ひな鶴の 沢辺にしばし 休らふを

 食堂で渡された甘味に、思うところはいくつかあった。
 真っ先に思い浮かんだのは、懐かしい人の顔。好物を手に、嬉しそうに笑う姿が自然と瞼に甦って、鼻の奥がつんとなった。
 年甲斐もなく頬張っていた光景が次々と現れては、消えていく。そんな事情もあって、分かっているというのに、足は自然と医務室に向かっていた。
 カルデアの現在地は、あの頃から大きく変化した。しかし古くからのスタッフに配慮してか、主たる施設の位置は、あの頃を模したものになっていた。
 違う点を挙げたらキリがないけれど、似通っている部分も、数えてみれば両手で足りない。床に薄く、長く伸びる影を踏みしめながら、立香は慣れ親しみつつある道筋を辿った。
 こんなものをもらっても、彼が喜ぶはずがないのは知っている。
 だというのに郷愁を抱いた影響か、一緒に食べたいと願ってしまった。
 嫌な顔をするだろうか。あの人と彼は、まるで違う存在なのだから。
 もとより比べられるのを、快く思ってはいまい。いや、あの男のことだから、歯牙にも掛けず、鼻で笑い飛ばすかもしれないが。
「どっちでも、いい、かな」
 これは自分の我が儘だ。そして目下メディカルルームを支配下に置くサーヴァントには、マスターの命令に従う責務がある。
 いざとなれば、令呪を使えば良い。そんな理由で消費して良いものではないと、周囲から雷を喰らいそうではあるが。
「ふふん」
 だとしても、構わない。
 妙な開き直りの精神で胸を張って、立香は迷う事なく辿り着いたドアを潜った。
「アスクレピオス、入るよー」
 動くものを感知して、扉は自動的に道を譲った。室内に入ってから呼び声をあげた彼に、中に居た男は至って面倒臭そうな顔で振り返った。
 同じく振り向いたネモナースが、立香の顔と、手元を見て、即座にアスクレピオスを仰ぎ直した。胸に抱いたタブレットを素早く操作して、画面を消したかと思えば、ぺこりと頭を下げた。
「続きは、こちらで引き受けますね」
「なんだと? おい、勝手な真似をするんじゃない」
「アスクレピオス君は、朝からずっと作業続きで、お疲れですから。丁度良かったです。休憩、してくださいね」
 言うが早いか、ネモ船長の分身体はパタパタと可愛い足音を響かせた。急な予定変更に驚き、声を荒らげた男の制止も聞かず、立香に向けてはにっこり笑いかけた。
「え?」
 来たばかりなので理解が間に合わず、反応出来ない。ただすれ違い様、ぽん、と軽く腰を叩かれたことで、ピンとくるものがあった。
 ドアが開いて、すぐに閉まった。足早に去って行った背中を見送って、残された青年は、同じく置いていかれた男に肩を竦めた。
「……だってさ」
 メディカルルームを根城にしているのは、アスクレピオスだけではない。看護師としての役目を担うあの子が言うのであれば、この男は本当に、朝からずっと、作業のし通しだったのだ。
 手にした皿を上下に揺らし、立香もまた、彼に休憩を促した。言われた方は終始渋い表情だったが、睨んだところで立香が譲らないと知るや、諦めて肩を落とした。
「僕は、サーヴァントだぞ」
「でも、疲労は溜まるよね。疲れた時には、はい。甘い物」
「サーヴァントに――」
「食べるのも、気分転換のうち。それに、誰かと一緒に食べるのは、余計に美味しいから。ねえ、オレに付き合ってよ」
 苦虫を噛み潰したような顔で呻く男を説得し、手近なところにあった背もたれのない椅子を引き寄せた。先に腰を下ろし、キャスター付きの椅子を爪先で示して、食堂から運んで来たものは机の空いている場所に捩じ込んだ。
 なんだか良く分からない空き瓶や、乾燥した草の束などを押し退け、スペースを作る。その上で改めて皿の上の大福を掌で指し示せば、アスクレピオスは観念したか、鈍い足取りで近付いて来た。
