重ねつる 袖の名残も とまらじな

 じゃあああ、とバケツから溢れた水が砂に溶けていく。
 晴れ渡る空と同じ色をした容器の底には、それより若干色が濃く、艶があるホースの先が沈んでいた。蛇のようにうねるホースはしばし離れた場所にある水道の蛇口と繋がっており、そこから絶えることなく、水が供給され続けていた。
 時折ボコッと大きな泡を立てるバケツの水面は常に波立ち、上空から注がれる光を受けてきらきら輝いていた。乱反射する輝きは宝石の如く美しいが、じっと見詰めていると、眼を焼かれてしまいそうだった。
「まったく」
 ゆらゆら動き続ける水面をぼうっと眺めていたら、頭上から呆れた声が降ってきた。
「アスクレピオス」
 顔を上げれば、すっかり見慣れた顔がそこにあった。但し普段から見慣れた格好ではなくて、景色に馴染む夏向きの出で立ちだった。
 白いパーカーは長袖で、指先だけが辛うじて表に出ていた。反面七分丈のハーフパンツは裾が絞られており、モスグリーンの布から伸びる脚はすらっと長く、程よく引き締まっていた。
 足元はサンダルだが、安物のビーチサンダルとは違っていた。そうと分かり難いものの、踵が少し高くなっている辺り、ユニセックスのものを選んだのだろう。
 移動中に被ったのか、爪先が少し砂で汚れていた。
 水色のバケツ横に立った男をぼんやり仰いで、藤丸立香は軽く首を捻った。
 直後だ。
「砂浜を裸足で歩き回るとは、軽率が過ぎるぞ。マスター」
「冷たっ」
 不意に細長いものを、右の頬に押しつけられた。
 大量に汗を掻いた容器は紙製で、受け取って覗き込めば中に細かな氷が大量に詰められていた。太めのストローが突き刺さり、揺らせばよく冷えた飲み物が波打った。
 指先に貼り付いた水滴が、火照った身体から熱を奪って行く。
 心地よい冷たさにほうっと息を吐いて、立香はバケツに浸した足をばしゃばしゃさせた。
 跳ねた水が辺りに飛び散り、アスクレピオスの足にも掛かった。しかし医神とも呼称されるサーヴァントは気にする様子もなく、被っていたフードを外して膝を折った。
「具合はどうだ」
 邪魔になるホースをバケツから引き抜き、水中を覗き込みながら呟く。
 それが自分に向けての発言と気付くのに、立香は数秒を要した。
「えー……あー……どうだろ……」
 頭の中がふわふわして、思考が定まらないのは、きっとこの暑さの所為だ。
 前方には真っ白に日焼けした砂浜が広がり、遠く波の音がこだましていた。海水浴を楽しむ英霊らのはしゃぎ声があちこちから響き、商魂たくましいサーヴァントが呼び込みをする声がどこからか聞こえて来た。
 答えながら飲み物をひとくち飲めば、喉の奥がすーっとした。
「あ、おいしい」
 当て所なく彷徨っていた意識がふっと一箇所に定まった気がして、立香は無意識に呟き、喉越し爽やかなスポーツドリンク飲み干した。
 ずずず、と喧しく音を立てて、氷ばかりになったのに、しばらく冷えた空気だけを吸い続ける。
「もうひとつ、買って来るべきだったか」
「えー、ああ……ごめん。お代、払うよ」
「必要ない。どうせ、ほかに使い道はないからな。よく冷やしておけ」
 それを見ていたアスクレピオスがぼそっと言って、ホースをバケツに戻し、立ち上がった。
 横向いた視線の先になにがあるか、座っている立香からは見えない。けれどきっと、料理上手なサーヴァントが屋台でも開いているのだろう。
 空腹は感じないが、派手なシャツの上から胸元を撫でて、彼は上からの圧力に首を竦めた。
「ぶは」
 軽く頭を叩かれたが、この衝撃は手によるものではない。
 急激に暗さを増した視界で瞳だけを浮かせれば、視界に飛び込んできたのは木漏れ日だった。
 編み目の粗い麦わら帽子は、マシュの持ち物だったはずだ。
「被っていろ」
「はあい」
 溶けかけの氷だけになった紙コップを託し、立香は花飾りがついた帽子のつばを取った。風で飛ばされないよう、髪型が崩れるのも厭わず目深に被り直せば、満足したのか、長いもみあげをポニーテールのように束ねた男は、足早にビーチパラソルの下から出ていった。
 夏のバカンスを楽しみにしていたけれど、それ故にか、油断した。
 水着ではしゃぎ回るサーヴァントたちに混じってビーチバレーに興じ、勝ち目がないと知りつつビーチ・フラッグスに全力を出していたら、足の裏に火傷をした。
 なんだか可笑しいと思った時には、後の祭り。
 素足で熱い砂浜を走り回った結果が、バケツに浸された両足だ。
