夜もすがら 物や思へる ほととぎす

 微かな物音と気配を感じ、蘭陵王は顔を上げた。
 広めのリビングルームを中心に配されたドアがひとつ、開かれようとしていた。読んでいた本に引き摺られがちな記憶を整理し、現実と非現実を区別して、彼は嗚呼、と少し困った風に目を細めた。
 今回の特異点に関して、なにか参考になればと思い、紫式部から借りた本に栞を挟む。それなりに分厚い書籍からぶら下がる紫色の紐の位置は、物語がクライマックスに突入しているのを意味していた。
 名残惜しいが、今はここまで。
 読書に夢中になっていた己を戒めて、蘭陵王はやや古めかしいデザインのソファから立ち上がった。
「マスター、眠れないのですか?」
 手元灯りにしていたランプシェードでは心許なく、壁に寄り、三つ並んだスイッチのひとつを押した。途端に天井の地味なシャンデリアがぱっと明るくなって、足元に薄い影が落ちた。
 急に辺りが眩しくなって、部屋から顔を覗かせた青年が僅かに怯む。
 了解を取ってからすべきだったと軽く悔やんで、蘭陵王は首を横に振った。
「なんか、ね。……うん。ちょっと」
 自虐的な思考を一旦脇へ置き、視線を戻せば、上着を脱いだだけの青年が照れ臭そうに呟いた。
 首を竦めて、俯きがちであり、恐縮しているようにも見える。思考がまとまらず、言葉に窮している風にも感じられて、蘭陵王は細く息を吐いた。
「なにか、お飲み物でも用意しましょうか」
「ええ、いいよ。……いや、ああ、うん。じゃあ、お水、もらえるかな」
 浅い眠りから目覚めたばかりで、意識が完全に回復しているとは言い難い状態らしい。
 手助けのつもりで、胸に手を添えて囁けば、ハッとなったマスターが途中で言い直した。
 喉は渇いていたようだ。だが準備に手間や、時間がかかる大袈裟なものは欲しくない。そういうことらしかった。
 遠慮しているようで、遠回しに強請られた。
 どこか焦っているマスターにふっ、と笑みを零して、蘭陵王は鷹揚に頷いた。
「では、少しお待ち下さい」
 料理上手のアーチャーを手伝い、何度もキッチンに入っているので、飲み物やコップの位置は頭に入っていた。冷蔵庫には、冷えた麦茶の残りがあったはずだ。
 ただの水道水では味気なかろうし、マスターの出身国からして、そちらの方が喜んでくれるに違いない。氷を二個か、三個か入れたところに注げば、寝汗で消費された水分を補うには充分だ。
 数秒先の行動を頭の中に思い描き、蘭陵王はちらりと後方を窺った。無地のタンクトップ姿の青年は、スリッパで床を削るようにして進み、先ほどまで蘭陵王が座っていたソファの向かいに腰を下ろした。
 そうして手持ち無沙汰気味に周囲を見回したものだから、一瞬だけ目があった。にこりと微笑み返せば、ぱっと目を逸らされたのは、自意識過剰かもしれないが、些か寂しかった。
「コップは、……こちらにしましょう」
 気を取り直してキッチンブースに入り、綺麗に洗われたコップをひとつ、手に取った。夕食の際にも使用したもので、丁寧にカットされたガラスが美しかった。
 逆さまに並べられていたものをひっくり返し、続けて年代物の冷蔵庫のドアを開けた。力を入れたつもりはないのに、ガコンと嫌な音がして、扉の内側に整列していた飲料のボトルが大きく波打った。
 麦茶はペットボトルではなく、花柄が愛らしいガラスの入れ物に入っていた。
 持ち運び易いよう、容器の側面には取っ手があり、その分だけ幅を利かせていた。お蔭で余分な隙間が出来て、安定が悪くなっているようだった。
「これは、どうしようもないですね」
 冷蔵庫を開閉する度にガタガタ揺れるものだから、落ち着かない。しかし綿を詰めるわけにもいかなくて、彼は苦笑しながら目当てのボトルを引き抜いた。
 ドアは手で軽く押して閉め、尻で追い打ちを掛けた。油断すると完全に閉まらない、とアーチャーが初日にぼやいていたのが、ふと思い出されたからだ。
 よく冷えた麦茶をひとり分用意してロビーに戻れば、マスターが何かを手に取り、膝で広げていた。
「どうぞ」
「ありがと。これ、読んでたの?」
「はい。前もって知識を蓄えておけば、いざという時、落ち着いて対処ができますから」
 隙間が増えたテーブルにグラスを置き、慌てて本を閉じたマスターの問いに答える。受け取った本の表紙には、おどろおどろしいイラストが描かれていた。