 途中だった作業データを保存して、タブレットは薬品棚の隙間に捩じ込んだ。手前にあったワゴンには、整理中と思しき薬の瓶と、分類に使うラベルなどが並べられていた。
 室内を注意して見回せば、空になった瓶や、箱に入った備品類が大量に積まれていた。
 今は緊急を要するレイシフトもなく、ノウム・カルデア内は落ち着いていた。言い換えれば時間的余裕があるので、滞っていた作業をまとめて進めていたのだ。
「忙しいなら、手伝おうか?」
「お前の手を借りる程のものじゃない。……これは、食べ物なのか?」
 立香も、取り立てて急ぎの用はない。
 親切で言ったのだが、アスクレピオスはにべもなかった。取り付く島を与えず、素早く話題を変え、真っ白い大福に眉を顰ませた。
 怪訝な顔付きで、遠くから皿の上の物体を窺っている。
 立香にとって馴染み深い甘味でも、古代ギリシャに由来する英霊には縁がなかったものだ。奇異に思うのも当然と苦笑して、彼は仲良く並んでいる大福のうち、手前側を軽く小突いた。
 ちょっと押しただけなのに、柔らかな餅はその形の通りに凹んだ。
「美味しいよ」
 無銘の弓兵ことエミヤの自信作だから、味はお墨付きだ。
 アスクレピオスもさっさと座って食べるよう言って、立香は指で凹ませた方を取り、遠慮なく齧り付いた。
 大きく口を開き、中心部手前で前歯を衝き立てる。
「はむ」
 口を閉じる直前、鼻から息を吐いた。幸せを感じながら噛み締めた大福は、完全には千切れず、びよーん、と面白いくらいに長く伸びた。
 中に包まれていた餡子の甘みと、仄かなしょっぱさが心地よい。味付けは絶妙で、最高だった。
 作ってくれた英霊を心の中で称賛し、咀嚼しながら惜しみない拍手を送り続けた。満面の笑みを浮かべてふたくち目を頬張って、立香はふと視線を感じ、前に向き直った。
「食べないの?」
「お前を見ている方が面白い」
「ぶふっ。なにそれ。嫌味?」
 穴が空くほどではないけれど、凝視されていた。あまつさえ、失礼千万なことを言われた。
 軽く噎せ、睨み付けるけれど、アスクレピオスはどこ吹く風だ。飄々と受け流した彼は診療時に使う椅子に座りはしたが、大福には手を出さず、机の角に肘を立てて頬杖をついた。 
 本当に、立香が食べる姿を眺め続けるつもりらしい。
「性格悪いって言われない?」
「今さら、なにを」
 食べているところをじっと見られるのは、正直かなり微妙だ。ひとりだけ食べている状況なのも、良い気がしなかった。
 一緒に食べたくてわざわざ運んで来たのに、これでは意味が無い。
「アスクレピオス」
「なんだ、マスター」
 我慢ならなくて訴えかけるが、伝わらない。ぞんざいに返事した彼は、頬杖をついたまま右手を振り、返事の代わりにした。
 もれなく長い袖が揺れて、細かな刺繍が光を反射した。
 指先は布に覆われて見えず、また袖を捲って曝け出すつもりもないらしい。やる気は感じられず、自発的になにかしよう、という雰囲気も皆無だった。
 本音を言えば、腹立たしい。
 残り少なくなった大福を一気に口に放り込んで、立香はむすっと頬を膨らませた。
 柔らかな塊を雑に噛み砕き、飲み込んで、指にこびりついた粘り気は舐めて、刮ぎ落とした。爪に貼り付いていた餅の残骸も、唾液を吸わせて湿らせて、前歯で削って回収した。
 最後に親指の腹に残る打ち粉に舌を這わせたところで、ハッと息を呑む。
 指を半端に咥えたまま、背筋を伸ばし、アスクレピオスを見た。かの男は依然として横柄な態度を崩さず、悠然と椅子に座ってこちらを眺めていた。
 特徴的な前髪の内側で、僅かに金が混じった緑の瞳が立香に向けられる。 
 これまでもずっとそうだったのに、この時だけ、目が合った途端に気恥ずかしくなった。
 発作的に膝を閉じ、畏まって、立香は濡れた指先を服に擦りつけた。
「手術着っぽい、ほら。あっちの服なら、自分で持てるじゃない?」
