谷深み 思ひ入りにし 道なれど

 向かいから歩いて来た彼は、手にした何かを気にして、視線はそちらに集中していた。
 このままだと真正面からぶつかってしまうが、彼が立香に気付く様子がない。衝突を回避するには、立香が避けてやる必要があった。
 これしきの手間を惜しむつもりはなく、譲ってやらない、という意地悪い感情を抱きもしない。
 至極当然の帰結だ。特段意識することもなく、進路を左にずらせば、そこでようやく、アスクレピオスが顔を上げた。
「ああ、マスターか」
 あと二歩ですれ違うという距離で、やっと存在を認識された。少々意外そうな、どことなく驚いた風に呼びかけられて、立香は肩を竦めて苦笑した。
「どうかした?」
 黙って立ち去っても良かったが、彼がそこまで集中していた理由が気になった。
 興味本位で問いかけてみれば、アスクレピオスは一瞬きょとんとしてから、嗚呼、と合点がいった様子で目を細めた。
「持ち主を探している。心当たりはないか」
 意外にも、話を振られた。いつもなら愚患者には関係無いことだ、などと言って、早々に立ち去ってしまうのに。
 どうやら本当に、困っているらしい。心持ち弱り顔で差し出されたのは、木製の、掌サイズの小物だった。
 半月型をして、直線部分には細かな筋が、横並びに刻まれていた。厚みはさほどなく、半円部の方が若干ふっくらしていた。
 表面は良く磨かれて、筋状になっている部分以外に段差は見られない。
 どこかで見た覚えがある形状に、立香は眉を顰めた。
「これって……」
 何に使うものなのか、ぱっと思いつかない。しかし見た事は、ある。自身で使った記憶ではなく、テレビか、漫画か、ともかくそういった媒体を経由しての知識なのは、間違いなかった。
 戸惑い、返答に窮していたら、アスクレピオスが口角を歪めた。
「くし、だそうだ」
「くし? くし……ああ、櫛か。どうりで」
 即座に名前が出てこなかったのを笑われたが、馬鹿にする空気が薄かったので、気にしないことにした。微妙に異なるイントネーションで告げられたのを修正し、立香はなるほど、と両手を叩き合わせた。
 教えられて、色褪せていた記憶が甦った。パズルのピースがかちりと嵌まった時に似た快感を覚えて、胸がすっとした。
 アスクレピオスが手にしていたのは、シンプルな和櫛だった。
 持ち主を探していると言っていたので、誰かの忘れ物なのだろう。
 立ち話もどうかと思い、立香は踵を返した。なにか知っていそうなサーヴァントがいると期待して、食堂へ行くのを提案すれば、医神と称される男は間を置かずに首肯した。
「先日の、特異点で回収したものだ。看護師に聞いてみたが、所有者は分からないと言われた」
 道すがら事情を端的に説明されて、緩慢に頷く。先日の特異点といえば、あの夏山のことだろう。
 動く屍に興味を抱いたアスクレピオスが騒動を起こしてから、まだ日も浅い。命を狙われた虞美人を含め、全員が無事カルデアに帰還できたのは、幸いとしか言いようがなかった。
「多分、日本の英霊の誰かだと思うんだけど。巴御前か、紫式部かな。あとは沖田さんと、……ノッブは候補に含めていいんだろうか」
 夏休みを満喫したサーヴァントの中で、持ち主らしき存在を指折り数える。その途中で遠い目をした立香に首を捻って、アスクレピオスが先に食堂のドアを潜った。
 広々とした空間は掃除が行き届いており、テーブルはどれもぴかぴかだ。混雑していないが、誰もいないわけではなく、席は何カ所か埋まっていた。
 キッチンカウンターを覗けば、夏山で大活躍だったエミヤの姿があった。留守の間、台所を預かっていたブーディカもいて、夕食の仕込みで忙しそうだった。
「それっぽい人は、いないか」
 ぐるりと見回すけれど、先ほど名を挙げたメンバーは見当たらない。
 当てが外れた立香はどうしたものかと天井を仰ぎ、隣で手持ち無沙汰に佇む男を盗み見た。
「どうしようか」
「紫式部なら、地下だろうが」
「巴御前は、ゲームしてるか、シミュレーターかな?」
 水を向ければ、そもそも訪ねる先を間違えた件を指摘された。立香も愛想笑いで同意して、今一度食堂を見回し、空いていた椅子を引き寄せた。
「エミヤに預けておけば良い気もする」
 浅く腰掛け、アスクレピオスの右手を指差す。提案を受けた男は小さく頷き、未だ所有者不明の品をまじまじと眺めた。
 ただ言われたような、無銘の弓兵に頼みに行く事は無く、立香に向かい合う形で椅子に腰掛けた。綺麗に歯が揃った櫛を袖越しになぞって、何を思ったか、突然腕を伸ばした。
「なに」
 急に櫛を向けられて、驚く暇もなかった。
 前髪を数回、浅くだが梳られた。
 すっと髪の中を行き過ぎた櫛が、同じ場所を何度も、何度も繰り返しなぞる。痛みもなにもなかったのに、立香は反射的に首を下向けた。
