光もてなす 菊の白露

 よく手入れされた菊の花が、大輪の花火の如く咲いている。
 黄色、白、赤、それに紫。花弁のほんの一部が色を変えているものもあり、乱雑に思えてしっかり考えて並べられた鉢が、庭先に見事な彩りを添えていた。
 地面に直置きされた後方にひな壇が据えられ、どの花も景色に埋もれることなく、凛と背筋を伸ばしていた。
 ここまで見事に咲かせるのには、大変な手間暇がかかっただろう。
 初年度は失敗して、二年目もあまり巧く行かなかったと、愚痴を零された。簡単なようで難しいと零していた兄刀を思い浮かべて、小夜左文字は口元を綻ばせた。
「綺麗、です」
 己の背丈では、最後方の菊花が見えない。
 全体を視界に収めるには、屋敷の中から眺める方がずっと効率的だ。
 それでも庭先に出ると、ついつい近くに寄ってしまう。江雪左文字が手塩に掛けて育てた花の美しさを愛でて、その技術の進歩ぶりに感嘆の息を吐くのも、弟刀としての役目だろう。
 後で感想を言いに行こう。
 畑で収穫作業を手伝っているはずの太刀に想いを馳せて、彼は乾いた地面を蹴った。
 草履の裏で砂利を踏み、落ちていた橙色の葉を跨いだ。遠くの方では竹箒を手にした秋田藤四郎が、一心不乱に落ち葉を集めていた。
 姿は見えないが、前田藤四郎の声がした。五虎退の虎が日向に寝転がって、のんびり欠伸をしている。足音がして振り返れば、乱藤四郎が縁側を駆け抜けていった。
「お芋、貰ってきたよー」
「では、消火用の水を汲んできますね」
「やったあ。焼き芋、焼き芋」
 菊の花に囲われた小夜左文字に気付くことなく、彼らは楽しそうに歓声を上げ、目的を成し遂げるべく行動を開始した。
 集めた落ち葉で焚き火をして、暖を取りつつ、薩摩芋を焼いて食べようというのだ。
 晩秋の恒例行事と化した賑わいを想像して、小柄な短刀は目を細めた。
「いけない。忘れるところだった」
 時間遡行軍との戦いが始まり、もう何度目か知れない秋が来た。
 歴史修正主義者の全貌は未だ見えず、無益とも思えるこの争乱がいつ終わるかは、誰にも分からない。しかし季節は巡り、暦は着実に前に進んでいた。
 少し前まで、空を仰げば巨大な入道雲が山の峰に寄りかかっていた。
 それが今となっては、陽射しは穏やかで、木陰に立てば肌寒い。日の出は遅くなり、日の入りは早まり、太陽が明るく照る時間は、日毎に短くなっていた。
 足元に落ちる影は長く、それでいて色は夏場に比べて薄い気がする。石灯篭に覆い被さる落ち葉に何気なく目をやって、小夜左文字は歪みが目立つ竹製の門扉を押し開いた。
 部材を固定すべく巻き付けられた縄は黒ずみ、所々解れている。誰かが勢い任せに押し開き続けた結果、足で蹴られ易い場所はひび割れ、他よりも傷みが激しかった。
 そのうち作り替えないといけないと言いつつ、未だ放置されたまま。
 仲間が増え、色々やらねばならない事が多い所為もあり、こういうところは全て後回しになっていた。
 予算はあるし、暇を持て余している刀も、探せば在るだろうに。
「僕がやっても良いんだけど。巧くは、出来ないだろうし」
 離れの茶室に向かう道の道中にある門は、質素ながら、洗練されていた。通好みの細工が施されており、おいそれと真似られるものではなかった。
 そういう事情もあり、長く捨て置かれているのだろう。
 風流な事や物に関しては五月蠅く、凝り性な刀を脳裏に思い浮かべ、藍色の髪の短刀は手水鉢の前を通り抜けた。
 今日の目的地は、茶室ではない。
 毎日のようになにかしら催されている離れだが、今の時間は誰も使っていないようで、ひっそり静まり返っていた。
 雨戸が閉められ、中の様子は窺い知れない。水屋に通じる扉も閉ざされており、動くものの気配はなかった。
 ただその事はあらかじめ知っていたので、驚きはしなかった。
「どこに、いるかな」
 此処に誰か居れば、目当ての刀を探す助言が得られただろうに。
 広すぎる庭園を見渡し、目立つ赤い太鼓橋を視界の中心に据えた。あの刀が行きそうな場所をいくつか候補に挙げて、頭の中の地図に印を刻みつけた。
 どう巡るのが効率的で、合理的か。
 なるべく広範囲を、無駄がないように攻略する経路を模索して、彼は飛び石が並ぶ路地を潜り抜けた。
 丹塗りの太鼓橋は池の水面遙か上を通り、敷地内でも比較的高いところにある。
