神もなほ もとの心を かへりみよ

 訪ねて行った先で最初に目に入ったのは、モップを手にした少女だった。
 サーヴァント・ネモの分身体であるネモ・ナースがドアの開く音に反応し、顔を上げた。そうして瞬き一回分の間を置いて、何を気取ったのか、嗚呼という風に頷いた。
「アスクレピオス君、お客様~」
「え、えっ。ちょっと」
 こちらが何か言う前に、訳知り顔で部屋の奥に呼びかけた彼女に、立香は慌てて声を高くした。止めようと右手を伸ばすけれど届くはずもなく、制止の動作は中途半端なところで終わりを迎えた。
 一気に冷えた体温に反し、微妙に熱を含んだ汗が首筋を撫でた。出遅れた呼気を唾液と共に飲み干したところで、呼び声に導かれた白衣のサーヴァントが、物陰からひょっこり顔を出した。
 左上腕から肩に向かって、白蛇が絡みついている。長い舌をチロチロ覗かせる爬虫類の頭を軽く撫でて、アスクレピオスは長い銀のもみあげを背に流した。
「なんだ、マスターか。どうかしたか。怪我、……ではなさそうだな。腹でも下したか」
 鋭い眼光を投げつけ、目視で確認出来る情報から、立香の状態を判断する。口調は淡々としており、どこか近寄りがたい雰囲気に溢れていた。
 機嫌が悪そうに見えるが、アスクレピオスというサーヴァントは、平時からこのような空気を纏っていた。嬉々と声を高くするのは、珍しい病状や治療が困難な重症患者を前にした時くらいだ。
「いや、えっと。まあ、その」
「なんだ。はっきり言え」
 カツカツと詰め寄って来る彼から堪らず目を逸らし、立香は着ていた上着の裾を引っ張った。大きな襞に人差し指を絡ませて、若干ごわごわした布地を親指と共に扱いた。
 泳いだ視線は当て所なく壁際を這い回り、床に置かれたバケツに辿り着いた。半分ほど入った水は、モップを洗ったからなのか、黒く濁っていた。
「えっと。そうそう。掃除、終わった?」
 きちんと順序立てて話せるよう、前もって頭の中でシミュレートしてきたのに、ネモ・ナースの不意打ちで全て吹き飛んでいた。
 それが不意に戻って来て、言葉は思った以上にすらすら出た。
「うん?」
 ただ質問を質問で返された格好のアスクレピオスには、若干意味が分からないものに感じられたらしい。怪訝に眉を顰めた彼に、立香は一歩踏み出した。
 服を弄っていた手を解き、背中に回した。腰に巻き付けたベルトに指を引っかけ、深く息を吐き、胸の高鳴りを意識して抑え込んだ。
 傍らではネモ・ナースが飄々と動き回り、奥から引っ張り出して来たゴミ袋の口を結んだ。棚の上に放置されていた雑巾を回収し、バケツの縁に引っかけて、モップと共に持ち上げた。
「大掃除は、これでおしまいです。マスターも、終わりましたか?」
「うん。オレもさっき終わった。お疲れ様」
 重いだろうに、平然としているのを見ると、彼女も見た目通りの人間ではないと思い知らされる。
 明るい声での問いかけに応じて、立香は目配せして通り過ぎて行く彼女に顔を赤くした。
「ゴミ捨て、お願いしますね~」
「ム? それは僕に言っているのか」
「マリーンズのところまでモップを返しに行くのと、どっちが良いですか?」
 一方でアスクレピオスにも指示を出すのを忘れない。
 反射的に眉を顰めた英霊は、代替案を提示され、沈黙を返事の代わりにした。
 医務室がある生活区画からドックまでは、結構な距離がある。ゴミ捨て場もそこそこ離れているけれど、船渠区画と比べたら、まだ幾らか近かった。
 うら若き少女にあしらわれている英霊の図は、なかなか面白い。
 あまりない光景に思わず噴き出しかけて、立香は緩んだ頬を急ぎ両手で隠した。
「……で?」
「うっ」
 しかし若干、間に合わなかった。
 低い声で短く問われ、息が詰まった。喉の奥で呻き声を漏らし、立香は不機嫌度がワンランク上がったアスクレピオスから半歩後退した。
