朝霜の おくれば暮るる 冬の日も

 その日は、寝付きが良くなかった。
 寝台に寝転がり、灯りを消して、目を閉じても睡魔が来ない。幾度も寝返りを打ち、無限に増える羊を数えもしたが、効果は無かった。
「……ダメか」
 もっともそんな事態は、今に始まったことではない。毎夜とはいかないが、三日に一度は起きる現象に、心はすっかり慣れきっていた。
 それはあまり喜ばしいことではないけれど、変に焦って、神経を磨り減らすよりはずっと良かった。
 無理に眠ろうとして、却って目が醒めて眠れなくなるくらいなら、起き上がって気分転換を。
 諦めの境地から潔く開き直って、汎人類史最後のマスターたる藤丸立香は身を起こした。
 人肌に温まった毛布に別れを告げ、揃えておいた靴を履いた。爪先で数回床を叩き、寝間着代わりにしているインナーの上に上着を羽織った。
 袖は通さず、肩に被せるだけでも、空調が効いている屋内は充分暖かかった。
「本当は、もっと寒いはずなんだけどな」
 壁に表示されたデジタル時計は、照明がなくても数字がはっきりと見えた。
 深夜と表現するには少々早い時間帯が表示されて、その下には小さく、今日の日付も記されていた。
 白紙化される以前の地球では、この時期、北半球は冬だ。春の足音に耳を澄ましつつ、まだまだ厳しい寒さに身を震わせている頃だ。
 だが現状、季節の移ろいを感じるのは難しい。
 飾り気の少ない無機質な空間をぼんやり眺めて、立香は緩く首を振った。
 物寂しさを覚え、心に隙間風が吹いた。
 眠りを求めていたはずなのに、睡魔は余計に遠ざかった。代わりに言い表しようのない虚無感が、鍵のないドアをノックした。
「散歩してこよう」
 こんな気分転換は、求めていない。
 絞り出すように呟いて、彼は重い腰を上げた。
 上着がずり落ちないよう襟を掴み、扉を潜った。人の気配を察知してドアは自動的に開き、潜り抜けてすぐ、勝手に閉まった。
 夜間というのもあり、廊下の照明は消えていないけれど、明るさはかなり絞られていた。
 昼に比べて格段に薄暗い通路は、果てが知れない。
 見飽きているはずの景色が不意に不気味に思えて、ぶるっと寒気が来た。
「まあ、でも。何かあったら、ダ・ヴィンチちゃんが反応するはずだし」
 嫌な予感を払拭すべく、わざと声に出し、頼りになる仲間を思い浮かべる。最中に天井を見上げ、再び遠くに目をやれば、恐怖心は幾ばくか弱まった。
 ほっと息を吐き、唇を舐めた。乾いてかさついている指で上着を握り直し、一歩を踏み出した。
 新所長のゴルドルフはもう眠っているだろう。マシュは起きているかもしれないが、夜半に女子の部屋を訪れるのは、要らぬトラブルを招きかねない。管制室には夜でも誰か詰めているはずだが、仕事を邪魔するのは忍びなかった。
 行き先を検討して、あれこれ理屈をつけて候補を減らしていく。
「……怒られるかな」
 そして毎回、残るのはただ一カ所のみ。
 呆れ顔の医者の顔を想像して、立香は首を竦めた。小さく舌を出して苦笑して、足取りも軽く歩き出した。
 真っ直ぐ伸びる廊下を抜けて、いくつか角を曲がり、一気に馴染み深くなった空間へ。
「こんばんはー」
 軽やかに夜の挨拶を述べ、踏み込んだ室内は、廊下と比べると格段に明るかった。
 入って正面に診察用の椅子と、ベッド。左側に幅広の机が置かれ、卓上には複数のモニターが行儀良く並んでいた。
 空のベッド、片隅に追い遣られた点滴スタンドに、消毒薬やガーゼが収められた銀色のワゴン。一定間隔で響く電子音の発生源は、残念ながら見付けられなかった。
「夜中の急患にしては、随分と元気が良いな」
 一見すると無人かと勘違いしたくなるが、そうではない。
 聞こえて来た嫌味に瞬きして、背筋を伸ばした。声がした方に首を向ければ、特徴的な前髪の医者が、壁際に佇んでいた。
 長い袖をだらりと垂らして、表情は不満げだ。眇められた眼は鋭く、姿勢良く立つ立香を値踏みするが如く睨み付けた。
 への字に曲げられた口元は、多くを語らない。全身から発せられるオーラは、全力で不機嫌だと告げていた。
 寝ていたのを叩き起こされた、というわけではなかろう。そもそもサーヴァントは、睡眠を必要としない。彼ら英霊は、ただの人間でしかない立香たちとは、身体の構造から魂の在り方まで、なにもかもが異なっているのだ。
