枝しげみ 露だに漏らぬ 木隠れに

 明け方、あれだけ五月蠅かった蝉の声が、今はまるで聞こえない。
 天頂に輝く太陽は眩しく、燦々と照りつける陽射しは地表を容赦なく焦がした。それでも幾ばくか柔らかな雰囲気を感じるのは、ここが避暑地たるべき場所だからだろう。
 年代物のロッジはどっしりとした外観をして、多少の嵐なら持ち堪えられそうな重厚さだった。家具や調度品はどれも古めかしかったけれど、いずれも立香には馴染みが薄いものばかりで、却って新鮮だった。
 猫が寝床に使いそうな分厚いブラウン管のテレビ、モーター音がやたら騒々しい冷蔵庫。電子レンジはダイヤル式で、一枚だけカバーが違うソファの内側を覗けば、腰掛ける部分が派手に破れていた。
 木製ベッドのスプリングは硬く、乗ればギシギシ言って不安を誘った。紫式部の部屋のテーブルライトは電球が切れていて、しかもスペアがどこを探しても見つからなかったので、最終的にはエミヤが投影することで事なきを得た。
 シャワーの温度調整は水と熱湯のコックを微調整しなければならず、非常に手間取らされた。洗濯機は起動させるとごうん、ごうんと凄まじい音を立てて、横倒しになるのでは、と危惧するくらいに激しく揺れ動いた。しかも洗濯槽と脱水槽が別々で、ひとつの作業が終わる度に、中身を入れ替えなければならなかった。
 ゲームを持参してうきうきだった巴御前も、ケーブルの接続に手間取っていた。差し込み口がどこにもない、とエミヤに泣きついていたので、こちらも投影によって対処したのだろう。
 カルデアのキッチンに棲み着いているのでは、と言いたくなるくらい、台所にしかいないサーヴァントだったので、意外だ。なんでも器用にこなすと聞いてはいたけれど、ここまで多方面に通じているとは思っていなかった。
 そして料理の方も、相変わらず腕が良い。
「ぷは~、生き返る~」
 まだまだ暑い外から帰って、手を洗っていたら、エミヤに声を掛けられた。
 うがいも澄ませてキッチンを覗けば、渡されたのは特製ジンジャーエールだった。
 コップの表面にしゅわしゅわと泡が湧いて、中に入った氷がカラカラと音を立てるのがとても涼やかだ。鼻を近付ければ微かに生姜の匂いがして、ストローで掻き混ぜてからひとくち飲めば、爽やかな味わいが口の中いっぱいに広がった。
 特有の苦みはあまり感じず、蜂蜜が使われているのかほんのり甘い。炭酸が喉の奥で弾ける衝撃が心地よく、ストローがなければ煽って一気に飲み干していた。
「汗はちゃんと拭くんだぞ」
「は~い」
 水面に飾りとして添えられていた色鮮やかな花は、生で食べられるものらしい。
 母親のような事を言われて生返事で応じ、立香は首筋を伝った汗を指で拭った。
 発生した夏の特異点は、虞美人の活躍により、無事に解決した――もとはといえば、彼女が全ての元凶でもあったわけだが。
 あとはこの空間が自然に消滅するまで、残り少ない余暇を楽しむだけだ。
 とはいっても土地に根付いた呪いの類は全て祓い切れておらず、あらゆる脅威が去ったわけではない。実際、まだあちこちでトラブルが発生しており、先日もエミヤが湖で大物を釣り上げたとかで、夕食の席でも非常に楽しそうだった。
 また夏の陽気に浮かれて怪我をしたサーヴァントのために設けていた診療所でも、トラブルは起きていた。もっともそちらは、敵性反応に襲撃を受けたという類ではなく、医療班として配置したスタッフが、職場放棄したのが原因なわけだが。
 連日連夜の騒動を軽く振り返りつつ、残り少なくなったジンジャーエールをちびちび堪能していたら、誰か帰って来たらしい。
「イアソン様の泳ぎ、素晴らしかったですわ。あの天にも届きそうな波飛沫、一生忘れられません」