 額で交差する前髪越しに、翡翠の色をした瞳が鋭く輝く。
 蛇に睨まれた蛙の気分から解放されたのは、数秒後のことだった。
 このまま永遠に固まり続ける可能性に冷や汗を流したが、杞憂に終わった。先に目を逸らしたのは、医神とも称されるサーヴァントの方だった。
 彼が顔を背けたのは、腕に絡ませていた蛇が動いた為だ。空中に器用に身を乗り出して、別の場所に飛び移ろうとしていたのだが、微妙に届かなくて床に落ちてしまったのだ。
 ピカピカに磨かれたばかりの床を這い、鱗を持つ生き物が身をくねらせながら立香に近付いて来る。
「おい、こら」
 飼い主であるアスクレピオスは引き留めようとしたが、白蛇は聞き入れない。
 程なくして立香の足元に到着したそれは、抱き上げろと言わんばかりに、つぶらな眼を上向かせた。先がふたつに割れた舌をひっきりなしに出し入れして、催促のつもりか大きく口を開き、空気を噛み潰した。
「ふふふ。いいよ、おいで」
「あまり甘やかすな」
「どうして? かわいいのに」
 これが身の丈よりも大きければ恐怖だが、このサイズなら愛玩の対象だ。
 すぐさま屈んで、手を伸ばして抱き上げた立香に対し、アスクレピオスは渋面を崩さなかった。
 足元に向かって舌打ちするのが聞こえたが、元凶となった蛇はどこ吹く風だ。差し出された手に躊躇なく頭を乗せて、するすると手首まで進み、緩い力で絡みついて来た。
 締め上げるつもりはないらしく、束縛はそこまで不快ではなかった。
 真っ直ぐ肩まで這い上がって来るのかと思ったが、途中で進路を変え、蛇は背中に向かった。柔らかくなく、しかし硬すぎない何かに後ろから押されているのは分かるけれど、姿が見えないのは、不思議な感覚だった。
「どこ行った~?」
 感覚だけを頼りに行方を追うのは、簡単なようで難しい。
 右肘付近に尾が残っており、下手に動けばそれが外れて、落ちてしまう。それは可哀相だとの気持ちが先立ち、腰を捻ったり、身体を大きく揺すったりするのは出来なかった。
「お前が、どこも痛めていないし、患ってもないのは、よく分かった」
「んん?」
 代わりに見てもらおうと、慎重に身体を半回転させて、アスクレピオスに背中を向ける。
 ただ飛んで来たのは蛇の動向ではなく、溜め息交じりの独白だった。
 そういえば彼に、腹具合を聞かれていた。合間にネモ・ナースとのやり取りもあったので、完璧に失念していた。
「ご明察。さすがはお医者様」
「医者でなくても分かるだろう」
「んふふ。……って、うわ。こんなところから出た」
 照れ隠しも含めて茶化せば、溜め息が追加された。直後に人の背中を撫で回していた蛇が、反対側の腋の下から顔を覗かせる。予期していなかった事態に驚く声に、アスクレピオスは更に嘆息を重ねた。
 猫背気味の姿勢で額を軽く押さえ、数回首を横に振り、腕を降ろした。後頭部を手のひらで撫でて跳ねている毛先を押し潰し、床を爪先で蹴って、腰を捻った。
「座れ。僕に話したいことでもあったんだろう」
 右足を先に繰り出し、進行方向に置かれている診察台を指差す。
 肩越しに振り返った彼の言葉に、立香は間髪入れずに頷いた。
「大掃除、大変だった?」
「ここはノウム・カルデアで、最も清潔な場所だぞ」
 アスクレピオス自身は背もたれのある椅子を引き、そちらに腰を下ろした。横に細長い机の角をさっと撫でて、動き回る蛇に手こずる立香に向かい、口角を持ち上げた。
 得意げな表情と台詞だけれど、メディカルルームの清掃を主に担っているのは、ネモ・ナースだ。そこに婦長ことナイチンゲールが加わって、定期的に洗浄と消毒が施されていた。
 偉そうにふんぞり返っているものの、彼は診察と治療以外は、ほぼノータッチ。
 だというのに不遜な態度を崩さない辺りが、いかにも医神らしかった。
「そういうことに、しておこうかな」
