山ほととぎす 今ぞ鳴くなる

 何かに袖を引かれた気がして振り向いたが、その先にはなにも無い。おや、と首を傾げた古今伝授の太刀の鼻先を、ふうっと、柔く吹いた風が通り過ぎて行った。
 芳しい、爽やかな初夏の香りだ。柑橘類の仄かにつんとくる、しかし後には穏やかな心地だけが残る優しい匂いだった。
 この薫香には覚えがある。迷う事なく天頂を仰ぎ、左右を確かめた彼は、間を置かずして目を眇めた。
「ふうむ」
 喉の奥で低く唸るが、挙動不審を見咎める声は聞こえてこない。
 ゆったりとした動作で腕組みをし、その流れで顎をひと撫でした彼は、伸ばした人差し指を困った風に頬に添えた。
 白く可憐な花を咲かせる橘の木が、近くに見当たらないのだ。
「残念です」
 この辺りに咲いていた記憶もないので、気のせいかもしれない。
 だが確かに嗅いだのだ。決して錯覚ではないと己に言い聞かせて、彼は溜め息と共に腕を解いた。
 だらりと垂れた指先が、長い髪の先に触れた。戯れに馬の尾の如きそれを撫で、梳いて、長く留まっていた場所から一歩を踏み出した。
「五月待つ 花橘の 香をかげば――」
 最中にふと口ずさみ、間近で響いた鳥の囀りに再び足を止める。
 またも天頂を仰ぎ見るものの、この度もまた、件の鳥の姿は見つけ出せなかった。
 ただ今回は、幻聴などではない。繰り返される愛らしい歌声は、未だ発展途上にある鳴き方だった。
 これから徐々に巧くなって行くのだろうが、この微妙に外れた音程が、却って愛らしくもある。
「ふふ」
 思わず声に出して微笑み、古今伝授の太刀は小さく頷いた。
「もうそのような季節なのですね」
 少し前まで冬の寒さに打ち震えていたはずなのに、今日は日向に出ると汗ばむほどだ。雪に埋もれていた田畑は瑞々しい青草に覆われて、足元を窺えば小さな花々がそこかしこから顔を覗かせていた。
 春が来て、夏の気配もひたひたと感じる時期だった。
「いつのまに 五月来ぬらむ あしひきの 山ほとどぎす 今ぞ鳴くなる」
 まさにこの歌通りだと諳んじて、閉ざした瞼をゆっくり開いた。
 見えた空は青く澄み、穢れなど知らぬ顔をして太陽を戴いていた。
 歴史改編を目論む者達がいて、時間遡行軍との終わりを知らぬ戦いのただ中だというのに、この本丸は至って平穏だ。今も短刀達の元気で、賑やかな声がそこかしこから響き、誰のものかも分からない稽古の雄叫びが絶えずこだましていた。
 視線を前方斜め先に向ければ、瓦葺きの屋根越しに白い煙が棚引いているのが見える。
 夕餉の支度がとっくに始まっているのを悟り、細面の太刀は肩を竦めた。
 何をするのにも動作がゆっくりで、回りくどい言い方しか出来ない自分が手伝いを申し出ても、邪魔になるだけ。
 かといって暇を持て余し、自分ばかりがのんびり過ごすのも気が引けた。
 もっとも縁側を振り返れば、明石国行が五虎退の虎に枕にされつつ寝転がり、傍らではその五虎退が折り紙に興じていた。非番なのだから堂々と暇を楽しめば良い、と随分前に教えられはしたものの、彼らを真似るのはなかなかに難しかった。
 地蔵行平がいれば少しは時間が潰せるだろうが、肝心の相方は遠征任務で本丸を離れている。
 顔見知りの刀の姿も近くに見えず、散歩にも些か飽きてしまった。
「戻りましょうか」
 部屋に行けば、書を捲るなりなんなり、する事が見つかる。
 小さな可能性に賭けて足を向けた玄関で、彼は靴を脱ごうと身を屈めた。