「ふむ」
 奇妙な状況に顔を上げられずにいたら、なにを納得したのか、アスクレピオスが感嘆の息を吐いた。
 面白がっているのが丸分かりだ。
「僕の時代にも、似たようなものはあったが。見ろ、マスター。梳いた場所だけ、異様に真っ直ぐになっているぞ」
「……見えないって」
 指差しながら言われたが、生憎と手鏡は持ち合わせていない。丹念に磨かれた銀食器なら、代用品として使えるかもしれないが、わざわざ借りに行くのは手間だった。
 なんとも楽しそうに言われて、立香は呆れ半分で櫛を通された場所を撫でた。すると確かに、普段よりも毛先が艶々して、さらさらになっている気がした。
「そうか。木製だから、静電気が起こりにくいんだな。それにこの匂い……植物性の油を吸わせているのか?」
 アスクレピオスはそうなった理由を探ろうとして、和櫛を鼻に近付けた。微かに漂う匂いの意味を推測して、終始嬉しそうだった。
 さすがは医学に通じ、この分野の発展に強い関心を示すだけのことはある。
 なにかに応用出来るのでは、とまで言い出して、食堂に来た本来の目的を忘れかけていた。
「オレにも、試させてよ」
 放っておけば思索に没頭し、他人の忘れ物なのに、こっそり懐に入れてしまいそうな雰囲気だ。
 それは問題があると考えて、軌道修正すべく手を差し出す。
 集中を邪魔された男はどことなく不機嫌な顔をしたが、立香が諦めないのを悟り、溜め息と共に櫛を手渡した。
 掌に載せられたものを緩く握って、立香は目尻を下げた。
「アスクレピオスの髪の毛、借りるね」
「どうして僕が」
「オレの長さじゃ、見えないんだって」
 膝の裏で椅子を押し、立ち上がって、悪戯っぽく目尻を下げる。
 小首を傾げながら告げれば、先ほどのやり取りを思い出したのか、アスクレピオスは渋々といった態度で頷いた。
 至極嫌そうに顔を歪め、脚を組んで、どこからどう見ても偉そうだ。
 露骨に拗ねている彼を眺めるだけで、自然と頬が緩んだ。ふふ、と肩を揺らして笑って、立香は約束通り、アスクレピオスの長いもみあげに手を伸ばした。
 黒のコート姿の時は編んでいたり、結っていたりして無理だが、今の姿なら毛先まで楽に櫛を通せる。
 先端に向かうに連れてスカイブルーに染まる髪の右側を掬えば、長くしなやかな銀糸がさらさらと零れていった。
 しっかり捕まえておかないと、逃げてしまう。慌てて零れた分を拾うべく、立香は僅かに身を乗り出した。
 床を擦った爪先が、アスクレピオスの座る椅子の脚を掠めた。
 急に目の前が暗くなったのに驚いたのだろう、ふて腐れていた男がもれなく視線を上げた。
「うわ、あ」
 目が合って、思わず声が出た。
 思った以上に近かった。こんなに接近するつもりはなかったのに、髪に触れる距離というものを、存外甘く考えていた。
「どうした」
 甲高い悲鳴を上げた立香を怪訝に見詰め、アスクレピオスが首を傾げた。彼自身は意識していないらしく、早くしろと言わんばかりだった。
 その認識の差が、益々立香の顔を赤くさせた。
「いえ、えっと……あぁあ、アスクレピオスの髪の毛って、綺麗、だよね」
「誰があの羊そっくりだって?」
 言葉に窮し、目を泳がせ、必死に間を繋ごうと繰り出した話題が、思いもよらず地雷だった。
「そんなこと、ひと言も言ってないじゃないか!」
 急に激昂した彼に詰め寄られ、誇大妄想だと反論するが、通じない。
 勢い立ち上がった彼から逃げようと後ろに下がるが、左手が彼の髪を掴んだままだった。咄嗟に力が入った所為で強く握り締めていて、引っ張られたアスクレピオスが痛みに顔を歪めるのを見て、ハッとなった。
 急ぎ指を解こうとするのに、こういう時に限って身体が巧く動かない。
「ちょ、待って……いやあ、こわいいぃ」
「撤回しろ、マスター!」
 重ねて引っ張ってしまい、益々機嫌を損ねたアスクレピオスに詰め寄られた。
 食堂の片隅で言い合うふたりに、仲裁を申し出る親切なサーヴァントはいない。ここでの喧嘩は日常茶飯事なので、下手に間に入ろうものなら、要らぬ面倒を押しつけられると分かっているのだ。
 故に周囲から放置された結果。
 狭い場所でもみくちゃになった所為で、行き場を失った足が椅子を蹴った。傾いて倒れたその椅子にうっかり乗り上げて、バランスを崩して、諸共に床に沈む羽目になった。
「くそっ」
 どんがらがっしゃーん、と盛大な音を轟かせた時だけ、食堂は静かになった。
 立香を押し倒す形になったアスクレピオスは即座に身を起こし、悪態を吐いて、強かに打ち付けた前歯を唇越しに慰めた。
 その彼に跨がられ、床に転がった立香も、また。
 じんじんする歯茎と、咬まれた唇の痛みに、声もなく身悶えた。

2020/09/06 脱稿
谷深み思ひ入りにし道なれど 憂き身はそれも隠れざりけり
風葉和歌集 1405