自動ドアは便利だ。両手が塞がっていても、機械がこちらの存在を認識さえしてくれれば、勝手に道が開かれる。
文明の利器の有り難みをまざまざと感じながら、立香は奥行きがある空間に目を細めた。
廊下側と天井の高さは変わらない筈なのに、室内の方が少し明るく感じる。照明の数が違うのかとぼんやり考えて、彼は右足で敷居を跨いだ。
数歩といかないうちに、ドアはまた自動的に閉まった。殆ど音もなく元の位置に戻った扉を振り返り、立香は静まり返った空間を見渡した。
「アスクレピオス、居る?」
それなりの重さがある盆に並べた品々を傾けないよう注意しつつ、遠くに向かって呼びかけるが、応答はない。
清潔なシーツに包まれたベッドはどれも空っぽで、診察台の前に並べられたモニターの多くは真っ黒だった。
スリープモード中を示すランプが点滅し、普段は書類やら、書籍が散らばっている卓上は片付いていた。カルテを記入するのに使われるペンも所定の位置にあり、無音という環境も手伝い、若干不気味だった。
「いない?」
直前まで誰かが居た気配はなく、慌てて隠れたという雰囲気でもない。
自分に向かって小首を傾げ、立香は運んで来た荷物を、これ幸いとテーブルに置いた。
「冷めちゃうのに」
目当てのサーヴァントがどこにいるか、きちんと調べないで訪ねたのは自身の落ち度だ。しかしそれを棚に上げて小鼻を膨らませ、彼は角形の皿の端をちょん、と小突いた。
どっしりとして厚みがあるそれは、立香の出身国に所縁を持つサーヴァントが手ずから形を作り、焼いたものだ。
釉薬にも拘ったと説明を受けたが、生憎とその辺の事情には詳しくない。ただ灰色の中にほんのり緑が混じる色合いが綺麗で、光を浴びるとキラキラ輝くのが美しかった。
惜しむらくは、この皿を彩る料理が若干形の悪い握り飯、というところだろうか。
ひとくちで頬張るには些か大きくて、三角形にも、俵型にもなりきれない歪み具合。中に具を潜ませるつもりが、うっかりはみ出てしまい、隠すために米を追加した所為で、三つあるどれもがどこかしら飛び出ていた。
しかも力を込めて握ったので、いずれも密度が素晴らしい。
これくらい簡単だと息巻いていたのに、悪銭苦闘の連続だった。料理上手のサーヴァントたちに見守られながらの試行錯誤は、楽しい時間だったが、同時に恥も多かった。
苦心の末どうにか完成を見たおにぎりと、丸のままのゆで卵に、熱いお茶。
本格的な食事には程遠いが、朝も、昼も、食堂に現れなかった男には、これくらいが丁度良かろう。
大勢にからかわれながらの時間を軽く振り返り、立香は肩を竦めた。むすっと頬を膨らませ、鼻から息を吐いてしばらく待つが、医務室を占有して久しい医師を名乗るサーヴァントは現れなかった。
「どうしてくれよう」
頑張ったのに、報われないのは辛いを通り越して、腹立たしい。
喉の奥で呻いて爪先で床を蹴って、彼は額を覆う前髪を掻き上げた。
先日発生が確認され、対処した極小特異点では、本来大人しいはずの小動物が凶暴性を増し、立香達に襲いかかって来た。
詳しく調査した結果、発見されたのがそれらに寄生していた微生物。これがどうも、全ての元凶だったらしい。
カルデアの精鋭のお蔭で素早く解析がなされ、ワクチンが大量生産されて、事なきを得た。けれどあくまでそれは、応急処置的なものでしかない。完全な無毒化と、詳細な調査はこれからの話だ。
そしてその研究に手を挙げたのが、アスクレピオス。医学の進歩の為ならばどんなことでもしてしまえる、ギリシャ神話由来のサーヴァントだ。
彼も珍しい病状に出会えて、大変満足そうだった。実際、あの特異点では一番活躍していた。
