ありし世の 今日のみあれを 思ひ出でて

 扉が開く音が聞こえた。
 直後に人らしき呻き声と、ガタガタ喧しい音が続いて、アスクレピオスは眉を顰めた。
 手にしていたペンの尻で顎を軽く小突き、椅子を引いて振り返る。視界に飛び込んできたのは、見知った男の姿だった。
 短く刈り揃えた髪に、もみあげと連結した無精髭。肩幅が広く、重武装にも耐えうる鍛えられた体躯に、やや不釣り合いな眼鏡を掛けている。
「よう、悪いな」
 目が合ったと気付き、アーチャーことウィリアム・テルが軽く右手を挙げた。微かに煙草の臭いが漂ったが、今の彼はなにも咥えていなかった。
 身体に染みついて、剥がれないだけだ。風呂に入り、洗濯し、歯を磨いても、根底に根付いてしまったものが消えることはない。
 硝煙さえも誤魔化してしまえる臭いに眉を顰め、アスクレピオスは椅子の上で身動いだ。立ち上がるか、座ったままでいるか躊躇していたら、前のめり気味だったウィリアム・テルがすくっと背筋を伸ばした。
 同時に両腕を背後に回し、担いでいたものを抱え直した。ついでに少し右に傾けて、前方に居る医神にも見えるよう、角度をずらした。
「うぅ……ひっぐ。ぐず」
 それに呼応するかのように、愚図る声が聞こえた。アーチャーが入って来た時と同じ声色もまた、アスクレピオスには馴染み深いものだった。
 いや、こんな呻き方に遭遇するのは、初めてかもしれないが。
「どうしたんだ、それは」
「あー……。すまん。任せて良いか」
 分厚い背中に負ぶさっていたのは、凡人類史最後のマスターこと、藤丸立香だ。
 魔術師としての素養はまったく持ち合わせていないけれど、数多のサーヴァントと縁を結び、人理を修復してみせた存在。明るく、元気で、素直で、時々悪ふざけも忘れない、十代後半の少年だった。
 厳しく、苛烈な戦いを繰り返し経験し、それでも心折れる事なく前を見据えている。しかしその内面は常に嵐に見舞われて、激しく揺れ動いているのに、誰もが気付いていた。
「や~ら~~!」
「こらこら、首を絞めるな」
 その彼が、現在進行形でウィリアム・テルにしがみついていた。細腕を太い首に巻き付けて、赤ん坊の如く駄々を捏ね、身体を前後左右に揺り動かした。
 顔は真っ赤で、鼻の頭の色が特に濃い。目尻には涙が浮かんで、頬には乾いた痕が残されていた。
「何があった」
 およそ尋常ならざる状況で、アスクレピオスは訊ねると同時に立ち上がった。膝の裏で椅子を蹴飛ばし、絞められながらもマスターをベッドへ運ぶ男を追いかけた。
 余程アーチャーの背中が気に入ったのか、降ろされるのが不満らしい。首絞めが効果無しと判断した青年は、今度は拳を作り、角刈り頭をぽかぽか殴り始めた。
 弾みで眼鏡が傾き、落ちそうになった。だが両手が塞がっているウィリアム・テルは直す事が出来ず、これ以上ずり下がらないよう、頬骨を操作して支えるのが精一杯だった。
「アシュヴァッターマンや、カルナと、ええと……まあ、とにかく。その辺の連中と飲み交わしていたんだがな」
「飲ませたのか」
「いいや、まさか。だが、匂いと雰囲気に、やられちまったらしい」
「…………」
 マスターは、未成年だ。よもや、と勘繰って睨み付ければ、髭の男は呵々と笑って首を振った。
 ひっつき虫と化した青年を引っ剥がすのに成功し、謂われなき暴力から解放されたアーチャーが肩を竦め、眼鏡を直した。拠り所を失った青年は不満げに頬を膨らませ、拗ねてベッドに横になった。
 両足は床に向けて垂らしたまま、両腕を頭上に伸ばして寝転がり、顔を伏す。
「シーツで鼻を拭くんじゃない」
 嫌な予感がして、アスクレピオスがその肩を掴んで揺さぶった。
「ははっ。じゃあな、後は宜しく」
 その隙に、それなりに重い荷物を運んで来た男が、軽快な足取りでベッドサイドを離れた。入室時よりもずっと高い位置で手を振って、任務終了とばかりに医務室を出ていった。
「おい、待て」
 呼び止めたが、勿論止まってくれるはずもなく。
 詳しい事情を聞きたかったのだが、追いかけて連れ戻すのも手間だ。厄介事を持ち込まれた医神は袖の上から後頭部を掻き、シーツに顔を埋めている青年を軽く叩いた。
「起きろ、マスター。これに向かって息を吐け」
 アーチャーの言葉は信用出来るが、万が一の為にも検査は必要だ。
 必要な機器は、スキルを使えば瞬時に作成出来る。魔力を練り、術式を組み込んで完成させた小型の装置を握り締め、アスクレピオスは無理矢理マスターの身体を起こした。