「ああ、凄かったな。そしてそのまま、鮫に食われてしまえばよかったのに」
「冗談じゃない。だいたいなんで、湖に鮫がいるんだ。おかしいだろう?」
 楽しそうな少女の笑い声に続き、冷静且つ幾ばくかの嘲笑と侮蔑を含んだ女性の声、そして悲壮感と疲労感をたっぷり感じさせる男の声。
 三者三様の感情を伴って現れたのは、メディア・リリィにアタランテ、そしてイアソンだった。
 一本だけ脚が短くてぐらぐらする椅子の上で振り返った立香に、彼女達は軽く頭を下げて挨拶してくれた。最後尾、両腕をだらりと垂らしてぐったりしていたイアソンは、エミヤの怪訝な顔を見るや否や、急に元気を取り戻した。
「俺にも冷たい飲み物をひとつだ!」
「ここは喫茶店ではないんだが……」
 右の人差し指を突きつけられた無銘の英霊は、若干迷惑そうだったが、注文を拒みはしない。呆れた調子で肩を竦めて、すぐに冷蔵庫目指して歩いていった。
 調子が良く、人を使うのが案外巧い古代ギリシャの冒険者は、颯爽と立香の横に近付き、空いていた椅子を引いた。アタランテは部屋に戻ってしまったが、メディア・リリィは残り、愛しい男の横を確保すべく、斜向かいにあった椅子を引っ張った。
「しっ、しっ。くっつくな。暑苦しい」
「大丈夫です。イアソン様は今、とーっても冷たいですから」
「そういう問題じゃない!」
 密着するとそれだけ暑くなるが、メディア・リリィはへこたれない。拒まれてもぐいぐい行って、意中の男にぴったり寄り添った。
「おやおや、仲が宜しいことで」
 傍目から見れば仲睦まじいカップルだけれど、彼らの関係もまた、ひと言では説明出来ないものだ。
 エミヤにからかわれたイアソンは終始仏頂面だったが、愛らしい少女姿のメディアは、至ってご機嫌だ。渡された甘い乳酸菌飲料の礼を言って、ごくごくと半分ほどを一気に飲み干す。湖で水遊びに興じていたのだろう、ふたりとも水着に一枚羽織った格好だった。
 屋内に入る前にある程度水気は拭いてきたらしいが、イアソンの金髪は湿り、ボリュームを欠いていた。先ほどの口ぶりからして、彼は例の親子鮫に追い回されたらしかった。
「怪我は――メディア・リリィがいるなら、心配ないかな」
「はい。もちろんです」
 前線には決して立とうとしない男が、勇敢に鮫に立ち向かっていくとは思わない。
 具体的な説明は一切なかったけれど、様子はある程度想像がついた。その場に居合わせていたら、さぞや面白い、もといハラハラする展開が拝めたのだろうに、残念だ。
 悲惨な経験を思い出しているのか、イアソンは折角のジンジャーエールに一切口を付けていない。にこにこしているメディア・リリィの腕を振り解きもせず、沈痛な面持ちで項垂れていた。
「アスクレピオスの奴がいないのが、悪いんだ。なんだって俺が、こいつに貸しをつくらにゃならんのだ。くそう。全部あいつのせいだ」
 俯いての独り言は聞き取り辛かったけれど、全く聞こえなかったわけではない。
 些か無視出来ない名称が耳に飛び込んで来て、立香は目を丸くした。
「アスクレピオス、いないの?」
 ほぼ空に近いコップをテーブルに戻して、右横を覗き込む。姿勢を低くしたマスターに瞳だけを向けて、イアソンは面倒臭そうに頷いた。
 アスクレピオスは彼らと共に船で旅をしたこともある英霊で、現代では医術の祖として崇められている半神だ。カルデアに召喚された後はメディカルルームを我が物顔で取り仕切り、日々愚患者の治療や、蘇生薬の研究に心血を注いでいた。
 素直な患者相手には親切で、丁寧なのだけれど、そうでない相手には一切の容赦がない。そして自身が死ぬ原因となった蘇生薬の再現も、未だ諦めていなかった。
 その男が特異点に跋扈していた動く屍体、ゾンビの存在を知って、目を輝かせないはずなどない。