 まずはそこから周囲を見渡して、逃亡を繰り返している打刀の気配を探ろう。
 訪ねて行った部屋は蛻の殻で、年末までに仕上げなければならない帳簿は真っ白なまま。放っておけば直前まで手を着けないのは、火を見るより明らかだった。
「歌仙、また松井に押しつけるつもりでしょう」
 毎年同じ失敗を繰り返し、いつまで経っても改善しない。反省すらしない初期刀の愚昧さと、それを責める小夜左文字の小言もまた、本丸での恒例行事と化していた。
 ただ昨年は、些か事情が違った。
 顕現したばかりの松井江が、事情も良く分からないまま作業を押しつけられた上、期日までに全て終わらせてしまったのだ。
 彼の辣腕ぶりは、小夜左文字も知っていた。彼なら一定の説明を受ければ、難なくやってのけるのも分かっていた。
 有能な補佐官を得た歌仙兼定が、有頂天になるのも。
「自分でやらなければ、意味がないのに」
 この一年間に万屋で付け払いで購入した物品の合計額を算出し、支払う。
 たったそれだけのことがどうして出来ないのかと、小夜左文字は奥歯を噛み締めた。
 去年はやむを得なかったが、今年も松井江に全てを押しつけるのは、許さない。この本丸の初期刀としての体面を保つためにも、彼にはもっとしっかりしてもらいたいのに。
「いない、か」
 辿り着いた橋の上で前方を見据え、背伸びもしてみるけれど、お目当ての姿は見つからなかった。額に手を翳し、庇代わりにして遠くを凝視するものの、丸裸目前の木々の影にも、それらしき姿は見当たらなかった。
 玄関に草履がなかったので、屋外に出ているのは間違いない。
 万屋に行くには審神者の了解を得ないといけないが、その承諾を受けた形跡はなかった。
 畑で農作業を手伝っているとも思えず、ならばと庭園を散策しているものと踏んで、こちらに足を向けたのだけれど。
「ぐるっと一周して、鍛練場でも覗こうかな」
 何かにつけて風流だ、雅だと口にする刀なので、こちらを優先させたけれど、見誤った。
 可能性がなくなったわけではないので、立ち去るのは早計と己を諫めつつ、小夜左文字は足早に太鼓橋を渡った。
 両足を揃えて橋のたもとに着地して、勢い余って前に出た右足で崩れかけた体躯を支えた。両手を大きく広げ、腰を深く沈めた体勢を素早く立て直して、頭上で吹いた風につられ、高い場所に目を向けた。
 細切れの雲が澄み渡る空を泳ぎ、木々に別れを告げた木の葉がくるくると踊りながら散っていく。
「冬も、近いね」
 日中は程よく空気も温く、水の冷たさもそれほどではない。
 けれど言っている間に雪が降り、氷が張り、布団から抜け出し難くなる。
 琉球の宝刀たちは、総じてこの季節が苦手だ。新たに加わった脇差も、きっと同じに違いない。
「太閤は、どうだろう。冬、大丈夫かな」
 ほかにも何振りか、今年に入ってから本丸にやって来た刀が在る。
 その中のひと振りは、小夜左文字たちに非常に近しい刀だった。
 同じ左文字のひと振りにして、豊臣秀吉に所縁を持つ短刀。賑やかで、華やかで、屈託がなく、小夜左文字が躊躇して越えられなかった数多の壁を、難なく突き破ってしまった刀だ。
「寒い、って。ひっついて来なければいいんだけど」
 誰とでもすぐ仲良くなり、良く笑って、よく喋る。審神者の草履を温めるのが趣味のような太閤左文字は、何かと理由をつけては、べったり貼り付いてくるところがあった。
 こうやってくっついていれば、お互い暖かくて良い。
 そう言い訳して、誰彼構わず抱きつく光景が、楽に想像出来た。
「……べつに、誰とひっついてても、構わないんだけど」
 しかもその想像図に現れたのは、現在進行形で探している相手だ。
 頭の片隅に居座っていたから、もれなく引きずられてしまったらしい。微妙に胸がもやっとして、苛々する妄想を小石と一緒に蹴り飛ばして、彼は尖らせた口を引っ込めた。
 深呼吸をして、程よく冷えた空気を取り込み、頭と身体を冷やす。
 目の前では橙色に染まった桜の葉が、今まさに枝に別れを告げようとしていた。
 少し先に視線を転じれば、驚く程に黄色一色の公孫樹が聳え立っていた。
 樹下に積み上げられた落ち葉の数は凄まじく、そのまま寝台代わりに出来そうなくらいだ。近付けば銀杏の残り香が漂い、さほど快適とは言い難かったが、遠目に眺める分には支障なかった。
 注意深く辺りを探れば、目を見張る光景がそこかしこに広がっている。