「あれはあれで、手袋を外すのが手間だ」
「じゃあ、オレ、食堂からお箸、貰ってくる」
「あの二本の棒は、得意じゃない」
「あああー、もう!」
 他愛ない仕草と無視してやれば良かったのに、気がついてしまった。
 アスクレピオスの今の格好では、大福を手で持てない。柔らかな餅を布越しに握ろうものなら、どうなる。袖にべったり貼り付いて、食べるどころの騒ぎではなかった。
 とはいえ、伝え方の難易度が高すぎやしないだろうか。
 口で説明してくれればこちらとしても楽だし、理解もずっと早かった。だのにわざわざ回りくどく、面倒なやり方をして、いったい何がしたいのか。
「この我が儘。ていうか、ちゃんと言ってよ。分かり難いんですけど」
「だが、お前は理解した」
「はいはい。じゃあ、どうぞ。口開けて」
 ふて腐れて文句を言うものの、話が噛み合わない。真面目に付き合ってやるのも面倒臭くなって、立香は投げやりに言い、皿に残っていた大福を鷲掴みにした。
 もっちりとした感触で、餡子がたっぷりなのもあり、意外と重い。
 たった一個だけでも、充分腹が膨れた。口の中の水分を奪われ、熱い茶が欲しくなる欠点を除けば、概ね満足だった。
 手の掛かるひな鳥の為に、満腹感を堪能しつつ、腕を伸ばす。
 アスクレピオスは返答を受けて一瞬目を見開いた後、すぐに眇め、僅かに身を乗り出した。キャスター付きの椅子を軋ませて、言われた通りに口を開いた。
 ただその隙間は、とても丸齧り出来る広さではなかった。
 まさか捩じ込むわけにもいかなくて、立香は慌ててブレーキを踏んだ。大福を差し出す勢いを微調整して、伏し目がちになっているアスクレピオスの手前で停止させた。
 お蔭で当初より、あらゆる動きがゆっくりになった。
 長く伸びるもみあげが絡まないよう、男は手で髪を掻き上げた。真正面からでは齧りにくいと判断したのか、顎を引いて背筋を伸ばして、斜め上から改めて狙いを定め直した。
 思えば彼がなにかを口にする瞬間というものを、ここまで間近で、じっくり観察したことはない。
 その事実に気がついた途端、緊張に襲われた。大福を握る手にも力が籠もり、綺麗な円形が楕円に歪んだ。
「う、ぅわ……」
 無意識に声が漏れたが、掠れるほどの小声だったので、アスクレピオスは反応しなかった。彼は交差する前髪を静かに揺らし、唇の隙間から舌先を覗かせて、真っ白い大福を探るようにひと舐めした。
 ちろりと舌で表面を擽って、コンマ二秒後に唇を押しつけた。湿らせた箇所に前歯を衝き立て、一部だけを削りとった。
 思い切りの良さはなく、慎重だった。初めて口にするものに興味はあるが、万が一の可能性を考慮して、探りを入れるのを忘れなかった。
 とはいっても、小指の先ほどを味わったところで、大福の美味しさは実感できまい。
「これは、そういうんじゃなくて。もっとこう……がぶっと。いかないと」
 唇に付着した白い打ち粉を舐める姿も面白く、ついつい笑みが零れた。
 このサイズをひと口で食べろとは言わないが、せめて三口で終わらせて欲しい。ちびちび行くのではなく、大胆に挑むよう持ちかけて、立香は手本代わりに口を開閉させた。
 先ほど実践してみせたのを思い出すよう言って、右手で抓み持つ大福を揺らす。
 力説するマスターにひとつ頷いて、アスクレピオスは目を細めた。
「そうか。お前がそう言うのなら……遠慮は不要だな」
「ん?」
 くく、と喉を鳴らしながら囁かれて、なにやら不穏なものを背中に感じた。もしや選択を間違えたかと懸念し、慌てて思考を巡らせるけれど、それより早く、アスクレピオスの手が伸びてきた。
 同時にキャスター付きの椅子が膝の裏で蹴られ、遠くへと飛んで行った。
「え、え。ちょ」
 急にガタッと立ち上がられて、立香は慌てふためいた。床を滑る椅子の行方と、迫る男のどちらを注視すべきか迷っているうちに、手首を取られ、不遜に笑いかけられた。