「引っかかる言い方だな」
 他者の功績を横取りして自慢しているのではなく、自分が中心となって舵取りしているからこそ、医務室が清潔に保たれている、と言いたいらしい。
 己が優秀だと認識し、それを微塵も疑わない故の解釈だ。不遜極まりない態度ながら、こうでなくてはアスクレピオスではない、とも言い換えられた。
 どことなく不満げな表情を笑ってやり過ごし、立香は足早に診察台に向かった。纏わり付く蛇を踏まないよう注意しながら、掃除の時にシーツ類を取り外し、そのままになっている質素なベッドに浅く腰かけた。
 体重を預ければ、自身にしか聞こえない程度にギシ、と軋む音がした。
 靴は脱がない。僅かに浮く爪先をぶらぶらさせて、彼は頬杖をつく医神に目を細めた。
「あのさ。今日って、大晦日じゃない」
「らしいな」
「らしい、って?」
「それは僕らのいた時代より、後に出来た暦の話だろう」
「ああ、そっか。そうなるのか」
 現代社会で多く使われているのは、カエサルが定めたユリウス暦を更に改良した、グレゴリウス暦だ。そのカエサルも紀元前一世紀頃の人物なので、古代ギリシャに由来を持つアスクレピオスの関心が薄いのは、ある意味当然だった。
 これまで考えた事もなくて、言われて初めて気がついた。
 英霊は召喚される際に座より必要な情報を与えられるから、当たり前のように現代の暦に対応している。けれど実際は、生前との違いに違和感を覚えている英霊も、中にはいたかもしれなかった。
「それで、大晦日の今日に、わざわざ僕に何の用だ?」
 頬杖を解き、入れ替わりに脚を組んだ医神が話を戻した。前傾姿勢で顔をこちらに近付けるが、表情はあまり興味なさそうだった。
 腹痛や頭痛に悩まされているわけでも、珍しい症例の患者を引っ張ってきたわけでもないのだから、この反応は覚悟の上だ。一週間近く前から散々脳内でシミュレートを繰り返し、対応策を練ってきたのだから、怖れる事は何もなかった。
 左胸に手を添えて、立香は時間をかけて息を吸い、吐いた。肩から首筋を伝い、反対側に行こうとする蛇が若干気になったが、好きにさせて、背筋を伸ばした。
 緩く握った拳を腿に揃え、居住まいを正した。怪訝にしているアスクレピオスに向き直り、眼差しを投げた。
 ただし切り出し方は、大成功とは言い難かった。
「ええと、そう。大晦日、だから。あのさ。今年一年、色々あって……ゾンビはちょっと吃驚し、笑ったけど、アスクレピオスにはオレも、みんなも、いっぱいお世話になって。沢山。ほんとに、うん。やっぱりお医者さんって大事だと思ったし、居てくれて良かったなあって、すごく思うから。だから――」
 口を開いて喋り出した瞬間、頭の中が真っ白になって、短く息を吐いた直後に思い出した。どくんと思い切り跳ねた鼓動に冷や汗が出たが、躊躇を振り切り、ひと息に捲し立てた。
 用意してきた台詞を、練習してきた謝辞を、早口に述べた。途中からは広げた両手を上下に揺らし、最後は勢い余ってベッドから立ち上がった。
 忽ち蛇が体勢を崩し、右上腕にあった重みがふっと消えた。
「ああ、あっ。ごめん。ごめん」
 それで集中力を削がれ、緊張の糸もぷつりと切れた。肩越しに振り返り見れば白蛇が寝台でひっくり返り、不満を表明してか、とぐろを巻き始めた。
 威嚇するかの如く牙を向けられ、謝るが、伝わっているかは分からない。
 両手を顔の前で合わせて頭を下げていたら、後ろから盛大な溜息が聞こえてきた。
「なにを改まって言い出したかと思えば。そんなことか」
 視線を戻せば死者をも甦らせたと伝わる英霊が、椅子を引き、立ち上がるところだった。
「アスクレピオス」
 表情は険しく、眉間に皺が寄っていた。不機嫌が人の形を成して歩いている、と言っても過言ではなかった。
 そこまで気に触ることを言ったつもりはないけれど、彼の沸点がどこにあるか、立香は未だに掴み倦ねていた。
