「あれ?」
視界の端にキラリと輝くものがあると気付き、立香は足を止めた。
真っ白に磨かれた廊下には、目立つ汚れや、落下物は存在しない。天井の光が反射しただけかと首を傾げ、彼は該当の場所に注目しつつ、瞬きを繰り返した。
一度天井を仰いで照明の位置を確かめ、それらしきものが何もない空間に眉を顰める。
「あっ」
否、あった。
小さくて見落としていただけと心の中で弁解して、思いの外甲高く上がった声に慌てて口を噤んだ。左右をきょろきょろ見回し、怪訝に見詰めて来る存在がないのに安堵して、ジャケットの上から胸をひと撫でした。
息を整え、上唇を舐める。たった四歩で到達した場所に落ちていたのは、親指大の石だった。
「宝石、かな」
淡いオレンジ色をした塊で、楕円の真ん中を軽く潰したような形をしていた。向こう側がうっすら透けており、見た目よりも軽く感じられた。
掌に転がせば、天井光を受け、影まできらきら輝いた。
「誰かの落とし物?」
軽く握り締めると、体温を浴びた影響か、ほんのり暖かい。顔の前に掲げてよく見れば、内部には小さな気泡らしきものが入っていた。
生憎と宝石には詳しくなく、そもそもこれがその分類に含まれるものなのか、判断がつかない。
ただこういったものに目がないサーヴァントなら知っており、彼女に聞けば、なにか分かる気がした。
「琥珀ね。でも私のじゃないわ。こんな小さいの持ってても、自慢にすらならないもの」
「うわわ」
案の定、訪ねて行った先で、見目麗しい女神はそう言ってのけた。
目のやり場に若干困ってしまう衣装も、苦楽を共にする中で、幾分見慣れたものとなった。尊大な口ぶりや、態度にも。ただ突拍子もないことを唐突に始める破天荒ぶりには、未だに閉口させられた。
鑑定を依頼した宝石を投げて戻されて、落とさないよう慌てて受け取り、ホッと胸を撫で下ろす。床すれすれでキャッチした石が無事なのを確認して、立香は曲げた膝を伸ばした。
「へえ。これが、琥珀かあ」
「昔からお守りや、魔除けに使われて来たものだし。珍しくもないものよ」
「じゃあ、落とし主は今頃、困ってるかな」
「さあ、どうかしらね」
好みの宝石ではなかったからか、イシュタルは最早興味すらない様子だ。ぞんざいに言うと、己のマスターである立香に向かって、しっしっ、と右手を払った。
犬猫を追い遣る時と同じ仕草で、表情もあまり好意的なものではない。人間の分際で気安く話しかけるなと、そういう雰囲気だった。
もっとも心底人間を嫌っているわけではないのは、これまでの経験からも明らかだ。
見返りを求められなかっただけ良しと笑って、立香はマアンナの上で寛ぐ女神に頭を下げた。
「どうあれ、ありがとう。助かったよ」
「そう? どういたしまして」
これが何なのか分からなければ、落とし主を探すのも難しい。
新たな知識を与えてくれた礼を述べるが、イシュタルは面倒臭そうに先ほどの仕草を繰り返した。
早く行けと催促されて、抗う理由はない。部屋を辞する時に、癖でもうひとつお辞儀をして、立香は手元に残された石を見詰めた。
「琥珀、か」
その言葉には、聞き覚えがあった。けれどお洒落に関心が強い女子ならまだしも、宝石の類にはまるで縁がなかったので、どうにもピンと来なかった。
ぼんやり抱いていたイメージでは、もっとずっしり重いもの、という印象だった。だのにこれは、同サイズの小石より軽かった。
飴玉に、よく似た色合いのものがあった。廊下で見付けて、拾ったものでなければ、美味しそうと口に入れていたかもしれない。
「いや、それはさすがにないか。……うん。ないない」
そもそも拾い食いは、良くない。
料理上手の弓兵の怒る顔が何故か脳裏に浮かんで、立香は肩を竦めた。
今頃キッチンでくしゃみをしているだろうエミヤを想像し、持ち主とはぐれてしまった琥珀を握り締める。イシュタル以外でこういう宝石を好みそうな女性サーヴァントはと考えるが、範囲が広すぎて、逆に誰も思いつかなかった。
それに装飾具としてではなく、お守りや魔除けとして使うのであれば、性別は関係無い。
「誰に聞くのが、早いかな」
向こうも探してくれていれば良いが、落とした事自体に気付いていないのなら、面倒だ。
しげしげと石を眺めつつ、人が多そうな場所を求めて廊下を突き進む。
お蔭で、前方にあまり注意が向いていなかった。
「うわっ!」
突き当たりの角を曲がろうとして、反対側からやって来る存在に気付くのが遅れた。
すんでのところで衝突は回避したものの、お互い驚いて、目を真ん丸にした状態でしばらく固まってしまった。