 中には、日当たりの影響であろう。半分だけ色が変わり、残り半分は青々とした色を残している木もあった。
 一本の木が、見る方向でまるで違う顔をしている。
 まるで半分だけ秋が来て、残り半分が過ぎ去った季節を惜しんでいるかのような光景に、思わず音を紡ぎたくなった。
「同じ枝を わきて木の葉の うつろうは――」
「西こそ秋の はじめなりけれ」
「っ!」
 その歌の、残り半分を余所に奪われた。
 ビクッと大袈裟に飛び跳ねて、止まり掛けた呼吸を奥歯で噛み砕く。粟立った肌を宥めてバクバク言う鼓動を整えつつ振り向けば、案の定、よく見知った顔がそこにあった。
 落ち葉の海に爪先だけを沈めて、淡く微笑み、悠然と佇んでいた。
「歌仙」
「これは梅の木ではないけれど、ああ、確かに色づき具合が見事だ」
 驚きが拭いきれず、声が掠れた。
 されど歌仙兼定は取り立てて意に介さず、目尻を下げ、小夜左文字の傍らに並んだ。
 櫟の幹に触れ、穏やかな吐息と共に呟く。彼に続けて視線を樹上に巡らせた短刀は、嗚呼、と瞼を閉ざし、肩の力を抜いた。
「どうして、ここに?」
「お小夜がこちらに行くのが、見えたからね」
 探していた相手に見付けられるとは、予想だにしていなかった。
 まだ小刻みに弾んでいる胸を軽く撫で、数回の咳払いで呼吸を整えた。仰ぎ見た打刀は何でもないことのように言って、戻した手を小夜左文字に向かわせた。
 頬か頭を撫でられるつもりでいたら、またも予想が外れた。
 無骨ながらしなやかな指先は藍色の髪を梳るのではなく、そこに引っかかっていたものを抓んで、去って行った。
「いつの間に」
「橋を渡って、桜の枝の下を潜った時かな」
「……どこで見てたんですか」
 木の葉を頭に載せたままでいたのにすら、気付いていなかった。
 注意力散漫だと恥じ入り、随分早い時期からこちらを把握していたらしい刀を睨み付ける。
 もっとも歌仙兼定は少しも怯えず、葉先だけ黄色みが強い木の葉を顔の前で揺らした。
「お小夜が菊を愛でている辺りから、かな?」
 茶目っ気たっぷりに目を細め、愉快だと言わんばかりに教えられた。
「そんなに前から」
 まるで知らなかった事実に愕然として、小夜左文字は唖然とその場に立ち尽くした。
 偵察力はそれなりに――少なくとも打刀よりは一段上回っていると自負していたのに。
 よもや彼に、隠蔽力で負けるとは。長閑な本丸内ということで、警戒心が薄れ、こうも索敵能力が減退するとは。
「傷つきました」
「なぜ」
 衝撃が拭えず、心に負った傷は大きい。
 額に手を当てて項垂れ、深々と溜め息を吐く。一方の歌仙兼定はてんで分からないという風に首を捻り、手にしていた木の葉を風に流した。
 地面に向かってひらり、ひらりと舞い踊る葉をしばらく見詰め、空になった手を腰に当てた。俯いて、頭を左右に数回振って、爪先に落ちた木の葉を散らし、色の濃い土を踏み固めた。
「それで? お小夜こそ、散歩かい?」
「ああ、いえ。歌仙を探してました」
 無事に気持ちを切り替え終えたのだろう。顔を上げた彼は普段通りの冴えた表情を取り戻し、口調も落ち着き払っていた。
 それで小夜左文字も当初の予定を思い出し、自ら出て来てくれた相手を指差した。
「僕を?」
 人差し指を向けられた打刀が、不思議そうに目を丸くする。
 短刀は黙って頷いて、深まる秋に手を振った。
「年末の帳簿の計算、進んでないでしょう」
「ぐっ。あれは、……あれはまだ、期日に余裕があるだろう?」
「去年も、一昨年も、そう言って、ぎりぎりまで手をつけなかったでしょう」
 来た道を戻り始めれば、歌仙兼定も一歩遅れてついてきた。大股で進んで、少し行く間に横に並び、嫌な指摘に苦虫を噛み潰したような顔をした。
 奥歯を噛み締めギリギリ言わせて、広げた右手で鼻筋を隠した。不敵な表情を浮かべる短刀を恨めしげに睨んで、気を取り直したのか、明後日の方向を見た。
「なあに、今年は心配いらないさ。松井がいるんだし、なんとかなるさ」
「そう言って、全部やらせるつもりでしょう。松井だって、自分の仕事があるのに」
 事務仕事が得意というのもあり、彼は本丸全体の運営にも、顕現直後から携わっていた。
 博多藤四郎やへし切長谷部たちと並んで、毎日そろばんを弾き、日々の経費を計算してくれている。山のように積み上がった書類と帳簿を付き合わせて、政府に報告する数字に間違いがないか、目を皿にして調べてくれていた。