 今度ケイローンかイアソンを捕まえて、じっくり話を聞くべきだろう。
 硬い足音を響かせ近付くアスクレピオスからじりじり後退し、膝裏がベッドの縁に引っかかったところで止まる。バランスを崩して寝台に崩れ落ち、ここからどうするかで逡巡していたら、長い袖越しに、額に指を突きつけられた。
「いいか、マスター。僕は医者だ。医者である以上、患者を診るのは当然だ。なにも特別な事じゃない」
「え……ええ?」
「僕が前線に出るのも、特異点に足を運ぶのも、全ては未知の病原菌、ウイルス、症例を集めるためでしかない。その最中にお前や、他の連中に治療を施すこともあったが、それはあくまで、もののついでだ。それにお前になにかあれば、僕の研究が継続出来なくなるからな」
 軽く小突かれ、頭を後ろに下がらせている間に、怒濤の勢いで吐き捨てられた。興奮しているのかいつになく饒舌で、更に数回、立て続けに額を突かれた。
 白い布が防御壁の役目を果たしてくれているものの、爪先で連打さるのは遠慮したい。五度目を喰らいそうになって、さすがに我慢ならないと払い除ければ、我に返ったのか、アスクレピオスは三度ばかり瞬きを繰り返した。
 自分自身の行動に驚いているらしくぽかんと惚けた顔をして、次の瞬間には素に戻った。出していた右手を瞬時に引っ込め、背中に隠して、照れ隠しの咳払いをした。
「ん、んんっ」
 口を閉ざしたまま息を吐いて誤魔化し、深呼吸を挟んで立香に向き直る。
「……つまり、だ。マスター」
「うん。でもさ」
 彼が言いたいことは、大体分かった。
 キャスター、アスクレピオスは他の英雄とは少し勝手が違う。彼が英霊として座に刻まれたのは、誰かと争い、勝利したからではない。医者として多くの人の命を救い、現代に至るまでの医学の道筋を切り開いたからだ。
 彼の中心には医術があり、医療こそが彼の存在意義でもある。死者蘇生薬の再現を目指しているのも、死の運命に呪われている人間を助けたい、という意識が根底にあるからだ。
 そんな彼にとって、カルデアでの医療行為は研究の片手間にやる、暇潰しに等しい。一方軽い怪我や微熱に対し、文句を言いながらも手当てを施してくれるのだって、それが己の役目であり、すべきことと認識しているからだ。
 やると決めたことを、当たり前にやっただけ。
 そこに感謝される謂われはないというのが、アスクレピオスの理屈だ。
「でも、やっぱり言わせてよ」
 ただ立香にも、立香の主張がある。たとえ要らないと言われようとも、素直に受け取って貰えないとしても、言うと決めて来たのだから、決意を違えたくなかった。
 大人しく引き下がれないし、引き下がるつもりもない。
 こういう時は、粘られる前に、行動に出るが勝ちだ。
「ありがとう、アスクレピオス」
 深く吸った息を一旦胸に止め、万感の想いを込めて囁く。
 告げる直前に逸らした視線を戻し、翡翠の双眸を射貫くつもりで告げた彼に、半神半人の英霊はどこまでも無表情だった。
 いや、ほんの少しだけ眉が寄っただろうか。
 一年分の感謝を捧げられた医神は、瞼をゆっくり降ろし、完全の閉じきる前に左手で鼻筋を覆い隠した。だらりと垂れた袖先がゆらゆらと揺れる様は、風にそよぐ吹き流しのようだった。
「ふふん」
 どんな顔をしているかは見えないけれど、苦悶に歪んでいるわけでないのは、確かだ。
 してやったりとほくそ笑み、得意げに鼻を鳴らした立香を見下ろして、アスクレピオスは俯いたまま首を振った。
「どういたしまして、だ。マスター」
「うわっちゃ」
 勝ち誇った表情が癪に障ったらしく、次の瞬間、彼は額にやっていた手を返し、伸ばした。問答無用で癖が強い黒髪を掻き混ぜて、最後に数回、ぽんぽん、と広げた手のひらで撫でた。