「元気じゃないよ。眠れないんだ」
 彼は単に、医務室にやって来た人間が深刻な病状を抱えていないのが、面白くないだけだ。
 医神との異名を持つギリシャ神話の英霊は、その尊称に偽りない力を有していた。
 反面、思考回路が医学方面に特化しすぎている為、並大抵の症例では満足しない。挙げ句奇病を求めて危険地帯に突進したり、動く屍体を手懐けようとしたりと、常識の範囲からはみ出る行動も厭わなかった。
 そんな男に不眠症を訴えたところで、鼻であしらわれるのは明らか。
 にもかかわらず平然と言い放ち、主張した立香に、アスクレピオスは深々と溜め息を吐いた。
「またか」
 繰り返される夜間の来訪に、彼もすっかり諦め気味だ。
 面倒臭そうに舌打ちして、利き腕に巻き付いていた白蛇の顎を撫でた。好きな場所に座るよう、目線だけで立香に指示を出し、彼自身は踵を返して部屋の奥へと向かった。
 医務室には、水道が引かれていた。ガスもある。冷蔵庫や、冷凍庫といった設備も整えられていた。
 いずれも医療行為に必要なものだから、用意されているだけ。しかしかつてのカルデアで、メディカルルームを拠点にしていた男は、医薬品を保管すべき冷蔵室に、度々甘い物を隠していた。
 誰にも言わないと約束して、ご相伴に与ったこともある。
 不意に甦った記憶に身震いして、立香は強張りかけた頬を撫でた。
 軽く揉み、抓み、押して、力技で表情を緩めた。無人だった丸椅子に腰掛け、羽織っていた上着を膝に広げる。しばらく待っていたら、遠くから物音がした。
 ピー、という甲高い電子音は、湯沸かし器の警告音だ。
「アスクレピオス?」
「砂糖と、蜂蜜と、どっちが良い」
「両方は?」
「ダメだ。どちらかにしろ」
「えー。じゃあ、蜂蜜で」
 耳を澄ませば、カチャカチャと陶器か、金属かが擦れ合う音もした。
 首を伸ばし、様子を窺うけれど、障害物が多くて見通せない。ソワソワしつつ、暇を持て余して貧乏揺すりをしていたら、白蛇が床を這って来るのが見えた。
「おいで」
 手招きし、ついでに姿勢を低くした。左腕を伸ばし、指先を揃えれば、意図を汲んだ蛇がするりと手首に巻き付いた。
 鱗はつるりとして、冷たい。締めつけない程度に絡みついて、肩に到達するまであっという間だった。
「あは。くすぐったいよ」
 細く長い舌をちろちろさせて、頭部を擦りつけられた。首筋を擽られて、思わず声が出る。高らかに笑っていたら、ガチャン、と遠くで不穏な音がした。
 なにかが割れたのではと危惧するけれど、違うかもしれない。
「大丈夫?」
「問題無い」
 姿が見えない相手に呼びかければ、瞬時に返事があった。
 苛立ちが感じられる口調は素っ気なく、語気も荒かった。とても問題無いようには思えなくて、立香は纏わり付く白蛇と顔を見合わせた。
 つぶらな眼を見詰めて小首を傾げても、相手は言葉を発する器官を持たない。ただ人並みに感情はあるようで、気にするなとでも言いたげに、再び首を擡げて頭を擦りつけて来た。
 どういう仕組みなのかは分からないが、アスクレピオスが戦場に立つ際、この蛇は機械の姿へと変わる。戦闘に参加し、果敢に攻めて、医神をサポートした。
 ギリシャ異聞帯の神々は機械の肉体を有していたから、これもまた、その一部なのかもしれない。とすればアポロンの血を引くアスクレピオスの、機械神としての部分が、この蛇に備わっているのかもしれなかった。
「その辺、どうなのかな」
 出生の謂われが尾を引いて、医神と太陽神の関係は最悪だ。彼の前でその名を口にするだけでも、血の雨が降りかねなかった。
 だから聞いたことがないし、聞けたとしても答えが得られるとは限らない。
 危険な好奇心は胸に秘して、立香は喋らない蛇の頭を撫でた。
 そうこうしているうちに、足音が小さく響いた。顔を上げればサンダルの踵で床を蹴り、コートを翻した英霊が間近に迫っていた。
 楕円形のトレイには、大ぶりのマグカップとティーポット。どちらも余計な装飾は一切施されず、極めてシンプルで、実に機能的な食器だった。
 裏を返せば愛想がないが、そこに頓着しないのが、いかにも彼らしい。
「眠る前に、歯を磨き直すのを忘れるな」
「はあい」