 映画の中で悪役がやりそうな顔をして、やや乱暴に引っ張られた。
 自由を奪われた腕の先で、大福が不安定に揺れ動く。
 このままでは落としてしまう。しかし焦るこちらの気も知らず、距離を詰めたアスクレピオスは、教わった通りの大胆さで口を開いた。
 それは狙い定めた獲物を喰らう、蛇の如き姿だった。
「う……っ」
 最初の控えめな食べ方は、演技だったのか。
 信じられないと目を丸くする立香の前で、彼は寸胴な大福を半分に噛み千切った。餡子の塊が断面から崩れ落ちそうになっているのを見れば、即座に舌を伸ばし、下から掬い上げる形で救い出した。
 その際勢い余ったのか、脇に逸れた舌先が、大福を支える立香の指を掠めた。
 自分のものとは違う、生暖かい熱と滑りが、一瞬で通り過ぎて行く。
「ひぃぃ」
 たまらず喉を引き攣らせて悲鳴をあげるが、アスクレピオスは意に介さなかった。
 聞こえていないのか、それとも無視しているだけか。もちもちした食感をさほど楽しむことなく飲み込んで、彼は右から左へと、唇を舐めた。
 わざと見せつけるかのように、ゆっくりと。そして頬を引き攣らせる立香に向かって、ニィ、と口角を歪めみせた。
「や、やっぱ。やめ。やめ! 自分で食べて!」
 箸がダメなら、フォークを使えば良い。邪道だが、ナイフで小さく切って食べるのもひとつの手だ。
 とにかく今の、この食べさせ方から逃げたかった。しかしジタバタ暴れても、拘束は一向に解かれなかった。
 クラスはキャスターで、腕力だってたいしたことがないくせに、こういう時だけ規定外の力を発揮してくれる。
 そもそも相手がサーヴァントである時点で、人間である立香に勝ち目はないのだけれど。
「お前が自分で、このやり方を提案したんだろう」
「アスクレピオスが、そうしろって」
「生憎、僕はそんなこと、ひと言も言っていないぞ。マスター?」
「はっ。あああ、もう。この、卑怯者ぉ!」
 もっとも抵抗はまるで無意味ではなく、逃れられないものの、アスクレピオスの再接近は防げた。
 力尽くで抑え込もうとする彼を牽制し、口汚く罵って、同時に掌で転がされていた自分を呪った。彼の指摘は正しくて、全ては立香が勝手に思い込み、決めつけての行動だった。
 己のあまりの軽率さに、恥ずかしくて涙が出そうだ。
「言いたいことは、それで全部か」
 鼻を愚図らせていたら、頭の上から冷たいひと言が降って来た。
 馬鹿にされて、やり返したい気持ちは十二分にあったのだけれど、言葉が追い付かない。
 ごちゃごちゃしてまとまらない頭で見上げた先で、アスクレピオスは思った以上に優しい、柔らかな顔をしていた。
 口ぶりと、表情が一致しない。
 思わず抱いた違和感に戸惑い、混乱しているうちに、隙を見出した男が再度立香の手を引き、その指先に顔を近付けた。
 長く握り締めていた所為で、大福は、最早原形を留めていない。歯形が残る断面は瓢箪型になり、指は深くまで食い込んでいた。ねっとりとした感触が皮膚を包み込んで、滲み出た汗が大福の塩気を増幅させていた。
 そんな甘味に鼻を寄せ、アスクレピオスが一瞬こちらを見た。
 目が合った。
 逃げ場のない距離で、立香はまさに蛇に睨まれた蛙だった。
「あ、あの……」
「もらうぞ」
 言いたい事があったはずなのに、言葉が出ない。
 それに被せる形で短く宣言して、アスクレピオスは淡々と口を開き、立香が持つ大福に舌を伸ばした。
 真上から、唾液を滴らせて。
 生温かな粘膜で全体を包み込んで、くちゅり、と濡れた音を響かせた。
 最初に比べれば格段に小さくなった大福ごと、傷だらけの指をぱくりと咥え、唇で食む。傷つけないよう牙は立てず、ふにふにと捏ねるように動かして、べったり貼り付いていた両者を引き剥がした。
 丁寧に。
 丹念に。
 慎重に、じっくり時間を掛けて。
