るらん

 足元の茂みに隠れていた小石を拾い、握り締める。
 目の前には穏やかな水面が広がり、雲ひとつない空の色を映して、鮮やかに輝いていた。
 ふと意識を彼方に投げれば、誘うように風が踊った。後ろから過ぎ去ったそれに襟足を擽られて、藤丸立香は強張っていた頬を僅かに緩めた。
「えいっ」
 たったそれだけの事で四肢の力みが抜けて、幾分気持ちが軽くなった。角の尖った小石を勢いつけて放り投げれば、少しの間を置いて、親指大の塊が凪いだ泉に沈んでいった。
 ぽちゃん、と音が甲高く響き、そこを基点に波が起こった。等間隔で広がるさざ波はやがて水面に溶けて消え、静寂が戻るのにさほど時間はかからなかった。
 非力な人間が起こせる奇跡など、所詮はこの程度。
 己の無力さと凡庸さに対する怒りを、諦めとは異なる感情で落ち着かせた。
 深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
 草を踏む音が聞こえて振り向けば、銀色の髪を高く結った男の姿が見えた。
「アルトリア・キャスターは、どう?」
「直接打撃を喰らったわけではないからな。衝撃で飛ばされて、打ちどころが悪かっただけだ。意識は戻った。しばらく休めば、問題なく動けるだろう」
 直前まで怪我人の治療を行っていたからだろう、近付いてくるアスクレピオスは第二再臨の姿だった。但し厳めしいマスクは外して、口元は露わになっていた。
 毛先だけ緋色に染まった長いもみあげが、動きに合わせて左右に踊る。傍らには彼の攻撃や、防御のサポートを行う機械仕掛けの蛇が、見た目にそぐわぬ滑らかな仕草で付き従っていた。
 ノウム・カルデアで見かける姿は、普通の白蛇なのに、不思議だ。
 どういう理屈なのかは分からないけれど、分からなくて困ったことは一度もない。なので面白いな、と思う程度で済ませて、立香は澄んだ色の泉に視線を戻した。
 医神の二つ名を持つ英霊の言葉に、嘘偽りはないはずだ。懸念材料がひとつ消えたと安堵の息を吐いて、彼は膝を折り、その場にしゃがみこんだ。
 水面よりほんの少し高くなった地面は、下を覗き込めば若干内側に抉れていた。それでも青々と茂る草が健気に斜面に根を下ろし、必死にしがみついていた。
「みんなは?」
「ロビンフッドが情報収集で、近くの村を回って来ると言っていた。ほかの連中は、その辺で適当に休んでいる」
「そっか」
 自然に生きる植物の力強さに感嘆し、真横で足を止めたアスクレピオスには他愛ない話題を投げた。普段から無愛想な英霊は淡々と必要なことだけを口にし、立ち去るかと思いきや、立香に倣って膝を折った。
 衣擦れの音がして、ギリシャ神話に名を連ねるに相応しい、整った顔が一気に近くなった。
 額で前髪がクロスする奇妙な髪型であるけれど、それを差し引いても充分過ぎるほど麗しい。息子の時点でこれなのだから、父親たるあの羊は、人の姿を取った時、いったいどれくらいの美形になるのだろう。
 興味深いが、訊けばきっと悲惨なことになる。
 ここの親子関係が最悪なのは、立香も十二分に承知していた。万が一にもアポロンの名を出そうものなら、泉に突き落とされるくらいは覚悟しなければならない。
 冴えた色を放つ眼前の泉は、透明度が高すぎて、逆に深さが読めなかった。
「そういや、なんか、あったなあ。えっと」
 遠い昔、まだ故郷が健在だった頃。
 幼かった時分の記憶に合致するものを探しているうちに、無意識に声が漏れていた。
「マスター?」
「ああ、そうだ。金の斧と、銀の斧」
 獣たちの憩いの場となっている森の泉は、単純な円形ではなく、中程で捻りが加わった楕円形だった。
 親子だろうか、鹿が二頭連れ立って向かいの岸に現れた。こちらを一瞬警戒した後、危険がないと悟ったか、静かに水を飲み始めた。
 遅れてもう一頭表れて、おっかなびっくり水面に顔を近付けては、鼻先で飛沫を散らした。なんとも朗らかな光景に、立香の頬は自然と綻んだ。