事件が解決を見た後も、解析作業に没頭して、滅多に人前に現れない。
「折角心配して、……いや、心配はしてないけど。たまには顔を見せろって、いうか。違う、ちがう。そうじゃなくて」
無人の椅子を引き、浅く腰掛けて頬杖をつく。
愚痴を零すが、どれも恨み言にしかならなくて、最後は溜め息で締めくくった。
「あー、ああ……ん?」
これでは頑張り損だと首を振り、もう一度床を蹴って、天井を仰いだ。両腕を頭上に掲げて背筋を伸ばせば、等間隔で並んだ埋め込み式ライトの一角に、不可思議な影が見えた。
細長くて、するする動いている。
見た瞬間はゴースト系のなにかかと吃驚したが、注意深く観察すれば、それはしっかりとした質量を持つ物体だった。
天井付近に設置された棚を足がかりにして、落ちないよう、器用に貼り付いていた。最初は影しか捕捉できなかったのは、体躯の白さが保護色になっていた為だ。
「あれ」
見覚えがある存在に瞬きを繰り返し、立香は姿勢を戻した。
あちらも立香が勘付いたと察したらしく、まるで頷くかのように首を上下に振って、縄のような身体をうねらせた。
長い舌をちろちろさせながら、真っ白い蛇は壁を伝い、降りてきた。柔らかく、しなやかな肉体を自由自在に操って、横一列に並ぶ棚から、沈黙中のモニターへと場所を移した。
「こんにちは」
レイシフト先では機械の身体に変貌し、アスクレピオスの命令を受けて戦闘に参加する蛇も、ノウム・カルデア内ではこの姿だ。
尾をモニターに絡ませて固定して、首を伸ばし、立香に顔を近付ける。赤い瞳は紅玉の如き輝きを放ち、先が割れた舌はひっきりなしに空を掻いた。
人語は解しているようだけれど、喋れるわけではない。挨拶をしたところで、返事があるはずもない。ましてや。
「アスクレピオス、知らない?」
この蛇が医務室に居残っているのなら、飼い主である男も、実は近くにいるかもしれない。
がらんどうの室内を改めて見回しながら訊ねた彼は、視線を一周させた後、顔を赤くして首を竦めた。
「分かるわけない、か」
会話が成立しない相手に質問して、どうするのか。
自虐的に笑って照れを誤魔化した立香に対し、問いを投げられた蛇はバランス良く身体を揺らし、ふいっ、と頭部を彼方に向けた。
なにもない空間をしばらく見詰めて、長い舌を何度も出し入れさせる。
「どうしたの」
猫でも、時折こういう仕草をすることがある。人間には見えないものが、あの毛むくじゃらの生物には見えているのかと、疑いたくなる。
椅子の上で身動いで、立香は怪訝にしながら示された方角に目をやった。
薬品が入った鍵付きの棚の、横。白一色に塗られた、特に代わり映えのしない壁だ。
「んんー?」
じっと見詰めたところで、何かが現れることもない。
身を乗り出し気味に凝視しても、結果は変わらなかった。
「いやいや、蛇に訊いたオレが馬鹿だった」
見開きすぎて疲れた眼球を労り、は虫類の行動を真に受けた自分に苦笑する。こめかみの辺りを指で揉んで、解して、立香はずり落ちそうになっていた椅子に座り直した。
身長は若干こちらが高いのに、深く腰掛けると爪先しか床に届かない。
「ギリシャ人、脚長過ぎでしょ」
第二再臨の姿の時などは、そのスタイルの良さに打ちのめされそうになる。
胴長短足な自身の体型に臍を噛んで、立香は中身が冷めつつある湯飲みを爪で弾いた。
こちらも、おにぎりを並べた皿を作ってくれたサーヴァントの作だ。無骨でどこか荒々しいが、同じくらい穏やかで柔らかい風合いが気に入っていた。
微かに響いた硬い音色に耳を傾け、こちらを振り返っていた蛇越しに、例の白い壁に何気なく視線を送る。
