さざ波が押し寄せては、引いていく。白い細かな泡が一気に打ち寄せては、見る間に消え失せ、後に残るのは水に濡れた砂の粒子だけ。
流れ着いた流木が行く手を阻むが、跨いで乗り越えるのは容易い。
「おっと」
それなのに少しふらつくのを見せられて、アスクレピオスは内心、肝を冷やした。
もっとも転びそうになった張本人はけろりとしており、振り向いて苦笑した。肩を竦め、照れ臭そうに頬を掻き、進行方向に向き直った。
両腕を左右に広げてバランスを取り、一歩ずつ、慎重に歩みを再開させる。
その三歩ほど後ろを行きながら、アスクレピオスは先ほど見せられた表情を反芻した。
「マスター」
「ごめん。もうちょっと」
苦々しいものを覚えて声を上げれば、呼びかけに呼応した立香が前を見たまま首を振った。
名前を呼んだだけなのに、こちらの心を読み取ったかのような科白だ。先回りして懇願されて、アスクレピオスは小さくため息を吐いた。
そろそろ戻るべきと提言したかったのだけれど、言えなくなってしまった。
どこか泣きそうな声で請われては、ダメだと言い出し辛い。医者という立場ならば、縄でぐるぐる巻きにしてでもベッドに連れ戻すべきだろうが、サーヴァントという身の上で、それは容易くなかった。
益々渋い表情を作っていたら、気取ったらしい。緩やかな足取りの立香が、不意に「ぷっ」と噴き出した。
「なんだ、マスター。なにか面白いものでも見付けたか」
「ううん。なんでもないよ、アスクレピオス」
今度はこちらが先手を取って、声を高くして話しかける。
立香は口元を軽く押さえた状態で言って、先ほどよりずっと穏やかな顔付きで振り返った。
潮風が吹き、伸び気味の黒髪を擽った。けれど柔らかく乱されるのは一部分だけで、側頭部から後頭部の一帯は微動だにしなかった。
それもそうだろう。藤丸立香の頭部には現在、真っ白い包帯が巻かれていた。
負傷箇所はそこだけではない。右腕の肘から先にはギプスが巻かれ、手の甲まですっぽり覆われていた。露出するのは指先だけで、その動きも部分的に制限されていた。
裾の長い、ワンピース状のガウンで見え難いものの、右脹ら脛周辺にも、広範囲に亘って包帯が巻かれていた。骨に異常はなかったが、筋が若干伸びているので、歩き方は非常にぎこちなかった。
松葉杖か、車椅子を使った方が、移動はずっと楽だ。
しかし立香はそれを嫌がり、自分の足で歩き回ろうとした。
挙げ句にダ・ヴィンチに駄々を捏ね、シミュレーションルーム内にこんな景色を再現させた。
どこまでも続く砂浜、繰り返される波音。時折弱い風が吹き、磯の香りが鼻腔を擽った。
いくらシミュレーター内であり、彼のバイタルが常時監視されているとはいえ、ひとりきりで散歩をさせるわけにはいかない。
同伴者をつけるのが条件だと主張したダ・ヴィンチに、立香はならば、とアスクレピオスを指定した。
てっきりデミ・サーヴァントを選ぶかと思っていただけに、指差された時は面食らった。そして今も、彼が自分を選んだ理由が分からないでいる。
「マスター」
傷だらけの、ボロボロの身体を引き摺ってまで、どこかで見たかもしれない景色の中に立ちたがった意味。
「うひゃ、冷たい」
呼び声は聞こえているだろうに、無視して、立香は素足のまま打ち寄せる波に足を浸した。
子供のようにはしゃいで、歓声を上げるけれど、ばちゃばちゃと水を蹴り上げるような真似はしない。否、今の彼ではそれすら難しかった。
海水は塩分を含んでおり、あまり衛生的とは言えないのだが、さすがにそこまで再現されてはいないだろう。苦言を呈したい気持ちをぐっと堪えて、アスクレピオスはゆるゆる首を振った。
「転ぶんじゃないぞ」
「分かってる。気をつける」
真っ白いガウンの裾をちょっとだけたくし上げ、踝まで水に浸かった立香が目を細めた。甘すぎる忠告に嬉しそうに頷いて、大量の泡を踵で踏み潰した。
遠くを見れば青空に白い綿雲が泳ぎ、水平線は僅かに湾曲していた。右遙か前方に小さな島があり、姿はないものの、カモメらしき鳥の声が響いた。
頭上を仰げば太陽が燦々と輝き、足元に目を転じれば黒い影が短く伸びている。
照りつける陽射しを吸った砂はほんのり熱を持っていたが、マスターの体調に配慮してか、飛び跳ねるほどの熱さではなかった。
サンダルの底で砂を掘っていたら、水音が遠ざかった。
「マスター?」
直前まで彼が居た場所に、今は誰もいない。
慌てて視線をずらしていけば、立香はどこか危なっかしい足取りのまま、一歩ずつ前に進んでいた。
濡れて黒ずんだ砂浜に、彼の足跡がくっきり残されていた。
それをなぞるように、アスクレピオスは歩き出した。
素足な分、立香の足形の方が少し小さい。傷を負った左足を庇いながらなので、歩幅は一定せず、踏み込みが強い右足の方が深く沈んでいた。
こんな足跡ひとつからでも、彼の調子がつぶさに読み解けた。