 タイトルも読み手の恐怖を誘う字体が使われていて、内容は言わずもがな。
 なるべく強烈なものが良い、というリクエストに紫式部が応えてくれたわけだが、実際、内容はかなり醜悪だった。
 舞台はここと同じ、山深いコテージ。合宿で訪れた若い男女がとある理由で建物内に閉じ込められ、挙げ句に殺人事件が発生する。恐怖に駆られた登場人物は次第に疑心暗鬼に陥って、更には第二の殺人が発生し、混乱は深まっていく――
 興味深そうにしているマスターの為に、内容を掻い摘まんで説明し、蘭陵王はソファに戻った。先ほどと同じ位置に腰掛けて、一度は書面を開いたが、すぐに閉じた。
「面白い?」
「そう、ですね。興味深くはありますが」
 無実でありながら疑いをかけられ、追い詰められていく登場人物には同情を禁じ得ない。しかしそうせざるを得なかった糾弾者たちの気持ちも、少なからず分かってしまう。
 不可解な現象が頻発して、ジャンルとしてはホラーであるが、人間の深層心理が強く反映された話だ。あまりにも救いがなくて、生前のあれやこれやが度々フラッシュバックするのもあり、正直一度読んだら充分、と感じていた。
 それでも途中で止めることなく、次のページを開き、最後まで読み通すつもりでいるのは、生まれ持った生真面目さが原因とも言えた。
「損な性格してるよね、蘭陵王って」
「言わないでください……」
 現在の心境を包み隠さず吐露すれば、マスターは呵々と笑った。よく冷えた麦茶を取って、軽く頭を下げた後、口をつけた。
「冷たい」
 汗をかき始めていたグラスをなぞって線を残し、ひとくち飲んで呟いて、再びグラスを傾ける。
 ごくごくと、喉仏が上下に動いた。彼自身が思っていた以上に、彼の身体は餓えていたらしかった。
 角が丸くなった氷だけになったグラスを勢い良くテーブルに置いて、マスターは濡れた口元を拭った。顔色は幾ばくか良くなって、肌も艶を取り戻し、瞳には生気が満ちていた。
「おかわり、持ってきましょう」
「いいよ、大丈夫。ありがとう」
 気持ちの良い飲みっぷりに、蘭陵王まで不思議と嬉しくなった。顔を綻ばせ、腰を浮かせたが、マスターに首を振って制された。
 仕方なくソファに腰掛け直せば、斜向かいに座る彼はふっと視線を逸らした。
 この顔が気に入らないのかと不安になって、気付けば自分の頬に手を添えていた。鼻筋を隠し、口元を覆って向かいを窺えば、マスターは依然余所を見たままだった。
 どこを見ているのかと視線の先を確かめて、納得出来る答えを見付けて、安堵する。
「……ああ。もうじき、夜明けですね」
 屋外のウッドデッキに繋がる大きな窓にはカーテンが引かれていたが、隙間から、ほんの僅かに光が差し込んでいた。
 時計を見れば、日の出まであと数分といったところだろうか。
 眠っている時、人は無防備になる。必ず誰かが起きて、警戒に当たることになっており、今宵は蘭陵王がその役目を任されていた。
 眠らないように、そして退屈しないように読み進めていた物語でも、場面はちょうど、このような時間帯に差し掛かっていた。
「太陽が湖面に反射して、綺麗ですよ」
「へえ……」
 人間であるマスターは、普段であれば今のこの時間は、夢の中だ。
 一度だけ目にした光景を口に出せば、彼は興味を示し、深く頷いた。
 しどけなく開いていた口を閉じて、何かを決意したのか、眼光を鋭くした。力強く頷いて、両手で太腿をぽん、と叩き、勢いつけて立ち上がった。
「マスター?」
「ちょっと見て来る」
「ええ? 危険ですよ」
 彼の行動の意図が読み解けず、ぽかんとしていたら、にこやかに告げられた。目を細め、悪戯っぽく歯を見せて笑いかけられて、蘭陵王は咄嗟にソファを蹴り飛ばした。
 ただでさえこの特異点では、奇怪な事ばかりが起きていた。不用意に外に出るのは、命を捨てる行為に直結した。
 慌てて追いかけ、颯爽と歩き出したマスターの手を掴む。引き留め、真顔で叱りつけるが、彼の決意は揺るがなかった。
 それどころか。
「蘭陵王が一緒なら、大丈夫だって」
 臆面もなく言われて、驚きが隠せない。
 満面の笑みで信頼を示され、唖然としてしまい、力が緩んだ。その隙に脱出したマスターは大股でロビーを横切り、止める間もなくドアを開けた。