「あ――」
それが微妙に歪んで見えたのは、錯覚ではない。
巻き添えを食らった薬品棚の端の変化が、最も顕著だった。
真っ直ぐだったものが不意に真ん中で拉げ、渦を巻いて反対側に移動した。と思えば瞬時に逆回転を開始して、空中に生じた歪みがぱっと消滅した。
後に残されたのは、黒いフードを目深に被った、不気味な出で立ちの男だった。
直前まで、確かにそこには誰もいなかった。その筈だ。大がかりな手品が仕込まれていたのであれば、話は別だが。
「アスクレピオス」
視認すると同時に、その名前を呟いていた。椅子を軋ませ、背筋を伸ばした立香に、蛇使い座の英霊ことアスクレピオスは 鳥を模した嘴を外し、フードを後ろに落とした。
「なんだ、マスター。お前だったのか」
一瞥し、さほど興味がない風に応じて、彼は編んだ髪にぶら下げた金の輪を揺らした。
それなりの重さがありそうなのに、まるで羽のように踊っていた。生え際とは異なる色合いの毛先から視線を上に流して、人類最後のマスターはぶすっと口を尖らせた。
蛇が意図していたのは、こういうことだったのだ。
恐らくあの壁の向こう側に、物理的干渉では辿り着けない空間がある。キャスターのスキルを活用して、独自の研究室が創られているのだろう。
どうりで姿が見当たらないはずだ。
「捗ってる?」
「来客だと言われて出て来たが、……邪魔をしに来たのなら、帰れ」
嫌味のつもりで訊けば、愛想のないひと言が飛んで来た。ぞんざいに扱われたのが気に入らず、爪先で何度も床を叩いて、立香はふと眉を顰めた。
突っ慳貪な科白の前に、奇妙な独白がなかったか。
「誰に言われたって?」
アスクレピオスが創り出した空間は、基本的に閉じている。研究に没入するために、外部との接触も極端に制限していたはずだ。
電子機器での呼びかけには一切応じてくれない、とダ・ヴィンチも言っていたくらいなのに。
不思議に思って目を丸くした立香に、アスクレピオスは急に嫌そうに顔を歪めた。失言だったと言わんばかりの態度を取って、ぎろりと鋭い眼光を白蛇に投げた。
対する蛇はまるで表情を変えず、モニターに絡めていた尾を解いた。
片付けられた机をゆっくり縦断する姿は悠然としており、堂に入っていた。一方アスクレピオスはまだ苦虫を噛み潰したような顔をして、蛇の行動を睨み付けていた。
それでピンとくるものがあって、立香は嗚呼、と両手を叩いた。
「そっか。君が呼んでくれたんだ、ありがとう。えっと……蛇、くん?」
謎が解けたと喜んで、近付いて来た蛇の頭に手を伸ばした。撫でようとして直前で躊躇して、空を指でなぞりながら目を細めた。
この生き物の性別も、名前も、不明だ。アスクレピオスが蛇に向かって呼びかけているところも、未だかつて見たことがなかった。
戦闘中でも、特別な意思表示なしでやり取りしている。ならばテレパシーの類が両者の間で成立していても、なんら不思議ではなかった。
雌雄同体ではなかろうから、飼い主であるアスクレピオスと同性である、と一先ず判断した。疑問符を付けつつ礼を述べ、恐る恐る指を降ろした。
白蛇は分かっているのか待ち構えて、触れられた瞬間は舌を引っ込めた。
触り心地は、滑らかだった。少しひんやりして、鱗はそこまで硬くなかった。
抵抗はなかった。心なしか、気持ち良さそうに受け止めてくれた。勝手にそう感じているだけかもしれないが、嫌がられなかっただけでも満足だった。
「へへ」
普通に生活していたら、蛇に触れる機会など、そうあるものではない。
つぶらな眼も愛らしくて、一気に親近感が湧いた。にこやかに笑いかけ、繰り返し撫でていたら、どこかから咳払いが聞こえて来た。