 子供の姿をしたサーヴァントたちを宥め、注射や苦い薬を我慢した際に褒めるような、そんな優しい仕草だった。
「へへへ」
 擦り傷や打撲程度では素っ気ない態度ばかりだし、意識を失う程の重傷を負った時は、そもそも治療されている最中の記憶がない。目が醒めた時にはいつも通りの愛想のない彼に戻ってしまっているので、こんな触り方をされるのは、随分と久しぶりだった。
 くすぐったくて、胸の奥がじんわり暖かくなっていくのを感じた。くしゃみが出そうで出ない、微妙なラインで身を捩っていたら、とぐろを解いた白蛇が太腿に這い上がって来た。
 自分を忘れるなと言いたげな行動だった。けれど蛇は完全に腿に上がりきる前に、アスクレピオスに回収された。
「だが、先にも言ったが。僕に感謝は必要ない、マスター。お前がいなくなれば、この旅はそこで終わる。それは僕の研究を完成させる為にも、是が非でも避けなければならない事態だ」
 勝手をする使い魔を諫め、己の肩に移動させた医神が目を眇めた。
 告げられたのは先ほどと全く同じ主張で、ここで反論すれば、双六で言う振り出しに戻る、だ。堂々巡りのやり取りは時間の浪費であり、双方意固地になって、喧嘩に発展しかねなかった。
「そういえば、前に……いつだっけ。アスクレピオスがぎりぎり間に合って、みんなを回復してくれて、なんとか持ち堪えたことあったよね。あれは凄かったな。その後も、オレが口を挟む暇がないくらいに指示が的確で。さすがはお医者様、て感じだった」
 だから言い返したいのをぐっと我慢して、別の話題に誘導した。今年一年の出来事をざっと振り返りながら、苦しくもあり、楽しくもあった日々を両手一杯に転がした。
 辛くて、哀しい出来事もあったけれど、それらも含めて今がある。
 その全てを大事に抱きしめ、微笑めば、何をどう感じ取ったのか、アスクレピオスは不意に神妙な顔を作った。
「なに?」
「……いや。僕は医者で、患者はお前のような人間や、今はサーヴァントも含まれるが」
 静かに伸ばされた手が、立香の左頬に触れた。
 布越しでも分かる指の感触が、柔らかい。親指以外の四本を揃えて、輪郭をなぞるように包まれた。
 頬骨の上から、顎に向かう一帯を。耳朶に近付いたかと思えば遠ざかり、また戻って、なかなか離れようとしなかった。
 彼の脚が膝に当たった。気がつけば金糸を織り込んだサンダルが、厚底ブーツの内側に潜り込んでいた。
 衝撃に気を取られている間に、アスクレピオスの顔が一気に近付いた。
 白い肌、銀の髪。長い睫毛、草原を閉じ込めたかの如き輝きの瞳。
 長く高い鼻梁、大理石の彫像を思わせる整った顔立ち。唇から漏れ出る吐息が肌を掠めた。柔らかな微風は仄かに熱を持ち、その数倍の熱さが立香の内側に襲い掛かった。
「あ、……アス……っ」
 宝石にも勝る輝きが、すぐそこにあった。鏡と化した眼に自分の顔が写り込む事態に、全身が凍り付いた。
 思考さえも停止して、呂律が回る筈もなく。
 変なところで悲鳴を飲み込んだ立香を軽く笑って、医術を極めんとする英霊は不敵に微笑んだ。
「貴様は人理を修復し、今は白紙化された汎人類史を取り戻そうとしている。それは僕には、成し遂げられないことだ。となれば、マスター。お前はまるで、世界にとってのお医者様、だな」
 合間に息継ぎを幾度か挟み、肩を震わせながら述べられた。
 ふざけているのか、真剣なのか、正直言って良く分からない。ただ茶化すにしても、言葉そのものは軽くなかった。
 労り、慈しんでくれた手が、遠ざかった。心地よかった熱が過ぎ去り、過去のものとなり果てるのを、心が拒んだ。
「っ!」
 咄嗟に転がしていた手を伸ばし、揺らめき踊る袖を掴んだ。必死に指を絡ませ、握り締めて、一度だけの抵抗をねじ伏せた。
 布を縫い止める糸がどこかで切れたような感触があったが、手放さなかった。退くのを諦めた医神を前に頭を垂れて、立香は無我夢中だった自身の行動を省み、顔を赤くした。
