岩垣や 沼のみごもり 漏らしわび

 こみ上げる眠気を堪え、立香は目尻を擦った。
「ふ、ふぁ、ああ~……んむ」
 けれど欠伸は止めきれず、大きく開いた口から漏れる声には締まりがなかった。
 誰かに見られたら、緊張感がない、と言われてしまいそうだ。慌てて睫毛に引っかかった涙を弾き、表情を引き締めんと試みるが、忍び寄る睡魔を払拭するのは難しかった。
「うぅ、眠い」
 昨晩、ゲーム好きのサーヴァントに誘われて、ちょっとだけ、のつもりで参戦したのが不味かった。徹底的にやりこんでいる彼女らに勝つなど、まぐれ以外ではあり得ない。だというのに敗戦が続いてムキになって、就寝時間を大幅にオーバーしてしまった。
 食事も睡眠も基本的に必要ない英霊と違って、汎人類史最後のマスターである藤丸立香はただの人間だ。健全な肉体と精神を保つ為にも、毎日一定時間の休息を取り、栄養を摂取せねばならなかった。
 深夜の就寝は、ダ・ヴィンチたちには筒抜けだろう。後でバイタルチェックに呼ばれる可能性に思い至って、彼は深々と溜め息を吐いた。
「いや、自業自得なんだけどさ」
 いけないことだと分かっていても、時に欲望に抗えない。
 たまには羽目を外して遊びたい年頃なのだと、新局長であるゴルドルフへの言い訳を考えつつ、忙しく足を動かす。
 目覚まし時計に叩き起こされ、身なりを整え、顔を洗って髪を簡単に整えたその次は、食事だ。
 ゲームをしながらスナック菓子をたんまり抓んだというのに、一眠りしただけで、もう胃袋は空に近かった。
 こういう所だけは至って健常な身体に苦笑して、先ほどから五月蠅い腹を服の上から撫でた。今日の朝食はなんだろうかと想像を巡らせ、確定している後々の苦難から逃避していたら、進行方向に黒っぽい影が見えた。
「お?」
 否、それはゆったりとした足取りで進む背中だ。ただ頭部をすっぽり覆い隠すフードと、裾の長いコートのシルエットが、天井光を受けてぼんやり滲んでいただけで。
 暗がりだと闇に同化し、気付けなかったかもしれない。
 柔らかで、それでいて温かみがある通路の照明をちらりと見て、立香は硬い床を蹴り飛ばした。
「おはよう。アスクレピオスも、食堂?」
 一定のリズムで揺れる背中からは、仄かに朱を帯びたもみあげの先端が見え隠れしていた。大きめのリングが重石代わりになり、それがメトロノームのような動きをしていた。
 駆け寄り、追い付く間際に呼びかけて、横に並ぶ。
「ああ、マスターか。おはよう」
 下から覗き込むように窺えば、古代ギリシャの英雄は、カラスの嘴を模したマスクを装着していなかった。
 普段は隠れている口元が露わになって、端正な顔立ちがいつになく際立って見えた。
 透けるように白い肌が、黒いフードの影響か、もっと白く澄んでいた。額で交差する前髪は相変わらずだけれど、薄い唇や、長い睫毛がバランス良く配置されて、見惚れんばかりの造形美だった。
「……さすがはアポロンの息子」
「今、不快極まりない単語が聞こえた気がするが?」
「なんでもありませんっ」
 美男子、という表現がぴったりくるけれど、その一番の理由であろう太陽神の名前は、アスクレピオスにとって最大の禁句だ。
 うっかり声に出したのを聞き咎められ、立香は大慌てで首を振った。
 心の中に留めたつもりなのに、うっかり呟いてしまった。
 己の迂闊さを反省し、急激に上昇した心拍数と鼓動を宥める。咥内の唾を飲み、深呼吸で心を落ち着かせていたら、眉間の皺を解いた医神が肩を竦めた。
「昨晩は、随分と遅くまで起きていたようだが」
「うっ」