 自力で立っていられなくて、臨時で作られたこの救護所に運び込まれた。すぐさま軽度の火傷と診断されて、容赦なく水を張ったバケツに足を突っ込まれた。
 サーヴァントたちが平然としているので、深く気に留めていなかった。そもそも人間と、英霊の頑強さを同一に考えたのが、間違いの始まりだ。
 心配してついてきたマシュも、傷の度合いがそこまで酷くないと知って、ホッとしていた。
 今はどこにいるかと探せば、少し離れた場所で、ジャック・ザ・リッパーやアビゲイルたちと砂遊びに興じていた。
 炎天下で帽子もなく、新調したての水着姿なのに大丈夫かと心配になったが、彼女もまた、一介の人間とは異なる境遇にあるのを思い出した。
「かっこ悪いなあ、オレ」
「なにを、今さら」
「むうう」
 この暑さに負けたのは、自分だけ。
 マスターとしての不甲斐なさを嘆いていたら、独り言だったのに、聞かれていた。
 今度は大きめのボトル入り飲料を差し出され、立香は頬を膨らませつつ、受け取った。アスクレピオスは再度膝を折って屈み、バケツの水を掻き混ぜ、問答無用で冷やされていた足首を取った。
「うわ」
 断りのひと言くらい欲しかったが、いくら注意したところで、どうせ無駄だろう。
 ベタベタ触られるのは得意でないものの、大人しく我慢して、彼はピンク色のボトルの首を捻り、硬い蓋を外した。
 直前まで氷水で冷やされていたのか、水浸しのボトルから大量の水滴が滴り落ちる。
 サーフパンツの裾を湿らせて、ひとくち飲めば、パイナップルにも似た味が口の中に広がった。
 パッションピンクの見た目からは、あまり想像がつかない味だ。爽やかで、いかにも南国という印象を抱かせる飲み物は、熱を蓄えていた身体にすーっと馴染んだ。
「水ぶくれになっているな」
「なんか、感覚、あんまりないかも」
 十分以上流水に浸していたので、足首から先の神経が麻痺したのか、痛みはあまり感じない。
 飲みながら答えて、立香はアスクレピオスの手の上で、足指をぴこぴこ動かした。
「じっとしていろ」
 それを咎めて、医神が眉を顰める。
 物理的に制すべく、残る手で上から押さえ込まれて、立香は若干ムキになった男に肩を竦めた。
「うぷぷ。はぁい」
 折角のバカンスに、水を差されたのだ。これくらいの楽しみは、許されたい。
 口をへの字に曲げたアスクレピオスに睨まれたが、受け流して、半分ほどに減ったペットボトルに蓋をした。色鮮やかなドリンクをちゃぷちゃぷ言わせ、頬から首筋にかかる一帯に押し当てた。
 ひんやりとした感触が心地よく、うっとりと目を細めて、熱い息を吐く。
「あー……気持ちいい」
「酸化亜鉛も、アラントインもない、か。これでは、ここで手当ても出来ないな」
「移動する?」
「そうだな。お前も、その方が良いだろう。熱中症の初期段階だ」
 率直な感想を述べたら、薬箱を漁っていたアスクレピオスが真顔に戻り、タオルを取った。綺麗に折り畳まれていたものを広げ、再び四つに畳んで、立香の額に押し当てた。
 柔らかな布が視界を塞ぎ、そのまま下へ滑り落ちていった。
 意識していなかったが、汗が大量に流れていた。首筋や、ペットボトルを握る手、挙げ句前開きのシャツの内側まで拭われて、更に奥まで行きそうな予感がした立香は、慌てて彼の手首を掴んだ。
「自分でやるから」
 肩や鎖骨までなら許せるけれど、腋や大胸筋の一帯にまで及ぶのは、遠慮したかった。
 咄嗟に声高に叫び、力尽くでタオルを奪い取る。いくらボタンを外し、胸元を全開にしているからといって、軽率に人前で触られるのはお断りだった。
 焦って裏返った声は、思いの外大きく響いた。
 何事かと遠くで様子を窺うマシュらに目配せして、首を横に振り、立香は勝手に赤くなった顔でアスクレピオスを睨んだ。
「ふっ」
 途端に笑われて、余計に恥ずかしい。
 過剰反応を馬鹿にされて、立香は益々顔を赤くした。
 タオルを握り潰して押し黙れば、その間にアスクレピオスはホースの水を止め、新しいタオルで立香の足を丁寧に拭った。先ほど中身を確かめていた救急箱から消毒液を出し、真っ白いガーゼを湿らせた。
 それで水ぶくれの周辺をなぞられて、途端に激痛が走った。
「いた、た。たたっ、た」
「暴れるんじゃない」
 反射的に足を奪い返そうとしたけれど、医神の方が上手だった。踝をぎゅっと掴まれ、引っ張られて、立香は仰け反った姿勢を維持出来ず、ビニールシートの上にばったり倒れ込んだ。