 命を失っても動く存在は、死の克服という彼の悲願に、なんらかの助言を与えるものと期待したのだろう。
 だが実際のところ、特異点に現れたゾンビは、そうあるべくして生み出されたものだった。要は『最初から死んでいた』からこその存在であって、死の克服への足がかりになになる部分は少なかった。
 それでも僅かながら可能性を抱き、新たな展望を求め、これを手懐けようとした彼の熱意には頭が下がる。ただ一点のみに固執し、そうすることが人類全体の発展に繋がると信じている辺り、どこぞのバーサーカーにも劣らなかった。
 サンソンから話を聞かされた時は頭が痛くなったが、彼の執着が最終的にどこに至るのか、立香は知っている。
 テーブルに落ちた水滴を指で潰して、人類最後のマスターは立ち上がった。
「放っておけ。どうせ、また怪しい実験でもしてるんだろ」
「それ、放っておいたらダメでしょ」
「平気ですわ、マスター。それに、あの方が怪しい実験をしていない方が、むしろ心配では?」
 ゾンビの飼育が禁じられた医務室に、アスクレピオスはいなかった。
 またもや職場放棄した彼がどこで、何をしているか。ゾンビについてはパラケルススに対処してもらったけれど、一度芽吹いた不安を払拭するのは難しかった。
 引き留めるべく言葉を発したふたりに苦笑を返して、立香はエミヤに軽く手を振った。
「帽子を忘れないように」
「は~い」
 やはり母親のような事を言ったサーヴァントに返事して、色褪せた床を踏みしめる。大股でキッチンを出て、一瞬だけ振り返れば、背凭れに肘を預けたイアソンが、口角を歪めて笑っていた。
 嫌味で、なにか含みのある表情に、立香は反射的に顔を赤くした。
「別に、いいじゃん。マスターなんだから、オレ。サーヴァントがなにか変なことしてないか、ちゃんと把握してないと、後で新所長に怒られるのはオレなんだし」
 慌てて前に向き直り、火照った頬をぺちりと叩いた。早口でひとり捲し立てて、最後に咳払いをひとつして、心を落ち着かせた。
 特になにか言われたわけではないのに、なにを慌てているのだろう。
 バクバク言う心臓を宥め、呼吸を整えて、立香はほんのり苦い唇を舐めた。
 深呼吸を三度、四度と積み重ね、釘付けになっていた足を改めて動かした。小窓付きのドアを開け、外に出れば、屋内では感じなかった湿度に圧倒された。
 むわっとした空気が足元から立ちこめて、全身を包み込んだ。
「あ、帽子。……いっか」
 エミヤに言われたのに、陽射しから頭部を守ってくれるアイテムを忘れた。しかし今さら戻って、ロビーに面して開けているキッチン前を横切るのも、恥ずかしかった。
 キィキィ揺れているドアを窺って、立香は肩を落として溜め息を零した。帽子を諦め、極力日陰を選んでしばらく進めば、湖畔で遊ぶサーヴァントの歓声が、姿は見えずとも聞こえて来た。
 障壁となるものが少ないから、声はよく響く。特に少女や、女性らの甲高い声は、この距離でも割と聞き分けられた。
 皆、思い思いに夏を楽しんでいた。
 立香自身、思わぬ展開に四苦八苦させられもしたが、命を張った分、有意義な時間を過ごせた。
「でも、オレが女になってたっていうの。なんか、変な感じだな」
 マシュたちから聞かされた話では、彼女らと行動を共にしていた偽マスターは、女性だったらしい。陰陽の関係でそうなったと伝えられたが、そう言われてもいまいち実感が湧かなかった。
 直接対面したわけではないので、なんとも表現がし辛い。けれどもし、叶うなら、顔くらい見ておきたかった。
「……あ、いや。今ちょっと、グサッときた、かも」
 脳内で思い描いた、顔のない少女。その横に何故か、これから探しに行こうとしている存在まで現れて、彼は握り拳を胸に押し当てた。