「たまになら構わないが、続くようなら、こちらも考えがある。以後気をつけろ」
「はあい」
 名医との呼び声高い英霊は長い袖を空中に掲げ、淡々と告げながら立香に近付けた。
 まずは布がばさっと頭に覆い被さり、僅かに遅れて硬いものが額をコツンと打った。言わずもがな小突かれたわけだが、その前の挙動が大袈裟なのに反して、衝撃は非常に微弱だった。
 袖の先がぶつかってきた方が、痛かったのではなかろうか。
 引いていく光沢のある黒を目で追いかけて、立香は若干乱れた黒髪を撫でた。
「やっぱり、バレてたか」
「当たり前だ」
「刑部姫たちを怒らないであげてね。オレが、自分でやりたいって言ったんだから」
「それは僕の仕事じゃない。他を当たれ」
 立香の行動はノウム・カルデア内でも、外でも、常に観察され、記録されている。汎人類史にとっての最後の希望なのだから、カルデアの運営管理に携わる面々が神経質になるのも、ある意味仕方が無かった。
 行動には、一定の制限が課せられていた。けれど必要だと分かっているから、立香がサーヴァントらと交流を持つのも、認められていた。
 一緒に遊んでいただけなのに叱られるのは、相手をしてくれた英霊たちに失礼だ。
 非難されるべきは自分。彼女らにはなんら罪はないと弁護に回ろうとしたものの、マスターの健康にのみ関心を寄せるサーヴァントは素っ気なかった。
 ただ確かに、この件をアスクレピオスに依頼するのも妙な話だ。
 弁解すべきは、新所長たちにだろう。
「それもそう、か」
 どうせ叱られるのは間違いないのだから、その時に、ついでに頭を下げるのが正解か。
 瞼を半分閉ざし、小さく頷いた立香に、新たに医務室の主となった英霊は苦笑した。
「先に行くぞ」
「ええ、待って。一緒に行こうよ」
 考え込んでいたら、足取りが鈍った。
 今にも立ち止まりそうだった自分に気付き、ひらりと袖先を振ったアスクレピオスを引き留める。けれど聞き入れず、どんどん進んで行く彼に、立香は小鼻を膨らませた。
 こんなことで令呪を使うのは愚の骨頂で、後で何を言われるか分かったものではない。なのでぐっと我慢して、力強く次の一歩を踏み出した。
 大股で追いかけ、再び横に並んだ。どうだ、と鼻息を荒くしてフードを覗き込んだら、令呪を使わなかったのに、馬鹿にした顔で笑われた。
「ふっ」
「ぬあ。なんだよ、もう」
 癪に障る表情なのに、いやに様になっているのも、腹立たしいったら、ない。
 反射的に拳を作り、振り上げたが、狙ったのは何もない空中だった。
 虚空を殴り、苛立ちは床を蹴ってやり過ごした。人に向けるべきでない感情を、自己の内側で処理して、鼻から吸った息を口から吐き出した。
「今日のメニュー、なんだろ」
「さあな。だが、あの赤いアーチャーはなかなか腕が良い。栄養が偏らないよう、どのメニューもしっかり考えられている。優秀だ」
「へえ」
 話題をまるっと入れ替え、当たり障りのないところで妥協した。すると意外にもアスクレピオスは乗ってきて、前を向いたままつらつらと述べた。
 彼が他者を褒めるのは、珍しい。患者相手であっても、辛辣な言葉を投げるのが常であるのに。
 ここまで手放しの称賛は、滅多に聞けるものではなかった。
 エミヤの料理の上手さは、立香も認めている。だというのに何故だか不思議と、胸の奥がムカムカした。
「むう」
 降って湧いた新しい感情に戸惑い、唸るが、隣を行く相手はそれに気付かない。
「それにしても、朝食だが。あれば豚肉を使ったものを選べ。あと、果物だな。種類はなんでもいいが、ビタミンを多めに摂取しておけ。それから……聞いているのか、マスター」
「え?」