 肩に掛けた羽織がずり落ちぬよう片手で支え、もう片手を足首に向けて長い指を隙間へと差し入れた。僅かに力を込め、隙間を広げて踵を引き抜こうとしたところで、宙を泳いだ眼がふとした違和感を捉えた。
 これまで幾度となく通り過ぎた場所だ、過去にも目に入っていて不思議ではない。
 それなのに今の今まで、どうしてなのか意識を向けようとすらしなかった。
「これは?」
 過去の自分自身にも首を傾げ、彼は脱げた靴をその場に落とした。反対の足も同じくして、横倒しになったものを揃えもせず、框を踏んで床に上がった。
 大勢が同時に出入り出来るよう広く取られた玄関は、入って右に行けば厨に通じ、左に行けば大広間に出た。正面を進めば居住区画に繋がる渡り廊に至り、その先には二階建ての仰々しい建物が待っていた。
 だが古今伝授の太刀が気に留めたのは、そういった複雑怪奇な本丸の構造についてではない。
 彼が慈しむように撫でたのは、重い屋根を支える頑強な柱だった。
 台所に向かう通路の角に、不自然な傷がいくつも刻まれていた。
 槍や薙刀が本体を掠めたのかと想像するが、それにしては傷がどれも真っ直ぐで、且つ横向きに、一直線に揃えられていた。
 胸元から肩の高さ辺りに密集しているが、たまに外れた位置にもある。しかも最近ついたものではなく、古くからある傷跡に思えた。
 二重、三重につけられた柱の傷は、いずれも刃物で浅く抉られていた。無事な部分とは若干色味が異なっているものの、積み重なる時間の中で柱自体がくすんだ風合いになっており、完全に溶け込んでいた。
 彼自身、この本丸に来てそろそろ一年が経つ。にもかかわらず今日まで見落としていたことが、些か衝撃だった。
「なんでしょうか、これは」
 見た目からして昨日、今日に出来たものではない。往来の多い場所なので、大きなものを通す際にぶつけて窪んだ箇所もあるが、この刀傷は明らかに作為的だった。
 いったい誰が、何の為に。
 意図が読み解けず、繰り返し柱をなぞるがなにも思い浮かんで来ない。
 あれこれひとりで悩むより、古参の刀に聞いた方が早かろう。思案に没頭しかけたのを間際で制して、古今伝授の太刀は背筋を伸ばし、辺りを見回した。
「ただいまー」
「ああ、おかえりなさい」
 万屋に出向いていたのであろう元気良い声がして、そちらに顔を向ける。
 出迎えの言葉を受けてニッと歯を見せた鯰尾藤四郎が、戦利品が入ったと思しき袋を持ち上げた。後ろには兄弟刀である骨喰藤四郎がいて、他にも何振りか、続々と引き戸を潜って玄関内に入ってきた。
 先ほどまでがらんどうだった場所が、一気に渋滞し始めた。忙しなく靴を脱ぎ、履き物を揃えもしないで通り過ぎて行く脇差に、短刀たち。
「あ、あの。すみません」
 彼らはいずれも自分達の事に夢中で、通路の片隅に寄った太刀に気を向けもしなかった。
「じゃあ、俺、いち兄に声掛けてくるな」
「僕は五虎退、呼んで来ますね」
「早く食べたい。ねえ、半分こにしよう?」
「そう言って前に全部食ったの、誰だよ」
 外での会話の続きなのだろう、口々に言い合い、呼びかけも耳に入っていない様子だ。もっとも古今伝授の方もかなりの小声で、控えめな仕草でのことだったので、粟田口の刀たちが悪いわけではない。
 意を決して手を伸ばし、力技で引き留めていれば、なんとかなかっただろう。
 機を逸した太刀は深く肩を落とし、視界に紛れ込んだ長い前髪を指に絡めた。
「ただいま、戻りました」