 そんな彼に、更なる重労働を強いようなど、許されるものではない。
 厳しい目つきで糾弾すれば、歌仙兼定は口をへの字に曲げ、袖口に手を突っ込み、腕を組んだ。
「そうは言っても、僕は計算ごとが苦手でね。適材適所だと、良く言うだろう?」
 彼方を見ながら言って、まるで悪びれる素振りがない。
 数字を苦手にしている刀がやるより、得意としている松井江にやらせる方が、間違いが少なくて良い。万屋の方も手間が省けるし、万々歳ではないか。
 言外にそう伝えられて、小夜左文字は深く肩を落とした。
「だったら、歌仙こそ、ここで何をしてるんです。適材適所だと言うのなら、歌仙だってなにかしら、役目を果たすべきでは?」
「それは……」
 もっともらしい言い訳に、ため息しか出なかった。
 歌仙兼定のために頑張ってくれている刀があるなら、彼も松井江のために、なにかすべきではないのか。
 無償の奉仕に甘えて、それが当たり前になってはいないか。
 眼光鋭く問われた打刀は途端に口籠もり、嫌そうに口元を歪めた。
「お小夜こそ」
「僕は、自分の分は自分でやります」
 逃げ道を探して巻き込まれそうになったので、先回りしてぴしゃりと断ち切った。
 得意満面に胸を張って断言した短刀を相手に、敵わないとようやく諦めがついたのか、歌仙兼定は両手で顔を覆って天を仰いだ。
「分かった、分かりましたとも。やればいいんだろう、やれば」
「最初から、そう言えば良いんです」
「けどねえ、お小夜。半年以上も前の手形なんか、どこにあるか覚えているわけがないだろう?」
「……どうして整理して、まとめておかないんです」
「仕方が無いじゃないか。気がつけば、どこかに消えてるんだ」
 半ば投げやりに言い放ち、その後は身振りを交えて訴えてくるが、内容はどれも頷き返せないものばかりだ。
 彼が最初に審神者に喚ばれた初期刀であり、この本丸の中心をになう柱である自覚があるのかさえ、怪しくなってきた。
 初年度は色々分からない事だらけだったので、仕方がない面もあった。しかし二年、三年と過ぎる間に、学び、改善する事だって出来ただろうに。
「はあぁ……」
「やめてくれないか、その顔」
「いえ、あまりにも情けなくて」
「傷つく。傷ついた。やる気が失せた。全部お小夜の所為だ」
「そんな、子供みたいなことを言わないでください」
「子供だとも。少なくともお小夜よりは年下だからね、僕は」
「どうしてそこで、開き直るんですか」
 本丸には古刀だけでなく、新刀や、新々刀まで幅広く揃っている。その中で言えば、歌仙兼定は比較的古い時代に当てはまる刀だ。
 今の彼の発言を聞いたら、源清麿や、水心子正秀はどんな顔をするだろう。
 遠征に出ているふた振りを思い浮かべ、ひとり憤慨している打刀に目をやる。その向こうに、兄刀が丹精込めて育てた菊の花が居並んでいるのが見えた。
 ひな壇の最後列は、結構な高さがある。その裏に隠れていたとしたら、小夜左文字には見えなくて当然だ。
「少しくらいなら、手伝ってあげますから」
「本当かい? 約束したからね」
「駄賃は、薩摩芋のぷりんが、良いです」
「く。僕が洋菓子を苦手にしているの、知っているだろう」
 その後列の菊は、白色で統一されていた。しかし昨今の冷え込みの影響を受けてか、真っ白い花弁の一部が、僅かに紫に色を変えていた。
 寒さに花が傷み、萎れていく最中に起きる現象だ。されど平安の人々はこれを尊び、移ろい菊として殊の外心を寄せていた。
 風流なものをこよなく愛し、慈しんでいるこの刀なら、その美しさを間近で鑑賞していても、なんら不思議ではない。
「僕も、まだまだです」
「なんだい、お小夜」
「いいえ。それより、まずは歌仙の部屋の片付けからですね」
 知らなかったことを教えてくれるのも、見落としていたものに気付かせてくれるのも、自分以外の誰か。
 その誰かの中でも、傍に居て際立って楽しい相手と共に居られるのは、紛れもなく幸運だ。
 自分には、不幸ばかりではなかった。
 この本丸に来てからの日々を走馬灯の如く振り返って、小夜左文字は世話の掛かる昔馴染みを見上げ、目を眇めた。
 

今宵はと心えがほに澄む月の 光もてなす菊の白露
山家集 379

2020/11/23 脱稿