 胃の辺りを押さえて唸っていたら、唐突に声を大にされた。
 なにか喋っていると思っていたが、アスクレピオスの言葉は右から左にすり抜けて、一切残っていなかった。胸の奥の不快感に気を取られていた立香は目をぱちくりさせて、口をパクパクさせた。
 唖然と息を呑み、足も止めた。惚けていたらアスクレピオスも立ち止まり、正面から向き直った。
「寝不足で、疲れが抜け切っていないのか。今日はレイシフトもないのだろう。ならトレーニングもやめて、遊び回らず、部屋で大人しく――」
「あ、おかあさんだ。おかあさん、はっけーん!」
 顔面蒼白で立ち尽くすのを心配し、医神の手が伸ばされる。
 しかしそれが届くより早く、廊下の後方から響いた声が、周囲の音を押し流した。
「ぐふっ」
 数秒後には激しい衝撃が立香の腰を直撃し、容赦なく貫いた。逃さないと臍の手前まで忍び寄り、絡みつく腕は白く、とても細かった。
 アスクレピオスのものとはまた違う肌色に、マスターを母と呼ぶところからして、背後からの襲撃犯は一騎しか思い浮かばない。
「ジャック。危ないから、後ろから急に抱きつくのはやめてって、前も言わなかったっけ?」
「そうだっけ?」
 苦労しながら真後ろを窺い見れば、案の定ジャック・ザ・リッパーが無邪気に小首を傾がせた。
 愛らしい表情や仕草は、子供のそれに相違ない。一方で、彼女は一度戦場に立とうものなら、あらゆる存在を切り刻む容赦なさを持ち合わせていた。
 たとえ小柄で華奢な見た目をしていようとも、この少女もまた、英霊として座に選ばれた存在だ。
「そうだよ。ちゃんと覚えておいてね」
 これまでに何度、こうやって後ろからタックルを喰らい、腰を痛めそうになったことか。
 一向に改めてくれないが、根気よく訴えて、立香はわらわらと寄ってきたほかの英霊たちにも目を向けた。
「おはようございます、マスターさん」
「マスター、おはよう。今日もとっても良い朝ね」
「ねえねえ、マスターは今日はなにするの? 遊べる?」
 立香の胸にも届かない背丈の少女が数騎、群がって一斉に朝の挨拶を口にした。中には朝食も終えていないのに気が早い英霊もいたが、どの顔も元気で、明るく、気力に溢れていた。
 英霊は食事を無理に摂取しなくていいが、彼女らはナイフやフォークを使い、大勢と喋りながら食べる時間を楽しんでいる。
 その賑やかさが嬉しくて、立香は静かに微笑んだ。
「ごめん。今日はちょっと用事があるんだ。今度埋め合わせするよ」
「えー、そうなの。つまんなーい」
「残念だわ。でも仕方がないわね。約束よ、マスター」
「それでは、朝ご飯だけでもご一緒しませんか?」
 実を言えばスタッフらとの打ち合わせや、日課にしているトレーニング以外、今日の予定は決まっていなかった。
 ただ寝不足のまま、元気溢れるお子様サーヴァントらの相手をするのは、いささか骨が折れる仕事だった。
 下手な約束をしたら、そこの医療系サーヴァントのお叱りを受けてしまう。
 ジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィからの提案にふと目を泳がせれば、アスクレピオスは少し離れた場所で静かに佇んでいた。
 子供たちに囲まれているうちに、知らず知らず距離が開いていた。手を伸ばしても届きそうにない位置に立つ英霊は、淡々として感情を表に出さない反面、どことなく寂しげだった。
 一瞬だけ目が合って、即座にふいっと逸らされた。
「あ……」
「マスター?」
 戸惑っていたら、アスクレピオスは黙って立香に背を向け、来た道を戻り始めた。引き留めようとしたがなぜか咄嗟に声が出ず、足は思うように動かなかった。