 蜂蜜が入っているからと前置きして、トレイに載せたまま差し出された。
 彼の袖は長くて、物を掴む邪魔になる。不用意に持とうとすれば失敗する恐れがあると、それは立香も承知していた。
 だから大人しく自分で引き取って、ほんのり漂う甘い香りに頬を緩めた。
「カモミール」
 微かに林檎のような匂いがしたが、実際に林檎が使われているわけではない。
 これまでにも何度か供されたことがある飲み物に相好を崩し、立香は水面に向かってそっと息を吹きかけた。
 僅かに黄みがかった色の液体を揺らし、表層を泳ぐ小さな花を目で追いかけた。
 どうやら生の花を、そのまま使っているらしい。
 香りだけでなく、目も楽しませてくれる。無愛想ながら、不思議な気遣いを見せた英霊に破顔一笑して、目礼してからひとくち、温かな茶を口に含ませた。
 優しい匂いに、柔らかな味わいが、舌先を通して全身に広がっていった。
「おいしい」
 幸せを噛み締め、目を細める。
 人の肩に居座っていた白蛇を引き取って、アスクレピオスは再び奥へ引っ込んだ。戻ってきた彼は、矢張り白一色の小さな容器を、ティーポットの隣に置いた。
「飲んだら、さっさと帰れ」
 冷めないようポットにはカバーを被せて、蜂蜜もしっかり準備しておいて、告げる言葉は素っ気ない。
 一致しない言動に噴き出しかけたが我慢して、立香は温かなマグカップを両手で包み込んだ。
「は~い」
「返事だけ一人前だな、お前は」
 間延びした声で応じたら、呆れられた。
 ただ表情は来訪直後とは異なり、幾分穏やかだった。
 優しい顔をしていると言ったら、きっと拗ねて、いつもの仏頂面に戻ってしまう。だから指摘せず、胸の内に留めた。
 彼はいつも、夜更けに訪ねて行くと、迷惑そうな顔をする。
 けれど眠れないと言えば理由は聞かず、こうしてお茶を淹れてくれたり、拙い話に付き合ってくれた。
 馬鹿騒ぎには、乗ってきてはくれない。冗談は通じない。不眠症の自分を茶化せば、逆にこっぴどく怒られた。
 治療方法はないと言われていた。最たる原因が、終わりの見えないこの旅路にある以上、根治は不可能と匙を投げられていた。
 立ち向かい続けても、諦めて歩みを止めても。立香がどちらを選んだとしても、きっと穏やかに眠れることはない。
 アスクレピオスは悔しそうだった。腹立たしげに舌打ちを繰り返し、握り拳を震わせていた。
「あったかいや……」
 今となっては懐くもあるやり取りを振り返り、飲みやすい温度になったカモミールティーを啜った。すいすい泳ぐ小さな花を避けて喉を鳴らし、ぷは、と息を吐いた。
 すっかり空になったカップを膝に下ろせば、傍らで見守っていたアスクレピオスがその手を伸ばした。
 袖越しに指が触れた。
 ずっと黙って佇んでいた彼が、何を考えていたか、立香には分からない。
「え、なに?」
 彼の挙動は唐突で、前触れがなかった。断りのひと言もなく、マグカップごと手を握られたのに、驚かずにはいられなかった。
 予期せぬことに声が上擦った。思いの外近くにあった彼の顔は、人に似て人にあらずの、神の血筋にあると瞬時に分かる造詣だった。
 要するに至近距離で直視するのは、目に毒だった。
 わざとではなかろうが、彼の呼気が肌を掠めた。煽られた前髪がふわりと浮き、沈んでいくのがスローモーションで見えた。
「荒れている」
 見詰められて、見詰め返すのが精一杯だった。彼はもう少し、己があのプレイボーイで知られる太陽神の息子だという事実に、自覚を持つべきだ。
 整った顔立ちの英霊が何かを口にしたが、それが意味ある単語として、咄嗟に理解出来ない。
「へ?」
「何をしたら、こんなになるまで放置出来るんだ。乾燥してひび割れた箇所から雑菌が入ったら、どうするつもりだ」
 惚けていたら、布越しに指先を撫で回された。叱責と共に無遠慮に、且つ執念深く、丹念に一本ずつ吟味された。
 時にマグカップに添えられていたものを引き剥がし、指の腹側も確かめた。じっくり、しつこいくらいに検分して、なかなか離れていかなかった。
 その間彼の頭部は立香の目と鼻の先にあり、動きに合わせて揺れる銀髪が眩しかった。息遣いが肌を通して感じられて、触れられた場所は微妙に痒くて堪らなかった。
