思ひ余り 人目忘れて 迷へとや

 甘い匂いがした。
 嗅いでいると歯が浮きそうで、口の中がむずむずする。エナメル質を分解するミュータンス菌が反応して、不気味に蠢いている錯覚に襲われた。
 別に痛くもないのに気になって、奥歯がある辺りに手を伸ばした。同時に臼歯の表面を舌でなぞって、違和感がないのを無自覚に確かめた。
 身体に異常は見られない。なにもおかしなところはない。あるのはさっきから鼻先を掠める甘い、胃に重そうな匂いばかりだ。
「バレンタイン、というには早くないか」
 ここカルデアで毎年大々的に開催されているイベントは、カレンダー上では来月の話だ。勿論準備に余念がない輩が勤しんでいる可能性はあるが、それにしたって少々気が早い。
 このお祭り騒ぎの為に、ノウム・カルデアのリソースの多くが割かれているという現実も、アスクレピオスには不思議だった。彼らの時代が終わった後に現れた聖人由来の催しも、本来はもっと違った形で伝えられていたはずだ。
 なにがどうなれば、あんな乱痴気騒ぎに近い行事になるのか。
 もっとも昨年の彼もまた、自身の研究の成果を披露すべく、この祭に最大限に乗っかったわけだけれど。
「そうか。そろそろ僕も、準備に入るべきか」
 人間は基本、甘い物が好きだ。一部例外はあるものの、年齢が下がるにつれて、その傾向は強くなる。
 ならばその甘いものに、健康になれる要素を詰め込めば、手軽に、且つ合理的に心身の充足感が得られるはず。
 この仮定を実証すべく、去年は昼夜を惜しんで実験に励んだ。しかし受け取った時のマスターの反応は微妙で、嬉しそうではあるけれど、満足した風には見えなかった。
 ならば今年こそ、彼をより健康にする為の甘味を完成させなければならない。
 一粒ずつ大事に食べるのではなく、毎日でも大量に摂取したくなるようなものを、実現させるのだ。
「しかし、そうなると材料が……ン? 匂いの発生源は、ここか」
 昨年のレシピを振り返りつつ、新たに見出した数式や要素を取り込んで、足りない材料への懸念に眉を顰めた矢先だ。
 先ほどから漂っていた匂いが一際強くなって、アスクレピオスは立ち止まった。
 ドアは閉まっているが、隙間から空気が漏れている。幼い英霊たちでなくとも惹き付けられる香りは、案の定、食堂から流れ出ていた。
 照明を受けて銀色に光る扉には、時間を区切り、立ち入り禁止と記した紙が貼られていた。下にはマスターである藤丸立香の名前に加え、日頃からキッチンを取り仕切っている英霊の名が、縦に並んで綴られていた。
 およそ常識のある英霊ならば、これを目にした時点で諦めるだろう。
 しかしアスクレピオスには、カルデア全体の健康を守るという義務がある。無駄に虫歯になる患者を増やし、未知のウイルスや奇っ怪な症例に割り当てる時間を減らされるのは、我慢がならなかった。
「ふん」
 警告を無視し、見なかった振りをして、堂々とドアの開閉ボタンを押す。
 契約したサーヴァントらの良識を信じていたのか、食堂の扉に鍵は掛かっていなかった。
「ああ、こらー」
 問答無用で足を踏み入れ、一層強くなった匂いに眉を顰めていたら、前方から鋭い声が飛んできた。
 見ればハンドミキサーを手にした赤髪の女性が、渋い顔で睨みを利かせていた。すぐ傍にはエプロンを着けたマスターの姿があり、横には手ほどき中だったらしい弓兵が立っていた。
 彼もブーディカの声に反応し、困った表情でアスクレピオスに視線を投げた。マスターに至っては数秒固まって、真っ先に隣を窺って、また正面に目をやる有り様だ。
 半端に緩んだ口元は、当惑を隠さない。笑ってはいるものの、対処に苦慮している雰囲気だった。
「もう。今の時間は立ち入り禁止って、外に貼っておいたでしょ。見てないの?」
「ああ。なにやら書いてあったな」
「分かってて入って来たわけ? ちょっとマスター、何か言ってやって」
 言葉が出ないでいる彼に代わり、両手を空にしたブーディカが目を吊り上げた。口をへの字に曲げて煙を噴き、全く悪びれないアスクレピオスに地団駄を踏んだ。
 自分が言っても響かないと悟り、マスターに助力を求める。水を向けられた青年は一瞬ぎょっとした後、肩を竦めて頬を掻いた。