 多くの幼い英霊に取り囲まれて、身動きがとれなかったから、だけではない。
 全身が凍り付いたかのように麻痺していた。間抜けに口を開いたまま立ち尽くしていたら、怪訝な顔をする少女らの向こうから、天井高くまで響く拍手が聞こえた。
「はいはい、そこ。マスターをあんまり困らせるんじゃありませんよ、っと」
 胸の前で両手を勢いよく叩き、音で注意を引きつけたのは、緑色のマントを羽織った青年だった。
「ロビン」
 鼓膜を激しく震わせた衝撃音は、停滞していた立香の思考をも揺さぶった。
 我に返り、深く息を吸う。視線を投げた先では、イングランドの義賊が見えている方の目をパチリと閉ざし、口角を片方持ち上げて、いつものニヒルな笑顔を作った。
「早くしないと、朝飯がなくなっちうぞ~?」
「そうだった。おかあさん、行こう?」
 ロビン・フッドは廊下の真ん中に滞留している英霊らを促し、慣れた調子で先に進め始めた。その中で、言われて思い出したジャック・ザ・リッパーが立香の手を取り、軽く引っ張った。
 それを踏ん張って拒めば、少女はきょとんとした顔で振り返った。
「おかあさん?」
 小さくて細い指を一本ずつ解いた立香に、不思議そうに目を眇める。
「ごめんね、ジャック。実は先約があるんだ」
「えー」
 困惑しているジャック・ザ・リッパーに向かって手を合わせ、今は一緒に行ってあげられないと告げる。たちまち不満に頬を膨らませた彼女だけれど、追い縋るのは、ロビン・フッドが阻止してくれた。
 彼は聞き分けが悪い幼子の頭をぽん、と上から押さえて、ぷっくり膨らんだ頬をちょん、と小突いた。
「ほれほれ。だから、マスターにあんまり迷惑かけるもんじゃないの。お前さんだって、先に約束してたの、破られたら嫌だろ」
「ううう~」
「また今度ね、ジャック」
「本当だからね。約束だからね!」
 少々説教臭い台詞を吐いて言い聞かせようとしたロビン・フッドだけれど、ジャック・ザ・リッパーも簡単には引き下がらない。諦めてもらうには、新しい約束を取り付けるしかなかった。
 気安く指切りした立香に、ジャック・ザ・リッパーは何度も念を押してきた。それに逐一頷き返して、踵を返した。
 手間のかかる英霊たちの世話を押しつけてしまったが、かの英霊はその役に慣れている。当人にとっては、不本意かもしれないが。
 後で礼を言いに行こう。
 心の中でそう決めて、立香は来た道を早足で戻り、十字路で目を泳がせた。
 忙しなく左右を確認し、随分と遠くに求めていたフード姿を見つけ、息を切らした。
「アスクレピオス」
 駆け寄りながら呼びかけるけれど、返事もなければ、振り返ってももらえない。
 もう一度大声で呼ぼうか悩んだが、手間が惜しくて、速度を上げる方を優先させた。
 追いつき、追い越し、前に立ち塞がる格好でブレーキをかけた。
「……朝食はどうした」
 通行を邪魔され、アスクレピオスは出しかけた足を降ろした。僅かに首を右に傾けて、翡翠の瞳を鋭く尖らせた。
 問う口調は抑揚に乏しく、フードの陰で表情は見えづらい。サンダルの踵の分だけ嵩上げされた身長は、ブーツを履く立香とほぼ同等だった。
 見下ろされていない分、迫力に欠けるが、それを言ったら刺されそうだ。
「食堂なら、行くよ。これから」
「そうか。なら、寄り道していないで、さっさと」
「アスクレピオスと一緒に、ね。ほら。戻った、戻った」
「――おい」
 露骨に機嫌を損ねている彼の言葉を遮り、長い袖に隠れた彼の腕を取った。両手を使って挟み込んで、逃げられないようしっかり掴み、ぎょっとする英霊に詰め寄った。