 局地的に血行が良くなって、引き摺られた心臓がばくばく音を奏でた。唾を飲めば、カモミールティーに混ぜた蜂蜜の影響か、仄かに甘かった。
 直前までリラックスモードだったのに、唐突に心拍数が上がって、首筋にじんわり汗が滲んだ。目の奥がチカチカして、顔が火照って、全体的に熱かった。
「確か、カモミールを使ったクリームがあったな。出してやる。……どうした?」
 振り払いたいのに、どうしてだか動かない。自分の身体なのに自由が利かない状態に固まっていたら、ようやく異常を察知した医神が眉を顰めた。
 悔しいかな、訝しげにする姿も美しく、麗しかった。
「顔が、近い」
 知ってはいたけれど、改めて実感させられた。
 痛感させられた。
 思い知らされた。
「顔?」
 興味があることに対しては情熱的だが、アスクレピオスは己の容姿にまるで関心がない。それひとつでも充分他者を惑わせられるということを、理解していない。
 相手が男だと承知していても、不必要に意識させられて、どぎまぎした。
 綺麗すぎる顔がすぐそこに――下手をすれば深く触れかねない位置にあるのに、平常心でいられるはずがない。
 だというのにアスクレピオスは、立香の動揺と、困惑の原因に首を傾げた。
「手、も。……眠れなく、なる」
 こうしている間も、手は握られたままだ。静かに冷めていくマグカップに代わって、間に挟まれた指先は燃え盛る炎の如き熱さだった。
 喉の奥で絞り出した声は震え、掠れていた。俯いた状態での懇願は小さすぎて、アスクレピオスに無事届いたか分からなかった。
 ちらりと横目で窺えば、彼はきょとんとしながら瞬きを繰り返した。それから数秒して、不意に得心がいった様子で頷いた。
「ああ。お前は僕の顔が、殊更好きだったか」
「か――顔だけ、じゃ、ないし!」
 淡々と呟かれて、立香はボッと火を噴いた。咄嗟に伸び上がって叫んだ台詞は、脳を通ることなく、魂が直接導き出したものだった。
 だから、というわけではないけれど。
 言うつもりが無かった自分自身の発言に、後から恥ずかしくなった。心が掻き乱され、あわあわして青くなったり、赤くなったりしていたら、唾を飛ばされたアスクレピオスが間を置いてククッ、と喉を鳴らして笑った。
「そうだったな」
 いかにも知っていました、という態度で囁いて、袖を翻した。立香の体温を吸った布越しに黒髪を軽く撫で、梳いて、一旦離れたかと思えば、すいっと頬をなぞられた。
 布の所為で見えたいけれど、恐らくは人差し指か中指の背で、唇をさっと擽られた。
 たったそれだけなのに、鼓動が跳ねた。心臓が口から飛び出しそうになって、立香はしゃっくりを真似て、息を呑んだ。
 奥歯を噛み、小刻みに震えながら意地悪く微笑む男を仰ぎ見る。
「ここにも、保湿が必要だな」
 乾燥して手指がささくれ立っていると指摘して、あくまでもその延長線上だと言外に断り、彼は言った。
 どの部位を指しての発言かは、想像に難くない。反射的に唇を舐めて、立香は上目遣いに前方を窺った。
 しばらく待っても、続きは降って来ない。
 こういう時だけ主導権はマスター側に、という建前に即している彼が恨めしかった。こちらから提案しなければ動かないとの態度に臍を噛んで、立香は膝を覆う上着に爪を立てた。
「眠れないのは、……困る。でも、このままじゃ、眠れない」
 目を逸らし、すぐに戻し、また逸らして、しどろもどろに懇願した。
 我ながら何を言っているのかと、頭を抱えたくなる発言を悔いたが、もはやどうしようもない。
 奥歯を噛み締めて、返事を求めた。
 残る力を振り絞った眼差しの先で、アスクレピオスは肩を揺らし、不遜に笑んだ。
「僕の所為で患者が眠れない、というのは沽券に関わる」
 とうに空になっているマグカップを引き取り、彼はそれを机に置いた。邪魔にならないよう奥へと避難させて、息を呑む立香との距離を詰めた。
「まずはどの程度荒れているか、触診から始めるとするか」
「それ、ただの触診?」
 片手を机の角に預け、身を乗り出し、近付いてくる。
 ほんの少し戻ってきた余裕に口角を持ち上げれば、調子づいた立香の問いかけに、アスクレピオスは目を細めた。
「さあ、な」
 

2021/02/11 脱稿
朝霜のおくれば暮るる冬の日も 今日こそ長きものと知りぬれ
風葉和歌集 387