 先ほど遭遇した巨大なモンスターを倒しきれなかったら、この水場も安全ではなかったはずだ。
 仲間には負担を掛けたけれど、無視せずに挑んでよかった。
 あの鹿たちが立香に感謝する日は、きっと来ない。自己満足と言われればそれまでだが、少なくとも後悔の種がひとつ減ったのは確かだ。
「ヘルメスの斧が、どうした」
「ヘルメス?」
 ホッとしていたら、不意に横から問われた。
 何のことか一瞬分からなくて、きょとんと目を丸くしたまま隣を見る。するとアスクレピオスも怪訝な表情を作り、首を僅かに傾がせた。
「金と銀の斧の話だろう?」
 聞き直されて思い出して、立香は嗚呼、と頷き、そのまま目を眇めた。
「……なんでヘルメス?」
 揃って微妙な顔付きのまま見つめ合い、並んで森の中の泉に目を遣った。鹿の親子連れはいつの間にか居なくなり、代わりに小鳥の囀りが周囲に響いた。
 羽音がして、近くの木の枝が大きく揺れ動いたが、肝心の鳥の姿は見えなかった。
 顔を上げ、遠くを見渡し、改めてアスクレピオスへと向き直る。
「女神様じゃないの?」
 まだ親に手を引かれなければ外を歩くのも覚束なかった頃、読み聞かせてもらった絵本にあったのは、美しい女神の姿だった。
 木こりが泉に斧を落としたら、中から金の斧と銀の斧を持った女神が現れる。どちらがお前の落とした斧かと問われて、木こりはどちらも違うと答える。すると女神は木こりの正直さを褒め称え、元々の分も加えた合計三本の斧を与えた。
 詳しくは覚えていないけれど、確かそんな話の流れだったはずだ。
「それは、ヘルメスの斧という寓話だ」
 だのに真正面から否定されて、立香は困惑を拭えなかった。
 眉間に皺を寄せて、古代ギリシャの英雄をじっと見やる。向こうも向こうで譲れないのか、立香の顔を真っ直ぐ見詰め返してきた。
 穴が空きそうなくらいで、最初こそなんともなかったが、時が過ぎるに連れて気恥ずかしさが勝った。
「そうなんだ?」
 三十秒としないうちに耐えられなくなって、ぱっと顔を背けた。早口で相槌を打って、右手で生い茂る草を弄るが、適当な大きさの石には行き当たらなかった。
 なにも掴めなくて、仕方なく緑色が濃い草の表面を撫でた。押してもすぐ戻る健常さに感嘆の息を漏らし、ちらりと傍らを窺えば、アスクレピオスは相変わらず鋭い眼光でこちらを射貫いていた。
「僕らの故郷で広く知られた話だが、……お前の故郷まで伝わっていたのだな」
「イソップ童話、だったかな」
「おおかた、伝播の途中で入れ替わったのだろう。よくある事だ」
 伝承や伝記は、伝える人、時代、風習によって様々に組み替えられていく。原形を留めないのは哀しいことだが、言い換えれば人の時代がそれだけ長く続いた証拠だ。
 アスクレピオス自身も、思い当たる節があるのだろう。
 皮肉めいた表情が、彼の胸の内を表していた。
 伝承で語られる英霊そのものがここに存在するのだから、間違いがあるなら直々に否定すれば良いとも思う。ただ人々の営みに寄り添い、数多の命と向き合ってきたアスクレピオスがそれをするのは、彼の信念を曲げることに繋がりかねなかった。
 だからきっと、彼は自分から言い出すことはしない。
 今の表情は己の胸の中に留めることにして、立香は三角に折った膝に両手を並べた。
 手の甲に顎を寄せ、背中を丸めた。穏やかな時間が過ぎ去るのを惜しみ、もう少し続いてくれるよう祈って、目を眇めた。
「あのさ、アスクレピオス」
「なんだ」
「もしオレがさ、泉に落ちたとして」
「落ちる予定があるのか?」
「……もしもの話ね? オーケー?」
 仮定の話を振ったつもりでいたのに、思いの外真面目に受け止められた。
 座ったまま前のめりになった英霊には頭を抱え、泉と立香の間に割って入ろうとした機械仕掛けの蛇は、残る手で制する。自分から飛び込む気はないと言外に伝えて、彼は真顔で頷いた男に苦笑した。