 斜め下から目深にフードを彼の顔を覗き込めば、黙って立ち去ったのが気まずいのか、アスクレピオスは再び顔を背けた。
 口元が僅かに歪んで、戸惑っているのがはっきりと伝わって来た。
「あいつらは、どうする気だ」
「心配ないよ」
 横を向いたまま吐き捨てるように聞かれたけれど、その質問は想定の範囲内。
 彼は気を利かせ、遠慮したつもりかもしれない。マスターを慕う気持ちを隠さない少女らに隣を譲って、良いことをしたと思っているかもしれない。
「ロビンに任せて来たから」
 けれど彼は、肝心なことを忘れている。
「だが、マスター」
「オレが先に約束したのは、アスクレピオスだよ」
 なおも言い募ろうとする彼を制して、立香は掴んだ手指に力を込めた。
 布越しで見えないので、手探りで指の在処を調べつつ、握りしめた。絶対振り解かせないとの決意を態度で伝えて、早口に言い切った後は、無言で睨み付けた。
 唇を真一文字に引き結んで、瞬きの回数を減らし、喉の奥で息を留めた。
 真剣な眼差しを投げて、目を逸らすのを許さない。
 沈黙の中、一から順に数を数えた。心の中で折り畳んだ指が、再び開ききる前に、アスクレピオスは力なく肩を落とした。
「僕に拘ったところで、何の得にもならないぞ。マスター」
 ため息混じりに呟いて、深く項垂れて顔を伏した。自由が利く方の手でフードを持ち上げ、外す。音もなく背中側に流れ、落ちていった布の下から現れたのは、口調に反して晴れ晴れとした男の姿だった。
 むすっと不機嫌そうに顔を顰めているわけでも、興味が持てなくてつまらなそうにしているわけでもない。
 心持ち口元が綻んで、微笑んでいるとは決して断言出来ないものの、それに近い表情だった。
 穏やかで、柔らかで、それでいて静か。
「うお、う」
 思いつく限りの表現を用いるなら、そう。彼は今、嬉しそうだった。
 目を見張り、食いつくように見つめ返す。ざわっと心の奥が色めき立って、無意識に内股になった。
 想定していたものと異なる――予想以上の反応に驚き、変な声が漏れた。けれどアスクレピオスは特に追求せず、肩を揺らして聞き流した。
 不意に思い出したのは、先ほどのジャック・ザ・リッパーたちとのやり取りだった。
 一緒にいたい、仲良くしたい。時間の限り喋りたい。存在を独占したい。
 子供特有のわがままは、自己主張の現れだ。そんな風に彼女らに思ってもらえるのは、光栄だし、なればこそ全力で応えてやりたかった。
 ただアスクレピオスが向けてくる感情に対する立香の返答は、それとは少々趣が異なった。
 自分とは別の誰かに意識を向けている相手と、その意識を向けられた先に対するもやもやした感情が、その答えだ。
 アスクレピオスがエミヤの料理の腕を褒めた際の記憶が、脳裏を過ぎった。同時に心を乱される感覚もが再現されて、立香は反射的に胸を押さえた。
「治療時の麻酔を増やせと言うつもりなら、却下だ。薬の配分も、変更しない。僕はほかの奴らと違って、お前を甘やかしたりしないぞ。マスター?」
 先ほどは分からなかったことが、今、不意に分かった気がした。
 呼ばれてはっとなり、顔を上げれば眉を顰めたアスクレピオスと目が合った。瞬間、バチッと火花が散って、立香は堪らず仰け反った。
「ええええ、っと。ごめん。ごめん、なに? 聞いてなかった」
 またもや彼の言葉は、右から左に素通りだった。
 正直に詫びて、声を上擦らせる。勝手に赤みを増していく肌に、どくどくと脈打つ鼓動が五月蠅くて仕方がない。体温が急上昇して汗が滲み、かと思えば足下がふわふわして、自分がしっかり立っているか、急に自信がなくなった。
