さざ波が押し寄せては、引いていく。白い細かな泡が一気に打ち寄せては、見る間に消え失せ、後に残るのは水に濡れた砂の粒子だけ。
波打ち際に、大きな流木が横たわっていた。進路を塞ぐそれは、普段であれば飛び越すのは容易だった。
「おっと」
しかし今は、簡単ではない。右足を高く持ち上げようとしたら、大腿部周辺に衝撃が走った。
ズキッとくる痛みに顔が引きつり、転びそうになった。無理矢理跨いで、左足も引き摺るように動かす。些細な動きひとつにも気を遣って、その度に神経が磨り減った。
ギプスを嵌めた右腕を揺らし、バランスを取りながら腰を捻って振り返る。
少し失敗したけれど、なんとか無事に越えられた。照れ臭さに頬を掻いて苦笑すれば、流木の向こう側に佇む男が呆れた顔で肩を竦めた。
口をへの字に曲げて、小さく溜め息を吐いている。額で交差する前髪を軽く揺らして、キャスターことアスクレピオスは目を眇めた。
眼差しは鋭く、不愉快だと言わんばかりだ。
こんな状態なのに出歩いている立香に、内心怒っているのだろう。それでも口に出さず、黙ってついてきてくれたのには、感謝しかなかった。
シミュレーター内に再現された砂浜を、再びゆっくり歩く。足元を中止しながら恐る恐る進んでいたら、つかず離れずのところにいたアスクレピオスの声が響いた。
「マスター」
「ごめん。もうちょっと」
呼びかけに、咄嗟に返事をしていた。ひと呼吸置いてから首を横に振って、反射的に紡いだ言葉の後を追わせた。
まだ帰りたくなかった。
折角ダ・ヴィンチちゃんに頼んで精巧に再現してもらった空間だ。久しぶりに誰の邪魔も受けない環境だから、簡単には手放し難かった。
波の音が絶えず響き、どこまでも続く砂浜は終わりが見えない。水平線の先に浮かぶ綿雲は穏やかで、どこでもないのに不思議と懐かしい光景が、心に迫った。
郷愁に揺さぶられた感情は、声に反映された。感傷に浸る立香を案じてか、アスクレピオスは黙ってしまった。
ただ内心は、医者の言うことを聞かない患者だと、苦々しく思っているに違いない。その上で、マスターとサーヴァントという関係性から、迂闊に逆らえないとでも思っているのだろう。
こんなことで令呪を使ったりしないのに。
「ふふっ」
考えが大袈裟だと、つい噴き出した。
言われなくても、もう少ししたら戻るつもりだ。潮風は身体に優しくなく、包帯の上からでも傷に沁みた。
「なんだ、マスター。なにか面白いものでも見付けたか」
「ううん。なんでもないよ、アスクレピオス」
先ほどの仕返しのつもりなのか、嫌みたらしい科白が飛んで来た。それに応じて、立香は幾分軽くなった気持ちを抱えながら、振り返った。
控えめに微笑んで、本当は人間想いの医神に目尻を下げる。
アスクレピオスは一瞬面食らった顔をして、すぐに表情を取り消した。再びむすっと、いつも通りの仏頂面を作って、不機嫌そうに立香を睨み付けた。
医者の顔に戻ってしまった。けれどそれも致し方がないことと、立香は立っているだけでもやっとの身体を確認した。
結果として勝利を得たけれど、それは薄氷を踏むようなものだった。厳しい戦いに挑まざるを得ず、マスターも、サーヴァントも無事では済まなかった。
首の皮一枚繋がって、生き延びた。頭部からの出血は大量で、ざっくり切れた傷を何針縫ったかは、怖くて聞いていない。利き腕にはヒビが入り、右足も筋が伸びたとかで、思うように動かせなかった。
本来なら医務室で、絶対安静にしているべき重症度だ。それでも無謀でしかない真似を実行に移したのは、誰にも干渉されない場所に行きたかったからだ。
ただ矢張り、ひとりきりになるのは許してもらえなかった。