 自分でやっておきながら、傷ついた。
 慌てて別のことを考えようと首を振って、立香は奥歯を噛み、天を仰いだ。
 憎らしいくらい目映い太陽を掌で遮って、それでも防ぎ切れない光に目を眇めた。窄めた口で息を吐き、吸って、不意にくらりと来た頭を片手で抱え込んだ。
「っと。大丈夫、大丈夫」
 よろけたが、なんとか持ち堪えた。靴底で雑草を踏み、砂利を蹴る。内腿に力を込め、姿勢を安定させて、情報を得るべく診療所が設けられているテントへ向かった。
 ひと声掛けてから入った内部には簡素なベッドが複数台並べられて、包帯や消毒液を入れた棚の前に、診察用の椅子が並べられていた。
 ベッドのうち三つが埋まり、ふたつが空。点滴を受けているのが一名、氷枕をして横になっているのが二名、という具合だった。
「おや、マスター。どこか痛めましたか?」
「ううん、そういうんじゃないけど」
 健康な存在が来る場所ではないので、サンソンの問いかけは当然のものだ。ごく自然と体調を聞かれて首を横に振り、立香は改めてテント内を見回した。
 ナイチンゲールは空のベッドを消毒し、シーツを整えていた。手慣れたもので、動きに一切迷いがない。場所が気になるのか、ベッドごと持ち上げて移動させるのも、お手の物だった。
 忙しくしている看護師と、医者兼処刑人。
 立っているのはこのふたり以外は、立香だけだった。
「アスクレピオスは?」
「あの方でしたら、昼前にふらっと」
「行き先は?」
「さあ、そこまでは。心配ですか?」
「えっ。えー……まあ、うん。また、なにかやらかしてないかな、って」
「ふふ」
 イアソンから聞いて知っていたけれど、自分の目で確かめるまでは、僅かに期待していた。
 たまたま席を外していただけ、という希望的観測は外れて、感情が顔に出たらしい。目を泳がせながらの返答に、サンソンは声を殺して笑った。
 暑くないのか、夏でも分厚いコートを脱がずにいるアサシンは楽しげに目を細め、肩を揺らした。睨み返しても平然と受け流されて、立香はぶすっと、赤く染まった頬を膨らませた。
「なにさ」
「いいえ。とてもお可愛らしいと」
「オレ、男なんですけど」
「存じています、もちろん」
 文句を言うが、まるで歯応えがない。
 呵々と笑うでもなく、胸に手を添えて慇懃に頭を下げられて、完全に毒気が抜けてしまった。
 ここで言い合っていても、時間の無駄だ。歯軋りして悔しさを打ち消して、立香は左手で顔を半分覆い隠した。
 苛々して、もやもやして、それでいて照れ臭い。様々な思いが混在する感情に蓋をして、深く長い溜め息で鍵を閉めた。
「アスクレピオスなら、土壌に含まれる呪術的要因の毒素を調べる、と言っていました。この特異点のゾンビは、そうあるべくして現れた存在でしたが、あれらの行動を制御し、誘導する素因が土地の魔力に備わっているのではないか、という話で」
 魂を失って尚動く肉体と、魂がなくても動き回る肉体は、似ているようで意味がまるで異なる。
 結局この不衛生極まりない屍体は、医神が目指す領域に程遠い存在だった。けれど飲食を必要としないゾンビが、どこからその活動エネルギーを確保し、また思考力を備えないくせに人を選別して襲う原因について、好奇心が擽られたらしい。
 ひとつの仮説が頓挫しても、すぐに次に取りかかる。その不屈の精神は、見習うべきだろう。
「……で、サンソンはオレに何が言いたいわけ?」
 些か早口の説明に、立香は眉を顰めた。上目遣いに睨まれた英霊は、満面の笑みを浮かべて、返答を拒んで背を向けた。
「さて、次の患者への準備に取りかかりましょうか」
 わざとらしく話題を逸らし、振り返らなかった。マスターを無視するとは良い度胸だと言わざるを得ないが、彼の意図は簡単に読み解けた。