 二度の深呼吸を挟んで気を取り直し、踵を地面に打ち付けた。
「女神様でも、ヘルメス神でも、どっちでも良いんだけど。もしも、さ。未知の病原菌に苦しむオレと、今にも死にそうな大怪我してるオレと、どっちか選べって言われたら、どうする?」
 自分で言っておきながら、奇妙な二択だ。
 普通なら身長が伸びただとか、美形になったとか、強くなったとか、魔力が増えたとか。そういう選択肢を並べたくなるものだ。
 しかし此処にいる英霊は、そのどれにも食指が働かないと知っている。なので彼が迷いそうなものを探したら、結果としてこうなった。
 やや青臭さが残る右手と、そうでない左手を肩の高さに掲げ、揃えてアスクレピオスの前へと提示した。
 空っぽの掌を見せられた男は目をぱちくりさせて、立香の顔と、傷跡が残る指先を交互に見比べた。
「………………」
 沈黙は、殊の外長かった。
 最初こそ惚けた顔だったのが、時間が経つにつれて素の顔に戻っていった。そこから徐々に瞼が重くなって、眉間の皺が増え、唇は真一文字に引き結ばれた。
 腕を組み、右中指を噛むくらいに迷うアスクレピオスに、失笑を禁じ得ない。
「そんなに真剣に悩まれるの、癪なんですけど」
 童話に語られる木こりは、落とした斧が提示されたものどちらとも違うと、正直に答えた。
 その例に倣えば、素直に本物の立香を所望してくれれば良い。自分が三人に増えるというのは微妙なところだが、もしもの話であり、笑って流してくれればそれで済む。
 そう、本当の藤丸立香だけを選んでくれれば、全てが綺麗に収まるのだ。
「……――」
 だというのになかなか答えないアスクレピオスに、焦れた。苛々して、小鼻を膨らませたところでふと、我に返った。
 無言を保つ男に食ってかかろうと地面を踏みしめ、今まさに利き手を伸ばそうとした寸前で、はっと息を呑んだ。
 悶々と膨らんでいた苛立ちと、嫉妬めいた感情が一瞬のうちに霧散して、目の前が唐突に晴れた。
 途端に前方がよく見えるようになって、長らく顔を伏していた男の表情が明らかになった。
「なんだ。つまらん」
 不遜な笑みを口元に浮かべ、直前で停止した立香の動向を残念がった。嘲るような台詞を吐いて、にやにやと含みのある眼差しを向けてきた。
 頬杖をつき、露骨なまでになにか企んでました、という顔をして、空いている方の手を伸ばす。
 手袋に包まれた長い人差し指に迫られて、立香は咄嗟に仰け反った。しかし完全に避けきるのは難しく、一度空を撫でた指先は即座に来た道を引き返し、空気を含んで丸くなった頬を小突いた。
「さっさと根負けしてしまえば良かったものを」
 クツクツ喉の奥で笑いながら弄られて、立香は益々頬を膨らませた。
 口を尖らせ、睨み付けるけれど、なにひとつ効果はない。むしろ逆に面白がられて、悔しさのあまり頬を擽る指をはたき落とした。
「うるさいな。つか、アスクレピオスが先に言ってくれれば良いだけじゃん」
 彼が迷いそうな設問にしたのは、こちらの落ち度だ。ただそれを逆手に取って、立香の反応を楽しみ、玩ぶのは趣味が悪い。
 鼻息荒く捲し立て、口角を歪める男からじわり、距離を取った。侮られないよう目は逸らさないまま、両手と尻で青草を踏み潰して少しずつ後退した。
 ただこの反応さえも、アスクレピオスには愉快だったらしい。噴き出したりはしないものの、先ほどよりずっと楽しそうに笑って、一度は払われた手で立香の顎を抓んだ。
「なら、望み通り言ってやろう」
 顔を背けられないよう固定して、低く艶のある声で囁く。
 間に舌なめずりまで挟まれて、立香の背筋にぞわっと悪寒が走った。
「重病も、大怪我も、待っていればそのうちお前の身に降り掛かる。かといって三人に増えられるのは迷惑だ」