「おや、古今伝授の太刀じゃないか。そんなところで何を?」
 オロオロしているうちに、脇差たちは行ってしまった。己の不甲斐なさを密やかに嘆き、愁いでいたら、ぱあっと視界が晴れるような声が届き、彼は丸めていた背を伸ばした。
 バッと振り返った太刀の勢いに驚き、履き物を脱ごうとしていた歌仙兼定がよろけた。使い込まれた下駄箱に寄りかかって事なきを得た打刀は怪訝に眉を顰め、彼に半分隠れる格好になった短刀は首を傾がせた。
「どうかしましたか」
 斜めに倒れそうになった打刀をそうっと支え、押し返し、小夜左文字が柿を模した巾着を揺らした。脱いだ草履を手早く端に揃え、上がり框を爪先で踏み、何もない場所に佇む太刀に足早に近付いた。
 彼らもまた、万屋に出向いていたのだろう。丸みを帯びた巾着袋は、華奢な短刀には少々重そうだった。
「いえ、少し気になったもので」
 そういえば彼らも非番だったのだと、今頃になって気がついた。
 どうも厨にいる印象が強い打刀が、ついでとばかりに散らばっている数多の履き物を雑に揃え、屈んだ状態で振り返る。こちらが請わずとも聞き耳を立て、会話に加わろうとしている雰囲気が、今は有り難かった。
「こちらの、この柱。妙な傷が沢山、このように」
「――ああ、それか」
「歌仙」
 それで調子を取り戻し、抱いていた疑念を口にした。
 流れで例の柱に指を添えれば、即座に気取った打刀が立ち上がり、牽制するかのように短刀が声を高くした。
 日頃は穏やかで、控えめで、戦闘中でもなければ声を荒立てる事もあまりない小夜左文字が、珍しい。
 しかも彼は微妙に嫌そうな、苦々しい面持ちをしていた。
 触れられたくない記憶なのかと勘繰って、助けを求めて歌仙兼定に目を向ける。だがこちらは短刀とは打って変わって、底抜けに楽しそうな顔をしていた。
 左手を口元にやりはするが、零れる笑みを隠し切れていない。小夜左文字の反応も含めてなのか、喉を鳴らして呵々と笑って、彼は膨れ面の少年の頭を撫でた。
「時鳥 いたくな鳴きそ 汝が声を」
「……五月の玉に あひ貫くまでに……?」
 その上で軽やかに口ずさまれて、古今伝授の太刀は反射的に下の句を諳んじた。
 万葉集に詠まれた歌だ。
 当時は邪気払いのまじないとして、薬を入れた袋にしょうぶや橘をつけた緒を垂らし、部屋に飾る習慣があった――今は男児の祭となった、五月五日の日に。
 ぷいっとそっぽを向いた短刀が、苛々した調子で打刀の腕を払った。
 古くから交流があり、遠慮をしないで済む関係だからこそのやり取りに相好を崩して、歌仙兼定が打たれた場所を撫でた。
「それはね、僕たちが本丸で生活を初めてまだ日が浅かった頃、短刀達が背比べをしてつけたものだよ。……って、痛い。お小夜、別に蹴らなくてもいいだろう」
 続けて弁慶の泣き所を蹴られ、倒れこそしなかったが、打刀は盛大に悲鳴を上げた。重心を崩されて数歩よろめき、柱に肩からぶつかって止まって、ちょうど指で触れた場所を下から上へとなぞった。
 刀傷は六つ、七つ、それ以上あり、短刀達ではとても届きそうにない場所にもひとつ、残されていた。
「あれは、御手杵のだね。皆が集まっているのを見て、面白がって。でも誰も手が届かなくて、台に上ったりして、大変だったな」
「歌仙は、一回落ちましたね」
「お小夜、それは言わない約束だろう」
「知りません、そんな約束」
 不思議に思って見上げていたら、気取った歌仙兼定が答えをくれた。代わりに短刀からの信用を失って、そっぽを向かれて視線を合わせてすら貰えなくなってしまった。