 麦わら帽子や、温くなり始めていたボトルを放り出し、痛みに耐えつつ、それでも涙目で意地悪なアスクレピオスをねめつける。
「…………」
 片足を奪われた状態で転がった立香を見下ろす彼は、しばらく無言だった。
 どこを見ているのか、視線は絡まない。金混じりの翠玉の行方を追えば、珍しく、火傷した足の裏ではない場所に、注意が向いていた。
 他者に支えられ、不自然に浮いた立香の右脚。
 太腿までしかないサーフパンツの裾は広々として、ゆとりがあり、お蔭で風通しが良かった。
「アスクレピオス?」
「どうしてこんなになるまで、放っておいたんだ」
「いたた、いたい。痛いってば」
 怪訝に名を呼べば、ハッとなった彼が誤魔化しに捲し立てた。乱暴に消毒を再開されて、圧迫された水ぶくれが破裂寸前だった。
 みっともなく悲鳴を上げて、握り締めていたタオルを放り投げて、ようやく解放された。
 頭から布を被った男は嫌そうにそれを払い除け、深々と溜め息を吐いた。
「ホテルに戻るぞ」
「ちょっと、待って。オレ、立てないんだけど」
 火傷を負ったのは、右足だけではない。左足の裏側にも、もれなく大きな水ぶくれが出来上がっていた。
 消毒されるだけで、この痛みだ。立ち上がって体重を預けたら、いったいどうなるか。
 想像するだけで寒気がすると訴えた彼に、医学の始祖たるギリシャの英霊は顔を顰めた。
 露骨に嫌そうにされたが、この男が救いを求める患者を放り出すはずがない。
 打算的な要求と共に両手を伸ばした立香に、アスクレピオスはがっくり肩を落とした。
 幸い、ホテルはこのビーチからすぐ目と鼻の先にあった。正面ロビーからでなく、海辺に面したレストラン側からなら、大通りに出なくても出入りが可能だった。
 だから車椅子や、担架といった大袈裟な移動手段に頼らなくても済む。
 へら、と笑って甘えてみせたマスターに、強請られたサーヴァントは目を瞑って首を横に振った。
「暴れるんじゃないぞ」
 渋々要求を受け入れて、彼は腕を天に向かって伸ばして待つ立香に、膝で躙り寄った。
 互いの呼吸が聞こえるところまで近付いて、目と目を合わせて、互いの睫毛の長さを確かめた。先に顔を伏した立香の背に両腕を差し伸べて、キャスターとしては意外に筋肉質な男が、タイミングを計って熱っぽい体躯を引き寄せた。
 横たわる体躯を持ち上げて、左腕は腰よりも低い位置まで滑らせた。脇腹を布越しに掴まれ、ぐっと力を込められて、立香も協力すべく、彼の首に手を回そうとした。
 ところが。
「うえええええっ」
 てっきり横向きに抱き上げられると思っていたのに、予想に反し、立香の体躯はずるっと前方に大きく傾いた。
 白い首に回すはずだった手が空を泳ぎ、咄嗟にアスクレピオスのパーカーを掴んだものの、握り締める前に指が外れた。反対側の手は立ち上がった彼の背中に流れ、指先は地面に向かって真っ直ぐ伸びた。
 担がれた――さながら米俵の如く、肩に。
 何度か膝が砕けそうになったものの、アスクレピオスはしっかり地面に立ち上がった。重さで傾きそうになる体躯を、バランスよく保って、眼を白黒させる立香の尻を、肩の高さでぽんぽん、と叩いた。
「なんで。なんでえ。エッチ!」
「馬鹿を言うな。時と場所くらい、ちゃんと考えている」
「やーだー! なんでー!」
 運んで欲しいと頼みはしたが、こういう運ばれ方は、期待していなかった。
 悲鳴を上げて喚く立香に、周囲もざわざわして、落ち着かない。アスクレピオスは集まる視線に舌打ちして、小刻みに暴れるマスターの身体をしっかり抱え直した。
 落とさないよう束縛して、二本の太腿を左腕と胸で挟んだ。その上で、彼にだけ聞こえるよう、音量を絞った。
「触って欲しいなら、もっとちゃんとした場で、ちゃんと触ってやる。言い出したのはお前だろう」
 足元を気にしつつ、転ばないよう注意しながら歩き出す。
 鼻をグズグズさせた立香はむすっと頬を膨らませ、不本意な運ばれ方への抗議も兼ねて、目の前を泳ぐ銀髪を引っ張った。
「そういう意味で言ったんじゃないし」
「そうか。なら、手当てするだけで良いな。熱中症の傾向もある。ひとりでゆっくり寝ていろ」
 いたずらを咎めず、前を見据えたままアスクレピオスが告げる。
「…………それは、やだ」
 視線が絡まないのを寂しく感じながら、立香は精一杯の感情を込めて、彼の髪を握り締めた。

重ねつる袖の名残もとまらじな 今日立ちかふる蝉の羽衣
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