無理はしているが、無茶はしていない。ドクターストップをかけるタイミングを探りながら、アスクレピオスは顔を上げた。
「どうした?」
目が合った。
数歩先を行く立香が足を止めていたので、距離を保った状態で立ち止まる。問いかければ、彼は答える代わりにしどけなく微笑んだ。
締まりのない表情を見せて、また歩き出した。追いかけて、一定間隔を維持したまま、アスクレピオスが後ろに続いた。
補助はしない。自分で歩けると言ったのだから、そうさせている。ただ万が一に備えて、瞬時に駆けつけられるようには心がけていた。
恐らくそれが、立香がアスクレピオスを指名した一番の理由だろう。
過保護になりすぎず、かといって突き放すわけでもなく。
医者としての立場を重んじて、必要な時にだけ、必要な手助けを。
「なんだ、マスター。さっきから」
ぼんやり考えていたら、また立香が止まった。振り向き、そこにアスクレピオスがいるのを確かめて、訊かれても答えない。
磯風が吹く中に佇んで、ふいっと視線を逸らすけれど、顔はこちらに向けたまま。
どこを見ているのか悩んで、医神を崇められる男は腰を捻り、後方を見た。
波打ち際に点々と続く足跡は、時間が経つにつれて波に洗われ、薄くなり、消えていた。
跡形も残らない。平らに均され、少し前までそこに在ったものは掻き消された。
切除された未来、可能性。ただひとつの人類史を選び取る為に、藤丸立香という人間の選択ひとつで滅ぼさなければならなかった、数多の時間軸。
彼の脳裏に過ぎっているだろう光景を想像して、アスクレピオスは背筋を伸ばした。視線を戻し、空色の瞳を真っ直ぐ見詰め返せば、立香は困った風に首を竦めた。
「そろそろ、戻る?」
自分から切り出して、作り物の笑顔で安心させようとする。
風で冷えたと言わんばかりに右腕をさする彼に目を伏して、アスクレピオスは立香が刻みつけた足跡の横に、自らの足を踏み出した。
ふたりでひとつ分だった足跡が、ふたり分になった。
「消えてはいないぞ、マスター」
「なにが?」
消滅した世界では、その全ての足跡が消え失せる。残らない。修正された過去でも、それは同じ。
けれど彼が刻みつけた道筋は、確かに残っている。戦いを共にした仲間の中に、立香の中に、永遠に残り続ける。
たとえ座に戻る日が来ようとも、長い旅路の記憶を失わせはしない。
そもそもまだ、旅は途中だ。終わりは当分先の話。ここで立ち止まっている余裕はない。
「お前がどれだけ傷を負って倒れようとも、お前が歩みを諦めない限りは、僕がお前を立ち上がらせてやる。何度でもな」
「……ゾンビにされちゃう?」
「馬鹿者。死なせはしない、と言っているんだ」
「あいひゃ」
真面目に言っているのに茶化されて、仕返しに低い鼻を抓んで引っ張った。本当は頭を叩くつもりだったけれど、怪我のこともあり控えた結果、振り上げた手のやり場がそこしかなかったのだ。
鼻を抓られて、立香は小さく悲鳴を上げた。ダメージを軽減すべく、爪先立ちになって前のめりになり、アスクレピオスの方へ身体を傾けた。
「うあ」
「まったく」
普段なら、なんら問題ない動作だった。しかし片足が不自由で、右手も思うように動かせない状態だ。ふらついた立香は姿勢を戻せず、そのまま医者の身体に体当たりした。
倒れ込まれて、アスクレピオスは難なく受け止めた。少しも揺らぐことなく、素早く左腕を腰に回して引き寄せ、これ以上立香が崩れないように支えた。
鼻を苛めていた右手も、左手に追随し、立香の背中をそっとなぞった。
「大丈夫か」
「うん、平気。でもちょっと、なんだろ。悔しい」
「こんな状態で出歩くから、当然だろう」
「いや、そういう意味じゃなくて。……ううん、いいや。そういう意味にしておいて」
「言っていることが分からないぞ、マスター」
真下に来た黒髪に向かって問いかければ、立香は俯いたまま頷いた。左手で恐る恐るアスクレピオスの袖を手繰り、布だけという不安定感からか、間を置いて上腕を握り締めて来た。
ギプスで固定された右腕はだらりと垂らして、独り言なのか呟き、顔を合わせようとしない。
「アスクレピオスって、ずるい」
「さっきから、何が言いたい」
「分かんないなら、いいよ。うん。お願いだから、分かんないままでいて」
ぼそぼそと小声で非難されたが、そう言われる理由が皆目思いつかない。説明を求めてもはぐらかされて、挙げ句の果てには頼み込まれた。
人間の身体には誰よりも詳しいと自負しているが、藤丸立香という人間の脳内だけは、未だ掴み倦ねている。
理解不能だと溜め息を吐き、何気なく黒髪を梳いてやる。
離れようとしないマスターの耳朶は、火が点いたかのように真っ赤だった。
2020/08/02 脱稿
知らじかしほの見し月のかけてだに おぼろけならず恋ふる心を
風葉和歌集 812