 とはいっても、小夜左文字の不機嫌はあくまで振りでしかなく、表情は最初に比べると随分と和らいでいた。打刀がみっともなく慌てふためくのを眺めて、気が晴れたのだろう。
 喧嘩は大事にならずに済みそうだ。心の片隅で安堵の息を吐いて、古今伝授の太刀は目を細めた。
「なるほど。でも、傷はどれも古いですね」
「二年ほどで、誰もやらなくなってしまったからね」
「そうなんですか?」
 古今伝授の太刀はまだこの本丸に来て一年だが、歌仙兼定は最初のひと振りだ。時の政府に命じられた審神者が此処を立ち上げてからずっと、流れ行く時を見守り続けてきた刀だ。
 小夜左文字はそんな彼の傍らに在り、同じく賑やかさを増していく本丸を見詰めてきた。
 そのふた振りが、懐かしそうに柱の傷を撫でる。まるで太刀に言われるまで、存在自体を忘れていたと言わんばかりに。
 傷跡そのものはこの場所で、外に向かい、内に戻る刀たちを物言わずに眺めていたのに。
 古びて黒ずんだ傷跡は、人の身を得た刀剣男士の日々の記憶だ。不慣れなりに必死になって、時に傷つき、時に喜び、笑って、泣いて、悔やんで、歯を食い縛った時間の中に刻まれた思い出だ。
「背比べ、だからね。柱の傷は」
「ええ、それは承知していますが」
「だからね、古今伝授の太刀。そういうことなんだ」
 その慈しむべき傷跡を、綺麗さっぱり忘れ去っていた彼らが理解出来ない。
 眉を顰めて目を眇めていたら、俯いた小夜左文字の髪を撫で、歌仙兼定が肩を竦めた。
 分かってくれと、眼差しが告げていた。直接的な言葉で説明すると短刀が傷つくと、そう言いたげな表情だった。
 それでも尚、なにが『そういうこと』なのかを計りかねて、太刀は物言わぬ柱と、打刀の袖を引く短刀とを見比べた。
 似たような位置に並ぶ傷跡の更に下にあるのが、小夜左文字の背を測った痕なのは想像が付いた。
 西行法師の和歌に由来する号を持つ短刀の逸話は、悲しみに濡れている。復讐の為に使われたと伝わりながら、装束や肉体的な特徴は山賊に奪われていた時代を連想させた。
 本丸に在るどの刀よりも小柄で、痩せた体躯。
 共に在る打刀の背にすっぽり隠れてしまえるくらいに小さな、小さな刀。そんな彼を表す、一際低い位置に刻まれた傷跡は、何故かふたつあった。
 大部分が重なっているものの、後から上書きしたと分かる浅い筋が、脇に流れていた。
 先ほど歌仙兼定は、二年ほどしてやらなくなった、と言った。
 注意深く観察しなければ分からない傷跡の違いに瞠目して、古今伝授の太刀はハッと息を呑んだ。
 表情の変化を見て、打刀が目を伏して静かにはにかむ。
 当の刀があまり気にしている素振りなく、言及することもなく、周囲も一部を除いて囃し立てることがないので、考えた事もなかったが。
 小夜左文字だって、次々やって来る刀がどれも己より背が大きいのは、快くなかったに違いない。
 人間の子供は、一年過ぎれば背が伸びる。日を追う毎に大きくなる。その成長ぶりの記録として、柱に背丈を刻む。
 しかし刀剣男士は、刀の付喪神だ。人の身をしながら、人とは異なる存在だ。どれだけ似通っていようとも、根本的な部分が違っていて、交わることはない。
 分かっていた。分かっていても、当たり前すぎて普段は忘れていた。忘れていたから、誰が言い出したか分からない背比べで、一年後の成長を密かに期待してしまった。