同伴者の指名が絶対条件と言われて、真っ先に名乗りを挙げたのはマシュだった。けれど彼女に頼んだら、きっと自分は甘えてしまう。自力で歩くのを諦めて、あの少女に縋ってしまう。
だからアスクレピオスを指名した。彼ならギリギリのラインまで放置してくれるだろうし、医者として譲れない境界線を越えたなら、容赦なく連れ戻してくれるはずだから。
信頼している。
期待している。
ほかのサーヴァントたちとは違う意味で、甘えている。
「マスター」
呼ばれたけれど、聞こえなかった振りをした。波に素足を浸し、纏った白のガウンや、踝まで覆う包帯にも飛沫を飛ばせば、ひんやりとした感触が心地よかった。
己の中に宿る熱を知覚して、命のありようを強く意識させられた。
「うひゃ、冷たい」
反面、純粋に楽しい。
ばしゃばしゃ波を蹴り、ガウンの裾を閃かせる。足首に纏わり付く布を払って、童心に返ってはしゃいでいたら、じわじわ距離を詰めたアスクレピオスに叱られた。
「転ぶんじゃないぞ」
やんわりと忠告されて、それがくすぐったかった。
「分かってる。気をつける」
首を竦めてこみ上げる笑みを堪え、声を弾ませた。
遠い昔にも、こんな風に水遊びをした。そのはずなのに、あの時誰と一緒だったかは、もう思い出せなかった。
寄せては引いて、押しては返す波は、日々の営みに埋没した記憶のようだ。
ふとした拍子に甦り、いつの間にか忘れている。目の前のことに必死で、振り返っている暇などないというのに、気を抜くと囚われてしまう。
ぱしゃん、ぱしゃんと水音を響かせながら、果てのない砂浜を歩いた。
点々と刻まれる足跡は、小幅だ。片足を庇いながらなので、体重を多く預かる左足の方が、僅かに深く砂に沈んだ。
黒く濡れた砂に歩みを残して、何気なく振り返れば、先ほどより離れた所にアスクレピオスがいた。
不思議に思ったのは、彼の後方に残されている足跡が一人分だったことだ。
彼の歩き方も、どことなく不自然で、ぎこちない。その理由を探って視線を往復させて、立香は嗚呼、と頬を緩めた。
「どうした?」
顔を上げたアスクレピオスと、目が合った。またしても噴き出しそうになったのを堪えて、立香は沸き起こった愛おしさに顔を綻ばせた。
白い歯を覗かせて笑いかけ、答える代わりに姿勢を戻した。ギプスの分だけ重い右腕を前後に振って、調子を良くして、いくらか進んで後ろを窺った。
「なんだ、マスター。さっきから」
立ち止まれば、彼も歩みを止めた。胡乱げな表情で聞かれたが、またも答えず、立香は一定の距離を保ってついてくる医神に破顔一笑した。
砂浜に残される足跡は、相変わらず一人分。立香の歩みをなぞるように、アスクレピオスは足を操っていた。
それが面白いし、可笑しいし、嬉しかった。
彼の後方と、己の足元と、アスクレピオスの足元と。
一列に並んだ足跡をなぞるように視線を動かしていたら、眉を顰めた白衣の男がふっと、真顔になった。
若干猫背だったのを改め、背筋を伸ばした。長い袖を風に靡かせ、真っ直ぐ射貫くようにこちらを見た。
心の奥底を覗き見るような眼差しに、立香はぶるっと背筋を震わせた。
「そろそろ、……戻る?」
医者としての矜恃に蓋をして、我が儘に付き合ってもらっていた。これ以上の強要は不可能と考えて、控えめに問いかけた矢先だ。
「消えてはいないぞ、マスター」
唐突に言われて、ぽかんとなった。
なんのことだか、さっぱり分からない。説明が一切ないひと言に絶句して、立香は目を丸くした。
「なにが?」
訊き返したけれど、彼は答えてくれない。一人分だった足跡をふたり分に増やし、問答無用とばかりにずんずん距離を詰めて、立ち尽くす立香の前を塞いだ。
威圧的に感じる近さでようやく足を止めて、息巻き、声を荒らげた。