「そう言われても……弱ったな」
「ルールは守った方が、身のためだぞ。来月、自分だけなにも貰えない事になっても、こちらは責任が持てない」
「そうそう。他から聞いてないの?」
 口籠もるマスターに目配せされて、傍らに控えていたエミヤが凛と声を響かせた。
 広々とした空間に、低音が波打ちながら広がっていく。距離があったが聞き取り易い音域に頷いていたら、横からブーディカが割って入ってきた。
 彼の後を継ぐ格好で言葉を紡ぎ、両手を腰に当てた。頬を膨らませ、胡乱げな眼差しを投げ、首を僅かに傾がせた。
「ほか?」
 それに応じて、アスクレピオスは彼女とは反対向きに首を捻った。
 目を眇め、心当たりが浮かばないと態度に出す。するとなかなか進展しない会話に、ブーディカが痺れを切らして捲し立てた。
「マスターから、もらえなくてもいいのー?」
 彼女が言いたいのは、バレンタインデーの贈り物のことだ。
 マスターは毎年律儀に、全てのサーヴァントにささやかな贈り物を用意していた。どれだけ英霊の数が増えようと、方針は変えないつもりらしく、それがまたカルデアのリソース不足を招く要因となっていた。
「ああ、そういうことか」
 彼を敬愛し、信奉し、忠誠を誓う英霊らにとって、その贈り物は他に類を見ない宝物となるだろう。
 けれどアスクレピオスにとって、藤丸立香という存在は、マスターであると同時にパトロンで、患者だ。彼に求めるものがあるとするなら、それは菓子などではなく、常識を覆すほどの症例や、病原菌の方だ。
「安心しろ。つまみ食いを要求しに来たわけじゃない」
 立ちこめる甘い匂いに誘われて、多くの英霊がここを目指したに違いない。
 しかしそのうちの大半は、来月に控える祝祭の日のために、己に我慢を強いたはずだ。
 すべてはマスターから、甘い菓子を受け取るために、と。
「違うの? じゃあ、なにしに入って来たのさ」
 ただアスクレピオスの目的は、そうではない。
 これまでの数年間、マスターの手助けをしてきたブーディカたちにとっても、警告を無視して入って来る輩は、悩みの種だっただろう。
 誰もが味見役に立候補して、一足先に祝祭日の贈答品を堪能したがった。アスクレピオスの来訪もまたその流れと、彼女は解釈した。
 拍子抜けしてぽかんとなったブーディカを鼻で笑い、アスクレピオスはマスターに向けて指を伸ばした。
 長い袖を揺らめかせ、ただひとりに焦点を定めた。
「作るのも、食べるのも、構わない。だが、食後の歯磨きは徹底させろ。無駄に歯痛を訴える奴を増やしてみろ。許さないからな」
「はあ――?」
 尊大に言い放ち、眼力を強める。
 途端にブーディカは素っ頓狂な声を上げて目を丸くし、エミヤは一秒遅れて肩を震わせた。
 マスターも惚けた顔で瞬きを繰り返し、エミヤが笑いを堪える姿を見て、頬を緩めた。ぷっ、と窄めた口から息を吐き、緩く握った手を鼻の下に押し当てた。
「なんだよ、それ。そんなこと言いに、わざわざ?」
 こみ上げて来るものを我慢せず、ケラケラ声を響かせ、笑う。
「そんなこととは、なんだ。マスター」
「あー、はあ。はいはい。確かに大事だわ、歯磨き」
 聞き捨てならない台詞が含まれているのに反応すれば、お節介な女王が大仰に肩を竦め、天に向かって言い放った。
 お蔭で発言の撤回を求めようとしたのに、タイミングを逸した。苦虫を噛み潰したような顔でいたら、一頻り笑ったマスターが目尻を擦り、背筋を伸ばした。
「分かってるよ。ちゃんと磨くから。なんなら、歯磨きチェック、お願いしようかな」
 彼はそう言って口角を持ち上げ、上唇をちょん、と小突いた。隙間から白い歯を覗かせて、無邪気に目を細めた。
 それがツボに入ったのか、エミヤが右手で顔を覆い、そっぽを向いた。ブーディカも呆れ顔で嘆息し、後ろで鳴り出したキッチンタイマーの相手をしに踵を返した。
「……歯垢染色剤なら、後で出してやる」
 向けられていた視線が一気に減って、アスクレピオスもやる気を削がれた。毒気を抜かれて、それだけ言い返すのがやっとだった。