 舌が同じ場所を何度も往復し、肌を擽った。爪の隙間に潜り込んでいないか一本ずつ確かめて、無数に走る皺を伸ばし、塊を飲み込む際には強く吸い付いた。
 彼がなにかする度に、ぬちゅ、くちゅ、と水が跳ねる音がする。しかもそれは耳殻を通って鼓膜を震わせる類ではなく、立香の骨を伝い、直接脳に届くものだった。
 それが二重にも、三重にもなって、身体の内側を駆け抜けて行く。
 合間に漏れ聞こえる吐息がくすぐったい。微熱を含んだ呼気で濡れた指先をなぞられて、ぞわぞわと悪寒が走った。
「ひや、あ、あの。あの、……ね。もう、ね……?」
 揃えていた踵が、自然と外向きに広がった。膝と爪先は密着させたままもぞもぞ身動ぐけれど、巧く言葉に出来ないせいか、アスクレピオスは止まらなかった。
 一瞬だけ瞳を持ち上げ、立香を窺って、またすぐに伏した。深く咥え込んだ人の指ばかり見詰めて、熱心に、充分過ぎるくらい、その腹を、爪先を、背を、舐め回した。
 最早そこに、大福は欠片すら残っていない。
 なのにまだ満足出来ないのか、あちこち這い回っては、その都度艶めかしい音を響かせた。
 いい加減解放してもらいたいけれど、身動きが取れないまま、時間だけが過ぎていく。
 片腕だけを高く掲げられた姿勢は、苦痛だ。肩や周囲の筋肉には余分な負荷が掛かり、じわじわ煽られ、熱を抱く体躯が余計に体力を削ってくれた。
 内股になって腰をくねらせ、視覚的に訴えてみても、アスクレピオスは察してくれない。絶対に、確実に気付いているだろうに、無視を決め込み、言及を避けていた。
 是が非でも言わせたいらしい。
 患者の具合を、医者の勝手な想像で判断してはならない。それは常々、彼が口にしていることでもある。
「だから、ってぇ」
 半泣きで鼻を愚図らせて、立香は唇を噛んだ。喉の奥で恨み言を呟いて、最後の抵抗とばかりに、奪われた右腕を取り戻すべく、肘を引いた。
 そうすれば、どうなるか。
 咥え込んでいたものが引き抜かれそうになったアスクレピオスが、反射的に立香を噛んだ。
 ずっと意図的に避けていたことを、止められなかった。
 強く、思い切り。
 力任せに。
「ひゃあ、っん!」
 乱暴に削られた。けれどそれは、ある意味立香が求めていた、新しい刺激だった。
 どくりと心臓が高鳴り、衝撃を待ち侘びていた身体が素直過ぎる反応を示した。溢れる声を止められず、殊の外甲高い悲鳴を上げて、本人もよもやの出来事に遅れて目を丸くした。
 小さく跳ねた膝が空中で衝突して、引き摺られた布が深く腿に食い込む。ぎゅう、と上から押さえつけられた肉欲がそれに反発して、明確な形を成し、俯いた立香の視界に飛び込んで来た。
 居たたまれなくて慌てて顔を上げれば、人の指の腹を舐める男の貌が、存外近い場所にあった。
「……!」
 目にした瞬間、顔から火が出そうになった。ぼっ、と音が響くくらい真っ赤になって固まった彼に、アスクレピオスは低く笑った。そうして引き抜かれこそしたけれど、未だそこにある指先に舌を絡ませた。
 たっぷりの唾液を塗し、くにくにと擽った。滴り落ちそうになった水滴は拾い上げて、温かな熱と共に再度擦りつけた。
「さて、マスター」
 低く掠れた声が、耳元で風を起こす。
 ぞくりと来る微熱に身震いして、立香は二度瞬きし、底意地が悪い男を窺った。
 今も囚われ中の手越しに見た彼は、不遜に微笑み、小首を傾げていた。濡れて艶めかしく光る指の背にくちづけて、敢えて舌を空振りさせて、人を試した。
 なにかを期待して蠢いた太腿に、長い袖が降りてくる。
「次は、何を食わせてくれるんだ?」
 甘く濡れた囁きに、胸が弾むのを止められない。
「それ、は」
 布越しになぞられて、息が詰まった。きゅう、と縮こまった身体をゆっくり開いて、立香はふやけて皺くちゃになった指で、アスクレピオスの唇を撫でた。