「いや、その。えっと」
 デミ・サーヴァントのマシュと契約したのは、事故のようなものだった。
 その後は皆に望まれ、求められるままに、ひた走り続けてきた。アスクレピオスの弁に倣うなら、それが人類最後のマスターとなった立香のすべきことであり、やるべき事だったからだ。
 何度も挫けそうになり、投げ出したくなった。脚の震えが止まらず、逃げ出したいのを必死に我慢して、どうにか今日までやって来た。
 時には自分自身さえも欺いた。或いは今も、そうかもしれない。
 マスターとして失われた世界を取り戻す。
 異星の神によって正常ではない状態に置かれた世界を癒し、在るべき形に治す。
 結局は言葉遊びで、言い換えただけ。辿り着く先は同じだ。
 だというのに、アスクレピオスの総評はいやに心の奥深くに沁み入った。疼くような痛みが、高熱を伴って身体全部に渦巻いた。
 嬉しいのに、不思議と苦しい。
 その苦しさも、息が出来ない時の辛さとは別次元の、言葉では簡単に言い表せない感覚だった。
「ごめ、……ごめん。なんて、いうか。そんな風に言われたこと、なかったから。ちょっと。……ちょっと、びっくりして。ごめん。待って」
 目頭がいつの間にかじんわり湿り気を帯び、視界がぐにゃりと歪んだ。勝手に溢れてくるものを止めようと空いた手で眉間を押さえつけ、天を仰いだ。
 その間もアスクレピオスの袖は離さず、逆に一層力を込めた。みっともなく音を響かせて鼻を啜り、魚を真似て口を開閉させて、荒波に攫われた心を必死に繋ぎ止めた。
 筋張った己の手を一心に見詰め、乱れた呼吸を懸命に整えんと試みるが、なかなか上手くいかない。
 噎せて咳き込み、溢れそうになった唾液を舐めて集め、膝を寄せて身を丸くした。
「構わない。今は好きなだけ、時間を使え。マスター」
 その背を袖の上からなぞり、アスクレピオスが囁いた。
 背骨の隆起を辿ってうなじを擽り、黒髪を梳いて、後頭部の丸みを抱え込んだ。
 引き寄せられた。真っ白い衣に鼻先が触れた瞬間、薬草なのか、薬品なのか、湿った苦い匂いが鼻腔をすり抜けていった。
 美味しくもなく、不快感を増幅させる香りなのに、奇妙にもざわついていた心が一気に和いだ。激しく波打ち、定まらなかった想いが収束して、立香の中心に戻ってきた。
 恐る恐る両の手を彼の背に回したら、意外にも突き放されなかった。
「お前が世界を癒すのに疲れたなら、僕がお前を癒してやる。もっと医者に、甘えていろ」
 耳元で囁かれる言葉は低く、静かだった。穏やかな波打ち際を思わせる優しい声色に、長く奥底で凝っていた澱が解けていくようだった。
 サーヴァントの皆にはいつも助けられているし、充分過ぎるくらい甘えていた。ただ相手が英霊である以上、一定の線引きは必要だった。
 その境界線を飛び越えても、構わないのだろうか。
 サーヴァントである以前に、医者である彼に、これまで以上に甘えても許されるだろうか。
 それとももうとっくの昔に、通り越してしまった後かもしれない。
「来年、も」
「うん?」
「えっと。……よろしく、お願い……しま、す……」
 幾分正気を取り戻して、それでも若干足元がふわふわしたまま、年越しの挨拶を繰り出す。
 束縛を解いた後も後頭部から離れて行かない手を気にしつつ、前方を窺い見れば、涼やかな美丈夫が澄まし顔で佇んでいた。
「ああ。期待していろ」
「その返し方は、ちょっと。なんか……」
 恐らくアスクレピオスは真面目に答えたのだろうが、この状況では違う意味に勘違いしてしまいそうだ。
 自意識過剰だろうかと己に疑念を抱きつつ、立香は火照りが収まらない頬を両手で押さえた。

2020/12/31 脱稿

神もなほもとの心をかへりみよ この世とのみは思はざらなむ
風葉和歌集 481