普段ならやらないミスは、お互い様だ。
目深にフードを被ったサーヴァントもあまり見ない表情をして、素早い瞬きの後、取り繕うかのように咳払いをした。
右腕から肩に向かって巻き付く白い蛇が、なにかの模様のようでもある。黒いコートにペストマスクを合わせた男は、持っていた端末を握り直し、それで人を叩く素振りを見せた。
「気をつけろ、マスター」
「はは。ごめん」
呆れた調子で言い放ったアスクレピオスだけれど、彼だって、端末に表示されるデータに夢中だったはずだ。
もっともそれは言わずに済ませて、立香は軽く謝り、額に迫る端末の背を押し返した。
その時にはもう、手の中に、例の石はなかった。
「あれ?」
「どうした?」
「あれ、ない。あれ? 待って。落とした?」
違和感を覚え、なにか忘れている気がして、次の瞬間に思い出した。
広げた右手が空っぽなのに、愕然となった。服に引っかかっていないかと、ジャケットやズボンを何度も叩いて、撫でて、引っ張った。同時にその場で足踏みして、時計回りに三百六十度、ぐるりと一回転した。
それでも石の感触には辿り着けず、カランコロンと固い物が転がる音も響かない。
「なにをしている、マスター」
アスクレピオスにしてみれば、マスターが突然不審な行動をとったのだから、変に思うのは当然だ。
胡乱げな眼差しを向けられたけれど、立香は咄嗟に言葉が出なかった。
「いや、あの。……知らない?」
「なにを」
説明したいのだけれど、琥珀、という単語が綺麗さっぱり頭から消えていた。
アスクレピオスだって、そう訊き返すより他にない。だというのに何故伝わらないのかと地団駄を踏んでいるうちに、溜め息を吐いた英霊が軽く膝を折り、屈んだ。
立香の傍らに手を伸ばし、長い袖で床を擦った。端末は左手で大事に胸に抱え込んで、ゆっくりと姿勢を正した。
「ἤλεκτρον」
「え? なんて?」
その際彼がぼそっとなにか呟いたが、耳慣れない言語で、音が拾いきれない。
反射的に声を上げた立香を一瞥して、医神とも称される英霊はあからさまに肩を竦めた。
「エーレクトロン……お前の国では、琥珀、と言われているんだったか」
「えっと、ああ、うん。そう。よくご存知で」
面倒臭そうに述べて、手を差し出すよう、態度で示す。
促されて右手を広げた立香は、掌に落ちてきたものが弾まないよう、慌てて残る手で蓋をした。
指の隙間から石が無事なのを確かめ、もう行きたそうにしているアスクレピオスの前にサッと割り込んだ。
「さっき、これ。廊下に落ちてるの、見付けたんだけど。アスクレピオスのじゃ、ない……よね?」
先に右足を出し、僅かに遅れて身体ごと移動させた。行く手を塞がれた男は寸前で身体を後ろに引き、マスクの上からでも分かるくらい、露骨に顔を顰めた。
「僕が、そんな不快になるものを持ち歩くはずがないだろう」
「……なんで?」
可能性があるから訊ねただけなのに、ここまで嫌悪感を露わにされるのは、想定外だ。
意外過ぎて、逆に気になった。目をぱちくりさせながら首を傾げた立香に、アスクレピオスは盛大に舌打ちして、首筋に寄って来た蛇を押し返した。
視線はなにもない壁に向かい、苛立たしげに前髪を弄る。特徴的な形状をほんの少し崩して、彼は数秒目を瞑り、長い袖を揺らめかせた。
「エーレクトロン……太陽の輝き、という意味だ」
立香の手から琥珀を抓み取り、黒い袖の上で転がしながら呟く。
風が吹けば消し飛びそうな小さな声を掬い上げて、立香は背筋を震わせた。
「え、あっ」
「もっとも由来は、アレではない。太陽神ヘリオスの娘達が、身内の悲劇に流した涙、という話だ」
しまった、と思ったのが、顔に出たのだろう。アスクレピオスは皮肉を込めて目を眇め、抓んだ石を縦に構えた。
横にすればピーナッツにも似た形状だったものが、彼の言葉を受け、途端に涙の形となって目に飛び込んできた。
光を受けて輝く姿は、成る程、小さな太陽のようでもある。それを象徴する太古の神の娘が、家族に起きた不運に涙して産まれた石だというのも、言い得て妙だった。
「そっか」
「東洋では、薬としても用いられていたそうだな」
「へええ。それは知らない」
同じ太陽神であり、後代にはアポロンと同一視されてしまった存在が語源に関わるから、あまり好きではないのだろう。
深く触れたくないらしく、早々に話題を変えた彼に、立香も同調して目尻を下げた。
改めて受け取って、太陽を宿した石を指先で軽く擦った。ほんのり熱を帯びたそれの感触は優しく、見詰めていると心が落ち着いた。