 尻窄みに声が小さくなったものの、普段の賑わいから程遠い静けさのお蔭で、なんとかマスターの耳には届いたらしい。彼はニカッと楽しそうに笑って、一度手元に視線を落とし、カウンター内に置かれていたものを取った。
「そうだ。折角だし、味見してってよ」
「僕の話を聞いていたか?」
「聞いてたよ。そりゃ、勿論」
 彼が顔の高さに掲げたのは、黒っぽい塊が並ぶ白い皿だった。
 得意げに言った青年は、アスクレピオスに駆け寄るべく、横に長いカウンターを回り込んだ。英霊二騎は勝手を始めたマスターに対し、諫めるのを諦めたのか、それぞれの仕事に戻っていた。
 菓子作りの手ほどきの他に、夕食の準備もあるのだろう。先ほどまであんなに喧しかったのが嘘のように、我関せずの姿勢を崩さなかった。
 その変わり身の早さに唖然としているうちに、息を弾ませたマスターが目の前まできた。差し出された皿には不格好な四角い塊が複数、ごろごろと転がっていた。
 表面は凸凹しており、黒に近い焦げ茶色をしていた。ただそれだけでなく、白っぽい塊が所々紛れていた。
 胸焼けを起こしそうな甘い匂いが鼻腔を擽り、無意識に胸の辺りを掻く。
「ブラウニーだよ。オレが焼いたんだ」
「お前が?」
 焦げた塊にも見えるが、食べ物であるらしい。手を伸ばすのを躊躇していたら、焦れたマスターが揃えた踵を浮かせ、すぐに下ろす仕草を数回繰り返した。
 ぴょこぴょこ動きながら、一度厨房を窺って、頬を緩めた。
 小さく首を振った彼に頷き返して、アスクレピオスは聞き覚えがある単語に感嘆の息を漏らした。
 そう言われたら、謎の物体が菓子らしく見えて来た。エウロペが持ってくるものとは若干異なるが、共通点はいくつか発見出来た。
「いや、僕は味見をしにきたんじゃない」
 うっかり流されそうになったが、立ち入り禁止の張り紙を無視したのは、つまみ食いがしたかったからではない。
「それはさっき聞いた。でも、折角だし、感想聞かせてよ。ほら」
 出掛かった右手を制して語気を荒らげた彼に、マスターは屈託なく言って、大きめの塊を選んで抓み持った。
 鼻先に突き出されて、反射的に仰け反った。弾みで垂れ下がる銀の毛先が踊り、ブラウニーを掠めた。
 髪が食べ物に触れるのは、衛生上宜しく無い。殺菌や消毒に五月蠅い婦長を警戒し、咄嗟に後ろを見て、アスクレピオスは安堵の息を吐きながらマスターに向き直った。
 黒髪の青年は不思議そうな顔をしていたが、特になにも言わなかった。ただ黙って菓子を持ち、期待の眼差しを向け続けた。
 断りにくい。
 嫌だと言えば、彼はきっと引き下がる。ただそれを言わせまいとする、後方に控える英霊たちの圧が凄まじかった。
 マスターに贈るチョコレート薬の準備で、彼らに協力を求めることもあるだろう。
 自身の立場を考えると、ここは大人しく従うのが正解だった。
 もっとも美食を謳う英霊の如き感想は、どう足掻いても絞り出せそうにない。
「あまり期待するな」
 栄養価が高く、健康であれるなら、多少不味かろうと気にして来なかった。含まれる成分よりも食感、風味を重要視する風潮には、未だに馴染めずにいた。
 気の利いたことは、言えない。
 あらかじめ断って、アスクレピオスはマスターが持つブラウニーに向かい、首を傾けた。
 咥えやすいよう微調整された角度に従い、口を開いた。小さな空洞が連なる断面を伸ばした舌でちろりと舐めて、ひと呼吸置いて前歯を衝き立てた。
 見た目よりも、柔らかかった。
 だが上下から挟んで断ち切る寸前、何かにぶつかって、邪魔された。
「ン、むぐ」
「あ」
 それでも大部分が塊から分離しており、崩れゆくのを止められない。
 ぼろっと落ちた塊は、皿に委ねた。アスクレピオスは急ぎ閉ざした口腔で、正体不明の塊を磨り潰した。
 舌が蕩ける甘さを裂いて、香ばしさが広がった。砕かれた破片が歯の表面を削りながら転がって、想定していなかった感触を引き出した。
 柔らかな生地に紛れていたのは、ナッツだ。
 アーモンド、胡桃、カシューナッツ。細かく刻まれたそれらが内側に紛れ込み、味わいにアクセントを加えていた。