 土壌の調査だけなら、そう遠くまでは行っていまい。
 さりげなくもないヒントを与えられて、立香は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 イアソンといい、サンソンといい、どうして皆、こうなのだろう。
 既に広く知れ渡っているという現実を突きつけられて、じっとしていられなかった。
「お礼は言わないから!」
 捨て台詞を吐き、踵を返した。見送られることもなくテントを出て、日陰を探して左右を見回し、当てずっぽうで右を選んだ。
 具体的な場所は、教えてもらえなかった。もとい、サンソンも知らないのだろう。
 あとは地道に、歩いて探すしかない。広大な敷地を前にして、再び目眩がしたが、堪えて足を繰り出した。
 山を削って作られた道を行けば、肌に纏わり付く湿気が一段と増えた気がした。ロッジでは聞こえなかった蝉の声が微かに響き、風がないのに樹木が揺れて、ざわざわと空気が波打った。
 木々が陽の光を遮り、昼間だというのに辺りは暗い。手入れされなくなって久しい山道は大きな石が多数転がって、隙間から雑草が伸びていた。
 苔生した岩肌は滑りやすく、足運びを間違うとバランスを取るのさえ難しい。転ばないよう慎重に進んで行けば、清々しい緑が胸を洗ってくれるようだった。
 土地に根付いた呪いの類はまだ残っているが、聖杯が回収されたことにより、少しずつ薄まっているようだ。頭上を埋める緑も心なしか鮮やかさを増して、立香を受け入れてくれている気がした。
「……すー、……はー」
 両手を広げ、深呼吸を二度。未だ姿が見えない医神を求め、目を凝らしては、落胆して。
 同じ事を、かれこれ何十回、繰り返したことだろう。
「やっぱ、帰ろうかな」
 結構な距離を歩き回ったが、アスクレピオスが通った痕跡すら見つからない。それどころか、散歩するサーヴァントも一騎として見かけなかった。
 誰ともすれ違わない。
 誰とも会えない。
 一抹の寂しさは、心に隙間風を呼び込んだ。虚しさが広がって、切なさが足取りを重くさせた。
 ここまで探しても見つからないのだから、どうやっても逢えそうにない。
 足は棒のようになり、はっきり見えないけれど、陽は西に傾きつつある。そろそろ決断しないと、日暮れまでにロッジに帰り着けない。
 皆に無用な心配はかけたくなかった。マスターが行方不明の事態になろうものなら、特異点の消滅を待たず、ここは強制的に閉鎖されてしまうかもしれない。
 せっかくの夏のバカンスを楽しんでいる仲間達に対し、その判断はあまりに非情だ。
「よし。戻ろう」
 結論を出すのは、早かった。
 自分自身の感情と、カルデア全体の利益とを天秤にかければ、そうなるのは自明だった。
 そもそも、両者を比較すること自体が間違っている。立香にその権限はない。彼には汎人類史最後のマスターとして、漂白された世界を取り返す義務が課せられていた。
 緩く握った拳を振って、身体を反転させた。一本道を進んできたので、通って来たルートを辿れば、難なくロッジに戻れるはずだ。
 夕食はなんだろう。そろそろカレーに飽きてきたので、違うものが食べたかった。
 エミヤが釣った魚で、なにか作ってくれないだろうか。出来るだけ楽しいことを想像し、期待に胸を膨らませて、立香は人の頭くらいある石を跨いだ。
「おっと」
 その際距離感を見誤り、踵が石を削った。想定していた通りに身体が動かず、踵が浮いた分だけ前につんのめり、両手をばたばた振り回すことで転倒を回避した。
 姿勢を低くして、そのまま座り込む。
「あ……あれ?」
 立てなかった。
 心なしか、声も嗄れていた。目の前がぼやけて、物の輪郭が二重にぶれて見えた。