 前方から抱きかかえるようにして、力が抜けてぐらぐらしている体躯を持ち上げる。だが自発的に動こうとしない男は、支えを失うと、途端にゆっくり倒れていった。
「チィッ」
 呼気にアルコールが含まれているか調べたいのに、離れると、寝転がられてしまう。
 自分で座るよう繰り返し促すけれど、雰囲気だけで酔ってしまえる青年は、なかなかしぶとかった。
「マスター、いい加減にしろ」
「アズグデビボズがづべだい」
「そんな名前になった覚えはない」
 酒宴から遠ざけられ、匂いだってしないのに、まだ正気に返らない。
 泣きながら鼻声で文句を言われて、アスクレピオスは反射的に怒鳴った。とろん、と半分瞼が閉じているマスターの額を指で弾いて、強引に酔いを覚まそうとした。
 痛みで我に返ってくれれば良い。そう願ったのだけれど、残念ながら祈りは届かなかった。
 立香は前後に身体をぐらつかせた後、ひっく、と大きくしゃくり上げた。口を真横に引き結んで、奥歯を噛み、空色の瞳にいっぱいの涙を浮かべた。
「ひどおいいいいい~~!」
 成人前とはいえ、彼は十代後半のはずだ。それが大声で喚き、叫び、打たれた場所を両手で庇って泣きじゃくった。
 おいおい声を上げ、大粒の涙をぼろぼろ流す。身体を激しく揺さぶって、肩を上下させ、全身で哀しみを表現した。
 そこまで痛くしたつもりはない。充分手加減した。
 酔って感覚が過敏になっているのかもしれない。どちらにせよ、面倒なのに変わりはなかった。
「落ち着け、マスター。泣くんじゃない。ああ、そうだ。悪かった。僕が悪かったから、いい加減泣き止め」
 折角作ったアルコールチェッカーも、こうなっては使い道がない。
 役立たずの機械をベッドの空いているところ目掛けて放り投げて、アスクレピオスは雑に謝り、両手を広げた。
 胸元に隙間を作ってやれば、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにさせたマスターが、口をへの字に曲げて鼻を啜った。
 小さくしゃっくりして、潤んだ眼を向けて来た。
「どうした」
 促すように二度、三度と垂れた袖ごと腕を振る。それで不信感が除去出来たかどうかは不明だが、マスターは小さく頷いた。
 ぼすっ、と抱きついて来た身体は、意外に小さかった。
 否、そんなはずがない。彼の身長、体重は、しっかり把握している。脈拍、血圧、その他様々な数値も含め、どんな些細な異変でも見逃さないよう、網を張っていた。
 だから彼が小さく感じたのは、物理的な変化ではない。
 心理面、精神面で、随分と弱っているのを実感させられた。
「マスター」
「ふぇっ、うぅ……」
 白を基調としたコートを力任せに握り締め、藤丸立香は立て続けに肩で息をした。
 荒い呼吸が、聞く者の鼓膜を震わせる。溢れるものを止めようという努力を放置して、彼はひたすら涙を流し続けた。
 声にならない音を紡ぎ、喘ぐけれど、言葉として意味を成す音は決して吐こうとしない。
「そうか、分かった。好きにしろ」
 ウィリアム・テルに背負われている時も、そうだった。他者の体温に触れながらも、誰からも顔を見られずに済む状況の間だけ、彼は誰にも聞かせられない想いを涙に変えて、呻いていた。
 彼が泣いているところを見るのは、これで何度目だろう。笑っている時の方が圧倒的に多くて、恐らく片手で余るほどでしかないはずだ。
 けれど人間には、感情がある。怒りや、哀しみといった側面も、当然ながら藤丸立香の中に在って然るべきだ。
 それなのに自分達は、彼のそういう部分を、あまりにも目を向けてこなかった。
 知っていながら、気付いていながら、彼が見せようとしないから、無いものとして扱っていた。
 そもそも自分達は、普段から泣かない――涙を流す暇さえ惜しみ、目的のため、願いのために邁進し続けて来た。表立って弱音を吐かず、胸の内に押し留め、解き放つことをしなかった。
 哀しいかな、英霊とは、そういうものだ。泣くべきところで、泣かない。後ろ向きな感情を押し殺し、前ばかりを見て、自分自身さえ顧みない。
 彼のように泣けていたら、英霊として名を遺さずに済んだ者も、中にはいるだろう。
 この平凡な青年を、英雄にしてはいけない。きっかけは何であれ、こうやって思い切り泣きじゃくる場を、自分達は用意してやらなければいけない。
「お前は、僕たちのようには、なるな」
 酔いを言い訳に泣く憐れな子供の頭を撫で、静かに囁く。
 返事はない。代わりに縋り付く手の力が、ほんの少し強くなった。

2020/07/26 脱稿
ありし世の今日のみあれを思ひ出でて 神の斎垣もあはれ知るらん
風葉和歌集 617