 膝を前に突き出し、アスクレピオスは人が折角稼いだ距離を一瞬で無に帰した。背筋を伸ばし、尻を浮かせて、こちらよりも拳二つ分ほど目線を高くしてから、ゆっくりと語り出した。
 端整な顔立ちが迫り、立香の鼻先に吐息が掠めた。伸びやかな低音が淀みなく流れて、耳朶を甘く擽り、脳髄に優しく突き刺さった。
 顎に触れた親指がつい、と横に泳ぐ。たったそれだけなのに皮膚が熱を持ち、連鎖反応で鼓動が爆音を発した。
「貴様のような愚患者は、お前ひとりきりで充分だ。ああ、そうだとも。お前がいれば、僕はそれだけで満足だ。僕の、僕だけのパトロン。マスター。お前と共に在る限り、僕は飽くなき研鑽に邁進できる。健康であれ、マスター。それこそが僕の望みであり、願いであり、お前と居る意味だ」
 うっとりと蕩けるような声色に包まれて、身体の芯がぞわぞわと蠢いた。心臓を直に撫でられたような感覚に背筋が震えて、翡翠の瞳に映る自身の顔が真っ赤に染まっているのを見付けた辺りで、限界だった。
 重病人か怪我人かを選べという話で、なぜ口説き文句にしか聞こえない台詞になるのか。
 やはりこの男はあのアポロンの息子に間違いない。心の中で喚き散らして、耐えられなくなった立香は火照って熱い身体を振り回し、距離が近すぎる男を突き飛ばした。
「う、あ……も。い――ああれえっ」
 ところが、である。
 いくらキャスター相手とはいえ、一応向こうは英霊の端くれ。人間を上回る存在だ。加えてアスクレピオスはケイローンを師として、パンクラチオンの使い手でもあった。
 一見貧弱そうに見えても、実際その通りだとは限らない。現に今、立香は彼を突き飛ばしたつもりで、逆に自分が跳ね飛ばされた。
 さらに悪いことは重なるもので、背後に控えていたのは地盤がしっかりした大地ではなかった。
 顔を向き合わせたまま後退した先になにがあるか、頭から完全に抜け落ちていた。
 重力から解放された体躯がふわっと宙に舞ったかと思えば、世界が百八十度ひっくり返った。
 青空が見えたと思った直後、水面はもうそこに迫っていた。咄嗟に頭を庇って身を丸めたが、勢いを殺しきれるはずがない。落下の衝撃は強烈で、骨格が拉げる感覚と同時に耳元で水が爆ぜた。真っ白い泡が大量に発生し、竦んで小さくなった立香の身体に纏わり付いた。
「――――ぶふっ!」
 息を止めるのが間に合わなかった。
 意識が一瞬飛んで、緩んだ口元から残っていた空気が一斉に溢れ出た。入れ替わりに冷たい水が口腔のみならず、鼻腔からも入り込み、目を開けていられない痛みに全身が撓った。
 早く浮上しなければと分かっていても、思うように手足が動かない。薄目を開けて覗き込んだ泉の底は真っ暗闇で、地上から見た様相とは全くの別物だった。
 抗っても、抗いきれない。果てが見えない水底に引きずり込まれた。透明な触手で絡め取られ、このまま冷たい牢獄に囚われるのだと、絶望感で頭が真っ白になった。
 こんなところで終われない。
 託された沢山の想いに見合う答えに、まだ辿り着けていない。
 ひたりと首元に迫る死の恐怖に怯えて、それでも救いを求めて手を伸ばす。
 四方から押し潰される圧迫感に逆らい、水を掻いた。自由に動くのもままならない水の中で、大きく口を開き、助けを欲して音なき声で吼えた。
 応じる声があった気がした。
 名前を呼ばれた気がした。
 遠ざかる光が突然ぐにゃりと歪み、四散した。それが自分とは異なる存在の起こした事象だと悟る前に、手首を乱暴に掴まれた。
 握り締めて、引っ張られた。深い方へ、暗い方へ流されるままだった身体がふわりと浮き上がり、すかさず腰を支えられた。
 安心させるかのように、背中を撫でられた。肺の中は空っぽで、もう目を開けられない。何も見えない、何も聞こえない状態で、意識は次第に霞み、あらゆる感覚が失われようとしていた。
 だから最初、なにが起きているか分からなかった。