 吐き気はしないが、胃の辺りが急にむかむかし始めた。頬に触れれば熱っぽく感じたが、それが平熱の範囲なのか、逸脱しているのかは、判断がつかなかった。
 帽子は被っていないけれど、なるべく直射日光は避けていたのに。
「帰らなきゃ、なの、に」
 膝に両手を置き、腹に力を込めるが、太腿が痙攣を起こしてまともに機能しなかった。無理に立とうとした所為で、却って目眩が酷くなり、頭の中で巨大な鐘がぐわん、ぐわんと鳴り響いた。
 目を瞑っても、気持ち悪さは抜けない。意識だけは手放すまいと歯を食い縛り、内腿を抓って耐えるものの、いつまで保つかは不明だった。
 ここで立ち往生している間にも、どんどん時間は過ぎていく。
「そうだ、通信機……は」
 最後の術として救助要請を出そうとしたが、肝心の通信機を持っていなかった。
 まさかこうなるとは思ってもいなくて、装備は貧弱だ。結果的に仲間達に多大な心配と、迷惑をかけることになって、目の前は真っ暗だった。
 絶望感に打ち拉がれて、ただでさえ残り少ない水分が涙となって消化されていく。一気に心が弱体化して、立香は音立てて鼻を啜り、唇を噛んだ。
 このまま誰にも見付けてもらえず、ひとり憐れに朽ちていくのだろうか。
 あり得ないと分かっていても、想像が止まらない。女性として現れた偽りの自分が、霞む視界の向こうで笑っているようだった。
 幻聴がして、ハッとなって顔を上げて、そこに何もないと知って項垂れる。
 抱え込んだ膝の間に顔を埋めて、小さな子供に戻って丸くなった。
「そこでなにをしている」
 比較的はっきり聞こえた低い声も、きっと幻だ。
 全ては自分が望み、思い込んだ世界の出来事。一夜にして消え去ってしまう、蜃気楼の見せる夢だ。
「なにをしているのか、と聞いているんだ。マスター、返事をしろ」
「あでっ」
 けれど繰り返された問いかけと、一歩遅れて後頭部を直撃した痛みは、どう考えても空想の産物ではない。
 脳髄を激しく揺さぶられ、ただでさえ体力が限界だった立香はその場に膝をついた。剥き出しの素肌に小石が食い込み、尖った部分が皮膚を刺す感触は、紛れもない本物だった。
 両手も地面に置いて、四つん這いを崩したような姿勢で固まった。呆然としたまま乾いた地表を見詰めて、溢れ出かけた唾液を急ぎ飲み込んだ。
 ズキズキする膝の痛みを堪えて振り返れば、視界に入ったのはカラスにも似た漆黒の衣だった。
 だらりと垂れ下がった長い袖先が、当て所なく揺れていた。傍らには機械仕掛けの蛇がいて、首らしき場所には大きな麻袋が括り付けられていた。
 どこを探しても見つからなかったのに、探すのを止めた途端、見つかった。
 古い歌にもある通りの現象に、立香は言葉も出なかった。
「え、あ……え……」
 なにか言おうとするけれど、舌が痺れて声にならない。
 呻くような単音に、カラスを模した嘴を外し、アスクレピオスは眉を顰めた。
「顔色が悪いな。見せろ」
 地面に這い蹲ったまま動かないマスターを怪しみ、医神の名をほしいままにする男が膝を折って屈んだ。小首を傾げ、手を伸ばし、問答無用で立香の顎を掴んで引っ張った。
 袖の上から唇をなぞり、頸部に指先を添えた。首の後ろにも手をやって、耳朶を軽く捏ね、納得したのか、ひとつ頷いた。
「水分を摂取したのは、いつが最後だ。帽子はどうした。……いや、言わなくて良い。黙って大人しくしていろ。足のそれは、今できたものだな」
 さっさと立香の状態に結論を出して、無理に説明は求めない。さりげなく手を添えて、立香が地面に座り直す手助けをした。膝小僧に貼り付いた砂埃をサッと払い、うっすら滲んでいる血に目を留めて、肩を竦めた。
「あの」
「黙っていろと言わなかったか」
「ひゃい」
 食い入るように見詰められて、居心地が悪い。