 風が吹き込み、前髪を揺らした。本来の色を忘れた毛先を押さえつけて、蘭陵王はソファの傍らに据えていた剣を掴んだ。
「お待ちください、マスター」
 早く傍に戻らねば、と気が急いて、声が上擦った。いつでも鞘から抜けるよう構えつつ追いかけ、外に出れば、空色の瞳の青年はポーチを抜けた先の石畳に佇んでいた。
 視線は湖面に固定されていた。その向こうに連なる稜線は、同化していた夜空から分離すべく、僅かに明るく照っていた。
 警戒が必要な敵影は、今のところ見当たらない。息を潜め、注意深く探るものの、それらしき気配は皆無だった。
「霧が、邪魔かな」
 慌ただしく左右を窺う蘭陵王を知らず、前を見据えたまま、マスターが呟く。
 気温差のためか、湖の周辺には薄く霧がかかっていた。輪郭は水で滲ませたかのように揺らいで、ある意味幻想的ではあるけれど、迷い込めば足を掬われかねなかった。
 彼があまり遠くまで行かなかった原因を悟り、蘭陵王は警戒を解かないまま、注意深く歩み寄った。
「へくちっ」
「うん?」
 その耳に、微かに可愛らしい声が響いた。
「マスター?」
 今のくしゃみが、誰によるものか、一瞬分からなかった。
 この場には自身ともうひとりしか存在しないので、答えは自ずと明らかだ。だというのに随分と愛らしい声だったから、本当にそれが彼のものか、疑わずにいられなかった。
「うへへ。うん、なに?」
 半信半疑の呼びかけに、マスターは鼻の下を擦りながら答えた。露骨が過ぎる誤魔化し方は不器用の極みで、持ち合わせた性格や、生き様が垣間見えた気がした。
 頬がほんのり朱に染まっているのは、気恥ずかしさだけが原因ではあるまい。
 咄嗟に左肩に手が伸びたのは、平素の格好であれば、そこに外套を装備していたからだ。
 けれど今の服装は、夏の余暇を楽しむマスターに合わせて選んだもの。且つ涼しさを追い求めた結果であるから、夜明け前の肌寒い空気を防いでくれる装備品は、一切付随していなかった。
 高地なだけあって昼と夜の寒暖差は激しく、日中の感覚で出歩くと、身体を冷やしかねない。
「い、いえ。あの。そう、ですね。やはり、中に入った方が」
「平気だって。それに、次も見られるかどうか、分かんないし」
 提案するが、爽やかに却下された。
 屈託なく笑って告げられた後半部分は、恐らくは独り言だったのだろう。しかし朝の澄んだ空気は、考える以上に音が通った。
 湖に向き直ってしまったマスターの思いは、蘭陵王には分からない。ただ無理矢理連れ戻すと、彼も、自分も、きっと後悔しか残らないというのだけは、理解できた。
 あの物語でも、夜明けが近付く前、主人公は生存者の未来を左右する重要な決断を下していた。
 暖かな毛布を取りに戻れば、マスターをこの場にひとり残すことになる。それは許されない。ならどうするか、考えて、迷って、何気なく見たのは自身の掌だった。
「へ……くしゅっ」
「やはり寒いのではないですか、マスター」
「大丈夫だって、これくら……うわっ」
 剣を持っている手も合わせてぎゅっと握り、拳を前後に振って、彼との距離を詰めた。再びくしゃみをしたマスターに歩み寄り、語りかけ、逃げられる前に捕まえた。
 肩越しに振り向いたマスターは、予想外に近くに居た蘭陵王に驚き、悲鳴を上げた。反射的に仰け反って、彼が離れようとするのを見越して、両腕を伸ばした。
「失礼、します」
 こんなことをすれば嫌われるとか、気味悪がられて今後避けられるかもとか、考えなかったわけではない。けれど現在進行形で身体を冷やしているマスターを放置する方が、どう考えても恐ろしかった。
 遠慮がちに囁いて、縮こまった体躯を引き寄せた。なるべく肌が接する箇所を増やし、隙間を埋めて、想像以上に冷たくなっていた彼の手に手を重ねた。
 真後ろから抱きしめて、息を殺す。
 反応を窺って盗み見たマスターは、顔を背け、余所を向いていた。
「心配ないって、言ってるのに」
「申し訳ありません。これしか思いつかなかったので」
 不満げに文句を言われたが、抵抗して、振り解かれることはない。
 それがなんだか嬉しくて、蘭陵王は湖面を照らし始めた太陽ではなく、日焼けした柔らかな首筋ばかりを瞳に焼き付けた。

夜もすがら物や思へるほととぎす 天の岩戸をあけがたに鳴く
風葉和歌集 152

2020/08/22 脱稿