 仄温かいものが唇に触れて、この場にあるはずのない空気が一気に喉の奥へと流れ込んできた。無理矢理押しつけられ、飲み下すのを強要されて、出来なくて噎せたところで、強く身体を抱きしめられた。
 周囲で水の流れが加速するのが分かる。追いすがる透明な触手を蹴散らして、誰かが立香を連れて光の溢れた世界へ駆け上がろうとしていた。
 深淵が遠ざかる。
 冥府の舌打ちが直接脳内に轟いたところで、ざばあっ、と水が弾ける音が眠っていた聴覚を叩き起こした。
「げほっ、けほ、はあ、あっ。あ――はぁ、げふっ、えふん」
 一歩遅れて肺が活動を再開させ、手始めに気道に入り込んでいた水分を盛大に吐き散らした。激しく咳き込み、続けて小刻みに酸素を掻き集め、最後に鼻腔に残る水気を吹き飛ばした。
 無意識に足をばたつかせ、簡単に沈もうとする身体を必死に浮かせた。それでも足りなくて、傍にあった浮き輪にしがみつけば、なんと浮き輪の方も立香をしかっと抱え込んだ。
 ぎゅうっと締めつけられて、肋骨が軋む。水による圧迫よりもずっと痛いし、苦しくて藻掻いていたら、耳元でふう、とそよ風が吹いた。
 微熱を孕んだ吐息に、目を瞬かせる。
 固く凍り付いていた瞼を溶かし、ぼやけていた視界を徐々に明るくした。歪んだ輪郭を修正し、滲む色を補正していくうちに、立香はずぶずぶと水の中に舞い戻った。
「ぶぶぶぶぶ」
 口まで浸かり、鼻の孔がぎりぎり水面に届かない位置まで沈んで、自らがしがみついているものに爪を立てる。
 引っ掻かれた方は不満げな顔をして、解けてしまった銀の髪を雑に梳いた。
 ずぶ濡れのアスクレピオスの頭には、潜水の最中で解けたのか、いつものバンダナがなかった。特徴的な前髪は勢いを失い、べたっと額に貼り付いていた。
 長いもみあげが水面に浮かび、立香の肩や首にも絡みつく。その細い糸ごと抱きつき直せば、呆れ調子の英霊が深々と溜め息を吐いた。
「本当に落ちるバカがどこにいる」
 緊張から解き放たれたからか、彼の声はいつもより少しだけ高かった。口調は相変わらずだけれど、言葉の裏に安堵が見え隠れしていた。
「ごめん」
 泉に落ちた直接の原因はアスクレピオスだけれど、言ったところで喧嘩にしかならない。恨み言は大人しく飲み込んで、立香は頭を垂れた。
 湿って重い黒髪から雫がぼたぼたと滴り落ちて、その数は少しずつ減っていった。
 関節のあちこちが軋むように痛み、息苦しさはまだ消えず、油断するとすぐに噎せた。正しい肺呼吸の仕方が分からなくて、手探りで試す水生生物になった気分だった。
 気を抜くと身体はすぐに沈み、体温も水に持って行かれて寒い。唇が色を失い、カチカチと奥歯を鳴らしていたら、眉間の皺を解いた男が彼方を見た。
「大丈夫ですか。だだ、大丈夫ですかあー?」
 間を置かず、遠くから少女の絶叫が聞こえて、水際に人影が現れた。走って来たアルトリア・キャスターは思ったより元気そうで、戦闘でのダメージは感じられなかった。
 小柄で軽い少女は、突進してきた猪の攻撃をすんでのところで躱したものの、巨大な獣と巨木の激突による衝撃をまともに喰らい、吹っ飛んだ。その際強く頭を打ったらしく、立ち上がってもすぐにふらつき、倒れてしまって、アスクレピオスの治療を受けることになった。
「よかった」
 杖を片手に声を張り上げる少女に胸を撫で下ろし、正直な気持ちを口にしたら、なぜか拳骨が降って来た。
 問答無用で水に沈められ、直後に抱え上げられた。なにがしたいのかと乱暴極まりない医神をねめつければ、アスクレピオスは憤懣遣る方ない表情で立香を睨み返した。
「お前の命はひとつだ。忘れるな」
「……あい」
 泉に沈んだところで、現実の立香は増えたりしない。
 命の使いどころを間違えるなと、叱られた。心当たりが多すぎる立香は素直に頭を垂れて、濡れた唇をそっと撫でた。

行く末をかけても何か契るらん ただ目の前になりぬるものを
風葉和歌集 948

2021/06/27 脱稿