 喋りかけようとすれば瞬時に愚患者判定を下されて、立香は首を竦めて小さくなった。
 アスクレピオスは露骨が過ぎる溜め息をひとつ零し、機械仕掛けの蛇が地面に降ろした袋を引き寄せた。口を広げ、中を探って、取り出したものを無造作に放り投げた。
 空中で孤を描いたものを受け止め、表面を見れば、経口補水液という文字が大きく印刷されていた。
「飲め」
 採取したサンプルが詰め込まれているのだとばかり思っていたが、違った。唖然としている立香に偉そうに言って、黒衣の医者は短時間で痺れを切らし、人の手からボトルを奪い取った。
 飲めと言ったのに、盗られた。どういう理屈かと困惑していたら、アスクレピオスは荒っぽくボトルの首を捻り、蓋を外したものを、改めて立香に差し出した。
「あ、……ありがとう」
 開けてくれるのなら、そう言ってからやればいいのに。
 肝心なところでひとつ、ふたつ足りていない男に堪らず噴き出して、立香は少々温い液体を喉に流し込んだ。
 味はあまりしない。飲み慣れたジュース類に比べると、甘みはずっと控えめだった。
「美味しい」
「……そうか」
 久しぶりの水分摂取に、身体全体が喜んでいた。
 率直な感想を述べれば、聞いていたアスクレピオスは難しい顔をした。口をへの字に曲げて眉間に浅く皺を刻み、立香の右膝に出来た真新しい傷の脇を撫でた。
 不機嫌な表情から、彼の心の内は読み解けない。なにを考えているか想像を巡らせるけれど、なにひとつ正解に辿り着けずにいたら。
「愚患者が」
 短く吐き捨てた男が、不意に頭を低くした。
「んんっ」
 アスクレピオスは立香に向かって前のめりになり、膝の手前で薄い唇を開いた。中から緋に濡れた舌が零れ落ちるのを見て、立香はペットボトルを咥えたまま、軽く噎せた。
 慌てて利き足を引っ込めようとするけれど、間に合わない。
 チリッとした痛みの後に、むず痒くてならない熱が、擦り傷を中心に広がった。
「んぶっ、げほ。けほっ」
 何をされたか、はっきり見えたわけではない。けれど位置的に、舐められたと思って間違いないだろう。
 消毒のつもりなのか。人間の唾液には大量の細菌がいて、俗信は不衛生で非現実的だなどと、前に言っていなかっただろうか。
 繰り返し噎せて、気道に入った補水液を外へ追い出した。濡れた口元を手の甲で拭いて、息を整え、立香は残り少なくなったボトルの中身を波立たせた。
「これで立てるな」
「たっ……立てる、わけ。ないだろ!」
 姿勢を戻した男にしれっと言われて、反射的に怒鳴り返す。
 顔は、鏡がないので見えないけれど、確実に真っ赤だ。飲み物をもらったお蔭で少しは回復出来たのに、戻って来た体力の全てを、先ほどの罵声で浪費してしまった。
 ぜいぜい言って、くらっと来て、気が遠くなった。
 仰向けに倒れそうになって、力を失った手を、すんでのところでアスクレピオスが掴んだ。
 力任せに引っ張られた。抗う気力すらなくて、立香は促されるまま彼の肩に額を預け、凭れ掛かった。
 ホッとしたのと、嬉しいのと、恥ずかしいのとで、頭が追い付かない。
「ばか」
 どうにか絞り出したひと言は、果たして彼に届いただろうか。
 確証はない。追求する気にもなれない。
 アスクレピオスは黙って立香の背に腕を回し、背骨をなぞるように上から下へと手を動かした。反対の手で後頭部を包み、黒髪をくしゃりと掻いて、赤子をあやす仕草で弱り切った体躯を撫でた。
「お前が、無事で、よかった」
 聞こえた囁きは、蜃気楼が見せた幻ではないと信じたい。
 夢うつつの境界線で微笑んで、立香は恋しい男にしがみついた。
 

枝しげみ露だに漏らぬ木隠れに 人まつ風のはやく吹くかな
風葉和歌集 207

2020/08/29 脱稿