袖のうちに 我が魂や まどふらん

「マスター」
「うわっ、びっくりした」
 真っ直ぐ伸びる廊下を、特になにも考えず、前だけ見て歩いていた時だ。
 右手にも道が分岐するT字路に差し掛かっても、直進することだけを考えていた。目的地に最短距離で到達すべく、余所見もせずに足を動かしていたから、気付くのが遅れた。
 その分岐路の角に隠れる存在があり、しかも待ち構えていたかのように話しかけられた。
 不意打ちも不意打ちの襲撃に、心臓が止まり掛けた。ドキッ、と激しく跳ねた鼓動を抱きしめて、藤丸立香は声を震わせた。
 黒い服を着ているから、余計に発見がし辛かった。
 居るのなら、もっと分かり易い所に立っていて欲しい。心の中で恨み言を吐いて、立香は話しかけて来た相手を睨んだ。
 けれど向こうは、まるで悪びれる様子がない。逆にそんな目で見られる謂われはないとばかりに、不思議そうに小首を傾がせた。
 緩く編んだ長いもみあげを揺らし、カラスの嘴を模したマスクを着けた英霊が一歩前に出る。
「おどかさないでよ、アスクレピオス」
 つられて半歩後退して、立香は口を尖らせた。
 小鼻を膨らませて文句を言うが、己の行動に何一つ疑問を抱かない男は、理解を示さない。
 怪訝にしつつ距離を詰めて、あっという間に立香を壁際へと追い込んだ。
「な、なに」
 詰め寄られるのを拒んで下がっているうちに、逃げ場がなくなった。
 無言で見詰められるのは、危険がない相手と分かっていても、どことなく恐ろしい。そもそも話しかけてきた用件もまだ聞いていなくて、声を上擦らせれば、彼は嗚呼、とマスク越しに吐息を漏らした。
「お前に、これを」
 言われて、思い出したらしい。アスクレピオスは長い袖をだらりと垂らし、コートの内側から小さな瓶を取り出した。
 否、小瓶ではない。透明な漏斗状のガラス細工が、細い首のところで上下に繋がっていた。
 細かな粒子が中に収められ、さらさらと揺れ動く。
 どこかで見た覚えがある形状に、立香は目をぱちぱちさせた。
「なに、これ」
「砂時計だ」
「ああー、どうりで。……でもなんで?」
 小さい頃、家にあった記憶が甦った。しかし名前が出て来なくて、アスクレピオスに言われて、足りなかったピースが綺麗に嵌まった。
 思わず声を高くし、続けてトーンを落とし気味に呟く。
 胡乱げな眼差しを受けて、医神の異名を持つ英霊はふっ、と目を細めた。
「貴様、最近歯磨きをサボっているだろう」
「ええ?」
 マスクで見えないけれど、口元はきっと忌々しげに歪められているに違いない。
 それが分かるくらい低い、淡々とした台詞に、背中が寒くなった。
「そそ、そ、そんなこと、は。ない……ない。ない、ぞう?」
「嘘を吐くな。この愚患者が」
 咄嗟に否定の言葉を口走るものの、動揺があからさまに出てしまい、説得力はないに等しい。
 目を合わせていられず、顔を背けた立香に、アスクレピオスはぴしゃりと言って右手を高くした。
 袖越しに持った砂時計で、あろうことかマスターの額を打ち、そのまま押しつけて来た。突っ返すことも出来ず、仕方なく受け取って、苦々しい表情で彼に向き直った。
 むすっと頬を膨らませ、渡されたものを意味も無く左右に揺らす。
 動きに合わせて流れる砂粒の向こう側で、アスクレピオスは両手を腰に当てた。
「いいか、マスター。最低、三分だ。力を入れ過ぎず、一本ずつ丁寧に磨け。特に歯と歯の隙間には、汚れが残りやすい。歯の裏側もだ。歯ブラシを縦にして、磨き残しが出ないよう、注意しながらやれ」
「はあい、先生」
 途中から左手を泳がせ、袖先をぶらぶらさせながら、説教臭い話を早口で。
 さっさと切り上げたくて良い子を装えば、彼は小さくひとつ頷いた。
「プラークが残れば、虫歯や、歯周病の原因になる。舌で触って、ざらざらしているのがそれだ」
 言いたい事をひと通り伝えられて、満足したらしい。
 確かに彼の言葉通り、試しに舌先で歯の裏側をなぞってみれば、微かだけれど違和感があった。普段なら気に留めないところだけれど、注意深く探れば、本当に触り心地が悪かった。
 思い返してみれば、この頃はアスクレピオスの指摘通り、歯磨きを疎かにしがちだった。
 他のことで忙しかったし、部屋に押しかけてくる英霊達の相手で時間を取られ、歯ブラシを手にする余裕が減っていた。軽く磨きはするけれど、丁寧さとは無縁の有り様だった。
 ただそれでも、今のところ支障はなかったので、問題視してこなかった。
「いいな、最低三分だ。毎日、毎食後、続けろ」
「分かってるって。……あれ、でもなんで」
 己の手抜きぶりを反省し、念押ししてくる彼に肩を竦めて、立香はふと湧いた疑問に目を瞬かせた。
 まん丸い瞳を正面に投げ、ざらつく前歯の裏を無意識に舐めた。
 真新しい砂時計を両手で握り、不遜に目を眇める男を見やる。
 今、このタイミングで彼に口腔衛生の指導を受けるきっかけは、微塵も思い当たらなかった。第一歯磨きをする空間は、マスターである立香の私室内にあって、その回数や頻度も、他者の管理下におかれるものではない。
 だというのにどうやって、アスクレピオスは正確に、ことの事実を突き止めたのか。
「アスクレピオスは、どうしてオレが、この頃、歯磨きサボってるって、知って……――っ!」
 問いかけでもあり、独り言でもある呟きの直後、立香はゾッ、と背中を駆けた悪寒に背筋を震わせた。
 ここ最近の出来事で、心当たりがあるとすれば、ただひとつ。
 昨夜、眠る前、少し話をした。人肌が恋しくて、熱が欲しくて、甘えて、強請った。
 キスをした。唇を重ねるだけでは物足りなくて、歯列を開き、貪り食われるのを望んだ。彼は願いを受け入れて、優しい愛撫で応えてくれた。
 丹念に、丁寧に、歯茎をなぞりながらじっくりと、時間を掛けて舐られた。立香も舌を伸ばし、激しく絡ませて、深く吸って、甘噛みを繰り返した。
 しつこいくらい、咥内を荒らされた。
 ねっとりと蜜が溶け合うくちづけは、心地よかった。
 だけれどもしかしたら、あの時、アスクレピオスは違うことを考えていたのかもしれない。
 想像して、立香は咄嗟に内股になった。背中から壁に激突して、思い返すだけで自然と甦る熱と、欲と、言いようのない羞恥心に慌てて蓋をした。
 唇を戦慄かせ、金を含んだ翡翠の眼差しに息を呑む。
 一瞬で青ざめた彼の内心を知ってか、知らずか、アスクレピオスは不敵に笑って、踵を返した。
「そうそう、マスター。もし自分で無理だと言うなら、いつでも来い。僕が手ずから磨いて、きちんと仕上がっているか、確かめてやる」
 コートの裾を翻し、立ち去り際にちらりと振り返って、意味ありげな視線を投げる。
 惚けていた立香はそれでハッと背筋を伸ばし、みるみる赤くなる顔を砂時計で隠した。

2021/01/31 脱稿
袖のうちに我が魂やまどふらん かへりて生ける心地こそせね
風葉和歌集 928