「それで、マスター。用件はなんだ」
不機嫌に言って、注意を呼び戻す。
蚊帳の外に置かれたアスクレピオスの露骨な態度に、立香は嗚呼、と頷いてから噴き出しそうになった。
拗ね方が分かり易い。勝手に緩む口元を左手で覆い隠して、彼はすっかり温くなった茶と、一列に並んだ握り飯を指差した。
「ごはん、持って来たんだ。アスクレピオスは、必要無いって言うかもしれないけど。気分転換に、どうかな」
こぶし大のおにぎりは、時間が経っても崩れない。仲良く並んでいる三個を一度に見て、ほんの少し疲労が滲んでいる男は肩を竦めた。
「お前が、か?」
険しかった表情を緩め、先ほどより音量を絞って囁く。
呆れと嘲笑、それに慈愛のような何かが紛れ込んだ口調に、立香は目尻を下げた。
白い歯を見せて返事の変わりにして、席を譲るべく、椅子から立ち上がった。アスクレピオスはすぐには応じず、邪魔になると判断した黒いコートを脱いだ。
長い袖は、食事には不向きだ。下から現れた腕は長く、しなやかで、ほっそりとしていながら筋肉質だった。
「せっかくだ。いただいておこう」
「へえ、珍しい」
「僕が食べなければ、他の誰かの胃袋に収まるのだろう?」
「そりゃ、勿体ないからね」
「だったらこれは、僕が食べるべきじゃないのか?」
椅子の背もたれを引き、どっかり腰を下ろしたアスクレピオスの足裏は、踵まで床に貼り付いていた。
これだから、英霊という存在は。
喉まで出掛かった言葉を飲み込んで、下から問いかけられた立香は困った顔で頬を掻いた。
「オレに訊かれても」
素直に、自分の為に用意されたものを、他者に譲りたくない、と言えば良いのに。
遠回しが過ぎる言い分に苦笑して、内心ワクワクしながら、彼の横に回り込んだ。机の空いたスペースに寄りかかって、どれから手に取るか悩んでいる男の一挙手一投足を見守った。
具はひとつずつ、違うものを用意した。中には馴染みのないものも含まれているから、きっと驚くに違いない。
梅干しを引き当てたら、どんな顔をするだろう。疲労回復に持って来いだと強がるか、それとも酸っぱさで言葉もなくのたうち回るか。
楽しみでならず、顔が勝手に緩む。アスクレピオスも立香がなにか企んでいると気取ったらしく、宙を泳ぐ指先はなかなか決断を下さなかった。
その隙を狙われた、というわけではないだろうが。
食堂で使用されている銀色の盆の端で蠢く存在を、ふたりはすっかり忘れていた。
口直しで用意した、殻がついたままのゆで卵。それが突如、思いの外大きく、それこそ顎が外れるくらいの勢いで開かれた口腔に、がぶりと。
「あ」
「なっ!」
白い握り飯に、白い卵でと、これもまた、保護色だったとは言い過ぎだろうか。
一瞬の早業で、あの白蛇が殻ごとゆで卵を飲み込んだ。信じられない柔軟さで、顔より大きいものを丸呑みした。
その一帯だけが異様に膨らんで、奇妙な形になっていた。大丈夫なのかと心配になり、恐怖に駆られてアスクレピオスを窺えば、彼もまた驚いたのか、目を真ん丸に見開いていた。
そして。
「貴様、それはマスターが、僕の為に用意したものだぞ!」
「えええー。そっちー?」
ガタッと椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、机を殴って、吼える。
ゆで卵ひとつに心が狭い英霊の罵倒に、立香は信じられないものを見たと笑い、後から襲い来た感情に顔を赤くした。
2020/07/18 脱稿
思ふことなすこと神のかたからめ しばしばぐさむ心つけなん
風葉和歌集 840