 結果は覆らなかった。
「歌仙、行きましょう。兄様たちが待ってる」
 嫌な記憶を掘り起こされて、小夜左文字が早口になった。握っていた打刀の袖を乱暴に引っ張り、話は終わりだとばかりに立ち去ろうとした。
 巾着袋を持つ指には力が籠もり、薄い皮膚を破って骨が飛び出てきそうだった。
「小夜左文字、待って下さい」
 知らなかったとはいえ、彼の心を傷つけた。
 柱に残る以上の深く抉ってしまったと悟って、古今伝授の太刀は声を高くした。
 間に挟まれた形の歌仙兼定が、必死の形相を間近に見て、困惑気味に短刀の手を取った。二度の深呼吸の末に華奢な肩をぽん、と叩き、探るような眼差しで太刀を仰いだ。
 なにか考えがあるのかと言外に問われ、黙って頷いて返す。
 幸か不幸か、小刀は常に持ち歩いていた。他の刀たちだって、そうだろう。道端の花を摘むにしても、邪魔な枝を払うにしても、刃物がある方が便利な機会はなにかと多い。
「せっかくですので、記念に。わたくしも、やってみたいと思うのですが。いかがでしょう」
 その鞘に仕舞った小刀を取り出して、胡乱げな眼差しの短刀に請うた。歌仙兼定は心配そうに小夜左文字を見詰めて、なかなか動こうとしない彼の肩を軽く押した。
 トン、と合図を送られた少年は爪先を僅かに滑らせ、不満げに小鼻を膨らませた。
「あなたを計るのなら、歌仙に頼んだ方が」
 外見にそぐわない低い声で、上目遣いに凄まれた。
「いえ、わたくしの背ではなく。あなたの」
 それを笑顔で受け流し、古今伝授は身を屈めた。
「おい、古今」
「……なんで」
 短刀の目線の高さに合わせてしゃがみ、空の左手を差し出す。
 途端に打刀が悲鳴を上げ、小夜左文字も顔を顰めた。
 今の会話の流れで、なぜこの展開になるのか。そう言いたげな双眸が、古今伝授の太刀に向けられた。
「一年では無理でも、あなたはもう六年も経っているのですから。分からないではありませんか」
 それらを軽く薙ぎ払って、ゆっくり、穏やかに囁く。
 奥歯を噛み締めていた幼子は、あまりにも無邪気な提案に毒気を抜かれたか、ぽかんと口を開いて固まった。
 頭上からは、深く長い溜め息が聞こえた。見れば歌仙兼定が右手で顔を覆い、肩を落としてがっくり項垂れていた。
「どうして、そんな無責任なことが言えるんだい」
「あなたこそ、どうして刀剣男士の背が伸びないと、言い切ってしまえるんです?」
「だってそりゃあ、僕たちは刀だ。人ではない。それに、現に――」
「ええ、ですから。毎年、確かめたわけではないのでしょう?」
 咎められて、即座に言い返した。食い下がられて気を悪くした打刀が腕を横薙ぎに払い、柱の傷を指差そうとするのを寸前で防いで、確認を求めた。
 揚げ足を取られた歌仙兼定は喉に息を詰まらせ、握り拳をわなわな震わせた。荒い呼吸で肩を上下させて、頭に上った血を一気に冷ました。
「それは、その通りだが」
 それでもまだ受け入れきれないのか、歯切れが悪い調子で言って、頭を掻く。
 渋い表情で唇を舐めた彼に笑っていたら、羽織をちょん、と引っ張られた。即座に視線を転じれば、苦虫を噛み潰したような顔の小夜左文字が、溜め息と共に口を開いた。
「めづらしき 声ならなくに ほととぎす」
「……山高み 雲居に見ゆる 桜花」
 聞き飽きる程聞いた時鳥の声は、何年経っても変わることがないと小夜左文字が謳えば、古今伝授の太刀は手が届かずとも心だけは届かせよ、と返す。