真夏の鋭い陽射しではなく、水平線に沈もうとする夕日に似た彩だ。
誰かの落とし物だというのに、色々と聞いているうちに、手放し難くなってくるから困る。
「落とし物なのに、勝手に貰っちゃったら、ダメだよね」
名残惜しげに呟けば、アスクレピオスは意外だったのか、一瞬だけ目を見開いた。
しかしそれも、ほんの僅かな時間でしかない。見間違いかと思うくらいの僅かな変化に、立香は首を右に傾がせた。
「気に入ったのか」
不思議に思って見詰めていたら、不意に真正面から問われた。
今までにない真剣さで訊かれて、面食らった立香は反射的に半歩下がった。
「そういうんじゃ、ない……けど。いや、やっぱそうなのかな。綺麗だし。なんか、見てて落ち着くっていうか」
急ぎ言葉を紡ぐものの、気持ちの整理が追い付かず、なかなか思うように喋れない。
それでも必死に胸の内を述べれば、深く長い息を吐かれた。
「……そうか」
アスクレピオスは太陽神アポロンの息子であるが、そのアポロンを毛嫌いしていた。彼の母親はかの神の所為で命を落としており、彼自身も神々の横暴によって生涯を終えていた。
だから太陽の輝きという名を持つ石を立香が愛でるのに、複雑な感情を抱いても無理はない。
「けど、けどね。深い意味はないから。別に、アスクレピオスが気にするような事じゃないから」
彼を傷つける意図はなく、不快にさせるつもりではなかった。
そこだけは是が非でも理解して欲しくて、声高に訴えた立香は、二秒後。
「気に入ったのなら、僕がもっと良いものを見繕って、贈ってやる。お前にとっても、丁度良いかもしれんしな」
「はい?」
思ってもみなかった提案をされて、目を点にした。
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、言葉を失い、立ち尽くす。それを意に介することなく、アスクレピオスは数回頷いて、擦り寄る白蛇の頭を撫でた。
「指輪よりも、ペンダントの方が良いか。なるべく大きなものを、肌身離さず持っていろ」
口元がマスクで覆われているので表情が分かり辛いが、眼差しは至って真剣だった。冗談を言っている素振りはなく、本気で行動に移しそうな雰囲気だ。
「待って。なんでまた、急に」
突然やる気を出されて、驚かない方が可笑しい。
なぜそんな話になったのかと理由を尋ねれば、アスクレピオスは喋るのに邪魔と感じたのか、カラスの嘴に似たマスクを外した。
「非科学的で、医学的にはナンセンスとしか言いようがないが。呪術的な意味合いでは、宝石にはそれぞれ力が宿っている。エーレクトロンは精神を安定させ、病魔を遠ざけると言われている。魔術師ではないお前にはさしたる効果は期待出来ないが、気休め程度にはなるだろう」
不遜に胸を張り、月の女神にも通じるところがある容貌を曝け出した。息継ぎを殆ど挟む事なく饒舌に捲し立てて、最後は口角を持ち上げて不敵な笑みを浮かべた。
言葉で表現するなら『にやり』という擬音がぴったりだが、なにぶん顔が良いのもあり、それも少し違う気がした。
「それは……、どうも」
一応マスターの身を気遣い、親切で言ってくれているはずだ。
だというのに若干馬鹿にされている感じがして、心中は複雑だった。
素直に礼が言えず、声は小さかった。首を竦め、猫背気味になって、上目遣いで様子を窺えば、目が合った男はどこか満足そうに口元を緩めた。
「指輪は、十年したら贈ってやる」
「んん?」
「それまで、せいぜい生き延びることだ。もっとも、僕がいるんだ。簡単には死なせないぞ、マスター」
そうしていきなり宣言して、こちらが反応する前に、タブレット端末で今度こそ頭を押された。硬い平らな面で黒髪を潰された立香は二の句が継げず、その間にアスクレピオスはさっさと歩き始めた。
すれ違い様に得意げに告げて、片手で素早くマスクを装着し直し、振り返りもしない。
取り残された方は意味が分からず、唖然とするしかなかった。惚けたまま立ち尽くし、数分後に歩いて来たマシュに呼びかけられて、それでようやく我に返った。
手元に残された琥珀の事情を説明し、持ち主捜しの協力を求め、快諾を得る。そうして推理ならばこの人だろう、と頼ったホームズとの会話の中で、期せずして、医神が告げた言葉の意味を教えられた。
「勘弁してよ……」
結婚十年目に琥珀を贈り合う習慣が、イギリスにあるという。
思いがけず真意を知らされた立香は、勝手に火照る顔を隠すべく、皆の前で丸くなった。
2020/11/07 脱稿
夕暮は蓬がもとの白露に たれ訪ふべしとまつ虫の声
風葉和歌集 298