「お前がどれだけ傷を負って倒れようとも、お前が歩みを諦めない限りは、僕がお前を立ち上がらせてやる。何度でもな」
早口で吼えられて、理解が追い付かない。急に暗くなった視界に瞬きを繰り返し、立香は耳朶に貼り付いた宣言に、遅れて顔を赤くした。
一旦停止した思考を慌ててフル稼働させて、微妙に興奮気味の男を扇ぎ、頬をヒクリと痙攣させた。
「ゾンビにされちゃう?」
「馬鹿者。死なせはしない、と言っているんだ」
胸の奥がじんわり熱を帯び、鼓動が爆音を奏でるのに、表面上は冷静ぶって皮肉を口にしていた。
返答が気に入らなかったのだろう。アスクレピオスは間髪入れずに怒鳴って、袖の奥に潜む手で立香の鼻を思い切り抓った。
「あいひゃ」
摘ままれ、捩られた。痛みで自然と涙が溢れる。立っているのも辛いというのに、顔の中心を持って行かれそうになって、反射的に爪先立ちになっていた。
潤む瞳を瞼で隠し、息を止めて、暴力的な医者に抗議すべく身体を捻った。
普段なら、なんら造作ない行動だった。
しかし体力は限界に近く、一度ふらついた身体を立て直すのは難しい。
「うあ」
自力で立っていられなくなって、そのままアスクレピオスの胸元に倒れ込んだ。ぼすっと挟まれた空気が左右に散って、鼻先を掠めたのは湿った薬草の匂いだった。
時間があれば蘇生薬の研究に打ち込む彼の背中を眺めるのが、ここ最近の、立香の日課だった。
「まったく。大丈夫か?」
その彼に、抱きしめられた。これ以上倒れていかないよう、背中に腕を回され、絶妙な力加減でサポートされた。
背中をそっと撫でられた。労るような、優しい手つきだった。
「……う、うん、平気。でもちょっと、なんだろ。悔しい」
距離も近かったし、それほど勢いが出ていたわけではない。ただ体重の半分近くをぶつけたのに、この男はびくともしなかった。
キャスターで、腕力だってそれほど強いわけではないのに。服の上からでも分かる、案外鍛えられた体躯は、ギリシャ神話に繋がる英霊たちの共通項だ。
「こんな状態で出歩くから、当然だろう」
負けた気分になって唸ったら、勘違いされた。不思議そうに言われて、立香は俯いたまま首を振った。
「いや、そういう意味じゃなくて。……ううん、いいや。そういう意味にしておいて」
「言っていることが分からないぞ、マスター」
説明しようとしたけれど、途中で思い止まった。どうせ言ったところで正確には伝わらないだろうし、なにより立香の男としてのプライドが許さなかった。
もやもやする感情を深呼吸で吐き出して、せめてもの抵抗としてアスクレピオスの胸に額を擦りつけた。ぐりぐり押しつけながら左手で長い袖を手繰り寄せたけれど、支えにするには少し心許なかった。
ギプスの所為で曲がらない右腕はだらりと垂らし、左手だけで、彼の上腕を握り締める。
「アスクレピオスって、ずるい」
彼の存在も、強さも、体温も、なにもかもが立香を安心させた。
彼を知るたびに、自分は確実に弱くなる。ただの医者としてではなく、それ以外のなにかに、彼を定義してしまいたくなる。
いつかは別れる日が来るのに――あの人のように。
「さっきから、何が言いたい」
「分かんないなら、いいよ。うん。お願いだから、分かんないままでいて」
心がきゅうっと締めつけられて、痛みからではない涙で瞳が潤んだ。決して外に零したくなくて、歯を食い縛って堪えていたら、頭上から溜め息が降って来た。
間を置かず、黒髪を撫で、梳かれた。
手つきはぎこちなく、慣れていないのが丸分かりだ。
だのにどうしようもなく心地よくて、立香はいよいよ顔を赤くして、アスクレピオスにしがみついた。
2020/08/09 脱稿
消えぬべきこれは思ひの煙とも かひなき空にほのめかせとや
風葉和歌集 811