 黙って顎を動かし、唇に残っていた欠片は舐めて集めた。何も残っていないのにもう数回、舌を動かして、アスクレピオスは飲み込んだ後も残る甘さに吐息を零した。
「あまい」
 マスターの手にある時は固かったのに、口に入れた途端、ブラウニーはほろほろと崩れていった。しっとり濡れた生地は舌に絡まり、焦げたナッツを噛み砕けば、幸せな刺激が咥内に広がった。
 少々焦げがあり、苦みを感じる部分もあったが、不快と断ずる程ではない。ひとくち齧っただけではあるが、及第点と言って良い味だった。
 判定を待つマスターは神妙な顔をしていた。なかなか切り出さないアスクレピオスを窺い、首を竦め、怖々口を開いた。
「……お気に召さない感じ?」
「いや。良いんじゃないか」
 怯えながらの問いかけに、飾らないひと言を返す。途端、彼はぱああ、と顔を輝かせた。
「っし!」
 片手に皿、もう片手にブラウニーを持っているので、動きは限られるが、ガッツポーズに近い仕草で雄叫びを上げた。タンッ、と軽快に床を踏んで音を響かせ、底抜けに嬉しそうに笑った。
 顔をくしゃくしゃにして、喜びを隠そうとしない。ちらりと様子を窺ったキッチンでは、手伝った英霊が満足げに頷いていた。
「やったー。よかったあ……初めて作ったからドキドキだったんだよね。アスクレピオスが言うんなら、みんなに配っても、問題ないかな」
 エプロンの裾をひらひら揺らし、マスターが感慨深げに呟く。
 不安の種が吹き飛び、ホッとしたのが窺えた。味が保証されたのを喜んで、自分の作ったものに自信が持てたと胸を撫で下ろしていた。
 その言葉に、アスクレピオスは残っていたナッツの欠片を噛み損ねた。
 奥歯で挟んでいたものが、磨り潰す直前、カンッ、と外れた。破片は舌の上を点々と跳ねて、それまでとは違う苦みをもたらした。
「いや」
「うん?」
「後味が、……にがい」
「え」
 些細なものだった。そこまで気にならない、全体の甘さに容易く押し流される程度で、敢えて指摘する必要などどこにもなかった。
 だというのに、気がつけば声に出していた。
 左袖で口を覆って、アスクレピオスは襲い来た奇妙な感覚に息を殺した。
 味覚と、思考が巧く繋がらない。言わなくて良いものを述べた自身にも疑問を呈して、彼は混乱する頭を左右に振った。
「焼き過ぎた、かな。そんなに苦い?」
 マスターはにわかに不安げな顔をして、声を潜めた。自信作だったブラウニーを皿に戻して、しょぼくれた態度で頭を垂れた。
 直前までの元気の良さがすっかり薄れて、憐れに思えるくらいだった。
 たったひと言でこうも一喜一憂する彼を前に、罪悪感が否めない。
 同時にこの背徳的な感覚に、密かに興奮したのも確かだった。
 独占欲が湧き起こる。
 これを他の英霊にも食べさせる彼の傲慢ぶりに、怒りさえ覚えた。
 許せない。許さない。
 彼が初めて作り、他の英霊が口にしたことのないものを得た。その紛う事なき事実を捨てて、同等品が他者に振る舞われる事態を看過出来ぬほど、心が狭い自分に気付かされた。
「マスター」
「なに?」
「それを配るのは、止めておけ。他の連中には、去年までと同じものを用意しろ」
「……ん?」
 音量を絞り、彼にしか聞こえない声で囁く。
 告げられた内容にマスターは目をぱちくりさせて、怪訝に首を捻った。
 小動物じみた仕草は愛らしく、愛おしくもある。真っ直ぐ見詰め返してくる空色の瞳に深く首肯して、アスクレピオスは袖の上から、白い皿の縁をなぞった。
 緩やかに描かれる円を辿り、支え持つ彼の手に触れて、包み込む。
「っ」
 咄嗟に逃げようとするのを捕まえて、逃がさない。
「あ、アスクレピオス。え。なに」
 息を呑み、戸惑う彼を間近から覗き込んだ。声を震わせる彼に黙るよう、細く吐いた息で合図して、右の口角を持ち上げた。
 不遜に笑って、じわじわ顔を赤くする彼の手を、指を、皿ごと握り締めた。
「それは、僕だけ、だ」
 強張る指先を揉んで解し、囁く。
 マスターは下を向いて、唇を戦慄かせた。焦げ色のついたブラウニーを凝視して、二度と目を合わせてくれなかった。

思ひ余り人目忘れて迷へとや たれもしのぶの山の通ひ路
風葉和歌集 772

2021/01/24 脱稿