 ひとり慌てふためき、動揺のままに右の耳を押し潰した。空いた方の手を身体の前でぶんぶん振って、そっとしておいて欲しいと訴えた。
 だがここにいる男は、立香の急変を見逃してくれるような存在ではない。
「どうした、マスター。発熱の症状が見られるぞ。む。よく見れば若干充血しているな」
「それ、違うから。平気だから」
 少しでも患者に異常があれば、調べずにいられないのがアスクレピオスという英霊だ。たとえどれほど些細な変化であろうとも、パトロンと認めた相手には一切妥協しないし、容赦がなかった。
 その執念深さを信頼していたし、有り難いと思ったこともある。
 ただ今は、この状況は歓迎できなかった。
 気づいてしまった。
 気づくべきではなかった。
 契約を結んだサーヴァントたちは、度合いの違いはあれど、マスターである立香を好いてくれていた。そして立香も、盾となり、矛となって戦ってくれる彼ら、彼女らを好いていた。
 けれど先ほど胸に抱いたアスクレピオスへの感情は、そういうのとは別のベクトル上にあった。
 これは、気付いてはいけなかった『好き』だ。
 自覚と共に羞恥心や、これまで積み上げて来たちょっとした嫉妬と、恋情とが一気に押し寄せてきた。彼がイアソンらと談笑している中に潜り込んだり、暇潰しに医務室に押しかけたりしたのも、思い返せば一度や二度では済まない。
 無自覚でやって来たことが、視点を変えれば、全てひとつに繋がった。
「待って。待って、無理。死にそう。やばい。死ぬ」
 もしや一部の英霊は、とっくに気付いていたのだろうか。
 だとしたら恥ずかしすぎて、皆をまともに見られない。先ほどナイスタイミングで現れたロビン・フッドにも、当分礼を言いに行けそうになかった。
 思い当たる節がありすぎて、とても一度に処理しきれない。理解はしたが感情は乱れたままで、頭がまるで追いついてこないのに、惚れた相手は問答無用で突っかかってきた。
「なんだと。馬鹿を言うんじゃない、マスター。お前を死なせるなど、僕が絶対に許しはしない。チッ。ここからだと、医務室の方が近いか。いくぞ、マスター。動けないのなら、担いでいく。腕を寄越せ」
「やだ。やだって。無理。絶対無理。助けて。死ぬって。死ぬ。死んじゃうから」
「死なせないと言っている!」
 耳に心地よかった低音が、緊張と焦りでどんどん大きくなっていく。こちらの発言を勘違いしたまま吠えて、アスクレピオスは立香の肩を掴んだ。
 強く引き寄せられた。いざ抱きかかえられるというタイミングで、本当に心臓が止まりかけた。
 気持ちが微塵も伝わらず、完全にすれ違っているのが若干悔しい。反面、こうも必死になってくれるのは、素直に嬉しかった。
 これは無益な感情だ。あるべきではない、間違った選択だ。
 分かっている。最後に待ち構えているのはある種の虚しさと、絶望という名の断崖だ。
 それでも。
 そうだとしても。
「……ごめん」
 上下に激しく揺れる移動中、ぼそっと呟いた言葉を、医神と評される男は聞き逃さなかった。
「なにを謝る。患者を治すのが、僕の仕事だ」
 ごく当然のように言い切って、アスクレピオスは自信を覗かせた。己が優秀だと知り、出来ないことはないと言いたげな態度だった。
 けれどきっと、治らない。
 彼にしか癒やせないけれど、彼にだけは絶対治せない。
 それが立香の罹った病だとアスクレピオスが知るのは、もうしばらく先のことだ。

岩垣や沼のみごもり漏らしわび 心づからや砕け果てなむ
風葉和歌集 774

2021/01/05 脱稿