 偶々通りかかった肥前忠広が、何をやっているのかという顔をして去って行った。両者の間に立つ歌仙兼定こそ、やり取りを理解している風だが、下手に割って入るとやぶ蛇になると悟り、余計な口を挟まなかった。
 やんわりとやり返された短刀は渋面を深め、根負けしたのか、力なく首を振って柱に背中を預けた。
 かつては同じ主の元にあった刀だ。それ故に小夜左文字は、太刀の諦めの悪さを承知していた。
 放っておけば、延々とこのやり取りが続く。密かに危惧していた展開にならずに済み、歌仙兼定は露骨に安堵の表情を浮かべた。
「ええと、頭の天辺に合わせれば良いのですね?」
「なにか細長い板でもあれば、それを沿わせて計ると良い」
「では、こちらの短冊でも」
 年季が感じられる柱の前に立った短刀に、古今伝授の太刀は満足げに頬を緩めた。打刀の助言を受けて、和歌をしたためる為の短冊を取り出す。一緒に収めていた矢立は置いて、大人しく背筋を伸ばしている短刀の頭上に薄い紙を翳した。
 癖のある髪で膨らんだ分を押さえて潰し、短冊の端を柱に届けた。
「こんなこと、やったって」
 この状況を楽しんでいるのは、太刀だけだ。初めての経験にわくわくが抑えきれず、面白がっているのがそっくりそのまま顔に出ていた。
 肝心の短刀は不満を隠さないが、逃げ出したりはしない。
 ふて腐れた態度で、なぜか打刀を睨み付けて、間近で煌めいた刃の輝きにはびくりと首を竦ませた。
「動かないでください」
「お小夜に傷を付けないでくれたまえよ」
 弾みで頭上の短冊が揺れて、古今伝授の太刀の狙いが狂った。
 切っ先があらぬ方向を向いたのを見咎め、歌仙兼定がはらはらした面持ちで抗議する。そのふた振りのやり取りをどこか他人事のように見上げて、小夜左文字は諦めた風に目を閉じた。
 両手をだらりと垂らし、顎を引き気味に背筋を伸ばして、結った髪ごと後頭部を柱に押しつけた。
 その頭部に短冊を、改めて押しつけて、太刀は切っ先を柱に定めた。
 シャッ、シャッ、と二度往復させて、本丸のあれやこれやを見続けてきた屋敷に新たな傷を刻みつけた。
 役目を終えた短冊を引けば、すかさず打刀が身を乗り出して覗き込んで来た。短刀も恐る恐る振り返って、抉られて広がった柱の傷に目を丸くした。
 古きに混じって新しく削りとられた木粉が、ふわりと風にそよいで舞い上がる。
「短冊の、当て方。おかしかったんじゃないんですか」
 早速使い慣れた品の扱いについて難癖を付けられて、笑みが零れた。
「そうでしょうか。わたくしは、以前どのようにしていたか、皆目見当がつきませんので」
 それを右手で隠し、不満顔を崩さない短刀に囁く。
 歌仙兼定は真新しい柱の傷を指の腹でなぞり、残り滓を取り除いた。縦にも、横にも広くなった傷跡に肩を竦めて、両手を腰に当てた。
「屋敷にわざと傷をつけた件、主には黙っていよう」
「それは助かります」
「兄様たちが待ってるから、僕はもう行きます」
 心持ち嬉しそうな嘆息に安堵して、畳みかけるように告げられた短刀の声に揃って視線を向ける。
「あ、お小夜」
 呼び止めるが、駆け出した少年は止まらない。打刀が咄嗟に手を伸ばすが、当然ながら届くわけもなく。
 文句だけを残して、小さな背中はすぐ見えなくなった。入れ替わるように外から風が吹き込んで、古今伝授の太刀は甘い初夏の匂いに目尻を下げた。

いつのまに五月来ぬらむあしひきの 山ほととぎす今ぞ鳴くなる
古今和歌集 夏 140

2021/05/04 脱稿